煙草のことを誰にも知られていなかったのは、運に恵まれ過ぎていたからだ。確かに細心の注意を払ってはいたが、いつ誰に知られてもおかしくはなかった。その背徳感に、僕は完全に病みつきになっていた。
 だが、そんな幸運も永遠に続きはしなかった。
 去年の冬、二年生の頃にあった修学旅行。僕はそこで、ある一人に煙草を吸っているところを見られてしまった。その人物こそ、千種だった。
 修学旅行二日目に向かったテーマパーク。最後に皆がお土産を買っている最中、僕は喫煙所に向かってしまった。制服で吸っている姿を見られるのはさすがにまずいので、わざわざ持参してきていた私服に着替え、帽子とマスクも身に着け、お土産が売られているエントランス付近から一番遠い喫煙所へと向かった。喫煙所の中には、幸い人がいなかった。いくら私服に着替えているとはいえ、誰かに見られていると落ち着かないし、それにもしかしたらうちの教師がいる可能性だってあった。入るまでは気が気じゃなかったが、誰もいないのを確認し、ほっと安堵の息を漏らした。
 だが、ツメが甘かった。
 一服し終えて、誰かが入ってくる前に喫煙所から出た。その瞬間だった。向かいの手すりに腰掛けていた千種と目が合ってしまった。彼女は僕のことを憐憫の目で見ていた。終わったと思った。さっさと済ませてみんなと合流しよう、などと浅はかな考えでいた先程までの自分を恨んだ。
 このまま去るわけにもいかず、僕は千種のもとへと歩み寄った。千種の顔がみるみる強張っていく。こんなにも足取りが重たくなったことなんて、今まで一度もなかった。

「付いて来てたの」

 僕は彼女の前に立ち、そう訊いた。
「私服だったから、どうしたのかなって思って……」彼女が答えた。「見てないふりしようか迷った」

「見てないふりしてほしかった……とも言い切れないかもね」

 この世で一番恐ろしいのは「知らない」ことだ。千種は僕が煙草を吸っていることに気付いていて、そのことを僕自身が知らないなんて、どちらにとっても残酷なことだ。千種には変な気を遣わせてしまっていたかもしれない。だからそういった意味では、声をかけてくれてよかったのかもしれなかった。

「他のみんなは?」

「お土産買ってる。付いてきたのは私だけ」

「そっか……」

 安心していいというわけではないが、見られたのが千種でよかったと思う。これが他のクラスメイトだったり、生徒会メンバーだったりしたらどうなっていたかなんて考えたくもなかった。
 僕は千種の横に同じように腰掛けた。日は沈みかけ、道行く人もまばらだった。家族連れも、男女数人のグループも、大学生らしきカップルも、皆一様に幸せそうな顔をして歩いていた。

「よくわかったね。こんな黒ずくめの服装した奴が僕だって」

「わかるよ、そりゃ。いつも一緒だから」

 変装していたつもりだったが、彼女の前には無意味だったようだ。

「あのさ、千種。悪いんだけど、このことは――」

「わかってる。誰にも言ったりしない」

 千種は余計な詮索をせずに理解してくれた。それが心から有り難かった。彼女には悪いが、今はその寛大さに感謝するしかなかった。

「ほんと、ごめん」

「大丈夫だよ。誰にだって、人に言えない秘密はあるから」

「……それは、千種にもってこと?」

 言ってすぐに、余計なことを訊いてしまったと思った。自分のことは黙ってもらおうとしている僕に、そんなことを知る権利なんてないのは明白だ。
 千種の横顔を盗み見た。彼女は「どうかな」と言って、わざとらしく首を傾げた。はぐらかしたつもりなのかもしれないが、その反応はもはや「ある」と言っているに等しかった。軽々しく口走るべきではなかったのかもしれない。

「もう行こう。みんな待たせちゃうといけないし」

 千種は「よっ!」と口に出して、前に飛び跳ねた。そして、こちらを振り返った。

「誰にも知られたくない秘密なら、もっと周りに気をつけなよ」

「やめろとは、言わないんだ」

「煙草のことはよくわからないけど、依存してるものを手放すのって簡単じゃないでしょ。ゲームも、お酒も、人も、何だって同じ。それをやめさせる権利なんて私にはないよ」

 それは彼女も何かに依存しているからなのだろうか、なんて、余計なことをまた考えてしまう。

「だから私は黙っておくことにした。無粋なことはしたくないからね」

 千種はそう言ってエントランスの方へと歩き出した。僕はそんな彼女の後ろ姿からしばらく目が離せなかった。
 もしも、彼女も僕と同じだったのなら――。そうだと言ったら、僕は、やめさせるべきなのだろうか。自分は見過ごしてくれたのに、彼女にだけはやめることを強いるのだろうか。

 ――やめさせれば、彼女は死なずに済むのだろうか。