だけど、私は初めて、この一手を見たときに酷く驚いた記憶がある。あれは一体いつのことだっけ。
 ……ああ、そうだ。あれは少年少女囲碁大会に出場したときのことだ。
 東京都予選の1回戦にいきなりそんな手を打たれたものだから、余計に記憶に残っていたのだ。
 懐かしいな。確かあのとき打った相手も、今目の前にいるスポーツ少年のような男の子で……?


 あれ……? 左下隅の地を黒に取られた代わりに、下辺に白の模様ができる。
 あれ……? 私が右下隅にケイマで構えると、黒は上辺に打ち込む。
 あれあれ……? そこから激しい戦いが始まって、右上隅には黒の地が、上辺には白の地がついて……。

 あ、れ……? この碁、どこかで、見たことが、ある、ような気が……。
 い、いや、別にさほど珍しい布石じゃない。これまで何千何万局と打ってきた中で、一度くらいは打ったことがあっても不思議じゃない。
 だけど、この布石……、どこかとんでもないところで、打ったことがあるような……?


 そう、これはまさにあのときの布石と完全に一致しているのだ。
 互先と定先というハンデの差はあれど、石の並びは全く同じ。
 あのときの、少年少女囲碁大会東京都予選の1回戦のときと、全く一緒の展開なのだ。
 私の手が止まる。別に悩むような場面じゃない。私は必死に思い起こそうとしているのだ。

 あのときの、対局相手の彼の名前ってなんだっけ……?
 そうだ、私は確実に見ているはずなのだ。学年までは書かれていなかったけど、あのとき確かに名札は見た。
 確か「岡」で始まる名字だった気がする。岡部、岡村、岡島、岡崎……。
 いや、違う。そんな名字じゃなかった。もっとシンプルな漢字だった気がする。
 思い出せ、思い出せ……! 彼の名前はなんだった!? 頑張れ、私! あともう少しで思い出せるはずよ!!

 そう、彼の名前は――、


岡田(おかだ)、翔太くん……?」
 記憶が、口から零れ落ちていた。私ははっとなり口を押さえたが、その声はしっかりと彼の耳にも届いているようだった。
 彼もまた、はっとしたような表情を浮かべて、じっと私の顔を見つめていた。
「あ、すみません! なんだか昔、大事なところでこんな碁を打ったような気がして!
 そのときの対局相手の名前が、ついポロリと……!!」
 慌てて顔を伏せる。一体何を言っているんだろう、私は。
 いくらあのときの男の子の面影があるからって、いくらあのときと全く同じ布石だからって、あのときの彼が目の前にいるなんて、そんな偶然あるわけない!
 そう、これはただの偶然なんだ。それなのに、私ったら変な混乱を起こして取り乱して――、

「雨宮初段……。いや、雨宮……。俺のこと、やっぱり覚えていてくれたんだな。
 そうだよ、俺はお前が小学6年生のとき、少年少女囲碁大会の東京都予選の1回戦で対局したスポーツ少年だよ。
 ……はは、あのときは囲碁に必死でスポーツなんか全然やってなかったんだけどな。周りからはよくそう見られてた。
 お前、プロになってたんだな、雨宮。2、3ヶ月前まで、そんなこと知らなかったよ」
「え……、まさか本当に、あのときの……?」
「ああ……」
 驚いた、……なんてものじゃない。開いた口が塞がらなかった。
 こんな偶然、――いや、奇跡が現実に起こるだなんて。

 道行く人々は、私たちのことなど見向きもせずに通り過ぎていく。
 私たちの声も喧騒にかき消され、お互いの耳以外には届かない。
 まるで盤を挟んだふたりの周りだけ、空間が切り取られたかのようだ。
 茹だるような夏の暑さも、賑わう人々の声も、今は何も感じられなかった。
 俯いた岡田くんの声だけが、私の耳に入ってくる。


「お前に負けたあと、しばらくして俺は知り合いの伝手を頼って、関西棋院のプロに師事することにした。
 武者修行なんて言えば聞こえはいいかもしれないが、今にして思えば多分、逃げたんだ。お前のいる東京からな。
 それくらいお前に与えられた敗北は、俺の自信をへし折るのに十分だったってことだ。
 だけど、プロになる夢は諦められなかった。だから同時に関西棋院の院生にもなった。
 関西棋院なら院生成績で上位になることだけを考えればいいからな。プロ試験で見知らぬ強敵と戦わなくても、プロになれる。
 けどよ、そんな逃げみたいな理由で、関西を選んだ奴がプロになんてなれるわけないんだよな。
 結局、そんな夢は高校1年生の冬に捨てたよ。俺にとってプロは、夜空に煌めく星みたいに、遠い目標だった」
 岡田くんがつらそうに語るそんな過去に、私は相槌ひとつ打てなかった。
 もしかしたら私は彼の人生を大きく変えてしまったのかもしれない。
 だけど、私は私に負けた人がどうなったのかなんて気にしたことすらなかった。

 『たった一度の敗北で心が折れてしまうような人なら、最初からプロになんてなれなかった』
 そんな冷たい言葉で切り捨ててしまうのは簡単だ。現に、私は諦めなかったから、今ここにいるのだ。
 だけど、その違いなんて、本当は些細な差なんじゃないだろうか。
 だって私も高校2年生の冬には完全に心が折れていたのだ。そこで立ち直れたのは決して私の力なんかじゃない。

 すべてはさきちゃんがいてくれたからだ。私と岡田くんの違いなんて、きっとそれだけのこと。
 何かのきっかけが少しでも違えば、私と岡田くんの立ち位置は真逆だったのかもしれない……。


「あのね、岡田くん」
 私は意を決して口を開く。
「私もずっと、何年もプロになれなくて、苦しい日々を過ごしていたの。
 その数年の間に、何度も諦めようと思った。私がそれでも諦めなかったのは、さきちゃんっていう煌めく星を追いかけていたからなの。
 さきは私を置いて、さっさとプロになっちゃって。悔しかった。彼女のことが憎らしいとすら思った。
 だけど、彼女は女流タイトルをいくつも取るようになっても、変わらず私のことを待ち続けてくれていた。
 そんな期待に、絶対に応えなくちゃって、そう思った。でもね、それだけのことなの!
 私はプロになるための真剣な覚悟も、絶対に折れない鋼の心も持ち合わせてなんかいなかった!!
 だからね、私は岡田くんのつらさが、とてもよく分かる。私は本当は、ただの弱い人間でしかなかったから!
 だから、その、こんなことを言うのは烏滸がましいかもしれないけれど! こう言わせて欲しいの!!」

 気が付けば、涙が溢れていた。でも、私はそれを決して拭わない、隠さない。
 だって、それは私が弱い人間だったってことの証だから。……ううん、私は今だって弱い人間だ。
 代わりに私は、その両手を顔の前で合わせて、彼を祝福するように言葉を紡いだ。


「よく、頑張ったね、岡田くん……!!」

 彼の目にも一粒の雫が零れる。私の言葉に深く感じ入ることがあったのだろう。
「ありがとう、雨宮。……だけどな、俺にだって諦めちゃいけない理由はいくらでもあったんだぜ。
 それなのに、諦めてしまったのは、俺が弱かったからだ。そして、お前が諦めなかったのは、強かったからだ。