いつもより遠くに感じる監査委員会活動室に重い足どりで向かうと、今日もいつものように田辺先輩がソファーに寝転んで本を読んでいた。

 田辺先輩はちょっと前まではいつも寝ていたのに、年末あたりからは寝ることなく本を読むことが多くなり、引退したあとは毎日のようにここに来て小説を読んでいた。私にはその変化の理由がわからなかったけど、その些細な変化すらも桜木先輩が関係しているように思えてきて無性に腹が立ってきた。

「田辺先輩、仕事の邪魔ですから本を読むなら図書室に行ってください」

 のんきに寝転んでいる田辺先輩に、苛立ちを含めた声を浴びせる。もちろん、本心は田辺先輩がいてくれることは嬉しかった。監査委員長の役目が終わっても、こうして来てくれてることは喜び以外になかったけど、今はなぜか田辺先輩がいることに苛立ちを感じずにいられなかった。

「どうした? なにかあったのか?」

 私の態度になにか感じ取ったのか、田辺先輩が本を閉じて身を起こしてきた。もちろん、つきあっている人がいるんですねなんて言えるはずもなく、私は黙ってパソコンの前に座るだけだった。

「あの、田辺先輩に聞きたいんですけど、今度誘ってくれた内容の中身はなんですか?」

 パソコンのモニターに映る田辺先輩の姿に胸が痛くなった私は、ひょっとしたらという一縷の望みをかけて聞いてみた。

「ああ、まだ詳しくは言えないけど、まあそうだな、ちょっと紹介したい人がいるんだ」

 面倒くさそうに頭をかくあたり、田辺先輩はなにも考えずに言ったのかもしれないけど、私の鼓動は爆発したかのように激しく乱れていった。

 ――紹介したい人って、まさか……

 田辺先輩の言葉から桜木先輩の名前が嫌でも浮かんできたことで、マウスを持つ手が震えだした。わざわざ日にちを指定することから、田辺先輩が紹介したいという人は特別だとわかる。だとすれば、その人が桜木先輩である可能性は極めて高かった。

「そ、そうなんですね。でも、私は誰かはわかりませんけど、紹介されてもなにもできないと思いますけど」

「それでもいいんだ。ただ、花菜にはちゃんと知っておいてほしい人だから」

 ちょっと意地悪く返したのに、田辺先輩は気にすることなく真っ直ぐに私を見つめてきた。おかげで、田辺先輩が軽い気持ちで誘ったわけではなく、真剣に考えた上で誘ったことがはっきり伝わってきた。

 ――知っておいてほしいって言われても……

 チクチクと痛みだした胸を掴みながら、わきあがってくる虚しさを押し殺していく。勝手な想像だけど、田辺先輩は桜木先輩を紹介することで私との関係を切ろうとしているようにも感じられた。

「それより、暗い顔しているけどなにがあったんだ?」

 話は終わりとばかりに、田辺先輩が話題を元に戻してきた。田辺先輩が好きで困ってるとはいえず、だからといってうまいいいわけが思い浮かぶ状態でもなかったから、渋々今引き受けるか悩んでいる依頼のことをごまかしに使った。

「卒業式の実行委員会か……」

 依頼内容を説明し終えると、田辺先輩は急に真顔になって顎に手をあてて小さく呟いた。

「委員長の千恵美に、副委員長の下田流星と春山一稀。この三人は元野球部とマネージャーの関係だけど、やっぱりなにかあったというわけか」

 私のことを置き去りにして、田辺先輩がひとりで勝手に納得し始める。桜木先輩を名前で呼び捨てにしたことにショックを受けたけど、とりあえず我慢して三人の関係を詳しく聞いてみることにした。

「うちの野球部は、全国大会常連の名門というのは知っているよな?」

「はい、全国でも上位に入ることも珍しくない強豪だと聞いてます。昨年は惜しくも地区大会で敗退しましたけど、チームとしては過去最高の強さだったそうですよね?」

「そうだな、甲子園確実と言われていたけど、まさかの地区大会敗退だった。ただ、その背景には色々とあって野球部だった連中の中には、今もわだかまりが残っているのも事実だ」

 わずかに目を細めた田辺先輩が、思わせぶりな言葉を発した。田辺先輩いわく、特に禍根の残るメンバーの中の二人が副委員長として参加しているわけだから、実行委員会の空気がただならないことは簡単に予想がつくということらしい。

「なるほどですね。それで、野球部に残る禍根というのはなんですか?」

「副委員長の下田は、同じ野球部だった山口瑛人と千恵美をめぐって三角関係にあった」

「え?」

 田辺先輩の予想外すぎる言葉に、驚いてまのぬけた声をもらした。どんな禍根だったかと思いきや、まさかの恋愛関係のもつれだった。

 とはいえ、そのもつれが原因で野球部は地区大会敗退という結果に終わった。田辺先輩によれば、渦中の下田先輩と山口先輩は恋敵であると同時に自他ともに認める親友同士だったらしい。

 そんな二人が起こしたトラブル。それは、準決勝の九回裏で起きたという。一点差で負けていたところに、ノーアウト三塁という同点のチャンスが訪れたときに、悲劇が起きたとのことだった。

「三塁ランナーだったのが山口で、バッターは下田だった。一打同点のチャンスにみんながわきあがっていたけど、結果はスクイズ失敗に終わった」

 田辺先輩の説明によると、その悲劇が起きたのは三球目のときだった。投球と同時にスタートした山口先輩に対し、あろうことか下田先輩はスクイズをするどころかバントのかまえもしなかったという。

 当然ながら、相手チームがミスを見逃すはずもなく、あっさりとタッチアウトをとられ、さらには動揺した下田先輩は三振に終わり、次のバッターも凡打に終わったことで野球部の夏は幕を下ろす結果となっていた。

「なぜ下田がスクイズしなかったのか。単なるサインの見逃しなのか、あるいは山口の方がサインを間違えただけなのか。いずれにせよ、サインを送った春山も口を閉ざしているから、真相は今もわかっていない」

「そうなんですね。でも、今の話には山口先輩がからんでいませんけど、山口先輩もなにも言っていないんですか?」

「山口も、この件に関してはなにも言っていなかったようだな。ただ、山口に関しては大会の直後に事故で亡くなっているから、山口がどうだったかはもう誰も知ることはできないのが現状だ」

「そんなことがあったんですね……」

 ほとんど知らなかった事実を聞かされ、私は小さくため息をついた。これから調査しようとする相手は、複雑な事情を抱いたメンバーだ。話を聞く限り、残った禍根も小さくはないはずだし、なによりここにきて調査依頼が匿名ということが大きくのしかかってきた。

 ――ひょっとしたら、色んな禍根がからんでるかもしれないな

 姿なき密告者の声に、もう一度目を通してみる。

 でも、淡白な文書からは今はなにひとつ思惑は読み取れなかった。