同じクラスにはなれなかったが、桜は一組、文也は三組と、共に一階の教室だった。教師陣が桜の体調を気遣って一階の教室にしたのだろうか。それなら同じクラスにしてくれてもよかったのに。文也はそんなことを思う。
「もしなんかあったら、すぐ保健室行けよ。俺んとこに来てもいいから」
「ふーのとこに行ってどうするのよ」
「桜を背負って病院に走る」
「その時は救急車でも呼んでよ」
 玄関で靴を履き替え、二人は軽く手を振って別れた。万が一のために、桜を負ぶって走れるよう鍛えた方がいいのだろうか。そんなことを思いながら、文也は自分の教室に入った。
 桜と別れると、どっと退屈が押し寄せた。
 文也には、まだ教室内に友人と呼べるクラスメイトはいなかった。同じ中学校出身の同級生も数名足らずで、彼らともクラスは離れてしまったから、気軽に話せる相手は皆無だった。
 だが彼には、孤立無援の状況に対して焦りはなかった。桜と共に登下校できるなら、休み時間に慣れ合う誰かを無理に作ろうという気にもなれない。煩わしい、面倒くさいという感情が先に立ち、教室での風景は常に背景だった。意識する主役の居ない光景は、特に気にかけるものではない。寂しさや孤独感に苛まれることもなく、ただ黙々と授業に出席するだけという、色のない日常を過ごしていた。いうなれば、「退屈」という感情が灰色をちらつかせるだけか。
 窓際の、前から二番目の席。四時間目の数学の時間に外を見ると、他のクラスがグラウンドで体育の授業を受けていた。生徒たちが御浜高校独自の掛け声をあげながら、二列縦隊でトラックを走り準備運動をしている。
 ぼんやりと眺めていると、グラウンドの端にある木陰のベンチに、数人の生徒が腰掛けているのに気が付いた。その中の一人は、遠目にもわかる。桜だ。中学校に入ったばかりの頃は体育にも参加していたが、病気が悪化するにつれて見学をすることが増えてきた。今はもう、体育は全般控えるようにと、医者から言われている。
 彼女が隣の女子生徒と話しているのを見て、文也はほっとした。病気が理由で彼女が孤立しないかが心配だった。実は人見知りな桜の寂しい姿など居たたまれない。
 だが、少なくとも今は、新しいクラスメイトと並んで会話をしている。うまくクラスに馴染めているようだ。文也は安堵する。
 しかし一方の文也は、当然の如く昼休みの昼食も一人だった。
 本音を言えば、桜と一緒に食べたい。その誘惑を押し殺す。昼休みは、新しい友人と最もコミュニケーションを取れる時間だということは理解している。桜が気を遣って了承してくれたとしても、それで彼女がつまらない日常を送ることになれば本末転倒だ。悔やむに悔やみきれない。だから我慢する。
 桜から誘ってくれたらいいのに。そんなことをちらりと思うたびに、自分の女々しさを自覚する。
 弁当を広げ、退屈しのぎに友人から借りた文庫本を取り出す。本好きな友人が貸してくれた小説。活字に興味のない文也は自分から読書に励むことは少ないが、彼が渡す本は抵抗なく読める。
 栞を外し、左手で本をおさえて右手に箸を握る。行儀が悪いと叱られるから家ではできないポーズだ。汚さないよう気を付けながら、桜の家に行く前の電車内で読んでいた行を探す。
「なんの本、読んでんの」
 それが自分にかけられた言葉だと、文也は気づかなかった。
「なあなあ、それ、面白いの」
 卵焼きを咀嚼しながらようやくその声に気づき、顔を上げる。
 机の横には、一人の男子生徒が立っていた。名前は思い出せないが、多分クラスメイト。日に焼けた健康的な肌色に、髪も若干茶色がかっている。物怖じしない表情で、こちらを見下ろしている。
「すっごい熱心に読んでるからさあ。面白いのかと思って」
 誰だこいつ。文也は眉間に皺を寄せるが、相手はさほど気にしていない様子。黙って栞を挟んで本を手渡すと、ページをぺらぺらとめくる。
「へー。なんか難しそうだなあ」
 文也は相手に手を突き出した。「借りもんだから」
「誰から」
「友だち」
「頭いいんだな、その人」あっさりと本を返す。「友だちって、誰」
「誰って。他の高校の」
「なるほどー。クラスに友だちいなさそうだから、ちょっと不思議に思った」
 なんとあけすけな。自覚はしているがいい気はしない。
 そんな文也の感情に気が付いたのか、彼は「ごめん」と笑った。
「なあ、もし食べる相手いないんだったら、一緒に弁当食べよーよ」
 彼の台詞に、文也は内心で驚く。こんなに他人を拒絶する態度を取っているのに、接近しようとする相手がいるだなんて。
 それでも気乗りがしないが、断る上手な言葉も見つからなかった。「どっちでも」と返すと、彼はさっさと自分の席に戻り、鞄を持って戻ってくる。もしかして、からかわれているのでは。そんな相手の意地悪を疑ってしまう。
「まだ覚えきれてないんだけど、名前なんていうの」
 正面の席の椅子に腰かけ、文也の机に出した弁当を広げながら、彼が言った。名前も知らない相手に話しかけ、弁当を一緒に食べようとする積極性。今の文也は持ち得ない。
「月城」
「下は?」
「文也」
「へー。なんかかっこいいじゃん」彼は何故か嬉しそうだ。「オレの名前知ってる?」
 知らない、と文也が首を振ると、「鞍馬(くらま)虎太郎(こたろう)」と名乗る。「虎太郎でいいよ」
「なんか……」口の中のレタスを飲み込む。「教科書にありそうだな」
「そーそー。いそうだよな、歴史とか」虎太郎は得意げだ。褒めたつもりはないんだけど、と文也は言わないでおく。
 虎太郎はよく喋った。自分の何が気に入ったのか文也にも見当がつかないが、まるで友人のように話をする。それをまるで他人事のように、弁当を食べながら聞く。
「文也は、部活入るの」
 いきなり文也か、とも思ったが突っ込むのも面倒に思う。「いや」
「帰宅部?」
「そのつもり。……鞍馬は」
「虎太郎でいいってのに」彼は口を尖らせるが、すぐにその不満顔を打ち消した。「サッカー部入るつもり。中学もサッカーしてたんだ」
 なるほど。運動部らしい陽気さだ。ボールを蹴る姿が容易に思い浮かぶ。
 その後も虎太郎はあれこれと話をし、文也は相槌もそこそこに受け流した。他人と関わることをここまで面倒に思う自分に、少し驚くぐらいだ。
 次第にグループの出来始めている教室で、文也は初めて他人と時間を共有した。といっても、ほとんど虎太郎が話し続けているだけで、ただの時間つぶしだろうと彼は思っていた。
 だが虎太郎は、放課後になると再び文也に声をかけた。
「なあ、文也。一緒にコンビニ寄らない?」
 さっさと帰ろうとしていた文也は、驚いて彼に顔を向ける。既にクラスメイトと打ち解けている彼は、数人のグループの中にいた。
「部活見学とかも行かないんだろ」
「行かないけど……」昼休みはてっきり虎太郎のきまぐれだと思っていた文也は、言葉を濁す。「俺、用事あるから」
「マジかー。じゃあさ……」彼は振り向き、友人たちに「先に行ってて」と促した。
「スマホ持ってる?」
「一応……」
「なら、リンクって入ってる?」
 一応、と再度呟くと、虎太郎は自分の鞄からスマートフォンを取り出した。近くの教卓に鞄を置き、操作する。
「連絡先教えてくれよ」
 思わず「なんで」と文也は口にしていた。虎太郎の行動が心底疑問だった。こんなに不愛想な人間の連絡先を知りたがる物好きがいるだなんて。
 場合によっては気分を害す文也の台詞だったが、彼は「だって同じクラスじゃん」と事も無げに言った。
「オレのも教えるしさ。……まあ、嫌だったらいいけど」
「別に嫌ってわけじゃないけど」
 流石に断り辛く、その理由も見当たらず、文也も鞄から機器を取り出す。手に収まる青色のそれの画面を、軽く親指で叩く。「linc」の文字を探す。知り合い同士でメッセージを送れるアプリケーションは、文也も桜との連絡にしょっちゅう使っていた。動画の再生や通話は出来ないが、そのぶん容量が軽い。スマートフォンを持っていない、所謂ガラケー持ちの学生も苦なく使うことが出来る。リアルタイムでやり取りのできるリンクは、主に若年層の間で広く浸透していた。
 アイコンを押して画面が切り替わると、虎太郎が自分の機器の画面を文也に向けた。その中央に載っているIDを打ち込むと、ユーザーの検索が行われる。
「その、タロウってやつ」
 出てきた名前を文也がタップするのを見て、虎太郎は友だち追加の許可をした。同じように文也の名前を虎太郎は探す。
「この、ふーってのが文也?」
「そうだよ」
「なんか可愛いな」
 可笑しそうに笑うと、虎太郎は「さんきゅ」と言って手を振った。「んじゃ、他のやつ待たしてるから、オレ行くわ。じゃあな」
 人懐こい笑顔と共に、教室を出ていく。少し距離を置いて廊下に出ながら、虎太郎の心情を考えるが、適切な回答が出てこない。クラスで浮いている者に対しての同情心だろうか。それとも放っておけない正義感か。
 まあ、どっちでもいいか。靴を履き替えながら、文也は投げやりに思った。