秋の色が徐々に深まっていく中、いつものように監査委員会活動室で惰眠を貪っている時だった。

 息を切らしながら活動室に飛び込んできた倉本花菜が、「田辺先輩起きてください!」と急かすように声をかけてきた。しかも、ポニーテールの髪を揺らしながら近づいてきた小柄な顔には、意味深を匂わせる雰囲気があった。

「なんだよ? いきなり」

 あからさまに苛立ちを声に含ませながら、しぶしぶ穴だらけのソファーから身を起こした。

「田辺先輩、生徒会長選挙の件ですが、この噂を知ってますか?」

 花菜がまくし立てながら、スマホを差し出して画面を見せてくる。すぐに嫌な予感はしつつも、仕方なく画面に目を向けると、そこには学園の玄関にある掲示板が映し出されていた。

「どころで、噂ってなんだ?」

「はいはい、そうくると思ってましたよ。とりあえず、この掲示板に貼られた紙を読んでください」

 呆れ顔になった花菜が画面を拡大させると、カラフルな案内用紙に挟まれたモノクロの紙がすぐに目についた。

『生徒会長立候補者の鈴原夏美は、常習万引き犯です。デパートSで夜の八時頃見かけます』

 白紙に綴られていた文字はそれだけだった。せのせいか、味気ない以上に嫌な感情を誘ってきた。

 反射的に、鼓動が波紋を広げるように高鳴り始めた。と同時に、胸の奥に沈めていた面影が顔を出そうとするのを、慌て無理矢理押さえ込んだ。

「この貼り紙がされたのはいつだ?」

 花菜に動揺をさとられないように気を取り直し、とりあえず花菜に状況を確認してみる。花菜によれば、今月始まった生徒会長選挙の公示がされた日に、誰かが貼ったという。貼り紙はすぐに撤去されたらしいが、内容が噂となって一人歩きしていたらしい。

 そこに、再び今朝、誰かによって同じ内容の貼り紙がされた。すぐに撤去はされたが、噂が再燃するには十分な人数の生徒が目撃したらしい。なにかあるかもしれないと思い、花菜は撤去される前にスマホに収めたという。

 星陵高校では、生徒会長だけが十月に交代することが決まっており、今はその選挙期間真っ最中だった。しかも、既に終盤に差しかかっているから、この噂が事実だとしたら鈴原夏美が当選することはなくなるだろう。

「ところで、鈴原夏美って誰?」

「え、田辺先輩知らないんですか?」

 花菜が驚いた顔と呆れた顔を器用に切り替えながら、小さくため息をつく。その眼差しは、呆れを通り越して哀れんでいるようにも見えた。

「今回の生徒会長立候補者の中で、当選確実の人ですよ」

「ふーん、で、どんな奴なんだ?」

「そうですね、みんなからは女王と呼ばれてます」

 花菜が顎に手をあてて、黒曜石のような大きい瞳を忙しなく動かし始めた。

 ――女王?

 花菜の言葉を聞きながら、もう一度スマホの画面に写る貼り紙を読み返した。

「私と同じ二組なんですけど、美人で頭も良くて、運動もできて、性格もいいし、優しいし、みんなから愛されてる存在ってところですね」

 説明しながら、花菜が少しだけ顔をにやつかせた。同級生というよりは、憧れの人だといいたげな雰囲気だった。

 ――そんな奴が万引きとはね

 評判とのギャップに、俺は小さく溜め息をついた。よりにもよって、万引きというものに再び出会うことになるとは思ってもいなかった。

「田辺先輩、どうしましょうか? 噂だとしても、監査に入ってみます?」

 花菜の表情は、友達を想う気持ちとゴシップネタに対する興味で揺れ動いているように見えた。花菜は、もともとゴシップ好きで監査委員会に入ってきた経緯もある。花菜の心の中にある天秤は、大きく揺れていることだろう。

「この文面、ちょっと気になるな」

「え、どこですか?」

「ただの万引きじゃなく、常習って書いてあるよな? もし本当だとしたら、鈴原は以前から万引きを繰り返していて、それを知ってた奴がいることになる。そして、生徒会長選挙に合わせて暴露してきた。この構図をどう考える?」

 俺の問いかけに、花菜は腕を組んで唸り始めた。

「あ、脅迫しようとしたとかですか?」

「だったら本人に直接かけ合うだろ?」

「ですよね~」

 花菜はドヤ顔をひきつらせて、降参とばかりに両手を小さく上げた。

「直接かけ合って相手にされなかったから公表したとも考えられる。けど、そうだとすれば、掲示板に貼らずに別の方法を取ったほうが早い気がする。例えば、風紀委員会とかに直接訴えれば、きちんと対処してくれるはずだ」

 俺は言葉を切って、再度文面を読み返した。

「そうしなかったことに、なにか別に理由があるはずだ。個人的な恨みか、あるいは鈴原が生徒会長に立候補すると困る奴がいるとか」

「困る人ですか? それなら他の候補者が怪しくなりますね」

 花菜によれば候補者は他に三人いて、鈴原には劣るがそこそこの人気があるらしい。今では鈴原が当選確実とされているが、鈴原がいなければ誰が当選してもおかしくないという。

「とりあえず、監査に入ってみるか」

「え? 本気ですか?」

 小さく唸っていた花菜が顔を上げ、口を半分開けて目を見開いていた。

「なにか問題でもあるのか?」

「あ、いえ、違うんです。田辺先輩が本当に監査に入るだなんて思いませんでしたから。あ、傘持ってくればよかったです」

 失礼なことを口にしながら、花菜が茜色に染まる晴れ渡った空をあからさまに見上げた。

「どういう意味だ?」

「だって、監査委員会は田辺先輩のおかげでいまだに幽霊委員会って言われてるじゃないですか」

 花菜の痛いところをついてくる言葉に、俺はボニーテールを引っ張って不満をぶつけてやった。

 とはいえ、花菜のいうことに間違いはなかった。自主自立を校風にした星陵高校には、生徒のことは生徒で解決するという掟がある。

 その校風を実現する為に、生徒会を筆頭に規律を取り締まる風紀委員会と、規則を取り締まる監査委員会がある。いずれも生徒会の両翼をなす重要な組織だが、俺が二年の時に監査委員会の委員長になってからは事情が変わっていた。

 昨年上げた実績が新聞部を活動停止にしただけという体たらくで、今では全く動かないことから幽霊委員会と陰口叩かれるまでになっていた。

「まだ中間監査に入ってなかったよな? 明日、俺が鈴原陣営に入るから、花菜は他の所に入ってくれ」

 俺の指示に、吉田が小さな胸を張って敬礼する。幽霊委員会の久しぶりの仕事が始まったとして、嬉しく思っているようだ。

「女王のアキレスだな」

「はい?」

「この貼り紙が真実だとしたら、鈴原は女王の地位を完全に失うことになる。だからこの貼り紙は、ある意味、女王のアキレスだ」

 俺の説明に、花菜はわかったようなわからないような顔で、小さく「はぁ」と漏らして苦笑いを浮かべた。

 ――誰かが鈴原を陥れようとしているのか、あるいは、別の理由があるのか

 胸の奥底で顔を出そうとしている面影を押さえながら、俺は一つ長いため息をついた。