夏は嫌いだ。喉が渇くから。喉が渇いたら、水分を補給しなきゃいけない。自動販売機なら教室から近いけど、少しでも節約するために、距離のある体育館横の冷水機で水を飲むと決めていた。
 口元の水を手の甲で拭い、それから教室へと戻る。濡れた手はスカートで拭いた。ハンカチを持ち歩こうとは思っているけど、いつも忘れてしまう。千種がいたら怒られるかもなと思い、私は一人で苦笑した。
 教室の前に来た頃には、とっくにチャイムは鳴り終わっていた。次の世界史は自習で、先生がいないので、焦りはしなかった。しかし、何やら異変が起きていた。中から誰かが怒鳴る声が聞こえてくる。自然と、私の胸はざわめきだした。
 ゆっくりと扉を開ける。生徒達は全員立ち上がって、教室の中心を取り囲むような形になっていた。その人混みの奥で、一人の男子生徒が、蓮と遥太に押さえられながら、誰かに怒鳴りつけているのが見えた。
 嫌な予感は残念なことに的中してしまった。怒鳴られているのは、尋だった。彼はその生徒に対し、侮蔑したような視線を送っていた。

「お前さ、いい加減気色悪いんだよ」

 男子生徒が吐き捨てるように言う。けれど尋は表情一つ変えず、彼を見続けた。

「俺達全員さ、何も知らないって言ってるんだよ。千種の分までこの文化祭を成功させようって取り組んでんのにさ、何で水差すわけ? クラスの輪を乱してんのはお前らの方だろ。みんな迷惑してんだよ」

 クラスメイトは、確かに彼の言う通り、不安そうな顔を滲ませていた。誰も否定しようとはしない。この沈黙が、全てを物語っていた。

「田伏、一旦落ち着きなって」

「俺は落ち着いてるよ千葉。イかれてんのは、こいつだろ」

 田伏が尋を指差す。それなのにまだ彼は何も言い返さなかった。こんな事になってしまった原因は、何だというんだろう。

「僕達だってみんなに迷惑かけようだなんて思ってない。わかるだろう? あんなメールが送られてきたんだ。動揺しても仕方ないじゃないか」

「そうかもしれないけどな、お前ら以外はもう思い出したくねぇんだってのがわからないのか」

 鋭い一言だった。さすがの遥太も、反論に困っていた。
 もしかしたら、東堂の言っていた通りなのかもしれない。本当はみんな、もう忘れようとしている。そんな空気を、肌でひしひしと感じる。

「田伏、だったっけ」

 静まり返ったなか、ようやく尋が口を開いた。それほど大きな声ではないのに、離れた私の位置でも鮮明に聞こえる。

「なんだよ」

「君は薄情だね。わかったよ。そう言うんだったら、僕はこれ以上一切関与しない。だから君達も、二度と千種の名前を口に出したり、彼女の死を嘆いたりするような真似はするなよ」

「は? なんでそうなんだよ」

「君がそうしたいって言ったんだから、簡単だろ?」

「お前……ふざけんのもいい加減にしろよ!」

 田伏が遥太と蓮を押しのけて、尋に殴りかかろうとする。尋は動こうとしない。このままだと本当に殴られてしまう。こんな光景、千種はきっと望んでいない。

「――やめてよ!」

 気付いたら私は、声を上げていた。この場にいる全員の視線が、私に注がれる。怯みそうになるのをなんとか堪えて、尋達のもとへ歩いていった。

「陽葵……?」

 遥太が怪訝そうに私の顔を見た。

「どけよ」

「どかない。何も手を出さなくたっていいでしょ」

「俺はそいつのことを殴らないと気が済まねぇんだよ」

「そんなの人を傷付けていい理由にならない」

 周囲がざわついている。私が人前で話すのが相当異様らしい。私自身、クラス中の注目を浴びながら話していることに驚いている。でも一度前に出たら、周りの視界なんてどうでもよくなっていた。

「あのさ、なんでそいつのこと庇うわけ? 悪いけどここにいる奴らみんな思ってんだよ。これ以上余計なことしないでほしいってな」

 私だって、どうしていいかわからない。でもこんな……、こんなことになっていいわけがない。クラスメイト同士がいがみ合うなんて、馬鹿げてる。
「陽葵」後ろにいる尋の声だった。「もういいよ。君に迷惑はかけられない」
 迷惑なんかじゃない。ここにいるのは、私の意思だ。止めなきゃいけない。
 尋の声には答えられなかった。

「お願いだから、暴力だけはやめてよ」

 私はそう、田伏に頼んだ。悲しくなんてないのに、涙が出そうだった。
 すると彼は、決まりが悪そうに舌打ちをして、一歩後ろに引いた。

「……もうそろそろ現実見ろよ。いいか? 斎藤は自殺だったんだよ。お前らも気付けよ。そいつはもう、狂ってんぞ」

 田伏は吐き捨てるように言った。一触即発の事態にならなかったものの、わだかまりが消えたわけじゃない。

「……何も知らないのに、わかったような口聞かないでよ」

 勝手なことを言わないでほしかった。
 私は尋の手を引っ張ってドアの方に向かった。少し強引だったかもしれない。でも尋は何も言わないで付いてきてくれた。夏だというのに彼の手は、とても冷たかった。