僕の足は、自然と階段を上っていた。一段一段足先に重圧を加えながら、ゆっくりと上った。ほとんど一方的に言い残して教室を出てきてしまったから、三人には不審に思われたかもしれない。それでも今は一人になりたかった。
 蓮の言った通り、屋上への扉は閉ざされていた。僕は階段に腰を下ろした。ここは日が当たらないせいか、まだ夏だというのに空気がひんやりとしていた。気持ちの良い涼しさというよりも、不気味な冷たさだ。
 三か月前、千種はここを通って、死んだ。僕がここまで来たのと同じように階段を上り、扉を開け、屋上から飛び降りた。それは事実だ。だからこそ、不思議な感覚だった。ここに座っていると、現実味がみるみる薄れていくようだった。背後の扉を開ければ、もしかしたらあの世に繋がっているのではないか、なんて突飛なことも考えてしまう。
 後ろポケットに忍ばせていた煙草を取り出す。開封して一本咥え、火をつけた。学校で吸うのは控えていたが、常に持ち歩いてはいた。千種が死んだ今、僕が煙草を吸っているのを知る人はもう誰もいない。他人に見られたら終わりだというのに、もう何の後ろめたさもなくなっていた。
 僕が感じているのは焦りではなく、疲弊なのかもしれない。崩壊を恐れながら、無謀な調査を続けていくことに、身体も精神も参ってしまっている。何かをしたわけでもないのに、嫌に肩が重く感じるのもそのせいだ。僕は隠し事が得意ではない。このままだと崩壊のきっかけを作ってしまうのは、僕だ。
 悶々とするなか、煙を吐き出した。煙は形を変えながら上昇していき、やがて消えていった。
 そんな僕の耳に聞こえてきたのは、女子の声だった。

「あんた、そういうことする人だったんだ」

 声がした階段の下の方を見た。そこに立っていた女子生徒は、すっかり色落ちした髪を弄りながら僕を見上げていた。同じクラスの加瀬さんだった。

「生徒会役員が喫煙。とんだスクープだね」

「……先生に言うなりネットに晒すなり、好きにすればいいよ」

 携帯灰皿に吸い殻を入れてそう言った。ブラフでも何でもない、本心だった。

「しないから、そんなつまんないこと」

 彼女は階段を上がり始め、僕の数段手前で止まった。

「何しに来たの」

「別に。廊下歩いてたらあんたが見えたから付けてきただけ。自分で気付いてるか知んないけど、相当酷い顔してたよ」

 だろうなと思った。というか、用がないなら早くどこかに行ってほしかった。

「あのさ、もしかしてまだあんなメール信じてんの?」

「心配しないでよ、もう皆に迷惑はかけないから。尋も反省してるしさ、大目に見てやってほしい」

「熊谷?」と彼女は言った。「ああ、先週のこと。別に、気にしてないから。ていうか私、その日休んでたからあんまり知らないし」

「……そうだったんだ」

「なんならむしろ感謝してるかも」

 加瀬さんはそう言って、微かに口角を上げた。

「中島のこと殴ってくれたんでしょ、熊谷って。私、あの女のこと鼻に付いてたんだよね。だから代わりに一発かましてくれて清々したってわけ」

「でも加瀬さんって中島さんとよく話してたよね。仲良かったんじゃないの?」

「まさか」彼女はケタケタ笑った。「私があの女と話してたのは、あいつの彼氏に興味があったから。好きで話すワケないっての。人間なんて裏で何抱えてるかわかったもんじゃないでしょ。ちょうど今のあんたみたいにね」
 加瀬さんは僕のことを指差して言った。あまりいい気分ではない。僕のことは気にしないでほしかった。

「そういえば加瀬さんって、千種と同じ写真部だったっけ」

 無理矢理話を変えようと、僕は他の話を振った。

「そうだけど、何、え? もしかして疑ってんの?」

「そうじゃないよ。でももし何か知ってることでもあったら教えてほしい」

「いや知らないし。あの子とほとんど会話したことないから」

 端から期待などしていなかった。話が変わればそれでよかった。

「あーでも、東堂はあの子と仲良かったのかもね」

 予想外の名前が出てきたことに驚いて、思わず彼女の目を見た。

「東堂って、確か部長だったんだよね」

「そ。あいつが部長で斎藤ちゃんが副部長。てか私さー、知ってんだよね」

「何を?」

「東堂が、遊びまくってるってこと」

「は?」

 自分の耳を疑い、目を見開いた。突然何を言い出すんだろうか彼女は。

「いやだから、あいつ、裏ではかなりやばいって話。女子生徒を喰いまくってるらしいよ。私も詳しくは知らないんだけど」

「それって本当?」

「だから私も詳しくは知らないって。あくまで噂」

 だがもし仮にそうだとして、東堂と千種の関係にまで繋がってくるといえるのだろうか。
 まさか千種に限ってそんな……。

「あ、くれぐれもこの話はオフレコで」

「わかってるよ。漏らしたりはしない」

「でもまあ、その上でこんなこと言うのはお門違いかもしれないけどさ、ほどほどにしときなよ。戻れなくなったと気付いたときには、もう遅いんだから」

「ご心配どうも。そうならないように心がけるよ」

「ならいいんだけど」と彼女は言った。「あんた達が報われることを祈ってるよ」
 加瀬さんが去っていき、僕は立ち上がった。ここにきて気になる情報が飛び込んできてしまった。それも、ついさっきまで無駄だと思っていた方法で。複雑な心境だけど、確かめてみる必要はあると思った。ただし、このことは三人には言わずに、自分一人で行動するべきだ。どんな情報が出てくるかわからないまま、彼らを巻き込みたくなかった。