翌日、ホームルームが終わって暫くした後、鈴原陣営がある教室へ向かった。鈴原陣営は、他の陣営と違って現役の生徒会長である原口が後援に入っている。その時点で、鈴原に対する扱いは他の陣営とは大きく違っていた。

 教室に入ると、直ぐに原口が声をかけてきた。ぼさぼさの髪をかきつつひきつった笑顔を浮かべていたから、俺の来訪を毛嫌いしてるのはわかった。

「田辺、こっちへ監査に入る前に、他の所をやってくれよ。知ってるだろ? あいつらが時間外にも活動していたこと」

 原口がため息混じりに詰め寄ってくる。確かに、他の陣営が規則違反である時間外活動をしていたことは知っていた。けど、その程度の違反ならわざわざ取り上げる程のことではないと無視していた。

「その件なら、後で注意しておくよ」

 そう答えると、原口は不満を示すかのように俺を睨んできた。

「さすがは幽霊委員会だ。明確な規則違反に対して、口頭注意だけでなにもしないんだからな」

 原口の非難を含んだ声に、周りから失笑がもれてきた。

「まあな。確かにお前が言う通り、俺はなにもしないさ。けど、考えてみろよ。他の陣営を叩けば、当然鈴原陣営のことも訴えてくるはずだ。他の陣営の違反は軽微なことだから大した処分にならない。けど、他の陣営が鈴原を訴えてきたときは、投票日まで派手に叩き続けてもいいんだぜ」

 俺は極力声を抑えて、淡々と告げた。

「いいか、俺はあえて黙っているんだ。鈴原陣営も恩恵を受けたいなら、黙ってたほうがいい。それとも、醜い足の引っ張りあいをしたいのなら、俺が協力してやるよ。その代わり、どっちの陣営を派手に叩くことになっても文句は言うなよ」

 原口を睨み付けて駄目押しを告げると、原口は一歩仰け反った後に視線を忙しなくさ迷わせた。おそらく、どうしたら一番利益になるかを計算しているのだろう。

「さすが、監査委員長さんですね」

 原口が沈黙を決め込んだところで、背後から柔らかく伸びのある声が聞こえてきた。ふりかえると、女子にしては長身で、ゆったりとした雰囲気を纏った女子生徒が口に手をあてて笑っていた。

 目が合った瞬間、俺はその瞳に釘付けになった。漆黒の長い髪は肩越しまで伸びていて、前髪は眉の上で綺麗に切り揃えられていた。非の打ち所がないような美の黄金比で彩られた顔立ちに、日向のような暖かい雰囲気があり、女性らしい流線型の体は、見るものを惹き付けてやまない魅力に溢れていた。

 ――似ている。いや、瓜二つだ

 女子生徒の瞳を見た瞬間、反射的に胸の奥に封印していた面影が飛び出し、女子生徒の瞳と寸分狂わず重なっていった。

 女子生徒の顔立ちや体躯は、飛びだした面影とは全く似ていない。けど、その瞳だけは、面影の主である浦田里沙の瞳と瓜二つに見えた。

 声が出なかった。なにか言わなければと考えてみるけど、突然の瞳の再会に、俺の思考は停止寸前まで追い込まれていた。

「あれ? 田辺先輩どうしたんですか?」

 霞みかけていた景色が色を取り戻すように、呑気な声が俺の意識を現実に引き戻してくれた。

「夏美ちゃん、調子どう?」

 返事ができない俺を横目に、花菜が鈴原の胸に飛び込んでいった。花菜を受け止めた鈴原は、日だまりのような笑顔で花菜の頭をなで始めた。

「調子はまあまあだね。それより、さっきね、監査委員長さんの素晴らしい仕事が見れたんだよ」

 鈴原の言葉に、顔を上げた花菜が細めた目を俺に向けてくる。鈴原の言った、素晴らしい仕事が花菜には胡散臭く聞こえたのだろう。

「ところで監査委員長さん、今頃になってどうして監査に入るようになったんですか?」

 薄桜色の唇に笑みを作りながら、鈴原が核心を突いてくる。俺の目的に気づいたようにも、目的を探っているようにも見え、うまく返事ができなかった。

「内緒なんですか? それとも、キスしたら教えてくれますか?」

 少しだけ首を傾げた鈴原に、俺は小さくため息をつきながら、花菜の頭を掴んで引き寄せた。さりげなく人を困らせるところも、里沙とそっくりだった。

「もう少し早くその言葉を聞いていたら、喜んで受けていたよ。けど、花菜に悪いから遠慮しておく」

 花菜の頭を撫でながら、俺はひきつる頬を無理矢理笑みに変えた。

「それは惜しいことをしました」

 鈴原が口に手をあてながら微笑んだと同時に、引き寄せた花菜が耳を真っ赤にしながらも抗議するように見上げてくる。今度は力強く頭を撫でて、花菜の反論を押さえこんだ。

 花菜との関係を仄めかせ、鈴原との間に壁を作ったのは咄嗟の反応だった。無防備で鈴原の前に立つのが、やけに怖いと思えて仕方なかった。

 一通りの監査を終えて、問題がないことを伝えた。もちろん、問題があったとしても最初から指摘するつもりはなかった。

 ただ、鈴原夏美がどういう人物か把握できさえすればよかった。そして、把握できたことを激しく後悔した。

「ちょっと田辺先輩、さっきのはなんですか?」

 教室を出たところで、花菜が戸惑いに満ちた目で食いついてきた。

「鈴原につけこまれそうな気がして、咄嗟に壁を作っただけだ。でも、花菜が相手なら俺は問題ないけどな」

 フォローのつもりでついた言葉だったけど、花菜は真に受けたかのように耳を赤くして顔を伏せた。

「後は実際に現場を確認してみる。デパートSに行けば、貼り紙が事実かどうかわかるだろう」

「え? あ、わかりました。それで、もし貼り紙の通りだったらどうするんですか?」

 花菜の問いに、瞼の裏に痛みが走る。長く閉じ込めていた里沙の面影が、鮮明な姿に変わろうとしていた。

 ――貼り紙が本当だったら

 俺は小さく唇を噛み、考えるだけで亀裂を生むような頭痛に耐えた。

 ――その時は

 すっかり色づいた里沙から目を背けるように、俺は汗ばんだ拳を強く握り直した。