生徒会長選挙は、当選した鈴原が辞退する形でやり直しになった。一部スキャンダルが原因かと噂になったけど、鈴原が再度入院したことで、噂は自然消滅の道を辿った。

 土曜日の補習授業が終わった後、市内の外れにある総合病院を訪れた。バスに揺られながら着くと、先に来ていた花菜が自転車を引きながら手をふって迎えてくれた。

「面会はオッケーみたいです」

 花菜が少しだけはにかんで、俺の隣に並んだ。これから病院に行くというのに、場違いな明るさがおかしかった。

 鈴原は、倒れてから二日間眠っていた。無理して退院したことよりも、精神的なことが原因らしい。その鈴原が目を覚ましたと聞き、様子を見るために鈴原の見舞いに行くことにした。

 清潔感漂う個室の部屋で、鈴原はベッドに座ったまま開け放たれた窓から流れる風を受けていた。白いパジャマ姿だと病人のように見えるが、流れる黒髪から覗き見える表情からは、春の日だまりのような穏やかさが感じられた。

「監査委員長さん、来てくれたんですね」

 気配に気づいた鈴原がふり返る。以前感じていた気高いオーラはすっかりと消え失せていた。

「花菜ちゃん、私に感謝してよ」

「え?」

「私のおかげで、デートできたんだから」

 悪戯っぽく笑う鈴原に、花菜が大げさに腕を振りながらも否定はしなかった。

「あ、私、売店でなにか買ってきますね」

 穏やかな風が沈黙を運んできた。その空気を感じたのか、花菜は慌てた口調で言い終わると同時に部屋を出ていった。

「具合はどうだ?」

「監査委員長さんに抱かれたせいか、少し大人になったみたいです」

 人の心配をよそに、鈴原が冗談をいって笑顔を見せた。この様子だと、俺の杞憂は無駄に終わりそうだった。

「夢の中で、千春に会いました」

 鈴原が急に話題を変えた。千春の名前に反応した俺は、冗談に返す為の言葉を飲み込んだ。

「夏美、変わってないねって言われました」

 柔らかい声に続いて、鈴原の顔に見たことのない笑みが広がった。その微笑みが、スケッチブックに描かれていた笑顔と見事に重なった。

「これでも努力して、女王と呼ばれるようになったんだよって言ったんです。そしたら、なにやってんのと怒られました」

 鈴原は笑みを崩さずに、ゆっくりと立ち上がって窓辺に移動した。

「千春とまた約束しました。千春はあっちでイケメン探しに忙しいから、もう私にかまっている暇はないみたいです。だから、私にはこっちの世界で好きなように生きて欲しいと言ってました。そして、再び会うことになった時に、お互いの生きた世界の話をしようねと約束しました」

 背を向けたままの鈴原からは表情は見えないけど、おそらく、自分の中で千春のことは決着がついたのだろう。

 そんな鈴原の姿を、俺は羨ましく思えた。例え夢の中であっても、もう一度里沙と会えるなら俺もやっぱり会いたかった。

「夢でもし会えたら、嬉しいと思う?」

 つい、そんな言葉を口にして頭をかいた。決まりきったことを聞いたところで、なにになるというのだろうか。

「そうとは限りませんよ。特に監査委員長さんは、会わないほうがいいと思います」

「え、どうして?」

 予想外の返答に、俺は困惑して声が掠れた。

「私には、女王と呼ばれても手にできなかったものがあります。でも、監査委員長さんにはありますからね。無理して会わないほうがいいと思いますけど」

 鈴原が大きく伸びをしながらふり返る。その顔には、淀みのない悪戯っぽい雰囲気が漂っていた。

「わからないって顔をしてますね。でも、監査委員長さんの中にいる人はわかっていると思います。だから、夢にも出てこないと思います」

 鈴原の言葉に、少しだけ心音が乱れるのを感じた。

 夢でもいいから里沙に会いたいと思うことは、数えきれないほどあった。そのため、暇さえあれば眠ってきたけど、一度として叶ったことはなかった。その理由はわからないけど、鈴原にはわかるということらしい。

「それでも、会いたいと思うことは間違っているのか?」

「はい、間違ってます。千春に会ってわかりました。監査委員長さんが夢でもその人に会いたいと思うことは、間違いだとはっきり言えます」

 微かな期待も虚しく、鈴原はあっさりと俺の意見を断ち切ってきた。

――里沙、夢でも会えないのか

 そっと胸に手を当ててみる。不思議なことに、あれだけ苦しかった胸の内が少しだけ軽くなっている気がした。

――現実と向き合ったからか?

 鈴原を前にして口にした言葉。「亡くなった人にはもう会えない」という、今まで意識して避けていた言葉を口にしたことで、なにかが変わったのだろうか。

 もちろん、考えてみても答えなどあるわけがない。あるとすれば、俺は生きていて里沙は亡くなっているという、相変わらずの現実だけだ。

 鈴原に別れを告げたところで、花菜がお菓子を詰めた袋を手に戻ってきた。タイミングが良すぎる気もしたけど、鈴原はなにも言わずに笑って受け取っていた。

 病院を出てバス停へと向かう中、花菜は迷っているような雰囲気だったけど、バス停までついてきた。

「夏美ちゃん、大丈夫でしょうか?」

 なんとなく不安そうな顔で花菜が聞いてきた。

「大丈夫だろう。一番の適任者に説教されたから、もう間違えることはないはずだ」

 曖昧に答えながら、俺は頭の片隅に響く鈴原の言葉を吟味していた。

 夢でも里沙に会う必要はないと言いきった鈴原の理由。俺にはあって鈴原にはない物の意味を少しだけ考えてみた。

「それでは、失礼しますね」

 押し黙った俺を気遣うような声で、花菜が呟きながら頭を下げた。意識を視界に戻すと、バスが目の前に迫っていた。

 自転車をひいて歩いていく花菜の背中を見ながら、ふと、鈴原の言った意味がわかったような気がした。

 鈴原には、女王と慕われながらも人として想ってくれる人がいなかったのかもしれない。

――俺には花菜がいるということか

 花菜は一人になっても監査委員会に残ってくれている。その本当の理由を、俺は気づいている。

 バスのドアが開き、ステップに踏み出した足が止まった。一瞬考えた後、俺は運転手に頭を下げてバスから足を下ろした。

 夕焼け空の下、花菜の小さな背中越しにポニーテールが揺れていた。

 鈴原の言った意味が、花菜のことだとは限らない。もしかしたら、違うことを言っていたかもしれない。

――でも今は

 間違っているかどうかよりも、ふとわいた感情に身を委ねてみたかった。

 里沙が遠くなった――。

 一瞬、頭の中でそんな声が聞こえたような気がしたけど、俺は坂の下に消えていったポニーテールを追いかけた。

 そんな俺の背中を、温かいなにかがそっと押してくれたような気がした。

―女王のアキレス 了―