週が明け、今週の金曜日に行われる卒業式への準備が慌ただしくなる中、体育館でひとり黙々と下準備をしている下田先輩と会うことができた。

 バスケ部とバレー部のかけ声が響き渡る中、バインダーを手に作業している下田先輩にそっと近づいて声をかける。できれば積極的に話したくはなかったけど、調査依頼に野球部の禍根がからんでいる以上、下田先輩を避けることはできなかった。

「そうか、君が例の倉本さんか」

 軽く自己紹介すると、下田先輩は無表情をわずかに崩して私の顔を覗き込んできた。

「例のっていうのはどういう意味ですか?」

「あ、いや、悪い意味じゃないから気にしないでほしい。あの偏屈田辺と一緒にいられる希少種だって聞いてたから」

「ちょっと、今のは聞き捨てなりませんけど」

 いきなりのいじりに怒りを含ませて返すと、予想外に下田先輩は人懐っこい笑顔を浮かべて悪かったと頭を下げてきた。

「本当に悪い意味じゃなから許してほしい。ところで、俺になにか用? この前も実行委員会に顔をだしてたよね?」

 とりあえず思ってたより悪い人ではないとわかってきたところで、下田先輩が改めて私の訪問理由を尋ねてきた。

「いえ、特に用ってわけではないんですけど」

「監査委員なのに、用もなく他の委員会に顔を出すなんてありえないよね? 本当は聞きたいことがあって俺のところにきたんでしょ?」

 どう質問していくか考えだした矢先に、先手をうつかのように下田先輩がたたみかけてきた。こうなるとさすがにごまかしていくことは難しいから、仕方なく私は調査依頼のことを下田先輩に説明した。

「なるほどね。それで実行委員会に顔を出したってわけか。でも、実行委員会が真面目にやっているかどうかは、この前の調査でわかったと思うんだけど、それでも俺に用があるということは、倉本さんの本当の狙いは別にあるわけだ?」

「下田先輩には隠し事できないみたいですね。実は、下田先輩の言うとおり狙いは別にあって今日来ました」

「だろうね。というより、その調査依頼も狙いは野球部のことにあると思う。あんなことになってうやむやに終わったままだから、誰かが監査委員会を動かして探りを入れようと考えたとしても不思議ではないからね」

 まるで全てを見透かすように、下田先輩があっさりと核心をついてくる。考えてみたら、下田先輩は渦中の中心にいるわけだから、監査委員の私が来た時点でなにか察したのかもしれなかった。

「そこまでわかっているなら、私も正直に伺います。準決勝で起きたこと、下田先輩はどう考えていますか?」

 下田先輩に下手な小細工は不要と考えた私は、迷うことなく核心部分を尋ねることにした。

「倉本さんは、どう考えてる?」

 しばらくの間ができたあとに、再び無表情となった下田先輩が逆に問い返してきた。

「私は――」

 問い返されることを予想していなかった私は、探るような眼差しを向けてくる下田先輩を前にして言葉に詰まってしまった。正直なところ、どちらが暴走したのかはわからない。山口先輩にも下田先輩にも動機がある以上、どっちの仕業と決めるのは難しかった。

「そんなに真剣に考えなくてもいいんだよ。あのとき、ミスを犯したのは俺の方だからね」

「ということは――」

「サインがなんだったかは、俺にもわからない。なぜなら、あのとき俺は桜木を見てたからサインには気づかなかったんだ」

 かすかに引きつった笑みを口もとに浮かべて、下田先輩はとんでもないことを口にした。

「ただ、サインはスクイズだったと思う。春山はなにも言わないからわからないけど、山口は試合中によそ見するような馬鹿じゃないから」

 そっと視線を外した下田先輩が、頬をふるわせながらぽつりとこぼす。言葉の端からは、下田先輩の後悔が滲み出ているのが伝わってきた。

「今の話は、誰かにしていないんですか?」

「自分の恥を、あえて話したいと思う? 倉本さんに話したのは、田辺の後輩ということもあるし、監査委員会の守秘義務を信じたからだよ」

 口止めとはいかなくても、暗に口外しないでほしいと言わんばかりに、下田先輩が「そうだよね?」と念を押してきた。

「でも、それだと、下田先輩はずっと叩かれたままになるんじゃないんですか?」

「それは、どういう意味かな?」

「野球部の禍根は、下田先輩か山口先輩がわざと試合のチャンスを潰したということになっています。そして、山口先輩がいないこともあって下田先輩が意図的に山口先輩を陥れたと陰口が広がっています。ですから、誤解を解くという意味でも、真実を話したほうがいいような気がしたんです」

 私の胸の奥を見透かすような眼差しを向けてくる下田先輩に気圧されながらも、なんとか思ったことを口にした。

 下田先輩の言葉が本当なら、そもそも禍根があるといえるか怪しかった。単に試合中にサインを見落としただけだとしたら、ここまで叩かれることもないはず。なのに、あえて沈黙を貫き、桜木先輩に告白することもなく野球さえも捨てて東京に行くという考え方に、私はどうしても納得いかない部分があった。

「倉本さんの気持ちはわかるよ。全てを話せば少しは誤解はも解けるかもしれない。でも、これは終わったことなんだ。今さら、あれやこれやと言ったところで山口も浮かばれないだろう」

「けど、だからといって野球を辞めるのはおかしいと思います。下田先輩は、ずっと野球部だったんですよね? なのに、こんなことで辞めるなんて信じられないです。それに、桜木先輩のことも――」

「もういい、もういいんだよ、倉本さん。全ては、本当に終わったことなんだから」

 つい熱くなってたたみかけた私を、下田先輩が笑みを浮かべて制止してきた。

「これは、俺なりのケジメなんだ。誰よりも熱く甲子園への道を一緒に目指した山口への、俺なりのケジメなんだから」

 そう呟いた下田先輩が、もう話は終わりとばかりに手にしていたバインダーを広げて私から視線を外した。

 ――本当にそう思ってるのかな?

 半ば強制的に終わった会話に消化不良を感じたけど、私はすぐに諦めて引き下がることにした。

 ――今、泣いてたよね?

 調査に応じてもらったことに頭を下げながら、下田先輩の様子を伺う。まるで顔を隠すようにバインダーを持っているせいではっきりとは見えなかったけど、一瞬見えた右目からは確かに涙がこぼれていたことは間違いなかった。