毎日入れ替わり、私はいろいろな人と出会い、体験を通じ人生を謳歌していた。
しかし、世間の情報をみるとまだまだ、義務教育が主体だった。
人類が残した原発の見張り役。
戦争への落とし前。
他国からの侵略。
食料のベーシック。
そのために、人の手がいると思っているようだ。
太朝と真偽は、AIを使って農作のすべてを半自動機械でできる試みをしていた。
人間の手を全く使わずその土地で、無肥料無農薬でも豊作にできる実験をしているのだ。
時間の問題だろう。
ただ、人間の創造を吹き込むと、収穫量は増える。
想像することにより創造されやすいのだ。
言葉を、歌を、草木にかけてみよう。
生命力の違いを感じるだろう。
破壊をわたしたちは創造している。
死もわたしたちは創造している。
生もわたしたちは創造している。
わたしたちは、有であるのだ。
ほかは、無い。
放射能も有。
何かしらの変化をさせればいいのだろう。
時間を有するかもしれないが、いまをいきればよい。
有と無。有とも無ともいえる。
それくらいしか無いのだから。
その有を知るための世間は壁となる。
人間のトータル評価も少しずつ上がってきている。
労働という概念を学びきる。
労働が仕事になり、自由をえていく。
自由を得れば得るほど、できることの選択が増える。
黒は自ら選択していたのだ。
あのときわたしは、死んでいたのかも知れない。
滑らかな川になったのかもしれない。
17歳の私は、いま50歳の自分になっている。
年に青春もないのかもしれない。
私は青春をしている。
100歳でも200歳でも人は生きることができるだろう。
聖書では、年齢がおかしくかかれている。
エノスは912歳。
カイナンも910歳。
人生を謳歌していくと、年齢も超越できる。
いまこうして、人は時間の自由も選択できるようになってきている。
黒い自分を殺して、黒い自分は白であった。
白い自分は黒であった。
黒を白といえば、白になっていき、白を黒といえば黒になる。
時間と空間も白であり黒である。
そんなことを50歳では綴っておこう。