電話をかけていた。古びた電話ボックスの中で、緑の受話器を持って耳に当てていた。周囲は暗く、一寸先も見えないほどの闇で覆われていた。
 電話の相手は千種だった。

『私は死ななきゃいけなかった』

 彼女の声が聞こえる。懐かしい声だった。

『尋は私が嫌いだった?』

「まさか」

『私が怖かった?』

「そんなこと思っていない」

『なら、私が気持ち悪かった?』

「思っていない。君はいつも自分を苦しめていた。僕は、そんな君の支えになりたかった」

『そんなこと頼んでないよ。尋には迷惑かけたくなかった』

「口にはしなくても、訴えていた。僕にはわかっていたんだ」

『面倒だったでしょ?』

「全然。君と一緒にいられる時間が、僕は愛おしかった。たとえそれが、あんな奇妙な形だったとしてもね」

『…………』

 応答がない。受話器の奥からザラザラとしたノイズ音だけが聞こえる。

「もしもし?」

『…………』

 やはり応えはない。だが、電話が切れたわけではないようだった。

『だったら――』

 ようやく千種の声が聞こえた瞬間、電話ボックスの外に彼女の姿が浮かび上がった。まるでミュージカルの舞台で、彼女だけがスポットライトで照らされているようだった。
 彼女がゆっくりと僕に近づいてくる。一歩ずつ確かな足取りで向かって来る。朧気だった顔がだんだん輪郭を帯びていく。彼女は笑った顔がよく似合うと、ずっと思っていた。
 気付けば目の前に千種が立っていた。

『だったら尋は――』

 彼女の口が動き、僕の耳元から声が聞こえてくる。ガラスを一枚隔てた、すぐ近くのところに千種がいる。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、絶対に届かない距離だった。透明な障壁が邪魔をしているせいで、僕らは触れ合うことができない。
 そして、彼女が言う。囁くような冷ややかな声が、受話器とは反対の耳から入り込む。

 ――尋は、どうして私を助けてくれなかったの。

 直後、視界が暗転した。