USBに入っていた文章の内容は、一年前の今日、僕が見てしまった彼女のメモと全く同じだった。あれを見たのは二年の文化祭だったから、彼女は死ぬまでずっとこれを書いていたことになる。後半は僕も読んだことがなかったが、それでも驚きはしなかった。彼女なら、そうするだろうと思った。
 風が吹く。学校の屋上に来たのは千種が死んだ日以来だった。あの日も今日みたいに風が強い日だったのを思い出す。
 下を覗く。文化祭という空気感に浮かれた生徒で溢れかえっていた。誰一人として、僕が上から見ているなんて気がついていない。
 蓮達に言ったことは、半分が事実で、半分が嘘だった。
 本当はあの時、この場所で、僕は千種に声をかけていた。けど、彼女の目を見て、あえて止めなかったのだ。それまでの苦悩を思うと、どうしても足が一歩前に出なかった。ここで死ねば彼女は自由になる。それに何より、何もしないという彼女との約束を破るわけにはいかなかった。
 そう思っていたけど、本当はどうだったかわからない。約束ならもう一つしていた。

 ――もし君が本当に死のうとしたら、その時は、僕も一緒に死ぬよ。

 僕はその約束を破った。ここで僕がするべきだったのは、千種が飛び降りるのを見ていうことじゃない。止めることでもない。一緒に。千種と一緒に飛ぶべきだったんだ。
 彼女が死んで、何もかもが終わったと思った。でも続いていた。エンドロールなんてなかった。エピローグなんてもの存在していなかった。僕が生きている限り、まだ僕の人生は続いていた。それが辛かった。彼女がいなくても平然と続いていくことが、酷だった。

「探したぞ」

 背後から声がして、振り返った。案の定、蓮達だった。

「案外早かった」

「必死なんだよ。お前、どうするつもりだ」

 蓮が一歩前に足を出した。それに合わせて、僕も一歩足を後ろに下げた。

「わかってるだろ。僕は、あの日ここで千種と死ぬはずだったんだ。その続きだよ」

「ふざけんな。いいから戻ってこい」

 できない。もう戻れない。今日こそ約束を果たすんだ。
 僕は蓮に向かって言った。

「……本当は、千種の父親を殺すつもりだった。包丁をリュックに入れて、千種の家に向かった。会いに行くと、そいつは泣きついてきたんだ。ごめんなさい、ごめんなさいって僕の足に縋りついて何度でも。憐れだった。千種もこいつに、こんな感情を抱いていたんだと思った。そう思うと、殺す気も失せた」

 あの日の帰り道、鴉が飛んでいるのを見た。何気ない風景だったかもしれない。でもその時の僕には、ひどく鮮やかに映った。優雅に飛んでいるその姿が、千種と重なって見えてしまったから。

「全部僕のせいなんだ。全部知ってたんだ。知ってて、僕は何もしなかった」

 だから、飛び降りる。そうだ。そうすれば、何もかも終わる。
 後ろを振り返った。皆が止める声が聞こえる。もう無理だというのに、叫び続ける。
 縁に立つ。絶好の眺めだ。

「約束を果たすよ、千種」

 そう呟き、僕は空へと足を――

 ――踏み出せなかった。

 一瞬の迷いを突かれ、僕の身体は屋上へと引き戻された。倒れ込み、三人に押さえつけられる。
 青空が視界に広がった。次第に、涙が流れ始めた。
 そうだ。あの日もそうだった。飛べなくて、涙を流したんだ。

「僕は最後に、恐れたんだ」

 飛ばなかったのは、彼女との約束があったからじゃない。
 怖かったんだ。ここから飛び降りること自体も、それになんの迷いもない千種のことも。怖くてたまらなかった。だから飛べなかった。空を飛ぶ度胸なんて僕にはない。
 いくら自分を誤魔化しても、無理だった。僕は、千種に生きていてほしかった。たとえ聞かないとわかっていても、止めるべきだった。僕はただ千種のそばにいたかった。千種がそう思っていてくれたのと同じように、僕は千種のそばにいられればそれでよかった。僕の罪は、知っていながら何もしなかったことじゃない。自分を誤魔化し続けて、自分の行為を正当化しようとしたことだ。
 僕は辛うじて、嗚咽とともに彼女との記憶を飲み込んだ。ほろ苦く、痛く、されど優しすぎるその記憶は、脳髄をゆっくりと蝕んでいった。息が詰まる。動悸が速く、激しくなり、心臓の脈打つ音が鮮明に聞こえる。

「お願いだから、これからのことを考えよう」

 僕を押さえつけながら泣きじゃくっている陽葵が言った。それにつられて、僕も崩れた。
 雨が強くなる。
 千種は苦しんでいた。それを僕は知っていた。彼女に死ぬのを止めさせても、その苦しみは続いていったかもしれない。彼女が望む結果にはならないかもしれない。
 けど、それでも、掴むべきだった。僕にはそれができた。たとえそれが結果として彼女をこの先傷つけることになったとしても、手を伸ばすべきだった。遠くても、確かに僕のとなりにあった、彼女の手を。