水野と付き合い始めてからも、俺の生活は特に変わらなかった。違う学校というのもあるが、会うのは学校終わりの僅かな時間。俺たちの距離感は縮むことも遠のくこともなく、あっという間に一週間が経過し、十月になっていた。

「高崎くん、そこの段ボール取ってくれないかな?」

 責任感の強そうな学級委員の女子生徒の声で、俺は足元に転がっていた段ボールを彼女に渡す。教室内は、装飾が飾り付けられ、クラスメイトが慌ただしく動き回っている。

「陣、どうよこれ?」

 呼ばれた声に振り返ると、執事のような黒のタキシードに身を包んだ隆也が立っていた。まるでコスプレのようなその姿に、おちょくってやろうかと思ったが、引き締まった体で意外と様になっているのが憎らしい。

「それ、本当に俺も着るのかよ」
「一人だけ着ないわけにはいかないだろ。結構いいぞこれ」
「あぁ、割と似合ってて言葉に困ってる」

 俺たちのクラスは週末に行われる文化祭にむけての準備を行っていた。クラスの出し物は、揉めに揉めた結果、お化け屋敷派を押し切り、執事メイドカフェをすることに決まった。といってもやることは、男子は執事服。女子はメイド服を着ているだけの簡易的な喫茶店である。
 今日はその衣装の試着が行われていた。気合が入っているとは思っていたが、凝りすぎだろ。女子達のメイド服もこの分なら、相当のクオリティで仕上がっていることだろう。
 教室は正にお祭り騒ぎといった様子で、各々が装飾や、看板、メニュー作成などの作業に取り組んでいる。一年生は、クラス展示をするという決まりがあったため、こんな風に自由に出し物が出来るのは二年である今年からなのだ。非日常感にみんなが浮かれていた。

「陣の方はどうよ?」
「ばっちり。もうほぼ完成」

 隆也の言うそれとは、俺が担当であったクラス宣伝の立て看板である。可愛らしいクマとウサギが描かれて真ん中には、『2の4 執事メイドカフェ』と大きく描かれている。
 担当であるとは言ったが、俺に絵の才能はない。絵の上手いクラスメイトが描いた線に沿ってスプレーで色を付けただけだ。色とりどりの塗料で彩られた看板は中々様になっているのではないかと思う。いかにもそれらしいものが完成していた。
 正直、始まる前は文化祭なんて一日で終わる物のために、一週間以上の時間と労力を割いて、準備するだなんてなんて無駄なイベントなんだ、という気持ちがあった。

 だが、実際に準備をしていて気付くものもある。この準備という段階でも充分にワクワクできるものだったのだ。確かに本番はかけた時間に対して、一瞬で終わってしまうかもしれない。だが、こうも大勢で何かに取り組んだ記憶と達成感はそう簡単に得られるものではない。この立て看板一つ仕上げただけでも既にやり切った感すらあった。何だかんだ俺はこの文化祭の準備というイベントを楽しんでいた。
 だが、俺はこのカフェ以外にも、文化祭で楽しみにしていることがあった。それが上手くいけばもしかしたら……。

「あれ、食材足りなくない?」
「あ、しまった! 試作品用の食材、買い足すの忘れてた」
「どうする? 今から買いに行ける人いるかな」

 調理班の女子達がざわざわと騒ぎだす。どうやら、用意していた食材が足りなかったらしい。

「じゃあ、私行ってこようか?」

 耳にこびりついて離れない何度も思い出した声。早川さんが助っ人に名乗り出る。

「本当! 早川さん超助かる、ありがとう!」
「全然! 私もちょうど暇してたし」

 早川さんのこういう誰かが困った時に自然に名乗り出ることができる所が、万人に受ける理由なのかもしれない。自分が褒められているわけではないのに誇らしい。

「でも一人じゃ重いから誰か男子に手伝ってもらおうかな」

 だが、わざとらしく肩をすくめて協力を仰ぐその早川さんの一言で、クラスの男子達の空気が一変した。

「ぜひ俺が!」
「いや俺だろ」
「お前ら引っ込んでろって、ここは俺が」

 先程までの文化祭の熱気とはまた別種の、負けられない熱き戦いがそこにはあった。
皆、口々に付き添いに申し出るが、その権幕に押される早川さんを庇うように女子が立ち塞がる。

「あんたたち、その服で出かけるつもり? 大体、まだ自分の仕事終わってないでしょ」

 言われてみれば、大抵の男子は裾合わせでタキシードを身に着けていた。外を歩くのに向いているとはとても言い難い。
 その最もな言い分にも諦めず、でも、と食い下がるが許可は下りない。それだけの積極性を出せるのは、行動を起こすことも出来ない俺から見れば充分尊敬に値する。好意を見せることが怖くて閉じこもっているより百倍ましだ。


「じゃあ、仕事も終わってて、制服も着てるやつならいいよな?」

 思わぬ方向から、その議論に口を挟んだものがいた。そう言ったのは、俺の隣に立っていた隆也。
 正直意外であった。隆也が普段こういった争いに関与することはなかったからだ。だからかもしれない、嫌な予感がした。
 そして、その勘は当たっていた。

「だってよ。行って来いよ陣」
「……は?」

 告げられた言葉を信じられなかった。
 俺をあの虎の巣につっこむなんて正気か? 案の定、誰だお前という目を向けられているのを感じる。圧倒的場違いで、隆也は俺を手助けしたつもりだろうが、その結果がこれだというのなら失敗であると言わざるをえない。

「うん、高崎くんなら安心だね」

 でも、そんな皆の疑惑の視線を裏切ったのは当の本人である早川さんであった。周りの生徒はとても納得している様子ではなかったが、本人が良いと言っているのであれば、だれもそれに異を唱えることは出来ない。俺本人ですら、まだ納得しきれていないというのに話が勝手に進んでいく。

「じゃあ、よろしくね高崎くん」

 俺は憧れの人の言葉にただ頷くことしか出来なかった。
 

◆ 


 そんなこんなで俺と早川さんは、学校近くのスーパーへと足を進めていた。
 早川さんとは、ほとんど一方的に知っているだけとはいえ中学からでそれなりに長い付き合いだというのに、こうして並んで歩くのは初めてじゃないだろうか。心臓はどきどきと早鐘を鳴らし、口内が乾く。
 変な顔をしてはいないだろうか。ちらりと横を見れば、何度恋焦がれたか分からない早川さんの凛々しい顔があった。透明感がある穢れを知らぬ白い肌、切れ長の氷のような瞳。だが、その奥から滲み出る性根の良さ。
 最近は、顔が強すぎるほどに整っている水野の影響で、少しは女性耐性がついてきた自信があった。だが、いざ早川さんを前にすればにやけて緩む表情筋を抑えるので精一杯だ。恋は盲目とはよく言ったもので、それ以外何も考えられない。修業が足りない、俺もまだまだだな。

「高崎くんとこんな風に二人で話すのは凄く久しぶりだね」

 何の前触れもなく早川さんに告げられたその言葉に、動揺しつつも何とか平静を装う。

「うん、久しぶり……って、俺のことちゃんと覚えてたんだ」

「中学一緒だった人ってうちの学校少ないでしょ? だから自然とね。あんまり話したことはなかったけど同じクラスになった時は嬉しかったんだよ」

 そう言って、早川さんは屈託なく笑う。
 俺のことなんて眼中にないと思っていたのに、ちゃんと認識されていた。ただそれだけだというのに堪らなく嬉しい。それに、同じクラスで良かったなんて、俺にはもったいない程の贅沢な言葉だ。その笑顔と言葉だけで何でも出来るとすら思えてくる。

「恐れ多くてさ、中々話しかけられなかった。早川さんは人気者だから」
「何それ。私はいつでもウェルカムだよ」
「周りにいつも人が沢山いるからそうもいかないって。その社交性は本当に尊敬するよ。俺なんて隆也……じゃなくて須藤ぐらいしか友達いないから」
「須藤くんと仲良いもんね。私も別に特別なことしてるわけじゃないよ? ただしたいことをやってたらみんなが助けてくれるだけ」
「天性の人たらしだ」
「てへっ」

 憧れの早川さんはやはり、知っていた通り圧倒的に可愛くて、それでいて親しみやすい。そのおかげか、思っていたよりも、自然に会話できている。二人きりで会話なんて想像は今までいくらでもしてきたが、まさか現実になるとは夢にも思ってもいなかった。
 隆也が俺を買い出しへ送り出した時にはどうなることかと頭を抱えたが、意外とやれるじゃないか俺。偉いぞもっと頑張れ。

「これだけ喋れるんだから、高崎くんももっと前に出てきたらいいのに。中学の時とかは、合唱コンクールのリーダーとかやってたよね? みんな高崎くんのことを知らないだけだと思うけどな」

 驚いた。俺自身ですら言われなければ思い出さないような中学時代の誰も気にしていないイベント。合唱コンクールで俺がリーダーを務めていたことを覚えている人が存在したのか。確かその年は、早川さんと同じクラスでもなかったはずだ。別のクラスのことにまで気を張っているなんてそれだけ周りを見ていたということだろうか。
 しかし、その記憶は少々語弊がある。というのもリーダーは、俺が自分から進んで志願した訳ではないのだ。誰も候補者がいなくて、半ば擦り付け合いのようなじゃんけんで敗北したというのがつまらない真実。早川さんの記憶の中の俺は、主体性があったと美化されているようだが、嫌々やっていた俺はやはり前に出ていく器ではない。

「よくそんなの覚えてるね。そんなことないと思うけどな」

 だが、わざわざそんな過去のことは訂正せず曖昧に苦笑して流す。
 早川さんと会話できている今が、夢の時間すぎて文化祭の買い出しの途中だということを忘れてしまいそうになる。あくまで俺たちは、足りない食材を買い足しに、仕方なく一緒に出掛けているだけに過ぎないと、舞い上がる自分を諫める。こういう時は自分を俯瞰で見るといいのだと誰かが言っていた。
 でも、それでも。こんなに至近距離でいられることに幸せを感じずにはいられない。

「高崎くんって優しいよね」

 前から迫ってきた車を避けるように道を譲ったところで、早川さんがぽつりとつぶやいた。
 早川さんのその言葉に、胸がはちきれそうなほど一杯になって、肺に上手く空気を取り込めなくなる。なんて甘い言葉だろうか。目も耳も幸せすぎてこのまま死んでしまいたいくらいだ。だが、死ぬわけにはいかない。

 そうして、はっと気が付いた。今ならあのことを言えるんじゃないだろうか。今年こそは勇気を出してやると決めたんだ。今のこの雰囲気を逃したら次なんて来ないかもしれない。
 言おうと決めると一気に体が緊張で固まっていく。それを、深い深呼吸で端から丁寧に解きほぐしていく。
 悶えたり深呼吸したりと挙動不審な俺を不思議そうに眺める早川さんのその姿で、また止むことなく好きが溢れてくる。長年の憧れが爆発していた。仮にも、水野の彼氏という立場ながら、そんなことは全く気にもならないほど目の前のこの瞬間に夢中になっていた。

「あの……早川さん!」
「ん? どうしたの?」

 言うんだ。今言わなければ後悔する。大丈夫だ、準備は嫌というほどしてきただろう。
 俺の真剣な表情に心なしか早川さんも緊張しているように表情を固める。

「文化祭のステージ発表。バンド演奏するので良かったら見に来てくれませんか?」

 口にして、時が止まったように錯覚する。返事が返ってくるまでの一瞬がとても長く感じられる。早川さんの顔色を、恐る恐る窺えば、全くの予想外とでもいうように驚いた顔をしている。

「うん、いいよ。見に行く」

 そうしてゆっくりと頷いた。

「……っつ!」

 声にならない声とともに思わず、手を握り締めてしまう。いわゆるガッツポーズである。慌てて後ろに手を隠す。

「でも、びっくりした。高崎くんって楽器できるんだね。何やるの?」
「えっと、俺はギターやることになってる」
「え、すごい! 私ギター弾ける人尊敬するんだよね。家でもよく動画とか見ててさ……」

 知っている。あなたの影響で俺はギターを始めたのだから。でも、そんなことは口が裂けても言えなかった。
早川さんが俺に向かって微笑みかけてくれている。この顔が見られただけで今日までギターを練習してきた甲斐があって俺は満足だった。
 バンドとは言ったものの、出るのは俺と楽器初心者の隆也。それに、ドラムが出来るという隆也の友達を合わせた即席の三人組だ。二人とも俺に付き合って出てくれているだけで、感謝が尽きない。一人では、踏ん切りのつかなかった俺の妥協案でもある。
 この発表にあたり、唯一のネックであったどうやって早川さんに見てもらうかも狙っていなかったものの、こうして約束を取り付けることが出来た。いや、今思えばそれも考えて、隆也は俺を買い出しへと送り込んだのだろうか。
 脳内で、頑張れよとウインクする親友の姿が浮かんできた。……考えすぎだな。

「バンドってことは誰かとやるの?」
「須藤と、その友達にドラム出来る子がいるらしいから合わせて三人かな」
「おぉ、本格的だ」
「と言っても須藤は初心者だし、俺は人前で弾いたことないから。そんな良い演奏は出来ないかもしれないけど」
「全然凄いよ、楽しみにしてる」

 早川さんは、想像より乗り気で、買い出しが終わるまであれやこれやと話を聞きたがった。そんな夢のような時間がいつまでも続けばいいと願ったが、現実はそういかない。ほどなく教室へと到着し、いつものように早川さんは皆の中心へと帰っていく。

「また、時間決まったら教えてね」

 別れ際にそう言って嫣然と微笑んだ早川さんは、間違いなく今日の夢に出てくると断言できるほど、他の何にもたとえようが無く、輝いて見えた。

「話できたか?」

 隆也の声で、現実へと引き戻される。にやにやとした隆也が俺の隣に立っていた。無意識に笑顔になっていたようだ。

「早川さん、バンド見に来てくれるってさ」

 それだけで、俺の言わんとすることは伝わったようだ。無言でお互いの肘を合わせ、ハイタッチを交わす。

「やれば出来るじゃん」
「練習は超ハードだからな。ちゃんと付いて来いよ」
「任せろ」

 何とか約束を取り付けることに成功したのであった。





「今日の陣くん、機嫌いい? なにかいいことでもあった?」
「え、そう見えたか?」

 放課後にこうして、水野と駅前で落ち合うのも日常になりつつあった。
隆也に伝わったのは長年の付き合い故だと思っていたが、どうやら傍目で見ても浮かれているほど俺の上機嫌は隠せていないようだ。

「いつも、どこか芯のないというか、心ここにあらずって感じで覇気がないのに今日は随分、生気があるから」
「水野がそれを言うのか……? 生気があるって、それじゃいつも死んでいるみたいじゃないか」
「あながち間違いじゃないかも」
「おい」

 そんな軽口を叩き合えるほどに、水野との会話に違和感がなくなってきていた。あまり人付き合いが得意な方でないと自負している俺にしては、一週間という異例のスピードで心を開きつつある。偏に彼女のことを分かってきていたというのが、一番の理由かもしれない。
 水野は最近、この近所に引っ越してきたこと、そのせいで、新しい学校にはまだ以前の学校の制服で通っているらしいこと。聞いてみれば、うちの学校からそれほど遠くない女子校に通っているらしい。名前では知っていたが、女子校となれば当然知り合いなどはいなかった。

 水野はあまり学校でのことを俺に話そうとはしなかった。放課後に友達と遊んだりしないのかと尋ねると曖昧な表情で誤魔化される。上手くいっていないだろうかと少し気になるが、水野は人と関係を築くのが上手いように思う。
 それが彼女の容姿に由来する対人経験によるものなのかは定かではないが、喋り下手である俺とも苦も無く会話してのけ、懐へと入り込む能力が高い。そんな訳で、俺が心配せずとも自分で上手くやっていけていることだろう。

 さて、少し話は逸れたが、俺はこの上機嫌の理由を水野に正直に話すべきだろうか。
 お試しとはいえ、彼氏彼女という関係性。そんな相手が、片思い中の相手を自身のステージ発表に呼び出すのに成功して有頂天になっているなど、面白くもない話なのではないだろうか。最悪、破局案件?
 別れるのに抵抗を感じる自分にも驚くが、未だ、水野がどんなスタンスで俺と付き合ってくれているかは分からない中、安易に口に出すことは憚られた。我ながら美少女二人に現を抜かすなど贅沢なことをしていると思う。
 迷った末、早川さんという存在を排除した上で伝えることにした。

「実は、今度の週末。うちの学校で文化祭があるんだ。そのステージ発表で友達とバンド演奏をすることになってるんだけど、それが上手くいきそうで。
だからちょっと機嫌よく見えたのかもな」

 嘘はついていない。全て本当のことであるから、噛むこともなく言葉に出来て、そのことに水野は何の疑問も抱いていないようだった。

「文化祭なんてあるんだね。陣くんバンドなんて出来るの?」
「ちょっとだけだけど。
だからそれもあって、文化祭までは練習で、放課後こうして話すことが出来なくなるかもしれない」

 そう言うと、水野は少し考えるよう俯いたが、すぐに顔をあげる。

「分かった、彼女ならそれは応援してあげるべきだよね」

 水野の言っている彼女なら、という意味は理解出来なかったが、分かってくれたのなら良しとしよう。会えないことでごねられるとは思っていなかったが、ここ最近、毎日一緒に過ごしていれば報告ぐらいして然るべきであろう。

「でも、条件がある。一日一回は、私になにかメッセージを送ることそれは約束だからね」
「なにか意味があるのか?」
「生存確認だよ。寂しいでしょ」
「分かった」

 俺なんかの言葉にそれほどの価値はないし、どこまで本気かは分からないが一日一回という条件なら苦にもならない。その程度であればちゃんと履行しようと二つ返事で許可を出す。
 水野は、見るものを魅了する輝く笑顔を見せてくれた。

 だが、関わるにつれ少しづつ見せてくれるようになったその笑顔も、確信こそないものの表面だけの作られた物に見えて未だに俺に心の全てを見せてくれているようには思えなかった。
 ふとした時に時折見せる、ここでないどこかに想いを馳せるような儚い表情。暗い絶望の淵にいるような、初めて出会った時の彼女の印象が蘇るが、実際に話せばそれを隠すように明るく振舞っているような節が感じられた。未だ、彼女の根に当たる部分には踏み込めていない。

 俺たちの関係は傍から見ればカップルそのものであったが、水野は、彼女という役割をまるで何かの義務のように取り組んでいるように思えた。彼女ならこうあるべき、彼女ならこうしているという、一般論的なイメージに沿って動いているような。その目は俺のことを見ているようで、ここにいない誰かを透かして見ているように錯覚する。それはこの関係が俺の願いによって成立していることを表しているようだった。
 とはいえ、一緒に過ごすこの時間に、最初ほど緊張はなく、俺は少しずつ安らぎを感じられるようになってきていた。
 帰宅した俺は、約束通り水野へとメッセージを送ることにした。

『生存確認』
『うむ、苦しゅうない。練習頑張ってね』

 相変わらず、送ったメッセージは一瞬で既読され、ありえないスピードで返信が来る。

『ありがとう、頑張るよ』

 女子とやり取りなんて、最初はむず痒い気持ちに襲われていたが、段々と慣れてきて自然になってきている自分がいることに驚く。人間の慣れというものは案外馬鹿にできない。
 約束も守ったことだ。週末まで悠長にしていられる時間は残されていない。早川さんに無様な姿は見せられないと、より一層気合を入れて励むことにした。





 それからしばらく。待ちに待った文化祭は、驚くほどあっさりとやってきた。

「こんな格好、とてもじゃないけど親戚には見せられないな……」
「……くっ! いや、俺はいいと思うぞ? 見る人が見たら味があるって」
「せめてその笑いを抑えてから言え」

 開店直前、忙しなくクラスメイトが奔走する中、俺は隆也に笑い者にされていた。隆也が、変にこの執事服を着こなしているせいで、並んで同じ服を着ているはずの俺の陳腐さが余計に際立っている。衣装の出来は悪くない。むしろよくあの予算で人数分をこのクオリティで出せたものだと思う。つまり、これは単純に俺の役不足。服に着せられている感が拭えない。
 せめてもの救いはこれが文化祭という非日常であり、俺一人のイベントではないということだろうか。廊下には恐竜の着ぐるみや包帯男が走り回っているのも確認できる。
 俺がため息をついたところで、ふいに、教室の入り口から黄色い声援が上がる。

「え、可愛い!」
「作ったやつ天才かよ」
「こっち向いて早川さん!」

 皆、口々に早川さんを褒め称え、写真に収めようとスマホを構えていた。そんな歓声が起きるのも仕方ない。俺も一瞬で目を奪われていた。
 男子が、執事服の一方で女子の制服はメイド服。白黒のベタな組み合わせでメイド服といえばこれといったイメージ通りの衣装に身を包んでいる早川さんの姿があった。その特徴的な長い黒髪を後ろで編み込んでおり、普段とは印象ががらりと変わって見える。ふりふりとしたレースで縁取られた膝下までのスカートから伸びる白い足は、素材の良さを遺憾なく発揮していた。
 優勝だろこんなの。この姿を見ることが出来るだけでもこの学校に在籍している価値があったというものだ。加えて、今日は一般のお客さんも来場することになっている。早川さんに接客してもらえるなんてどんな幸せだろう、俺が並びたいぐらいだ。
 その圧倒的ビジュアルの良さは話題になっているらしく、教室の外にはちらほらと別のクラスの面々も見える。それだけこの学校における早川さんの印象は圧倒的であった。

 実際、開店した後も、早川さんの宣伝効果は絶大であった。早川さんが教室の前に立って呼び込みをすれば面白いように客が入る。美少女というものは可愛い服を着てニコニコと微笑んでいるだけでこうも人目を引くものなのか。接客姿を見られると思っていたので、想像と違っていたことは残念だが、そんなことを気にしていられないほど店内は大忙しであった。

「高崎くん、これとこれ四番テーブルに持っていって」
「すみませーん。お会計まだですか?」
「このオムライス、頼んでないんですけど」
「はい、ただいま!」

 休む間もないとはこのことであった。俺たちのクラスの執事メイド喫茶は、まだ序盤とはいえ結果だけで言えば大成功と言えるだろう。だが、その成功の裏で調理係が、鬼の形相で仕上げた料理を、俺含むホールが全体に行き渡るように配膳して回り、食べ終わった皿を片付ける。爽やかな青春のイメージに反し、そこはピーク時の飲食店であり控えめに言って地獄であった。
 バイト経験のある面々が、こうも頼りになる存在に見えたのはこれが初めてである。俺は足手まといにならぬようついていくだけで精一杯であった。

 そんな勤務にも段々と体が慣れてきて余裕が出始めた頃。教室の入り口でザワザワと人だかりが出来ていることに気づいた。

「うわ、あれどこの学校の子だよ」
「レベル高すぎ」

 客がそう言って指を差すのに釣られて視線を向ければ、信じられない光景に目を疑いたくなった。

「えっと、二年四組ってここであってますか?」
「はい、合ってますよ!」

 尋ねた生徒はこの学校の制服ではない。恐らく一般の来場客なのだろう。その彼女から尋ねられた質問に、看板娘である早川さんがにこやかに笑って応対する。普通なら、誰もが早川さんのその圧倒的とも言える笑顔の前に存在感が霞んで見えるのだが、この時ばかりは大衆の視線はその客の方へと向けられていた。
 その客も、早川さんに引けを取らぬ、いや上回るほどの美少女であった。誰もが、その美貌に気を奪われていたが、この場で俺は唯一人、別の理由で冷たい汗を流していた。

 どうして来てるんだよ水野。
 美少女の二人の邂逅という、話題性抜群の出来事は文句なしに注目を集めていた。そのことに、水野は気付いているのだろうか。
 きょろきょろと辺りを見渡し誰かを探しているように思える。この時点で俺の中の危険信号は最大音量で警鐘を鳴らしていた。


「えっと、このクラスに陣くんっていますか?」
 時すでに遅し。あろうことか、早川さんに向けて俺の名前を発していた。俺の顔色は蒼白だったと思う。

「えっと……陣くんっていうと高崎くんのことかな。中にいると思うけど……どういう関係なのか聞いても?」

 早川さんは想定していなかった名前に、案の定戸惑っているように見えた。だが、その質問は俺にとって考えうる限り最悪の質問だった。

「彼女です!」

 いつもの調子でそう答えた水野に、場の空気が凍るのを感じた。嘘だろというように、俺を知る者から、教室内の視線が俺へと集まる。その内の一つである隆也のどういうことだという視線が胸に痛い。そりゃそうだ。どう考えても釣り合っていないし、今までそういった雰囲気を匂わせたことすらなかったのだから。

「へぇ……高崎くんの」

 全体に走った衝撃で早川さんがぼそりとそう呟いたのは、誰の耳にも届くことはなかった。
 当の水野は、ここでようやく教室内の俺に気づいたらしく、にこやかに手を振ってくる。こうなると、いよいよ言い逃れは出来そうになかった。俺は、全ての抵抗を諦めてがっくりと肩を落とした。

 そうして、俺と水野は何故か文化祭の校内を二人で回っていた。彼女が来たから気を使われたのか、注目を集め人だかりが通行の邪魔となったためか。恐らく両方の理由により、少し早めの休憩で自由時間を与えられたのであった。
 勿論、これは完全に想定外の事態だった。

「陣くん、どうしたのその恰好。その……面白いね?」
「感想に困るなら触れないでいいって」
「いやいや、似合ってると思うようん」
「本音は?」
「どうしたのそれ。絶望的に終わってるけど」
「聞かないでくれ」

 奇妙な目で見つめてくるその視線が痛かった。
 芸能人かと見紛う美少女と、不格好な執事のコスプレ男子という歪な組み合わせは、普段町中を歩くよりも更に視線を集めているように感じた。

「で、どうして来たんだよ」

 俺は、水野が来ることを一ミリも知らなかった。約束通り毎日メッセージは送っていたはずだが、そんなことは言っていなかったはずだ。

「来ちゃまずかった?」
「いや、まずいってことはないけど……」
「楽しそうに話してたから来ちゃいました」

 そう言っておどけて笑う水野を見れば、俺の怒る気も失せてどうでもよく思えてきた。それでもやはり伝えておいて欲しかったとは思うが、起こってしまったことは今更取り返しがつかない。大体、休日に何をしていようが水野の勝手で俺が干渉できることじゃない。
 問題は、どうクラスメイトと早川さんに説明するかってだけか。あぁ、考えただけで胃が痛い。
 思えば、俺が二年四組で執事メイド喫茶をやることや、ステージ発表のことなどを話していたのだから、来ようと思えば来れることをもう少し考えておくべきだった。土日で学校もないだろうしな。

「そんなことより、文化祭デートだよ。ね、あれ食べない?」

 そう言って水野が指さすのはカレーの屋台。店から漂うカレーの匂いは否応なしに食欲をそそる。

「文化祭デートって……まぁそうだけどさ」

 付き合っているカップルが、二人で文化祭を回るなんて、それは誰がどう見たって青春の一ページであった。俺は諦めて、水野と一緒にこの文化祭を楽しむことにした。
 財布を出そうとする水野に代わり、カレー二人分の代金を店番に渡す。
 すると、水野は驚いたように目を丸くした。

「陣くんってそういう気遣いできるんだ」

 一体、俺のことをなんだと思っているのだろうか。

「これぐらいは俺が出すよ」
「ううん、悪いよ。次は私が出す」
「いいって」
「本当にいいの。私にはお金なんてあったって仕方ないから」

 水野は、譲る気がなさそうだった。ぼそっと呟いた言葉は、何処か闇を感じる一言であり引っ掛かったが、差し出されたカレーを頬張れば、それはすぐに消え去った。

「うまっ!」
「ほんとだ、凄く美味し」

 いつも感情の薄い水野も、驚いているのが分かる。高校の文化祭でこの完成度なら誇っていいだろう。うちのクラスでもカレーを出していたが、カレー一本で勝負しているだけあって、こちらの方が美味しそうである。
 水野は、来てから何も食べていなかったのだろうか。気に入ったのか軽快に食べ進めている。ちょうど、お昼時、腹も空く時間帯だ。
 あっという間に二人とも完食していた。

「ごちそうさまでした」
「賑やかでいいね。みんな楽しそうで。はいこれ」

 水野の手には、いつの間に買ってきたのかチョコバナナが握られていて俺の分とでも言うように一本が差し出される。代金を渡そうかと考えたが、先程断られたばかりだ。今回はありがたく頂くことにする。

「水野の学校では文化祭とかないの?」
「んー、あるんじゃないかな。来たばっかりだから分からないけど。ただ、前いた学校ではこんなに大規模じゃなかったね。精々半分以下ってとこ」
「確かに、こんなに派手なのは中々ないかもな」

 校内は、どこを見ても人で溢れかえっていて、それは中庭や校庭に至るまで例外ではない。軽く見積もっても千人はいるんじゃないだろうか。お祭り騒ぎとはまさにこのことである。この辺りではかなり大きな文化祭であった。

「いいなぁ……みんな生き生きしてて」

 そう言って窓の外を見つめる水野の顔は、どこか達観していて寂しそうで。どう反応したものか悩む。

「水野は楽しくないの?」

 そう尋ねると、はっとしたように目を見開いた。

「楽しいよ。なんたって彼氏くんと一緒に回ってるんだから」

 直感で嘘だと思った。ここにいるように見えて、心はどこか遠い所にあるようなずっと冷えた雰囲気を感じる。それは、水野と関わる上で常に感じていることでもあった。
 俺は、水野のことを好きなわけじゃない。だけど、その凍り付いた心の奥底を見てみたいとも思っていた。心から笑った顔が見てみたいと思うのはどうしてだろうか。そんなこと言う資格はないと分かってはいるのに。

 随分と傲慢な人間だなと自分のことを再度認識する。こんな美少女を連れて歩いて周囲の視線を集めることに、若干の優越感を感じていることに驚愕する。その彼女の悩みの種を解決してあげたい、力になりたいと考えておきながら、この後のステージ発表で早川さんが来てくれることを楽しみに考えていたりする。
 俺は気付いていなかっただけで、浮気者の才能があるのかもしれない。だが、せめて目の前の出来事には、真摯に向き合うべきだ。

「俺も水野と回れて楽しいよ」

 自分でもこんな言葉が吐けることに驚いた。こんな歯の浮きそうなキザな台詞。何を言っても離れられることはないだろうという、依存にも似た信頼故かもしれない。
 驚いたように水野が俺の顔を確認して俯く。

「……来てよかった」

 照れたように俯きがちにそういう水野はしおらしくていつもの何倍も可愛く見えて。胸が苦しくなる。
 思わず顔が熱くなり、意識してしまいそうになるのを誤魔化すように話題を変えた。

「今日はいつまでいるの?」
「決めてないよ。最後までいようかなと思ってるけど」
「じゃあ、この後のステージ発表見てってよ。結構練習したからさ」
「そのつもり。バンドって楽しみにしてたんだよね」
「……やっぱりあんまり見ないでいいよ」
「えぇ、せっかく来たんだからちゃんと見るって」
「知ってる人に見られるのは緊張する」
「大丈夫、応援してるよ」

 そう言って、にこりと笑う水野の顔が嘘か本当か。判断はつかないが、力になる。
 そんな話をしているうちに、時間が迫っていた。

「それじゃあ、そろそろ行ってくる」
「うん、頑張れ」

 ぐっと、突き出された拳に、少し迷って俺も拳を突き返す。水野を一人にさせることに不安もあったが、絡まれた時のいなし方も慣れていることだろう。今は、自分の役割に集中することにした。


 待合室である用具室へ足を運べば、既に隆也とその友人は出番に向けスタンバイの最中であった。

「悪い、遅れた」

 顔を出してすぐに隆也が首に手を回し、ヘッドロックのような体勢で捕まる。

「遅れたじゃねーよ。あの子のこと、説明しろ」

 そうだった。水野のことを説明していなかったのを忘れていた。ずっと早川さん一筋だと思っていた友人に急に彼女だと名乗る女子が現れれば困惑することだろう。

「それは、後でゆっくり説明するからとりあえず開放してくれ」

 ギブアップというようにポンポンと腕を叩けば、ようやく拘束を解かれ自由になる。手早く揃いのラフなTシャツへと着替えながら、会話する。

「早川さんのことを忘れたとかそういうわけじゃなくてさ。なんというかちょっと特殊なんだって」

 隆也は同じく準備しながら首を捻る。

「なんだよその曖昧な答え」
「俺もよく分かってないんだから仕方ない」
「ちゃんと説明しろ」
「したいとは思うけど茶化すじゃん」
「そりゃあんな可愛い子なら」
「ほらな」

 そんな軽口を挟んでいると、いよいよ俺たちの出番も直前に迫っているらしかった。体育館へと足早に移動する。

「俺らの番、次だぜ。やばい、結構緊張するかも」

 先程まで平気な顔をしていた隆也も顔を強張らせている。

「こんな大人数に自分の演奏を聞かせるなんて俺も初めてだから緊張してる。隆也は心配しなくても最初より上手くなったって」
「初心者にしてはよくやってると自分でも思うけどさ。見ろよ、体育館満員だぜ」

 ステージ脇から様子を窺えば、なるほど。言われた通り、舞台である体育館は生徒と客で溢れかえっていて、もはや数える気も起きない超満員であった。このどこかに早川さんが来ていると思うと、一気に緊張が加速する。ミスは許されない。
 大丈夫だ、この時のために俺は今日までずっと練習を続けてきたんじゃないか。今更思い悩んだってどうにもできない。

『続いては、インスタントバンドの皆さんによる演奏です』

 放送部の男子生徒によるアナウンスとともに舞台が暗転する。
 インスタントバンド。寄せ集めで作られた即席の俺たちを表したバンド名である。ノリで決まっただけの名前がこうも大勢の前で発表されていることに戦慄する。
 顔を見合わせ、ステージに上る。暗闇の中、マイクの前に立ち深呼吸した。ギターを始めて以来、それを誰かに披露する機会なんてなかった。精々家族に聞かせる程度のものだ。その長年の成果が今日初めて発揮される。
 暗闇の奥に確かに感じる人の気配とざわめきに押しつぶされそうになるのを、吐き出す息で追い払う。横を見れば、同じように緊張しているであろう、隆也とその友人がいる。俺が無理言って出てもらったのだ。俺がしっかりしなくてどうする。
 照明が付き、見えなかった客席が露になる。その迫力に気圧されそうになるのも一瞬。俺のギターに合わせ演奏が始まった。


 始まってみれば、演奏に必死で、緊張はあまり気にならなかった。ドラムが出来るという隆也の友人は練習で分かっていたことだが経験者というだけあり上手いし、ずれたリズムを的確に調整してくれる。心配であった隆也も今のところ、ベースで大きなミスはせず、ボーカルを務めてくれている。
 息のあった演奏と隆也による煽りで観客が盛り上がっているのを感じていた。雰囲気が凍るようなトラウマ的状況にならなくて良かったと心から安堵する。
 今、演奏している曲は、最近の高校生なら誰でも知っているような曲をチョイスした。やはり、受けのいい曲を演奏している分反応もいい。
 俺の調子もすこぶる良く、過去一上手く弾けている自信がある。頭がハイになってきて、えもいわれぬ快感が押し寄せてくる。

 慣れてきて、客席を見る余裕も出来てきた。早川さんはこのステージを見てくれているだろうか。人ごみの中にその姿を探す。どこを見ても人人人。その中から、たった一人を見つけることなど不可能に思える。
 だが、どんな奇跡だろうか。俺は、後方に早川さんを見つけた。きっと長い間人ごみから早川さんを見分けて見守るような生活を送ってきたからだろう。
 でも、見つけない方が良かったかもしれない。
早川さんは、一人でなかった。その隣には彼氏である樋口が立っていた。その二人の手が固く繋がれているのを見た瞬間、熱くハイになっていた頭が急激に冷えていくのを感じた。
 そこからの記憶はなく、気が付けば演奏が終わっていた。割れんばかりの歓声と人生で浴びたことの無いほどの拍手。それに隆也のやり切ったというような顔で終わったんだな、と他人ことのような感想を抱いたのを覚えている。


「大成功だったな!」

 待合室へと戻った隆也は、成功を称えていた。

「あぁ……演奏はほんとに完璧だった。お客さんも凄い盛り上がってたし本当に楽しかった」

 隆也は納得いかないというように、首をかしげる。

「なら、なんでそんなに浮かない表情なんだ?」
「いや、そんなことないって。付き合ってくれて本当にありがとう」

 隆也の相手も程々に俺はその場を後にした。酷い対応だったと思う。
 俺は、早川さんが一人で見に来てくれると思っていたのだろうか。あわよくばこの演奏で俺のことを好きになってもらえるとでも? 俺が水野と共に文化祭を回っていたように早川さんもそうであるという可能性を排除していた。俺はなんて自分に都合のいい解釈をしていたんだろう。
 ギターを教室へ戻して、一人とぼとぼと歩いていれば、背後から早川さんに声をかけられた。

「高崎くん、バンド演奏見てたよ。かっこよかった!」

 それは、少し前の自分であれば飛び上がるほど喜んでいたであろう言葉。だが、その早川さんの隣には、今も樋口の姿があった。

「聞いたことない曲もあったけど、めちゃくちゃ盛り上がってた! ね、伸也?」
「初めまして。高崎くん……だったよな。実際話したことはなかったと思うけど。樋口伸也(ひぐちしんや)っていうんだ。よろしくな。音楽の良し悪しは俺には全く分からないけど凄い楽しかったしめちゃくちゃかっこよかった」

 そう言って、にこやかに握手を求めてくる樋口は、噂に違わぬ好青年で思わず委縮してしまう。目鼻立ちの整った風貌に、すらりと高い身長。決して低くはない俺の身長をさらに見下ろすほどの体躯だ。百八十センチを優に超えているであろう樋口は、纏っている覇気も相まり俺が女性であれば理想を体現している存在と言えただろう。

「ありがとう……」

 賞賛の言葉であったというのに、全く頭に入ってこない。こうも嫌味なく接されると恨み言を抱いている自分が惨めで仕方なくなる。弱い自分がどうしようもなく嫌だ。   
      
「ギター出来るなんてすごいな。俺、楽器系はからっきしだからさ、出来る奴のこと尊敬する」
「樋口にも出来ないことなんてあるんだな」

 こんなことでマウントを取るつもりはなかったのだが随分と陰湿な言い方になってしまった。でも、樋口はそんな俺の様子など意に介さず、爽やかな笑顔で流す。

「そりゃ、人間だからな。なんだって完璧ってわけないだろ」

 冗談交じりにそういって笑う樋口は、やっぱり完璧だと思う。今のたった少しの会話。それだけで生粋の『いい奴』なのだと確信した。完璧超人、樋口が否定しても噂に聞くその言葉に何の嘘もなく非の打ちどころが見つからない。

「でも、本当に凄かったよ! これは明日から絶対人気者だって」

 目を輝かせていう早川さん。でも、そんなことどうだっていいのだ。俺はあなたのために演奏していたのだから。あなたに届いていないのであれば意味なんかなくて。あなただけが俺の全てで。
 他の誰かからの評価なんて、心底どうだっていい。

「高崎も疲れてるみたいだし、もう行こうぜ。それじゃあ、またな!」

 俺の暗い様子に気付いたからか、樋口は早川さんを連れて速やかにその場を後にする。
 気も使えるんだな、最高に優しいやつじゃないか。良いやつすぎて俺の方が惚れてしまいそうだ。
 その憂鬱の種が自分であるということに気付いていなそうなのが、また最高に皮肉が効いていた。


 俺は、人の行き来する廊下の真ん中で立ち尽くしていた。通行の邪魔だというように、冷たい視線を浴びるがそんなことも気にならない。
 なにはともあれ、これで俺の文化祭の役割は終わりを迎えた。早川さんを諦めるには、最高のエンディングではないだろうか。早川さんのことは樋口に任せておけば幸せにしてもらえるだろうという確信と、幸せそうな二人の笑顔で頭が痛い。悔しくて堪らない。


「浮かない顔してますね」


 どれだけの時間が経ったか。いつかの聞き覚えのあるその台詞に振り返る。顔を向ければ、以前の再放送のように同じ姿の水野が立っていた。
 俺は、今日会いに来てくれていたその存在をすっかり忘れていた。どこかで水野も俺のステージを見てくれていたのだろうか。
 水野の目元は、何故か赤く腫れているような気がした。

「演奏、凄く良かった。本当に。」
「あ、あぁ……ありがとう」

 お世辞を疑うわけではなかったが、いつもの水野より言葉に感情が籠っている気がしてたじろいでしまった。ステージ上からでは見つけることは出来なかったが、どうやらちゃんと見てくれていたらしい。

「最後の曲、あれは陣くんが選んだの?」

 俺が先のライブで最後に演奏した曲。それは俺がこれだけはどうしても入れたいと言って練習した曲であった。それは、それまでの流行だけで選ばれた曲とは一味変わった選曲であった。
 ひと昔前のアーティストが愛を歌うだけのそのありふれた愛の曲は、言うなれば時代遅れであった。勿論、流行の曲だけで固めれば、盛り上がりは確実で心にも残ることだろう。だが、俺はそんな中で俺の個性を出したかった。観客の大半は名前すら聞いたこともないだろう愛の歌は完全に俺の好みでありこだわりだった。
 そのことに気付いてくれる人がいたことが驚きであった。

「そうだよ。よくわかったな」

 そう答えた刹那、水野の目の奥に何か様々な感情が灯ったように見えた。混乱、感嘆、哀愁、激情、落胆……どれも違うような気がする。そんな水野を見るのは初めてであった。

「そっか……」

 何を考えているのかはいつも通り、分からない。だが、その小さな体は何故か震えているように見えた。

「陣くん、さっきの女の子好きなの?」

 続けて告げられた内容は、想像の斜め上であった。さっきのと言われて思い当たるのはどう考えても早川さんのことであった。先程までの会話を見られていたということだろうか。一体、いつから? 周りの様子など全く見れていなかった。

「演奏中も見てたよね? そして、その後から浮かない顔してた」

 そんな所までばれていたのか。ステージ上の俺の表情なんてよほど注視していなければ気づかないだろうに。
 水野はどう思っているのだろうか。怒っている? 俺のことで感情を露にする水野なんて全く想像できなかった。だが、これも不誠実な立ち回りをしていた俺への報いなのかもしれない。もう、早川さんのことは諦めたとはいえ、なかったことになるわけではない。その結果、水野にどう思われようが自業自得だ。

「あぁ、好きな人だったよ」
「嘘つき」

 すぐに否定の言葉が入る。

「嘘なんてついてない」
「まだ好きならそう言えばいいのに」
「そんなこと」
「じゃあどうしてそんな顔をするの」

 俺の顔は、悔しさで歪んでいた。この期に及んで諦めきれていないことに吐き気がする。水野はやはり怒っているのかもしれない。その小さな口から放たれる言葉に俺は怯えていた。

「俺は、今回のライブで上手くいったらもしかしたら振り向いてもらえるんじゃないかなんていう都合の良すぎる想像をしてたんだ。そんな訳ないのに」
「だって早川さんにはあんなに完璧な彼氏がいる。彼女に向けて演奏した音も、その関係を盛り上げるだけの賑やかしでしかなかった」
「顔を見ることすら辛くて、みんなに協力してもらったのに何の成果も得られなくて」

「俺は俺が大嫌いだよ」

 想いの丈を一方的に吐き出し、水野の言葉を拒絶する。俺は、絶望していた。絶望なんて言葉を軽々しく使うなと言われるかもしれない。だが、俺は目の前が暗く沈んでいてそれは程度はともあれ確かな絶望であった。
 俺たちの間に気まずい空気が流れた。

「二つ目の願い事はありませんか?」

 水野の質問は果たして今でないといけないのだろうか。とてもじゃないがそんな気分じゃなかった。

「ないよ」
「何でもいいんだよ」

 水野は、時折こうして俺に二つ目の願いを聞いていた。だが、男の夢とも言えるこの状況も実際に遭遇してみれば案外出来ることも少ないのだなと実感する。
 水野は、何か特別な力があるわけじゃない。ただの普通の女子高生だ。たかが女子高生にできることなんてたかが知れているし、水野自身に関することを尋ねるのも憚られていた。

「私なら、陣くんの願いを叶えてあげられる」

 水野がゆっくりと諭すように呟いたのはいつかと同じ言葉であった。だが一体この状況で何が出来るというのだろう。

「私なら陣くんをあの人とくっつけてあげられる」

 意味が分からなかった。だが、その確信にも似た呟きは、俺の心を酷く揺さぶった。

「どういう意味だよ」
「そのままだよ。私が早川さんとの仲を取り持ってあげる」

 方法も何もかも見当がつかなかったが、嘘をついているようには見えなかった。
 
「俺はもういいんだ。早川さんには樋口っていうお似合いの彼氏がいて……その幸せを邪魔したくない」
「……本当にそう? 好きな人が別の人に幸せにされてそれで幸せなんて言える人間なんてこの世にいるのかな。
少なくとも私はそうは思わない」
「……」
「私は三つだけ君の願いを叶えてあげる。今、ここで二つ目の願いことを使えば私は陣くんの早川さんの彼氏になりたいという願いを叶えるために全力を尽くすと誓うよ」
「だから、私を捨てないで」

 水野の考えていることは、分からない。分からないことだらけだ。一体、何を考えているのか、俺と付き合っているんじゃないのかなんていうありふれた疑問で脳が溢れる。
 でも、そんなの今感じている渇きに比べればどうだって良かった。縋れるのなら藁でも良かった。

「俺を、早川さんの彼氏にしてくれ」

 俺は、水野と会った日から。いや、それよりももっと前から。とっくにどこか壊れていたのかもしれない。

「承りました」

 そう言って、スカートの両裾を恭しく持ち上げ、片足を斜め後ろの内側に引いて礼をする水野には、神々しさすら覚えた。そのメイドのような仕草は、カーテシーというらしい。
 まるで悪魔の契約のようだと思う。何でも三つ願いを叶えてくれるという悪魔と契約し、その全ての願いを叶えてくれた後、最後は契約者の魂を奪うという話だったはずだ。
 水野と俺のこの関係の先では、俺も同じように魂を奪われてしまうだろうか。ありえないと思いながらもそれでもいいと思えた。それほど、今という状況に希望を見出せなくなっていたから。

「さっきの演奏、本当に私は感動した、かっこよかった。あれが出来る陣くんなら大丈夫だよ」

 認めてもらえることがただそれだけで心を癒してくれると知る。
 水野も早川さんと系統が違えど疑いようがない美少女に分類される。一般的に見れば、その彼女とこうして話せているだけで俺も羨まれるほうに分類されるだろう。それだけで満足していてもよかった。
 見ず知らずの人間に頼むことではなかったのかもしれない。だが、水野なら本当に叶えてくれるのではないか。その不思議な期待が、俺に願いを口にさせた。
 以前までとまた少し変わったこの関係をどう言い表すかは分からなかったが、俺たちは変わらず不思議な絆で繋がっていた。

「明日、少し時間を作って。行きたい場所があるんだ」

 今までもこんな風に呼び出されることはあったが、今回はどこか違った。きっと、俺の二つ目の願いに関係することなのだろうと確信がある。
 先程までの苦い悔しさはいつの間にか不思議な高揚感へと置き換わっていた。