「どうぞ」

 中から声がして、僕はゆっくりと扉を開けた。部屋には、何やら分厚い本を読んでいる一人の女子――千種がいた。
 三年に進級してからしばらく経った頃だった。ある日突然、千種から一緒に帰ろうと誘われた。今まで二人きりで帰ったことなんて一度もなかったのに、本当に突然のことだった。僕は生徒会の仕事があるから遅くなると伝えたが、彼女は「うちの部室で待ってる」と言った。先に帰るつもりはなさそうだった。
 いったいどういった風の吹き回しだろうか。その気がないのはわかっているけれど、それでも女子に誘われるというのは、変に勘繰り、いらぬ期待をしてしまう。頭では制御できない胸の拍動を感じながら、僕は、彼女が待っている写真部の部室の扉をノックしたのだった。

「待たせてごめん、千種。もう帰れるけど……」

 現れたのが僕だと気付いた千種は、すぐに読んでいた本を鞄に入れてこちらに駆け寄ってきた。

「行こ」

 彼女はそう言うと、スタスタと僕の横を通り過ぎ、部屋を出ていった。その俊敏さに呆気にとられたけれど、彼女は気にせず進んでいく。僕はその後ろを慌てて追いかけた。
 学校を出て、駅までの道を二人で歩く。とはいっても、僕は彼女の少し斜め後ろを保っていた。帰り始めてから五分程度経過したが、これまで会話はない。何かがあったのは容易に見て取れるのに、彼女はいつもと変わらない風で歩いていた。
 橋に差し掛かったところで、ようやく千種が口を開いた。

「昨日の雨、すごかったね」

 昨晩降った大雨でできた水溜りを、彼女は軽やかに飛び越えた。

「ああ……うん」

 当たり障りないことを言う場合には、主に二つの理由が考えられる。気まずい空気を打破するためか、何か重要なことを切り出すタイミングを探っているかだ。今の彼女は、恐らく後者だろう。

「そうそう、雨で思い出したんだけどね、雨粒って本当は雫の形をしていないんだよ」

 本当に話したいことはそんなことではないはずなのに、彼女はどうでもいい話を続けた。

「落下中に空気の抵抗を受けて、ぎゅっと潰されてひしゃげちゃうんだ。だからきれいな雫にはならなくて、まるで肉まんみたいな形になるんだよ」

「風情の欠片もないね」

「そうかもね」と彼女は笑った。「でも私は好きだな。空から肉まんがいっぱい降ってきてるんだって思うと、雨の日もそんなに憂鬱じゃなくなるから」
 確かにそう考えてみると少し面白く思えてくる。空を覆っている厚い雲だって、肉まんから立つ湯気なのだと空想すると、落ち込んだ気持ちも幾分か晴れやかになるだろうなと思った。
 ふいに千種が振り返り、必然的に目と目が合った。ようやく話し出す決心が付いたのだと思った。十分に場は整っている。あとはその内に抱えたものを口にするだけだった。
 だがこの時の僕は、決定的に大きな勘違いしていた。いつか彼女が言っていた。誰にだって、人には言えない秘密がある、と。そして、それは彼女自身も抱えている。あの時からそうだった。端から自分の秘密を誰かに話す気など、彼女にはなかった。

「ねぇ、私に煙草、吸わせてよ」

 冗談っぽく笑いながら言った彼女だったが、その言葉は冗談ではないようだった。

「誰かに見られたら終わりだよ」

「なら橋の下に行こうよ。そこならばれない」

「そもそも煙草なんて良いものじゃないよ。肺を黒くして不健康にするだけだ。何もメリットなんてない」

「わかってるよ。でも、だからいいの。みんなの前で清楚な優等生でいるためには、どこかで釣り合うことをしないとパンクしちゃう。遥太ならわかるはずだよ。わかってるから、吸ってるんでしょう?」

 そんなことを言われてしまったら、僕は駄目だと断れなくなる。でも何故だか、心の中で張り詰めていたものが解けるような感覚があった。それどころか、安堵してさえいる。彼女から出た言葉が僕の誤算通りのものだったとしても、何か気の利いたことが言えていたとは思えない。とうに道を踏み外した人間の言葉など、当てにしないほうがいいに決まっている。

「一本だけだよ」

 結局僕は許してしまった。今は持っていないとか、もう吸うのは辞めたとか、そうやって言えば千種も諦めてくれたかもしれない。煙草なんて吸わせたくはない。彼女には僕のみたいに逃げるような真似などしてほしくはない。きっとそれも本心だ。でも、そんな偽善など飲み込んでしまうほどに、僕の卑しさは深かった。一緒に足を踏み外してくれる人を、望んでいた。
 僕らは薄暗い橋の下までやってきた。川の水が濁っていたり、周囲が散らかっていたりしていることから、どうやら昨夜の雨で川の水位が上がっていたようだった。
 ポケットに入れていた未開封のパッケージを開けて、彼女に一本渡す。

「茶色い方を咥えて」

 彼女は慣れない手付きで煙草を受け取り、フィルターを唇で挟んだ。

「僕が火をつけるから、そしたら息を吸うんだ。ストローで飲み物を飲むのをイメージすればいいよ」

「わかった」と千種は頷いた。高揚しつつも、やはり緊張しているようにみえる。
 僕はライターを彼女に近づけた。三回ほどヤスリを回したところで、ようやく火がつく。すると、案の定彼女は思いっきり吸い込んで、そして思いっきり咳き込んだ。

「何これ吸えたものじゃない」

「勢いよく吸い過ぎてるんだよ。ゆっくり吸って口に含んだら、外気と一緒に肺に入れるんだ」

「なるほど、なるほど」

 今度は意識してもう一度吸った千種だったが、それでも咳き込んだ。

「美味しくないね」

 千種は宙に漂う煙を見つめてそう言った。彼女の手に煙草は似合わないと改めて思う。
 僕はもう一本煙草を取り出し、自分で咥えて火をつけた。久しぶりに吸ったせいで、少しきつく感じる。タール数はそこまで高くないはずなのに、僕の身体はすっかり煙草の感覚を忘れていた。

「僕も、美味しいと感じたことはないよ。ただ、落ち着くんだ」

「チルってやつ?」

「気取った言い方をすればそういうことになるのかもね。でも、僕のこれは自己陶酔とは正反対なんだと思う。自分を惨めだと思うことで、抱えた鬱憤を誤魔化しているんだ。そうやって逃げてるんだよ」

「謎。煙草吸ってるのに青汁飲んでるのと同じくらい意味不明」

「面白い例えだね。確かに意味不明だ」

「ほんと、理解できない。でも、だから私も吸いたかった。煙草を吸うことほど完璧な独りよがりってないでしょ。自分だけが良けりゃいいっていう考え方って非難されるけどさ、自分が壊れたら元も子もないよ。私もね、そういう自分のためだけの何かがほしいの」

 彼女が手に持つ煙草の先端から、灰が落ちた。雑草や散乱したごみに引火したら一大事だが、今はそんなことどうでもよかった。
 似ていた。他の誰でもない、僕自身に。彼女が煙草を咥える姿が、咳き込みながら煙を吐き出す姿が、それでももう一度吸う姿が、呪縛から解き放たれたい一心で煙草に手を出した頃の自分と重なって見えた。
 彼女は気恥ずかしそうに笑う。もう一度吸ったが、やっぱり咳き込むのだった。