八月三十日の夜明けはまだ完全に訪れてはいない。廃棄物の山の谷間にあちこちに散らばった朝霧のかけらが眠れる魂のように滞留している。空には多少の輝度がある。しかしその輝きはまだ弱すぎて世界のすべてを照らし出すにはあまりにも不十分だ。
 いまこのサイトの廃棄物の谷を、ザクザクと軽快に踏んで進む8つの靴、8本の足がある。ときおり堆積物の深みに足をとられてペースが乱れることはあるものの、その歩行の速度はおおむね一定。ジョギングよりは遅いが、通常の歩行よりは速いペースで小さな縦列を組んで南西方向へと移動し続けているのは、4人の十六歳だ。
 風はない。予想ではもっと鼻をつく異臭があたりを埋めているものと思っていたが、今のところサキの鼻は、それほど耐え難いなにかのにおいを感知してはいない。サキの感覚では、いまここで感じるのは焼けた灰のにおいと、プラスチック系のマテリアルがくすぶる若干の刺激臭。でもそれも、ごくごくかすかなものだ。視線を正面にむけて、これから始まるであろう、長い未知の道行きについてサキの心が想像をはじめると、たちまち臭いは意識の外に消えていく。
 4人は、およそ30分前から予定どおりに移動行動を開始した。時刻はいま、午前5時をすこし過ぎた。すっかり夜が明けて8時台になると造成用の作業車の操業が始まるという事前情報だ。時間的には相当な余裕があるけれど、いずれにしてもできるだけ早い時間に処分サイトの外に出られるのがベストだ。

「だけど、正直すこし拍子抜けるものはあったな。すべてがあまりにも予定通りすぎた」
 前から二番目を歩くシロヤナギが言った。ブラックのフードつきジャンパーが、この未明の時間の処分サイトのほのかな暗がりに綺麗に溶け込んでいる。足元のグレーのレザーブーツが、ときおりガラス質の硬質マテリアルをふんでパリパリと小さな破砕音をたてる。
「まあ無論、無事通過できたこと自体はもちろん好ましいことではあるけれど」
 シロヤナギが、さきほどから落ち着かないジャンパーのフードのポジションを片手で支えて補正しながら、独り言の延長程度の音量で、唇の端でつぶやいている。
「せっかくの夏の冒険ミッションだ。旅の門出にふさわしく、適度な難易度のスリルや想定外の事件の1つくらいは、最初に準備されていてもわたしとしては良かったのだが?」
「おまえなあ。そこはむしろ文句を言うポイントじゃなく、計画通りにスムーズでよかったね。って、計画立案者にお礼のひとことでも言うシーンだろ?」
 先頭を歩くタカキがうしろをふりかえずに言った。タカキは足を止めない。コンスタントに歩調を刻むタカキの靴は明るいレッドのスニーカー。ゆったりしたベージュ系のコットンパンツは、ふだん彼が街で身に着けているものと同じものだ。シンプルな白のTシャツの上に、長袖のボタン止めのホワイトシャツをラフにひっかけて。頭にはマスタードカラーのスポーツキャップ。日よけのリム部分を頭の後ろにして深めにかぶっているのは、普段のタカキのフャッションとは少し異なる部分だ。そして背中に背負った重量感あるダークイエローのアーミーバッグ。中身は、そのほとんどが飲料水で満たしたプラスチックボトルだ。
「だけど自分はけっこう緊張したな。」
 一番うしろを行くハルオミが、タカキの言葉に反応した。
「あれさ、2回目のチェックポイントで、なんか積載物の重量がどうのこうので、けっこう手間取ってたでしょう? あそこでさ、上のシートをはがされたらどうしようって。なんかもうドキドキしたよ。あれは心臓に悪かったな」
 今朝のハルオミは、ワークブーツに野外作業用のルーズなスラックス、そしてジャンパーの下にはプレーンレッドのシンプルなTシャツを1枚。いまハルオミの外見でもっとも目を引くのは、背中に背負った巨大な荷物だ。小柄なハルオミとのサイズの不釣り合いがすさまじい。荷物を構成しているのは大部分が野外仕様の簡易テントとその関連資材。多くは軽量素材で作られているため、見た目ほどには実質重量は大きくないはずだが。
「だな。じっさいおれもちょっとあそこはビビったよ。やべえ、って思った。まあ結果的に特に検査とかなくてスルーできたからよかったけど」
 タカキが一瞬ふりかえり、軽い笑いをもらした。その動作にあわせて、タカキの背中のバッグの中身の水が、タプタプ、チャプチャプ、小さく音をたてた。

 前から三番目を歩くサキは、今のところ無言。タカキとハルオミの気軽な言葉のキャッチボールを、その二人のあいだで耳の端で聴いている。
 サキが着ているのは、ノースリーブのシンプルなホワイトのワンピース。その上に、薄手のコットンジャケット。今の時間は防寒用だが、日が昇った後は、日よけとしての役割を果たしてくれるはずだった。頭には、いささかオールドファッションな天然素材のラフィアハット。
 夜に家を出るときに、カジュアルなレザーのサマーサンダルと、機能的なオフホワイトのテニスシューズと、どちらがいいか迷って、最終的に両方を選んだ。いま履いているのはテニスシューズの方で、歩きやすいお気に入りのノーヒールのサンダルは、背中のバッグの中にある。どこか先で、ふさわしいシーンがあればそっちを履こうと思っているけれど。具体的にどういうシーンがそれにあたるのかは、サキの中ではあまりイメージできてはいなかった。
 しかしおそらく最初にテニスシューズを選んだサキの判断自体は正しかった。先ほどから4人の歩くこのサイトのゴミ山の谷間のルートは、踏み固められていない、崩れやすい破砕ごみが厚く堆積していて、場所によってはざっくりとソックス部分までまるごと埋もれてしまう。おそらくガラス片などの危険なもの混じっているだろうから、ここをサンダル履きだと危なかったと思う。
 計画では、このあと2時間以内に処分サイトの敷地を通過し、細い水路が外周フェンスにぶつかる位置付近で、持参の工具でフェンスを破って外に出る。ひとまずそこまでが、今回の歩行ミッションの最初のゴールとなる、はずだった。
 最初はいろいろ饒舌だったタカキやハルオミも、歩行開始から1時間が経過したあたりから、口数が減り、あまり話さなくなった。特に疲れたとか否定的な理由があったわけではなく、ただ単に、話題にするほどのことがその場で思いつかなくなったのだろう。
見える景色は単調で、視界にあるのは黒々とした破砕廃棄物の堆積山のつらなりと、その上に広がる、ほぼ同色系の夜の終わりの空だけだ。その空の色は、でも、少しずつだけど先ほどから明度を増している。さっきまではブラックに近かったのが、いつのまにかもう、誰が見てもブルーの範疇まで移行してきている。その深いブルーはサキの心に、どこか知らない、深い深い海の底を連想させた。その暗い水の底では、色のない魚たちが、色のない言葉をしずかにかすかに投げ合って、ただただ無心に尾とひれを動かして重力の薄い水中を回遊している。