夏休みを本格的に迎え、三年生に日毎受験の色が濃くなっていく中、相変わらず田辺先輩は定位置のソファーに寝転んでいた。

「田辺先輩、結局生徒会長は納得したんですか?」

 ここ数日、田辺先輩と生徒会長のやりとりが気になっていた私は、惰眠に入る田辺先輩を阻止して聞いてみた。

「まあな。別に島田にパワハラ疑惑はなかったし、揉め事といっても大したことでもなかったから、適当にあしらって終わりにしたさ」

 惰眠を阻止されたことに不満気だったけど、田辺先輩は起き上がって問題の行方を教えてくれた。

「それにしても、陸上部が優勝できてよかったですよね。あんなに感動したのは久しぶりでした」

 とりあえず生徒会長との件は問題なさそうとわかり、私はもう一つ気になっていることを聞いてみたくて話題を陸上部に切り替えた。

「どうしても気になってたんですけど、島田先輩が直前になって津山先輩とアンカーを交代した理由はなんだったんですか?」

 今回の件は、島田先輩が津山先輩とアンカーを交替するということから始まっていた。それは、西城学園に勝つためという名目だったけど、結局のところはそうではなかったみたいで、私はいまいち理解できていなかった。

「それは、島田が津山のラストランの花道はアンカーじゃないと気づいたからだ」

「どういうことですか?」

「そのままの意味だ。津山は、自分のラストランを最初から二番走者に決めていたんだ。けど、それをチームのメンバーが気をきかせてアンカーにしたわけだから、津山にしたら本音を言うに言えなかったんだろう。でも、津山の本心に島田が気づいたことで、あえて西城学園に勝つためという理由を建前にして交代したってわけさ」

 田辺先輩によれば、津山先輩にはどうしても二番走者でなければいけない事情があった。でも、チームのみんなが自分のためにアンカー役を用意してくれたおかげで、本心を伝えることができなくなったらしい。

 その津山先輩の苦悩に島田先輩が気づいたけど、津山先輩が二番走者でありたい理由がなかなか公にできないことから、島田先輩は横暴と言われながらも西城学園に勝つためというもっともらしい理由を利用することになった。

 もちろん、チームのメンバーの反発はあったけど、すぐに島田先輩の考えに気づいたことで、チームのメンバーも理由を問うことなく島田先輩の話を受け入れることになったらしい。

「そういうことだったんですね。でも、どうして津山先輩は二番走者にこだわったんですか? これまで一度も結果は出せてなかったですし、みんなが用意してくれたアンカー役を捨ててまで二番走者にこだわる理由ってなんだったんですか?」

「それは、津山にとって本当のラストランの花道は、二番走者でないと走れなかったからだ」

 半身を起こし、大きく伸びをした田辺先輩が目を細めていく。その眼差しには、面倒くさいオーラがある反面、どこか津山先輩を思っているようにも見えた。

「津山は小学生の時から陸上を続けてきた。そして、津山が走るそばにはいつも赤坂が見守っていた。だから、津山は考えたんだよ。自分のラストランは、一番近くで赤坂に見てもらいたいとな。だから、スタンドの前を走ることになる二番走者に津山はこだわったんだ。つまり、津山にとっての花道は、昔も今も変わらず赤坂の前だったってことなんだよ」

「そういうことだったんですね」

 田辺先輩の説明で、ようやく謎が解けた気がした。津山先輩にとってなによりも重要なことは、赤坂先輩の前で走ることだった。そのため、たとえ結果を出し切れていなかったとしても、スタンドの前を走る二番走者を津山先輩はラストランの花道に選んだということだった。

「でも、よく気づきましたよね? 私にはちんぷんかんぷんでした」

「リレーは個々の能力よりも、チームの絆の力が試されるんだ。花菜も見ただろ? あの一糸乱れぬバトンパスは、仲違いしていたらできるものじゃないはずだ。たから思ったんだ。今回の件は、チームの中で決着ついているってな。となれば、後は簡単な話だ。それに、島田が辞めると言い出した時に津山をアンカーにしないって言ったことで確信したんだ」

 津山先輩の説明を聞きながら、陸上部がもめている時のことを思い出す。あの時、田辺先輩は津山先輩に強く詰め寄っていた。それは、全てをさとった上で、気の弱い津山先輩を奮い立たせるための田辺先輩なりのエールだったのかもしれない。

 ――だから、あんなに必死になってたんだ

 思い返せば、競技場での田辺先輩の焦りは異常事態だった。あの時田辺先輩が無理矢理赤坂先輩をスタンドに連れて行ったのは、津山先輩のラストランの花道に飾るためだったということだった。

 ――それに

 素知らぬ顔で生徒会長や周りの声を無視し続けてなにも処分しなかったのも、赤坂先輩が少なくとも競技場には来れるようにするための配慮だったというわけだった。

 結局、またしても田辺先輩のすごさをみんなに知らせることはできなかった。でも、こうして何食わぬ顔をしているけど、誰かを真剣に思える田辺先輩が私はやっぱり好きなんだと思った。

「それにしても、ラッキーだったよ。どさくさにまぎれて赤坂の手を握ったけど、柔らかくて温かったな」

「はい?」

 改めて田辺先輩を見直していた矢先、突然、田辺先輩がとんでもないことを口にし始めた。

「赤坂はなかなかの人気女子だからな。津山には悪いけど、いい思いをさせてもらった」

 満足気に右手を見つめながら、だらしなく顔を弛める田辺先輩に、私の尊敬の念は一瞬で怒りへと変わっていった。

「それはよかったですね」

 怒りを顔に出さないように気をつけながら田辺先輩に近寄ると、完璧な作り笑顔を浮かべて田辺先輩の腕をつねり上げた。

「痛っ、て、なにするんだよ」

「職権濫用は罪が重いですよ? 監査委員会規則にもしっかりありますから」

 つねられた腕をさすりながら睨んでくる田辺先輩に、一切の感情を殺して冷たく言い放つと、私はくるりと背を向けて窓際に向かった。

 ――ほんと、人の気も知らないで

 私の言葉になおも抗議してくる田辺先輩を無視して、日が落ち始めたグラウンドに目を向ける。グラウンドでは、就職組のため受験から逃れた津山先輩が後輩の指導にあたっていた。

 ――なんか、うらやましいな

 ラストランだからこそ、その最後の花道を赤坂先輩の前でと決めた津山先輩。想いは違っても、最後まで津山先輩の花道を案じていた赤坂先輩。きっと二人の間には、私なんかではわからない時間の積み重ねによる絆もあったんだろうと思うと、そんな関係に憧れを抱かずにはいられなかった。

 ――よし、私も負けてられないな

 いつの間にかふて寝を決め込んだ田辺先輩を見て、私なりにまだまだ頑張ろうと改めて誓った。

 蝉の音が響く中、再びグラウンドでは陸上部の部員たちが走り始めていく。その部員たちに声をかける記録なき二番走者の背中に、私はそっとねぎらいの言葉を送った。

 津山先輩、十年間お疲れさまでした――。


 ―ラストラン〜記録なき二番走者の花道 了―