日浦君との話を終え、重い足どりで監査委員会活動室に向かうと、相変わらず田辺先輩は穴だらけのソファに寝転んでいた。もう何度もこの光景は見てきたのに、あと数日で見なくなるかと思うと、さびしさと悲しさでやりきれない気持ちをおさえられなかった。
「どうした? 最近辛そうにしてるのが多いけどなにか問題でもあったか?」
私を見るなり半身を起こした田辺先輩が、珍しく優しく問いかけてきた。私の辛い原因は田辺先輩にあると言えたらどんなにいいかと思うけど、もちろんそんなことは口に出せないからあからさまなため息で返すことにした。
「実は、監査委員会が解散になるんです」
「そうか」
もっと驚いてくれるかと思ったけど、意外にも田辺先輩は驚くどころかさも当たり前の話みたいに受けとめていた。
「驚かないんですね」
「まあ、解散の話は度々あったし、幽霊委員会と揶揄されるぐらいだから、いつかは決まるとは思ってたからな。ま、いいタイミングで除霊できてよかったんじゃないか?」
「そんな、私は絶対嫌ですよ!」
まるで他人事のように話す田辺先輩に、私の怒りに火がついていく。この場所は、田辺先輩とふたりで思い出を積み上げてきた大切な場所だ。それをあっさり除霊なんて馬鹿にした風に口にする田辺先輩に、私はなぜか急に悲しくなって両手で顔を覆い隠した。
「田辺先輩は、もう卒業するからどうだっていいんですよね?」
「どういう意味だ?」
「私は、田辺先輩みたいに頭もよくないし器用に事件を解決できません。でも、私にとっては、この場所が全てだったんです。それをあっさり奪われてしまうんです。なのに、なのに田辺先輩は――」
田辺先輩に監査委員会への思い入れがないと知った瞬間、私の中で堰を切るように負の感情がうねりを伴って溢れ出てきた。
「おい、花菜!」
気づくと部屋で飛び出していた私を田辺先輩が呼び止めてきたけど、私はふりかえることなくあてもなく廊下を走り続けた。
――やっぱり、私はただの監査委員だったんだ
急につきつけられた現実に、わかっていたこととはいえ、やっぱり悲しくて息ができないくらいに嗚咽をもらした。
そうやってどれくらい校舎内を歩き続けただろうか。気づくと日が暮れていて、すっかり人気が少なくなっていたところで、いきなり人の気配がしたと同時に声をかけられた。
「花菜ちゃん、どうしたの?」
声がした方に顔を向けると、桜木先輩が驚いた表情で私を見ていた。
「あ、いえ、なんでもないです」
「そうはいかないね。さては田辺君の仕業でしょ? まったく、こんなかわいい花菜ちゃんを泣かすなんて。よし、これから田辺君にお仕置きする作戦を一緒に考えよっか」
にっこり笑った桜木先輩が、一方的に決めつけるなり私の手を引いて屋上へと連れていった。
「やっぱ、まだまだ日が落ちると寒いね」
誰もいない屋上に出るなり、桜木先輩が猫のようにのんびりと伸びをする。その仕草がなんだかおかしくて、私は少しだけ落ち着きを取り戻して笑うことができた。
「花菜ちゃんさ、私をよく思ってないでしょ?」
「え?」
「だって、初めて会ったときも積年の恨みがあるような目をしてたし、今もすきあれば仇討ちしそうな雰囲気だしね」
片目をつぶりながら、桜木先輩がいきなり私の心のど真ん中をついてきた。当然、無防備だった私は抵抗もできずに慌ててしまい、結果的に桜木先輩の話を認めることになってしまった。
「その理由は、やっぱり田辺君だよね? だって、さっき田辺君の名前を出したときの花菜ちゃんの反応がかわいかったから」
嫌味なく笑う桜木先輩が、最後のとどめとばかりに詰め寄ってくる。もうなに言っても無駄だとさとった私は、覚悟を決めて開き直ることにした。
「田辺先輩とおつきあいされてる桜木先輩にこんなこと言うのは変ですけど、確かに田辺先輩のせいでこんな目にあってます」
「ちょっと待って、私が田辺君とつきあってる?」
「はい、噂では田辺先輩と桜木先輩が仲がよくて、本当はつきあってるって噂話を聞いたんです」
不自然に眉をひそめる桜木先輩に違和感を抱いた私は、それとなく聞いている話を口にした。もし、桜木先輩が田辺先輩と隠れてつきあっているとしたら、それなりの反応があってもいいはずなのに、桜木先輩の反応はさらに眉間に深くしわを刻むものだった。
「それって、中学時代の話が混ざってない?」
「中学時代って、どういうことですか?」
「私と田辺君は同じ中学なんだけど、三年生のときにしつこい男子につきまとわれてて困ってたの。で、その解決方法として田辺君に彼氏役をそれとなく演じてもらったことがあるんだよね」
桜木先輩によると、中学時代に田辺先輩とつきあっているように見せかけたことがあり、その名残で田辺先輩は今も桜木先輩のことを名前で呼んでいるとのことだった。
その結果、今もたまに勘ぐられることはあるものの、実際には恋人関係ということは一切ないとのことだった。
「花菜ちゃん、安心した?」
私の完全な誤解だとわかり、桜木先輩が意地悪な眼差しを私に向けてくる。桜木先輩と田辺先輩との間になにもないとわかってほっとしたのもつかの間、私は桜木先輩の意味深な笑みに捕まるはめになってしまった。
「で、誤解が解けたところで質問なんだけど、田辺君が花菜ちゃんにしたひどい仕打ちってのはなにかな?」
新しいおもちゃを見つけた子供のように目を輝かせた桜木先輩が、ぐいぐいと詰め寄ってきた。もうこうなると言い逃れはできそうになかったから、仕方なく監査委員会が解散する件を桜木先輩に伝えた。
「そっか、監査委員会なくなっちゃうんだ。でも、だからといって田辺君がなんとも思ってないとは思わないんだけどな」
「いえ、田辺先輩はなんとも思ってないですよ。監査委員会がなくなることも、除霊できてよかったって馬鹿にしてましたから」
「そうかな、でも、私も詳しくは知らないんだけど、田辺君、監査委員会が以前なくなるという話があったときに生徒会長に直談判して阻止したらしいよ」
「え? 田辺先輩がですか?」
桜木先輩の意外な話に、今度は私が桜木先輩に詰め寄る番になった。確かに田辺先輩から、以前も解散の話はあったと聞かされたけど、まさか生徒会長に直談判して阻止していたとは驚きだった。
「田辺君も、花菜ちゃんと過ごす監査委員会の活動室を守りたかったんだと思うよ。だって、本当になにも思っていないなら、とっくの昔に解散に応じてたはずだからね」
「そ、そうなんですね……」
桜木先輩の話に、驚きと嬉しさが一気にわきあがってきたせいで、うまく言葉がでなかった。そんな私を、桜木先輩が嬉しそうに肘で小突いてくるからなおさら恥ずかしくなってなにも言えなくなった。
――田辺先輩、あの部屋を守ってたんだ
ただの仮眠室みたいにしか思っていなかったと邪推していたけど、田辺先輩の本音の部分がちらりと見えた気がして体が一気に熱を帯びるのがわかった。
「でも、だったらどうして田辺先輩は今回の解散話に異を唱えなかったと思いますか?」
「それは簡単だよ。愛する彼女がひとりになるくらいなら、さっさと解散して彼女にはちゃんとした場所でがんばってほしいと思ったんだよ」
「あの、愛する彼女って、私は別に――」
「なんか、花菜ちゃんが羨ましいな。言葉にしなくても田辺君と互いに想いあってるし、なにより好きという気持ちによどみがないし。なんか、そういうのって簡単にできそうでできないんだよね」
壮大にため息をつきながら、初めて桜木先輩が表情を曇らせた。今の言葉は単に私をいじっただけに思えるけど、よく聞いたら桜木先輩の迷いが込められているようにもとらえることができた。
「桜木先輩、ひとつ聞いてもいいですか?」
桜木先輩のなにかを思案する眼差しにつられ、私は野球部のことを聞いてみることにした。
「なに?」
「桜木先輩は、下田先輩と山口先輩のことをどう思ってたんですか?」
「どうって、私が瑛人より下田君を選んだ理由を聞きたいの?」
しばらくの間のあと、なにかを覚悟するように大きく頷いた桜木先輩が、いきなり爆弾発言をあっさりと口にした。
――今の言葉、桜木先輩は下田先輩のことが好きって意味よね?
あっさりと言われたせいで理解が追いつかなかったけど、桜木先輩をめぐる三角関係はある意味決着がついていたということみたいだった。
「瑛人が私を好きだってことはわかってた。幼なじみだし、気持ちは口に出さなくてもなんとなく伝わってくるからね。でも、私は下田君と出会って気づいたらもう好きになってた。なんでって聞かれても困るけど、この気持ちにはもう嘘はつけなかったんだ」
ちょっとうつむき加減に笑う桜木先輩だったけど、その表情には明るさはなかった。きっと、いくつもの葛藤や迷いがあって、それでも自分に嘘はつけないという答えにたどり着いた感じだった。
考えてみたら、桜木先輩は男子と接するのが苦手な人だから、たぶん、私と同じように恋愛はうまいタイプではないはず。だから、幼なじみの山口先輩と一緒にいる時間が自然と長くなったはずだ。
でも、そこには恋愛関係が生まれることはなかった。山口先輩が恋心を抱いたときには、既に桜木先輩の中には下田先輩がいたから、山口先輩には勝ち目はなかったのだろう。
「でも、そうだとしたら下田先輩が気持ちを公表したときに桜木先輩も応じたらよかったのではないですか? 試合が終わるのを待たなくても両思いなわけですから、わざわざ試合が終わるのを待ったのはなぜなんですか?」
「それはね、私が迷ったからかな」
「迷った、ですか?」
「瑛人とはずっと一緒だったから、いざ下田君のことを話そうと思ってもできなくてね。瑛人はきっと傷つくはずだから、そう考えたらなにも言えなくなってね」
だから、桜木先輩は下田先輩が試合の後に告白すると聞いてそれを待つことにしたとつけ足した。
「その迷いが、こんな結果になっちゃったんだけどね」
弱く笑う桜木先輩の瞳に、山口先輩を思っての悲しい色が広がっていく。山口先輩が事故で亡くなったのはあくまで偶然だけど、タイミングとしては下田先輩と桜木先輩を引き裂くには充分だった。
「あの、こんなこと聞くのは失礼だとわかってますけど、その、桜木先輩は、あの試合で起きたことをどう思っていますか?」
本当はこんな話をするべきじゃないと思ったけど、でも、なにか桜木先輩の力になりたくて思いきって尋ねることにした。
「私にはよくわからないけど、でも、下田君や春山君が黙っている以上、起こるべくして起きたことかなとは思う。瑛人と下田君のどちらがサインを見逃したのか、あるいは、サインをわかっててあんなことをしたのかは、結局はふたりにしかわからないことなんだろうなって思ってる」
聞かれたくない質問だったはずなのに、桜木先輩は笑みを崩すことなく答えてくれた。
――桜木先輩も苦しんでるんだろうな
明るくふるまう桜木先輩に、胸が痛くなるような苦しさを感じた。恋愛が苦手な桜木先輩からは決して口に出して言えないはずだから、きっと下田先輩の言葉を今もずっと待っているはず。
でも、下田先輩は試合のあとからはずっと口を閉ざしたままだから、桜木先輩の想いが叶うことは今のところ難しいとしかいえなかった。
「桜木先輩、いろいろとありがとうございました」
これ以上の詮索はかえって桜木先輩を苦しめるとわかった私は、話を打ち切るように頭を下げて礼を伝えた。
「花菜ちゃん、もしよかったら――、って、これは言っちゃまずいか」
なにかを言いかけた桜木先輩が、変にぎこちない動きで「なんでもない」と手をふってくる。私にできることならと聞いてみたけど、結局桜木先輩は最後まで内容を口にすることはなかった。
「どうした? 最近辛そうにしてるのが多いけどなにか問題でもあったか?」
私を見るなり半身を起こした田辺先輩が、珍しく優しく問いかけてきた。私の辛い原因は田辺先輩にあると言えたらどんなにいいかと思うけど、もちろんそんなことは口に出せないからあからさまなため息で返すことにした。
「実は、監査委員会が解散になるんです」
「そうか」
もっと驚いてくれるかと思ったけど、意外にも田辺先輩は驚くどころかさも当たり前の話みたいに受けとめていた。
「驚かないんですね」
「まあ、解散の話は度々あったし、幽霊委員会と揶揄されるぐらいだから、いつかは決まるとは思ってたからな。ま、いいタイミングで除霊できてよかったんじゃないか?」
「そんな、私は絶対嫌ですよ!」
まるで他人事のように話す田辺先輩に、私の怒りに火がついていく。この場所は、田辺先輩とふたりで思い出を積み上げてきた大切な場所だ。それをあっさり除霊なんて馬鹿にした風に口にする田辺先輩に、私はなぜか急に悲しくなって両手で顔を覆い隠した。
「田辺先輩は、もう卒業するからどうだっていいんですよね?」
「どういう意味だ?」
「私は、田辺先輩みたいに頭もよくないし器用に事件を解決できません。でも、私にとっては、この場所が全てだったんです。それをあっさり奪われてしまうんです。なのに、なのに田辺先輩は――」
田辺先輩に監査委員会への思い入れがないと知った瞬間、私の中で堰を切るように負の感情がうねりを伴って溢れ出てきた。
「おい、花菜!」
気づくと部屋で飛び出していた私を田辺先輩が呼び止めてきたけど、私はふりかえることなくあてもなく廊下を走り続けた。
――やっぱり、私はただの監査委員だったんだ
急につきつけられた現実に、わかっていたこととはいえ、やっぱり悲しくて息ができないくらいに嗚咽をもらした。
そうやってどれくらい校舎内を歩き続けただろうか。気づくと日が暮れていて、すっかり人気が少なくなっていたところで、いきなり人の気配がしたと同時に声をかけられた。
「花菜ちゃん、どうしたの?」
声がした方に顔を向けると、桜木先輩が驚いた表情で私を見ていた。
「あ、いえ、なんでもないです」
「そうはいかないね。さては田辺君の仕業でしょ? まったく、こんなかわいい花菜ちゃんを泣かすなんて。よし、これから田辺君にお仕置きする作戦を一緒に考えよっか」
にっこり笑った桜木先輩が、一方的に決めつけるなり私の手を引いて屋上へと連れていった。
「やっぱ、まだまだ日が落ちると寒いね」
誰もいない屋上に出るなり、桜木先輩が猫のようにのんびりと伸びをする。その仕草がなんだかおかしくて、私は少しだけ落ち着きを取り戻して笑うことができた。
「花菜ちゃんさ、私をよく思ってないでしょ?」
「え?」
「だって、初めて会ったときも積年の恨みがあるような目をしてたし、今もすきあれば仇討ちしそうな雰囲気だしね」
片目をつぶりながら、桜木先輩がいきなり私の心のど真ん中をついてきた。当然、無防備だった私は抵抗もできずに慌ててしまい、結果的に桜木先輩の話を認めることになってしまった。
「その理由は、やっぱり田辺君だよね? だって、さっき田辺君の名前を出したときの花菜ちゃんの反応がかわいかったから」
嫌味なく笑う桜木先輩が、最後のとどめとばかりに詰め寄ってくる。もうなに言っても無駄だとさとった私は、覚悟を決めて開き直ることにした。
「田辺先輩とおつきあいされてる桜木先輩にこんなこと言うのは変ですけど、確かに田辺先輩のせいでこんな目にあってます」
「ちょっと待って、私が田辺君とつきあってる?」
「はい、噂では田辺先輩と桜木先輩が仲がよくて、本当はつきあってるって噂話を聞いたんです」
不自然に眉をひそめる桜木先輩に違和感を抱いた私は、それとなく聞いている話を口にした。もし、桜木先輩が田辺先輩と隠れてつきあっているとしたら、それなりの反応があってもいいはずなのに、桜木先輩の反応はさらに眉間に深くしわを刻むものだった。
「それって、中学時代の話が混ざってない?」
「中学時代って、どういうことですか?」
「私と田辺君は同じ中学なんだけど、三年生のときにしつこい男子につきまとわれてて困ってたの。で、その解決方法として田辺君に彼氏役をそれとなく演じてもらったことがあるんだよね」
桜木先輩によると、中学時代に田辺先輩とつきあっているように見せかけたことがあり、その名残で田辺先輩は今も桜木先輩のことを名前で呼んでいるとのことだった。
その結果、今もたまに勘ぐられることはあるものの、実際には恋人関係ということは一切ないとのことだった。
「花菜ちゃん、安心した?」
私の完全な誤解だとわかり、桜木先輩が意地悪な眼差しを私に向けてくる。桜木先輩と田辺先輩との間になにもないとわかってほっとしたのもつかの間、私は桜木先輩の意味深な笑みに捕まるはめになってしまった。
「で、誤解が解けたところで質問なんだけど、田辺君が花菜ちゃんにしたひどい仕打ちってのはなにかな?」
新しいおもちゃを見つけた子供のように目を輝かせた桜木先輩が、ぐいぐいと詰め寄ってきた。もうこうなると言い逃れはできそうになかったから、仕方なく監査委員会が解散する件を桜木先輩に伝えた。
「そっか、監査委員会なくなっちゃうんだ。でも、だからといって田辺君がなんとも思ってないとは思わないんだけどな」
「いえ、田辺先輩はなんとも思ってないですよ。監査委員会がなくなることも、除霊できてよかったって馬鹿にしてましたから」
「そうかな、でも、私も詳しくは知らないんだけど、田辺君、監査委員会が以前なくなるという話があったときに生徒会長に直談判して阻止したらしいよ」
「え? 田辺先輩がですか?」
桜木先輩の意外な話に、今度は私が桜木先輩に詰め寄る番になった。確かに田辺先輩から、以前も解散の話はあったと聞かされたけど、まさか生徒会長に直談判して阻止していたとは驚きだった。
「田辺君も、花菜ちゃんと過ごす監査委員会の活動室を守りたかったんだと思うよ。だって、本当になにも思っていないなら、とっくの昔に解散に応じてたはずだからね」
「そ、そうなんですね……」
桜木先輩の話に、驚きと嬉しさが一気にわきあがってきたせいで、うまく言葉がでなかった。そんな私を、桜木先輩が嬉しそうに肘で小突いてくるからなおさら恥ずかしくなってなにも言えなくなった。
――田辺先輩、あの部屋を守ってたんだ
ただの仮眠室みたいにしか思っていなかったと邪推していたけど、田辺先輩の本音の部分がちらりと見えた気がして体が一気に熱を帯びるのがわかった。
「でも、だったらどうして田辺先輩は今回の解散話に異を唱えなかったと思いますか?」
「それは簡単だよ。愛する彼女がひとりになるくらいなら、さっさと解散して彼女にはちゃんとした場所でがんばってほしいと思ったんだよ」
「あの、愛する彼女って、私は別に――」
「なんか、花菜ちゃんが羨ましいな。言葉にしなくても田辺君と互いに想いあってるし、なにより好きという気持ちによどみがないし。なんか、そういうのって簡単にできそうでできないんだよね」
壮大にため息をつきながら、初めて桜木先輩が表情を曇らせた。今の言葉は単に私をいじっただけに思えるけど、よく聞いたら桜木先輩の迷いが込められているようにもとらえることができた。
「桜木先輩、ひとつ聞いてもいいですか?」
桜木先輩のなにかを思案する眼差しにつられ、私は野球部のことを聞いてみることにした。
「なに?」
「桜木先輩は、下田先輩と山口先輩のことをどう思ってたんですか?」
「どうって、私が瑛人より下田君を選んだ理由を聞きたいの?」
しばらくの間のあと、なにかを覚悟するように大きく頷いた桜木先輩が、いきなり爆弾発言をあっさりと口にした。
――今の言葉、桜木先輩は下田先輩のことが好きって意味よね?
あっさりと言われたせいで理解が追いつかなかったけど、桜木先輩をめぐる三角関係はある意味決着がついていたということみたいだった。
「瑛人が私を好きだってことはわかってた。幼なじみだし、気持ちは口に出さなくてもなんとなく伝わってくるからね。でも、私は下田君と出会って気づいたらもう好きになってた。なんでって聞かれても困るけど、この気持ちにはもう嘘はつけなかったんだ」
ちょっとうつむき加減に笑う桜木先輩だったけど、その表情には明るさはなかった。きっと、いくつもの葛藤や迷いがあって、それでも自分に嘘はつけないという答えにたどり着いた感じだった。
考えてみたら、桜木先輩は男子と接するのが苦手な人だから、たぶん、私と同じように恋愛はうまいタイプではないはず。だから、幼なじみの山口先輩と一緒にいる時間が自然と長くなったはずだ。
でも、そこには恋愛関係が生まれることはなかった。山口先輩が恋心を抱いたときには、既に桜木先輩の中には下田先輩がいたから、山口先輩には勝ち目はなかったのだろう。
「でも、そうだとしたら下田先輩が気持ちを公表したときに桜木先輩も応じたらよかったのではないですか? 試合が終わるのを待たなくても両思いなわけですから、わざわざ試合が終わるのを待ったのはなぜなんですか?」
「それはね、私が迷ったからかな」
「迷った、ですか?」
「瑛人とはずっと一緒だったから、いざ下田君のことを話そうと思ってもできなくてね。瑛人はきっと傷つくはずだから、そう考えたらなにも言えなくなってね」
だから、桜木先輩は下田先輩が試合の後に告白すると聞いてそれを待つことにしたとつけ足した。
「その迷いが、こんな結果になっちゃったんだけどね」
弱く笑う桜木先輩の瞳に、山口先輩を思っての悲しい色が広がっていく。山口先輩が事故で亡くなったのはあくまで偶然だけど、タイミングとしては下田先輩と桜木先輩を引き裂くには充分だった。
「あの、こんなこと聞くのは失礼だとわかってますけど、その、桜木先輩は、あの試合で起きたことをどう思っていますか?」
本当はこんな話をするべきじゃないと思ったけど、でも、なにか桜木先輩の力になりたくて思いきって尋ねることにした。
「私にはよくわからないけど、でも、下田君や春山君が黙っている以上、起こるべくして起きたことかなとは思う。瑛人と下田君のどちらがサインを見逃したのか、あるいは、サインをわかっててあんなことをしたのかは、結局はふたりにしかわからないことなんだろうなって思ってる」
聞かれたくない質問だったはずなのに、桜木先輩は笑みを崩すことなく答えてくれた。
――桜木先輩も苦しんでるんだろうな
明るくふるまう桜木先輩に、胸が痛くなるような苦しさを感じた。恋愛が苦手な桜木先輩からは決して口に出して言えないはずだから、きっと下田先輩の言葉を今もずっと待っているはず。
でも、下田先輩は試合のあとからはずっと口を閉ざしたままだから、桜木先輩の想いが叶うことは今のところ難しいとしかいえなかった。
「桜木先輩、いろいろとありがとうございました」
これ以上の詮索はかえって桜木先輩を苦しめるとわかった私は、話を打ち切るように頭を下げて礼を伝えた。
「花菜ちゃん、もしよかったら――、って、これは言っちゃまずいか」
なにかを言いかけた桜木先輩が、変にぎこちない動きで「なんでもない」と手をふってくる。私にできることならと聞いてみたけど、結局桜木先輩は最後まで内容を口にすることはなかった。