春が来て、三年に上がった。時間の流れや季節の移り変わりなんて気にしたことなかったのに、今年はなんだか、桜の花びらが散る姿に哀愁を感じてしまう。卒業という言葉には言い知れぬ魔力がある。不思議だ。学校になんて何の未練もないと思っていたのに。
 そんなある日の放課後、僕は千種と、最寄り駅から少し離れた場所にあるビジネスホテルに来ていた。やましい理由などではない。千種が家に帰りたくないと言って聞かなかったからだった。女の子を一人にしておくわけにもいかなかったので、どこか時間を潰せる場所を考えていたところ、彼女がホテルに行きたいと言い出した。そこで仕方なくこのビジネスホテルにまでやってきたというわけだった。
 今日は朝から彼女の様子がおかしかった。僕や陽葵が話しかけると、いつものように笑って受け答えはするものの、どこか空元気のように見えた。
 制服のままチェックインするわけにもいかず、僕らは近くの店で適当に服を選び、公衆トイレでそれに着替えた。店で一番安かった黒のTシャツと黒のパンツ着替え終えて、親に友達の家に泊まると嘘の連絡をしていると、僕とほとんど同じ格好に着替えた千種が出てきた。いかにも冴えない大学生カップルといった感じだ。
 ホテルの部屋に入ると、千種は一目散にベッドに飛び込んだ。幸いツインルームが一部屋空いていて、そこに入ることができた。

「ふかふかだぁー」

 無邪気にベッドを堪能している千種に、コンビニに夕飯を買いに行くと伝えると、彼女が「私も行く!」と言ったので、結局二人で近くのコンビニへ向かった。
 夜の街を千種と並んで歩くというのは、なんとも不思議な感覚だった。彼女の勢いに押されてホテルに来たわけだが、どう考えたって異常事態だ。

「あれだね、エモいね」

「ボキャ貧かよ」

「私の語彙力じゃ形容しきれないからしょうがないよ」

 日中のような陰鬱そうな表情は消え、千種は普段僕と話す時に見せるような顔をしていた。だが安心はできない。この裏には、昼間の彼女の顔がまだ影を潜めているような気がする。

「なあ」

「ん?」

「いや、あのさ……何かあった?」

「どうしたの急に」

「なんか今日、元気なさそうだったから、さ。どうしのかなって……」

「別にいつもと同じだよ。尋が心配することなんて何もない」

「でも……じゃあなんで家に帰りたくないなんて言い出したんだよ」

 数瞬の間。けれど、僕を不安にさせるには十分すぎる間隙だった。

「……わかってるくせに」

 全身の毛がよだつ。彼女の裏側が姿を現した。途端に不安が恐怖へと変貌する。
 そうだ。僕は、彼女が抱えているものを知っている。あの日からずっと、自分からはメモに書かれてあったことには触れないようにしていた。それが彼女に対する誠意だったからだ。だが今僕は、不躾な質問で足を踏み入れようとしていた。少し考えればわかることだった。

「ごめん、いじわるなこと言った。何もしないでって言ったのは私だもんね……。ほんと、ごめん」

 千種はハッとした様子ですぐに謝った。

「でも心配しないで。私は大丈夫だから」

 大丈夫って、何だろう。もうそんな言葉で誤魔化せるわけなんてないのに、そんなことは彼女自身もわかっているはずなのに、どうしてこんな時に限って強がろうとするのだろうか。思えばいつもそうだ。弱みは見せるけれど、決して助けてほしいとは言わない。中学の死んだ同級生のことがあるから? いいや、それだけなわけがない。もっと別の要因がある。僕は、それを知っている。
 僕らはいつまでグレーのままでいるのだろうか。時が経てば解決するのだろうか。あるいは彼女が死ぬまで終わらないのだろうか。自分が何をしたいのか、どうなりたいのかが、わからなくなる。
 コンビニに行って部屋に帰るまでの間、僕達の間に特に会話はなかった。部屋に戻っても妙によそよそしく、お互い言葉にはしないが、行きでの話を意識しているのが丸わかりだった。初めて会話した時でももっとまともに話せていたと思う。
 部屋に備え付けられたテレビの音がやたらと耳に入る。内容は入ってこないのに、話している芸人の声で頭が支配される。
 無言でご飯を食べ終えると、千種はシャワーを浴びに行った。
 部屋に一人残されると、疲れがどっと押し寄せてきた。ベッドに横になり、瞼を閉じた。眠たくはないが、とにかく身体を休ませたかった。
 少しして気が付く。隣の部屋から、床が僅かに振動する音と、女性の甲高い喘ぎ声が漏れ出ていた。まだ二十二時だというのに、それはもう壮絶な拷問を受けているのではないかと思えるほど盛大な声量だった。
 薄っぺらいにも程があるだろ、と心の中で呟き、無言でワイヤレスイヤホンを両耳に付けた。音楽ストリーミングのアプリを開き、真っ先に目についた曲を適当に選んだ。外界の音を遮断できれば何でもよかった。そして、イヤホンの音量をめいっぱい上げた。
 聞こえてきたのは、最近人気の女性アイドルグループの曲だった。可愛らしい声と綺麗な声が混ざり合い、ある種カオスな歌声だった。聞き始めた最初は何も感じなかったが、あまりに自分の趣味に合わなかったので曲を変えようとした時だった。左耳から音楽が鳴り止んだ。驚いて目を開けると、隣にはシャワーを浴び終えた千種が立っていて、僕のイヤホンを自分の耳に差した。

「……意外。アイドルの曲聴くんだ」

「いや……まあ、うん」

 髪の濡れた彼女は、少女のようなあどけなさを残しつつも、いつも以上に艷やかに映った。
 好きで聴いていたわけじゃない、と否定しようとしたが、ならどうしてと訊かれると答えに困るのでそのまま流した。
 身体を起こすと、千種は僕の隣に座った。ふんわりとした甘い香りが鼻腔をくすぐる。意識しないようにしていたが、いつもと違うこの非日常感に飲まれてしまいそうだった。
 なかなか音楽を止めることができなかった。
 隣の部屋の音はまだ続いていた。千種もそれには気付いているようだった。僕らは気まずさと羞恥を誤魔化すように、顔を見合わせて笑った。変な話だが、少しだけ緊張が解けたような気がした。
 けれど、彼女は言った。

「ねえ」

「どうした」

「私達もさ……しない?」

 その言葉が何を意味しているのかは僕でもわかった。さすがにそこまで鈍感ではない。だから、その上で答えた。

「……それは、できない」

「その気がないわけ、ないでしょ?」

 千種は僕の太腿に、その小さく柔らかい手を置いた。

「……っ!」

 身体が強張り、生唾を飲み込んだ。やばい、と思った。
 千種は僕のほうに向き直った。大きく澄んだ彼女の瞳が潤んでいるように見えた。僕の手を握り、顔を近付けてくる。瞬きの音さえ聞こえてしまいそうな距離。彼女が吐いた息が頬にかかる。
 本能と理性がぐちゃぐちゃに入り乱れ、心音が加速していく。視線を外そうと周りを見た時だった。彼女の鎖骨辺りに、黒いものが見えた。

 ――痣だった。

 気付いたら僕は千種の両肩を掴んで、彼女を突き放していた。

「頼むから……やめてくれ……」

 腹から絞り出すように言葉を発したせいで、声が掠れていた。彼女の肩から手を離し、つけたままにしていたイヤホンを外した。
 千種の目は泳いでいて、動揺しているのがわかった。そして、噤んでいた口を開いた。

「……意気地なし」

 彼女はそう言って立ち上がった。スタスタと歩いていき、窓側のベッドに倒れ込んだ。窓の方を向いていて、どんな顔をしているのかわからない。
 シャワーを浴びる気にもなれず、僕は彼女に背を向けて横になった。いつの間にか隣の部屋の音は止まっていたが、いくら時間が経過しても僕の胸の鼓動は鳴り止まなかった。
 意気地なしと言われても、あんなものを見たら手を出すことなんてできなかった。僕は彼女を傷つけたくない。
 やがて、雨が降り始めた。今年初めての雷雨だった。雨は一晩中降り続け、翌朝には止んだ。


 その日から、千種が僕の部屋に来ることはなくなった。