翌日、監査委員会活動室で調査内容をまとめていると、予期せぬお客さんがカラカラと音を立ててやってきた。

「ごめん、邪魔しちゃったかな?」

 パソコンの前で渋い顔をしていたせいか、急に現れた春山が申し訳なさそうに謝ってきた。

「いえ、大丈夫です。それより、どうしたんですか?」

 突然の訪問に慌て画面を消しながら、春山先輩へ体を向ける。春山先輩は顔こそ笑っているけど、どこかさえない空気を漂わせていた。

「下田君から聞いたけど、野球部の禍根を調べているんだって?」

「いや、それは――」

「大丈夫、隠さなくてもいいから。下田君からある程度事情は聞いてるし、それに、倉本さんが調べているなら力になれないかなとも思ってるんだ」

 いきなりの質問に動揺する私をさとすように、春山先輩が笑顔で来訪の理由を教えてくれた。

「そうなんですね。だったら、いくつか聞いてもいいですか?」

「大丈夫だよ。ただし、サインの中身は教えることはできないけどね」

 ではさっそくと切り出そうとした私を、狙いすましたように春山先輩が釘を刺してきた。話としては、サインの中身がわかれば下田先輩の話が本当かどうかわかるだけに、いきなり出鼻をくじかれて私は不自然に咳払いするしかなかった。

「それでは、改めて聞きますけど、下田先輩と山口先輩は仲が良かったんですよね?」

「もちろん。野球部のみんなは仲間意識が強かったけど、なかでもふたりはライバルであることをさしおいて親友として仲が良かったよ」

「そうなんですね。では、春山先輩は噂のことをどう思っていますか? あの事件は、下田先輩と山口先輩のどちらかが相手を陥れようとしてやったと言われています。ただ、今では山口先輩がいないせいで下田先輩が悪者として叩かれていますけど、そうした状況を春山先輩はどう思っていますか?」

 サインの中身を聞けない以上、私は狙いを切り替えて春山先輩の内心を探ってみることにした。本当なら、春山先輩がサインの中身を公表して騒ぎを収めてもいいはずなのに、それをせずに沈黙していることが気になっていた。

「噂については、正直なんとも言えないかな。ただ、下田君が叩かれているのは間違ってると思ってるよ」

「でしたら、騒ぎを収めるために真相を明かそうとは考えなかったのでしょうか? サインの中身を明かしてあのときになにがあったのかを春山先輩が証明すれば、少なくとも今のような騒ぎにはなっていないと思います。それとも、なにか明かすことのできない事情でもあるのでしょうか?」

「なかなか答えにくいことを聞いてくるあたり、さすが田辺君と一緒に仕事していただけのことはあるね。倉本さんの言うことはもっともだし、それでも明かすことはできない事情があるのも否定できないかな」

 感心したように目を細めた春山先輩が、私の意見を否定することなく質問にも大方の部分で答えてくれた。

 ――やっぱり、なにか事情があるんだ

 春山先輩が認めたことで、より事件は複雑化したような気がした。今の春山先輩の答えだと、なにか事情があるがゆえに下田先輩も春山先輩も真実を明かすことができないでいるみたいだった。

「わかりました。それでは、次の質問ですけど、桜木先輩は今回のことをどう思ってるんでしょうか?」

 事情についても話す気はなさそうだと感じた私は、触れるのが怖い気持ちを押し込めて桜木先輩のことを聞いてみることにした。

「桜木さんも、今回のことでショックを受けてると思う。幼なじみの山口君が亡くなったことは辛かったはずだし、なにより――」

 そう言いかけたところで、タイミングがいいのか悪いのか、本を手にした田辺先輩が部屋に入ってきた。と同時に、明らかに田辺先輩を意識した春山先輩は、言いかけた言葉を一瞬で飲みこんでしまった。

 ――今、春山先輩は田辺先輩のことを話そうとした?

 春山先輩の変化があまりにもわかりやすすぎて、私の不安は一気に高まっていった。話している内容は特別なことではないし、引退したとはいえ田辺先輩は監査委員会の長だった人だから、隠す内容でもなかったはず。それなのに歯切れ悪く話を打ち切ったということは、やっぱり桜木先輩と田辺先輩の間にはなにかあるということだった。

「とりあえず、さっきも言ったとおり僕が協力できることは協力するから」

 ぎこちない口調で話をむりやり終わらせると、明らかな作り笑いを田辺先輩に向けた春山先輩が、逃げるように監査委員会活動室から出ていった。

「なんだ? 来たらまずかったのか?」

 出ていった春山先輩を不審そうに見ていた田辺先輩が、困惑ぎみに尋ねてくる。来るのはまずくないけど、タイミングとしてはまずかっただけに、私も不機嫌さを隠すことなくぶっきらぼうに問題ないと答えた。

「それで、調査はどうなってる?」

 私の不機嫌さに目を細めた田辺先輩が、珍しく調査状況を聞いてきた。引退したあとは、ほとんど活動に興味を抱かなかったくせに、今回に関してはやけに気になる素振りを田辺先輩は度々みせていた。

「特に目立った報告はないですけど、やっぱり調査依頼の目的は野球部の禍根に関係しそうだということはわかりました」

 とりあえずこれまでの調査結果を報告し、田辺先輩の反応を伺ってみる。田辺先輩は相変わらず黙って聞いていたけど、下田先輩とのやりとりについては、あからさまに眉間にシワを寄せていた。

「それでですね、私、思ったんです。下田先輩も春山先輩もなにか隠しているんじゃなかって」

 なにかを思案するかのように目を細めた田辺先輩に、ここぞとばかりに気になることを聞くことにした。

「隠しているって、なにを隠しているんだ?」

「はっきりとはわかりません。でも、下田先輩も春山先輩も、ただ単に黙っているだけには思えませんでした」

 感じた違和感をどう説明していいかわからなかったけど、なんとか身ぶり手ぶりで腑におちないことを伝えた。

「隠している、か……」

 頬杖をついたままぽつりと呟いた田辺先輩が、さらに視線を鋭くしてなにもない宙をにらみ始める。その眼差しに息が止まりそうなくらいに心臓が高鳴りだしたけど、同時に桜木先輩の姿が脳裏にチラついて身を切るような悲しさがなぜか胸の奥から一気に溢れてきた。

「もし、下田がなにかを隠しているとしたら、それは相当な内容かもしれないな。あいつは、叩かれても黙って受け入れてるし、野球を辞めて東京に行くという決断までしている。まるで、なにもかも捨てて黙って逃げるような感じだな」

「私もそう思います。下田先輩からは、全てを自分で背負うような雰囲気が感じられます。だからかはわかりませんけど、春山先輩も黙っているような感じがするんです」

「そうなると、調査依頼はまた別の意味が出てくるかもしれない」

 考えがまとまったのか、田辺先輩は鋭い視線を解いていつもの眼差しを私に向けてきた。

「調査依頼の目的は、野球部の禍根に監査委員会の目を向けることにあると思っていたけど、本当は別のところにありそうだな」

「別のところですか?」

「誰が依頼したかはわからないけど、ひょっとしたら調査依頼の真の目的は下田を救ってほしいということになるかもしれない」

 田辺先輩が出した答えに、私はなにかが頭の中で形になりかけたのを感じた。けど、それは一瞬のことで、見えかけたなにかは霧が晴れるように消えていってしまった。

「下田の言動からして、相当な覚悟があったのは間違いないだろう。だとすれば、当然、そこには下田の苦悩があるはずだ。それを知った誰かが下田を救ってほしいと考えたとしたら、監査委員会に助けを求めたとして不思議ではないかもな」

「でも、そうだとしましたら、なぜこんな回りくどいことをしたんでしょうか? 匿名の調査依頼は受理されづらいことは規則でみんなわかっていますし、それに、なぜ下田先輩を救ってほしいとストレートに書かなかったんでしょうか?」

「それはまだわからない。ただ、色んな事情があったとは思う。そう考えたら、依頼したやつもまた、下田と同じように悩みながらも苦肉の策で依頼にふみきったのかもしれないな」

 田辺先輩が慎重に言葉を選びながら、調査依頼の背景を説明していく。今はまだ情報が少なくてわからないけど、それでも田辺先輩の言うとおり、調査依頼した人も下田先輩と同じくらい悩んだ末に依頼してきたのはなんとなく理解できた。

「私、もう少し慎重に調べてみます。もしこの調査依頼がsosだとしたら、下田先輩をこのまま卒業させてはいけない気がしてきました」

「そうだな、調査依頼については深読みの可能性があるかもしれない。けど、下田をこのままにしておくのはまずいというのは確かだ」

 私の新たな決意表明に、田辺先輩が頷きながら同意の言葉を向けてくる。私にどこまでやれるかはわかならないけど、せめて下田先輩には少しでも穏やかな気持ちで晴れ舞台に出てほしいと思った。