監査委員会活動室に戻ると、案の定、田辺先輩は心地よく眠っていた。その寝顔は何度も見慣れているはずなのに、今日はなぜかいつも以上に胸が苦しくてしかたなかった。

 ――眠っている理由ってなんだろう……

 田辺先輩の寝顔を前に、島田先輩や赤坂先輩の言葉が頭をよぎっていく。赤坂先輩は、強力なライバルがいるとも言っていた。だとしたら、田辺先輩には誰か関係を持つ女性がいるのかもしれない。

 その謎を解く鍵は、きっと田辺先輩の中学時代にあるのだろう。私は田辺先輩とは違う中学だから全くわからないけど、もし今回の件がうまくいけば島田先輩に教えてもらえる可能性はあった。

 ――え? 今、名前を言わなかった

 寝返りをうつ際に田辺先輩がなにかを口にしたように聞こえた。それは名前のように聞こえたけど、はっきりとはわからなかった。

「田辺先輩、私、田辺先輩のことが好きなんです」

 遠くに蝉の音が聞こえるだけの中で、眠っている田辺先輩に小さく呟いてみる。絶対に田辺先輩が起きているときには言えないけど、私の気持ちは田辺先輩のすごさを知ったときから変わりはなかった。

 でも、その気持ちを口にすることには抵抗を感じている。今は監査委員会という枠組みがあるから一緒にいられるだけで、きっと監査委員会という枠組みがなくなったら、田辺先輩が私といる理由はなくなるだろう。

 それがわかるくらい、私と田辺先輩ではなにもかも住む世界が違っている。人としての力というか、とにかく私と田辺先輩が釣り合っていないことは、馬鹿な私でも実感していることだった。

 ――でもね、田辺先輩

 それでも、私はいつかこの気持ちを伝えたいと思っている。たとえ強力なライバルがいるとしても、私は私にできることをやって、ちょっとでも田辺先輩と釣り合えるようになることが私の願いだった。

「なんで泣いているんだ?」

 どうすることもできない想いに目頭が熱くなったときだった。不機嫌そうに起き上がった田辺先輩が、隠すことなく大きなあくびをくりかえしながら無造作に聞いてきた。

「あ、いえ、なんでもないです。私も眠くなってあくびしてたんです」

 いきなりの田辺先輩の言葉に慌てて目をこすりながら、生あくびを無理矢理くりかえしてごまかした。そんな私を田辺先輩は不審そうに見ていたけど、すぐに興味を失ったかのようにまたソファーに寝転んだ。

 ――やば、聞かれたかと思ったよ

 決して聞かれたくないひとりごとだっただけに、田辺先輩に聞かれたかとひやひやした。けど、どうやら田辺先輩は全く気づいていないみたいだった。

「ところで、赤坂の話はどうだった?」

 寝転んだと思いきや、急に立ち上がった田辺先輩が窓際へと歩きだした。その背中を追っていくと、田辺先輩はグランドに集まっている陸上部を黙って見つめ始めていた。

「正直なところ、よくわからないです」

 さっき赤坂先輩とやりとりした内容を伝えながら感想を添えると、田辺先輩は腕を組んだままなにかを考えるように黙り込んだ。

「俺も、リレーのメンバー全員に話を聞いてみた。それと、ランダムに他の部員にもあたってみたけど、結論から言えばパワハラではないような気がしている」

 しばらくして口を開いた田辺先輩が、多少の迷いを含ませながらも結論を口にした。

「もしパワハラではないとしましたら、島田先輩の決定は横暴ではなかったってことですか?」

「いや、横暴だったことは間違いない。みんなで決めたことを島田が無理矢理変更したのも事実だ。ただ、それを部員はもちろん、リレーのメンバーも最初は横暴と思いはしたけど、どういうわけか今では抵抗なく受け入れてるといった感じだった」

「ということはですよ、パワハラは実際にあったけどみんなが認めてるから問題ないということですか?」

「部員の様子を見る限り、島田の横暴がパワハラだったと言えるかは微妙なところだな。ただ、問題は島田の横暴をどうにかしてパワハラにしたい奴がいるってことだ。既に部員同士で決着している問題だというなのに、どういうわけか監査委員会に依頼してでもパワハラ問題にしたい奴がいる」

「え、それって――」

 田辺先輩の指摘に、すぐに浮かんだのはおとなしそうな赤坂先輩の顔だった。

「赤坂には、島田の横暴を許せない理由があるよな?」

 問われて私は言葉に詰まってしまった。赤坂先輩の津山先輩に対する気持ちを、田辺先輩は気づいている。その上で田辺先輩が結論を出したということは、おそらく間違いないだろう。

「赤坂は、部員に相談することなく単独で監査委員会に相談するという行動にでた。それは、部員に相談しても意味がないとわかっていたからだろう。そう考えたら、島田の行動が部内では問題となっていなかった証明にもなる」

「田辺先輩の考えですと、今回の件は赤坂先輩の単独行動によるものなんですか?」

「おそらくな。津山のラストランを考えて、赤坂なりに思うところがあって一人で決断したんだろうな。ただ、それよりももう一つ気になることがある。結果的に島田の行動が部員に受け入れられたとはいえ、なぜ直前になって津山をアンカーから外したのかがはっきりしない」

 すっと細目になった田辺先輩が、なにかを見通すかのように視線を空へと向ける。その横顔には、誰かを思って憂うような陰りが見えた。

「それは、西城学園に勝つためではないんですか?」

「表向きはな。ただ、そうだとしたら、最初の話し合いで決まっていたはずだ。だから、島田も納得した上で津山にアンカーを託したはず。なのに、それを今になって覆した理由がよくわからない」

 まいったと言わんばかりに頭をかく田辺先輩の仕草に、私はなにかを見落としているような胸のざわめきを感じた。

 田辺先輩の言う通り、リレーのメンバー内で話し合いの末に津山先輩がアンカーを務めることになったわけだから、その時点で、西城学園に勝つことと津山先輩のラストランの花道を飾ることは決着ついていたはずだろう。

 なのに、島田先輩は西城学園に勝つためという理由でアンカーを交代した。はたして、本当にそれだが理由なんだろうか。

「私、ますますよくわからなくなりました」

「なにが?」

「島田先輩が交代した本当の理由についてです。島田先輩と話しをしてみて感じたんですけど、島田先輩と津山先輩の関係は悪くありません。むしろ、津山先輩のことを案じてさえいました。なのに、なぜ津山先輩のラストランの花道を奪うような真似をしないといけなくなったのか、私にはさっぱり理解できません」

「それは俺も同じだな。ひょっとしたら、今回の件はそこが一番の問題なのかもしれないな」

 田辺先輩はそう締めくくると、再びあくびをしながらソファーへと移っていく。田辺先輩がいなくなったことで開けた窓の視界では、陸上部が一糸乱れぬ動きでバトンパスを繰り広げていた。