鈴原が屋上から飛びおりたことは、みんなの間に大きな衝撃を与えた。すぐに救急車で運ばれた鈴原は、結果的には命に別状はなかった。それどころか、桜の枝がクッション代わりになり、打撲だけで済んだのはまさに奇跡といってよかった。

 鈴原が飛びおりた理由は、高橋が公開したスキャンダルに対する抗議だった。身に覚えのない事実によって陥れられるくらいなら、飛びおりたほうがましだと先生や原口に訴えていたという。

 この事実が公表されたことで、選挙の状況は再び一変した。スキャンダルを公開した高橋に対して、生徒たちは一斉に非難を浴びせた。高橋としても、真実を正確に伝えたわけではないことと、自分のせいで誰かが死にかけたということもあって、非難を受け入れながら、スキャンダルについては口を閉ざすことになった。

 投票日である水曜日の今日、予想外に鈴原が登校してきた。まだ入院の必要があるはずなのに、何事もなかったかのように笑顔をふりまく鈴原に、誰もが対応に困りながらも飛びおりたことについては話題にしなかった。

 午後の授業が終わると同時に、俺は屋上へと向かった。間もなく投票結果が出る頃だろう。本来なら俺が立ち合う必要があったけど、どうにも気分がのらなかったため、花菜に丸投げしていた。

 屋上に出ると、晴れ渡った青空に視界を奪われた。心地よい風を頬に受けながら、俺は鈴原が飛び降りた地点に向かった。

 フェンス越しだと地上はあまり見渡せないけど、それでも位置関係はある程度把握できた。中庭には大きな桜の木があり、その横には、トタンでできた屋根付きの水飲み場がある。向かいには、今いる教室棟よりも一階分高い特別教室棟が見えた。

 フェンスに手をかけたところで、誰かが近づいてくる気配がした。ふりかえると、少しだけ口を開けた花菜が、ぎこちない歩みで俺のそばに寄ってきた。

「結果は出た?」

「はい、夏美ちゃんに決まりました。獲得票は七割超えでしたよ」

 俺の問いに、花菜はちょっと戸惑い気味に答えた。

「スキャンダルがありましたから、どうなるかって思ってました。だから、ちょっと意外なんです」

 花菜の正直な感想に、俺は目を細めて笑った。

「鈴原は、逆転する為にここから飛びおりたんだ」

「え? どういうことですか?」

 花菜は更に口を開けて俺の隣に並んだ。

「ここから飛びおりたら、すぐに桜の枝があるよな? それをクッション代わりにして水飲み場の屋根に落ちれば、この高さだとしても助かる可能性は高いと思わないか?」

「確かに、そう言われるとそうかもしれません。でも――」

 花菜は小さな体をフェンスに押し付けて、背伸びしながら下を覗き始めた。

 結果として屋根に落ちることはなかったけど、代わりに幾つもの枝が絡んだおかげで大事には至らなかった。

「狙ってやったと思う。自殺するふりをして、鈴原は悲劇のヒロインを演じた。そうすることで、高橋に非難を集中させてスキャンダルを一蹴した」

 俺の説明に、花菜は何度も下を見ながら、曖昧に相づちを打った。

「まさに命がけだ。そして、問題はそこにある」

「問題、ですか?」

「花菜は助かる可能性があるとして、ここから飛びおりることができるか?」

 俺の問いに、花菜は驚いた後大げさに手を振った。

「俺も無理だと思う。いくら助かる可能性があるとしても、下手したら命を落としかねないからな。けど、鈴原は迷うことなく実際に飛びおりた」

 俺は説明しながら、フェンス越しに見える折れた桜の枝を見つめた。

「命をかけてでも、千春に会いたかったんだろうな」

「え? 千春ちゃんがどうかしたんですか?」

 俺のひとり言に反応した花菜に、俺は曖昧に笑って誤魔化した。花菜には鈴原の事情は話していないから、鈴原の行動の真意はわからないかもしれない。

「やっぱりお前だったか」

 背後から声をかけられ、ふりむいた先には書類を手にした原口が立っていた。

「まさか、お前まで飛びおりるつもりじゃないよな?」

 原口の冗談に、俺は鼻で笑いながら差し出された書類を手にした。

 書類には、これまでの選挙活動の概要と、当選者である鈴原の名前が載っていた。その下に原口の署名があり、後は俺が署名すれば全ての作業が完了することになる。

 鈴原を止める手段を考えてみたけど、もう止める方法は思いつかなかった。スキャンダルを封じるために命がけで屋上から飛びおりるほど、鈴原には千春の姿しか見えてないと思えたからだ。

 生徒会長になれば千春と再会できる。例えそれが幻想だとしても、もう鈴原を説得して止めることは不可能だった。

 おそらく、幻想の先に待っている現実という絶望に直面することになる鈴原は、結果的にはまたここに来ることになるかもしれない。ただし今度は、助かる可能性など考えることはないだろう。

 その歩みを止める術を持てなかったことが悔しかった。また里沙を失うことになりそうな気がして、言葉にできない苛立ちが署名の為に手にしたペンを激しく震わせた。

 ――なにもかも手遅れなんだろうな

 そんな絶望の淵に追いやられた瞬間だった。

 花菜と雑談していた原口の発した言葉に、俺は頭の中でなにかが閃くのを感じた。

「今、なんて言った?」

 俺は花菜と話していた原口に詰め寄った。

「え? ああ、鈴原のことだよ。屋上にいるって聞いて駆けつけたんだけどさ、鬼みたいな形相してたから、最初は鈴原だって気づかなかったんだ」

 不思議そうな顔をしながら、原口が花菜に話していた内容を繰り返してくれた。

 一瞬、頭の中に火花が散るような閃光が再び走った。抑えきれない震えが、全身を駆け巡っていく。俺はゆっくりと深呼吸しながら、原口の言葉を頭の中で繰り返した。


 何度目かの反芻の後、頭の中に鈴原の情報が写真のスライドショーのように広がっていった。

 コスプレしていた鈴原。

 コスプレせずに絵を描いていた鈴原。

 万引きをしていたのは――。

 頭の中に、日曜日のフードコートでのやり取りが再現された。その中で、鈴原の白いバックは畳んで置かれていた。ということは、鈴原が万引きするのはコスプレしている時だけではないだろうか。

 ――だとしたら?

 いくつかの仮説が重なり合い、やがて一つの可能性を導きだした。と同時に、「助けて」と呟く里沙の顔が浮かんできた。

 助けてと呟いた里沙の真意は、まさにSOSだった。

 ――SOS?

 その言葉が頭の中で弾けた瞬間、たどり着いた仮説が色濃く真実味を帯びた。


「悪いけど、署名をする前に確かめたいことができた」

 鈴原を止める可能性を見つけ出した俺は、金魚のように口をパクパクさせている島田に書類を突き返して校舎内へと走り出した。