17歳の真人の日記

毎日入れ替わり、私はいろいろな人と出会い、体験を通じ人生を謳歌していた。
しかし、世間の情報をみるとまだまだ、義務教育が主体だった。
人類が残した原発の見張り役。
戦争への落とし前。
他国からの侵略。
食料のベーシック。
そのために、人の手がいると思っているようだ。
太朝と真偽は、AIを使って農作のすべてを半自動機械でできる試みをしていた。
人間の手を全く使わずその土地で、無肥料無農薬でも豊作にできる実験をしているのだ。
時間の問題だろう。
ただ、人間の創造を吹き込むと、収穫量は増える。
想像することにより創造されやすいのだ。
言葉を、歌を、草木にかけてみよう。
生命力の違いを感じるだろう。
破壊をわたしたちは創造している。
死もわたしたちは創造している。
生もわたしたちは創造している。
わたしたちは、有であるのだ。
ほかは、無い。
放射能も有。
何かしらの変化をさせればいいのだろう。
時間を有するかもしれないが、いまをいきればよい。
有と無。有とも無ともいえる。
それくらいしか無いのだから。
その有を知るための世間は壁となる。
人間のトータル評価も少しずつ上がってきている。
労働という概念を学びきる。
労働が仕事になり、自由をえていく。
自由を得れば得るほど、できることの選択が増える。
黒は自ら選択していたのだ。
あのときわたしは、死んでいたのかも知れない。
滑らかな川になったのかもしれない。
17歳の私は、いま50歳の自分になっている。
年に青春もないのかもしれない。
私は青春をしている。
100歳でも200歳でも人は生きることができるだろう。
聖書では、年齢がおかしくかかれている。
エノスは912歳。
カイナンも910歳。
人生を謳歌していくと、年齢も超越できる。
いまこうして、人は時間の自由も選択できるようになってきている。
黒い自分を殺して、黒い自分は白であった。
白い自分は黒であった。
黒を白といえば、白になっていき、白を黒といえば黒になる。
時間と空間も白であり黒である。
そんなことを50歳では綴っておこう。