「陽葵、お風呂あがりちゃんとドライヤーしてる?」

 千種の声だった。私達はいつものように絵を描き終わった後、二人並んで完成した絵画を見ていた。いつの日かの、彼女との記憶。

「してない。そのまま寝てる」

「やっぱり。だめだよ、ちゃんと乾かさなきゃ。毛先が傷むよ」

「いいよ面倒くさい。誰も気にしないよ」

「ハゲるよ」

「いいよ」

「ほんとだよ」

「いいよ」

 無駄な押し問答だ。私がどうしても折れないことを悟ったのか、千種は不服そうにしながらも口を噤んだ。
 ほのかに輝く街灯に照らされた千種の髪は、毛先まで透き通っていて、さらさらとしていた。彼女のこの可愛さは、毎日の徹底したケアによって形成されている。無頓着そうに見えて、意外と意識が高い。私はそんなこと気にもしていなかった。

「昔、ドライヤーなんてなかった時代の人達は、みんな禿げてたの」

「……そうだよ」

 不貞腐れたように千種は答える。

「私は見世物じゃないし、誰かに好かれたいなんて願望もないから」

「でも陽葵可愛いし、少し意識するだけで結構変わると思うなぁ」

「私がいいんだからいいの」

 むー、と膨れっ面で唸っているけど、全然怖くない。むしろ可愛らしい。これに低身長という武器を携えているのだから逆に恐ろしい。なるほどこれは男子が惚れるわけだ。

「陽葵はさ、高校卒業したらどうするの」

「突然なに?」

 やっと大人しくなったかと思えば、今度は別の質問をしてきた。しかもかなりデリケートな。本当に、彼女の頭の中はどうなってるんだろうと思う。

「ほら、今日配られたじゃん、進路希望調査票。どうするつもりなのかなって」

「あぁ、あれ。まあ……美大に進もうかなって、一応考えてるけど」

 素っ気なく返した。まるで適当に書いておいた風を装って。けれど本当は、一日中考えて、悩んで、帰りのHRが終わった後にようやく提出した。自分の進路を正直に言うのは、結構恥ずかしい。それも千種のような何でもできる人間にはとくに。

「陽葵らしいね」

「他にやりたいことなんてないし」

 そのためには美大に進むのが一番だと考えた。絵を仕事にしたいとは思っていないけれど、私はきっと死ぬまで描き続けると思う。

「千種は? 何書いたの?」

「秘密」

「あんたね……」

「私のなんか聞いてもつまんないよ」

「ずるいこと言ってるって、自分でもわかってるでしょ」

「うん。私はずるい人間なんだよ」

 そんなすぐに開き直られたら、なんて言ったらいいかわからなくなる。本当に、ずるい。

「あ!」

 突然の声に身体が飛び跳ねる。

「急になに」

「忘れてた。私、明日までに文化祭の劇のあらすじ作らなきゃいけないんだった」

「どこまでできてるの」

「それが全然できてないんだよ。そういうわけだから、私帰るね!」

 そう言うと、千種はすっと立ち上がり、リュックを背負って行ってしまった。声をかける隙なんて与えてくれなかった。
 千種が走って行った方を振り向く。小さく跳ねながら進んでいた彼女だったけれど、唐突に立ち止まってこっちを振り返った。何故か彼女は、満足そうに微笑んでいた。

「陽葵はさ、絵、描き続けてよ! 私、陽葵の絵好きだからー! じゃあまた明日ねー!」

 そう言い残し、千種は踵を返して、また先ほどのように走り去って行った。まるで、嵐のようだった。
 目の横に向けると、そこには私と千種の描いた絵が残っていた。私のは友達に明るく振る舞っている女の子の影が、中指を立てている絵。千種のは、鳥かごの中に黒い鳥がいて、その周りに数羽の小鳥が飛んでいる絵だった。いったい何を思って彼女はこの絵を描いたんだろう。
 ずっと絵を見ていると、次第に焦点が定まらなくなって、考えるのが面倒くさくなった。深い息を下に吐き出し、諦めて立ち上がる。途端に辺りの闇が濃くなったような気がした。誰もいない道端に、私一人だけが突っ立っていた。自分の心臓の音だけが、耳の奥で鳴っていた。
 千種がいない夜は、とても静かだった。