次の日、思いもしなかった話が学園中をかけめぐることになった。内容はまだ詳しくわからないけど、とりあえず昼休の時点でわかっていることは、下田先輩が卒業式には出ないということだった。

 その理由についてはわかってない。ただ、実行委員会の間で派手な言い合いが朝からあったらしい。どういう流れでそうなったのかはわからないけど、欠席を決めた下田先輩に桜木先輩が噛みついたのがきっかけとのことだった。

「桜木先輩、失礼します」

 授業が終わるとすぐに実行委員会を訪れた私は、ひとりうなだれていた桜木先輩に声をかけた。

「花菜ちゃん、ごめんね。なんか変な騒ぎに巻き込んでしまって」

「いえ、私は全然かまいません。それより、なにがあったんですか?」

 涙で目を赤くした桜木先輩には、昨日までの覇気みたいなオーラが感じられなかった。とりあえずなぐさめるにしろ、まずは状況を把握するため桜木先輩に寄り添うようにそっと隣に並んだ。

「下田君が急に卒業式には参加しないって言い出して、それで理由を問い詰めていたら喧嘩みたいになってしまって」

 桜木先輩によると、卒業式の最終打合せをするために朝から段取りを確認しようとしたところで、下田先輩から辞退の話があったという。理由については、下田先輩が無言を貫いたため最後までわからなかったらしい。

「ただ、春山君は下田君が卒業式に参加しないことは知ってたみたい。だから、下田君はずいぶん前から参加する気持ちはなかったと思うの」

「それを今日、桜木先輩に打ち明けたってわけなんですね?」

「そういうこと。で、理由を聞いても言わないから、つい、瑛人のことを口にしちゃって。そうなったらお互いに引けなくなってね」

 ぎこちなく笑いながら語る桜木先輩の目に、はっきりと後悔の色が滲んでいた。下田先輩にとって山口先輩の話はある意味タブーだから、そこに触れた以上はただでは終わらなかったのは簡単に想像できた。

 ――でも、理由は山口先輩以外にないんだよね

 再び涙し始めた桜木先輩の肩をさすりながら、下田先輩の言動の根底にあるものを探ってみる。やっぱり一番にくるのは山口先輩のことであり、もっといえばあの試合での出来事しかなかった。

「私、これから下田先輩に会ってきますね」

 色々と思案した結果、もう一度下田先輩と会って話をすることに決めた。私になにができるかわからないけど、おそらくなにか隠し続けている下田先輩の本心に近づくことができれば、この問題も少しは解決できるかもしれなかった。

「花菜ちゃん、ごめんね。でも、あまり無理はしないでね。下田君も、きっとずっと苦しんでると思うから」

 私の決意に背中を押しながら、桜木先輩はそれでも下田先輩のことを案じる言葉を口にした。その気持ちに触発された私は、「なんとかがんばってみますから」と桜木先輩に笑顔で応え、監査委員としても気持ちを入れ直して教室をあとにした。

 ○ ○ ○

 桜木先輩に教えてもらったとおり、下田先輩は屋上でひとりフェンス越しにグラウンドを眺めていた。その眼差しの先には練習する野球部があり、悲壮感が溢れる瞳からは、下田先輩の苦しみが痛いほど伝わってきた。

「なんだか、迷惑かけてしまったようだね」

 私に気づいた下田先輩が、頭をかきながら謝ってきた。雰囲気からして落ち着いてはいるみたいだけど、どこか話しかけづらい空気がひしひしと漂っていた。

「下田先輩、卒業式に出ないんですよね? それはやっぱり山口先輩のことがあったからですか?」

「そうだな、前にも言ったと思うけど、これは山口への俺なりのケジメなんだ。あいつにあんな思いをさせて、俺だけのこのこ卒業式に出ていいわけがないんだ」

 眉間にしわを寄せ、苦しそうに語る下田先輩からは固く強い意志が伝わってくる。それだけ、下田先輩の山口先輩への思いが強いのだろう。なにも聞くなと言わんばかりに睨んでくる下田先輩のふたつの瞳に、私は喉を掴まれたように声が出なくなってしまった。

 ――なんとかしてみたいけど、私にはちょっと無理かも

 意気揚々と来たはずなのに、下田先輩が放つオーラに気圧された私には、この事態を逆転させる知恵も力もなかった。

 そのことが悔しくて、なんとか必死で言葉を探っていたところに、「探したぞ」という力強い田辺先輩の声が聞こえてきた。

「田辺先輩!」

 万事休すの事態に、願ってもない田辺先輩の登場に一気に鼓動が加速していく。しかも、既に鋭い眼差しになっているあたり、田辺先輩もまた下田先輩を説得しに来たことがわかった。

「あとは任せろ」

 私の隣に並び小さく囁いた田辺先輩が、下田先輩の前へと向かう。これが正真正銘、田辺先輩が活躍する最後の後ろ姿になりそうで、私は一瞬でも目を離さないように意識を集中させた。

「田辺が来るなんて珍しいな。まだ監査委員会に残ってたのか?」

「いや、もうとっくに引退したんだけど、花菜の最後の仕事が苦戦してるみたいだったから手助けに来たんだ」

「そうか、だったら無駄足になったな。倉本さんとは話がついたし、田辺の出番はないと思うけど」

「本当にそうか?」

 田辺先輩の登場にも怯むことなくさっさと話を終わらせようとした下田先輩を、田辺先輩の鋭いひと言が遮った。

「どういう意味だ?」

「お前が卒業式に出ないとか、東京に行くとかは正直どうでもいいと思ってる。ただ、ひとつ気になることがあったから確かめに来たんだ」

 いつものゆるい空気から一転してシビアな空気をまとった田辺先輩が、一気に下田先輩に詰め寄っていく。その雰囲気に圧倒されたのか、下田先輩の表情から笑みが消えていった。

「あの試合、サインはスクイズじゃなかった。そしてお前は、サインを見逃したんじゃなくてちゃんとわかっていた。そうだよな? 下田」

「なにかと思えば、どうしたんだ田辺」

「どうもしてないさ。ただ、サインはスクイズじゃなかったのにスクイズのふりをしてアウトになった馬鹿な奴を、今も必死に隠し通そうとしている哀れな奴がいるから、ちょっと説教したくてな」

 わずかに動揺を見せた下田先輩に、田辺先輩が容赦なくたたみかけていく。その内容に驚いた私は、口を開けたまま何度も田辺先輩と下田先輩に視線を交互させた。

「サインがスクイズじゃなかったって、春山に聞いたのか?」

「いや、あいつがサインをあかさないことはお前が一番わかってるだろ?」

「だったら、どうしてスクイズじゃなかったと言いきれるんだ?」

「それは、お前が花菜に嘘をついたからだ」

「嘘って?」

「お前は、あのとき千恵美を見ていたからサインを見落としたと言っていたが、そんなことはありえないんだよ」

「どうしてそう言いきれる?」

「簡単なことだ。お前は山口とライバル関係にあったとはいえ、本気で一緒に甲子園を目指していた。そんなお前が、最も大事な場面でよそ見するなんて馬鹿なことするわけがないだろ。嘘をつくなら、もっとまともな嘘をつくんだったな」

 必死に抵抗する下田先輩をさとすように、田辺先輩が下田先輩の矛盾をつきつめていく。確かに言われてみたら、甲子園を本気で目指してるような人が大事な場面でよそ見するなんて考えにくいような気がした。

「まあお前が嘘をついたおかげで、お前が抱えていた問題がわかった」

「問題?」

「お前、ずっと山口のことをかばっているよな?」

 まるでチェックメイトするかのように、田辺先輩が下田先輩にとどめのひと言を発した。

「お前は、山口の暴走を隠すためにあえて悪者になりきることにした。春山はサインをあかすことはないし、山口も亡くなってしまった以上、真相はわかることはないから、それを利用して山口のことを守ろうとした。そうだろ?」

 田辺先輩の問いに、下田先輩は黙ったままだった。けど、その揺れる瞳と固まった表情が田辺先輩の言葉を肯定していた。

「あのな、下田、そんなことしても山口は全然浮かばれないぞ」

「田辺、お前になにがわかる?」

「さあな。ただ、山口もお前もただの馬鹿だってことはわかるぞ」

「うるさい、黙れよ! お前に、あんな真似した山口の気持ちがわかるのかよ!」

 無言から一転して感情をむき出しにした下田先輩が、田辺先輩の胸ぐらを掴んで怒声をあげた。

「あいつは、桜木のことも野球のことも本気だったんだ。なのに、俺が勝手な真似をしたせいであいつを苦しめたんだ。いいか、山口は本当はあんな真似する奴じゃないんだよ。なのに、あいつはあんな真似をしてしまったんだ。でもな、山口は悪くないんだよ。悪いのは、山口がそこまで追い込まれていたってことに気づいてやれなかった俺なんだよ!」

 あふれ感情に併せるかのように、下田先輩の両目か涙がこぼれ落ちていく。その様子を見て、下田先輩がずっとひとりで抱えこんでいたものがなんとなくわかってきた。

「あいつが、あんなに悩んで、追い込まれてるなんて知らずにさ、俺は自分の気持ちばかり主張してた。あいつを本気で親友だと思ってたし、一緒に甲子園に行く仲間と思ってた。なのに、あいつの苦しみをなにひとつわかってやれなかったんだ」

「だから、全部ひとりで背負って、野球も辞めて逃げるように東京に行くのか?」

「そうだ。今の俺には、ここにいる資格がないからな。このまま俺が背負って消えることが、山口へのせめてもの償いになると思っている。卒業式に出ないのも、みんなの記憶に卒業式にも出なかった奴として残ればいいと思っているからだ。そうすれば、みんなの目が山口に向くことはないからな」

 そっと胸ぐらを掴んでいた手を離し、下田先輩は悪かったと言わんばかりに頭を下げた。田辺先輩はというと、下田先輩に抗うこともなく黙って下田先輩の話を聞き続けていた。

「そうか。お前の気持ちはよくわかった。けど、お前も千恵美に対しては本気だったんだろ? 遊び半分で公表したわけじゃないんだろ?」

「それは、そうだけど」

「だったら、もうこれ以上無理はする必要ないだろ。お前が野球を辞めることも、東京に行くことも、お前が決めたことならとやかく言うつもりはない。けど、これだけは考えてほしい。どんな理由があったとしても、後ろ向きのまま行くことだけはやめるんだ」

「後ろ向きって、どういう意味だよ?」

「起きてしまったことはもう仕方がないということさ。いいか、それをくよくよ考えてもなにも解決はしないし、山口も戻ってくることはないんだ。それよりも、これからどうするかが重要なんじゃないか? それが残された者に与えられた使命だと思う。だから、どんな理由があってこんな真似をしているとしても、東京に行くときにはお前には前を向いていてほしいんだ」

 動揺する下田先輩に、田辺先輩が力強く言いきった。それは下田先輩をなぐさめるようであり、苦悩する下田先輩の背中をそっと押すようでもあった。

 ――やっぱり、田辺先輩だよ

 下田先輩の苦悩を聞きながら、あえて余計なことは言わなかった田辺先輩。きっと田辺先輩は、事件の真相を知るということよりも下田先輩の苦悩を受けとめてやることを選択したんだろう。

 そのうえで、田辺先輩は下田先輩に前を向くようにとエールを送った。過去に起きたことを引きずるのではなく、せめて逃げるようにだけは東京に行ってほしくないという思いを、田辺先輩は言葉に込めているみたいだった。

 そんな田辺先輩の後ろ姿を、最後の仕事なのにほとんど出番なしで終わった私は見ているだけだったけど、それでも最後に私がずっと憧れていた田辺先輩の姿が見れたからよかったと思えた。

「なあ下田」

 話が終わり、そっと屋上から立ち去ろうとした下田先輩を田辺先輩が呼び止めた。

「きっと山口も同じことを言うと思うから、代わりに言っておく」

「なんだ?」

「卒業式、出るんだぞ」

 気づくといつの間にか面倒くさいオーラに戻った田辺先輩が、頭をかきながらぽつりと呟いた。山口先輩の名前を出したのも、面倒くさそうなのも、全て田辺先輩の照れ隠しだった。

 そんな田辺先輩なりの優しさに気づいたかはわからなかったけど、最後はかすかに笑ってみせた下田先輩が背中越しに右手をあげて応えていた。