本は滅多に読まないけど、一冊だけ好きな小説がある。千種がおすすめしてくれた、絵描きの半生を題材にした小説だった。試しに読んでみたら、これが予想以上に面白かった。絵画が重要な役割を担っている小説だからというのもあるけど、それを抜きにしても引き込まれていく物語だった。具体的に面白さを伝えようにも、うまく言葉に表せない。そこが千種とは違うところだった。
千種は色んなことに興味を持つ少女だった。写真部に所属しているから、きっと写真が好きなんだろうし、蓮の影響を受けてロックを好んで聴いていた。私とはよく絵を描いていた。心の底から楽しそうに描いていた。
それと同じように、彼女が小説を読むようになったのは、尋の影響を受けたからだった。
「千種とも、本を読んでたの?」
放課後、私と尋はとあるカフェに訪れた。普通のカフェじゃない。飲食をしながら本を読むことができる、いわゆるブックカフェというところだった。
私はブラックコーヒーを、尋はココアを、私は読みやすそうだったライト文芸を、尋はいかにも硬派そうな推理小説を選んだ。見事に好みが合わなくて、ちょっとだけ可笑しかった。
尋はココアを一口啜った。夏だというのに、彼はホットを頼んでいた。
「……読んだよ。僕の部屋で、千種は僕の本を勝手に読むんだ。いつもはこっちの気持ちが落ち込んでいる時でも構わずにからかってくるくせに、こうやって本を読んでいる時だけは一言も話さなかった」
それなりに彼も落ち着いているようではあった。ただ、話している彼の目線はずっと本にあった。
「それは、多分あの子が尋のことを信頼していたからだよ。あんたは、他の誰よりも特別だったんだと思う」
「僕だけじゃない、陽葵達にだってそうだった。ありのままだったよ、彼女は」
「……だと、いいんだけどね」
千種との思い出を回想する。二年間彼女とはずっと一緒にいたけれど、やはり二人で絵を書いていた時の記憶が真っ先に頭に浮かぶ。彼女の描いた絵、そして、描き終わった後の彼女の横顔。
「私と千種はさ、夜な夜なよく二人で絵を描いてたの」
「そう」
「あの子、いつも描いてる時は楽しそうなのに、ふとした時に、ぼうっと遠くを見つめるような目をすることがあった」
「きっと疲れていたんだよ」
「違う、あれはそんな単純な眼差しじゃなかった」
「どうして、そう言い切れる?」
「わかるの、千種の描く絵を見ていると。どこか薄暗くて……吸い込まれそうだった」
あの日、千種が高架下に描いた絵。鳥かごの中の黒い鳥と、その対比として描かれた、自由に空を飛び回る鳥。意味もなく、そんな絵を描いたとは思えない。
これは私の勝手な推測だが、あれは、彼女の「心」を表現したものだったのではないだろうか。あの黒い鳥は、もしかしたら千種本人のことなのではないか。そう思ってしまうのは、私の考えすぎだろうか。だがもし、万が一そうだったとしたら、私達はもっと重要なことを探らなければいけない。自殺か、あるいは他殺かよりももっと根底にある、千種自身についてだ。
尋が、ゆっくりとページを捲った。表情のない顔のまま、口を開く。
「考えすぎだよ。誰にだって多少の破滅願望はあるし、道を踏み外したくなる時だってある。それだけの話さ」
「見てないから言えるんだよ」
私にはあれが、どれほど複雑な感情が入り乱れて描かれた絵なのかがわかるような気がする。でも尋は実際に見ていない。あの絵も、あの眼差しも。だから、わからないんだ。
「だったら、何? 千種が死んだのは自殺だったとでも言いたいの? 生きづらかったからって理由で死んだっていうの?」
無表情のままなのに、彼の声は威圧的だった。
「陽葵は、千種といる時にそんなことを思ってたの? 千種は違ったよ。君といる時の彼女は、心底楽しそうにしていた。それなのに君は、そうじゃなかったって言いたいのか?」
違う。私だって千種と一緒にいる時が好きだった。素直な自分でいられた。誰かと絵を描いてあんなにも楽しいと思えたのは、それが千種だったからだ。
「尋……?」
私の声に、彼はハッと我に返ったようだった。視線を泳がせて、静かに狼狽していた。幸い、周りには気づかれていなかった。
「……ごめん。こんなつもりじゃなかった」
「ううん……大丈夫。しょうがないよ」
ここ最近の尋は情緒が不安定だ。思い悩んで、爆発してしまいそうな危うさがある。でも以前とは違うのは、私だってそうだった。
「……私は千種の笑顔が好き。無邪気で、周りの私達まで笑顔にしてしまうような、あの晴れ渡った笑顔が大好き。でもね、あの笑顔を見ていると、心憂い気持ちにもなった。何もかもを心の奥に押さえ付けて、無理をしているような気がしてならなかった」
目を背けることなんてできなかった。今でも思い浮かんで、胸が締め付けられる。
「私だって、あの頃に戻りたい。でも、もう進み続けるしかないんだと思う」
千種のことを忘れてしまいたいと思うことはよくあった。そのほうが楽になれると思ったから。彼女との記憶を消す薬なんかがあれば、私は躊躇うことなくそれを飲むだろう。辛いままでいるのは、どうしたって苦しい。
ただ、現実にそんな薬なんて無い。どんなに忘れたくても、私はこの先ずっと千種のことを思い出す。きっとその度に胸が痛んで、泣きたくもなる。それはどうしたって変えられない。心を自由にコントロールさせるなんて不可能だ。
でもせめて、残された私達四人が一緒にいる時くらいは、笑顔でいられるようにしたい。千種がいなくなって、それで全部壊れてしまうなんて嫌だ。
「そのためにも、千種に何があったのか突き止めて、例えそれがどんなに残酷な真実だったとしても、ちゃんと向き合おう」
結局は諦観なのかもしれない。忘れられないから受け止める。そうやって痛みを和らげようとしているだけなのかもしれない。
けどそれでよかった。今できる最善の方法はそれしかない。千種がいなくなったことにしっかりと向き合って、四人が揃ってこの暗雲を乗り越える。私は、必ず乗り越えられると信じている。
千種は色んなことに興味を持つ少女だった。写真部に所属しているから、きっと写真が好きなんだろうし、蓮の影響を受けてロックを好んで聴いていた。私とはよく絵を描いていた。心の底から楽しそうに描いていた。
それと同じように、彼女が小説を読むようになったのは、尋の影響を受けたからだった。
「千種とも、本を読んでたの?」
放課後、私と尋はとあるカフェに訪れた。普通のカフェじゃない。飲食をしながら本を読むことができる、いわゆるブックカフェというところだった。
私はブラックコーヒーを、尋はココアを、私は読みやすそうだったライト文芸を、尋はいかにも硬派そうな推理小説を選んだ。見事に好みが合わなくて、ちょっとだけ可笑しかった。
尋はココアを一口啜った。夏だというのに、彼はホットを頼んでいた。
「……読んだよ。僕の部屋で、千種は僕の本を勝手に読むんだ。いつもはこっちの気持ちが落ち込んでいる時でも構わずにからかってくるくせに、こうやって本を読んでいる時だけは一言も話さなかった」
それなりに彼も落ち着いているようではあった。ただ、話している彼の目線はずっと本にあった。
「それは、多分あの子が尋のことを信頼していたからだよ。あんたは、他の誰よりも特別だったんだと思う」
「僕だけじゃない、陽葵達にだってそうだった。ありのままだったよ、彼女は」
「……だと、いいんだけどね」
千種との思い出を回想する。二年間彼女とはずっと一緒にいたけれど、やはり二人で絵を書いていた時の記憶が真っ先に頭に浮かぶ。彼女の描いた絵、そして、描き終わった後の彼女の横顔。
「私と千種はさ、夜な夜なよく二人で絵を描いてたの」
「そう」
「あの子、いつも描いてる時は楽しそうなのに、ふとした時に、ぼうっと遠くを見つめるような目をすることがあった」
「きっと疲れていたんだよ」
「違う、あれはそんな単純な眼差しじゃなかった」
「どうして、そう言い切れる?」
「わかるの、千種の描く絵を見ていると。どこか薄暗くて……吸い込まれそうだった」
あの日、千種が高架下に描いた絵。鳥かごの中の黒い鳥と、その対比として描かれた、自由に空を飛び回る鳥。意味もなく、そんな絵を描いたとは思えない。
これは私の勝手な推測だが、あれは、彼女の「心」を表現したものだったのではないだろうか。あの黒い鳥は、もしかしたら千種本人のことなのではないか。そう思ってしまうのは、私の考えすぎだろうか。だがもし、万が一そうだったとしたら、私達はもっと重要なことを探らなければいけない。自殺か、あるいは他殺かよりももっと根底にある、千種自身についてだ。
尋が、ゆっくりとページを捲った。表情のない顔のまま、口を開く。
「考えすぎだよ。誰にだって多少の破滅願望はあるし、道を踏み外したくなる時だってある。それだけの話さ」
「見てないから言えるんだよ」
私にはあれが、どれほど複雑な感情が入り乱れて描かれた絵なのかがわかるような気がする。でも尋は実際に見ていない。あの絵も、あの眼差しも。だから、わからないんだ。
「だったら、何? 千種が死んだのは自殺だったとでも言いたいの? 生きづらかったからって理由で死んだっていうの?」
無表情のままなのに、彼の声は威圧的だった。
「陽葵は、千種といる時にそんなことを思ってたの? 千種は違ったよ。君といる時の彼女は、心底楽しそうにしていた。それなのに君は、そうじゃなかったって言いたいのか?」
違う。私だって千種と一緒にいる時が好きだった。素直な自分でいられた。誰かと絵を描いてあんなにも楽しいと思えたのは、それが千種だったからだ。
「尋……?」
私の声に、彼はハッと我に返ったようだった。視線を泳がせて、静かに狼狽していた。幸い、周りには気づかれていなかった。
「……ごめん。こんなつもりじゃなかった」
「ううん……大丈夫。しょうがないよ」
ここ最近の尋は情緒が不安定だ。思い悩んで、爆発してしまいそうな危うさがある。でも以前とは違うのは、私だってそうだった。
「……私は千種の笑顔が好き。無邪気で、周りの私達まで笑顔にしてしまうような、あの晴れ渡った笑顔が大好き。でもね、あの笑顔を見ていると、心憂い気持ちにもなった。何もかもを心の奥に押さえ付けて、無理をしているような気がしてならなかった」
目を背けることなんてできなかった。今でも思い浮かんで、胸が締め付けられる。
「私だって、あの頃に戻りたい。でも、もう進み続けるしかないんだと思う」
千種のことを忘れてしまいたいと思うことはよくあった。そのほうが楽になれると思ったから。彼女との記憶を消す薬なんかがあれば、私は躊躇うことなくそれを飲むだろう。辛いままでいるのは、どうしたって苦しい。
ただ、現実にそんな薬なんて無い。どんなに忘れたくても、私はこの先ずっと千種のことを思い出す。きっとその度に胸が痛んで、泣きたくもなる。それはどうしたって変えられない。心を自由にコントロールさせるなんて不可能だ。
でもせめて、残された私達四人が一緒にいる時くらいは、笑顔でいられるようにしたい。千種がいなくなって、それで全部壊れてしまうなんて嫌だ。
「そのためにも、千種に何があったのか突き止めて、例えそれがどんなに残酷な真実だったとしても、ちゃんと向き合おう」
結局は諦観なのかもしれない。忘れられないから受け止める。そうやって痛みを和らげようとしているだけなのかもしれない。
けどそれでよかった。今できる最善の方法はそれしかない。千種がいなくなったことにしっかりと向き合って、四人が揃ってこの暗雲を乗り越える。私は、必ず乗り越えられると信じている。