いつだって千種は私の前を歩いていた。
クラスで見る千種は、誰にでも優しく接する聖女のような女の子だった。人見知りかつ不愛想なおかげで、高校に入学して友達が一人もできなかった私には縁のない存在だと思っていた。
一刻も早く両親のもとを去りたかった私は、高校を県外の私立高校に選んで、一人暮らしを始めた。授業が終われば、生活費と進学用のお金を稼ぐ為に居酒屋でバイトをして、家に帰るのはいつも一二時近く。夕食は賄いで済ませるので、帰宅後はシャワーを浴びて、髪も乾かさないままベッドに直行して、眠りにつく。それが平日。休日は一日中バイトだから、休んでいる暇なんてない。毎日くたくたになりながら生活をしているが、自分で決めたことなので投げ出すことは許されない。
そんな私が唯一楽しいと思えるのは、絵を描いている時だった。子供の頃から絵を描くことだけが、自分の気持ちを素直に表現できる手段だった。
私はよく、バイト先から家に帰る途中に、人気のない所を選んでは、段ボールとスプレーを使って絵を描いた。言ってしまえばそれは、世界的に有名なグラフィティアーティストである、バンクシーの真似事でしかなかった。けれど、私自身はそれで満足していた。
うちの学校でも、いつしかバンクシーが来た、なんていう噂が広まって、小さな話題になった。当時、満更でもなかったのを覚えている。素人の目を欺ければ、私なりには大成功だ。まあすぐに、ただの悪戯だと思われて、誰も気にしなくなったんだけど。
それでも私は描き続けた。鬱憤を晴らすために、描き続けた。
そんなある日の夜更け、いつものように私が絵を描いていた時のことだった。
「城崎さんって、すっごい絵上手なんだね」
絵が完成して満足していた私に、突然小学生みたいな感想を投げかけてきたのが、他でもない千種だった。
私は手に持っていた物を置いて、千種の方を向いた。
「誰かに言うつもり?」
「まさか、そんなことしないよ」
「じゃあお金? いくらほしいの?」
「私ってそんなにイメージ悪いのかな……」
そう言いながら、千種はがっくりと肩を落とした。
「だったら何なの?」
「歩いてたら、城崎さんが絵を描いてるのを見かけて、ついつい見入っちゃった」
こんな時間に女子高生がうろうろしてるなんておかしいでしょ、なんてことは私が言えた立場ではないので、口を噤んだ。
「ねえ、それ私にもやらせてくれない?」
「へ?」
思わず声が裏返った。
「城崎さんがあんまり楽しそうに描いてるから、私も描きたくなってきた!」
彼女は目をキラキラさせて、手を組んでもじもじと体を捩らせた。これはあしらっても引き下がらなそうだった。
私は呆れて溜め息を零した。そして足元に置いてあったスプレー缶と、段ボールを彼女に差し出した。
「ほら、使わせてあげる」
「やった!」
「その代わり、あんたも共犯だからね」
「おっけおっけ!」
千種は私の手から道具を受け取り、飛び跳ねるような足取りで壁に向かっていった。
最初はどうするか迷っていた千種だったけど、やがて描き始めた。私の描いた、自分でもよくわからない不可思議な絵を真似て、彼女はどんどん描いていく。迷いなく、スプレーを振り続け、三十分もすれば私の絵の横に、千種が描いた絵ができあがった。
「んー何か違うなあ」と、彼女は自身の絵と私の絵を見比べて、不満げに首を傾げた。
「初めてにしてはなかなかよ」
決してお世辞ではなく、実際絵に詳しくない人が見れば、どちらも同じに見えるくらいには上手く描けていた。
「そうかなあ。同じ絵を描いてるはずなのに、私のはなんだか、こう、もやもやしてる」
「何それ」
千種が両手をぐにゃぐにゃねじらせて、必死に伝えようとしてる姿が可笑しくって、私は思わず笑ってしまった。
「あ、笑った」
「そりゃ笑うよ」
「でも今まで、城崎さんが笑った顔一度も見たことない」
「退屈だったからね」
学校ではすることがない。勉強はやる気が起きないし、友達だっていない。ただ何となく、惰性で学校に行っているだけだ。
「じゃあ私と友達になってよ」
千種がそう言った時、私は自分の耳を疑った。というのも、自分と彼女とでは、彼女が提案した関係で釣り合うはずがないからだ。
「どうして?」
「私も退屈だから」
「そうは見えないけど」
千種は私とは違って、既にクラスの人と馴染んでいる。私とは住んでいる世界が違う。
「そんなことないよ。毎日毎日つまらない」
それは嘘ではないような気がした。彼女が退屈だと感じているとはにわかに信じられなかったけど、それは彼女の本心のようだった。
ほんの僅かではあったが、千種が放心したように固まった。けれどすぐに、まるで本心をひた隠すかのように、悪戯に微笑した。
「友達にならないと、これ全部ばらすよ」
「卑怯なんだけど」
千種は私の見立て通り、絶対に引き下がらなかった。その後何分か似たようなやり取りがあったが、結局私の方が折れて、私達は友達という形になった。
私達は教室でもよく話し合うようになっていた。弁当も一緒に食べた。夜中によく二人で絵を描くこともあった。尋達と一緒になっても、二人だけで絵を描いていた。
こうして一緒に過ごしていると、私は千種との差を痛感する。彼女は素直で、正直で、明るい女の子だった。誰からも好かれる、天使みたいな女の子。
時に彼女のことを羨むこともあったし、妬ましく思うことも正直あった。でも多分、女子高生ってそういうギリギリのところで付き合っていく生き物なんだと思う。付かず離れずの関係を、あたかも仲良しであるかのように着飾って、周囲に存在を証明しているだけなんだ。女子高生っていうのは、自己顕示欲の塊だ。
それでも私は、千種のことが好きだった。羨むのも妬むのも、それは私の問題であって、彼女は何一つ悪くない。
千種は、私の憧れだった。私はずっと、彼女の背中を追いかけていた。そうして私は、ずっと千種の後を歩いて、高校生活を一緒に過ごしていくんだと思っていた。
そのはずだった。そうなるはずだと疑いもしなかった。学生のうちは、どこにもいけないものだと思い込んでいた。でも、違った。
私は彼女に追いつけないまま、彼女の死を迎えてしまった。
クラスで見る千種は、誰にでも優しく接する聖女のような女の子だった。人見知りかつ不愛想なおかげで、高校に入学して友達が一人もできなかった私には縁のない存在だと思っていた。
一刻も早く両親のもとを去りたかった私は、高校を県外の私立高校に選んで、一人暮らしを始めた。授業が終われば、生活費と進学用のお金を稼ぐ為に居酒屋でバイトをして、家に帰るのはいつも一二時近く。夕食は賄いで済ませるので、帰宅後はシャワーを浴びて、髪も乾かさないままベッドに直行して、眠りにつく。それが平日。休日は一日中バイトだから、休んでいる暇なんてない。毎日くたくたになりながら生活をしているが、自分で決めたことなので投げ出すことは許されない。
そんな私が唯一楽しいと思えるのは、絵を描いている時だった。子供の頃から絵を描くことだけが、自分の気持ちを素直に表現できる手段だった。
私はよく、バイト先から家に帰る途中に、人気のない所を選んでは、段ボールとスプレーを使って絵を描いた。言ってしまえばそれは、世界的に有名なグラフィティアーティストである、バンクシーの真似事でしかなかった。けれど、私自身はそれで満足していた。
うちの学校でも、いつしかバンクシーが来た、なんていう噂が広まって、小さな話題になった。当時、満更でもなかったのを覚えている。素人の目を欺ければ、私なりには大成功だ。まあすぐに、ただの悪戯だと思われて、誰も気にしなくなったんだけど。
それでも私は描き続けた。鬱憤を晴らすために、描き続けた。
そんなある日の夜更け、いつものように私が絵を描いていた時のことだった。
「城崎さんって、すっごい絵上手なんだね」
絵が完成して満足していた私に、突然小学生みたいな感想を投げかけてきたのが、他でもない千種だった。
私は手に持っていた物を置いて、千種の方を向いた。
「誰かに言うつもり?」
「まさか、そんなことしないよ」
「じゃあお金? いくらほしいの?」
「私ってそんなにイメージ悪いのかな……」
そう言いながら、千種はがっくりと肩を落とした。
「だったら何なの?」
「歩いてたら、城崎さんが絵を描いてるのを見かけて、ついつい見入っちゃった」
こんな時間に女子高生がうろうろしてるなんておかしいでしょ、なんてことは私が言えた立場ではないので、口を噤んだ。
「ねえ、それ私にもやらせてくれない?」
「へ?」
思わず声が裏返った。
「城崎さんがあんまり楽しそうに描いてるから、私も描きたくなってきた!」
彼女は目をキラキラさせて、手を組んでもじもじと体を捩らせた。これはあしらっても引き下がらなそうだった。
私は呆れて溜め息を零した。そして足元に置いてあったスプレー缶と、段ボールを彼女に差し出した。
「ほら、使わせてあげる」
「やった!」
「その代わり、あんたも共犯だからね」
「おっけおっけ!」
千種は私の手から道具を受け取り、飛び跳ねるような足取りで壁に向かっていった。
最初はどうするか迷っていた千種だったけど、やがて描き始めた。私の描いた、自分でもよくわからない不可思議な絵を真似て、彼女はどんどん描いていく。迷いなく、スプレーを振り続け、三十分もすれば私の絵の横に、千種が描いた絵ができあがった。
「んー何か違うなあ」と、彼女は自身の絵と私の絵を見比べて、不満げに首を傾げた。
「初めてにしてはなかなかよ」
決してお世辞ではなく、実際絵に詳しくない人が見れば、どちらも同じに見えるくらいには上手く描けていた。
「そうかなあ。同じ絵を描いてるはずなのに、私のはなんだか、こう、もやもやしてる」
「何それ」
千種が両手をぐにゃぐにゃねじらせて、必死に伝えようとしてる姿が可笑しくって、私は思わず笑ってしまった。
「あ、笑った」
「そりゃ笑うよ」
「でも今まで、城崎さんが笑った顔一度も見たことない」
「退屈だったからね」
学校ではすることがない。勉強はやる気が起きないし、友達だっていない。ただ何となく、惰性で学校に行っているだけだ。
「じゃあ私と友達になってよ」
千種がそう言った時、私は自分の耳を疑った。というのも、自分と彼女とでは、彼女が提案した関係で釣り合うはずがないからだ。
「どうして?」
「私も退屈だから」
「そうは見えないけど」
千種は私とは違って、既にクラスの人と馴染んでいる。私とは住んでいる世界が違う。
「そんなことないよ。毎日毎日つまらない」
それは嘘ではないような気がした。彼女が退屈だと感じているとはにわかに信じられなかったけど、それは彼女の本心のようだった。
ほんの僅かではあったが、千種が放心したように固まった。けれどすぐに、まるで本心をひた隠すかのように、悪戯に微笑した。
「友達にならないと、これ全部ばらすよ」
「卑怯なんだけど」
千種は私の見立て通り、絶対に引き下がらなかった。その後何分か似たようなやり取りがあったが、結局私の方が折れて、私達は友達という形になった。
私達は教室でもよく話し合うようになっていた。弁当も一緒に食べた。夜中によく二人で絵を描くこともあった。尋達と一緒になっても、二人だけで絵を描いていた。
こうして一緒に過ごしていると、私は千種との差を痛感する。彼女は素直で、正直で、明るい女の子だった。誰からも好かれる、天使みたいな女の子。
時に彼女のことを羨むこともあったし、妬ましく思うことも正直あった。でも多分、女子高生ってそういうギリギリのところで付き合っていく生き物なんだと思う。付かず離れずの関係を、あたかも仲良しであるかのように着飾って、周囲に存在を証明しているだけなんだ。女子高生っていうのは、自己顕示欲の塊だ。
それでも私は、千種のことが好きだった。羨むのも妬むのも、それは私の問題であって、彼女は何一つ悪くない。
千種は、私の憧れだった。私はずっと、彼女の背中を追いかけていた。そうして私は、ずっと千種の後を歩いて、高校生活を一緒に過ごしていくんだと思っていた。
そのはずだった。そうなるはずだと疑いもしなかった。学生のうちは、どこにもいけないものだと思い込んでいた。でも、違った。
私は彼女に追いつけないまま、彼女の死を迎えてしまった。