二年の文化祭の時だった。僕はこの日、本当の意味で彼女のことを知ることになる。
 うちのクラスはダンスを披露することになっており、クラスメイトはみんな体育館に行っていた。けれど端から出る気のなかった僕は、誰もいなくなった教室で本を読んでいた。そこへやってきたのが千種だった。

「やっぱりいた」

 千種は呆れた顔で僕を見た。

「呼びに来たんなら無駄だからな。僕は行かない」

 千種は何も答えず、つかつかとこちらに歩み寄ってきた。強引にでも引っ張っていくつもりなのかと身構えたが、あろうことか彼女は僕の前の席に座ってこちらを向いた。

「何してるんだよ」

「サボりに来たの。身体動かすのって好きじゃないし」

「いや、千種って確かグループリーダーだっただろ。大丈夫なのかよ」

 彼女は、四グループあるうちの、メンバーが女子だけで構成されグループのリーダーだった。

「体調悪くなったから後よろしくって言っておいたから平気。ていうか尋こそいいの?」

「僕は当日いなくても支障がないように、雑用係に立候補しておいたから問題ない」

「用意周到すぎ。サボる気満々じゃん」

「本番直前にいなくなるよりはマシだろ」

「それもそっか」そう彼女は笑った。「雑用でもバックれるのは迷惑だと思うけどね」

「演者よりはマシだ」

 千種は本当に戻る気がないらしく、開演時間になっても居座り続けていた。僕らは最近デビューしたばかりの高校生作家の本の話をした。千種は、それを読んだときに受けた衝撃を、いつも以上の熱量で僕に語った。

「自分と年齢の変わらない人が、もう第一線で活躍してるってやっぱすごいよね。しかもちゃんと面白い」

「……そうだな」

「あれ、尋的にはあんまりだった?」

 返事がくぐもっていたから察したのだろうか。千種は僕の顔色をうかがった。

「いや、面白くはあったよ」

 嘘ではなかったし、作者に対する憧れや尊敬もあるにはあった。でも僕はそれら以上に、焦りを感じていた。世の中には十代という若さで世間を魅了している人がいるというのに、自分は何も成し得ていないことが、ひどく惨めに思えた。特別な人なんてほんの一握りしかいないとわかっていても、自分がそうじゃない、大勢のうちの一人でしかないんだという事実を、まだ受け入れたくなかった。だから正直に言うと、僕はその小説を心から楽しめなかった。
 やがて千種は、トイレに行くために席を立った。彼女はその時、スマホを机に置き忘れてしまっていた。あまりに不用心だった。
 ――どうしてそんなことをしたのか。理由を話すならば、ほんの出来心だったという他ない。僕はあまりに彼女を知らなすぎたのだ。無神経な行為だとわかっていても、千種なら笑い飛ばしてくれるだろうと思い込んでしまっていた。
 僕は彼女のスマホを覗いてしまった。

【鴉の落とし子】

 メモ帳のアプリが立ち上がっていて、そんな文字が目に入ってきた。どうやらメモのタイトルのようだった。なんだろうという、率直な疑問がまず浮かんだ。その時は、まさかこんなもので彼女の本性を知るとは思わなかった。
 そこに綴られてあったのは、彼女自身の過去を書いたエッセイのようなものだった。そして、僕は思わず目を疑った。その内容が、普段見る彼女の姿とあまりにかけ離れていたからだ。今まで千種が語ることのなかった彼女自身のことが、このメモにはびっしりと記されていた。彼女の本性、彼女の境遇、その全てがここには書かれてあった。
 それはもはや、「遺書」だった。これから死にゆくその理由を書き留めている遺書。一度そう思い込むと、もうそうであるとしか思えなかった。
 僕は混乱した頭で、どんどん画面をスクロールしていった。駄目だとわかっていながら、自分を止めることができなかった。気付かれたら不味いことなんてわかりきっていた。でも、止められなかった。気が付けば夢中で読んでいた。
 しばらくして、当然千種は戻ってきた。僕が彼女のスマホを持っているのを見られてしまった。あの時ほど生気のない千種の顔を、僕はこれまで見たことがなかった。

「……何、してるの」

 もはやどう足掻いても言い逃れできない状況だった。だから僕は正直に答えた。

「ごめん。千種が書いたメモ、覗いた……」

 千種にスマホを渡す。けれど、彼女の顔を見ることができなかった。

「そっか……」

 千種は僕の手からスマホを受け取った。それから幾許か、二人の間に沈黙が続いた。今まで感じたことがないほど凍てついた沈黙だった。何を言っても言い訳にしかならない気がしたから、何も言えなかった。このまま消え去ってしまいたかった。
 沈黙を破ったのは千種だった。

「うん。見られちゃったものはしょうがないね」

 やっとのことで彼女の顔に目をやった。目は悲しそうなのに口元では笑顔を作ろうとしていた。こんな顔をさせるくらいなら見なければよかったと、後悔の念が溢れ出て止まらなかった。

「でもよかった、見られたのが尋で」

 彼女が無理に明るく振る舞っているのがわかるから、余計に辛かった。この際、罵られたほうがまだ気が楽だったかもしれない。

「ねぇ、尋。約束して」彼女が言った。「あなたは絶対に、何もしないで」
 隠しきれていない悲痛な面持ちが、僕をさらに惨めにさせた。他言されたくないのは当然かもしれないが、もしあのメモに書かれてあることが本当ならば、誰かに言うべきなのは明らかだった。でなければ、彼女が不幸になる。

「……わかった」

 だが僕は、そう答えていた。臆病だったのだ。今の僕は、もう彼女にあんな顔をしてほしくなかった。だったら従うしかない。僕の答えに安心した千種は、「よかった」と言って微笑んだ。
 期せずして、僕らの間には二人だけの秘密ができた。それはあまりに重たく、繊細で、切ない秘密だった。
 その日の帰りのことだった。僕らが、道端に転がる鴉の死骸を見つけたのは。