卒業式の前日、放課後は約束通り田辺先輩に導かれるまま電車で隣町に行くことになった。今のところどこに行くのか、誰に会わせるつもりかはわからない。ただ、着いた駅から目的までの道中で、田辺先輩はペットボトルの水となぜか花を買っていた。

「田辺先輩、下田先輩は明日卒業式に来ると思いますか?」

 普段から口数少ない田辺先輩だけど、今日はどこか緊張しているのか、駅を出てからは無言のままだった。そんな空気を払うように、私は思いきって話題をふってみた。

「来ると思いたいけど、こればかりはなんとも言えないな。ただ、千恵美が首根っこ掴んで連れてくる可能性はあるかもしれないな」

「桜木先輩がですか? そんな野蛮なことするように見えないんですけど」

「あいつは見た目以上に芯の強いやつだからな。なにせ、下田の東京行きについていくみたいだから、多少強引にでも下田を卒業式につれてくるだろう」

 さらりとなんでもないことのように田辺先輩は語ったけど、その内容に驚いた私は静かな田園風景に響き渡るような声をあげた。

「別に驚くことでもないだろ。千恵美なりに自分と向きあって前を向くと決めたうえで、下田についていくことにしたんだからな」

「でも、ちょっと大胆すぎませんか?」

「まあ、それが千恵美のいいところだし、時間はかかかるだろうけど下田とうまくやってくれるそうな気もするから、俺としてはよかったと思ってる」

 大胆過ぎた話に驚いたけど、なんだか嬉しそうに笑う田辺先輩を見ていると、それはそれでよかったんだと素直に思えてきた。

「なんだかかんだ、最後はうまく終わりそうでよかったです。でも、ひとつ気になることがあるんですけど、あの匿名の調査依頼は結局誰が出したんでしょうか?」

 今回の事件に導いた謎の調査依頼。結局のところ、最後までその真意や出した人は不明のままだった。

「それは簡単なことだ。下田が自分を犠牲にしてまで山口をかばっている以上、真相を知る春山はなにも言えなくても仕方がなかったからな。けど、それでもなんとかして下田を救いたいと思い、匿名で監査委員会に頼ったんだろう」

「ということは――」

「ああ、あの匿名の調査依頼はおそらく春山だろう。あいつもある意味渦中のひとりだし、サインの中身を公表できない以上、誰かに救いを求めたとしてもおかしくはないしな。とはいっても、監査委員会に向けたサインもあいつは認めないだろうけどな」

 そう言って意味深に笑う田辺先輩に、私もつられて笑ってしまった。

「起きてしまったたことは、もう本当にどうしようもないんだ。ただ、過去は変えられなくても未来はどうにでもなる。下田の後悔に対し、千恵美や春山が本気で心配して前を向いてほしいと思っていた。だから、花菜の監査委員会として最後の仕事だったのに、つい余計な真似をしてしまった」

「いえ、全然余計な真似ではありませんよ。たぶん、私だけでしたらなにも変えられなかったと思いますし、それに、最後の仕事も田辺先輩とできてよかったと思ってます」

 珍しく謝ってくる田辺先輩を制止して、私は思いっきり本心を告げた。実際、田辺先輩がいなかったら下田先輩をまともに説得できなかっただろうし、なにより私の好きな横顔を最後に見れたことは嬉しい以外になかった。

 話も一段落し、自然と再び沈黙が漂いだしたころ、山間に向かっていた田辺先輩の足がようやく止まったのは、まさかの墓地だった。

「目的地はここですか?」

 山間の開けた場所に広がる墓地の中で、田辺先輩がひとつの古びた墓石の前で足を止めた。どうやら目的地はここらしく、私の問いに田辺先輩は黙ってうなずくだけだった。

 ――浦田家って、誰だろう?

 お世辞にも手入れしているとは言い難いほど荒れた墓石には、かろうじて『浦田家』と掘られた文字が見えた。

「ここに、花菜に紹介したかった人がいる。名前は、浦田里沙。俺の初恋の人だった」

 散らばった落ち葉を丁寧に払い除け、手にした花を飾りながら、田辺先輩はあっさりとした口調で紹介したかった人のことを教えてくれた。

 ――田辺先輩の初恋の人って、え?

 一瞬、あまりのことに理解できず、私は黙って田辺先輩を見つめることしかできなかった。

「里沙はひとつ年下の女の子で、あまりいい家庭環境にいなかった。そのせいで孤独になり、最後は万引き依存症で苦しんだあと、自らこの世を去っていったんだ」

「そ、そうなんですね……」

 初めて明かされる事実に、私は返す言葉がなかった。墓石を見つめる田辺先輩の眼差しが、今まで見たことないくらいに穏やかな優しさで溢れていて、それだけで、田辺先輩が里沙さんを本気で好きだというのが伝わってきた。

 ――強力なライバルがいるって、里沙さんのことだったんだ

 かつて先輩たちに聞かされた話で、必ず出てくるのが田辺先輩を好きになると強力なライバルを相手にしないといけないというものだった。

 それが誰かはわからず、最近は桜木先輩だと勘違いしていたけど、まさかの亡くなっている人とは思いもしなかった。

「田辺先輩にとって、里沙さんはどんな人でしたか?」

 なにも言わずに黙っているのも変だと思い、ありきたりの質問をむりやり吐き出した。

「手のかかる人だったけど、一緒にいるだけで幸せだった。周りは色々言っていたけど、なに言われてもかまわないくらい、里沙の笑顔に夢中だった」

「本当に好きだったんですね……」

 普段なら絶対言わないことを口にする田辺先輩が、一気に遠い存在になった気がした。なんだか私の知る田辺先輩は偽物で、本当の田辺先輩は里沙さんといるときにあらわれるのかもしれないと思った瞬間、力がぬけるような感覚に引っぱられて涙がこぼれそうになった。

「実は、墓参りに来るのは今日が初めてなんだ」

「え?」

「ずっと、里沙が亡くなってからこの場所だけは避けてきた。里沙が亡くなったことが信じられなくて、いつかまた会えるはずだと自分を騙してたんだ。里沙に現実の中で会えないなら、せめて夢の中でもと思ったけど、結局会うことは叶わなかったよ」

 線香に火をつけ、そっと手を合わせた田辺先輩が目を閉じたまま説明してくれた。

 ――だから、いつも眠ってたんだ……

 ことあるごとに眠っていた田辺先輩。ただのなまけものと思っていたけど、その裏には亡くなった初恋の人に会いたいという切ない願いがあったということだった。

「覚えるてるか? 生徒会長選挙のとき、土壇場で鈴原と向かいあったときのこと」

「はい、夏美ちゃんで決まりかけたとき、田辺先輩が結果をひっくり返したんですよね」

「あのとき、鈴原も俺と同じように亡くなった人にとらわれていた。だから、鈴原の目を覚ますためにこう言ったんだ。『亡くなった人にはもう会えない』って。そのとき、鈴原に言い聞かせていたのに、まるで自分にも言い聞かせている感じがしたんだ」

 目を開けた田辺先輩が、墓石をまっすぐ見つめたままぽつりと呟いた。夏美ちゃんとどんなやりとりがあったかはわからないけど、そのとき田辺先輩は必死に自分の中の葛藤戦っていたんだろうと想像できた。

「そのときから、ずっと考えていたんだ。いつかはこの気持ちにケリをつけようって。過去の自分から卒業して、しっかり前を向くためにも、今日、もう一度里沙と向かい合うことにしたんだ」

「そうだったんですね……」

「そして、なにより俺に前を向くきっかけをくれた人がいる。だから、今日、その人と一緒にここへ来ると決めたんだ」

 そっと立ち上がった田辺先輩が、いきなり私をまっすぐに見つめてきた。その眼差しが、初めて田辺先輩と出会ったときに一瞬で恋に落ちた眼差しと同じだったせいで、私の意識は田辺先輩の瞳に吸い込まれていった。

「花菜、俺は花菜のことが好きだ。もちろん、監査委員としてではなく、ひとりの女性として好きだと思っている」

 景色が揺らぐぐらい全ての音が消えた私の世界に、田辺先輩の声が優しく広がっていく。その言葉は、私がずっと夢見て追い続けていたものだった。

「私、私は――」

 あまりにも突然のことにプチパニックになった私は、なんとか返事しようとしたけどうまくいかなかった。そんな私を、田辺先輩の両腕が優しく包みこんでくれた。

「田辺先輩、ずるいです」

「ずるい?」

「だって、告白は私からしようと思ってたんです。なのに、告白まで先を越されたんですから」

「花菜、それは違うよ」

「え?」

「花菜の告白はちゃんと聞いている。陸上部のトラブルを扱ってたときにな」

 見上げた先で意味深に笑う田辺先輩の言葉で、意識が過去にとんでいく。確かに、寝ていたはずの田辺先輩に呟いたけど、まさかそれを聞いていたとは思っていなかった。

「あの日、花菜の気持ちを聞いたときから、俺の中でなにかが変わっていった。だから、鈴原の件も下田の件も、解決できたんだと思う。そして、今日こうして里沙の前でもう一度向かい合うことができたのも、全て花菜のおかげだ。だからこれは、遅すぎるかもしれないけど、俺なりの精一杯の答えなんだよ」

 田辺先輩の言葉でようやく全てが私の中で繋がった瞬間、急に恥ずかしいやら嬉しいやらで頭の中がくらくらし始めた。もちろん、せっかくの田辺先輩の抱擁から離れないように、田辺先輩の胸に頭を預け続けた。

「花菜、これから俺はしっかりと前を向いて行こうと思う。だから、ずっとそばにいてくれないか?」

「もちろんです。私、一生離れませんからね」

 私の頭を撫でながら、夢のような言葉をかけてくる田辺先輩。

 自分でもアホだとわかるような大胆な言葉を返す私。

 冬の終わりを知らせる穏やかな風が吹く中、誰よりも先に春が訪れた私に、田辺先輩はそのまま顔を近づけてきた。