†

 十二月二十日の深夜一時五十八分。
 聖花は智白につれられるまま、伏見稲荷大社に訪れていた。
 桜門前。右には珠を咥えたお稲荷様。左側には鍵を咥えたお稲荷様の銅像が向かい合うようにして建てられていた。


「ここでなにを?」
 鍵を咥えたお稲荷様の銅像の前に立たされた聖花は、上半身だけで振り向き、後ろに立っている智白に問う。
「すぐに分かりますよ」
 深夜二時。それはもっとも目に見えぬ世界への扉が開く時間。
 ジジジッ。低音のさざ波立った機械音が辺りに響く。


「⁉」
 何事かと、聖花は持っていた木刀を身構える。

「そのような細い木材で私を倒せるとでも?」
 今となっては耳馴染み深き声が辺りに響く。その刹那、鍵を咥えるお稲荷様の銅像の前に白が姿を現す。

「ぇ?」
 粉雪のような肌。美しいEラインを作っている綺麗な鼻。形の酔い薄い唇。脇下まで伸ばされたハイレイヤーのウルフスタイルをベースの白髪。
 右目の下にある黒子が印象的な切れ長のアーモンドアイ。バイオレット・サファイアを彷彿とさせる瞳。余分な脂肪が何処にもない八頭身を質のいいスタイリッシュなスリムスーツが包み込む。いつ何時、何処で会ったとしても、その高貴さと威厳さ、独特の色香が消えることのない恭稲白が、高い位置で腕を組みながら凛と立っている。だが、そこに実体はない。


「恭稲さん?」
 聖花は目の前にいる半透明な白を訝し気な様子で見つめる。


「今貴方の目の前にいる白様は、R3ホログラムです。そこに実態はありませんが、リアルタイムで会話が成り立ちます」
「な、なんてハイテクな……」
 智白の説明に聖花は呆気にとられる。


『五、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす』


「へ?」
 唐突な話に聖花の口から素っ頓狂な声が零れる。


『碧海聖花はこちらが提示した契約を破った。私に命を奪われようとも、真実の鍵を与えられなくとも不平不満は通らない。その覚悟は出来ているか?』


「やっぱり私、殺されるんですか?」
 眉根を下げる聖花は、悲痛と諦めが混じる声音で問う。


『何故そう思う? 私に命を奪って欲しいのか?』

「誰も命を奪って欲しいなんて言っていません。せやけどたった今命の保証はないって仰ったやないですか」
 聖花は少しムッとしたように答えた。


『そうか。安心しろ、今は生かしておいてやる』


「今は?」


『嗚呼。“今は”だ。碧海聖花が私達の存知や恭稲探偵事務所のことを口にした場合、または、こちらに妙な詮索をかけた場合は命の保証ない。自ら死ぬことも他者から命を奪われることも、許されないことだと肝に銘じておけ』

「ッ!」
 聖花は初めて向けられる白の冷徹な眼差しに息を縫む。美しい顔立ちも相まって、余計に恐ろしい。


『碧海聖花の命を脅かす者から一日二十四時間、身の回りを監視しながら命を守ることと並行し、命を脅かす者へと通じる鍵を与える。という契約内容を覚えているか?』

「はい」


『碧海聖花はしばらく私の監視下に置く。それと、命を脅かす者へと通じる鍵は渡さない』


「ど、どういうことですか?」
『質問は受け付けない。契約を破ったのはそちらだ。こちらがどう対応しようと口出しする資格はないはずだ』
「それはそうですけど……」
 それでも横暴すぎる。という本音をグッと呑み込む。


『横暴、傍若無人で結構。恨みたければ自分を恨むことだ。私には何の否もないからな』
「⁉」
 胸の内を読まれたかと目を見開く聖花に、白は話を続ける。


『安心しろ。碧海聖花の生活を縛るつもりも、監禁するつもりもない。碧海聖花はただ普通に日常を過ごしていればいい』


「今まで通り生活していてもいいと?」

『嗚呼。だが人は一秒ごとに変化する生き物だ。今まで通りの生活などどこにも存在しない。少なくとも、碧海聖花は恭稲探偵事務所を訪れ、私と縁(えにし)を繋いでしまった。知らなかった頃には戻れぬと思え』


「……私はもう命を狙われないんですか? 犯人は黒崎先生だったんですか?」


『先程、命を脅かす者へと通じる鍵は渡さない。と伝えたはずだが――記憶喪失にでもなったか?』


「なっていませんし、ボケてもいません! ただ……不安なんです」
『黒崎玄音という不安の芽は摘み取った。だが、碧海聖花がまた不安の種を育てれば、いずれその芽は花を咲かす。起きていないことをうじうじ考えるな。そんなうじうじ虫では生きにくいだろう』
「挙句にナメクジです」
 智白は聖花の背後から悪態をつく。


「ふ、二人して何なんですか一体! 私は虫じゃありませんし、ナメクジでもありませんッ」
 プリプリする聖花を白と智白が鼻で笑う。


『そうだ。それでいい』
「?」
 白の言葉の意味が分からぬ聖花は小首を傾げる。


『怒りたければ怒れ。嫌なら嫌と言えばいい。笑いたければ笑い、喜びたければ素直に喜べばいい。泣きたければ泣き、助けて欲しいなら声をあげる。そうやって感情の赴くまま、風の吹くまま、“今”を丁寧に生きていればいい。
 今がいい状態であろうと、悪い状態であろうと、今この瞬間が永遠に続くわけではない。今朝傍にいた者が、夜には自分の傍からいなくなる。そんなことが普通に起こる世界の中で我々は生きている。それはこちらの世界でも、そちらの世界でも変わらぬ事実だ』

 穏やかな口調でそう話す白は刹那、自嘲気味な笑みを口元に浮かべた。


「恭稲……さん?」
 その刹那の表情を見逃さなかった聖花は、白の顔を心配そうに覗き込むかのようにしながら名を呼ぶ。


『両耳についているピアス以外を智白に渡し、自分の世界へと戻れ。陽(ひ)が昇り切れば、新たな始まりが幕を開ける』
「……はい」
 先程の白の表情は気のせいだったのかも知れないと、自分を納得させる聖花は、言われるがままに貼るピアス以外のアイテムを智白に返却した。


『いいか、碧海聖花。どこでどんな生き方をしようと勝手だが、碧海聖花の命は私の手中の中だということは忘れるな』

 白はそう言い残し姿を消す。


 R3ホノグラムの光を失った銅像前は頼りない月明かりだけとなる。



「家まで送りますよ。満月に近いと言えども、夜道は夜道」
 智白の言う通り、月の約七十%が姿を現しているとはいえ、街灯もロクにない夜道。その上、皆が寝静まり住宅の明かりすらない闇夜だ。


「ぇ?」
「契約終了時間は、十二月 二十日 深夜二時四十三分。現時刻は深夜二時十分。まだ契約終了時刻になっていません」
「ぁ、なるほど。最後の最後まで守って頂けるのですね」
「それが白様の御意向です」
「恭稲さんの?」
「ほら、早く行きますよ。もしご両親が目を覚ましてしまっては面倒なことになります。私に余計な手間をかけさせないで下さい」
 智白は白に対しての雑談はしないとばかりに、闇夜を先に歩き出す。聖花はそんな智白の背中を慌てて追いかけるのだった。

 †

 無事に家まで送り届けられた聖花は、自室のベッドに盛大な溜息をつきながら、うつ伏せに倒れた。


「……ほんまに、これで終わったんやろか?」
 現実味のない一週間を過ごした聖花にとって、まだ心から安心感を得ることが出来なかった。それもそのはずだ。聖花にとってこの事件は謎が多すぎる。
 なぜ自分が命を狙われ、“呪われし血を持つ者”などと言われなければならないのか。
 なぜ、これまで面識がなかったはずの黒崎玄音に狙われなければならなかったのか。
 白につれさられた黒崎はどうなったのか。
 そもそもなぜ、自分があやかしの恨みをかってしまったのか――深く考えれば考えるほど、真実の扉が固く閉ざされていくようだった。


「……」
 聖花は何を思ったか、自分の枕と木刀を手に、両親の寝室へと足を向けた。

「まだ寝てる」
 二人はあれから目を覚まさない。夕飯も食べずに眠り続けている。
 聖花は持っていた木刀を響子のベッドサイドテーブルにそっと立てかけた。


「二人共ほんまに大丈夫なんやろか?」
 二人がこのまま目を覚まさなかったらどうしよう。という一抹の不安を抱える聖花は、響子の布団に潜り込む。
 響子の左隣に自分の枕を置いて横になる。
 ふわりと、響子愛用の柔軟剤の香りが聖花の鼻腔を擽る。その香りは、聖花が幼い頃から嗅いでいる母親の香りであり、心身共に安堵する香りだった。


「おやすみなさい」
 聖花は響子の背に抱き着くかのようにして、深い眠りにつくのだった――。

  †

 翌朝。
 十二月二十日。早朝六時。
 響子のベッドサイドテーブルにある目覚ましが控えめな音を立てる。


「ん?」
 目を覚ます響子はすぐ異変に気がつく。
 いつもは自分の部屋で眠っているはずの娘が、自分の身体にしがみつくかのようにして、スヤスヤ眠っているのだ。


「……ど、どないしたんやろ?」
「ん? どないした響子?」
 響子は目を擦りながら上半身をベッドから起こす雅博に向け、静かに。とでも言うように、自身の唇に人差し指を当てる。

「?」
 響子は不思議そうにする雅博に見せるかのように、聖花を指差す。
「どないしたん?」
 聖花に気づいた雅博は目を見開き、小声で話す。

「分からへん。怖い夢でもみたんやろか?」
「怖い夢って……もう高校を卒業しようかしてる子が母親のベッドに潜り込むかね?」
 不思議そうにそう言いながらベッドを抜け出す雅博は物音を立てぬように、クローゼットからビジネススーツのスラックスとYシャツ、肌着達を取り出してゆく。

「なんか、よっぽど怖かったんちゃう?」
「ホラーに強い方やのにな。まぁ、ええわ。今朝は俺が朝食作るから、聖花が起きるまで一緒におったりぃ」
「ええの?」
 響子はきょとんとするも、嬉しさを隠しきれていない。

「ええよええよ。簡単なもんしか作られへんけど」
 そう小声で話す雅博は着替えを持ち、寝室を後にした。
 残された響子は、穏やかな顔でスヤスヤ眠っている愛する娘の頭を優しく撫でた。それはまるで、聖母マリアのように温柔な笑顔だった。



「ん~……」
 夫婦が目覚めて十五分後に目を覚ました聖花は、肌寒さから逃れるように布団にもぐる。
「いやいや。あんたいつまで寝るつもりやの。まだ冬休みとちゃうんやで?」
 聖花の行動に対し、難儀な子やなぁとばかりにツッコミを入れる。
「ぇ?」
 耳馴染みのある声が頭上から響き、聖花は飛び起きる。ベッドに腰掛けて料理雑誌をパラパラと見ていた響子と視線が合う。


「なんで?」
「いや、それはこっちの台詞やと思うんやけど」
 聖花の反応に微苦笑を浮かべ、見ていた雑誌を片付ける。

「ぁ、そっか。せやせや」
 意識がハッキリしてきた聖花は今までのことを走馬灯のように思い出す。

「ところで聖花」
「な、なに?」
「あんたコレどないしたん?」
 と、ベッドサイドテーブルに立てかけていた木刀を手に取り、聖花に見せる。

「ぁ、ああ~これは――って、覚えてないん?」
「何を? あんたまだ寝ぼけてるん?」
 その返答で全てを理解した聖花は慌てて、「ううん。なんでもない。間違えた。気にせんといて」と、言い訳を言いながら木刀を手に取る。

「気にせんとってって言われても……木刀持ってきて、人の布団に潜っとったやなんて――どう考えても可笑し過ぎると思うんやけど」
「それは~」
 聖花は視線を泳がし、何かいい言い訳はないかと模索する。

「まぁええけど。おねしょせんくて良かったなぁ」
「え? なんでそうなるん⁉」
「それほど怖かったんやろ? まぁ、ええやん。愛莉ちゃんには秘密にしといたるから」
「……まぁ、せやね。そりゃまぁ、おおきに」
 ここで余計なことを言わぬほうが利口だと考えた聖花は、苦笑いしながらも渋々響子の言葉を受け入れる。


「お父さんが朝ごはん作ってくれてるから皆で食べよう? うちは先にリビング言ってるさかい」
 響子は穏やかな笑みを向け、スリッパの音をパタパタと響かせながらその場を後にした。
 聖花はそんな響子の背中を穏やかな笑みを浮かべながら見つめた。


「ほんまに、覚えてないんやね」
 聖花はホッとしたような、だけどもどこか寂しいような複雑な気分を抱えながら、着替えを取りに行くため、自室へと戻る



「本当に消されてる」
 聖花は昨日まであったアプリ、skyblueが消されていることに、少しの寂しさを感じた。

「愛莉はどうしてるやろ?」
 愛莉とのトークアプリを開くと、昨日の愛莉とのやり取りもしっかり消去されていた。


[愛莉~]
 聖花は愛莉を呼び掛けてみる。
 既読はすぐにつき、ほどなくして返信が届く。


[聖花おはよう]


[どないしたん? 朝から連絡してくるなんて珍しいやないの]


[どっか具合でも悪いんか?]
 聖花は愛莉の問いから推測して、愛莉の端末でも昨日のトークは抹消されているのだろうと気がつく。それでも聖花は、いつも通りの愛莉の返信に口元が緩む。


[愛莉おはよう]
[もう元気~]
[今日も学校行く。愛莉は?]
 と、連続送信する。


[元気でなにより]
[もちろん学校いくで]
 すぐに返信が届き、聖花は嬉しそうに笑みを浮かべる。


[迎えに行く!]
[ぇ? なんで? そんな早ううちに会いたいんか?]

[せやね。今、めっちゃ愛莉に会いたいわ]
[告白ですか(笑)? まぁええわ。じゃぁお迎え待ってます]

[はーい]
 聖花はご機嫌にトークアプリを閉じ、身支度を始めた。
 昨日の今日ではまだ安全面に安心感が持てないため、白に教えてもらったように愛車である電炉う自転車を洗浄してから、愛莉の家に向かう聖花であった。
  †

[ついたー]
 愛莉の五階建て鉄筋コンクリートマンションの下で電動自転車を止めた聖花は、愛莉にメッセージを送信する。


[今から下りる]
 とすぐに返信が届き、聖花はそわそわと落ち着かない様子で愛莉を待った。まるで彼氏彼女を待つそれのようだ。


「聖花、お待たせ」
 聖花はオートロック式のガラス扉から出てきた愛莉をじっと見る。

「ど、どないしたん? うちの顔になんかついてるか?」
 その熱い視線に戸惑う愛莉は、食べ物がつきでもしているのかと、自身の顔を触る。


「愛莉元気? どこか具合悪い所はあらへん?」
「はぁ? な、ないけど? どないしたんやいきなり」
「ならええねん」
 聖花は愛莉に駆け寄り、さりげなく香りを確認する。愛莉特有のお線香の香りが聖花の心を落ち着けた。


「うんうん。いつもの愛莉やね」
「……あんたはいつもとちゃうな。風邪でもひいたんとちゃうの?」
「風邪なんてひいてへんよ。元気元気! さっ、学校行こ~」
 乗ってきた電動自電車に跨った聖花は愛莉を待つ。


「はいはい」
 愛莉は桜色の電動自転車に跨る。
 二人は他愛のない会話を交わし合いながら、平和に登校するのだった。



 登校してからも聖花は、しばし心から安心できずにいた。


 聖花は安心感を求め、西条春香を探して一緒に昼食を取りながら、それとなく黒崎のことを探りを入れた。
 春香の話によれば、身内の不幸があったとのことで、今朝いきなり黒崎から退職届が送り届けられたらしい。
 その話しを聞いたことで、聖花はやっとピンっと張っていた糸を緩ませることが出来た。
 それにショックを受けたのは愛莉だった。


 学校唯一の美男子が去っていった~。私のオアシスが~。などと、何事もなかったように残念がる愛莉に対し、苦笑いするしかない聖花だった。
 聖花は黒崎玄音が退職したのにも関わらず、全く姿を現すことのない斎藤由香里のこともあり、記憶の一部を消滅させたことが本当なのだと実感する。
 もちろんここ一週間の出来事を聖花の口から話すことはなかった。あれは悪い夢をみたのだと思うことにしたのだ。


 両耳につけ続けている貼るピアスを除き、聖花に元の平和な生活が聖花に戻ってきたのだ。


 事件のことや白との出会いによって精神的な強さを手にした聖花は、以前よりも少しだけ胸をはっり、穏やかで幸せな日々を大切な人達と共に過ごしてゆくのだった――。