高嶺の花。俺から彼女の印象を分かりやすく表すならそうなるだろうか。
 放課後の喧騒の中、窓際の席から外を眺める彼女の、その綺麗に手入れされた長い黒髪が陽光を反射し、なんとも幻想的な様相を演出していた。まるでそこだけ絵画の中の世界のような、周囲とは隔絶された世界観であり何人たりとも近付くことが許されない。
 ただそこに存在しているだけなのに、周囲の目を釘付けにして離さない不思議な引力。例にもれず、俺もその魔力にかけられて虜になってしまっていた。
 そんな彼女が、何かに気づいたようにこちらを振り返る。その向けられた視線の熱に俺の心臓は大きくどきっと脈を打った。

 そんな熱を一気に奪うかのように。席に座っている俺の背後から爽やかな男の声が響く。

「待たせてごめん!」
「全然いいよ! 迎えに来てくれてありがと!」

 彼女は満面の笑みで、俺の横を通りぬけていく。まるで俺のことなんて見えていないかのように。そこに存在なんてないかのように。その男女はたわいもない雑談を開始した。
 背後で会話する二人の声は耳に届いてはいるが、その内容まで聞き取ることはできない。いや知りたくもないのだが、と心の中でぼやいた。
 その二人の関係が親密なものであり、上手くいっていることは疑いようもない周知の事実であり、今更どうこうしようという気は湧いてこない。だが、目の届く範囲で、こうも幸せを見せつけられては気が滅入っていた。

「まだ早川さんのこと気にしてんのかよ、いい加減諦めて元気出せって陣」

 下を向いていて、いつの間にか隣にやってきていた俺の親友である須藤隆也(すどうたかや)に気づかなかった。その無神経な物言いに、彼女、早川(はやかわ)紗奈(さな)に聞こえてしまうのではないかと慌てて振り返るが、もう既にそこに早川さんの姿はなくほっと胸を撫で下ろす。

「仕方ないだろ、中学の頃からずっと好きだったんだから」

 言い終えて自分の机に突っ伏した。

「あーあ。ほんとにどうしてこんなことになっちゃったかなぁ」

 今年、高校二年生となる高崎(たかさき)(じん)は、大きなため息をついた。
 早川さんと俺の出会いは中学に上がってすぐ。同じクラスで隣の席になった早川さんに一目惚れだった。冬の花のように白く清冽な冷たい香りのしそうな大人びたルックス。その容姿で心を奪われていたにも関わらず、話した彼女は、その完璧な容姿からは想像つかない、ちょっと大雑把な一面もあってそれもまた可愛くて。いわゆるギャップ萌えというやつだ。それが俺の初恋だった。

 早川さんがギター弾ける人かっこいいよねという話をしているのを聞けば、その翌日には近所の楽器屋に赴いた。迷うことなく、中学生には大金である二万のギターを即決で購入し、高校生に至るまで毎晩練習している程の熱中ぶり。我ながら健気なものだ。実りもしない努力をここまで続けてきたのだから。

「まぁ、でもさ。樋口はうちの学校のスーパースタ―だぜ? 樋口がライバルだってんだから諦めもつくってもんじゃないか?」

 最近、早川さんと付き合い始めた樋口はサッカー部の英雄なんて呼ばれている学内ではちょっぴり有名人の男だ。なんでも廃部寸前だったサッカー部を、県大会まで導いたことからそんなあだ名がついたとか。
 嫉妬するほどのルックスの良さ、運動神経に収まらず性格まで良いらしい。らしいというのは、俺は直接話したことがないからだ。

 うわさに聞く樋口は、物語にありがちの完璧超人という言葉がぴったりの爽やか王子様である。これだけ注目されていれば妬まれて一つぐらい悪い噂でもありそうなものだが、そんな気配すらないという。
 その彼女である早川さんも言わずもがなの人気ぶりで、学園のマドンナ的存在。中学の頃から、人気があったが歳を重ねるにつれ、その美貌は加速度的に進化した。

 そんな学内の有名人二人によるカップル誕生となれば、誰も口を挟めない。ファンからは阿鼻叫喚の悲鳴があがったが誰一人として何か行動に移そうとすらしなかった。それほどまでに二人は完成されていたから。
 その交際には俺の心も酷く動揺させられた。中学から今まで、早川さんに浮ついた話を聞いたことがなかったから油断していたのかもしれない。あれだけの人気ぶりならいくらでも最悪の想像は出来ていたはずなのに。

「そうはいってもさぁ……」

 俺は今日もう何度目かも分からないため息を、もう一度深くついた。

「相変わらずの信者だな。ここまで追っかけ続けてきたのは素直に尊敬するよ。好きな人のイチャイチャを毎日見せつけられているのは……心中お察しする」

 隆也はわざとらしく南無と手を合わせる。
 だが、そんなもので癒える程、俺の心の傷は安くない。今でも、目があったんじゃないかとただそれだけで胸が躍るほど早川さんのことばかり考えているというのに。現実はこうも冷たい。見守っているうちに高嶺の花どころか、完全に手の届かない誰かの物になってしまった。何度、夢だったら良かったと願ったことか。

「どうして俺じゃないんだと思う?」

 俺の問いに隆也は苦笑する。

「相手が悪かったんだよ。そろそろ陣も別の人探してもいいころなんじゃないか?」
「そんな簡単に言うなよ……。別の人なんてそう簡単に見つかる訳ないだろ」

 中学で早川さんに一目惚れしたのが俺の初恋だった。それから今に至るまで他の女子なんて眼中になかったのだから今更別の人なんてそんなすぐに切り替えられるものじゃない。

「機会がないってだけだと俺は思うんだよな。そもそも関わりがないと始まるものも始まらないだろ?」
「そうは言ったって、俺たちとまともに会話してくれる女子なんていないだろ」

 俺と隆也はお世辞にも人との関りが多いわけではなかった。

「彼女作ると人生楽しくなるぞ」
「いない癖に何を分かった風に」

 隆也は、俺の言葉ににやりと笑った。

「実は出来たんだよな。彼女」
「はぁ!? おま、いつの間に!」

 思わず、声が大きくなりクラスメイトが何事かと振り返る。注目を集めてしまい、恥ずかしくなり、慌てて身を屈める。初耳の内容だった。

「だって、この間まで俺と一緒に彼女出来ないって嘆いてたじゃないか」

 小声で問いかける。

「ここだけの話な? 俺もびっくりなんだけど、同じ部活の女の子と最近仲良くなってさ。流れで付き合うことになったんだ」

 全く気付かなかった。隆也は弓道部だったか? そこで仲良くなって……なんて本当にあるんだな。
 お調子者で、いつもおどけた様子の隆也に彼女だなんてにわかに信じられないが、どうやら本当らしい。運動はできるし、筋肉もあってモテない訳ではないと思っていたがこうも突然だとは思っていなかった。

「裏切り者かよ。でも、おめでとう」
「別に裏切っちゃねーよ。早く陣もこっち側にこいよ、楽しいぞ」

 幸せで仕方ないという無邪気な笑顔がむかつく。同じ独り身仲間だと思っていたのだが、どうやら置いていかれてしまったようだ。正直羨ましい。一人になったことで更に危機感が加速する。
 そうして、出会いはどんな風だとか、学年は一つ下だとかそんな話をしているうちに、気づけば時間が過ぎていった。

「もうこんな時間か。じゃあ俺は彼女が待ってるからそろそろ行くな」
「早速のろけか。いいよ、いってらっしゃい」

 隆也は、満面の笑みを浮かべながら教室から出て行った。愛しの彼女様を迎えに行ったのだろう。
 昨日まで一緒に帰っていた親友が、これからは彼女と二人で一緒に帰る。そのことに少し寂しさを覚えるが、俺が邪魔をするわけにはいかない。日の落ちる夕暮れ道を一人帰ることにした。





 いつもと同じ道だというのに、心は酷く荒んでいた。早川さんが、手の届かない存在になったことに加えて、仲間だと思っていた親友の隆也までもがパートナーが出来たというのだから。勿論、どちらも祝福する気持ちはあるのだ。あるのだが、素直に喜べず、妬ましいと思ってしまう自分の弱い心にも、余計に嫌気が差していた。
 こんな小さい器だったから早川さんにも振り向いてもらえなかったのだろうと自虐で心を癒す。こうして考えことをしていないと後悔と不安で押しつぶされてしまいそうだった。

 早川さんにアピールはしていたと思う。あまり積極的に話しかけることは出来なかったが、彼女の影響で始めたギターに気づいて貰えるように、用もなく学校にギターケースを持って登校してみたり。あれは失敗だった。重すぎて足腰筋肉痛になり、とても毎日持ち運ぶものではないと思い知った。バンドマンは想像以上に筋肉があると知った出来事である。
 それに早川さんのことであれば俺が一番詳しいと思うほどには、見てきた自信がある。ドーナツが好き、英語が得意。字が綺麗で小学生から書道を習っていることとか、仲良くしている友達だとか、いつもクールな彼女が笑うと犬歯が覗くことだとか。語ろうと思えばいくらでも語れることがあった。

 でも、そんなのも全部無意味だ。いい加減俺も、諦めて次に進む時が来たのだろうか。これだけ長い年月をかけてきたというのに、最後はあっさりと、どこの馬の骨か知らない男に横取りされた。早川さんに限ってそんなことはないと高を括っていたのがばかだったのだ。
 この際、俺ももう相手を選んでいる場合ではないのかもしれない。もう既に高校生でいられる時間も半分を切ろうとしていた。受験なども考えれば何も考えずに恋愛にかまけて居られる時間はそう長くない。
 人並みに、彼女が欲しいという願望や憧れがあった。もはや誰でもいい。とにかく彼女が欲しかった。


「浮かない顔してますね」


 道路の白線を見ながら歩いていた俺に正面から声が響く。声の主を確かめようと顔を上げると、そこには俺の目をまっすぐに見つめる女の子が立っていた。
 その目は見てわかる程に虚ろで生気が感じられない。彼女の言った浮かない顔をしているのは自己紹介ではないのかと言いたくなる。
 知らない顔だ。関わりの狭い俺の知っている範囲なんてたかが知れているので、知り合いなら一目見ればすぐに分かる。
 それにこの子のことを俺は絶対に知らないという確信があった。彼女は有り体にいって凄く可愛かったのだ。女性に興味のない俺でもそう思う。芸能人なのかとでも思うレベルで顔が良い。
 ぱっちりとビー玉を思わせる、夕陽を吸い込んで煌めく大きな二重の瞳。潤いを感じる柔らかそうな桜色の唇。そして病的で透けてしまうかと思うほどの肌の白さ。滑らかな体のラインに女性を思わせる少し主張強めの胸元。一度でもあったことがあれば、忘れることはないだろう。
 笑顔が似合うと断言できるが、彼女の顔は、暗く沈んだ無表情だった。どうしてそんな辛そうな顔をしているのだろう。こんな落ち込んだ様子の子から声をかけられる程に俺の姿は哀れに映ったのだろうか。
 彼女は制服を着てはいるが、俺の見覚えのない制服だった。少なくともこの辺りの学校ではない。俺よりも大分小柄だが、見た目からしてそう年は離れていないと思う。同年代だろうか。

「何か考え事ですか、困っていますか?」

 彼女の全身を訝し気に見ているのに気づいたようだが、彼女はそのことに触れず言葉を続けた。
その容姿に見合った可愛らしい声色。男ならそれだけで意識してしまいそうな甘い声だ。思考が上手く纏まらない。

「まぁ……はい。そうですね」 

 何とか答えたその曖昧な返事に、彼女はその無表情をわずかに動かした。

「私が三つまでなんでも願いを叶えてあげます」

 緊張しているかのように少し息を吸い込んだ後、突拍子もないことを口にした。彼女の言葉はまるで、ランプの魔人のようなものだった。
 それは、冗談を言うような様子でもなくただ淡々と、事実を述べるように告げられた。

「……はい?」

 内容の理解が出来ていなかった。三つ願いを叶えてくれるだって?おおよそ初対面の人間にかける言葉ではないし、そうでなくても正気とは思えない。まるで現世ではないどこかに迷い込んでしまったようだった。
 彼女の意図が読めない。怪しむ俺の様子に彼女は付け加えるように言った。

「もちろん、私に出来る範囲ならっていう条件付きですけど。魔法使いじゃないので」
「いや、そういうことじゃなくて……いきなり何を言い出したんだろうって」

 別に何をお願いしようかと考えて黙っていたわけじゃない。相変わらず彼女は無表情で、その暗い目の奥の感情は一切読み取れない。

「あなたが困っているっていうから」

 会話が成立しているようで、嚙み合っていない。いまだ、俺視点での彼女に関する情報は何もなかった。
 確かに、俺は彼女の困っていますかという質問に、はいと答えたが、そこからなんでも願いを叶えてあげますというのは少々話が飛躍しすぎていた。

「いや……結構です」

 どう考えても怪しい話だとしか思えなかった。こんな可愛い子と話す機会なんて滅多にないし、俺に警戒心がなければ諸手をあげて付いて行ったところだろう。だが生憎、そこまで思考放棄してはいない。美人局的なもので今にも物陰から屈強な男達が出てくるのではないかという心配が勝っていた。

「なんでもいいんですよ。私はあなたを助けたいだけ」

 彼女は俺の言葉に、ため息をついたが諦め悪く粘ってくる。

「なんでもって……」
「なんでもはなんでも」

 彼女は一体、俺の何を知っているのだろう。最近の女子高生は見ず知らずの男にこんなことを言うようになったのだろうかと心配する。だめだろ色々、と思う。
 俺はもう一度彼女を見た。その顔は、変わらず無表情で暗い影がかかっているが、それを補って余りある華があった。普段なら、ここで立ち去ってしまっていたかもしれない。だが、今日の俺の心は、不安定であった。
 彼女の可愛さとこの時の情緒、それを後から思い出しても、これからする発言を思うと、きっとどうかしていたんだと思う。


「じゃあ俺の彼女になってよ」


 言ってから、俺はしまったと口を抑えた。一体俺は何を口走った?
 こんなこと言うつもりなくて、俺はこれまで早川さん一筋であったというのに。
 取り返しのつかないことを言ってしまった。初対面の女子に対していきなり付き合ってほしいだなんて。告白? これは告白になるのだろうか、そんなつもりは全くなかったのに。
 突然、こんなことを言われたら、ドン引きだろう。

「分かった。それが一つ目の願いね」

 だが、彼女は笑うでも嫌な顔を見せるでもなくただ普通に、頷いた。

「いや、えっと……本気?」

 想像していた反応とは大きく異なるその返事に、思わずこちらが聞き返してしまった。

「あなたが言ったんでしょ?」

 彼女は不思議そうな顔で答える。仮にも告白されてここまで感情を出さずにいられるものなのか? と胡乱に思う。
 俺は彼女になって欲しいって言ったんだが、ちゃんと意味わかって返事してるよな。

「言ったけど、冗談というかなんというか」

 彼女は、そんな俺の様子などお構いなしで目線を落とし、スマホを操作し始める。そうして、俺に画面を見せてくる。

「これ私の連絡先。呼んでくれたらいつでも行くから」
「いや……俺まだ君の名前も知らないし。そもそも会ったばかりで、何が何やら分かってないというか」

 あたふたとする俺に、怪訝そうな顔を浮かべて名乗る。

「私の名前は水野綾(みずのあや)、十七歳。君の名前は?」

 ここに来てようやく彼女の名前と年齢が分かった。水野綾、やっぱり初めて聞く名前で聞き覚えはないし彼女も俺のことを知っていて話しかけてきた訳ではないようだった。
 尚更本気かと疑問が深まる。しかし、名乗られたのであれば俺も返さないわけにはいかなかった。

「高崎陣……同じく十七歳の高校二年生」

 水野は、こくりと頷く。

「陣くんね。これからよろしく」

 いきなり呼び捨てだった。俺のことを陣と呼ぶのは、家族と隆也だけなので違和感が拭えない。

「よろしくって……水野さんは一体」
「綾。綾でいいよ、付き合ってるんだから」

 水野さんのペースに俺は全くついていけていなかった。それにやっぱり付き合っていることになっているらしい。本当にそれでいいのか。
 聞きたいことや言いたいことはあるのだが、喉に閊えて声にならなかった。初対面で呼び捨てなんて言うのも俺には難易度が高すぎた。

「水野さんって」
「陣くんは彼女のことを、苗字にさん付けで呼ぶタイプなのかな。綾でいいよ」
「……水野さん」
「綾」
「……水野」

 俺の精一杯の譲歩に水野は不満そうな顔を浮かべたが、今はそれでいいよとでも言うように渋々頷いた。どうやらお許しが出たらしい。

「陣くんは、身長いくつ?」
「最後に計ったときで百七十二……いや、こないだ百七十三になったんだっけ」
「巨人だね」
「別に……平均身長ぐらいじゃないのか」
「そうなの? 私はあんまり詳しくないけど」

 自分から話を振ってきたくせに、水野はあまり興味なさそうだった。

「そういう水野は、いくつなんだよ」
「私? 私は、百五十五センチかな」
「ちっさ」
「そう? 平均ぐらいじゃないかな」

 小柄な水野と俺の身長差はざっくり二十センチ差。ちょうど肩のあたりに彼女の頭が来ている。

「あと願い事は二つだよ。他には何かある?」
「いや、特にない……けど」
「分かった」

 水野がどこまで本気で言っているのか分からなかった。今なら全部嘘でしたと言われても、何も驚かないし納得できる。
だがもしも水野綾という名前が本当で、付き合うというのも全部本気だとしたら? 俺は今とんでもないことを話しているのではないだろうか。そしてそもそも俺は本当にこの関係を望んでいるのだろうか?

「また思いついたら言ってね。じゃあバイバイ」

 そう言って、彼女はくるりと背を向け、立ち去ろうとする。待ってと声をかけようとして、息が詰まる。なんと声をかけたらいい。呼び止めて何を言う?
 考えているうちに俺の視界から水野の姿は消え、夕暮れの道には俺以外の姿は見えなくなっていた。残された俺は一体何が起こったのか分からず、ただしばらくその場所に立ち尽くしていた。




 
 その夜、俺は何故か部屋の掃除をしていた。夕方のあの出来事のことを考えていると、無性にそうしなければならないという使命感に駆られて体が動いていた。テスト前に突然掃除を始めるあの感覚に近いだろうか。嫌なこと、やらなくちゃいけないことを後回しにするあれだ。整理のつかない脳内を、部屋を片付けることによって物理的に整理しようとしていた。
 元々物の多い部屋ではなかったが、片付けた部屋にあるものといえば、勉強机、ベッド、収納棚、買ってからろくに読まずに放置されている小説に漫画、それにギターが置かれただけのシンプルな部屋。インテリアのようなものはなく、味気ないと言われればその通りだが、すっきり整理された部屋は、心なしか普段より広いように感じて達成感を味わっていた。

 一段落したところで、俺はもう一度今日あった出来事を思い出した。
 彼女が出来た。それ自体は凄く喜ばしいことでずっと欲しいと思っていたことでもある。でも、その念願の相手は早川さんではなく、今日出会ったばかりでよく知りもしない女の子。
 俺はこの先どんな顔をして早川さんに会えばいいんだろう。
 そう考えて、いやいやと首を振った。早川さんからすれば俺に彼女が出来たかどうかなんて明日の天気よりも心底どうでもいいだろう。彼女にとって俺はモブも同然なのだから。そのことでうしろめたさを感じるのはお門違いってやつではないのだろうか。

 だとすると、今俺が考えるべきなのは水野とのことをどうするかだった。だが、そちらは情報が少なすぎて納得できるような答えは出なかった。
 そもそも水野はまともな人なのか。いや、まともな訳ないよな……。
 人をからかって遊ぶタイプには見えなかったが、ただ通りがかって声をかけただけの男子高校生と付き合うなんて正気とは思えない。
 そもそも俺は水野を好きじゃないし、口をついて出てしまっただけだ。あれだけ可愛い子に告白をOKされたとはいえ嬉しさや感動よりも先に、戸惑っているというのが本音だった。
 三つの願いというのも、何を言っているのかよく分からないし、全てが突然すぎる。考えれば考えるほど思考の泥沼に落ちていくようだった。

 その時、俺のスマホが軽快な通知音とともに震え、宙に浮いた意識を引き戻す。
 何事かと目を向ければ、そこには件の水野からのメッセージが届いていた。

『起きてる?』

 ただそれだけの内容。だが、その一言で今日の出来事が、夢や幻の類でなくちゃんと現実であったと実感させられた。こうして連絡先を交換したのは嘘ではなかったのだから。
 時刻は、夜十時を回った頃。まだ寝るには早く、俺の目は冴え切っている。だが、すぐに返事をすることは躊躇われた。
 まだ、水野との距離感を図りかねていたのだ。このまま何も答えず、連絡先を削除すれば今日のことは全部なかったことになるんじゃないかとも思う。でも、果たしてそれでいいのか? 彼女のあの表情、考えていること。俺は何も知らない。願いを聞いてもらったのは俺なのに、彼女の方がよっぽど助けを求めているように見えた。ここで結論を出すには早すぎるような気がした。

『起きてるよ』

 俺はたっぷり三分程悩んだ一言を返した。そのメッセージは送った瞬間、まるでスマホの前で待っていたかのように、すぐに既読になる。

『明日の放課後、暇ですか?』

 そのことに驚いているうちにまた続けざまに返信が送られる。
 水野からのメッセージは、女子高生、仮にも彼女からとは思えないほど、淡白なものだ。
 年頃の乙女らしく絵文字もスタンプも使われていない彼女の文章は、暗い表情だった彼女の姿と重なり、実際に言っているのが簡単に脳内でイメージできる。

『暇だよ』
『じゃあ明日、古咲(ふるさき)駅に来てください』

 間髪入れずに返信が来るので、一息つく間もない。俺はたったこの一言を送るだけでも色々と考えているのだがそんなのお構いなしだ。
 古咲駅とは、俺の学校からは一駅離れた駅で、行けない距離ではないのだが、離れていることもありうちの学校の生徒は少ない。知り合いに見られたくない待ち合わせ場所としてはうってつけであった。
 水野から見た俺の印象を考えれば、いいものに映ってはいないだろうということは、流石に自覚している。助けてあげようと思った人間に、願いを聞いてあげようとしたら初対面で交際を申し込まれたのだから。だから、こうして誘ってくれるのも意外だった。
 そもそも、願いを聞いてあげるのも意味が分からないという話はあるが、それは置いておいて。どうして彼女になって欲しいという意味不明な願いを許可してくれたのかも、こうして話しかけてくれる理由も。俺はまだ彼女のことを何も知らなかった。

 断る理由も思いつかなかった俺は、分かったと返す。水野からは、おやすみとだけ来て、それで連絡は途絶えた。
 嵐のように突然現れ、要件だけ伝えて去っていったが、俺からこれ以上会話を続けようとはしなかった。分からないことだらけだがそういった疑問は、明日改めて聞けばいいと思ったから。
 俺は、今日のことを相談しようかと隆也を頭に思い浮かべたがやめた。あいつに相談すると、可愛いなら何でもいいんじゃね、とでも言ってまともに相談に乗ってくれないのが簡単に想像できる。わざわざ自分からひけらかすことでもないし話すのはまた今度だな、と納得する。

 俺は、日課である夜のギター練習をして、全てを忘れることにした。今日はもう考えるのはやめだ。明日のことはきっと明日の自分が何とかしてくれる。
 このどこか他人任せの俺の性根が様々な問題を後回しにして、その結果また新たな問題を生み出しているのではないかと気付いてはいるが、知らんぷりだ。
 ギターに夢中になっている間は全てのことを忘れられる。最初は早川さんに好かれたいと不純な動機で始めたギターも存外、俺に向いていたのかもしれない。流石にプロ並みとまではいかないが、譜面を見ればある程度なぞるように弾くことが出来る程度にはこの数年で成長していた。鼻歌を口ずさみながら、奏でる音に身を委ねた。





「ぼーっとしてどうしたよ」
「いや、なんでもない」

 普段からあまり授業を熱心に聞くタイプでは無かったが、今日は一段と気が抜けていて、ノートの隅に無数の棒人間を描く作業を数回繰り返していれば、気付けば昼休みになっていた。
 いつもの様に、近くの席を持って来て、俺の隣に隆也が座る。

「なんかあったなら聞くけど」
「強いて言うなら、自分でも分からない自分の気持ちに翻弄されてるってとこかな。目に見えない何かと戦ってる気分だ」
「的を得ないな。ポエムか?」
「ポエムを言いたくなる気分の時だってあるだろ」
「俺にはないな、あったとしても恥ずかしくて言えないね」

 隆也との普段と何も変わらないやり取り。水野のことなんてまるで何かの夢のように思う。

「それでさ、聞いてくれよ。彼女が……」

 またしても始まった朝から何度も聞かされる隆也の愚痴という名ののろけ話を、右から左へ聞き流しながら考える。
 ここにいる誰も、俺がたった一日であんな美少女と付き合い始めただなんて思いもしないだろう。本当に付き合っているのかは怪しいところではあるが、とりあえず嘘はついていない。

「……陣、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ、隆也が酷いこと言って振られそうって話だっけ」
「俺がいつそんな話をしたんだよ」

 この親友も随分と浮かれたものだ。きっと話したくて仕方なかったのを我慢していたが、俺にその存在を明かしたことによって制限が外れたのだろう。正直、一ミリたりとも興味はないが、幸せそうな親友を見ていれば、水を差す気にはならなかった。
昼休みの教室内には、俺たち含めいくつかのグループが形成されている。俺たちのような少人数の集まりもあれば、早川さんがいるキラキラ輝くような中心人物の集まった女子のグループ、運動部の連中など。平穏そのものである光景に、平和というのはこういうことを言うのだろうとしみじみ感じる。
 昼の時間は、早川さんが樋口で過ごしているわけでないというのは、俺にとって少しの救いでもあった。それが、どちらからの提案かは分からないが、きっとお互いに友人との付き合いがあって各々の時間を過ごしているのだろう。もちろんその分、放課後は部活前に会いに来ていたりと関係に曇りはなさそうなのがなんとも心苦しいが。

「それはそうとして、隆也。ちゃんとあれ、練習してるか?」
「う、まぁやってはいるけど」
「ならいいんだけど。浮かれすぎて忘れてたとか言わないでくれよ」
「分かってるよ」

 釘を刺したところで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。午後の授業のスタートだ。放課後には、水野との約束がある。あと少し辛抱の時間だった。




 
 長い一日を終え、放課後、俺は言われた通り古咲駅へと向かった。本当に来てくれるのか、どのあたりで待ち合せなのか。懸念は尽きなかったがそういったものは、着いた瞬間吹きとんだ。

「目立ちすぎだよ、水野」

 声をかけた水野は、昨日と同じ、見知らぬ制服に身を包んでいて、俺のことを認識するとぺこりと頭を下げた。

「そんなつもりないんだけどね」

 水野は、不思議そうに首をかしげた。
 俺たちの周りには、人だかりが出来ていた。正確に言うなら水野の周り、だろうか。彼女を見て、ひそひそと噂話をする声が聞こえてくる。
 遠目からでも一瞬で分かるほどの存在感の強さ。こんな田舎に似合わぬオーラは皆の共通認識だったようだ。その気がなくても注目を集めてしまう。それほどまでに水野は、この場に似合わぬ特異な存在だった。待ち合わせをするうえでここまで向いている能力もないだろう。遠目でも一瞬で見つけることが出来た。
 そんな美少女と待ち合わせをしているのがこんな男だなんて、野次馬の期待外れもいい所だろうが、何故だかその視線も誇らしい。

「とりあえず、移動しようか」

 とはいえ、視線に慣れていない俺にとってその提案は救いの船であった。


 俺たちは先程までの人通りが多い正面出入り口から移動し、木陰のベンチに並んで座る。隣に座る彼女は、相変わらずの超絶容姿であり自分なんかが何故ここにいられるのか分からなくなる。
 心ここにあらずというように虚空を見つめる彼女の横顔は、とても綺麗であった。その横顔に思わず見惚れてしまう。何も会話がないこの空気に水野は何も感じていないのだろうか。
 言葉に出来ない気まずさが立ち込める。呼び出したのだから何か喋ってはくれないだろうかと願うが、あいにくそんな様子はない。仕方なく俺から話しかけることにした。

「えっと、ごめん。待たせたかな?」

 俺の言葉に、水野の意識が現実へと戻ってくる。

「そんなに待ってないよ。むしろ思っていたより早かったぐらい」

 具体的に時間を決めていなかったから、もしかすると水野はかなり前からあそこにいたんじゃないだろうか。俺が来た時にはすでに人だかりが出来ていたことを考えると、時間が経っていてもおかしくないし、あの様子では何人かに声をかけられているのではないだろうか。
 水野を外で待たせるのは危なっかしすぎる。今度からは、ちゃんと時間を決めようと心に決めた。

「それで、用事って何だったの?」

 社交辞令とも言える当たり障りのない会話も程ほどに本題へ切り込むことにした。今日呼び出された理由、それを考えて今日一日少し浮いた気持ちで過ごしてきた。なんせ、女子と待ち合わせなんて初めてだったのだ。それが、初の彼女ともなれば昂るのは無理もない。

「用事なんてないよ」

 だが水野は、そんな俺の気持ちなど意にも介さず、あっけらかんとした様子でそう答えた。

「ない……? 何かあるから呼び出したんじゃ?」
「付き合っている彼女が、用もなく放課後にただ会いたいって言うのはおかしい?」

 赤面することもなくそんなことを言う水野に、俺の顔が熱くなる。きっと鏡で見れば、耳まで赤くなっているだろう。
 そりゃ、普通のカップルであれば何の用事もなく呼び出すのもあるかもしれない。だが、まだ俺たちにそれだけの関係値があるとは思っていなかった。会いたかったなんていう、それだけの理由で呼び出しなんて。そのことを恥ずかしいとも思っていなさそうなのが、また凄い。これが経験値の差だろうか。
 水野ほどの容姿であれば、もちろんそう言った経験は俺なんかとは比較にならないのだろうが、少し刺激が強かった。いくらなんでも過剰反応が過ぎたなと、咳払いで誤魔化す。

「おかしくはないけど……ただそれだけなのね」
「それだけだよ」

 また気まずい沈黙が流れる。感じているのは俺だけかもしれないけれど。
 彼女の首筋に滴る一筋の汗とその肌の白さにどきりと胸が鳴る。
 相変わらず彼女のペースは俺なんかには追い付けないほど早い。でも、これをはっきりさせないことには俺は心置きなく次に進むことが出来ない。勇気を出して聞くことにした。

「俺たちって本当に付き合ってるの?」

 我ながら、随分と気持ちの悪い質問だったなと思う。本当に付き合っているの? だなんてなんとめんどくさい男だろうか。だが誓って変な意味じゃなく、単純にこの関係を知りたかったのだ。その結果がこんなくさいセリフになってしまったのは不可抗力だろう。

「付き合ってるよ。昨日、願い事を聞いてあげたじゃん」

 水野の答えは、昨日と同じであった。と同時に俺が尋ねたいことでもある。

「その……願い事って結局どういうこと?」
「話した通りだよ。私が、何でも三つだけ願い事を叶えてあげる。でも、例えば不老不死にして欲しいだとか私に出来る範疇を 超えていることは無理。私は何か特別な力があるわけでもない普通の女の子だからね」

 聞いたときにも思ったが、自分の言っていることをきちんと理解しているのだろうか。こんな超絶容姿の女子高生が何でも言うことを聞いてくれるなんて、まるで男の夢のような話じゃないか。そんなの否が応でも破廉恥な方向に想像が膨らんでしまう。
 もし願いを言うのが自分じゃなかったら、といくらでも最悪の想像が出来てしまった。俺がとんでもないお願いをしたらどうするつもりなんだろう。とんでもないというのは、それはもう……あれだよあれ。
 顔色変えずに受け入れてくれそうなのがまた怖い。

「その、何でもって。嫌なことだったらどうするの?」

 俺だって普通の男子高校生。思うところはあるが、水野を前にして実際にそれを口に出すには勇気も度胸も何もかも足りなかった。それらがあれば言っていたかもしれないと思う自分が汚い。

「私がやりたくてやってるんだから嫌なことなんてないよ。言われれば何でも」

 本当にこの人は……。もっと自分の価値を考えてほしい。危なっかしくて外を歩かせられない。

「それ、他の人にも言ってないよね?」
「言ってないよ、陣くんだけ」

 俺だけという言葉に不覚にも意識してしまうのが憎い。
 ただこうして心配するように善人ぶっても、俺の最初の願いは付き合って欲しいだなんていう欲にまみれたことを言っているのだ。今更取り繕うことはできない。
 だって仕方ないだろ、あの時、彼女が欲しくて仕方なかったのだから。人肌恋しくて、彼女がいるという生活に憧れてしまった。でも、だからといってこんな無理やり言うことを聞かせるような形というのは、俺だって本意じゃない。水野は俺のことなど好きではないだろうし、俺もまた水野に好意があって言ったわけじゃないのだから。

「どうして、俺の願いを聞いてくれるんだ?」

 当然の疑問。俺の彼女であろうと接してくれていることから、本気で叶えようとしていることは何となく理解できる。それだけに、何故こんなことを俺だけにしているのかが気になった。
 水野は、俺の質問に、考えるように黙りこくる。彼女からの返事はいつも淀みなく一瞬で帰ってきていた。まるでよく出来たAIじゃないかとでも思っていたが、どうやら違ったらしい。

「それを聞くのが二つ目の願い?」

 じっくり考えた末に水野が答える。そのたった一言で、言いたくないことなのだと、分かりすぎるほど分かった。言葉にしないだけでその裏には強い拒絶があった。

「そんなに言いたくないことなら聞かないことにする」

 誰だって言いたくないことの一つや二つある。もちろん俺にだって。それをなんでもいうことを聞いてくれるという願い事を使ってまで掘り起こすほど野暮なことはしたくなかった。
 なので、俺はもう一つ聞きたかったことを聞くことにした。

「じゃあ、三つ願いを叶えてくれた後はどうなるんだ?」
「それも秘密。もし知りたいなら……」
「願い事で、ってわけね」

 水野はこくりと頷く。
 何となく彼女のことが分かったように思う。理由はともあれ、彼女は俺の願いを三つまで叶えようとしてくれている。
 俺の一つ目の願いである彼女になって欲しいという願いは、実際に忠実にこなしてくれていてその容姿、立ち振る舞いには非の打ちどころがない。その行動原理と目的は、未だ不透明で不気味にも感じるが、今こうして話している彼女から悪意は感じなかった。

 だとしたら、後は俺次第。俺の気持ち次第でこの関係が決まる。こんな可愛い子と付き合えるなんて普通に生きていたら、俺の人生ではありえなかっただろう。普通の出会いとは言えないとはいえ、このチャンスを棒に振ると思うと、手放しがたさに襲われる。
 だが、魅力を感じるのと恋愛感情はまた別軸だ。恋とは、可愛いから好きなんていう安直なものじゃない。沢山の積み重ねがあった上で、その先に芽生えるのが愛情であって一目惚れなんてものを俺は信じて居なかった。
 第一、俺はまだ早川さんのことが好きだし、こんな気持ちで付き合ってもいいのだろうか。水野も好きでもない男と付き合うのは嫌だろう。これから仲良くなっていけば、普通のカップルになれる日が来るのか?

 正解なんてどこにもないのかもしれない。だが、とにかく俺には正解が分からなかった。それでも、確かなのは、水野は爆発的に可愛くて、俺は猛烈に彼女が欲しい。その点で、需要と供給は成り立っていた。水野は俺に何かを求めている訳じゃないのだから焦る必要はないと思えた。

「色々、思うところはあるけど分かった。でも、とりあえずお試しってことで。それでいいかな?」
「私は何でも大丈夫だよ。お試しでも使い捨てでも君の自由」

 投げ槍ともとれるそれを、冗談でもなんでもなく言ってのける水野に苦い笑みが零れる。

「そこまで不誠実なことする気はないけど……これからよろしく水野」

 こうして俺たちの奇妙な関係は始まった。

 水野と付き合い始めてからも、俺の生活は特に変わらなかった。違う学校というのもあるが、会うのは学校終わりの僅かな時間。俺たちの距離感は縮むことも遠のくこともなく、あっという間に一週間が経過し、十月になっていた。

「高崎くん、そこの段ボール取ってくれないかな?」

 責任感の強そうな学級委員の女子生徒の声で、俺は足元に転がっていた段ボールを彼女に渡す。教室内は、装飾が飾り付けられ、クラスメイトが慌ただしく動き回っている。

「陣、どうよこれ?」

 呼ばれた声に振り返ると、執事のような黒のタキシードに身を包んだ隆也が立っていた。まるでコスプレのようなその姿に、おちょくってやろうかと思ったが、引き締まった体で意外と様になっているのが憎らしい。

「それ、本当に俺も着るのかよ」
「一人だけ着ないわけにはいかないだろ。結構いいぞこれ」
「あぁ、割と似合ってて言葉に困ってる」

 俺たちのクラスは週末に行われる文化祭にむけての準備を行っていた。クラスの出し物は、揉めに揉めた結果、お化け屋敷派を押し切り、執事メイドカフェをすることに決まった。といってもやることは、男子は執事服。女子はメイド服を着ているだけの簡易的な喫茶店である。
 今日はその衣装の試着が行われていた。気合が入っているとは思っていたが、凝りすぎだろ。女子達のメイド服もこの分なら、相当のクオリティで仕上がっていることだろう。
 教室は正にお祭り騒ぎといった様子で、各々が装飾や、看板、メニュー作成などの作業に取り組んでいる。一年生は、クラス展示をするという決まりがあったため、こんな風に自由に出し物が出来るのは二年である今年からなのだ。非日常感にみんなが浮かれていた。

「陣の方はどうよ?」
「ばっちり。もうほぼ完成」

 隆也の言うそれとは、俺が担当であったクラス宣伝の立て看板である。可愛らしいクマとウサギが描かれて真ん中には、『2の4 執事メイドカフェ』と大きく描かれている。
 担当であるとは言ったが、俺に絵の才能はない。絵の上手いクラスメイトが描いた線に沿ってスプレーで色を付けただけだ。色とりどりの塗料で彩られた看板は中々様になっているのではないかと思う。いかにもそれらしいものが完成していた。
 正直、始まる前は文化祭なんて一日で終わる物のために、一週間以上の時間と労力を割いて、準備するだなんてなんて無駄なイベントなんだ、という気持ちがあった。

 だが、実際に準備をしていて気付くものもある。この準備という段階でも充分にワクワクできるものだったのだ。確かに本番はかけた時間に対して、一瞬で終わってしまうかもしれない。だが、こうも大勢で何かに取り組んだ記憶と達成感はそう簡単に得られるものではない。この立て看板一つ仕上げただけでも既にやり切った感すらあった。何だかんだ俺はこの文化祭の準備というイベントを楽しんでいた。
 だが、俺はこのカフェ以外にも、文化祭で楽しみにしていることがあった。それが上手くいけばもしかしたら……。

「あれ、食材足りなくない?」
「あ、しまった! 試作品用の食材、買い足すの忘れてた」
「どうする? 今から買いに行ける人いるかな」

 調理班の女子達がざわざわと騒ぎだす。どうやら、用意していた食材が足りなかったらしい。

「じゃあ、私行ってこようか?」

 耳にこびりついて離れない何度も思い出した声。早川さんが助っ人に名乗り出る。

「本当! 早川さん超助かる、ありがとう!」
「全然! 私もちょうど暇してたし」

 早川さんのこういう誰かが困った時に自然に名乗り出ることができる所が、万人に受ける理由なのかもしれない。自分が褒められているわけではないのに誇らしい。

「でも一人じゃ重いから誰か男子に手伝ってもらおうかな」

 だが、わざとらしく肩をすくめて協力を仰ぐその早川さんの一言で、クラスの男子達の空気が一変した。

「ぜひ俺が!」
「いや俺だろ」
「お前ら引っ込んでろって、ここは俺が」

 先程までの文化祭の熱気とはまた別種の、負けられない熱き戦いがそこにはあった。
皆、口々に付き添いに申し出るが、その権幕に押される早川さんを庇うように女子が立ち塞がる。

「あんたたち、その服で出かけるつもり? 大体、まだ自分の仕事終わってないでしょ」

 言われてみれば、大抵の男子は裾合わせでタキシードを身に着けていた。外を歩くのに向いているとはとても言い難い。
 その最もな言い分にも諦めず、でも、と食い下がるが許可は下りない。それだけの積極性を出せるのは、行動を起こすことも出来ない俺から見れば充分尊敬に値する。好意を見せることが怖くて閉じこもっているより百倍ましだ。


「じゃあ、仕事も終わってて、制服も着てるやつならいいよな?」

 思わぬ方向から、その議論に口を挟んだものがいた。そう言ったのは、俺の隣に立っていた隆也。
 正直意外であった。隆也が普段こういった争いに関与することはなかったからだ。だからかもしれない、嫌な予感がした。
 そして、その勘は当たっていた。

「だってよ。行って来いよ陣」
「……は?」

 告げられた言葉を信じられなかった。
 俺をあの虎の巣につっこむなんて正気か? 案の定、誰だお前という目を向けられているのを感じる。圧倒的場違いで、隆也は俺を手助けしたつもりだろうが、その結果がこれだというのなら失敗であると言わざるをえない。

「うん、高崎くんなら安心だね」

 でも、そんな皆の疑惑の視線を裏切ったのは当の本人である早川さんであった。周りの生徒はとても納得している様子ではなかったが、本人が良いと言っているのであれば、だれもそれに異を唱えることは出来ない。俺本人ですら、まだ納得しきれていないというのに話が勝手に進んでいく。

「じゃあ、よろしくね高崎くん」

 俺は憧れの人の言葉にただ頷くことしか出来なかった。
 

◆ 


 そんなこんなで俺と早川さんは、学校近くのスーパーへと足を進めていた。
 早川さんとは、ほとんど一方的に知っているだけとはいえ中学からでそれなりに長い付き合いだというのに、こうして並んで歩くのは初めてじゃないだろうか。心臓はどきどきと早鐘を鳴らし、口内が乾く。
 変な顔をしてはいないだろうか。ちらりと横を見れば、何度恋焦がれたか分からない早川さんの凛々しい顔があった。透明感がある穢れを知らぬ白い肌、切れ長の氷のような瞳。だが、その奥から滲み出る性根の良さ。
 最近は、顔が強すぎるほどに整っている水野の影響で、少しは女性耐性がついてきた自信があった。だが、いざ早川さんを前にすればにやけて緩む表情筋を抑えるので精一杯だ。恋は盲目とはよく言ったもので、それ以外何も考えられない。修業が足りない、俺もまだまだだな。

「高崎くんとこんな風に二人で話すのは凄く久しぶりだね」

 何の前触れもなく早川さんに告げられたその言葉に、動揺しつつも何とか平静を装う。

「うん、久しぶり……って、俺のことちゃんと覚えてたんだ」

「中学一緒だった人ってうちの学校少ないでしょ? だから自然とね。あんまり話したことはなかったけど同じクラスになった時は嬉しかったんだよ」

 そう言って、早川さんは屈託なく笑う。
 俺のことなんて眼中にないと思っていたのに、ちゃんと認識されていた。ただそれだけだというのに堪らなく嬉しい。それに、同じクラスで良かったなんて、俺にはもったいない程の贅沢な言葉だ。その笑顔と言葉だけで何でも出来るとすら思えてくる。

「恐れ多くてさ、中々話しかけられなかった。早川さんは人気者だから」
「何それ。私はいつでもウェルカムだよ」
「周りにいつも人が沢山いるからそうもいかないって。その社交性は本当に尊敬するよ。俺なんて隆也……じゃなくて須藤ぐらいしか友達いないから」
「須藤くんと仲良いもんね。私も別に特別なことしてるわけじゃないよ? ただしたいことをやってたらみんなが助けてくれるだけ」
「天性の人たらしだ」
「てへっ」

 憧れの早川さんはやはり、知っていた通り圧倒的に可愛くて、それでいて親しみやすい。そのおかげか、思っていたよりも、自然に会話できている。二人きりで会話なんて想像は今までいくらでもしてきたが、まさか現実になるとは夢にも思ってもいなかった。
 隆也が俺を買い出しへ送り出した時にはどうなることかと頭を抱えたが、意外とやれるじゃないか俺。偉いぞもっと頑張れ。

「これだけ喋れるんだから、高崎くんももっと前に出てきたらいいのに。中学の時とかは、合唱コンクールのリーダーとかやってたよね? みんな高崎くんのことを知らないだけだと思うけどな」

 驚いた。俺自身ですら言われなければ思い出さないような中学時代の誰も気にしていないイベント。合唱コンクールで俺がリーダーを務めていたことを覚えている人が存在したのか。確かその年は、早川さんと同じクラスでもなかったはずだ。別のクラスのことにまで気を張っているなんてそれだけ周りを見ていたということだろうか。
 しかし、その記憶は少々語弊がある。というのもリーダーは、俺が自分から進んで志願した訳ではないのだ。誰も候補者がいなくて、半ば擦り付け合いのようなじゃんけんで敗北したというのがつまらない真実。早川さんの記憶の中の俺は、主体性があったと美化されているようだが、嫌々やっていた俺はやはり前に出ていく器ではない。

「よくそんなの覚えてるね。そんなことないと思うけどな」

 だが、わざわざそんな過去のことは訂正せず曖昧に苦笑して流す。
 早川さんと会話できている今が、夢の時間すぎて文化祭の買い出しの途中だということを忘れてしまいそうになる。あくまで俺たちは、足りない食材を買い足しに、仕方なく一緒に出掛けているだけに過ぎないと、舞い上がる自分を諫める。こういう時は自分を俯瞰で見るといいのだと誰かが言っていた。
 でも、それでも。こんなに至近距離でいられることに幸せを感じずにはいられない。

「高崎くんって優しいよね」

 前から迫ってきた車を避けるように道を譲ったところで、早川さんがぽつりとつぶやいた。
 早川さんのその言葉に、胸がはちきれそうなほど一杯になって、肺に上手く空気を取り込めなくなる。なんて甘い言葉だろうか。目も耳も幸せすぎてこのまま死んでしまいたいくらいだ。だが、死ぬわけにはいかない。

 そうして、はっと気が付いた。今ならあのことを言えるんじゃないだろうか。今年こそは勇気を出してやると決めたんだ。今のこの雰囲気を逃したら次なんて来ないかもしれない。
 言おうと決めると一気に体が緊張で固まっていく。それを、深い深呼吸で端から丁寧に解きほぐしていく。
 悶えたり深呼吸したりと挙動不審な俺を不思議そうに眺める早川さんのその姿で、また止むことなく好きが溢れてくる。長年の憧れが爆発していた。仮にも、水野の彼氏という立場ながら、そんなことは全く気にもならないほど目の前のこの瞬間に夢中になっていた。

「あの……早川さん!」
「ん? どうしたの?」

 言うんだ。今言わなければ後悔する。大丈夫だ、準備は嫌というほどしてきただろう。
 俺の真剣な表情に心なしか早川さんも緊張しているように表情を固める。

「文化祭のステージ発表。バンド演奏するので良かったら見に来てくれませんか?」

 口にして、時が止まったように錯覚する。返事が返ってくるまでの一瞬がとても長く感じられる。早川さんの顔色を、恐る恐る窺えば、全くの予想外とでもいうように驚いた顔をしている。

「うん、いいよ。見に行く」

 そうしてゆっくりと頷いた。

「……っつ!」

 声にならない声とともに思わず、手を握り締めてしまう。いわゆるガッツポーズである。慌てて後ろに手を隠す。

「でも、びっくりした。高崎くんって楽器できるんだね。何やるの?」
「えっと、俺はギターやることになってる」
「え、すごい! 私ギター弾ける人尊敬するんだよね。家でもよく動画とか見ててさ……」

 知っている。あなたの影響で俺はギターを始めたのだから。でも、そんなことは口が裂けても言えなかった。
早川さんが俺に向かって微笑みかけてくれている。この顔が見られただけで今日までギターを練習してきた甲斐があって俺は満足だった。
 バンドとは言ったものの、出るのは俺と楽器初心者の隆也。それに、ドラムが出来るという隆也の友達を合わせた即席の三人組だ。二人とも俺に付き合って出てくれているだけで、感謝が尽きない。一人では、踏ん切りのつかなかった俺の妥協案でもある。
 この発表にあたり、唯一のネックであったどうやって早川さんに見てもらうかも狙っていなかったものの、こうして約束を取り付けることが出来た。いや、今思えばそれも考えて、隆也は俺を買い出しへと送り込んだのだろうか。
 脳内で、頑張れよとウインクする親友の姿が浮かんできた。……考えすぎだな。

「バンドってことは誰かとやるの?」
「須藤と、その友達にドラム出来る子がいるらしいから合わせて三人かな」
「おぉ、本格的だ」
「と言っても須藤は初心者だし、俺は人前で弾いたことないから。そんな良い演奏は出来ないかもしれないけど」
「全然凄いよ、楽しみにしてる」

 早川さんは、想像より乗り気で、買い出しが終わるまであれやこれやと話を聞きたがった。そんな夢のような時間がいつまでも続けばいいと願ったが、現実はそういかない。ほどなく教室へと到着し、いつものように早川さんは皆の中心へと帰っていく。

「また、時間決まったら教えてね」

 別れ際にそう言って嫣然と微笑んだ早川さんは、間違いなく今日の夢に出てくると断言できるほど、他の何にもたとえようが無く、輝いて見えた。

「話できたか?」

 隆也の声で、現実へと引き戻される。にやにやとした隆也が俺の隣に立っていた。無意識に笑顔になっていたようだ。

「早川さん、バンド見に来てくれるってさ」

 それだけで、俺の言わんとすることは伝わったようだ。無言でお互いの肘を合わせ、ハイタッチを交わす。

「やれば出来るじゃん」
「練習は超ハードだからな。ちゃんと付いて来いよ」
「任せろ」

 何とか約束を取り付けることに成功したのであった。





「今日の陣くん、機嫌いい? なにかいいことでもあった?」
「え、そう見えたか?」

 放課後にこうして、水野と駅前で落ち合うのも日常になりつつあった。
隆也に伝わったのは長年の付き合い故だと思っていたが、どうやら傍目で見ても浮かれているほど俺の上機嫌は隠せていないようだ。

「いつも、どこか芯のないというか、心ここにあらずって感じで覇気がないのに今日は随分、生気があるから」
「水野がそれを言うのか……? 生気があるって、それじゃいつも死んでいるみたいじゃないか」
「あながち間違いじゃないかも」
「おい」

 そんな軽口を叩き合えるほどに、水野との会話に違和感がなくなってきていた。あまり人付き合いが得意な方でないと自負している俺にしては、一週間という異例のスピードで心を開きつつある。偏に彼女のことを分かってきていたというのが、一番の理由かもしれない。
 水野は最近、この近所に引っ越してきたこと、そのせいで、新しい学校にはまだ以前の学校の制服で通っているらしいこと。聞いてみれば、うちの学校からそれほど遠くない女子校に通っているらしい。名前では知っていたが、女子校となれば当然知り合いなどはいなかった。

 水野はあまり学校でのことを俺に話そうとはしなかった。放課後に友達と遊んだりしないのかと尋ねると曖昧な表情で誤魔化される。上手くいっていないだろうかと少し気になるが、水野は人と関係を築くのが上手いように思う。
 それが彼女の容姿に由来する対人経験によるものなのかは定かではないが、喋り下手である俺とも苦も無く会話してのけ、懐へと入り込む能力が高い。そんな訳で、俺が心配せずとも自分で上手くやっていけていることだろう。

 さて、少し話は逸れたが、俺はこの上機嫌の理由を水野に正直に話すべきだろうか。
 お試しとはいえ、彼氏彼女という関係性。そんな相手が、片思い中の相手を自身のステージ発表に呼び出すのに成功して有頂天になっているなど、面白くもない話なのではないだろうか。最悪、破局案件?
 別れるのに抵抗を感じる自分にも驚くが、未だ、水野がどんなスタンスで俺と付き合ってくれているかは分からない中、安易に口に出すことは憚られた。我ながら美少女二人に現を抜かすなど贅沢なことをしていると思う。
 迷った末、早川さんという存在を排除した上で伝えることにした。

「実は、今度の週末。うちの学校で文化祭があるんだ。そのステージ発表で友達とバンド演奏をすることになってるんだけど、それが上手くいきそうで。
だからちょっと機嫌よく見えたのかもな」

 嘘はついていない。全て本当のことであるから、噛むこともなく言葉に出来て、そのことに水野は何の疑問も抱いていないようだった。

「文化祭なんてあるんだね。陣くんバンドなんて出来るの?」
「ちょっとだけだけど。
だからそれもあって、文化祭までは練習で、放課後こうして話すことが出来なくなるかもしれない」

 そう言うと、水野は少し考えるよう俯いたが、すぐに顔をあげる。

「分かった、彼女ならそれは応援してあげるべきだよね」

 水野の言っている彼女なら、という意味は理解出来なかったが、分かってくれたのなら良しとしよう。会えないことでごねられるとは思っていなかったが、ここ最近、毎日一緒に過ごしていれば報告ぐらいして然るべきであろう。

「でも、条件がある。一日一回は、私になにかメッセージを送ることそれは約束だからね」
「なにか意味があるのか?」
「生存確認だよ。寂しいでしょ」
「分かった」

 俺なんかの言葉にそれほどの価値はないし、どこまで本気かは分からないが一日一回という条件なら苦にもならない。その程度であればちゃんと履行しようと二つ返事で許可を出す。
 水野は、見るものを魅了する輝く笑顔を見せてくれた。

 だが、関わるにつれ少しづつ見せてくれるようになったその笑顔も、確信こそないものの表面だけの作られた物に見えて未だに俺に心の全てを見せてくれているようには思えなかった。
 ふとした時に時折見せる、ここでないどこかに想いを馳せるような儚い表情。暗い絶望の淵にいるような、初めて出会った時の彼女の印象が蘇るが、実際に話せばそれを隠すように明るく振舞っているような節が感じられた。未だ、彼女の根に当たる部分には踏み込めていない。

 俺たちの関係は傍から見ればカップルそのものであったが、水野は、彼女という役割をまるで何かの義務のように取り組んでいるように思えた。彼女ならこうあるべき、彼女ならこうしているという、一般論的なイメージに沿って動いているような。その目は俺のことを見ているようで、ここにいない誰かを透かして見ているように錯覚する。それはこの関係が俺の願いによって成立していることを表しているようだった。
 とはいえ、一緒に過ごすこの時間に、最初ほど緊張はなく、俺は少しずつ安らぎを感じられるようになってきていた。
 帰宅した俺は、約束通り水野へとメッセージを送ることにした。

『生存確認』
『うむ、苦しゅうない。練習頑張ってね』

 相変わらず、送ったメッセージは一瞬で既読され、ありえないスピードで返信が来る。

『ありがとう、頑張るよ』

 女子とやり取りなんて、最初はむず痒い気持ちに襲われていたが、段々と慣れてきて自然になってきている自分がいることに驚く。人間の慣れというものは案外馬鹿にできない。
 約束も守ったことだ。週末まで悠長にしていられる時間は残されていない。早川さんに無様な姿は見せられないと、より一層気合を入れて励むことにした。





 それからしばらく。待ちに待った文化祭は、驚くほどあっさりとやってきた。

「こんな格好、とてもじゃないけど親戚には見せられないな……」
「……くっ! いや、俺はいいと思うぞ? 見る人が見たら味があるって」
「せめてその笑いを抑えてから言え」

 開店直前、忙しなくクラスメイトが奔走する中、俺は隆也に笑い者にされていた。隆也が、変にこの執事服を着こなしているせいで、並んで同じ服を着ているはずの俺の陳腐さが余計に際立っている。衣装の出来は悪くない。むしろよくあの予算で人数分をこのクオリティで出せたものだと思う。つまり、これは単純に俺の役不足。服に着せられている感が拭えない。
 せめてもの救いはこれが文化祭という非日常であり、俺一人のイベントではないということだろうか。廊下には恐竜の着ぐるみや包帯男が走り回っているのも確認できる。
 俺がため息をついたところで、ふいに、教室の入り口から黄色い声援が上がる。

「え、可愛い!」
「作ったやつ天才かよ」
「こっち向いて早川さん!」

 皆、口々に早川さんを褒め称え、写真に収めようとスマホを構えていた。そんな歓声が起きるのも仕方ない。俺も一瞬で目を奪われていた。
 男子が、執事服の一方で女子の制服はメイド服。白黒のベタな組み合わせでメイド服といえばこれといったイメージ通りの衣装に身を包んでいる早川さんの姿があった。その特徴的な長い黒髪を後ろで編み込んでおり、普段とは印象ががらりと変わって見える。ふりふりとしたレースで縁取られた膝下までのスカートから伸びる白い足は、素材の良さを遺憾なく発揮していた。
 優勝だろこんなの。この姿を見ることが出来るだけでもこの学校に在籍している価値があったというものだ。加えて、今日は一般のお客さんも来場することになっている。早川さんに接客してもらえるなんてどんな幸せだろう、俺が並びたいぐらいだ。
 その圧倒的ビジュアルの良さは話題になっているらしく、教室の外にはちらほらと別のクラスの面々も見える。それだけこの学校における早川さんの印象は圧倒的であった。

 実際、開店した後も、早川さんの宣伝効果は絶大であった。早川さんが教室の前に立って呼び込みをすれば面白いように客が入る。美少女というものは可愛い服を着てニコニコと微笑んでいるだけでこうも人目を引くものなのか。接客姿を見られると思っていたので、想像と違っていたことは残念だが、そんなことを気にしていられないほど店内は大忙しであった。

「高崎くん、これとこれ四番テーブルに持っていって」
「すみませーん。お会計まだですか?」
「このオムライス、頼んでないんですけど」
「はい、ただいま!」

 休む間もないとはこのことであった。俺たちのクラスの執事メイド喫茶は、まだ序盤とはいえ結果だけで言えば大成功と言えるだろう。だが、その成功の裏で調理係が、鬼の形相で仕上げた料理を、俺含むホールが全体に行き渡るように配膳して回り、食べ終わった皿を片付ける。爽やかな青春のイメージに反し、そこはピーク時の飲食店であり控えめに言って地獄であった。
 バイト経験のある面々が、こうも頼りになる存在に見えたのはこれが初めてである。俺は足手まといにならぬようついていくだけで精一杯であった。

 そんな勤務にも段々と体が慣れてきて余裕が出始めた頃。教室の入り口でザワザワと人だかりが出来ていることに気づいた。

「うわ、あれどこの学校の子だよ」
「レベル高すぎ」

 客がそう言って指を差すのに釣られて視線を向ければ、信じられない光景に目を疑いたくなった。

「えっと、二年四組ってここであってますか?」
「はい、合ってますよ!」

 尋ねた生徒はこの学校の制服ではない。恐らく一般の来場客なのだろう。その彼女から尋ねられた質問に、看板娘である早川さんがにこやかに笑って応対する。普通なら、誰もが早川さんのその圧倒的とも言える笑顔の前に存在感が霞んで見えるのだが、この時ばかりは大衆の視線はその客の方へと向けられていた。
 その客も、早川さんに引けを取らぬ、いや上回るほどの美少女であった。誰もが、その美貌に気を奪われていたが、この場で俺は唯一人、別の理由で冷たい汗を流していた。

 どうして来てるんだよ水野。
 美少女の二人の邂逅という、話題性抜群の出来事は文句なしに注目を集めていた。そのことに、水野は気付いているのだろうか。
 きょろきょろと辺りを見渡し誰かを探しているように思える。この時点で俺の中の危険信号は最大音量で警鐘を鳴らしていた。


「えっと、このクラスに陣くんっていますか?」
 時すでに遅し。あろうことか、早川さんに向けて俺の名前を発していた。俺の顔色は蒼白だったと思う。

「えっと……陣くんっていうと高崎くんのことかな。中にいると思うけど……どういう関係なのか聞いても?」

 早川さんは想定していなかった名前に、案の定戸惑っているように見えた。だが、その質問は俺にとって考えうる限り最悪の質問だった。

「彼女です!」

 いつもの調子でそう答えた水野に、場の空気が凍るのを感じた。嘘だろというように、俺を知る者から、教室内の視線が俺へと集まる。その内の一つである隆也のどういうことだという視線が胸に痛い。そりゃそうだ。どう考えても釣り合っていないし、今までそういった雰囲気を匂わせたことすらなかったのだから。

「へぇ……高崎くんの」

 全体に走った衝撃で早川さんがぼそりとそう呟いたのは、誰の耳にも届くことはなかった。
 当の水野は、ここでようやく教室内の俺に気づいたらしく、にこやかに手を振ってくる。こうなると、いよいよ言い逃れは出来そうになかった。俺は、全ての抵抗を諦めてがっくりと肩を落とした。

 そうして、俺と水野は何故か文化祭の校内を二人で回っていた。彼女が来たから気を使われたのか、注目を集め人だかりが通行の邪魔となったためか。恐らく両方の理由により、少し早めの休憩で自由時間を与えられたのであった。
 勿論、これは完全に想定外の事態だった。

「陣くん、どうしたのその恰好。その……面白いね?」
「感想に困るなら触れないでいいって」
「いやいや、似合ってると思うようん」
「本音は?」
「どうしたのそれ。絶望的に終わってるけど」
「聞かないでくれ」

 奇妙な目で見つめてくるその視線が痛かった。
 芸能人かと見紛う美少女と、不格好な執事のコスプレ男子という歪な組み合わせは、普段町中を歩くよりも更に視線を集めているように感じた。

「で、どうして来たんだよ」

 俺は、水野が来ることを一ミリも知らなかった。約束通り毎日メッセージは送っていたはずだが、そんなことは言っていなかったはずだ。

「来ちゃまずかった?」
「いや、まずいってことはないけど……」
「楽しそうに話してたから来ちゃいました」

 そう言っておどけて笑う水野を見れば、俺の怒る気も失せてどうでもよく思えてきた。それでもやはり伝えておいて欲しかったとは思うが、起こってしまったことは今更取り返しがつかない。大体、休日に何をしていようが水野の勝手で俺が干渉できることじゃない。
 問題は、どうクラスメイトと早川さんに説明するかってだけか。あぁ、考えただけで胃が痛い。
 思えば、俺が二年四組で執事メイド喫茶をやることや、ステージ発表のことなどを話していたのだから、来ようと思えば来れることをもう少し考えておくべきだった。土日で学校もないだろうしな。

「そんなことより、文化祭デートだよ。ね、あれ食べない?」

 そう言って水野が指さすのはカレーの屋台。店から漂うカレーの匂いは否応なしに食欲をそそる。

「文化祭デートって……まぁそうだけどさ」

 付き合っているカップルが、二人で文化祭を回るなんて、それは誰がどう見たって青春の一ページであった。俺は諦めて、水野と一緒にこの文化祭を楽しむことにした。
 財布を出そうとする水野に代わり、カレー二人分の代金を店番に渡す。
 すると、水野は驚いたように目を丸くした。

「陣くんってそういう気遣いできるんだ」

 一体、俺のことをなんだと思っているのだろうか。

「これぐらいは俺が出すよ」
「ううん、悪いよ。次は私が出す」
「いいって」
「本当にいいの。私にはお金なんてあったって仕方ないから」

 水野は、譲る気がなさそうだった。ぼそっと呟いた言葉は、何処か闇を感じる一言であり引っ掛かったが、差し出されたカレーを頬張れば、それはすぐに消え去った。

「うまっ!」
「ほんとだ、凄く美味し」

 いつも感情の薄い水野も、驚いているのが分かる。高校の文化祭でこの完成度なら誇っていいだろう。うちのクラスでもカレーを出していたが、カレー一本で勝負しているだけあって、こちらの方が美味しそうである。
 水野は、来てから何も食べていなかったのだろうか。気に入ったのか軽快に食べ進めている。ちょうど、お昼時、腹も空く時間帯だ。
 あっという間に二人とも完食していた。

「ごちそうさまでした」
「賑やかでいいね。みんな楽しそうで。はいこれ」

 水野の手には、いつの間に買ってきたのかチョコバナナが握られていて俺の分とでも言うように一本が差し出される。代金を渡そうかと考えたが、先程断られたばかりだ。今回はありがたく頂くことにする。

「水野の学校では文化祭とかないの?」
「んー、あるんじゃないかな。来たばっかりだから分からないけど。ただ、前いた学校ではこんなに大規模じゃなかったね。精々半分以下ってとこ」
「確かに、こんなに派手なのは中々ないかもな」

 校内は、どこを見ても人で溢れかえっていて、それは中庭や校庭に至るまで例外ではない。軽く見積もっても千人はいるんじゃないだろうか。お祭り騒ぎとはまさにこのことである。この辺りではかなり大きな文化祭であった。

「いいなぁ……みんな生き生きしてて」

 そう言って窓の外を見つめる水野の顔は、どこか達観していて寂しそうで。どう反応したものか悩む。

「水野は楽しくないの?」

 そう尋ねると、はっとしたように目を見開いた。

「楽しいよ。なんたって彼氏くんと一緒に回ってるんだから」

 直感で嘘だと思った。ここにいるように見えて、心はどこか遠い所にあるようなずっと冷えた雰囲気を感じる。それは、水野と関わる上で常に感じていることでもあった。
 俺は、水野のことを好きなわけじゃない。だけど、その凍り付いた心の奥底を見てみたいとも思っていた。心から笑った顔が見てみたいと思うのはどうしてだろうか。そんなこと言う資格はないと分かってはいるのに。

 随分と傲慢な人間だなと自分のことを再度認識する。こんな美少女を連れて歩いて周囲の視線を集めることに、若干の優越感を感じていることに驚愕する。その彼女の悩みの種を解決してあげたい、力になりたいと考えておきながら、この後のステージ発表で早川さんが来てくれることを楽しみに考えていたりする。
 俺は気付いていなかっただけで、浮気者の才能があるのかもしれない。だが、せめて目の前の出来事には、真摯に向き合うべきだ。

「俺も水野と回れて楽しいよ」

 自分でもこんな言葉が吐けることに驚いた。こんな歯の浮きそうなキザな台詞。何を言っても離れられることはないだろうという、依存にも似た信頼故かもしれない。
 驚いたように水野が俺の顔を確認して俯く。

「……来てよかった」

 照れたように俯きがちにそういう水野はしおらしくていつもの何倍も可愛く見えて。胸が苦しくなる。
 思わず顔が熱くなり、意識してしまいそうになるのを誤魔化すように話題を変えた。

「今日はいつまでいるの?」
「決めてないよ。最後までいようかなと思ってるけど」
「じゃあ、この後のステージ発表見てってよ。結構練習したからさ」
「そのつもり。バンドって楽しみにしてたんだよね」
「……やっぱりあんまり見ないでいいよ」
「えぇ、せっかく来たんだからちゃんと見るって」
「知ってる人に見られるのは緊張する」
「大丈夫、応援してるよ」

 そう言って、にこりと笑う水野の顔が嘘か本当か。判断はつかないが、力になる。
 そんな話をしているうちに、時間が迫っていた。

「それじゃあ、そろそろ行ってくる」
「うん、頑張れ」

 ぐっと、突き出された拳に、少し迷って俺も拳を突き返す。水野を一人にさせることに不安もあったが、絡まれた時のいなし方も慣れていることだろう。今は、自分の役割に集中することにした。


 待合室である用具室へ足を運べば、既に隆也とその友人は出番に向けスタンバイの最中であった。

「悪い、遅れた」

 顔を出してすぐに隆也が首に手を回し、ヘッドロックのような体勢で捕まる。

「遅れたじゃねーよ。あの子のこと、説明しろ」

 そうだった。水野のことを説明していなかったのを忘れていた。ずっと早川さん一筋だと思っていた友人に急に彼女だと名乗る女子が現れれば困惑することだろう。

「それは、後でゆっくり説明するからとりあえず開放してくれ」

 ギブアップというようにポンポンと腕を叩けば、ようやく拘束を解かれ自由になる。手早く揃いのラフなTシャツへと着替えながら、会話する。

「早川さんのことを忘れたとかそういうわけじゃなくてさ。なんというかちょっと特殊なんだって」

 隆也は同じく準備しながら首を捻る。

「なんだよその曖昧な答え」
「俺もよく分かってないんだから仕方ない」
「ちゃんと説明しろ」
「したいとは思うけど茶化すじゃん」
「そりゃあんな可愛い子なら」
「ほらな」

 そんな軽口を挟んでいると、いよいよ俺たちの出番も直前に迫っているらしかった。体育館へと足早に移動する。

「俺らの番、次だぜ。やばい、結構緊張するかも」

 先程まで平気な顔をしていた隆也も顔を強張らせている。

「こんな大人数に自分の演奏を聞かせるなんて俺も初めてだから緊張してる。隆也は心配しなくても最初より上手くなったって」
「初心者にしてはよくやってると自分でも思うけどさ。見ろよ、体育館満員だぜ」

 ステージ脇から様子を窺えば、なるほど。言われた通り、舞台である体育館は生徒と客で溢れかえっていて、もはや数える気も起きない超満員であった。このどこかに早川さんが来ていると思うと、一気に緊張が加速する。ミスは許されない。
 大丈夫だ、この時のために俺は今日までずっと練習を続けてきたんじゃないか。今更思い悩んだってどうにもできない。

『続いては、インスタントバンドの皆さんによる演奏です』

 放送部の男子生徒によるアナウンスとともに舞台が暗転する。
 インスタントバンド。寄せ集めで作られた即席の俺たちを表したバンド名である。ノリで決まっただけの名前がこうも大勢の前で発表されていることに戦慄する。
 顔を見合わせ、ステージに上る。暗闇の中、マイクの前に立ち深呼吸した。ギターを始めて以来、それを誰かに披露する機会なんてなかった。精々家族に聞かせる程度のものだ。その長年の成果が今日初めて発揮される。
 暗闇の奥に確かに感じる人の気配とざわめきに押しつぶされそうになるのを、吐き出す息で追い払う。横を見れば、同じように緊張しているであろう、隆也とその友人がいる。俺が無理言って出てもらったのだ。俺がしっかりしなくてどうする。
 照明が付き、見えなかった客席が露になる。その迫力に気圧されそうになるのも一瞬。俺のギターに合わせ演奏が始まった。


 始まってみれば、演奏に必死で、緊張はあまり気にならなかった。ドラムが出来るという隆也の友人は練習で分かっていたことだが経験者というだけあり上手いし、ずれたリズムを的確に調整してくれる。心配であった隆也も今のところ、ベースで大きなミスはせず、ボーカルを務めてくれている。
 息のあった演奏と隆也による煽りで観客が盛り上がっているのを感じていた。雰囲気が凍るようなトラウマ的状況にならなくて良かったと心から安堵する。
 今、演奏している曲は、最近の高校生なら誰でも知っているような曲をチョイスした。やはり、受けのいい曲を演奏している分反応もいい。
 俺の調子もすこぶる良く、過去一上手く弾けている自信がある。頭がハイになってきて、えもいわれぬ快感が押し寄せてくる。

 慣れてきて、客席を見る余裕も出来てきた。早川さんはこのステージを見てくれているだろうか。人ごみの中にその姿を探す。どこを見ても人人人。その中から、たった一人を見つけることなど不可能に思える。
 だが、どんな奇跡だろうか。俺は、後方に早川さんを見つけた。きっと長い間人ごみから早川さんを見分けて見守るような生活を送ってきたからだろう。
 でも、見つけない方が良かったかもしれない。
早川さんは、一人でなかった。その隣には彼氏である樋口が立っていた。その二人の手が固く繋がれているのを見た瞬間、熱くハイになっていた頭が急激に冷えていくのを感じた。
 そこからの記憶はなく、気が付けば演奏が終わっていた。割れんばかりの歓声と人生で浴びたことの無いほどの拍手。それに隆也のやり切ったというような顔で終わったんだな、と他人ことのような感想を抱いたのを覚えている。


「大成功だったな!」

 待合室へと戻った隆也は、成功を称えていた。

「あぁ……演奏はほんとに完璧だった。お客さんも凄い盛り上がってたし本当に楽しかった」

 隆也は納得いかないというように、首をかしげる。

「なら、なんでそんなに浮かない表情なんだ?」
「いや、そんなことないって。付き合ってくれて本当にありがとう」

 隆也の相手も程々に俺はその場を後にした。酷い対応だったと思う。
 俺は、早川さんが一人で見に来てくれると思っていたのだろうか。あわよくばこの演奏で俺のことを好きになってもらえるとでも? 俺が水野と共に文化祭を回っていたように早川さんもそうであるという可能性を排除していた。俺はなんて自分に都合のいい解釈をしていたんだろう。
 ギターを教室へ戻して、一人とぼとぼと歩いていれば、背後から早川さんに声をかけられた。

「高崎くん、バンド演奏見てたよ。かっこよかった!」

 それは、少し前の自分であれば飛び上がるほど喜んでいたであろう言葉。だが、その早川さんの隣には、今も樋口の姿があった。

「聞いたことない曲もあったけど、めちゃくちゃ盛り上がってた! ね、伸也?」
「初めまして。高崎くん……だったよな。実際話したことはなかったと思うけど。樋口伸也(ひぐちしんや)っていうんだ。よろしくな。音楽の良し悪しは俺には全く分からないけど凄い楽しかったしめちゃくちゃかっこよかった」

 そう言って、にこやかに握手を求めてくる樋口は、噂に違わぬ好青年で思わず委縮してしまう。目鼻立ちの整った風貌に、すらりと高い身長。決して低くはない俺の身長をさらに見下ろすほどの体躯だ。百八十センチを優に超えているであろう樋口は、纏っている覇気も相まり俺が女性であれば理想を体現している存在と言えただろう。

「ありがとう……」

 賞賛の言葉であったというのに、全く頭に入ってこない。こうも嫌味なく接されると恨み言を抱いている自分が惨めで仕方なくなる。弱い自分がどうしようもなく嫌だ。   
      
「ギター出来るなんてすごいな。俺、楽器系はからっきしだからさ、出来る奴のこと尊敬する」
「樋口にも出来ないことなんてあるんだな」

 こんなことでマウントを取るつもりはなかったのだが随分と陰湿な言い方になってしまった。でも、樋口はそんな俺の様子など意に介さず、爽やかな笑顔で流す。

「そりゃ、人間だからな。なんだって完璧ってわけないだろ」

 冗談交じりにそういって笑う樋口は、やっぱり完璧だと思う。今のたった少しの会話。それだけで生粋の『いい奴』なのだと確信した。完璧超人、樋口が否定しても噂に聞くその言葉に何の嘘もなく非の打ちどころが見つからない。

「でも、本当に凄かったよ! これは明日から絶対人気者だって」

 目を輝かせていう早川さん。でも、そんなことどうだっていいのだ。俺はあなたのために演奏していたのだから。あなたに届いていないのであれば意味なんかなくて。あなただけが俺の全てで。
 他の誰かからの評価なんて、心底どうだっていい。

「高崎も疲れてるみたいだし、もう行こうぜ。それじゃあ、またな!」

 俺の暗い様子に気付いたからか、樋口は早川さんを連れて速やかにその場を後にする。
 気も使えるんだな、最高に優しいやつじゃないか。良いやつすぎて俺の方が惚れてしまいそうだ。
 その憂鬱の種が自分であるということに気付いていなそうなのが、また最高に皮肉が効いていた。


 俺は、人の行き来する廊下の真ん中で立ち尽くしていた。通行の邪魔だというように、冷たい視線を浴びるがそんなことも気にならない。
 なにはともあれ、これで俺の文化祭の役割は終わりを迎えた。早川さんを諦めるには、最高のエンディングではないだろうか。早川さんのことは樋口に任せておけば幸せにしてもらえるだろうという確信と、幸せそうな二人の笑顔で頭が痛い。悔しくて堪らない。


「浮かない顔してますね」


 どれだけの時間が経ったか。いつかの聞き覚えのあるその台詞に振り返る。顔を向ければ、以前の再放送のように同じ姿の水野が立っていた。
 俺は、今日会いに来てくれていたその存在をすっかり忘れていた。どこかで水野も俺のステージを見てくれていたのだろうか。
 水野の目元は、何故か赤く腫れているような気がした。

「演奏、凄く良かった。本当に。」
「あ、あぁ……ありがとう」

 お世辞を疑うわけではなかったが、いつもの水野より言葉に感情が籠っている気がしてたじろいでしまった。ステージ上からでは見つけることは出来なかったが、どうやらちゃんと見てくれていたらしい。

「最後の曲、あれは陣くんが選んだの?」

 俺が先のライブで最後に演奏した曲。それは俺がこれだけはどうしても入れたいと言って練習した曲であった。それは、それまでの流行だけで選ばれた曲とは一味変わった選曲であった。
 ひと昔前のアーティストが愛を歌うだけのそのありふれた愛の曲は、言うなれば時代遅れであった。勿論、流行の曲だけで固めれば、盛り上がりは確実で心にも残ることだろう。だが、俺はそんな中で俺の個性を出したかった。観客の大半は名前すら聞いたこともないだろう愛の歌は完全に俺の好みでありこだわりだった。
 そのことに気付いてくれる人がいたことが驚きであった。

「そうだよ。よくわかったな」

 そう答えた刹那、水野の目の奥に何か様々な感情が灯ったように見えた。混乱、感嘆、哀愁、激情、落胆……どれも違うような気がする。そんな水野を見るのは初めてであった。

「そっか……」

 何を考えているのかはいつも通り、分からない。だが、その小さな体は何故か震えているように見えた。

「陣くん、さっきの女の子好きなの?」

 続けて告げられた内容は、想像の斜め上であった。さっきのと言われて思い当たるのはどう考えても早川さんのことであった。先程までの会話を見られていたということだろうか。一体、いつから? 周りの様子など全く見れていなかった。

「演奏中も見てたよね? そして、その後から浮かない顔してた」

 そんな所までばれていたのか。ステージ上の俺の表情なんてよほど注視していなければ気づかないだろうに。
 水野はどう思っているのだろうか。怒っている? 俺のことで感情を露にする水野なんて全く想像できなかった。だが、これも不誠実な立ち回りをしていた俺への報いなのかもしれない。もう、早川さんのことは諦めたとはいえ、なかったことになるわけではない。その結果、水野にどう思われようが自業自得だ。

「あぁ、好きな人だったよ」
「嘘つき」

 すぐに否定の言葉が入る。

「嘘なんてついてない」
「まだ好きならそう言えばいいのに」
「そんなこと」
「じゃあどうしてそんな顔をするの」

 俺の顔は、悔しさで歪んでいた。この期に及んで諦めきれていないことに吐き気がする。水野はやはり怒っているのかもしれない。その小さな口から放たれる言葉に俺は怯えていた。

「俺は、今回のライブで上手くいったらもしかしたら振り向いてもらえるんじゃないかなんていう都合の良すぎる想像をしてたんだ。そんな訳ないのに」
「だって早川さんにはあんなに完璧な彼氏がいる。彼女に向けて演奏した音も、その関係を盛り上げるだけの賑やかしでしかなかった」
「顔を見ることすら辛くて、みんなに協力してもらったのに何の成果も得られなくて」

「俺は俺が大嫌いだよ」

 想いの丈を一方的に吐き出し、水野の言葉を拒絶する。俺は、絶望していた。絶望なんて言葉を軽々しく使うなと言われるかもしれない。だが、俺は目の前が暗く沈んでいてそれは程度はともあれ確かな絶望であった。
 俺たちの間に気まずい空気が流れた。

「二つ目の願い事はありませんか?」

 水野の質問は果たして今でないといけないのだろうか。とてもじゃないがそんな気分じゃなかった。

「ないよ」
「何でもいいんだよ」

 水野は、時折こうして俺に二つ目の願いを聞いていた。だが、男の夢とも言えるこの状況も実際に遭遇してみれば案外出来ることも少ないのだなと実感する。
 水野は、何か特別な力があるわけじゃない。ただの普通の女子高生だ。たかが女子高生にできることなんてたかが知れているし、水野自身に関することを尋ねるのも憚られていた。

「私なら、陣くんの願いを叶えてあげられる」

 水野がゆっくりと諭すように呟いたのはいつかと同じ言葉であった。だが一体この状況で何が出来るというのだろう。

「私なら陣くんをあの人とくっつけてあげられる」

 意味が分からなかった。だが、その確信にも似た呟きは、俺の心を酷く揺さぶった。

「どういう意味だよ」
「そのままだよ。私が早川さんとの仲を取り持ってあげる」

 方法も何もかも見当がつかなかったが、嘘をついているようには見えなかった。
 
「俺はもういいんだ。早川さんには樋口っていうお似合いの彼氏がいて……その幸せを邪魔したくない」
「……本当にそう? 好きな人が別の人に幸せにされてそれで幸せなんて言える人間なんてこの世にいるのかな。
少なくとも私はそうは思わない」
「……」
「私は三つだけ君の願いを叶えてあげる。今、ここで二つ目の願いことを使えば私は陣くんの早川さんの彼氏になりたいという願いを叶えるために全力を尽くすと誓うよ」
「だから、私を捨てないで」

 水野の考えていることは、分からない。分からないことだらけだ。一体、何を考えているのか、俺と付き合っているんじゃないのかなんていうありふれた疑問で脳が溢れる。
 でも、そんなの今感じている渇きに比べればどうだって良かった。縋れるのなら藁でも良かった。

「俺を、早川さんの彼氏にしてくれ」

 俺は、水野と会った日から。いや、それよりももっと前から。とっくにどこか壊れていたのかもしれない。

「承りました」

 そう言って、スカートの両裾を恭しく持ち上げ、片足を斜め後ろの内側に引いて礼をする水野には、神々しさすら覚えた。そのメイドのような仕草は、カーテシーというらしい。
 まるで悪魔の契約のようだと思う。何でも三つ願いを叶えてくれるという悪魔と契約し、その全ての願いを叶えてくれた後、最後は契約者の魂を奪うという話だったはずだ。
 水野と俺のこの関係の先では、俺も同じように魂を奪われてしまうだろうか。ありえないと思いながらもそれでもいいと思えた。それほど、今という状況に希望を見出せなくなっていたから。

「さっきの演奏、本当に私は感動した、かっこよかった。あれが出来る陣くんなら大丈夫だよ」

 認めてもらえることがただそれだけで心を癒してくれると知る。
 水野も早川さんと系統が違えど疑いようがない美少女に分類される。一般的に見れば、その彼女とこうして話せているだけで俺も羨まれるほうに分類されるだろう。それだけで満足していてもよかった。
 見ず知らずの人間に頼むことではなかったのかもしれない。だが、水野なら本当に叶えてくれるのではないか。その不思議な期待が、俺に願いを口にさせた。
 以前までとまた少し変わったこの関係をどう言い表すかは分からなかったが、俺たちは変わらず不思議な絆で繋がっていた。

「明日、少し時間を作って。行きたい場所があるんだ」

 今までもこんな風に呼び出されることはあったが、今回はどこか違った。きっと、俺の二つ目の願いに関係することなのだろうと確信がある。
 先程までの苦い悔しさはいつの間にか不思議な高揚感へと置き換わっていた。

 怒涛の文化祭も終わり、俺は朝から近くのショッピングモールへと呼び出されていた。
 何をするか知らなかったが、今回はいつも放課後に会うのとは明確に違うところがあった。
 それは、学校終わりではないため私服を着ていることだった。恐らく、水野も同じだ。その事に、多少の期待を抱いてしまっている自分に驚く。
 こんなふうに休日にでかけるのは初めてのことであった。初の休日の外出……いや言葉を変えるのはやめよう。水野にその気がないとしても、傍から見ればこれはデートだ。
 変に気合を入れた服装で臨むのも変かなと柄にもなく悩んだが、結局、慣れないお洒落をすることは諦め、隆也と遊ぶ時のような動きやすいラフな格好に落ち着いていた。それは中学生の頃から大した進歩のない幼げなものだが、服装に頓着のない俺には恥ずかしさを覚えるほどのことではなかった。

 待ち合わせ場所に二十分前に余裕を持って向かえば、そこには既に水野の姿があった。いつもそうだ、水野は俺よりもいつも先に待ち合わせ場所に着いている。今日こそは水野より先に着いていようと意気込んで、早めに家を出たというのに一体いつから待っていたのだろう。
 そうして息を飲む。
 水野は、少し肌寒くなってきた十月の秋の気候に合わせ、白いフレアワンピースの上に、だぼっとした薄手のカーディガンを羽織った服装をしていた。普段の可憐さを感じさせる制服とは一転し、清楚さを感じさせるその容姿に息を飲む。それは相変わらず見る者の心を無条件で揺さぶる美少女のもので、道行く通行人はまるで、示し合わせてそうしなければならないかの如く、     皆、通り過ぎた後にもう一度振り返る。
 普段とはまた違った破壊力があり、呆れるほどのビジュアルの良さ。そんな水野に、早川さんとの関係を取り持ってもらうなどどんな巡り合わせだろうか。
 俺は明らかに隣を歩けるレベルがあるとは言えなかった。

「いつから待ってたの?」
「待ってないよ。今来たところ」

 その待ち合わせの定番の台詞は本来、彼氏である俺が言うべきものではないだろうか。近くで見れば見るほど、私服という特別感も相まって可愛さに拍車がかかっている。

「その……なんだ。似合ってるよ」

 こういう時に、自然と褒めることが出来る男がモテるのだろうが、あいにく俺にそんな器用な真似はできない。それでも、口に出来ただけ評価してほしいものである。

「ありがとう。でも、陣くんの服装はまだまだだね」

 褒めた評価に反して、俺の服装を上から下まで品定めするかの如く確認した水野はそう辛口に評価した。

「そんなはっきり言わなくたって」

 俺だって、自分のセンスのなさは自覚している。世間一般で騒がれる流行とやらを見ても今一つピンとこないのが俺の感性で、未だに母親の買ってきた服を着ているのだから仕方ないだろう。

「勘違いしないで。別に貶してるわけじゃなくて……そうだね。今日は、これから陣くんをかっこよくしてあげる」
「俺を……かっこよく?」

 今日の目的をまだ聞いていなかったが、それが呼び出された理由なのだろうか。俺をかっこよくするというのは一体どういう意味なのだろう。

「どういうこと?」
「今日は一日私に付き合って」

 それだけ言って水野は、ショッピングモールへと歩いていく。その背中にはとりあえずついて来て、と書いてある。そもそも、俺と早川さんを引き合わせるという不可能に付き合ってもらっているのだ。全てをまかせることにした。

 そうしてまず連れられた先は、人生で一度も立ち入ったことのないようなお洒落なアパレルショップであった。

「陣くんならそうだな。背は低くないから、こういう細身のスラックスなんかも相性いいと思うんだよね。あとはこっちのシャツもあわせて……」

 水野は手慣れた手付きで、いくつかの洋服を次々とピックアップしていく。だがそれは水野自身の物ではなく男物であった。
 俺をかっこよくするとは、本当に言葉通りの意味だったのかと、察しの悪い俺でも流石に理解する。

「待ってくれ、俺、服なんて自分で買ったことないし……そもそもこんな高そうな服買える金ないって」

 だが、俺のそんな悲痛な叫びなどそっちのけで、選ぶ手は止まらない。

「お金なら私が出すから心配しないで。それに、そんな恰好で早川さんの前に立つ気?」
「いや、私が出すってそんな訳にはいかないだろ」
「いいんだよ」
「そういうわけには…」
「もう、いいから。とりあえずこれ全部着てきて」

 そう言って、説得する間もなく、会話を拒むように両手一杯の服を手渡され、試着室へと押し込まれる。
 随分と強引な手法だったが、従うしかなかった。


「こんなの俺じゃないみたいだ……」

 渡された服は、どれも今まで俺が着ていた服とは系統も何も根本から違って、普段の俺であれば絶対に選ばなそうなものばかりだ。
 鏡の中の人物は、雑誌のモデルかのようなお洒落な服装をしているのに、付いている顔は相変わらず俺だ。それが酷くアンバランスで似合っているとはお世辞にも言えない。馬子にも衣装というが、それで誤魔化せるのは最低限の容姿があってこそである。自信のなさそうな冴えない顔を見ていると、申し訳なくなってくる。
 着替え終わったのを察したのか、カーテンの向こうから水野がひょっこりと顔を出してくる。

「似合ってるじゃん。じゃあ、とりあえずそれ全部買おうか」
「いや、流石に悪いって。それに俺にこんな服もったいない」

 着替えている最中に、値札を見たが、とても学生の小遣いで気楽に買える値段ではなかった。こんな布切れにどうしてそこまでの値がつくのか甚だ疑問である。
 それに、似合っている? どこを見ているのだと言わざるを得なかった。

「堂々としてれば、誰だってよく見えるものなんだって。陣くんは自分のことを信じてあげられてないだけだよ。私は本当に似合ってると思う。容姿は、作れるんだよ。
 それに、これは願い事の一環なんだから、その掛かるお金は私が出す」
「そうは言ったって……」

 早川さんの彼氏にしてほしいという俺の願い事に準拠するイベントなのだろう。こうも、強気に来られては俺の方が変なことを言っているような気になってくる。だが、それはそれとして、気軽に受け取れる金額ではなかった。

「それ、着たままでいいから。お会計してくるね」

 だが、水野は止める暇もなくレジの方へと歩いて行ってしまった。一度言い出したことを水野は曲げようとしない。それでもやっぱり全てを負担してもらうのは気が引けた。


 そうして、俺はその服を着たまま、美容院へと連れられていた。普段行っている理髪店に比べれば随分と高級感があり、流行を取り入れた若者向けというような印象を覚える。まさかこんな場所に自分が来ることになるとは思っていなかった。
 いつも行っている理髪店のくたびれた老夫婦が経営しているような言葉に出来ぬ安心感、あの雰囲気が好きだった。だが、ここはそんな普段の店とは打って変わり、髪色の派手な美容師が店内を慌ただしく動き回っていた。
 水野が、席に座る俺の後ろで美容師に何やら要望を出している。ちょうど前髪が目にかかってきて邪魔だと思っていたから、今のタイミングで切るのは渡りに船な話ではあったが、ゴールの見えない散髪というのは、初めての経験であり中々に恐怖であった。

「一緒に来られてるのは彼女さんですか?」

 散髪している最中、担当してくれていた若い茶髪の女性美容師が話しかけてきた。

「えっと……そう、ですね」

 どう答えるか迷った俺は、とりあえず肯定する。そう答えると美容師は微笑ましいものでも見るようににこりと微笑んだ。

「彼女さん、凄く可愛いですね」
「ははっ、そうですね……」

 俺は、凄く曖昧な返事しか出来ていなかった。水野のことを、彼女だと名乗ることには抵抗があったが、ここで否定するのもおかしな気がしたからだ。ただの友達と呼ぶには、特殊な関係であった。
 美容師はしばらく当たり障りのない、まさしく雑談という名にふさわしい会話を持ちかけてきたが、しばらくやる気なく返事していれば気まずくなったのか話しかけられなくなった。

 そんなこんなで、出来上がった俺の髪は、ワックスで丁寧にセットされ、今までの根暗で陰湿そうな印象とは打って変わり、さっぱりとして活発な印象を覚えるものへと様変わりしていた。
 その髪型にどこか見覚えがあって思い出せば、それは樋口に近いような気がする。思い出したくない顔を思い出し、苦い気持ちになるが、何はともあれ服装も合わさり、そこにはイケメンと言えなくもない俺も知らない新しい俺の姿があった。

「かっこよくなったね、陣くん」
「ありがとう……」

 今日出会って、最初に指摘されたセンスの無さが、嘘かのように生まれ変わっていた。ガラスに反射して映る自分の姿を見ても実感が湧かない。水野の隣を歩いていても、違和感がないように思われているんじゃないだろうか。正直、人間が一日でここまで変わるとは思っていなかった。

「ほんとに、何からお礼を言ったらいいのか」
「お礼なんていいよ。それが、願い事を叶えるために必要だっただけ。私は私のためにやってるんだよ」
「そうは言っても、今日だけでいくらお金を使ったんだよ。こんなに大量の服買ってあんな高そうな美容院まで行って。何かしないと気が済まない」

 俺は、水野に何も出来ていなかった。

「そんなこと考えなくていいのに」
「そうもいかないだろ。俺は何もしてないのに」
「私は私のためにしか行動してないよ」

 その表情には本当に迷いなんてものはなかった。

「……そうは言っても、何か対価を渡さないと俺の気が済まない」

 そう言うと水野は、難しいものでも考えるように顎に手を当てた。

「本当に気にしなくていいんだけど……でも何かしないと気が済まないっていうならそうだな」

 水野は、思いついたかのように、手を叩きにこっと笑顔になった。

「また私の前でギターを弾いてください」

 そうして告げられたのは俺のギターをまた聴きたいという、予想もしていない対価であった。

「……そんなことでいいなら喜んでやるけど」
「じゃあ今から!」
「今から?」
「陣くんの家で!」
「はい⁉」





 そうして急遽始まった水野の無茶ぶりは、両親が朝から不在だったことによって、何とか大惨事を免れたと言えるだろう。あのおしゃべり好きと会わせると厄介なことになるのが目に見えている。
 その危険性はあった訳だが借りがあった手前、断ることもできずに家に招くこととなった。
 かくして、俺の部屋のベッドの上には水野の姿があった。

 とんでもないことになった、というのが素直な感想であった。家に呼んだことがあるのは、高校以降でいうのであれば隆也ぐらいのものだ。幸い、この間思いつきで掃除したばかりのため、見られて困るようなものは何もない。いや、していなくてもやましいものなんてないのだから心配はいらないのだが。
 とは言え、水野を招くことは到底、想定外であった。

「言っとくけど、仕方なく入れてるだけだからな? 変なことするなよ」
「変なことって?」
「え? そりゃ……色々だよ」
「しないよ。彼氏の家に初めて来て嫌われることなんて出来ない」

 その言葉に恥ずかしくなって目を逸らすと水野はおかしそうに笑う。
 両親のいぬ間に彼女を誰もいない家に連れ込むなど、何も知らない人から見れば誤解されても言い逃れできない。
 水野は、昨日突然文化祭に押しかけてきた実績があるだけに何もしないという言葉は信用できなかった。しっかり監視していなければ一人で歩き回っていそうだ。
 水野が部屋にいるというのは凄く奇妙な感覚だった。部屋に俺以外の人がいるなんてそわそわして落ち着かない。何もない部屋だというのに、変なものは置いていなかったかと不安になる。

「綺麗にしてるんだね」
「今がたまたま綺麗なだけで、普段は別にそんなことないけど」
「だよね。私もそのイメージだった」
「まぁ、親からもよく怒られるし」

 親という単語を聞き、水野の顔が少し曇った気がした。

「私も綺麗にしなさいってよく怒られてたな……」

 水野は、その時のことを思い出しているのか遠い目をしていた。
 そんな気まずい空気が流れたのも一瞬。

「ねぇ、今更だけどどうして早川さんと付き合いたいの?」

 急に元気になり、冷かすようなテンションで尋ねてくる。

「なんだよ急に」
「いいじゃん、恋バナだよ恋バナ」
「なんで水野がそんなこと気にするんだ」
「陣くんが好きになった人はどんな人なのかなって。手伝うにしてもその人のこと知らないといけないでしょ?」

 もっともらしいことを言っているようで楽しんでいるだけとしか思えなかったが、子供のように無邪気にはしゃぐ水野を見ていれば隠すのも馬鹿らしくなった。手伝ってもらうわけだし、知っておく権利もあるだろう。
 俺は早川さんとの出会いを話すことにした。

「なるほどね、中学が同じだったんだ。それで好きになったと。なるほどなるほど」

 口に出して言われると照れくさくて聞いていられない。

「確かに、早川さん凄い可愛かったもんね。私にも親切に陣くんの場所教えてくれたし」

 水野は、俺の教室に遊びに来た時に案内してくれたのが早川さんだとちゃんと認識しているらしかった。

「まぁ、そういうこと」
「でも、可愛さなら私も負けてないと思うんだけど」

 そっけなく答える俺に対して、ベッドから水野がずいっと身を乗り出してくる。その距離の近さに椅子に座っていたが思わず背筋を引いてしまう。
 対抗心から来るものだろうか。確かに水野は早川さんの前でも霞むことなくその存在感を発揮できていた本物だ。その可愛さは俺が自信を持って保障できるが、それを本人に直接伝えるのは躊躇われた。

「なんで張り合ってるんだよ」

 問いには答えず質問で返すことによりこの窮地を切り抜けた。水野は不満そうに頬を膨らませる。

「陣くんあんまり私のこと見てない気がするから」

 言われて気が付いた。確かに、水野と話すとき無意識からか視線を外して会話していた。基本誰に対してもそうなのだが、水野は特に目を見て話すのが難しい。

「そんなことないけどな」
「ふーん」

 その返事も、目を見ることが出来ないため何の説得力も持たない。案外、水野は俺のことをきちんと見ているのかもしれない。

「ね、ギター弾いてくれない? 良かったらあの曲を」
「あぁ、あれね」

 部屋の隅に置かれていた俺の愛用のギターを抱える。文化祭に向けて練習していた指は、役目を終えた今もちゃんと各々がすべき動きを覚えている。目を閉じれば、メロディーが頭の中を流れだした。
 それは、昨日俺の文化祭で最後に披露した愛の歌であった。水野は昨日もこの曲に興味を示していたが知っていたのだろうか。随分と気に入っているようだが、そこまで有名な曲だっただろうか。俺にとっても弾いていてここまで楽しい曲は他にはなかったので悪い気はしない。

 一番の自信曲を弾きながら水野を見ると、水野はなんとその端正な顔に涙を浮かべて居た。
 どうして泣いている⁉
 気づいていないふりをして演奏を続ける。だが、内心は凄く焦っていた。俺が何か変なことをしただろうか。いや、少なくとも泣かせるようなことはなかったはずだ。さっきまでは普通に会話していて、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんだ。
涙を流す美少女と無言でギターを弾く男子高校生という奇妙な構図は、しばらく続いた。だがそれも無限には続かない。
演奏が終わり気まずさが立ち込める。水野は泣いていることを隠す様子もなく、鼻をすする音だけが、部屋に響いていた。どう声をかけていいものか戸惑う。

 ここまで水野が感情を露にしているのを目にすることは初めてで、どう触れていいことなのか分からなかった。昨日から、水野と俺の関係はまた変化があったように思う。本当の心を少しずつ見せてくれているのだろうか。
信頼故なのか、それとも何か転機があったのか。
 結局、何もいうことはできないまま、水野が落ち着くまで二人とも黙ったままであった。

「泣いちゃってごめんなさい」

 しばらくして水野がそう呟いた。

「別にいいけど」

 ようやく一段落ついたらしい水野の言葉に、ぶっきらぼうに返すことしか出来ない自分が情けない。きっとこんな時にかける言葉は沢山あるだろうに。それが出来ない自分が歯痒かった。
 水野は、それ以上自分が何故泣いていたのか話そうとはしなかった。
 俺のギターが泣くほど感動的だっただろうか。もしそうなら光栄なことだが、そうでないことぐらいは流石にわかる。どちらかと言えば、水野は無表情でこういう演奏や舞台を見て居そうだ。

「ギター弾けるっていいね」
「え? まぁ、俺の場合は早川さんのために練習してたら勝手に上達してただけだけど……。全部独学だし」
「どんなことでも、継続してやり続けることが出来るのは凄いよ。才能だと思う。理由はどうあれね」
「……ありがとう」

 ギターという趣味が認められるのは、嬉しいことであった。

「ねぇ、陣くん」

 水野は、まだ赤みの残った目元で、しかし真っ直ぐに俺の目を見つめている。ここまではっきり名前を呼ばれたことはなかった。いつもすぐに逸らしてしまう視線もこの時だけは逸らしてはいけないと直感していた。

「これからも、たまにこうして私の前で弾いてくれる?」

 まるで告白かのような真剣な表情。その整った顔でそんなことを言われているからだろうか。心臓が主張を強めて苦しい。
 きっと、慣れていないことに緊張しているだけ。それだけだ。
 水野の言う、これからもというのが、具体的にいつまでを指すのか。もしも俺の願いが叶ったとして早川さんと付き合うことになったら。その後はどうなるのだろうか。変わらず今の関係を続けて居られるのだろうか。
 何も答えは出なかったが、俺にここで断るなんて選択肢はなかった。

「俺でよければいつでも」

 それを聞いて、水野は心から安心したような、幸せそうな笑みを浮かべた。その顔は、他の誰よりどの瞬間の水野よりも可愛くて。胸が苦しくて……。


「ただいまー!」


 そんな雰囲気をぶち壊すように玄関のドアが開いた。一瞬何が起こったのか分からずに固まって、すぐに理解し、絶望した。  母親が帰ってきたのだ。
 今日は、朝から出かけていたはずだが、もう帰ってくる時間になっていただろうか。時計を見れば時刻は十七時半。確かに家にいてもおかしくはない。
 だが、どう考えてもやらかしていた。靴を隠していなかったことから、誰かが来ていることは既にあの人は察しているだろう。そしてそれはどう考えても隆也のものではなく女物だ。だとするなら、あの人が取る行動は。

コンコン!

「誰か遊びに来てるの?」

 俺の部屋のドアがノックされるのとほぼ同時に開く。

「そう思うなら、返事してから入ってきてくれよ」
「ちゃんと中の様子は伺ってからノックはしたわよ」

 部屋の前には、にやにやと嬉しそうな表情を浮かべた俺の母親が立っていた。俺は諦めて観念するしかなかった。
 そうして、きょとんとした顔の水野を見つけて、さらに嬉しそうに顔を緩める。

「陣が女の子を呼ぶなんて初めてかもね。初めまして陣の母です」
「えっと……初めましてお邪魔してます」
「ほら、もういいだろ。出てってくれよ」

 この二人を長い間対面させるのは俺の体がもたない。

「彼女さん?」

 本当にこの人は。思ったことをすぐ口に出すのは悪い癖だ。
 面白がってるだけだろと様々な思考が巡り、否定の言葉を発しようとするがそれより先に水野がこくりと頷いた。
 そうだった。水野は、誰に対しても俺の彼女である立場を隠そうとしない。だが、今はその水野に文句を言いたい。絶対めんどくさいことになると断言が出来たから。
 それを見た母親は、見たことがないほどの笑みを浮かべて居た。感極まりすぎてもはや泣き出すんじゃないかとすら思う。

「あら! 陣にこんな可愛い彼女が出来るなんて。信じられない」
「ほら、もういいだろ。出てって」
「そうだ。今日、夜ごはん食べてく?」
「母さん! 余計なこと言うなって。水野だって急にそんなこと言われたら困るだろ」
「喜んで!」
「ほら、困ってる……って水野さん?」

 予想外の水野の言葉に思わず敬語が出てしまった。

「水野ちゃんって言うのね。自分の家だと思ってくつろいでくれたらいいから」

 俺が何かを言う間に、とんとん拍子で話が進んでいく。どうして水野まで乗り気なんだよ。このまま放置していると、本当にどこまでも暴走していきそうだ。

「こんなにいいことあるのね」

 だが、心から喜んでいる母親の顔を見ると、強くは言えなかった。

「じゃあ、私夜ご飯の準備してくるから」
「あ、私も手伝います」
「本当? じゃあお願いしようかしら」

 嵐のようにやってきた母親は水野を連れて俺の部屋を後にしていった。


 その後俺は、料理を楽しむ二人の声を遠くに聞きながら帰ってきた父親と話しつつ、リビングでうなだれていた。

「まさか陣に彼女が出来る日が来るなんてな」

 しみじみとそう言う父親の言葉に胸がちくりと痛む。俺と水野は、きっとみんなが思っているような出会いではないし、付き合っているかと言われればきっとそうではない。無理矢理と言われても仕方ないのだ。だが、心から祝福してくれている手前、そんなことは言えなかった。
 今日初めて会ったとはとても思えないほど、キッチンから聞こえてくる母親たちの声は楽しそうで、一体何を話しているのか気になる。これ以上面倒なことにならないといいが。

「髪切ったんだな。服もいつになくお洒落だし」
「うん……色々あってさ。髪は結構伸びてたし」

 柄にもなく着飾っている俺の様子を見てそう言う父親の反応は無理もない。今まで、見た目に気を使ったことのなかった息子が急にこんな格好をして家に彼女を連れてきたとなれば誰だって彼女の影響だと思うだろう。まさかそれが連れてきた彼女でない他の誰かの為だとは夢にも思わないだろうけど。

「でも安心したよ。陣は学校でのことをあんまり話さないから」
「そんなこと……」

 ないとは言えなかった。普段、両親には学校のことはろくに話さないし、話そうとしてもいうことだって何も浮かばないほど変わり映えのない生活を送っていた。辛くもないが楽しくもない毎日。
 言葉にしていないだけできっと心配してくれていたのだろうということが伝わってきた。母親が、嫌にハイテンションで強引だったのもそんな背景あってのことかもしれない。

「ほら、ご飯出来たよ」

 聞き慣れた母親の声が響いてキッチンから水野と母親が顔を出す。心配しているにしてもこの状況は勘弁して欲しいものではあるが。
 俺と父親は、言われるがまま箸とお茶や夕飯の準備を手伝い、食卓へとついた。
 高崎家は、三人家族。基本、父親は仕事で夜が遅いため普段は母親と二人で食事を取ることが多いのだが、週末にはこうして家族で食事を取っていた。そんな、一週間のうちで少し特別感のある日に今日は俺の向かいに何故か水野の姿があった。

「綾ちゃん、凄い料理が上手くてびっくりしたんだから。これとか、綾ちゃんが作ったのよ」

 そう言って、煮魚らしきものを指差す。いつの間にか、下の名前で呼ぶようになっているあたり相当に打ち解けたらしい。俺だってまだ呼べたことないのに。
 水野も満更でもなさそうに頬を紅潮させている。そんな顔出来るのかと意外に思うが、確かに水野が作ったという煮魚は程よい塩加減で凄く美味しかった。いつも家で料理でもしていたのだろうか。自然に手伝いますという台詞が出ることからも手慣れていることが伺えた。

「綾ちゃんならいつお嫁に来てくれてもいいからね」
「な、何言ってるんだよ」

 この人は本気で言っていそうなのが本当に達が悪い。父親に助けを求めるが、我関せずとでも言わんばかりに微笑んでいる。 いつもそうだ。この家では、母さんが絶対なのだ。
 そんな俺たち家族の様子を、水野は何か懐かしい物でも見るような表情で見守っていた。
母親の言う言葉に、冷や冷やさせられながら食事をしていたが、何事もなく終えられたことにほっと胸を撫でおろす。
 ご飯を食べ終わった後も、良かったら泊まっていく? なんて声をかけられていたが、それは流石に全力で止めさせてもらった。これ以上、水野に迷惑をかけるわけにはいかなかった。

 別れを惜しむ両親を何とか振り払い、駅まで水野を送ってくるからと、二人並んですっかり暗くなった冬の夜道を歩く。
 二人並んで歩いていても、会話はない。そんな気まずい空気が嫌で、俺から話しかけた。

「その、今日は付き合ってもらってごめん。まさかあのタイミングで帰ってくるとは思ってなくてさ」

 水野は、ふるふると首を横に振る。

「本当に楽しかった。二人とも、いい両親だね」
「お節介がすぎるというか、先走っちゃうとこがあるのが困るけど。特に母さん。水野には悪いことした」
「凄く楽しかったから大丈夫だよ」

 夜の静寂はさっきまでの賑やかさがまるでずっと過去のことかのように思わせる。たった数舜前のことでも霞みがかったように思い出になっていくことに恐怖すら覚えるようだ。
 だが、水野と歩いた今この瞬間、この道は。雲間から覗いた白銀の月と共に俺は忘れないだろうという確信がある。

「水野は、親と仲良いの?」

 水野の顔を見ずに歩きながらそう尋ねた。隣を歩く水野の雰囲気が少し変わったが、この時の俺はそんな些細な変化には気づかなかった。

「私は……あんまりかな」
「そうなんだ」

 それ以上、踏み込むことはせず歩いていると目的地である駅の明かりが見えてきた。二人きりの時間ももうすぐ終わりだ。

「また遊びに行ってもいいんだよね?」

 水野は、確認するようにそう呟いた。その声は、寒さからか少し震えているかのように思う。俺は水野の顔を見ることなく言葉を返した。

「いいよ。またギター聞かせる約束だろ?」

 照れくさくて前を向けなかった。自分の中のこの感情を俺は知らなかった。早川さんに感じるものとはまた別種の物であることだけは分かっていて、でもそれはよく似ていて。答えを俺は知らなかった。
 その姿を視界に収めること無く言葉をかけたが、きっと水野は頷いた。

「うん、じゃあまたね」

 そう言って、水野は俺に背を向け、駅の中へと消えていく。後ろ姿になって俺はようやく水野のことを見ることができた。
 水野のその小柄な体が、歩くたびに少し上下するのを見ていると心がざわつく。これが最後というわけでもないのに、何故だかもう会えない気がして、いても立ってもいられない衝動に駆られる。
 だが、俺はやはり今日もあと一歩を踏み出すことが出来ず、踵を返した。呼び止めて何を言おうとしていたのかは自分でも分からなかった。

 週明け、学校に行った俺は周囲からの好奇の視線に晒されていた。それもそのはず、今まで目立っていなかった根暗の男子生徒がいきなり目にかかるほど長かった髪をさっぱりと整えて、イメチェンを果たしていたのだから。
 ヒソヒソと噂話をする声が聞こえるが、それはどれも悪い内容ではないように思う。加えて、文化祭では彼女を名乗る超絶美少女が遊びに来ていたのだ。噂となるには、充分すぎるほどであった。

「高崎くん、何か変わった?」
「文化祭のステージ見てたよ!」

 クラスの女子からそう声をかけられるのも、これで今日三度目である。水野によって俺をかっこよくするというミッションは、どう考えても成功であった。
 後は、早川さんの反応次第。程なくして教室に入ってきた早川さんが、皆の視線に釣られて俺を確認する。そして、確かに二人の視線が交錯した。そのことに、思わず息を飲む。
 早川さんはそんな俺ににこりと微笑みながら近付いてきた。

「高崎くん、髪切ったんだね。いい感じだけどどうしたの?」

 震えた。比喩でなく本当に体が震えたと思う。
 以前までであればこうして早川さんが話しかけてくれるなんてありえなかった。これは、文化祭の発表で距離が近くなったというのもあるだろうが、早速成果が出ているように思えた。ただ容姿を変えるだけでここまで変化が出るものなのだろうか。

「えっと、イメチェンかな」
「似合ってる! かっこいいよ」

 早川さんの言葉に脳が蕩けそうになる。かっこいい? 俺が?
 いや、お世辞だろう、お世辞だろうけど。嬉しくて堪らなくて飛び上がりそうになる。心の中で最大級の感謝を水野に伝え崇め奉る。

「早川さんにそう言ってもらえるなんて光栄だよ」
「……」
「……?」

 早川さんが急に黙ったことに何か下手なことを言っただろうかと不安になる。

「その早川さんっていうの、凄く他人行儀な気がしない? 紗奈でいいよ」
「え、いいのか?」

 俺の知っている限りで早川さんのことを下の名前で呼んでいる男子は樋口だけであった。その特別枠に俺なんかが入れるというのが信じられなかった。

「いいよ、高崎くんにはそう呼んでほしいの」

 それは一体どういう意味なのだろうと、はやる心を理性で何とか押さえつける。

「分かった……」
「うん、なんか堅苦しい感じがしちゃうしさ。同郷のよしみってことでさ」
「じゃあ、紗奈……?」
「うんうん! 私も陣くんって呼ぶからさ。良いでしょ?」
「分かった」

 紗奈は自慢の輝く笑顔で面映ゆげに微笑む。
 紗奈の甘えるような声で断れるわけがなかった。陣くんなんて、なんと甘美な響きだろうか。早川さんのことを好きな人からすればここまで嬉しい出来事はないだろう。されて嬉しい特別扱いなんて初めてだ。紗奈、と脳内で口に出すだけで照れくささが隠せない。
 関係は、目に見えて進展しているように思えた。
 だが、俺はこれから一体どうしたらいいのだろう。水野と紗奈はもう、もう対面してしまっているわけで俺に彼女がいることはもうバレている。これからアピールしていくことなんて出来るのだろうか。
 それにいくら仲良くなれたとはいえ、あの完璧超人の優男である樋口を差し置いて交際まで持っていける気がしなかった。





「私という存在がバレてるのならもういっそ利用しよう。私に考えがある!」

 放課後にそのことを水野に相談すれば、自信満々に水野はそう言った。
 その元気に溢れた姿を見ていれば、前回別れるときに感じた、もう会えないかもしれないという心配は杞憂だったと肩透かしを感じた。そんな気配は微塵も感じさせずにけろっとしている。

「利用するって言ったってどうするんだよ」

 俺の疑問はもっともだ。彼氏持ちにアタックするのが後ろめたいのと同様に、紗奈だって彼女持ちに下手に迫られれば俺の印象が最悪になりかねない。今やろうとしていることは、人道に反していると言われても仕方ないことなのだ。
 だが、水野には何か策があるらしかった。

「この状況を打開する方法。それは……ダブルデートに誘おう!」

 水野の言葉は全くの予想外であった。
 ダブルデートに誘うだって? 少し考えただけでいくつかの問題点が浮かぶ。

「待ってくれ。どうやってそこまで来てもらうんだ?」

 聞いて真っ先に浮かんだ疑問。まさか俺に誘ってこいなんて言うつもりじゃないだろうな。

「そりゃもちろん、陣くんが早川さんと約束を取り付けるしかないでしょ?」

 その嫌な予感は的中。やっぱりそうなるのかとため息をつく。はっきり言おう、無理である。俺の紗奈に対する感情は、強い憧れで今こうして紗奈と下の名前で思い浮かべているだけで照れくささが滲んで顔がにやけてしまう。こんな状態でまともに話せるとはとても思えないし、話せたとしてもデートの誘いだなんて基礎をすっ飛ばしていきなり応用をやらされている感覚である。

「紗奈を誘うなんて俺には無理だ」

 水野は、俺の言葉に不機嫌さを露にした。

「いつの間に紗奈って呼ぶようになったの」

 俺が不甲斐ないことに機嫌を悪くしたのかと思ったが、呼び方の方が引っ掛かったらしい。

「いや、そっち?」
「そうだよ、私のことは未だに水野なんて呼び方しかしないくせに」
「いや、だって水野はもう水野だろ? もう慣れちゃったから今更下の名前で呼ぶのは逆に変な気がするっていうか」
「あーあー。またそんなこと言うんだ。早川さんのことはあっさり呼び捨てにしたくせに」

 そう言って子供のように膨らむ水野は、年相応の女の子で、普段の達観してどこか冷めた目線で見ている彼女らしさを忘れさせられる。最近は、特に水野が俺に対して打ち解けてきているのを感じる。最初の頃の、無理に彼女を務めようとしている演技臭さが抜けて自然になってきている。これが本来の彼女なのだろうか。
 だが、水野に対する思い入れが増えることが良いことか悪いことかは今の俺にはまだ分からなかった。

「とにかく! 陣くんが頑張ってくれないとこの計画は上手くいかないの。それだけ仲良くなってるなら後はもう簡単だと思うけどな」

 他人事だと思って簡単に言ってるよな。そんな単純な話なら、もっと前に上手くいっているというのに。

「もし誘えたとして……ダブルデートしてどうするんだよ」
「どうするって?」
「樋口もいるだろ。えっと、樋口っていうのは、紗奈の彼氏のことなんだけど……」
「それは私がなんとかします」

 迷いなく言い切る水野に思わずたじろぐ。

「何とかって言ったって」
「とにかく、陣くんが二人きりになれる状況を作ることは私の名にかけて約束する。大丈夫だよ私に任せて」
「……」
「任せて」

 何を根拠にそこまで自信満々なのか知らないが、実際に行動に移すのは俺なのだ。そう上手くいくとは思えなかったが、元々、俺が無理を承知で頼んだことなのだから、体を張るべきだと言われれば返す言葉がなかった。

「分かったよ」

 諦めて、渋々首を縦に振る。水野はその俺の返事を見て満足そうに頷く。

「それで、いつ誘ったらいいんだ?」
「それより先に、どこに行くかかな。無難なのは、遊園地とかが撒きやすくていいけど」

 何とも物騒な理由を呟きながら、顎に手を当て考えている水野に呆れる。

「もう全部任せるよ」

 完全に自分の世界に入っている水野に、お手上げだというように両手を掲げるジェスチャーをする。

「大船に乗った気でいて! そのためにこの間、服を買いに行ったんだから」

 驚いた。確かに、学校では制服だから服を買う意味はないだろうと思っていたが、その時から校外でのダブルデートを計画していたのか。思い付きで行動しているだけかと思ったが想像よりもずっと、考えられていた。
 ふざけているように見えても、周囲からの反応が水野による計画が順調に進んでいることを確信させていた。きっとその脳内では、ダブルデートのその先のゴールまで見透かしているのだろう。任せていれば本当に達成してしまうかもしれないと、珍しく楽観的な期待を抱く。

 もしも本当に叶った時はどうしよう。紗奈と付き合えたら毎日が楽しくて仕方ないだろう。なにせ、今までずっと憧れてきた人なのだから。水野にはいくら感謝しても足りない。そうだ、二人を家に招いて演奏会でも開こうか。二人とも俺のギターを好きだと言ってくれたし気が合うのではないだろうか。
 だが、そこまで考えてある可能性に思い至った。
 もし、現実になったとしてその世界で水野の立ち位置はどうなっている? いくらなんでも今まで通り付き合っているわけにはいかないだろうし、そうなれば関係が変わるんだろうか。だが、紗奈からしたら元カノという枠組みになるはずだし一緒にい るのをよく思わないんじゃ?
 俺はまだ水野に三つ目の願いことを言っていない。それがなくならない限りは水野との関係が切れることはないだろうという確信にも似た信頼があるが、その後の想像がつかなかった。俺たちを繋ぐ願い事という絆がなくなった時どうなってしまうか分からない。水野がいない生活を想像すると何故だか胸に影がかかるのが不思議だった。

「それじゃあ、陣くん。早川さんへのお誘いよろしくね!」

 悩む俺を他所に笑顔でそういう水野を見て、先程安易に了承してしまったのを後悔した。





「ダブルデート?」

 俺の言葉を聞いた紗奈は、不思議そうに首を傾げた。そりゃ、そんな反応にもなる。こういうのはお互いのカップルの仲がいいときにやるものじゃないのだろうか。俺の周りにそんな話は全くなかったため完全に想像だが。
 とにもかくにも、俺の誘いは完全に怪しさマックスであった。面識がゼロではないといえ、最近少し話すようになった男子とその彼女。その組み合わせでデートにいかないかなんて、どう考えても調子に乗っているか、距離感を図り違えている。紗奈の前で俺は恥ずかしさで死んでしまいそうだった。
 やっぱり無茶だったんじゃないか。言うんじゃなかったと後悔に駆られていた。

「伸也に聞いてみないと分からないけど私は全然いいよ」

 だから、紗奈がOKしてくれた時、本当に驚いた。

「いいのか?」
「うん、私もダブルデートなんて初めてだけど、陣くんも来るんでしょ? だったら別に問題ないんじゃないかな」

 これも身だしなみを整えた成果だろうか。それだけでこうも上手くいくとはとても信じられなかった。水野との話で、一番の鬼門であると思った紗奈からの確約は想像以上にあっさりと得られたのであった。

「そ、そう。詳しくはまた連絡するから」

 思わず気が動転して、変に声が上ずる。

「なんで陣くんが焦ってるの。変なの」

 そう言って、無邪気に笑う紗奈を見ていると胸が高鳴ってうるさい。
 達成感を胸に、自分の席に座ればまたすぐに背後から声をかけられた。

「おい、ちゃんと説明しろよ」

 興奮した様子で話しかけてくる隆也がいた。

「急にそんなカッコよくなってるし、何で早川さんとあんなに親しそうなんだよ。それに、文化祭に来てた彼女のことだってまだ聞いてないぞ」

 隆也には未だ諸々の説明を何一つしていなかった。これまで親身に接してくれていたことを考えると、これ以上水野のことを隠しているのは心が痛むところがあった。

「そうだな……ちょっと長くなるんだけど聞いてくれるか?」

 どこまで話すかは迷ったが、水野との願い事という特殊な関係だけを隠して最近あった出来事を話すことにした。
 超可愛い他校の彼女が出来たこと、その彼女にお洒落を教えてもらったこと、早川さんのことを紗奈と呼ぶようになって今度ダブルデートに行くことになったことetc。その全てを、真剣な顔で聞いてくれた。

「俺の知らない間に進展しすぎだろ。で、えっと? その彼女がいるのに、早川さんとも遊ぶのか? なんのためのダブルデート?」

 俺と水野の関係を、純粋なカップルだと話したことから、当然の疑問が飛んでくる。普通に考えたら、付き合っているのに別の人の彼女を寝取ろうとしているなんて想像つかないだろう。

「えっと……文化祭であった時、彼女が紗奈とも仲良くなりたいって言っててさ」
「あぁ、確かに陣を迎えに来た時にちょっと話してたもんな。そういうことか」

 即席で考えた言い訳だったがどうやら納得してもらえたらしい。水野の名前を勝手に使うことにはなったが、それは許してもらえると信じよう。

「なにはともあれ、おめでとう。陣の相手が早川さんじゃないのは残念だけど、彼女欲しいってのはずっと言ってたしな」

 嘘をついている手前、祝福の言葉を素直には受け取れなかった。
 だが、親友に多少嘘をつくことにはなってしまっても、俺と水野の関係は言いふらすようなものじゃない。二人だけの秘密というのも悪くなかった。

「ありがとう。これで隆也と一緒だな」
「一緒どころか先に進みすぎだっての。あんな可愛い子大切にしろよ」

 そう言って心からの笑顔を浮かべる隆也の言葉は少し胸に刺さった。
 普通に生きていれば、俺なんかが水野ほどの可愛い子と付き合うなんてありえなかったのだから。だが、隠すと決めた以上打ち明けることは出来なかった。





「陣くんなら出来ると思ってたよ」
「そんな簡単に……結構大変だったんだからな」
「でも言えたんでしょ? やったね」

 報告した水野は、嬉しそうにそう言った。俺の願い事を叶えても水野にとってはいいことなど何もないだろうに、何故ここまで親身になってくれるのだろうか。だが、それは以前尋ねて強い拒絶を示された話題でもある。
 最後の願いを使えば聞き出せるだろうが、三つ叶え終わった後に待っている何かに比べれば恐怖が勝り、どうでもよかった。俺たちの関係は、この願い事という制度のもと成り立っていると薄々理解していたのだ。

「どうしたの?」

 どうやら、険しい顔になっていたらしい。様々な思考を塗りつぶし外面の笑顔を張り付ける。

「なんでもないよ」
「?」

 水野は、胡乱げに俺の笑顔を見ていたが、問い詰めようとはせず手元のジュースを口に運んだ。俺たちは、いわゆる喫茶店にいた。普段、一人なら入ろうとも思わないようなお洒落な雰囲気に気圧される。年齢層は比較的若めで学生が多いが、奥の席には老夫婦も見える。
 今まで無意識に行先の選択肢から外していたがそこまで身構える必要はないのかもしれない。

「それで陣くん。この後、家に行ってもいいですか?」
「いいよ」

 あれから水野は、たまにうちに遊びに来るようになっていた。今では、両親ともすっかり馴染んでいて俺の居ない時でも来ていいからねと言われる始末だ。仲良くしてくれるのは大変結構だが、俺は冷やかされてたまったものじゃない。
 俺が手を出せないのを良いことに、くつろぎにも貫禄が出てきた。ギターの練習を聞いて部屋に置いてある漫画をベットに寝転んで眺め、たまに夜ご飯まで食べて帰る。良いのだが。良いのだが、流石にくつろぎすぎではないだろうか、ねえ水野さん? 分かってらっしゃいますか?

「作戦会議をしないとだね」

 そんな俺の冷めた視線を無視して、水野は言った。

「お願いします」

 作戦会議とは、勿論今度に控えたダブルデートに向けてである。
 ここまで紗奈との関係を順調に進められているのは誰がどう考えても水野のお陰であった。俺は、その知恵に素直に乗っかることにした。
 その後、本番に向け、みっちりと作戦会議という名の元、指導が行われた。その内容は当日の立ち振る舞いに会話の持たせ方。初歩的なものから応用編まで。おんぶに抱っこではあったが、経験豊富な水野のアドバイスはどれも俺には有意義なもので勉強になった。
 その勉強会の甲斐もあってか、樋口が許可を出してくれたらしく、今週末遊園地に行くことも後日正式に決定した。

「大事なのは、自信。迷ってたり恥ずかしがってる所を見せちゃダメ。自分の行動に自信を持ってれば自然とそれらしく見えてくるから。大丈夫、陣くんはかっこいいよ」

 水野の言葉が、脳内を反芻する。大事なのは自信だと何度も自分に言い聞かせる。
 服装、髪型、とにかく容姿全般は水野から合格点を頂いた。自然な気遣い、話術も教わった。
 後は、俺の覚悟だけだ。俺はこのデートで紗奈に振り向いてもらう。





 迎えた週末。待ち合わせ場所には、俺と水野が既に到着していた。紗奈たちに伝えた時間の三十分前に俺たちは、集合しておくことにしたのだ。
 水野は、また今までに見たことのない可愛らしい服装をしている。桜色のフロントボタンワンピースに腰に巻かれたリボンが華奢な彼女の体を表している。水野らしさを存分に活かした見るものを魅了する服装に、ここぞという時に持つような黒いハンドバックまで持っている。
 会う度に服が変わるが一体何着持っているのだろうか。俺にはその優劣は分からず、そのどれもが勝負服と言って差し支えないように思う。

「陣くん、ちゃんと準備してきた?」
「任せてくれ。ちゃんと沢山寝てきたし朝ごはんも食べた」
「まぁ……うん。それも大事だね」
「いや、冗談だって。ちゃんと言われた通り、会話の内容イメトレしてきた」
「はいはい。それだけ元気そうなら大丈夫そうだね、思ったより緊張してないみたいだし」

 言われて気が付いた。想像していたよりも、今日という日を迎えるに当たって俺に緊張はなかった。以前なら、紗奈が絡むことであればそれだけで胸が高鳴り、視線を交わすだけでどきどきが止まらなかったというのに。心臓は、冷静そのものだった。
 やはり、バンド演奏で大勢の前に立った経験が出来たからだろうか。あそこで人からの視線に慣れて、更に見た目も大幅にイメチェンしたことで自信がついたように思う。今なら、樋口ともいい勝負が出来るのではないかと根拠のない自信が湧いてきていた。

「あれ、お待たせしちゃったかな」

 しばらく水野と会話をしていれば背後から声をかけられて、振り返る。それは予想通り、紗奈と樋口であったがそのあまりの神々しさに俺は目を奪われていた。
 私服というものはどうしてこうも心を揺さぶるのだろうか? 紗奈はそのイメージ通り、涼し気な薄青色のシアーシャツに下半身のラインを出す膝下までの黒のタイトスカートで大人の女性らしさを演出しており至高の出来栄えと言わざるを得なかった。
 隣に並び立つ樋口も、そんな紗奈に全く引けを取らず、その長身に良く似合う爽やかで清潔感溢れる白のロングTシャツにネックレスと、水野に完璧にコーディネートして貰った俺に匹敵するレベルで整っていた。
うちの高校のトップツーが本気を出すとこんなことになるのだなと、気圧される。

「全然待ってないよ。俺たちが早く来すぎちゃっただけで」
「だよね? 絶対私たちの方が早いと思ったんだけどな」

 今は、本来の約束の時間の十分前。充分に余裕のある間隔だし、俺たちが早く集まっていなければ紗奈達に先を越されていたかもしれない。

「高崎とはこないだぶりかな。彼女さんも初めまして、樋口伸也って言います」

 樋口は、その人当たりの良い笑顔で水野に向かってにこやかに挨拶する。相変わらず嫌味がなく水野に対してもその対応が出来る辺り、相当に女性の扱いに手慣れているのだと格差を見せつけられる。

「初めまして。陣くんの彼女の水野綾と言います。今日はよろしくお願いします」

 そう言って、ぺこりと頭を下げる水野は、普段とはまた印象が変わり、いかにも外面の良い理想の彼女であった。まさか誰も、この彼女と協力して今日のデートをめちゃくちゃに破壊することを目論んでいるとは露程も思わないだろう。

「こんにちは! 私は会うのは二回目なんだけど覚えてるかな? 
早川紗奈って言います。紗奈って気軽に呼んでくれたらいいから! あの時は、こんな可愛い子から話しかけられてびっくりしちゃった」
「いやいや! 紗奈ちゃんこそ文化祭の時のメイド服が凄く可愛くて仲良くなれたらなって思ってたんです」
「嘘! 凄い嬉しい! 私も、綾ちゃんって呼んでいい?」
「もちろん!」

 あっという間に、紗奈と水野は打ち解けることが出来たようだ。女性の友人関係は難しいというが、そんなことはないのだろうか。
 美少女二人がはしゃいでいるその絵面は見ているだけで寿命が延びるんじゃないかと思う。俺はこの光景を見られただけでも、もう満足であった。
 だが、今日の目的はこれからである。

「今日は誘ってくれてありがとな」

 わいわいと盛り上がる二人を他所に樋口がこっそり近づいてきて耳打ちした。
 何を言われるのかと身構えれば、今日という日に対する感謝の言葉であった。律儀だなと驚く。
 だが、これから樋口の彼女である紗奈を奪わんとしていることを考えれば、感謝を言われるのは心が痛んだ。

「えっと……せっかくならみんなで行ったら楽しいかなって」
「俺、高崎のことちょっと誤解してたかも」
「どういうことだ……?」
「なんでもない。その髪、似合ってるな」
「ありがとう」
「かっこいいよ」

 こういう、細かな気遣いが出来るのが樋口の人気の秘訣なんだと思う。ここまで端正な顔立ちをしている男から認められて嬉しくない人間などいない。素直なもので、樋口に気を許してしまいそうになるのをライバルだからと諫める。


 俺たちは、下調べしていた遊園地に入場した。週末料金で少し割高ではあったが、普段外出しない俺にとっては、お金を使う機会など殆どない。こんな機会でもなければ使わずたまっていく一方なので、水野が出そうかと言ってくるのを流石にそこまで頼るわけにはいかず断った。
 園の入り口は、俺たちのような学生カップルから、子連れの家族。修学旅行生のような団体客から老夫婦まで様々な人が入り乱れる混沌であった。ここまでの人数は、文化祭以来だろうか。だが、あれは狭い所に大勢が詰め込まれていたがこちらは開放的なだけあって息苦しさが軽減されている。

「うわ、やっぱり人多いな」
「流石に週末はそうだね」
「人酔いしそう」
「しっかりして。まだ始まったばかりだよ」

 後ろを歩く紗奈たちに聞こえぬように小声で水野と話す。確かに、まだ合流して一日は始まったばかりだというのに、既に精神的に疲れているのは何故だろう。やはり克服したと思ったが、緊張から来るところが大きいだろうか。見慣れているとはいえ、樋口と紗奈がいつも以上にいちゃついているのもその疲労の一端な気がしてならなかった。
 喝を入れる水野の言葉に、深呼吸することで気持ちを入れ替える。大丈夫、今の所は何も問題ない。計画通りやればきっとうまくいくと自分に言い聞かせる。

「ねぇ、あれ乗らない?」

 そう言って、紗奈が指さすのは轟音を立てて走り回る絶叫系のジェットコースター。

「いいね!」

 樋口がその提案に楽しみで仕方ないというように無邪気に同意する。だが、俺は反対に顔を強張らせた。
 俺は絶叫系があまり得意ではないのだ。正直、いつか来るだろうとは思っていたがこんな最初から苦手なものに乗せられるとは思っていなかった。

「俺らも行こうと思ってたんだ。な?」

 顔は青ざめていたと思う。だが、雰囲気を壊すわけにはいかず同意せざるを得なかった。
 水野に確認するように視線を向けると頷いた。

「良かった!」

 反対意見が無いのを確認すると、紗奈は嬉しそうに頬を綻ばせた。
 足元まで近寄ると、その迫力は遠くから見たものとは桁違いで、威圧感、高さと共に想像を優に超えていた。こんなの人の乗る乗り物じゃないだろと心の中で悪態をつく。
 どうしてこんなものが人気なのか分からなかったが、人気アトラクションらしく待ち時間があるらしく少々並ぶこととなった。

「綾ちゃんって、うちの学校じゃないよね?どこの学校なの」
「霞ヶ丘女子に通ってます」
「え、あのお嬢様学校? 水野さんいいとこ通ってるんだな」
「と言っても、最近引っ越してきたんだけど」
「だとしても、凄いよ。私じゃ学力ですら届かなかったんだから」
「意外。紗奈ちゃん頭良さそうに見えるのに」
「私なんて全然だよ。成績なら伸也の方が私の何倍も凄いよ」
「うちは親が厳しくてさ。部活をやる条件で成績落とせないから」

 俺を除いた三人で仲良さげに話しているのを眺めることしか出来なかった。
 この三人が並んでいるのはそれだけで絵になって、周囲からあのグループレベル高くね? と噂する声が聞こえてくる。俺が入るのはどこか場違いな気がしてならない。

「そういえば高崎と水野さんの出会いってどんなだったの?」

 そんな俺に気を使ってくれたのか、樋口が話を振ってくれる。
 その気遣いは非常に有難いのだが、俺たちの馴れ初めを尋ねるその質問は、非常に答えづらいものだった。
 言いたくないならいいけど、と付け加えてくれたがせっかく話を振ってくれた手前、その心遣いを無下にするわけにもいかなかった。

「学校帰りに、たまたま水野に声をかけられて……」
「私から告白したんです」

 それは事前に打ち合わせしていた内容であった。
 決めていた事とは言え、水野の言葉に俺の顔は思わず赤面してしまう。どうして俺はこんな恥ずかしいことをよりにもよってこんな恥ずかしい面子の前で話されているのだろう。

「水野さん意外と積極的! 高崎だって、そりゃこんな可愛い子に誘われたら付いていきたくもなるよな」

 その言葉に、紗奈が不機嫌そうに膨れて樋口の袖を引く。

「ちょっと。彼女の前で他の女の子を可愛いとか言わないの。まぁ綾ちゃんが可愛いのは認めるけど」
「ごめんって。一番は紗奈だよ」
「ならいいけど」

 そう言っていちゃつく紗奈と樋口を俺は見て居られなかった。関係は言わずもがな良好であるのが伺えた。

「彼女のために見た目までがらっと変えられる男って俺、めちゃくちゃかっこいいと思う。尊敬するよ」

 俺の瞳を見つめる樋口の目は本当に輝いていて本心から言っていることが分かった。俺は、そんなことないよと目を逸らすことによって躱す。
 俺のこの外面は、そんなキラキラした理由からじゃない。水野のためであったのなら、どれだけ胸を張れたことか。よりにもよって樋口から尊敬の目で見られるのは複雑な気持ちとともに申し訳なさで一杯だった。
 水野に視線を向ければ、どこか遠い所をみつめるようないつもの表情をしていて、心ここにあらずであった。

 ほどなくして、俺たちに順番が回ってきた。
 感想は聞かないで欲しい。思い出したくもない。ぐったりとした俺とは対照的に、皆の表情は明るい。
 歯を食いしばることで恐怖を噛み殺している俺をあざ笑うかのように、楽し気な二人の歓声が背後から聞こえてきて気が気ではなかった。水野もはしゃぎ声こそ上げていなかったが、何事もなかったようにけろっとした様子で、その完成された容姿を崩していなかった。あれに乗って恐怖を感じないなんて正気かと、皆の精神力を疑う。ダメージを負っているのは俺だけだったが、楽し気な紗奈の手前、へたり込む訳にもいかなかった。

「楽しかったね!」
「うん……楽しかった」

 根性だけで、恐怖と乗り物酔いを押さえつけ、俺に出来る精一杯爽やかな顔を張り付ける。三半規管が悲鳴を上げていた。
そんな俺の様子を見て満足したのか、紗奈は樋口と楽し気に会話を始めた。
 そうだ。あくまでこれはダブルデートだが、樋口と紗奈、俺と水野のペアで来ているのだということを認識させられる。一緒に行動しているようで、その実、そこには越えられぬ壁があるのだ。

「気持ち悪くて仕方ないのに、紗奈ちゃんの前でもどさなかったのは評価してあげます。陣くん大丈夫?」

 隣に寄ってきてくれる水野の言葉に、紗奈が見ていないのを確認して気を緩める。

「笑顔が大事っていうのは口を酸っぱくして言われてたからな……俺ちゃんと上手くやれてる?」
「ばっちりだよ。何も問題ない。額の汗も消せてれば完璧だったかな」
「無茶言うな生理現象だろ」
「冗談。誰の目から見たって、自慢の彼氏だよ」
「それは良かった」

 俺はいくつかの守るべきルールを水野から課されていた。その中には、今日という日を楽しく過ごせるようにという思いからか、常に笑顔でいるという、どこか子供じみたものまでもが含まれていた。
 それぐらいなんてことない、と思っていたがこれが案外難しい。普段表情に気を使っていない分、ふとした時に表情が崩れたり、今のように物理的に振り回されることもある。
 引き攣った顔の筋肉を手で揉み解す。

「自慢の彼氏っていうのは、水野から見てもそうなのか?」
「もちろん。私は陣くんの彼女だからね」
「仮だけどな」
「だとしてもだよ。私は君の彼女で良かったと思ってるよ」

 直球でそんなことを言われると、いくら冗談であろうと照れくさい。水野は時々、俺で無ければ本気にしてしまうんじゃないかと思うことを言う。
 距離感が独特なのか、それとも何か俺に特別な感情でもあるのか。そんな訳もないのだが。きっとこの思考も掌の上なのだろう。

 俺たちは、それから一日かけて遊園地を遊び尽くした。文字通り、遊び尽くしたと言える程には、回ったと思う。俺以外のメンバーは全員超をつけてもいいほどのアクティブ具合で、止まっている時間は殆どなかったのではないかと思う。
 唯一立ち止まっていたことと言えば、待ち時間と昼ご飯を食べた時だろうか。俺は、その二つをぐったりと過ごしたかったが、紗奈にアピールするという任務を与えられていたため、慣れない場の繋ぎとしての役目を買って出て、何とか紗奈と会話を続けていた。
 そんなこんなで、疲労困憊になるころには空は赤く染まり始め、残すところもわずかになっていた。
 そんな終盤に差し掛かった頃、状況にも変化が生じていた。

「あれ、伸也どこに行ったんだろう。それに綾ちゃんも」

 不思議そうに辺りを見回す紗奈がいた。

「本当だ。どこ行ったんだろ」

 今この場には、樋口と水野の姿はなく俺と紗奈の二人きり。そしてそれこそが、計画の最終段階であった。
 俺はこの状況の理由を知っていた。というより、予定通りであった。
 夕方が近付き、終わりが近付く頃。そう具体的には、観覧車に乗る手前。水野がどうにかして樋口を引き離し、二人きりの状況を作る。そうしていいムードに持ち込み告白する。
 いや、告白するというのは、水野が言っていただけで俺に今日そこまでする気はないし、今日は関係が深まればいいと思っていた。
 だが、この状況を見るに、どうやら水野は自分の仕事を成功させたらしかった。一体、どんな手法を使ったのか分からないが樋口の姿はなかった。

「おかしいな」

 と、紗奈が樋口に電話をかけ始める。出たら全てが台無しだ。思わず身が固くなるが、呼び出し中のコールが鳴るばかりで繋がることはなかった。

「陣くん、何か綾ちゃんから聞いてる?」
「いや、何も」
「だよね、さっきまでいたのになぁ。電話も繋がらないし何してるんだろう」

 少し不機嫌そうにスマホを眺める紗奈を見て、胸がちくりと痛むがここまで来たからには止まることは出来なかった。

「あのさ」
「ん?」

 紗奈の切れ長の瞳が真っ直ぐに俺の姿を射抜く。俺の悪巧みも何もかも本当は見透かされているんじゃないかと思うほどの切れ味で、それは俺がずっと憧れを抱いていたものでもある。誰に対しても委縮せず変化なく。それでいて全ての行動が聖母のような安心感と胸を震わす熱情を思わせる言動。俺は、早川紗奈に恋をしていた。

「良かったら、観覧車一緒に乗らない?」

 背後で回る、大輪の華を指差す。白を基調としたライトアップが為されたそれは静かに回っており、その頂上から見た景色はさぞ綺麗なのだろうという想像が容易い。幸い、時刻が夕方ということもあり、列はそれほど長くない。
 勇気を出して口にしたその言葉は間違いなく紗奈にも届く声量であった。
 吟味するように紗奈が口籠った。いや、そんなのは一瞬で、実際には空白なんてなかったのかもしれない。
 紗奈は俺が恋焦がれて止まない輝く笑顔を浮かべた。

「いいよ、二人で乗っちゃおうか」

 向かい合うように乗り込んだ観覧車は、ガタガタと不穏な揺れを匂わせながらゆっくりと空へと昇っていく。

「観覧車って思ったより揺れるんだね」

 笑顔で話しかけてくれる。

「確かに。俺も、もっと静かなものかと思ってたのに意外と風がうるさい」
「ほんとだ。ちょっと寒いね」

 そう言って、大袈裟に肩を震わせるジェスチャーをする。

「見て。今日乗ったアトラクションがもうあんな遠くに」
「な。いつの間にかこんな上まで来てたんだ」
「陣くんは高いの平気?」

 今日一日、ネガティブなことはなるべく言わないようにと言われていたが、こんな所でまで嘘をつく必要はないだろう。

「正直、あんまり得意じゃなかった……けどこの景色を見てると乗ってよかったなって思う」

 ガラス張りのゴンドラの外には、夕暮れの遊園地が光を反射し、まるで今日歩いたものとは別世界を思わせる光景が広がっていた。今日という日は、もうすでに俺の中では忘れない思い出と呼べるものになっていたし、それを締めくくる景色としてはこの上ないものだった。
 告白するというムードを考えればこれ以上はないと思える程良かった。そして、こんな状況に憧れの紗奈と二人きりでいることが信じられなかった。

「どうして陣くんは今日私たちを誘って……いや、違うね。
本当は私と回りたかったんでしょ?」

 その質問に俺は息を飲んだ。その言葉の意味することは一つしかなかった。紗奈は、俺が自分を誘ったのだと気付いていたのだ。

「気づいてたのか……?」
「確信があったわけじゃないよ。でも、今日の陣くんの様子を見てたら私に用があったのかなって。綾ちゃんに向ける視線を見てたら確信はなかったんだけど」

 ただ楽しんでいるだけに見えて、しっかりと周りのことは観察していたらしい。そこまでバレているのなら下手な言い訳は逆効果だった。
 その表情は変わらず柔らかな微笑みを浮かべて居る。怒っている訳でないというのが、逆に不安を煽る要素であった。

「今日は……本当は紗奈に話があって誘ったんだ」
「何を?」

 口にするかを迷った。今、話せば全てが終わってしまうかもしれない。でも、この状況で隠すことはもはや不可能であった。
 元々、水野にはここで勝負を決めてこいと言われて送り出されていた。
 俺は覚悟を決めた。

「好きだから。
紗奈のことがずっと好きだった。中学生で初めて見た時からずっと。あの頃から俺はずっと好きで、それが理由で今の高校も受けて。だから今年一緒のクラスになれたのも本当に嬉しくて……」

 感情を滝のように溢れ出させる俺を、まるで子供でも見るかのように見下ろす紗奈がいた。

「それで?」

 それが一体どんな感情から来るものなのか見当もつかない。まるでポーカーフェイスだ。
 優し気な声で続きを促す声に、今更止まるわけにはいかなかった。

「それで……」

 俺は、一体どうなりたいのだろう。好きだと言って……付き合いたかったのか?
 そうだ、水野に言った願いは紗奈と付き合わせて欲しいだった。だが、本当に俺はそれを望んでいるのか? もちろん、そうなれば飛び上がるほど嬉しい。
 だが、そうなったら樋口は? 水野はどうなる。そのことが靄となって胸につまり、ずっと願っていたはずの言葉は形にならなかった。

「付き合ってあげてもいいよ」

 それは俺の言葉の先を読むような言葉だった。同時に、俺の願いの成就の達成を知らせる言葉であった。
 俺は耳を疑った。

「……今なんて?」
「だから、付き合ってあげてもいいよって」

 だが、聞き直した言葉はやっぱり間違ってなんかいなくて。嬉しいはずなのに何故だか喜べない自分がいた。

「どうして……だって今日樋口とあんなに仲良さそうに」

 そんな俺の言葉を遮るように、紗奈が言葉を重ねる。

「伸也のこと? それはまた別の話じゃない?」

 言っている意味が分からなかった。

「別の話?」

 別の話であるはずがなかった。

「私に彼氏がいるのは、承知の上で告白をしてきた訳でしょ? だったら、それは私が好きに決めることであって陣くんが考えることじゃないでしょ?」

 紗奈が語り始めた内容に、風向きが変わってきたことを感じた。

「……意味が分からない」
「分からなくないよ、私は当たり前の話をしてるだけ」
「それはつまり、樋口との関係を継続させた上で付き合うってことなのか?」
「そうだよ」

 紗奈は顔色を変えずにそう言った。

「それのどこが問題ないんだ」
「陣くんなら理解してくれると思ったんだけどな。どこに問題があるの?」

 紗奈は、呆れていたが未だに笑顔を崩していなかった。言葉とのギャップでその顔が歪んで見えて、とても気持ち悪い。話が通じないのがここまで精神に来るとは思わなかった。

「問題ないわけないだろ。だってそんなの二股で……」
「だから。それのどこに問題があるっていうの? 陣くんは私と同類だと思ったんだけどな」
「俺と……紗奈が同類?」
「だって、そうでしょ? あんなに可愛い彼女がいて私に告白してくるなんてよっぽどの浮気者じゃないとありえないでしょ」
 吐き気がした。自分が、この意味の分からない思考と一緒にされていることに対してもだが、今まで憧れていた存在が、崩れていく気がした。
「紗奈は自分を浮気者だっていうのか?」

 否定して欲しかった。いくら、樋口との関係を認めたくないとはいえ、そこは愛で繋がっていてほしかった。嘘だなんて思いたくなかった。

「そうだよ」

 だが、紗奈は表情を変えずにそう言った。それは、俺の中の幻想が砕け散った瞬間であった。
 夢はいつか覚めるから夢だと言うとどこかの誰かが言っていた。今、俺の夢は覚めたのだ。
 最初からどこにも、俺が好きになった早川紗奈は存在していなかったし、勝手に美化していただけだ。
 もうどうでも良かった。

「付き合ってくれるんだな?」
「そう言ってるでしょ、私はかっこいい人なら誰でもいいの」
「そうか……」

 直感した。この手慣れ具合、きっと俺が初めてではない。今まで俺が、紗奈の周りに男の影を感じなかったのは目が節穴だったと言わざるを得ない。
 その裏には、一体どれだけの関係があったのだろう。それを表面に出さなかった彼女に畏怖すら覚える。

「見損なったよ」

 そう言うと、紗奈がようやく笑顔を崩し、むっとした顔を浮かべる。

「さっきから何を言ってるの? せっかく私が相手してあげるって言ってるんだからありがたく受け取ってなさいよ」

 口調がいつもと違う、高圧的なものに変わっていた。これがきっと本来の彼女なのだろう。

「樋口の他に、今何人いるんだ?」
「なに、説教?」
「答えろよ」

 思わず語気が強くなってしまう。その権幕に怯んだのか一瞬驚いた顔を見せ、そっぽを向く。

「七人……いやこないだ六人になったんだっけ」

 それだけで恋心が覚めるには充分であり、その一員に加わる気はなかった。

「もう俺に関わらないでくれ」
「何それ、私はただ告白に答えてあげただけなんですけど」

 だが、その言葉には返事することなく、丁度一周し地上へと帰ってきた観覧車から降りた。もう途中から窓の外に広がる景色など見ていなかった。
 観覧車を降りた後も、背後に紗奈が付いてきている気配を感じて振り返る。

「付いてくるなよ」
「なに、私に一人で帰れっていうの?」

 話しているとイライラした。もう声すら聴きたくない。

「樋口にでも迎えに来てもらえよ」
「出来るならそうしてる。連絡つかないってさっき言ったでしょ」

 そうだった。樋口は今水野が引き付けてくれている。だが、それももう何の意味もない。
 言葉を返すことなく、その場を後にする。

「どこ行くの? 私のことが好きだったんじゃないの?」
「もう好きじゃない」

 背後から、舌打ちをする音が聞こえた。だが、そのことで傷つくことすらもう俺は出来なくなっていた。

 紗奈と別れた俺は、水野に連絡を取ることにした。そういえば、後のことは決めていなかったなと今更思い出す。もう、樋口を引き付けていてもらう必要はないのだ。
 今は、ただ水野に会いたかった。
 スマホで「今どこにいる?」とメッセージを送ると、いつもと同じように秒で既読され、位置情報らしきものが送られてきた。てっきり樋口と一緒にいるものだと思っていたのだが、当てがはずれただろうか。
 とにかく、ここに来いということなのだろう。俺は、重い足取りで提示された場所へと急いだ。時刻は、十九時を過ぎた頃。 空には、黒のベールが掛かり始め園内には、蛍の光とともに、閉園のアナウンスが掛かり始めていた。

 遊園地を出て二十分ほど歩いたところで、ようやく目的地へと到着する。
 それほど距離は離れていなかったが、こんな時間に暗い参道を歩くのは恐れ知らずだけであり慎重に足元に気を配らなければならなかった。
 指定された場所は、遊園地の隣にある小さな山に位置する神社であった。こんな場所に、神社があるだけでも驚きであったが、意外と立派な造りであることに余計に驚く。誰が手入れしているのかは定かではないが山間を通した参道はきちんと整備されており、本堂も神社ならではの古風溢れ趣のある造りとなっている。麓の案内板には、神木(かみき)神社と書かれていた。
 本当にこんな場所であっているのかとおっかなびっくりながら鳥居を潜れば、かろうじて見える暗闇の向こうに人影を見つける。目をこらせば、それが見覚えのある輪郭であることを認める。

「なんでこんなところなんだよ」
「人目につかない場所として丁度よくて」

 近付くと、それは間違いなく水野であった。暗い夜の闇に彼女の白い肌がよく映えて、ぼんやり光を纏っているように思う。その顔を見られただけで、この疲弊した心が少し癒えるようだった。
 辺りには、人影も何もない。風と木々がざわめく音だけが響いており、まるでこの世界最後の二人になったかのように錯覚する。

「陣くんこそどうしたんですか?」

 水野は、不思議そうに首をかしげる。
 水野は、これ以上ないほど俺に協力してくれていた。それが、全部無駄であったと、そう伝えるのは心が痛んだ。だが、協力してくれていたからこそ伝えなければいけない。

「えっと……水野に教えてもらったことは、全部上手く行ったんだ。紗奈に告白もした」
「結果はどうなったんですか」
「上手くいったよ。付き合おうって言われた」
「そうですか……」

 恐る恐る様子を窺えば、水野は目を伏せておりその表情は、読み取れなかった。
 あんなに親身になって手伝ってくれていたのに、少なくともそれは喜んでいるようには見えなくて、何故だか胸がざわつく。

「おめでとう。これで、私はちゃんと陣くんの願いを叶えてあげられたことになるのかな。
これからは、二人で仲良くしてね」

 祝福の言葉を投げかけられるが、嬉しくもなんともなかった。

「断ってきた」

 俺の言葉に、水野が驚いたように顔を上げる。
 その目元が一瞬、きらっと輝いていたように見えたのは気のせいだろうか。

「どうしてですか? だって、中学生のころから紗奈ちゃんのことが好きだったんじゃ……」
「俺が思っていた早川紗奈は存在しなかった。全部夢だったんだ」
「夢……?」
「俺はもうあいつのことが好きじゃないし、付き合いたいとも思わない。だからもういいんだ。今までやってきたことは全部無駄で何の意味もなくて今日楽しんでいたのも全部嘘で」

 自分でも、自分が何を言っているのか分からなかった。

「水野には、これ以上ないぐらい手伝ってもらったから申し訳ないけど、でも、本当にもういいんだ。未練なんてこれっぽっちも残ってない」
「何が……あったんですか」

 俺の強がりを見透かしたように、尋ねてくる。顔を下げていても、水野が俺のことを見ているのが分かった。俺は、その顔を直視することが出来なかった。

「……本音を聞いたんだ」
「本音?」
「俺の中の紗奈のイメージは、誰にでも平等に優しくて気が配れる。いつもみんなの中心にいて、でも大事なとこでちょっとやらかすような抜けた一面もあって。大人っぽくて完璧で俺なんかにも優しくしてくれて」
「でも違った。そんなのは、表面しか見れてなかった。人の気持ちなんていうものを一切分かってないんだ。人として大事なものが欠如してて俺はそれが受け入れられなかった。樋口と破局すればいいとは何度願ったかも分からない。だけどその間の愛だけは本物であって欲しかった」

 顔を上げると、顔色を悪くした水野が、口をパクパクとさせて顔面蒼白で立っていた。

「そんな……じゃあ……私はなんのために……」

 うわ言のように呟く。

「水野……?」

 それは、計画の失敗から来たようなものじゃなく、もっと別の種類の絶望に見えた。
 そうして気付く。

「……樋口は?」

 水野の役目は、樋口を引き付けることだったはずだ。実際、電話も通じなかった。きっと上手く引き付けてくれていると楽観的に考えていた。なのにこの場には、水野の姿しかない。いや、そもそもどうしてこの時間にこの場所なのか。
 水野の目が泳いだ。分かりやすく焦点が定まらずふらふらと行き場を探す。何かを隠していることは明らかだった。
 だが、諦めたように水野が崖になっている脇の山を指差す。

「……あそこです」

 そこには誰も立っていなかった。嫌な予感が加速する。だってそこには、低い石のしきりがあるだけで、その向こうはゆるやかな崖になっている。人が隠れられるスペースなどどこにもない。
 でも、水野の表情は嘘などではなかった。まさかと思い、崖際に駆け寄る。
 スマホの明かりで、明かりのない夜の山を照らす。すると、下の方に土で汚れた白い布切れのようなものが見えた。目を凝らすと、それがどうやら人であるらしいことが分かった。
 一瞬心臓が止まった。比喩などでなく本当に全身から血の気が引き、全ての生命活動が停止したように錯覚する。
距離でいって約十メートルほど下だろうか。それは、今の会話から考えると樋口であるらしかった。俺の脳内の樋口の服装とも 一致している。木の根元にうつぶせでひっかかっているため、意識があるのかどうかも分からない。

「樋口!」

 大声で呼びかけるが反応がない。一体どうして、こんなことに。
 幸い、崖は思っていたよりも急でない。多少角度のついた坂のようなものだ。薄暗く足元の様子は殆ど見えないが、慎重に下れば問題なく近づけそうではあった。
 とにかく助けないと。しきりを乗り越えようと、足を出したところで背後から裾を引かれて戻される。

「危ないです」

 俯きがちにそういう水野がいた。

「いや……樋口が下に落ちてて。返事がなくて。早く助けないと!」
「……どうしてですか?」

 どうして? 何故いまそんな台詞が出る。人が崖から落ちたんだぞ? どうしてそこまで冷静でいられるんだ。
 つい先ほど感じたばかりの全身の毛が総毛立つような不快感に襲われる。まさか、この感覚は。

「水野は知ってたのか」
「……」

 水野は答えなかった。俺が樋口のことを見つけられたのは、水野がこの方向を指差したからだ。俺は、樋口はどこだと質問したんだ。
 それはつまり、この状況を知っていたというわけで。

「なんで何も言わないんだよ」
「……」
「答えてくれよ水野!」

 信じたくなかった。だってまさかそんなことあるはずがないのだから。普通の人間ならもっと取り乱して、必死になって助けを求めるはずで。
 不快感が加速する。

「……私がやりました」

 水野の言葉に脳が痺れるような、くらっとする感覚に襲われる。
 そうだ、この不快感はさっき紗奈と話した時と同じ。会話が理解できないことに対する不快感だ。
 信じられなかった、信じたくなかった、聞きたくなかった。

「どうして……」
「陣くんのために」

 頭痛が悪化する。俺のため? 俺のために樋口を崖から突き落としたと、水野はそういうのか?
 それは常軌を逸していた。自分に理解できないものに嫌悪感を抱くのは、人間なら誰でも持つ生理的な反応だ。それが、最大限警鐘を鳴らしていた。

「これのどこが俺のためなんだよ」
「陣くんの願い事を叶えるためだよ」
「え?」

「紗奈ちゃんの彼氏がいたら、陣くんは彼氏になれないでしょ」
「だから仕方なかったの」
「私は、何でもするから」
「陣くんのために」
「必要としてもらえるように」

 意味が分からない分からない分からない。分かりたくもない。
 あれだけ会いたかったのが嘘のように、水野の姿が揺らいで見えて薄気味悪い化け物のように思える。理解が出来ない。
 でもとにかく今は、樋口を助けなければいけなかった。水野を無視して、急いで携帯を取り出す。
 こういう時は、救急車でいいのだろうか。番号はたしか一一九。まさか、自分がこの番号にかける日がくるとは思っていなかった。

 数コールして繋がったオペレーターに、現在地と状況を伝える。場所も場所ということで、到着には時間がかかるらしく、下手な行動はしないようにと念を押される。
 言われていなければ、きっと自分の身を顧みずまたこの暗闇を降りていこうとしていたところだった。下手したら救助者が一人増えてしまう。
 大人の声を聴いたことで、このありえない状況にも気持ちが落ち着いてきた。樋口は、無事なのだろうか。この高さであれば、余程打ちどころが悪くなければ大丈夫だと思うが、未だその体はぐったりとしており反応がない。
 頭に、死という最悪の文字がよぎるがそんな訳ないと頭から乱暴に振り払う。ついさっきまであんなに元気だったのに信じられなかった。

「どうして助けるんですか」

 そんな俺に、背後から声がかかる。水野が何をするでもなくただ立っていた。

「当たり前だろ?」

 どうしてなんて考えるまでもない。

「せっかく私が、場を用意してあげたのに」
「ここまで頼んでない」
「でも、これ以上はないでしょう?」
「それが人を傷つける理由になるかよ!」
「私には……分かりません。私はただ陣くんのために」
「もう紗奈のことなんてどうでもいいんだって」

 水野の顔が、泣きそうに歪んでいた。いや、泣いていた。涙が出ていないだけでそれは確かに泣き顔であり以前にも一度見たことがある。だが、あの時とは状況も何もかもが違っていた。
 まるで、俺が責められて悪者とでも言われているようだ。俺は、こんなこと頼んでいない。ただ、紗奈と話す場を作ってもらおうと、水野に樋口を引き離す役目を任せただけだ。こんなことになると分かっていれば、絶対に止めていた。

「でも、それだと陣くんの願い事が叶えられない」

 この期に及んでそんなことを抜かす水野が信じられなかった。もっとまともな人間だと思っていた。いや、俺がそう思いたかっただけなのか?
 俺はその人の表面しか見えていなくて、その内に秘めている想いを何も知らない。感情というものに無知であった。みんなとっくに壊れていて、それに気づかず有頂天で妄信していた。

「私はいらない子ですか?」

 水野が、掠れるような声でそう呟いて俺に手を伸ばす。彼女の白い肌と、息遣いに心臓がうるさい。

「触るな」

 伸ばされた腕を乱暴に振り払う。その時の水野の表情が忘れられない。初めて会ったときに見せていた深い絶望。それを極限まで煮詰めて抽出して丸呑みにしたような吐きそうな顔。
 水野は、俺に背を向けて頭を抱えて座り込んだ。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ……」

 壊れたようにそう繰り返す水野を見ても、可哀想なんて感想よりも気味悪さが勝る。そのことも、酷く不快だった。





「もう大丈夫だから君達は早く帰りなさい」

 程なくして駆けつけた救急隊員から、そう声をかけられ俺たちは半ば強制的にその場を後にさせられた。未成年をあまり夜遅くまで拘束しているわけにもいかなかったのだろう。
 樋口の親の連絡先を知らないかと尋ねられたが、知っているわけもなく、代わりに学校の連絡先と俺たち二人の連絡先を教えた。どうやら、それでお役御免らしかった。
 樋口の容態が気になって近くの救急隊員に尋ねると、大丈夫だからと宥めるように言われてそそくさと担架が運ばれて行った。どうやら、最悪の事態ではなかったらしいが、全く安心できるようなものでもなかった。
 樋口が崖から落ちた理由を救急隊員にどう伝えるか一瞬迷ったが、足を滑らせたからと咄嗟に水野を庇う発言をしてしまった。そんなの、樋口が目覚めればすぐに嘘と分かってしまうものだったが、救急隊員はそれ以上追及してくることはなかった。
水野は、その間一言も言葉を発していなかった。

「なんで付いてくるんだよ」

 今の俺の問いにも何も答えず下を向いている。何も話さないことにイライラした。
 帰る方角が同じなのだから当たり前なのだが、電車で隣に座る水野に嫌気が差して思わず悪態をつく。

「あんなことして本当に俺のためになると思ったのか?」
「……」
「おかしいだろ。人として」
「……」
「死んでたらどう責任を取るつもりだったんだ」
「なぁ、何とか言えよ」

 俺は、終電間際のまるで屍のようにくたびれたサラリーマンばかりの車内で、最寄り駅に着くまで尋問という名の罵倒を水野に続けていた。それでもやっぱり水野が口を開くことはなくて、俺の中の水野のイメージは地に落ちていた。
 あれだけ準備して迎えた今日という日は、最悪の一言で表すのがぴったりに様変わりしていた。精神的支柱にしてきたものが、全て打ち砕かれたのだ。
 それに樋口の容態も心配であった。とはいえ、俺に出来ることはないので、後は医者に任せるしか出来ないのが歯痒い。
どうにも出来ぬ現状に唇を噛んでいると、いつの間にか最寄り駅に着いていた。水野はどうするのかと隣を見るが、降りる様子はない。相変わらず下を向いていて、きっとその表情には絶望が張り付いていると見なくても分かる。放っておいたら死んでしまうんじゃないかという不安が頭をよぎった。
 俺は、またねもさよならも言わずに電車を後にした。電車の扉が閉まる直前、水野が顔を上げ、何かを言うようにその小さな唇を動かす。
 だが、その内容を聞く前に扉は閉まり切ってしまい結局内容を知ることは出来なかった。





 数日後、樋口が目を覚ましたと連絡を受け、俺は市内の病院へと足を運んでいた。
 俺なんかがお見舞いに行ってもいいのかとは思ったが、樋口本人からの希望で来て欲しいとのことであれば、断ることは出来なかった。
 どの程度の怪我だったのか、本当にもう大丈夫なのか。心配は尽きなかったが、実際に対面した樋口を見れば過度な心配はいらないように思った。

「高崎が通報してくれたんだって? ありがとな!」

想像よりもあっけらかんとした樋口の様子にため息をつく。

「俺がどれだけ心配したと」
「悪かったって」

 だが、いくら明るく振舞っていてもその体には痛々しい傷跡が刻まれている。足はギブスで覆われ、腕や顔には細かい擦り傷。とても無傷と言える状態ではなかった。

 「右足の骨が折れてたのと、全身至るところに打撲。まぁ幸い途中で木に引っ掛かったおかげで、大事には至らなかったんだけどな。様子見で一週間だけ入院することになってる」

 そんな俺の視線に気づいたのか、右足を指しながら極めて楽観的にそう話す。
 骨折なんて俺はしたことがなかったし、充分大怪我であることには変わりないのだが、目覚めて無事でいてくれたことに安堵する。呼びかけても反応がなかったあの日は本当に焦った。

「骨折したのだって初めてじゃないし、何も心配いらないよ。まぁその間サッカーが出来ないのだけが不満ではあるけども」

 心配そうな様子に気付いたのか、「大丈夫」となぜか俺が励まされる。
 そうだった。樋口は、サッカー部の英雄なんて呼ばれ方をしているのだった。そんな樋口から一定期間とはいえ足を奪ってしまったことは罪悪感に苛まれる。

「それで樋口……」

 水野のことをどう尋ねようかと考えて口籠る。
 水野にやられたんだろ? と聞くのが怖かった。直接でないとはいえ、俺も関わっているのは間違いなかったから。呼び出されたのもそういう意味ではないだろうかと覚悟する。断言されるのが怖かった。

コンコン!

 そんな俺の言葉を遮るように、病室の扉がノックされる。

「はい、どうぞ」

 それに樋口が、にこやかに相対し扉が開かれる。
 そこに立っていたのは、あの日俺と行動を共にしていたもう一人の女性。紗奈の姿があった。

「あれ、陣くんも来てたんだね」

 そう言って、彼女は以前までと同じ、何事もなかったような笑みを浮かべる。まるで本当に何もなかったかのようだ。
 だが、その笑みはもう俺には悪魔の笑みにしか見えなかった。

「紗奈!」

 樋口が嬉しそうにそう答える。
 そうか、この二人は未だ付き合っているのだからこういうことも起こりえるのか。

「もう、心配したんだから。怪我の具合はどう?」

 紗奈は、お見舞いの品であろう紙袋を置いて、近付いてくる。その顔を俺は見れなかった。

「骨は折れてるけど全然平気。今日は来れないって言ってなかったか?」
「予定ずらしてきたよ。彼氏がこんな風になってるのに遊んでいられないよ」

 よく言うよ、と心の中で呟く。一体何番目の彼氏なんだろうな。体が冷えて堪らない。

「それで、どうしてこんな怪我したの?」

 その紗奈の質問に、俺の息が詰まる。水野に押されたからだということを俺は知っていた。そして、樋口を連れだしてほしいと頼んだのは俺だ。樋口の口から、水野の名前が出ればもう言い訳は出来なかった。

「転んだんだよ」

 だが、想像していた答えは返ってこなかった。転んだ。樋口はそう言った。

「いや、それは……」

 俺は真実をもう既に知っていた。だから、樋口の言ったことを否定しようとした。

「あんな時間に、あの場所で?」

 紗奈の言い分は最もだった。俺たちは、遊園地にいたはずなのだ。そこから少し離れた場所にあった神社に行くなんて、それこそ誰かに連れ出されでもしなければ不自然すぎる。

「いや、ドジだよなぁ。一人でこけるなんてさ。たまたま高崎が見つけてくれなかったら危なかったよ」

 樋口は何を言っているのだろう。それではあの場所に水野なんて最初から存在しなかったかのような物言いじゃないか。

「でも……」
「本当に! 助かったよ」

 樋口は、俺の言葉を遮って感謝の言葉を重ねる。その瞳からは、これ以上何も言うなという無言の圧が感じられた。一体樋口は何を考えているのだろう。
 紗奈はとても納得しているようには見えなかったが、当人である樋口にそれ以上語るつもりはなさそうであった。
 水野のことを庇ってくれていることは明らかであった。

 尋ねたいこと、何を思っているのか。聞きたいことは無限にあったが、今はそれ以上に今は紗奈と同じ空間にこれ以上いるのが辛かった。まだ心の傷は癒えていない。
 俺は病室を後にすることにした。この場に俺がいることはきっと紗奈だって望んでいないはずだから。

「来てくれてありがとう。またな」

 樋口の言葉を背中で受けながら、俺はドアを閉じた。

 帰り道に携帯を見ると、ここ数日のうちに水野から何件かのメッセージが届いていることが分かった。
だが、俺は目を通そうとはしなかった。今は、水野と関わりたくなかった。心には、ぽっかりと穴が空いたように満たされない気持ちでいる。
 人のことを平気で突き落とせる人間と契約してしまっていた事実がどうしようもなく脳内を渦巻いていて気が気ではなかった。一体、何を送ってきているのかは分からなかったが、開く勇気がなかった。
 空には、飛行機雲が一筋薄く尾を引いている。この空の青さをどこかで君も見ているのだろうか。





 一週間とは早いもので、樋口が退院してくるまで時間はかからなかった。
久しぶりに学校で見つけた樋口は、顔に出来た痛々しい擦り傷はすっかり目立たなくなっていたが松葉杖をついており完治しているわけではないと思い知らされる。
 俺の教室にやってきた樋口を見て、クラスメイトが紗奈の姿を探すがあいにく今はいなかった。そのことを樋口に伝えられると、「ありがとう、でも今日は違う奴に用があるから」と言って俺の席の前まで、杖を使い器用に歩いてくる。

「ちょっと話そうぜ」

 その話というのがあの日出来なかった話の続きであることは何となく察せられた。

 そうして、俺たちは誰も人の来ない空き教室へと足を運んだ。授業をさぼることにはなってしまったが、誰も俺のことを気にはしないだろう。今はそんなことより目の前の樋口から語られる内容の方が気になった。

「意外と松葉杖でも歩けてるだろ? 階段だって登れるんだぜ」

 樋口は極めて楽観的にそうおどけて笑う。
 そんなことを言うために呼び出したわけではないことぐらい、分かっていた。

「病院食って、まずいって言うけど意外とそんなことないのな。俺の舌が馬鹿なだけかもしれないけど美味しかった。確かに味は薄い気がしたけど」
「樋口。もういいから」

 誤魔化すような会話はもういらなかった。俺は真剣な顔をして樋口に向きあった。
 樋口もそれを察したのか、先程までのように明るく振舞うのを止めて真剣な表情を浮かべる。
 俺は、樋口から話始めるのを待った。

「水野さんから何か聞いたか?」

 少しの沈黙の後、語られた内容は、やはり水野のことだった。

「ごめん……!」

 俺は、深く深く頭を下げた。俺が謝って済むことではないかもしれない。だが、謝らざるにはいられなかった。

「その様子じゃ、聞いたんだな。でも俺は無事だった。だから謝らなくていいんだ」
「そうはいかないだろ。だって樋口は水野のせいでそんな怪我して……」
「水野さんのせいじゃないよ。もう謝罪はもらってる。かといってこれは、高崎のせいでもない。だから本当に、謝らなくていいんだ」

 水野のせいではなくて……俺のせいでもない? 樋口は何を言っているのだろう。

「あの日、何があったんだよ」

 水野は、一体樋口に何をしたんだ?
 樋口は人当たりのいい笑顔を浮かべた。その表情は言葉どおり、俺を恨んでいるようには見えない。確かに、気にしているのならばそれをもっと言うタイミングはあったはずなのだ。その表情の裏に何を思っているのか分からなかった。

「本当は、俺から言うべきことじゃないんだけどな。水野さんに言うつもりがなさそうだったから、勝手ながら俺が代弁させていただく。
高崎が見舞いに来てくれた日、少し前に本当は水野さんも来てたんだ」
「水野が……?」

 あの日、水野も来ていたなんて俺は知らなかった。樋口はよく水野と会う気になったなと驚く。自分を殺しかけた相手なんて恐ろしい以外の感情ないだろうに。

「本当は、三人で話したかったんだけど高崎が来ることを伝えたら、合わせる顔がないからって」

 俺は、電車で別れて以来、水野と一切顔を合わせていなかった。連絡も何件か来ているようだったが、それにも目を通していない。だから、本当に今何をしているのかを知らなかった。
 つまるところ、水野のことが怖かったのだ。自分に理解できないことに強い不快感を覚える。俺には到底理解できない行動をした水野のことが不気味に思えて仕方なかった。感じていた絆のようなものはすっかり消え去っていてただ今は一人でいたかった。

「高崎はどこまで知ってる?」
「どこまで?」
「水野さんの行動原理だよ。どうして高崎の願い事を叶えてくれてるんだと思う?」

 俺は目を丸くした。何故、樋口がそんなことを知っているのだという表情を浮かべる。

「どうしてそれを」
「直接聞いたんだよ。その様子だと、何も知らないみたいだな。
聞いてた通りってことか……」

 ぼかして、はっきりと口にしない樋口に焦れったさを感じる。

「何が言いたいんだよ」
「四人で出かけた日。俺が水野さんに殺されかけた日の話だよ」

 やはり、樋口は知っていたのだ。知っていて、誰に対してもその話をしていなかった。
 でも、俺にはその理由が分からなかった。それが、あの日何があったかということに繋がっているということなのだろうか。

「本当に、ごめん! 実はあれは……俺のせいかもしれなくて」

 俺はもう一度深く頭を下げて心からの謝罪を口にした。こんなことで、なかったことになるわけではない。起こってしまったことはもう取り返しがつかないのだ。

「高崎のせいじゃないってさっき言ったろ。いいから、あの日何があったのかを聞けよ」

 樋口は、俺の態度が気に入らないというようにそう言い捨てる。その表情は、心なしか俺に苛立ちを覚えているように思えた。
 俺は、その言葉にごくりと唾を飲み、語られる内容に耳を傾けることにした。
 その俺の様子に満足したのか、樋口は俺の知らないあの日の記憶を語り始めた。

 それはやはり、俺が紗奈との二人の時間を過ごしている裏で起きている出来事だった。
 あの時、いつの間にか二人きりになっていてどんな手を使ったのかと思ったが、お化け屋敷から出たタイミングで、相談があるからとこっそり二人きりで連れ出されたらしい。
 それを快く受け入れた樋口は、紗奈に少し席を外すことを伝えようとしたらしいが、それは半ば強引に阻止された。

「陣くんに言ったから大丈夫です。それにバレたくないから……。樋口くんにしか頼めないんです」

 と水野が目を潤ませながら言ったことにより、二人だけで連れ出すという計画は、遂行されていたのであった。

「それから、俺はあの神社に連れていかれたんだよ。二人だけで話せる場所がいいからって。人気のない場所として都合が良かったんだろうな。
俺は、この時点でしくったなとは思ったよ。こんな状況、紗奈にバレたら誤解されても仕方ないし、水野さんの彼氏である高崎にも申し訳なかった。だけど、相談に乗ると言った手前、断ることも出来ずに渋々ながら付いて行った」
「……」

 俺は、何も答えなかった。樋口は話を続ける。

「着いたあとの水野さんは、まるで魂でも抜けたかのようにぼんやりとしていた。さっきまで、目を潤ませて感情を露にしていたのが嘘みたいで、もう既に俺に対しての興味をなくしていることは明らかだった」



「えっと、水野さん? 相談って何かな」

 空は赤く染まっていて、明かりもない境内は既に薄暗く、鬱蒼と茂る草木の風で揺れる音だけが静寂の中に響いていた。
 俺の声に、ようやく彼女は意識を取り戻す。

「実は相談なんて嘘なんです」
「……嘘?」
「でも樋口くんに用事があったのは本当ですよ」

 水野の顔から目を離せなかった。その整った顔立ちに目を奪われていたわけではない。
 彼女は無表情だったが、その裏にはとても深い、見通せない程暗く沈んだ絶望があったような気がしたから。まるで光の届かぬ深海のようだと思う。

「どうして俺をこんな所に連れてきたんだ」

 そう尋ねると、水野は時間を確かめるように携帯をちらりと眺めた。

「少しだけお話しませんか?」
「話?」
「話題はそうですね。今度こそ本当に相談にしましょうか」

 俺は元より、水野の相談を聞くためにこの場所に来ていた。彼女が語りたいというのであれば、それを断る理由は存在しなかったし他に選択肢もなかった。
 先程から携帯がポケットの内で振動しているのを感じる。恐らく紗奈からだろうが、それに反応しようとすると水野に止められていた。

「分かった。聞くよ」
「聞き分けの良い人は好きです」
「こんな美少女に言ってもらえて光栄だけどあいにく俺にはもう相手がいるんだ」
「奇遇ですね。私もです」

 水野は、俺の軽口に一切興味が無さそうに淡々と返す。

「今から語るのは、ある人に起きた悲劇の話です。長くなりますが聞いてくれますか?」

 俺はだまって頷く。それを見て、水野はゆっくりと語り始めた。

「ある街に、一人の女の子がいました。どこにでもいるありふれた女の子。
その女の子は一人っ子で、両親の寵愛をその一身に受け、何不自由なくすくすくと成長しました。
家族仲は良好。たまに喧嘩はありましたが、父は休日には娘をドライブに連れていき、母は日頃からコミュニケーションを欠かしませんでした。そんな生活に不満もなく、まさに理想の家族像でした。
そんな両親には口癖がありました。その口癖とは『人の助けとなるような人となりさない』。この文言は、何かあるたびに口にされ、まだ幼かった彼女には何故両親がそうも口を酸っぱくして言うのか理解が出来ませんでした。優しかった両親は、いつも誰かのためにと行動していてその結果、しなくていい苦労まで背負いこんでいるように見えたからです。
なぜそんなことをするのか理由を尋ねると、人を助けるといつか自分に返ってくる。誰かのために行動するのは素晴らしい。自分の存在価値を証明できるのよ、とそれらしい答えが返ってくるばかりでした。あまりピンときませんでしたが、両親に言われたことを彼女は実践することにしました。
学校では、困っている人がいれば積極的に助けに入るようにしました。それが両親の教えだったから。掃除当番をめんどくさそうにしている人がいれば代わり、宿題を忘れた人がいれば快く写させてあげる。彼女にとっての親切とはそういうものでした。
そんな生活を続けていると、彼女の周りには自然と人が増えていました。なるほど、両親の言っていたことはこういう事かと彼女は思います。人から感謝されるのは嫌いではなくむしろ気が大きくなり好きと言えました。いつからか、彼女の口癖は両親の教えを受け『なにか困ってることある?』になりました」

 一体誰の話をしているかは分からなかったが、今はただ遮らず聞くことにした。

「でも、そんな彼女をある日、不幸が襲いました。彼女の一生を狂わせるような不幸が。
中学生になった彼女がいつものように誰かの助けにならなければと意気込んでいれば、落ち込んだ様子男子生徒を見つけたのです。
彼女はその男子生徒に『何で落ち込んでるの? 私に出来ることない?』と話しかけました。その問いに、男子生徒は投げ槍に彼女に振られたと言います。
困りました。彼女には恋愛経験がなかったのです。周りの友人は色気づいていてそういった話も度々耳にしていましたが、実際に恋を経験したことはありませんでした。こういった時に、どう声をかけていいものか、分かりませんでした。
そんな口籠っている彼女に男子生徒は、思いついたように『出来ることはって聞いたよな? じゃあ助けると思って俺と付き合ってよ』と言います。
その言葉にの彼女は酷く驚き、狼狽しました。
恋愛経験が無いとはいえそれは彼女の人生において、決して初めて聞く言葉ではありませんでした。何故ならば彼女は、時が経つにつれ周囲よりも容姿が整って成長していたのです。自惚れなどではなく、周囲の反応からも彼女にも自分は特別なのだという自覚がありました。
その延長線上で告白されることも度々あったのです。その度に彼女は、『ごめん。私にはそういうの分からないから』と断っていました。
しかし、今回は少し訳が違います。付き合うという行為が、相手にとって救いとなるらしいのです。助けると思って、と言う言葉は彼女にとって、とても大きな存在となっていたのです。
迷った末に、その男子生徒に対して恋愛感情は全くありませんでしたが、その提案を受け入れることにしました」



「この辺りで俺は、これが知らない誰かの話ではないと思ったよ。その語り草はまるで見てきたかのような、体験したかのようなものだった」

 高崎は、俺の話を聞いて判断に困っているように見えた。

「その話のどこが不幸なんだよ」
「確かにな。好きでもないのに付き合うなんて、珍しくもない、よくある話だ。
 でもこれは間違いなく悲劇だよ。最もそれもまだ序章に過ぎないけれど」
「はっきり話せよ。水野の話に出てくるその子に何が起きたんだ」

 その言葉からは、確かな苛立ちを感じた。からかいすぎたなと反省する。

「じゃあ続きを話そうか。付き合うと答えたことで、その男子生徒は確かに元気を取り戻したよ。実際そんな出会いとは言え、関係は良好だったしね。その男の子は、ちゃんと彼女を大事にした。
そうしてその子は思った。良かった、全て丸く治った、私はまた人の助けになれた、ってね。だが、全てを肯定する事が良い結果をもたらす訳じゃない。
結論から話そうか。その女の子は強姦の被害に遭った」

 俺の言葉に、高崎が目を丸くする。何故そんなことに、とでも言いたげな顔だ。
 俺だってこんな衝撃的な内容、何かの作り話なんかじゃないかと思った。でも、それを語る水野の顔はそんな甘い期待を裏切るようなものだったのが脳裏をよぎる。

「交際を許可した頃から噂が流れたんだよ。あいつは頼めば、何で言うことを聞くっていう噂が。あながち、それは間違いではなかった。彼女は断れる性格では無かったし叶えられる願いであれば叶えたいという意志があったから。彼女に頼み事をする時のダメ押しの言葉は、『助けると思って』だった。
そして、彼女は幸か不幸か、容姿に恵まれた。それが悲劇を呼んだ」

 ここまで話せば、高崎も何が起きたのか察しがついたようだ。何も言わないのを確認して続ける。

「告白を受けた後のある日、知らない男子生徒から人気のない所に呼び出されて裸を見せて欲しいと頼まれたらしい。
それ以前にも、金銭など無茶な要求が通っていたのをそいつは知っていたんだ。そういった馬鹿が出てくるのも時間の問題だった。
もちろん、それは流石に拒否した。この時ばかりは、決め台詞であった俺を助けると思って、という言葉にも耳を貸さずに。超えちゃいけないラインは確かに彼女の中で存在していたんだ。
でも、それで終わりとはならなかった。その男子生徒は、強行手段に出たんだ。口を塞ぎ暴れる彼女を抑えつけて乱暴をしようとした。突然の事に抵抗したとはいえ、男女の力の差は歴然で振り解く事は出来なかったらしい」

 高崎が顔を青くしている。その様子に慌てて唯一の救いである情報を伝える。

「幸いと言うべきか、偶然人が通りかかったことにより、それは未遂に終わった。
けど、それだけで彼女の心に深い傷を残すには充分だった」
「それが……悲劇……」

 高崎は衝撃的な内容に、絶句したようにうわ言のように呟く。だが、全てを知っている側からすれば、ため息が出てしまった。

「だったら、まだ救いがあったんだけどな」
「え?」
「悲劇はまだ終わらないって話だよ」



「かくして、私は……いえ、その女の子は。心に深い傷を負い、自分が信じていた『人の助けになる人間になりなさい』という言葉に不信感を覚えるようになりました。それも仕方のないことだと思います。だって、あんなに健気に教えを守ってきた結果がこれだったのですから。
付き合っていた男の子は、彼女が傷物になったという噂が出回ったことにより、慰めることもせず離れていきました。真剣に向き合っていたつもりでも結局ただのアクセサリーでしかなかったんです。
そんな追い詰められた彼女の取った最後の行動は親への反抗でした。感情のままに両親へと当たり散らし、人のいい両親は謝り慰めるばかりで何も言い返しません。
それを良いことに、彼女は言ってはいけない言葉を口にしました。
『こんな家に生まれて来なければ良かった』って」

 それを語る水野の顔は、まるでもう取り返しのつかなくなってしまった過去を思い出すかのように絶望を噛み潰したような、何処かに想いを馳せるものだった。
 葉の擦れる音がやけに大きく聞こえて耳障りに思える。
 語られる内容は、想像していた相談とは話の重さが段違いであった。怯みそうになるのを必死にこらえる。

「人間、誰にだって過ちはある。それにそんなことがあった直後なんだ。落ち着いて、ちゃんと気持ちの整理をつけてから謝れば……」
「死んだんです」

 俺の慰める声に被せるように、水野の冷たい声が響く。そして、その衝撃的な内容に思考が止まる。
 今、死んだと口にしたのか?

「次の機会なんてもう無いんです。両親の中の私に関する最後の記憶は、車の後部座席で不貞腐れて泣きじゃくっていた私です。
両親は、塞ぎこんだ私を元気づけようと旅行に連れ出してくれたんです。それなのに私は、楽しもうともせずこんな家に生まれて来なければ良かっただなんて言って。
そう言った時の、バックミラーに写った両親の悲しげな表情が今も頭をこびり付いて離れないんです。毎晩寝ようとする度に後悔と心細さで死にそうになる」

 いつの間にか誰かの話だったはずなのに、話の一人称が私に置き換わっている。でも、指摘するほど野暮ではなかった。

「死んだって言うのは……」

 水野が目を伏せる。

「運悪く、事故に遭ったんです。父の運転に問題は無かった。対抗車線を走っていた車の居眠りというベタでありがちな展開。
そして運悪く、私は生き残った。私だけが」
「運が悪いなんて……」
「悪いですよ。最悪です。本当に救いようのない、私の人生最大の不幸です。私はあの場で両親と一緒に死んでいれば良かった。
目の前で両親が死にゆく状況を樋口くんは見たことがありますか? 冷たくなっていく手、呼びかけても応えない両親とその孤独。そんな世界で生きていくぐらいなら死んでいた方が何千倍もマシだと思えるほどの絶望です」

 何も答えることが出来なかった。人の死を間近で感じたことなど今までの人生で存在しない。ましてや、それが両親だなんて。何不自由なく過ごしている自分がいかに恵まれているのかを実感する。その辛さを軽々しく分かるなんて答えて慰めることの方が、よほど無責任な気がした。

「だから私はこの街に引っ越して来たんです。祖母がいましたから。最も、立ち直って出歩けるようになったのはここ最近の話ですけど」
「それを俺に伝えて……何を相談したいんだよ」

 水野は忘れてたと言うように頷く。

「相談は……無いですね。強いて言うなら、どうすれば両親に償いが出来るか、でしょうか。でもそれも私の中でもう答えは出てるんです」
「答え?」

 水野は、その俺の問いに答えずにくるりと背を向けて境内の端の方へと歩いていく。
 俺は黙ってそれに付いていくことにした。水野は、境内の隅の、ゆるい崖のようになっている山肌に落ちないよう低い石柵が設置されている所で足を止める。そして、その石柵にちょこんと座った。
 石柵は低く、少し身を乗り出せば落ちてしまいそうだ。周囲は、街灯もなくすっかり暗くなっていて、少し離れると闇に溶ける。ここから落ちればただでは済まないだろうと直感し、何かあれば咄嗟に助けられるように少し離れて石柵に腰を下ろす。目を離すと消えてしまいそうな、そういった類の危うさを今の水野からは感じられた。

「私と陣くんは、本当のカップルじゃ無いんです」

 水野は、突然口を開いた。

「え?」
「私が言ったんです。『三つだけ何でも願い事を叶えてあげます』って」

 今日一日、一緒に過ごしていたがそう言った嘘のようなものは一切感じず、二人は本当に仲の良さそうなカップルのように見えていた。お互いを見る視線も心を許しているように見えたし、熱を帯びているように思えた。

「どうしてそんなこと?」

 俺は冗談だと思ったから、軽くそう尋ねる。

「贖罪ですよ。人の役に立つ人間になりなさいという両親が正しかったと証明して、私の言葉が間違いだったと証明したい。ただそれだけです。
最も、最初の願いが付き合ってほしいというのは、過去のトラウマを蘇らせるようでドキッとしましたけど」

 だが、水野は真剣そのものだった。

「なんでそれを俺に話すんだよ」
「理由も分からずに終わるのは可哀想かなと」

 終わるという言葉に何を指しているのか疑問符が浮かぶ。だが、それを尋ねる前に水野が再び喋り始める。

「今日呼び出した理由も、陣くんが紗奈ちゃんのことが好きだから二人をくっつけるためにです。つまり私は今、その手伝いをちゃんとこなせていて役に立てている訳ですね」

 高崎が紗奈のことを好きだと言う言葉に、驚きを隠せない。
 いや、だが確かに、考えてみれば思い当たる節が無いわけではなかった。高崎が時折、俺に申し訳なさそうな視線を向けていることと、紗奈への過剰なほどへのリアクションと接近。そう考えると、今日俺たちが誘われた理由にも合点がいった。
 でも、水野さんがいるのに……違うか、それが嘘だったのだから。でも、本当に二人とも恋愛感情はなかったのだろうか?
 察しの悪い自分に呆れる。何も気づかずこんな所までのこのこやってきたのだから。

「だから、これが仕上げです」
「仕上げ?」

 水野が、寄りかかっていた石柵からぴょんと降り、俺の正面、触れられるほどの距離に立つ。その近さに思わずドキッと身構えてしまう。

「目を瞑ってくれませんか?」
「?」

 水野は、目を指差す。
 何をしようとしているのだろうか。分からなかったが、言われる通りに目を閉じることにする。ここまで、包み隠さず自分語りをしてくれていたことにより、俺から水野への警戒心はほぼゼロになっていた。
 だって、信用してくれたからこんな誰にも言えないような話をしてくれたのだと思ったから。きっと、高崎だってこのことを知らない。

「これでいいか?」

 目を閉じると、余計な情報が遮断され周囲の音や触覚に敏感になる。そのせいか夜風に少し肌寒さを感じる。
 素直に従った俺の耳には水野の規則正しい息遣いが聞こえた。

「ごめんなさい……」

 水野の声が聞こえた。聞こえた瞬間、肩に手が触れる感覚を感じてバランスを崩し後ろに倒れる。
 だが後ろ? 後ろは確か……。
 そう気づいた瞬間には、力を抜いていた俺の体は天地の感覚が消失し、山道を……いや道ではない。ろくに整備もされていない凸凹した崖のような坂に体中を強打しながら転げ落ちていた。
 何が起きているのかまるで分からない。だが、目が回り、無限にも錯覚する浮遊感も、太い幹に背中から激突することで乱暴に止められる。

「かはっっ……!」

 背中を強打したせいか、息ができない。体中が燃えるように熱く、滲むように痛んでいる。口の中は血の味がした。夜の闇のせいか、はたまた意識が朦朧としているせいか、視界がぐらつき何も見えない。
 どうしてこんな状況になったのか分からなかった。

「ごめんなさい。私が私でいるために必要なことなんです」

 水野の声が聞こえた。いや、聞こえた気がした。実際は、口にしていないのかもしれない。
 確かめようと声をあげようとしたが、ひゅーひゅーと喉が鳴るだけだった。
 俺はそれ以上何も出来ず、意識を失った。





「これがあの日あった全てだよ」

 樋口の語る長い話が終わった。俺は、信じられなかった。初耳の情報が多すぎたのだ。
 水野の過去なんて聞いたことがなかったし、それが全て本当だとしたら疑う余地のない最悪の悲劇であった。どこにも救いなんてありはしない。

「なんで樋口は、それを誰にも言わないんだ」

 今の話だと、樋口は水野に落とされたことをはっきりと自覚している。どうして庇うようなことをしたのか不思議だった。足を労わるようにさする樋口に尋ねる。

「実際、俺は生きてる訳だし殺す気なんてなかったと思うんだ。本当に殺す気だったら、あのまま放置しておけば良かったしいくらでも他に方法があった。でもそうはしなかったんだろ?
それにどうしてそんなことをしたのか理由も聞いた。俺は、ちゃんと自分で判断して言う必要がないと思ったから誰にも言わなかった。それだけだよ。
でも高崎、お前には。お前だけは全てを知る権利があるだろ?」

 樋口の言葉に、ぐっと息が詰まる。

「謝罪でないなら、俺に何を求めてるんだ」

 知る権利というのが何を指しているのか分からなかった。

「お前、あれから水野さんと連絡取ってないんだろ?」

 樋口の言葉は予想外であった。水野から聞いたのだろうか。
 そして、その責めるような口調に思わずたじろぐ。

「取ってないけど……」
「自分のためにあそこまでした女の子を見捨てるのか?」
「俺は頼んでないし、あれは水野が勝手に」
「頼んでなくてもだろ。それが最善だと思ったから行動しただけだ」
「そうは言ったって……」
「俺は生きてる。気にしてない、それでもういいだろ?
お前がいなくなることの意味を考えろよ」
「意味?」
「あの子がお前に何を求めてたのか分からないのか?」
「分かんねーよ!」

 樋口のこの大事なことをはっきり口に出さない話し方は、癖なのだろうか。
 一方的に責められ、苛立って口調が荒くなる。

「俺だって分かんねーよ! 両親を同時に亡くして全てに絶望して。それでも、何かに縋りたいと思ったから、高崎のことを頼ったんじゃないのか?」

 だが、樋口は全く怯むことなく、感情を爆発させた。
 脳内に溢れ出したのは、様々な水野の顔。初めて会った時の、何にも期待していなそうな冷たい絶望の色。俺のギターを聞いた時の涙。無理したように笑うぎこちない笑顔。
 どれもがつい先日のように思い出せる。実際、水野との関りはごく最近のことだ。だというのに、俺と彼女の関係は不思議な絆で実際よりもずっと深いものに感じられた。

「じゃあなんだって言うんだよ」

 樋口は悲しそうな顔を浮かべる。

「水野さんの彼氏なんだろ? 側にいてやるぐらいしろよ」
「俺と水野の関係は本当はそんなんじゃなくて」
「いいんだよそんなこと。大事なのは事実でもなんでもなくて気持ちだろ。なんとも思ってないやつに心なんて許せねぇよ。少なくとも好意はあったんだろ?」

 樋口は、俺が紗奈に告白した事を知らないのだ。だからそんなことが言えるんだ。俺は芯がブレブレのろくでもないやつで、水野に特別好意があった訳じゃ無い。
 水野のことを思い出して胸が苦しくなるのもきっと恋じゃない。だって恋は、もっとキラキラして幸せな気持ちになれるものだから。

「樋口に謝らないといけないことがあるんだ。俺は、あの日紗奈に告白してるんだ。だから、水野に好意があったとかそんな訳じゃなくて」

 彼氏である樋口に、全てを話すのは躊躇われた。だが、そんな俺を制すように腕が伸びる。

「高崎が言おうとしてることはなんとなく察しがつく。
というか、知ってるからな。おおかた、告白をオッケーされたんだろ?」

 その言葉に大袈裟と言えるほど驚く。

「樋口は、知ってて付き合ってるのか……?」

 まるで、自分以外にも複数相手がいることを了承しているような口振りだ。でも、どうしてそれを受け入れているのだろう。

「色々事情があるんだよ。惚れた弱味ってやつだ」

 俺の感情を読み取り、そう苦々しげに呟くが後悔は見て取れない。自分だけを愛してくれていなくても受け入れられるほどに好きだと言うことなのだろうか。それは、俺にはできなかったことで、冷めてしまった俺を真っ向から否定する考えだ。

「樋口がそれでいいなら俺はいいんだけど……いいのか?」
「これでも教えてもらってるだけまだマシだと思ってるよ。裏でコソコソやられてる方が心にくる」

 確かに、紗奈は最初の告白したタイミングで他にも相手がいることを隠す様子もなく教えてきた。きっと付き合ってもいいと思えた相手にはあの話をしているのだろう。
 そして、それが成り立っているのは彼女が天性の愛される性だったからだろう。

「お互いにさ、一筋縄じゃ行かない恋愛だけど頑張ろうぜ。水野さんはきっと待ってる」

 そうなんだろうか。俺は水野のことを突き放してしまった。
 俺のためにと行動した水野の行動が信じられなくて理解が出来なくて。その異常なまでの執着の理由すら知らぬまま。
 だが、そうして突き放しても頭ではずっと水野のことを考えてしまっている。これが恋愛であるとは思わないが話をしないことには、何も始まらない前に進めない。そう思った。

「ありがとう樋口。俺、ちょっと行ってくる」
「おう、頑張れよ。俺からのよろしくも伝えといてくれ。今度はちゃんと遊びに行こうな」

 手を振る樋口を背に、空き教室を後にした。

 樋口と別れた後、すぐに携帯を開く。ここ数日無視していた水野からの連絡にようやく今目を通した。
 避けていた。避けていたが向き合わなくてはならないと思った。
 メッセージは大量に送られて来ていた。

『ごめんなさい本当にごめんなさい私を捨てないで』

 これは、電車で別れた日の夜に送られてきたメッセージ。謝罪が綴られていた。
 きっとあの日にこれを見ていたとしても、何を言っているのだと一蹴しただろう。だが、樋口の話を聞いた後では、受け取り方も変わっていた。

『ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……』

 謝罪の言葉が画面一杯に延々と映し出されている。

『余計なことしてごめんなさいどうしたらいいか分からなくてどうしたら必要としてもらえるんだろうって』
『嫌いにならないで私を必要として』
『お願いだから返事をしてくださいお願いします』
『樋口くんにも謝りましたもうしません本当にごめんなさい』
『返事をしてください』
『待ってますお願いします許してください』
『いい子になります』
『陣くん……』
『ごめんなさい』


『さようなら』


 水野からのメッセージは、昨日の夜に送られた不穏な一文を最後に途絶えていた。そのあまりの圧に、思わずぎょっとする。
 水野から度々感じていたもう会えないかのような焦燥感が今度こそ本物かのように思えた。馬鹿なこと考えてたりしないよな?

『少し話せないか?』

 その不安をかき消すように、水野へとメッセージを送る。
 俺からメッセージを送ればいつだって水野は一瞬で既読になっていた。だから、今だってすぐに返信が来る。
 そう思っていたのに、水野からの返信はいつまで待っても返ってこない。時間が経つにつれ、不安が芽生え始めた。

『なぁ、水野?』

 でも、やはり水野からの返信は返ってこない。
 いても経ってもいられなくなり授業に戻ることなく学校を飛び出した。もちろん、水野に会いにいくためだ。
 とはいえ、行き場所の心当たりはそう多くない。だが、この時間であれば水野のいそうな場所に見当がついた。

 電車で揺られること二十分ほど、平日の昼間ということもあり校内からは人のざわめきを感じる。俺は、水野の通う高校、霞ヶ丘女子高校へと足を運んでいた。
 ここまで勢いで来たのはいいものの、どうするつもりだったのだろう。こんなことになるのであれば水野にもクラスを聞いておくんだったと唇を噛む。校門の前で立ち尽くす男子生徒に、通りがかる女子生徒から胡乱げな視線で見られているのを感じる。
 ここは女子校なのだから、男など絶好の注目の的になり、このまま入れば即刻つまみ出されてしまうだろう。

「うちの学校に何か用ですか?」

 そうしてしばらく校門の前で悩んでいると、敷地内から警戒心を前面に押し出した女性教師が現れた。
 明らかな夾雑物を見る目に自分がいかに場違いであるかを自覚する。

「いや、そういう訳ではないんですけど……」
「でしたら、お引き取りください」

 問答無用とでも言うように立ち去ることを求められる。

「あの、人を探してて。ここの二年の生徒で……水野綾って言うんですけど」

 このままでは有無を言わさず追い返される。
 慌てて水野の名前を出すと、警戒心を抱いていた女教師の眉がぴくりと動いた。

「どういったご関係ですか? あなた高校生ですよね。学校は?」

 それは水野のことを知っている反応だった。
 俺の姿を訝しげに眺めながらそう口にする。
 もっともな質問だ。学校から直接来たので俺は制服のままだし、時間帯はまさに授業の真っ最中。そんな時間に訪ねてくるなんて怪しさ満点なのは言うまでもない。
 どう言った関係か。その質問にも、言葉の詰まるものがあった。以前は、照れながらも彼女だと紹介してきたこともあったが、この相手にまでその説明をするのは無理があった。

「知り合いです。どうしても話がしたくてどうにか取り次いでもらえませんか?」
「部外者に個人情報をお伝えすることは出来ないので」

 とりつく島もないと言うようにあしらわれる。だが、そんな簡単に諦められない。

「そこをなんとか! せめて伝言をお願いするだけでもいいので」
「すみませんが、怪しい人を入れるわけにはいかないので」
「お願いします。無事かどうかを確かめたいだけなんです」

 俺の言葉に、女性教師が纏っていた雰囲気が変わるのを感じた。

「無事かどうか? あなた、水野さんのこと何か知っているの?」

 それは先ほどまでと打って変わり、問い詰めるようなものになっていた。

「いや……え? どういうことですか?」
「水野さんが今どこにいるか知っているの?」

 言ってから女性教師はしまったと言うように口をつぐんだ。俺の反応から、何も知らないことを察したのだ。

「水野、学校に来てないんですか?」
「……」
「答えてください! 水野はここにいるんじゃないんですか?」

 女性教師は諦めるように口を開いた。

「水野さんは来てないわよ。昨日から家にも帰ってないらしいし。どこに行ったのか誰も知らないのよ」

 目の前が真っ暗になるような気がした。水野から送られてきたメッセージと行方をくらませているという事実。どう転んでも嫌な方向に思考が傾く。
 こんなことをしている場合ではない。背を向け、探しに行こうとすると「待って!」と背後から呼び止められる。

「あなた、本当に水野さんがどこにいるか知らないの?」

 女性教師が心配げな表情で立っていた。
 原因は深く考えるまでもなく俺だ。なのに、行き先が分からないことが歯痒く感じる。

「絶対見つけます」

 俺はそう言い残して、学校を後にした。





 啖呵を切ったはいいものの思いつく場所は少ない。というか、ほぼない。この時間であれば学校にいるだろうと思っていたのだがその予想は早速外れてしまったのだ。
 それに、昨日から帰っていないと言うことは家族だって探しているだろう。水野は両親を亡くしているから今は祖父母か。どちらにせよ、そんなすぐに見つかるような分かりやすい場所にはいないだろうと予想出来た。水野は今、一体何を考えているのだろう。無事でいてくれているのだろうか。

 焦燥感から額に汗が浮かぶ。
 考えろ。今こうしている間にも時間は過ぎていっている。俺が水野ならどこへ行く? 何を考える?
 水野は、死ぬつもりなのだろうか。嫌だ、そんなの嫌だ。
 強い否定、認めたくないという気持ちが湧き上がる。水野と共に過ごした日々が輝いて思い出される。それが、紗奈に求めたことの代わりだったとしても俺は確かにあの時間を楽しんでいた。それは嘘じゃない。

『さようなら』

 水野の不穏なメッセージが頭にチラつく。相変わらず返信は来ない。携帯を見ていないのだろうか。見られないほどに落ち込んでいる? それならばまだいい。
 嫌な予感を振り払い電話をかけるが呼び出し音が鳴るばかりで水野の飴のようなコロコロとした声が聞こえてくることはない。
 樋口から言われたことを思い出す。

『あの子の気持ちを考えろよ』

 両親を亡くして、今まで信じてきたものにも裏切られて。それでも俺の願い事を叶えようとしていたのは何故だ? そんなこと意味がない。きっと俺なら死にたいほど絶望している。
 そうして考えてはっとした。水野は願い事を三つ叶え終わった後のことを教えてくれなかった。あれは死のうとしていたんじゃないのか?
 最初から死ぬつもりだったと考えると様々なことに合点がいった。お金は必要ないと言っていたこと、いつも奥底にある深い絶望、嫌なことなど何もないと言い切る謎の胆力。
 水野がそんな強い女の子じゃないことを俺は知っている。普通に笑うし、普通に泣く。喜怒哀楽のあるただの女の子だ。
 全てに諦めて投げ出す覚悟が、もう出来ていたんじゃないか?
 俺が水野なら、どこを死に場所に選ぶだろうか。思い出の場所? 誰にも迷惑をかけない場所? 分からない。どこを目指しているのだろう。
 そうして考えていると、水野と死が結びつく場所が一箇所だけ思い当たった。無駄足になるかもしれない。でも俺はその場所に行くしかなかった。





 そうして俺は、長い階段を登っていた。その先に水野がいることを信じて。
 俺の予想が全くの見当違いで、俺の知らない場所にいるのならもうそれはどうしようもない。諦める他ない。
 だが、一ミリでも可能性があるのなら行くしかなかった。
 そうして、登り切った先に、見覚えのある姿を見つけた時、俺はほっと息を吐き出した。
 息を呑むほどに白い、まるで雪のような純白のワンピース。その対となるような胸まで伸びた黒髪。透明感のある肌と合わさり、まるでこの世のものでないかのような存在感を放っている。どこか現実味がなくて本当に存在しているのかと疑いたくなるほどの美少女。
 神木神社、あの日水野が樋口を突き落とした場所にその姿はあった。陽射しを避けるように木陰にしゃがみ込んでいる。
 その肩が、近付くことで小刻みに震えているのが分かり、泣いているのだと気付いた。

「水野……?」

 驚かさないように、優しく声をかける。どう接していいのか分からなかったのだ。俺は、水野に対して酷い態度を取った。それを、一方的に俺が悪かったとは思わないが傷つけたのは確かで、今この状況を作り出しているのは間違いなく俺にも原因の一端がある。

「陣くん?」

 俺の言葉に、信じられないと言うような表情で水野が顔を上げる。
 久しぶりに見るその顔は、相変わらず言葉に出来ないほど可愛くて。煌めく涙すらそれを彩る宝石のように見えた。
 だが、そんな言葉で誤魔化せないほどに疲れが滲んでいるのもまた目にとれた。

「久しぶり。元気してた? ……ってそんなわけないよな」

 どう声をかけていいか分からなくて当たり障りのない言葉が口から溢れる。何も言わないと気まずくなってしまいそうだったから。
 そうでなくても、こんなに息苦しいというのに。

「水野が連絡に出ないから俺、学校まで行ったんだぞ? めちゃくちゃ警戒されててもちろん入ることなんか出来なくて。そしたら昨日から帰ってないなんて言われるし……心配したんだからな」

 水野が何か言う前に畳みかけるようにそう早口で告げる。

「どうして……ここが」

 水野の絞りだすような言葉にぐっと息が詰まる。
 俺は、水野が死を選ぶならどこだろうと考えた。もしも、両親の後追いをしようとして両親と同じ事故現場に向かっているのであれば、その場所を知らない俺はお手上げであった。
 だから、俺の知っている場所に限定して考えることにした。
 水野は、壊れているわけじゃない。ちゃんと心がある。死ぬ方法を考えた時に大勢の迷惑になるようなことをするわけがないと俺の第六感が告げていた。だとするなら、人の迷惑にならず、かつ死ねる場所。そうして選択肢を絞っていき、海か山かと考えた時に思いついたのがこの場所だった。
 とは言え、樋口は実際この場所で死に損なっているわけなので本当にここで死のうとしているのかは賭けだったが、俺はその賭けに勝ったということだろう。

「探したんだよ。ほんとに」

 水野の問いには答えず、変な気を起こしたりしないように慎重に心配の言葉を投げかける。
 水野は顔を俯けて俺の顔を見ようとすらしない。

「陣くんはもう私がいらないんじゃないですか?」

 水野の不貞腐れた子供のような言葉に悲しい笑みが溢れる。笑い飛ばせないのは、その裏にある悲しい真実を知ってしまったから。

「そんな訳ないだろ。水野には俺のつまらない願いに付き合ってもらった恩がある。方法が少し極端だっただけで……悪気があった訳じゃないんだろ?
もう帰ろう、みんな心配してる」
「帰りません」

 差し伸べた手を取らずに水野は首を横に振る。

「みんなって誰ですか。私に私のことを心配してくれる人なんてもういないんです」

 それはきっと亡くなった両親のことだろう。でも心配してくれる人がいないなんてことはないと教えてあげたい。俺だって、樋口だって、学校の先生だって。きっと水野の祖父母も心配している。そうでなければ誰も探そうとだってしないはずだ。

「俺はこうして迎えに来て……」
「陣くんは嘘つき!」

 水野の泣き叫ぶ、もはや悲鳴のような絶叫に俺の声がかき消される。

「どうして、私のことを信じてくれないんですか。私は陣くんにあんなに尽くしたのに、陣くんのためなら何だってする覚悟だった。
それなのにどうして結局私を見捨てるの? おかしいよねおかしいよ! 
私はただ役に立ちたかったそれだけなのにそうすれば必要としてもらえるはずだったのになんでなんで!」

 水野が口にするのは俺への不信感だ。もはや会話できるような精神状態ではないほど、頭を抱えて叫ぶ。

「私はもう用済みですよね。言われたこともちゃんとこなせない、どうしようもなく使えない馬鹿な道具ですから。
ねぇ、陣くんもそう思うでしょ? そう思うから私はもういらないんでしょ?」

 水野は、叫んでいたのが嘘のように一転し、悟ったような口調で俺に疑問を投げかける。
 その目は酷く虚で光を映していない。水野の瞳の中の俺が狼狽えて酷い表情をしているのが見えた。
 水野の人の目を惹く容姿が絶望で暗く歪んでいた。
 だが、それぐらいで怯んではいられない。俺だって覚悟を持ってここに来たのだ。

「用済みなんて、人に使う言葉じゃないだろ。それに、水野は俺の彼女なんだ。だって俺はそう願ったはずだから。それはまだ有効で勝手に終わらせるなんて許さない。
だから、ちゃんと生きて……一緒に帰らないといけないんだ」

 縋るような言葉。聞く人が聞けば情けないと思うだろう。俺だってもっとカッコいい言葉で水野を生きてていいと思えるように踏みとどまらせたい。でも、何も思いつかないのだ。だからこんなかっこ悪い言葉になってしまう。
 死んでほしくない理由、一緒にいたい理由、いなくならないで欲しい理由、笑っていて欲しい理由。俺にはつい最近までさっぱり分からなかった。でも気がついたのだ。
 水野は、俺に誠心誠意正面から向き合ってくれていた。彼女になって欲しいという願いを忠実に聞いて俺を愛そうとしてくれていた。その行動にいつしか俺も愛を感じるようになっていたんだ。

「樋口からあの日何があったのか全部聞いたんだ。あれは、水野に実際に起こった出来事なんだろ?
俺は水野の考えていること、何一つ。本当に何も分かっていなかったんだ。いきなり願い事を聞いてくれる超可愛い女の子が現れたぐらいの緩い認識だった。そんな訳ないよな。ある訳なかったんだ。
どれだけの想いを抱えて俺と向き合っていたのか知らなかった」

 水野はただ黙って俺の話を聞いている。その感情は表情からは読み取れない。だが、水野の頬を流れていた涙はいつの間にか止まっていた。代わりに俺の瞳に涙が滲んでいる。

「携帯を見た時、背筋が凍った。水野のさよならの言葉から最悪を想像したんだ。水野ともう二度と話せないという最悪を。
俺は、あんなことがあってもまだ水野と一緒にいられると思っていた。だって俺たちには二人を繋ぐ願い事という縁があったから。
でも、いつもすぐ返ってくる返事が返ってこない。気が気じゃなかった。俺だってもうとっくに水野なしじゃどうにかなってしまいそうなんだ」

 言い切って再び静寂が訪れる。

「陣くんはどこまで聞いたんですか?」

 その沈黙がどれだけ続いたか、水野がようやく口を開いた。
 そのいつもと変わらぬ可愛らしい声色にほっとして涙が溢れそうになるがぐっと堪える。

「水野が、この町に引っ越してくることになった理由。なんで願い事を叶えようとしてるのかと、両親を亡くしたことを聞いた」

 隠してもしょうがないので、全てを正直に打ち明ける。

「そうですか。樋口くんに話したこと、本当に全部聞いたんですね。
誰にも言うつもりはなかっただけどな……。冥土の土産にと話したのがこんなことになるなんて」

 水野は小さくため息をつき、空を見上げる。陽は落ちかけていて、空には一等星が煌めき始めている。
 頬を撫でる風が少し冷たい。

「でも分からないこともあるんだ。俺は水野と出会えたことを凄く感謝してる。
でも、いくら考えても相手が俺であった理由が分からないんだ。どうしてあの日、水野は俺を選んでくれたんだ?」
 この質問をするのが怖かった。第一、一度最初の頃に尋ねて拒否された話題だ。ちゃんと答えてくれる保証なんてなかった。
でも、それでも俺を選んでくれた理由を。俺たちの縁の正体を知りたかった。

「陣くんを選んだのは……運命でもなんでもありません。たまたまです」

 水野は数拍黙った後に、ゆっくりと口を開いた。
 その言葉に、俺は頭の中は真っ白になった。
 何か俺でなければならない理由があって頼られたのだと思っていた。でも違った。感じていた親近感や信頼のようなものが絶たれた気分だった。ただの偶然と切り捨てられたのだ。ここまでショックを受けていることに自分でも驚くが思考が纏まらない。
 だが、水野の言葉はそこで終わらなかった。

「あの頃は、私はまだ両親の死を受け入れられていなくて、毎日泣いていました。それは今でもあまり変わっていないけど……、とにかく全てに絶望して学校も何もかもやる気を失っていたんです。
もう生きている理由が分からなかった。死にたいと何度も考えていてそれでも死を選べない自分に嫌気が差してました。何度も通ったカウンセリングなんかで傷が癒えるわけもなくて。
あの日は、そんなどうしようもない鬱も最高潮に達していて本当に今なら死を選ぶことが出来る気がしてた。そうして死のうと駅のホームに立った時、あることを思ったんです。
今死んだら、両親の言っていた人の助けになるような人間になりなさいという教えが間違っていたと、私が証明することになるんじゃないかって。だってそうじゃないですか? その教えに従った結果、誰も幸せにならず結局みんな死ぬんですから。そう思うと、死を選ぼうとする私の足が止まったんです。
陣くんは私の両親がどうして死んだのか聞いたんですよね? 私は、私を慰めようと連れ出してくれた家族旅行で二人を亡くしたんです。原因は私です。私の考えが足りなかったばかりに都合よく利用されて。二人は何も悪くなかったのに。
その旅の最中に喧嘩したんです。言ってはいけない言葉を口にした。この家に生まれて来なければ良かった、って。
そんなこと思ってなかった。言うつもりなかった。でも、今死んだらその言葉が現実のものになってしまう気がして、二人に合わせる顔がなかった。
だから、思ったんです。その言葉を否定してから死のう、私の存在によって幸福になる人がいると証明しようって。そう思うとまた気が楽になりました。そこからは簡単です。人の助けになろうと、困っている人を探しました。
そうして歩いていたら、暗い顔をして歩いてくる陣くんを見つけたんです」

 ようやく出てきた俺の名前に、はっとして水野に向き直る。そんな俺に、水野はにこりと微笑んだ。
 その笑顔は、今まで見せてきた水野のどんな表情よりも綺麗で、心を奪うには一瞬だった。
 どうしてこんなに心に響くのか。それはきっと、今までの無理に作られた偽物の笑顔とは違う真実の微笑みだったから。

「あの日、あの時間にたまたま陣くんが通りかかったんです。暗い顔をして下を向いて歩いている陣くんは私の思う助けを求めている人そのもので。そんな陣くんを見て、きっとこの人が私を救ってくれるんだろうと直感的に感じたんです。それを運命というのならそうなのかもしれません。
実際、陣くんと会えたのは奇跡でした。陣くんが文化祭で演奏した曲ありましたよね? あの曲は、ドライブ好きの父がよく車内で流していた曲なんです。時代遅れで、古臭い。でも私には凄く刺さるものでした」

 だが、幸せそうだった水野の顔が歪んだ。

「でも、両親のいない世界で……私を必要としてくれる人がいない世界で、いつまでも生きながらえるつもりもなかった。だから、三つだけ何でも願い事を叶えてあげることにしました。それを叶え終わったら死ぬつもりで」

 水野の語った内容は大方予想通りだった。それも、考えうる限り最悪の。

「俺はそうさせないためにここにきた」

 水野は俺の目を見ようとしない。

「違うんです」
「違う? 違うって何が」

 水野は言葉に詰まる。

「私は結局、自分の存在価値を証明したいだけだったんです。両親の言葉を否定したくないというのも結局建前で私には死ぬ勇気なんてなかった。
だから、もう後には引けないように樋口くんを殺して自分の中で区切りをつけようとしたんです。でもそれも失敗した。私には覚悟なんてなかった。私はただの臆病者です……」

 その姿は、華奢な体がいつもよりさらに小さく思える程しぼんで見えた。だけど俺は、そんな水野を救いにここまで来たんだ。

「三つ目の……最後の願いを聞いてくれないか?」

 水野はびっくりしたように顔を上げる。

「今ですか?」

 狼狽えているように見える。それもそうか。叶え終わったら死ぬという話を聞いたばかりに最後の願いをするなんて。死んでくださいとでも言うようなものだ。

「水野もいつも空気を読まずに尋ねてきてただろ? お互い様だよ。
どちらにしろ死ぬつもりなら最後に俺の願いを聞いてくれよ」

 俺はそう言って微笑みかける。だが、当然笑顔が返ってくることはない。

「どうぞ……」

 しばらく沈黙の時間が続いたが、何かしら決心がついたのか水野がそう答える。
俺は静かに深呼吸して息を整える。


「俺とこれからも一緒にいてくれないか」


 何も返事がなく、聞こえなかっただろうかと心配になるが水野の驚いたような顔でちゃんと声に出来ていたのだなと安心する。
 俺の一世一代の告白が聞こえなかったなんて、そんな悲しいことになっていたら泣いてしまうところだった。

「どういう……意味ですか?」

 水野の視線から目を逸らしてしまわぬように真っ直ぐと見つめ返す。

「そのままの意味だよ。これからも俺のそばにいて俺のことを見守っていてほしい」
「意味が分かりません。私はもう死にたいんです。これからもだなんて、私に一体どんなメリットがあるんですか?」

 水野は困惑した表情を浮かべている。

「簡単だよ。今まで通り、休みの日は一緒に遊びに行ったり、俺の家に遊びに来たりしてもいい。水野の聞きたがってたギターだって何度だって弾く。水野が生きてていいと思える理由を俺がいくらでも作ってやる。俺がそうしたいんだ。自分を認めてくれる人がいないって言うのなら俺がいくらでも話し相手になる。俺が生きてる意味がないなんて言わせない。
そもそも願いも三つなんかじゃ足りないんだ。それっぽっちじゃ俺はちっとも救われないし満足できない。それは水野も困るだろ? 俺はこれからもっと沢山わがままを言うし、水野だって俺に何かを求めたっていいんだ。そうして、俺が心から幸せだと感じることが出来て水野がまだ死にたいと思うのなら……その時、また考えたらいいだろ。死んだらそこで終わりなんだから。
だから最後の……いや、違うな。ここから始めよう、これが最初だ。
俺の、高崎陣の。最初で最後の願いを聞いてくれないか?」

 鼓動がうるさいほど高鳴り、体が燃えているかと思うほど熱い。顔から火が出そうなくらいだ。こんなの柄じゃない。今まで、人と関わるのなんて苦手だった。
 それでも、これから先も一緒にいたいと思うのはきっと水野のことを好きになってしまったからだ。
 水野の反応を見る。表情は相変わらず、呆気に取られたようなままで固まっている。だが、ふいに止まっていた涙が、再び頬を伝った。

 「大丈夫か⁉」

 泣かせてしまった。それがどういった類の涙か分からず狼狽える。

「陣くんは……」

 だが、水野は俺の心配の声には耳を貸さず言葉を重ねる。

「陣くんも結局いなくなるんじゃないんですか? 私はもう用済みだって。いらないってそういうんじゃないんですか?
私はもう一人になりたくないんです。どうせいなくなるのなら無責任なこと言わないでください」

 水野が生きてきた世界を思うと、涙が出そうになる。水野には本当に頼れる人がいなかったのだ。誰のことも信じられない。そんな悲しいことあるだろうか。
 俺だって、ある日自分の両親が突然死んでしまったらと考えたらとてもショックで立ち直れないだろうと思う。ましてや、それが間接的であるとは言え自分のせいだなんて。でも、そんな水野にも救いはあるのだと教えたい。
 俺は水野の体を抱きしめた。

「陣くん⁉」

 水野が聞いたことのないような素っ頓狂な声を上げる。
 でも、それを無視して俺は腕に込める力をさらに強くした。決して離さぬように、これからも離れないというのを表すように。
 言葉じゃ足りない気がした。

「俺はいなくならないよ、ずっとそばにいる。いて欲しいんだ。
水野がいないと俺は、寂しくて仕方がないし落ち着かない。それが分かった。まるで心にぽっかり穴が空いたみたいだった。
俺は、水野のことが好きなんだ」

 腕の中の水野は、苦しそうにもがいている。それに気付き、しまったやりすぎたと拘束のようになっていた抱擁を解く。
 水野の顔は耳まで真っ赤になっていてまるで茹でたこのようだ。いや、それは俺もか。俺の顔も人のことを言えないほど赤く染まっている。

「陣くんはいつからそんな恥ずかしいことが言えるようになったんですか」

 水野の言葉には、先程までのような悲壮感はなく、照れたように早口になっている。
 それがおかしくて、思わず吹き出してしまう。

「水野に教えてもらった話術が活きてるのかもな」
「そんな傷ついてる女の子につけ込むようなのは教えてません!」

 二人で顔を見合わせ、同時に笑い出す。やっぱり、どうしようもなく水野のことが好きだと改めて思う。

「それで? 俺としては答えを聞かせてもらわないと不安で仕方ないというか……」

 ひとしきり笑って一世一代の告白の返事を待つ。今までの人生で、ここまで緊張したことなかった。ステージ発表なんて比にならない。今回は背負っているものが違うのだ。
 水野は、恥ずかしそうにもじもじと身をよじる。

「えっと……いいのかな。私、凄くめんどくさいと思うよ? きっと甘えちゃうことだって多い。病むことだってきっとなくならない。
それでも……いい……?」
「もちろん。どんと大船に乗った気持ちで任せてくれよ」

 水野は、泣き顔で溢れんばかりの笑顔を浮かべる。それはとても綺麗で、どこにも嘘くささなんてものなく、真実であると確信する。

「帰ろう水野」

 手を差し出す。

「うん……!」

 その手を、恐る恐る水野が受け取った。


 
「で、最近どうなのよ」
「いや、まぁ別に前と大して何か変わったわけじゃないからなぁ……」
「なんだよ、つまんね」

 言葉通り心底あきれたという風にぼやく樋口に思わず苦笑がこぼれる。
 樋口が言っている最近というのは、あの日からの俺と水野の関係についてだ。だけど、それは本当に語るべきことは何もない。以前も、実際どうであったかは別として付き合っていたことには変わり無い訳だし周囲に対する対応が変わるわけでもない。
 強いて言うのであれば、綾と呼んで欲しいと言われていることぐらいだろうか? まだ恥ずかしくて呼べていないのは許して欲しい。
 つまり結論としては、ただ水野がいる日常が戻ってきただけだ。でも、それだけのことにこの上なく幸せを感じてしまう。

「そういう樋口は、色々大変そうだな」
「ん、まあな。俺も色々考えたんだけどやっぱりこのままじゃいけないと思って。
今は清々しい気分だよ」

 樋口は、紗奈と別れたらしい。校内のビッグカップルの突然の破局に様々な憶測が飛び交ったが真実を知る者としては時間の問題ではあったのかな、などと思う。
 樋口の顔に後悔の色はなく、吹っ切れた様子なのが救いである。

「いいよな高崎は。……ほら、噂をすれば」

 樋口の声に釣られて視線を動かせば見慣れた制服が目に入り、思わず顔が綻ぶ。

「お待たせ、陣くん!」

 駆け寄ってきた水野の顔には以前のような悲壮感はどこにもなく、見違えるような輝く笑顔である。
 この美少女が本当に俺の彼女なんていまだに信じられない。
 その笑顔の裏でまだ死にたいと思っているのか分からない。でも、生きている。
 それだけで俺はこの上なく救われているんだ。

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