翌日、生徒会室に顔を出した私は、新たな生徒会長となった日浦君に調査開始の届けを提出した。

「気にはなる内容だね。けど、匿名の依頼だけど大丈夫?」

 報告書に目を通した日浦君が、開口一番に匿名の部分を強調してきた。日浦君は前の生徒会長と違ってアグレッシブなタイプの人で、着任以来、次々と制度改革に取り組んでいる。そのため、ガセの多い匿名情報に時間を割くべきではないと暗に伝えてきた。

「匿名だけど、万が一なにかあったらいけないし、やっぱり卒業式はちゃんとやってほしいから、念のために調査したいって思ったの」

 まさか桜木先輩と田辺先輩の関係を知りたいからとは言えるわけないから、私は気持ち半分の理由を説明した。

 もちろん、無事に卒業式が行われることを望んでいるのは間違いない。田辺先輩の晴れ舞台だし、できればそのときには監査委員としてではなく彼女という立場になっていることを願ってもいる。

「そっか、そういうことなら仕方ないね。でも、よりにもよって元野球部のメンバーを調査することになるとは、倉本さんも大変だね」

「その言い方だと、日浦君は野球部のことをなにか知ってるの?」

「僕の友達に野球部の人がいるから、そのあたりの話はある程度は聞いているよ」

「だったら、その情報話してくれる?」

 願ってもない情報を知るチャンスに鼻息荒く日浦君に詰め寄ると、日浦君はまあまあと言いながら野球部の禍根について語りだした。

 禍根の原因が三角関係にあることは、田辺先輩に聞いたとおりだった。ただ、詳しい内情としてわかったのは、桜木先輩と山口先輩の関係は幼なじみであり、そこに割って入ってきたのが下田先輩ということだった。

「下田先輩は、野球部を引退する時点で正式に桜木先輩に告白することを公言していた。そのことが、山口先輩にとってはちょっとした焦りにもなってたみたいなんだ。桜木先輩も、はっきりとした態度を示していなかったようだから、余計に下田先輩と山口先輩との間にはライバル心が芽生えていたらしいんだ」

「なるほどね。山口先輩にとっては、あとからきた下田先輩に桜木先輩をとられるかもって考えたってわけなんだ?」

「そのとおりなんだけど、ちょっと意味あいが違う部分があるかな。山口先輩と下田先輩は、中学からの親友同士だから、下田先輩としては奪うというニュアンスではなく、正々堂々と勝負しようとしたらしい。だから、ちゃんと公言していたし、山口先輩もそれを認めていたそうなんだ」

 日浦君の話だと、下田先輩と山口先輩の間には桜木先輩をめぐっての目立った確執はなかったらしい。ただ、それが本当かどうか怪しくなったのが、例の準決勝での出来事だという。

「あの九回裏の事件、実は山口先輩か下田先輩のどちらかが意図的にやったんじゃないかって、野球部の中で噂されてるみたいなんだ」

「え? どういうこと?」

「問題の場面は、九回裏の同点に追いつく大チャンスだった。けど、もしこのチャンスを潰して相手の失態にできるとしたらどう思う?」

 どこか意味を含んだ日浦君の言葉に、少しだけ背中が寒くなるのを感じた。いくら恋のライバル同士とはいっても、大事な試合の場面で相手を陥れるようなことを考えるとは思えなかった。

「監督代行の春山先輩は、ベンチの空気を相手にさとられないようにするため、サインはベンチのメンバーにもわからないように送っていたらしい。そして、これまで決して送ったサインの内容は明かすことはなかった。サインの見間違いや勘違いによって選手が叩かれるのを避けるためらしいけど、それを逆手に取った可能性があるってことらしいんだ」

「ということは、送られたサインが明らかにならないことをいいことに、勝手なことをしたってことなの?」

「おそらくは、なんだけどね。山口先輩にしてみれば、スクイズのサインだったと主張すれば、バントのかまえすらしなかった下田先輩を陥れることができる。逆に、下田先輩にしてみれば、スクイズのサインではなかったと主張すれば、山口先輩が勝手な走塁をしたとして非難することができることになるんだ」

 日浦君の説明を聞きながら、だんだんと気分が虚しくてなっていくのを感じた。甲子園を目指して互いに日々努力してきた者同士が、ここ一番の大事な場面で相手を陥れることを考えていたとしたら、なんだか怒りというよりは悲しい気持ちのほうが強くなっていった。

「そんなことあるわけないとも思えるけど、監査委員をしてきた倉本さんなら、そんなことがあってもおかしくはないことはわかるよね?」

 日浦君の問いに、私はわずかに首を縦にふるしかなかった。これまでいくつかの事件を調査してきたけど、普通ならありえないことを考えて行動する人がいることは珍しくはなかった。

 そして、その理由の大半に恋愛模様を含んだ複雑な事情があった。人が人を好きになったとき、そこには常識やルールだけでは計り知れない複雑な人間模様があることを、私はこれまで幾度となく見てきた。

 そう考えたら、下田先輩も山口先輩も、土壇場で暴走していたとしてもおかしくはない話になる。山口先輩にしてみれば、大会後に下田先輩が桜木先輩に交際を申し込むことを知ってたわけだから、その足をひっぱりたいと思っても不思議ではないはず。

 逆に、下田先輩の立場にしてみたら、幼なじみとしても特段に仲がいい山口先輩のことを、告白前に陥れたいと考えても不思議ではないのかもしれなかった。

「なんだか、ちょっと複雑な気分になる話だよね」

「そうだね。確かに聞いていて楽しくなる話ではないかな。でも、これはあくまでも噂だから、本当のことはふたりにしかわからないと思うよ」

 日浦君のいうとおり、そのときになにがあったのかは山口先輩と下田先輩にしかわからないだろう。ただ、下田先輩は桜木先輩に告白していないし、さらには野球を辞める決断もしている。その点を考えたら、下田先輩になにかあったことは間違いないのかもしれなかった。

「ただ、ひとつ気になることは、あの試合以降、下田先輩はみんなから叩かれ続けていることかな」

「叩かれてる?」

「まあ後味悪い結果だったし、その直後に山口先輩は亡くなっているしね。あらぬ憶測が下田先輩に向いても仕方ないのかもしれない。風紀委員会が間に入ってはいるんだけど、下田先輩が一切被害を訴えない以上、風紀委員会もどうすることもできないでいるみたいなんだ」

「そうなんだ……」

 改めて明らかになった事実に、私は胸が痛くなって言葉が続かなくなった。真相はわからないのに下田先輩を叩くのはどうかと思うけど、逆に言えば真相を明かさない春山先輩やだんまりを決めている桜木先輩のことも気になってきた。

 ――この調査依頼、やっぱり裏がありそうな気がしてきた

 淡白な文書だけで構成された調査依頼。

 このとき私には、この調査依頼は実行委員会のことではなく野球部の禍根の方に導いているような気がしてならなかった。