廊下の窓から吹き込む風が、すっかり夏色を帯びていた。放課後のグランドからは、夏の大会に向けた野球部やサッカー部たちの熱い声が響いてくる。いよいよ夏本番の気配に足どりが軽くなる私だったけど、監査委員会活動室のドアに貼られた紙を見て、すっかり浮かれた気持ちは沈んでいった。

 ――多忙中につき、一時受付停止?

 貼り紙には、調査依頼が増えたことによって新規の受付を停止している旨が記されている。当然、そんな事実はないことを知っている私は、問答無用に貼り紙を破り捨ててドアを開けた。

 ――やっぱり寝てるだけじゃない

 もはや予想するのも馬鹿らしいくらい予想通りソファーに寝転んでいる田辺先輩を見て、私は小さくため息をつく。バスケ部とバレー部の問題を解決して以来、活動らしい活動をしていない田辺先輩の体たらくぶりには私の我慢も限界を迎えていた。

 ――これはお仕置きが必要ね

 最近ようやく導入されたクーラーを余すことなく利用している田辺先輩を見て、いたずら心に火がついていく。テーブルに置かれたリモコンを気づかれないように手に取り、設定を暖房に切り替えると、内心微笑みながら監査委員会活動室を出ていった。

 ――でも、本当によく寝ているよね

 田辺先輩に天罰が下るまでの間、学食で暇を潰すことにした私は、それとなく田辺先輩のことを考えてみた。

 田辺先輩は、はっきり言ってこんな普通レベルの高校にいるような人ではなく、むしろ超のつくような進学校にいても不思議ではない人だ。その証拠に、田辺先輩の学力はずば抜けていて、全国模試では常に上位で無双していた。

 ただ、残念なことに田辺先輩にはその自覚がないみたいで、変に頭の良さでマウントとるような馬鹿なことをしない代わりに、徹底した体たらくぶりを極めている。その理由はわからないけど、あの息をするのも忘れるくらい目を奪ってくる眼差しを誰も知らないのは、やっぱりもったいない気がした。

 ――やっぱり、寝ている理由にはなにかあるのかな?

 自販機で買ったイチゴジュースのストローに口をつけながら、以前聞いた噂を思い出してみる。田辺先輩には、どうやら寝ていることに秘密があるみたいで、それは中学時代になにか関係があるみたいだった。

 ただ、その辺の詳しい事情を知る人は少なく、その上知っている人も口を閉ざしているから、真相を知りたい私にしたらこのモヤモヤは拭えない不安にもなっていた。

 ――誰か好きな人がいるとか?

 考えるだけで胸が痛くなるけど、田辺先輩のよくわからない事情の裏には、見えない誰かがいるような気がしている。ただ、それはあくまでも気配程度であって、田辺先輩から女の子の影は感じられない。告白されることは度々あったみたいだけど、田辺先輩は誰とも恋人関係になることなく今日までナマケモノでいてくれている。

「あの、監査委員会の人ですよね?」

 思考が田辺先輩で埋め尽くされたところで、急に声をかけられ背中が反り返りそうになった。慌てて声のしたほうに目を向けると、眼鏡をかけた髪の長い小柄な女性が驚いて固まっていた。

「ごめんなさい、急に声をかけてしまって」

 私がびっくりしたことにすかさずフォローを入れてきた彼女は、人畜無害オーラ全開で頭を下げてきた。ジャージ姿に首にタオルを巻いている姿からして運動部系の人と察しがついた。

「あ、私は陸上部のマネージャーをしている赤坂奈美です」

 礼儀正しく名乗った赤坂先輩は、童顔ながらも三年生だった。どうやら監査委員会に用があったけど、田辺先輩の迷惑な貼り紙のせいで仕方なく帰ろうとしたところで私を見つけて声をかけてきたとのことだった。

「はじめまして、私は倉本花菜です。あの貼り紙は気にしなくてかまいませんから。監査委員会に用があるのでしたら私が聞きますよ」

 困惑する赤坂先輩の顔色に何かを感じとった私は、すかさず赤坂先輩を椅子に座らせる。マネージャーということから、陸上部内でなにかあっての相談だと読んだ私は、久しぶりの依頼に胸が高鳴るのを感じた。

「じゃあ、お願いしますね。実は、男子のことでちょっとトラブルが起きてるんです」

 一瞬、目を伏せた赤坂先輩が力強い瞳を向けながら口を開いた。その眼差しからは、相当悩んだ上での覚悟が伝わってきた。

「今度の大会で四百メートルリレーに男子が参加するんですけど、メンバー内でいざこざが起きてまして」

 一言ずつ噛みしめるように語る赤坂先輩から、ただならぬ雰囲気が伝わってくる。実際、赤坂が教えてくれた内容には頭が痛くなりそうになった。

 今度の大会に参加するリレーのメンバーは全員三年生で、これまで一度もトラブルが起きることはなかった。けど、今回に限ってアンカーを誰が務めるのかを巡って対立が起きているとのことだった。

「今回のアンカーは津山君で決まりだったんですけど、突然、今になってキャプテンの島田君がアンカーをやると言い出したんです。それで、メンバー内でごたごたが起きてしまって」

 簡潔に語ってはいるけど、赤坂先輩の口調からは根深い闇が見え隠れしていた。赤坂先輩によれば、キャプテンの島田先輩の決定は横暴に近いらしく、一部の部員からはパワハラと叩かれているとのことだった。

「今回は、ということは、これまで津山先輩はアンカーを務めてなかったんですか?」

「はい、今まではずっと島田君がアンカーを務めてました。ただ、今回はどうしても津山君にアンカーを務めてほしい想いがメンバーにあったんです」

「メンバーの想いですか? それはなんですか?」

「彼、津山君は今度の大会がラストランなんです」

 わずかに声を震わせながら、赤坂先輩がぽつりと呟いた。その変化に、なにか重要な意味があることを私は痛感した。

「他のメンバーは大学で陸上を続けることが決まってるんですけど、津山君だけは進学しないことが決まってます。だから、公式の大会で走るのは今度が最後なんです。ですから、みんなで津山君の花道としてアンカーを務めてもらうように決めたんです」

 赤坂先輩の話によると、リレーのメンバーは中学からの仲間であり、ライバルである西城学園に勝つことを目標に一致団結してきたという。

 そうした背景もあり、苦楽を共にしてきた仲間の最後の花道を、アンカーという晴れ舞台に用意した。けど、そこに割って入ったのがキャプテンでもある島田先輩だった。

「なぜ島田先輩は今になってアンカーを務めると言い出したんですか?」

「それは、多分、西城学園に勝つためだと思います」

 さらに声のトーンを落とした赤坂先輩が、一気に表情を固くした。

「これまで、西城学園に勝つためにあれこれ試してきたんですけど、一番よかったのはやっぱり島田君がアンカーを務めた時なんです。それを考えたら、西城学園に最後の大会で勝つには、島田君にアンカーを務めてもらうのが一番ということになるんです」

 赤坂先輩の悲壮感が大きくなったところで、ようやく事情が見えてきた。対立構造としては、花道を用意してやりたいメンバーと、勝ちにこだわるキャプテンといったところだろう。そこにキャプテンという立場を利用して横暴さが加わったことで、事態はパワハラ問題に発展しているみたいだった。

「あの、それで肝心の津山先輩はなんと言ってるんですか?」

「津山君はあまり自分の意見を言わない人だから本心はわかりません。ただ、今のところは島田君に従う立場を表明して騒ぎをおさめてる感じです」

「なるほどですね」

 赤坂先輩の説明で、対立構造に加えて立場関係も見えてきた。話を聞く限りでは、津山先輩の方が立場が弱いことで意見も言えないのだろう。傍から見れば、キャプテンに無理矢理決められたように感じるのも、対立に拍車をかけているのかもしれない。

「わかりました。どこまで扱えるかわかりませんが、みなさんに話を聞いてみますね」

 暗い表情を落とす赤坂先輩を励ますように声をかける。部内のごたごたとはいえ、特に事件性はないと判断した私は、軽い気持ちで引き受けることにした。

 そう、この時の私は本当になにも考えていなかった。

 まさか、この後とんでもない一言を田辺先輩に言われて重荷を背負うことになるとは、夢にも思っていなかった。