saku:大丈夫だって。明後日には絶対に良くなってるから。
 その日の放課後、体調を崩した桜に、文也は会えなかった。それでも夜になると彼女から連絡が来る。
 ふー:風邪だっけ。夏風邪か?
 saku:多分、そう。
 外泊の許可を、彼女はまだもらえていない。今回は諦めるべきだろうと文也は思い、説得に回る。
 ふー:また来年もあるんだし、別の祭りも探せばあるだろ。
 saku:やだよー。私、楽しみにしてるのに。
 敷いた布団に寝転がり、桜を宥める言葉を探す。しかし学校にも行けない退屈な日常で、桜はよほど期待していたらしい。その間にもメッセージは届く。
 saku:絶対に元気になるから。待っててね。
 頑固だなあと文也は苦笑した。これだけ元気なら、本当に復活するかもしれない。そう思いながら寝返りを打った。

 明け方、呼び出し音で文也は目を覚ました。普段の連絡に電話機能はあまり使っていなかったから、アラームでもない音に違和感を持ちつつ目を擦る。充電中のスマートフォンを寝ぼけ眼で手にし、画面を見た。時刻は朝の六時半。もう少しなら寝られるはず。
 だが、表示された相手の名前に混乱した。天方律子。番号は知っていても、今まで一度も通話をしたことのない相手。たちまち胸騒ぎがする。
「……はい」
 躊躇ってしまう前に、とにかく通話ボタンを押した。律子の言葉を聞いて、急速に背筋が凍り、働きかけていた思考も停止してしまった。

 昨夜の深夜から、桜の容体が急変したらしい。既に目を覚ましていた母親に事情を話し、服だけ着替えて家を飛び出した。今日は平日だが、学校なんて知らない。最寄りの駅まで走り、いつもは乗らない時間帯の電車に飛び乗った。ようやく、母から金を借りてタクシーでも呼べばよかったと思いついたが、タクシーを待つ時間さえじっとしていられる気もしない。御浜町に近づいていく景色を睨みつけた。朝を迎える淡い空の色が、苛立つほどに美しい。
 これほど電車の乗車時間を長く感じたことはなかった。ようやく到着した駅を出て病院まで走る。通勤ラッシュには少し早い時間帯、ちらほらと歩くスーツ姿のサラリーマンを追い抜きながらひたすらに駆ける。
 息を切らしながら此花病院に辿り着いた。
 律子が電話で教えてくれた通り、時間外専用の入口から院内に入った。彼女は一階の待合で待っていた。
「桜は……。おばさん、桜は!」
 切れ切れの呼吸の中で絞り出す。律子は不安を隠しきれない表情で説明した。
 腎臓の機能が落ちると、身体の免疫機能も低下する。気をつけてはいたが風邪をひいてしまったことで、更に免疫は落ちていた。原因はまだわからないが、弱った体はおそらく透析の際に感染症を合併し、意識を失い、今はICUで治療を受けている。
「ショックを起こしてて、すぐに治療を始めてくれたんだけど……。運が悪かったら後遺症が残るかもって。もっと悪かったら……」
 律子は長椅子に座り込み、文也は言葉を失った。もっと悪かったら。もっと悪かったら?
 そんな馬鹿な話があるか。数時間前まで、いつも通りやり取りをして、七夕には一緒に遊びに行こうと言っていたんだ。一番乗り気なのは桜で、絶対に元気になるなんて言ってたんだ。
 心臓が激しく脈打ち、頭の中が真っ白になる。最悪のケースが脳内でぐるぐる回り、足が震えてうまく立てなくなる。「さくら……」文也も椅子にへたり込んで項垂れた。「さくら、桜……」祈るように名前を呟いた。彼女の笑顔が瞬きするたびに瞼の裏に見えて、辛くて目を強く瞑った。
 今すぐ桜の顔を見たいが、集中治療室に飛び込むわけにもいかない。今、彼女は懸命に戦っている。その手さえ握れないのが悔しいが、代わりに両手を強く組んで、ひたすらに祈る。一人じゃないと、桜に呼びかける。どうか無事に戻って来てくれと必死に願う。後遺症が残ってもいい、生き延びてほしい。どうか、どうか――。
 しばらくして呼び出し音に気づき、文也はポケットに突っ込んでいたスマートフォンを取り出した。母からだ。なんとか立ち上がり律子の元を離れる。
「桜ちゃん、どうだった」
 母の心配に、先ほど聞いた説明をする。黙って聞いていた母親は、「そう……」と悲しげに吐息を漏らした。
 外来患者がやって来る時間になると、文也の母も病院を訪れた。母親同士で会話をしているのをぼんやり眺めていた文也に、鞄が押し付けられる。
「心配だろうけど、あんたは学校に行きなさい」
 通学鞄を持ってきた母の台詞に、文也は怒りを覚える。
「行けるわけないだろ。こんな状況なのに」
「心配なのはわかるけど、出来ることはないでしょう」
 あまりにストレートな物言いに立ち上がり、声を荒げそうになる。それを察した律子が口を挟んだ。
「桜は、必ず元気になるから。その時、文也くんの時間を奪ったって知ったら、怒ると思うの。私のことは気にしなくてよかったのにって。あの子は、そんな子だから」
 その姿は容易に想像できる。「ふー、心配し過ぎ」いつもの台詞を口にする、呆れ顔の桜。「学校ぐらい、ちゃんと行きなよ」そんなことまで言って。
 文也は、唇を噛み締める。こんな心持ちで、授業なんて受けられるはずがない。その心情を理解し、母親同士も顔を見合わせている。
「文也、あんたが桜ちゃんを心配してるのは、よくわかってるから。どうしても無理だったら早退してもいいから。だから取り合えず、一度登校しなさい」
 母親の説得に、辛うじて文也は呻いた。
「……わかった」
 桜は、自分のせいで文也の生活に支障が出ることを望まない。自分を心配して欠席し、授業に遅れたとなれば怒るだろう。自己嫌悪を覚えるかもしれない。桜は、そんな女の子だ。
 なにかあったらすぐに連絡すると律子は約束してくれた。文也は鞄を受け取った。それは引きずりたいほどに重たかった。