それから一週間が経ったが、文也の想像通り、自分たちの言動に大きな変化はなかった。放課後に見舞いに行き、他愛のない話をする。その中で文也はいつも通りに好きだ好きだと言ったし、桜もはいはいとそれを受け流した。ただそこから、付き合って欲しいという言葉は抜けた。その変化は二人の中で非常に大きなものだった。
「いろんな人に言われて大変だったんだから」
休憩所で桜は言う。
「他の部屋の患者さんや看護師さんとかも。お医者さんにまで言われたよ。よかったねー桜ちゃんって」
「桜は有名人だな」
「ふーのせいだよ。私は静かに真面目に生きたいの」
そうはいえど本心から嫌がってはいないのか、桜も可笑しそうに笑っている。その笑顔を見て、今日も見舞いに来て良かったと、文也は心の底から思う。
桜の病態は落ち着いて、外泊を許されるようになった。彼女は出来る事なら少しの間だけでも家で過ごしたいと望み、母親も看病のために休みを取った。
それならデートをしてみたらと言ったのは、颯介だった。
「もちろん、桜ちゃんの負担にならなければだけど。もし出来るなら、どこか遊びに行ってみたらどうかな」
電話の向こうで、颯介は彼なりに二人のことを考えていた。せっかく付き合い始めたというのに、健康なカップルらしいことがなにも出来ない二人を不憫に思っているようだ。
「もしフミが不安なら、僕らもついて行くよ」僕らというのは、颯介と薫子のカップルのことだ。
「それってデートっていうのか」
「ダブルデートっていうだろ。間違いじゃない。薫子さんには予定聞いてみないといけないけど、桜ちゃんに会いたいって言ってたし、ある程度は都合付けてくれると思う」
彼の提案に、文也も賛成した。問題は桜本人だが、予想通りに彼女も乗り気の姿勢を見せた。
「なにそれ、すっごく行きたい!」
颯介たちが遊びに行くのについて行かないかと尋ねると、桜は目を輝かせた。
「でも、颯介くんたちはいいの」
「そーすけの方から誘ってくれたんだ。だから遠慮しなくていいって」
「そうなんだ。じゃあ、ダブルデートだね」
デートといえば、桜は気を張って無理にでも来ようとするかもしれない。そんなことを颯介と相談して、敢えてデートという単語を使わなかったのだが、彼女は自ら口にした。
「ずっと病院の中だったからなあ。今から楽しみになってきた」
ベッドの上で、桜はまるで子どものような無邪気な笑顔を見せている。それはもう抱きしめたいぐらいに文也にとっては可愛らしいのだが、心配が顔をのぞかせる。
「楽しみなのはいいんだけど、桜は本当に大丈夫なのか」
「大丈夫大丈夫! 体調がいいから外泊できるんだよ。私ももうずっと病気なんだもん。ヤバかったらわかるよ」
桜は珍しく、文也よりもはしゃいでいる。
「一応、先生にも許可貰っとけよ」
「わかってるってば」
予定だけでこんなに喜んでくれるとは。つられて浮かれそうになりながら、文也は颯介に感謝した。
六月中旬の土曜日は、幸い晴れ模様だった。雨が降って湿度が高ければ、きっと身体にも良くない。てるてる坊主でも作るべきかと考えていたが、予報通りに空は青かった。ところどころにぷかぷかと白い雲が浮かんでいる。
文也は、御浜駅で颯介と薫子と待ち合わせをした。真面目な二人は律儀に午後一時の五分前にはやって来た。
「文也くん、久しぶり」薫子はそうして手を振る。黒く綺麗な髪を背中に流している彼女は、凛々しく知的な顔立ちをしている。初めは文也も近寄りがたく思ったが、彼女は口数は多くなくとも賢く気遣いのできる少女だった。極めて穏やかな物言いには、颯介との相性の良さを感じる。「桜ちゃん、最近会えてないけど、元気にしてるのかな」今は桜の心配をしてくれている。
「外泊出来るぐらいには、元気みたいだよ。一応、先生には許可貰ったって言ってたし」
「そうなんだ。お医者さんが言ってるなら、大丈夫だね」
彼女も、文也が何度も桜にアタックしては撃沈していたことを知っているから、その想いが遂に実ったという報告に喜んだ。今日のデートについて颯介から提案され、彼女自身も心待ちにしていたそうだ。
そして三人で桜の家に向かう。各々の学校の話をしながら歩いていると、すぐにマンションが目に入った。
エレベーターで三階に向かい、角部屋の三〇五号室を目指す。文也も思い返してみれば、彼女が引っ越してから部屋を訪れたことはこれまで一度もなかった。
部屋番号を確認し、チャイムを押す。少しの間を置いて、はーいと返事があった。
ドアを開けた桜の母、律子は彼らを見て顔をほころばせた。
「みんな、わざわざありがとう。うちまで来てくれて」
そんなことを言って恐縮する。文也たちが玄関に入ると、「ちょっと待っててね」と娘を呼びに引き返した。
すぐに桜が奥から玄関に出てくる。彼女は水色の涼やかなワンピースを身に纏い、白いカーディガンを羽織っていた。それを見て、文也は挨拶もそこそこに歓声を上げる。
「なんだよそれ! すっげえ可愛い!」
こんにちはーと声をかける颯介と薫子も、「可愛いね」と賛同した。中学時代から桜と仲良しの文也と颯介にとっても、普段の彼女の恰好は制服姿が常だった。もしくは病院でのパジャマ姿だったから、お洒落な私服を着ているのを見る機会はそうそうない。今の桜に、そのワンピースはとてもよく似合っている。
「ありがとう」彼女は恥ずかしそうに笑う。この日を心待ちにしていたことが、外見から窺われた。
「桜ちゃん、今日は行けそう?」
しかし薫子はそう問いかけた。颯介も付け加える。
「少し顔色悪いみたいだけど、大丈夫?」
「全然平気。大丈夫!」
桜は元気をみせて明るい声を出す。しかしその顔色は決して良くはない。空元気なのが楽に見て取れる。
「さっきまで寝てただけだよ、問題ないってば」
「もしキツかったら、別日でもいいんだぜ」
「ふーまでそんなこと言う! 私は行けるよ」
桜の体調は桜にしかわからない。しかし心配で仕方のない文也は、桜の後ろにいる律子に目をやった。彼女は困った顔をしている。
「朝からちょっと貧血気味みたいで、休ませてたんだけど……」
「おかあさん!」
余計なことを、と言わんばかりに桜が振り向く。だが母親が不安になるのは当然だ。どうすべきかと顔を見合わせる四人に、桜は尚も平気だと言い張った。
「今まで休んでたんだから、ちょっとぐらい何ともないよ。私も本当に駄目そうだったらちゃんと言うから」
必死に食い下がる桜の姿は、あまりに不憫だ。以前からこの日を楽しみにしていて、普段は出来ないお洒落までして、それなのに体調のせいでみんなと遊びに行けないなんて。
「……そうだ!」
暗く落ち込む空気の中、薫子が手を打った。
「これを使って行くのはどうかな」
彼女が軽く触れるのは、三和土にある車椅子。今はきちんと折り畳まれている。
「そうしたら桜ちゃんも、あんまり疲れないで移動できるから」
その提案に文也と颯介も同意した。だがそれでも桜は不満そうな顔。
「私、自分で歩きたいのに……」
「なあ桜、俺たちも桜がほんとに心配なんだよ。けど、一緒に出かけたいのもほんとなんだ」
彼女の表情とは裏腹に、文也は車椅子が一つの希望にも思えた。
「俺が帰るまで全部押すからさ。な、そうしようぜ」
「でも私、重いよ……」
「は? 桜が重いわけねえだろ。そんなん気にする必要ねえよ」
「フミもこう言ってるし。坂道知ってるから、筋トレさせてあげようよ」
颯介の言葉に、桜は思わず笑った。「……ふーのためなら、仕方ないなあ」
「もし体調が変わったら、ちゃんと言ってね」
薫子の忠告に、「うん」と大きく頷く。「じゃあ、しっかり押してね、ふー」安心した笑顔は、ガーベラのように華やいでいた。
桜は悲鳴を上げてスカートをおさえる。坂道を下り終え、ゆっくりと止まりながら文也は問いかけた。
「どう。楽しかった?」
「楽しいわけないでしょ、ばか!」
「遊園地にありそうじゃん」
「車椅子は別物!」
文也はそこまで速度を上げたつもりはなかったが、桜の怒りぶりに「ごめんなさい、もうしません」と謝罪する。のんびりと坂を下ってきた颯介と薫子がやって来る。
「フミはやっぱりばかだなあ」
颯介の言葉にぐうの音も出ず、その後は大人しく車椅子を押した。
初めから、あまり遠出をする計画は立てていなかった。元々疲れやすい桜をあちこち振り回す気はないし、どこかでハンバーガーを食べるわけにもいかない。桜は気にしないでと言うだろうが、わざわざ彼女が一緒にいる時にそんな店に行く必要はない。
だから海岸に向かうことにした。文也と桜は海の近い高校に進学したというのに、未だにその海へ行ったことがなかった。いつもの通学路は味気ないが、目的地が変わり同行する友人が増えると、非日常感に胸が高鳴る。
「おー! 海だ!」
やがて文也は歓声を上げた。道の先に海が広がっている。水平線は遠く、白い波が立つ。潮のにおいが次第に強くなり、耳を澄ますとゆったりとした波音が聞こえる。
歩道は先へ長く続き、道に沿って海も続いている。四人はしばらく、歩道から海を眺めていた。
「いいのか、歩いても」
「うん。少しぐらい。ずっと座ってたら、足もむくんじゃうから」
やがて桜が車椅子から下りて立ち上がった。彼女のワンピースの裾は、足首までの長さがある。そうして彼女は足のむくみを隠していた。しかしいつもの靴は窮屈なのか、少し季節の早いサンダルを履いている。その白いサンダルにも、黄色のヒマワリを模した小さな飾りがついていて、そのワンポイントが実に可愛らしい。
歩道から三段の階段を下り、砂浜を少しだけ散歩する。
「あっ、見て、桜ちゃん。魚がいる!」
「ほんとだ!」
薫子の言葉に、桜も磯を覗き込んだ。岩場には数匹の魚が見える。「あれ、なんだろう」
「カシパンだね。ウニの仲間だよ」桜が指さす方向には、片手に収まるほどの茶色い円盤があった。表面に五か所、細長い穴が空いている。
「生き物なの?」薫子が不思議そうな顔をした。
「うん。すごく綺麗な骨格をしてるんだ。身体の中に星が刻まれてるんだよ」
「そーすけ、よくそんなこと知ってるな」
「颯介くんは、物知りだもんね」桜は周りを見渡した。「その星、見てみたいな。落ちてないかな」
「どうかな。僕も写真でしか見たことはないけど」
四人は歩きながら各々貝殻を探した。御浜海岸にはゴミも少なく、小さくとも綺麗な貝殻が無数に落ちている。まるで宝探しをしているようだ。とりわけ桜ははしゃぎ、「子どもみたいだね」なんて言っていた。
しばらくして元の場所に戻り、段に腰掛け戦利品を小山にして見定める。残念ながらカシパンの星は見つからなかったが、桜は指先で小さな一枚を摘み上げ、てのひらに乗せた。
「これ、すごく綺麗!」
爪より少し大きく、透明感のある美しい桜色の貝殻。
「綺麗だね。誰が拾ったの」
薫子の台詞に三人が顔を見合わせる。「あー、俺だよ」文也が手を上げると、彼らはそろって呆気にとられる。
「ふーが、こんなに綺麗なの見つけたの」
「なんだよそれ、どーいう意味だよ」
「多分、桜貝だね。珍しい貝だよ。幸せを呼ぶっていわれてる」
颯介の情緒的な説明に目を輝かせ、桜は嬉しそうにそれを陽にかざした。
「桜ちゃん、それ、持って帰ったら?」
「うん、きっといいことがあるよ」
薫子と颯介が口を合わせる。「いいの」と桜が聞くともちろんと返事をした。「ふーも、私が貰っちゃってもいいの」
「いいよ」正直文也は、それをどこで拾ったのかもよく記憶していなかった。目を引く物を集めていて、偶然見つけたのだ。しかし桜は、「ありがとう!」と満面の笑みを見せる。
「大事にするね」桜貝を、小さな両手でそっと包んだ。
それから再び桜を車椅子に座らせ、海岸線の先にある公園に向かった。海辺の大きな公園には、子ども連れの家族や若いカップル、学生の友人グループといった人々が思い思いに時間を過ごしていた。
日差しは強すぎず、海風も柔らかく穏やかで、四人は東屋のベンチに座ってのんびりとお喋りをする。遊園地やファストフード店に行かずともここまで寛げるのは、気の置けない者同士だからだろう。この四人でいられるなら、あとはどうなっても構わないとまで、文也は思う。
「そうだ、ねえ、写真撮ろうよ」
ようやく会話が途切れた時分、薫子が思い出した顔をして自分のショルダーバッグに手を入れた。デジタルカメラを取り出す。
「カメラ持ってきたから、記念撮影しよう」
さすが準備のいいことだ。三人ももちろん賛成し、テーブルの上にカメラを固定しタイマーをかける。
「ふー、もうちょっと寄ってよ」
「限界だって」
「フミ、ちゃんと笑えよー」
「わかってるよ」
桜と薫子を挟み、三人掛けのベンチに無理に四人座る。「ほらほら、瞬きしちゃだめだよ」薫子が言い、皆が正面を向いた数秒後、シャッター音が鳴った。
カメラを全員で覗き込み、撮ったばかりの写真を確認する。どこか緊張しながらも楽しげな表情を見て、笑いながら更に二枚撮影する。
「写真、後でみんなに送るからね」
無事に三枚の記念写真を撮り終えると、薫子は嬉しそうに言った。
しばらく和やかな時間を過ごし、四人は公園を散策することにした。遊具のある遊び場を離れ、遊歩道をゆっくり歩く。文也は桜の車椅子を押す。
「今日、晴れてよかったね」桜が右手をかざして空を見上げた。
「そうだなー。雨降ったら来れなかったよな」
「天気予報は晴れって言ってたけど、梅雨だしちょっと不安だった」
「昨日も天気怪しかったしな」
桜と文也は話ながら、歩道の脇に紫陽花を見つける。ピンク色の花がふっくらと咲いているのに、思わず立ち止まる。
「おーい、フミ、桜ちゃん!」
振り向くと、後ろを歩いていたはずの颯介と薫子が、少し離れた後方で足を止めていた。薫子は先ほどのカメラを手にしている。
「撮るよー」
彼の言葉に、文也と桜は慌てて二人の方に引き返そうとしたが、薫子がすでにカメラを構えていたので取り合えず撮られることにした。反射的にピースをする。
「フミ、顔強張ってるよ」
薫子とカメラを覗き込み、颯介が笑いながら言った。
「なんだよ急に。撮るなら全員で……」
「じゃあ次、右手上げてピースして」
文也の台詞を無視し、颯介は自分の片手を上げてピースをした。どうやら彼らは、自分たちの記念写真を撮ってくれるらしい。
それならと顔を見合わせた。桜は戸惑っているが、文也が言われたとおりのポーズを取ると同じように真似をする。
「フミ、桜ちゃんの後ろに立って。いくよー」
颯介が軽く手を振り、薫子がシャッターを切る。「いつまでやるんだよ」と言いつつも、文也は次第に乗り気になり、桜も楽しそうに笑う。せっかくのデートだ、二人きりの写真を撮ってもらえるのはこの機会しかない。
「二人とも身体ごと横向いて」
言われた通り、桜も車椅子の角度を変えた。
「向かい合って、フミ、ちょっと屈んで。……撮るよー。キスしてー」
思わぬ台詞に文也は固まった。桜もぎょっとして目を見開いている。
「そーすけ、どさくさに何言ってんだよ」
「あれ、二人とも付き合ってるんじゃなかったっけ」
「そうはいっても……」
俺たちのペースがある、と言いかけて文也は口をつぐんだ。付き合い始めたとはいえ、言動に何の変化も現れない自分たち。それでもいいとは思っているが、それはもしかして、踏み出す勇気がないだけではないだろうか。先走って桜に嫌われたくなくて、避けて通っているのでは。
桜は動転して目をぱちくりさせている。彼女も同じ思いなのだろう。弱りながら文也は颯介たちの方を見るが、彼は容赦がない。「はやくはやく」などと焦らせる。
入試の面接など比にならない壮絶な緊張が訪れ、心臓が早鐘のように鼓動を打つ。桜の顔は既に赤く、その手はスカートの膝を強く握りしめている。それでも、颯介に文句を言うでもなく、ただじっと待っている。
待っている。
文也は、ありったけの勇気を振り絞った。
写真が撮れるよう、約二秒だけその体勢で固まる。ただ触れ合わせるだけの二秒間。唐突に現れた時間。桜を今までになく近くに感じた。
顔を離すと、桜は告白を受け入れた時のように、真っ赤な顔を両手で覆った。もしかして嫌だったのかとも不安になったが、すぐに手を離し、恥ずかしそうに笑う。
「……颯介くんて、意外とばかなんだね」
囁く声に文也も笑った。
「だって、俺の仲良しだぜ」
「そうだね。そうだった」
颯介と薫子は、一歩を踏み出すきっかけをくれた。そして自分たちは、互いに一歩を踏み出した。この事実が嬉しくて、恥ずかしくて、幸せで。今日のことは決して忘れないだろう。これからも、もっと幸せなことが待っているだろう。そう思えた。
陽が傾き始め、四人は公園を出て帰路に着く。右手に海が見える道。車椅子のグリップを握りゆっくりと押しながら、今度は文也が提案した。
「七月さ、七夕祭りがあるだろ。あれ行こうぜ」
普段の通学路の道すがら、約三週間後の七月七日に催される祭りのポスターを見かけていた。「屋台とか出るんだって」
「七夕祭りかあ。いいなあ」早くも桜は嬉しそうな顔をする。
「僕は行きたいけど……薫子さんはどう」
「私も、みんなが行くなら是非行きたい。でも、桜ちゃん、屋台で食べるのって大丈夫なの」
彼女の気遣いに、桜は頷いた。
「食べ物ばかりじゃないと思うし、私、お祭りの雰囲気が好きなの。居るだけでわくわくしちゃう」
それならばと、四人は約束をした。今度の七夕の日に、また集まろう。
「次は、自分で歩けたらいいな」
再び進み始めると、桜は車椅子を押す文也にしか聞こえない声量で言った。細い歩道なので、颯介と薫子は後ろに並んでお喋りをしている。
「もし私が動けなかったら、ふーはまた、車椅子押してくれる?」
「いくらでも押すよ。桜と一緒に行けるなら、喜んで押す」だから、と文也は続ける。「無理は絶対するなよ。そりゃあ、元気になって歩けるなら全然かまわないんだけど。俺は、これからも桜といたいんだ。だから辛い時はちゃんと言って、我慢なんかするなよ」
生きてさえいてくれればいい。願わくば元気でいて欲しいが、とにかく桜には生きていてほしい。
「……うん」桜は頷く。「本当に、私のこと、大切にしてくれてるんだね」
「だって桜が好きなんだから、当然だろ」
いつもの台詞に、桜はもう一度大きく頷いた。
「ふー、ありがとう」
夕焼けの中で振り向く彼女の笑顔は、何よりも温かく優しく、見惚れるほどに美しかった。
saku:大丈夫だって。明後日には絶対に良くなってるから。
その日の放課後、体調を崩した桜に、文也は会えなかった。それでも夜になると彼女から連絡が来る。
ふー:風邪だっけ。夏風邪か?
saku:多分、そう。
外泊の許可を、彼女はまだもらえていない。今回は諦めるべきだろうと文也は思い、説得に回る。
ふー:また来年もあるんだし、別の祭りも探せばあるだろ。
saku:やだよー。私、楽しみにしてるのに。
敷いた布団に寝転がり、桜を宥める言葉を探す。しかし学校にも行けない退屈な日常で、桜はよほど期待していたらしい。その間にもメッセージは届く。
saku:絶対に元気になるから。待っててね。
頑固だなあと文也は苦笑した。これだけ元気なら、本当に復活するかもしれない。そう思いながら寝返りを打った。
明け方、呼び出し音で文也は目を覚ました。普段の連絡に電話機能はあまり使っていなかったから、アラームでもない音に違和感を持ちつつ目を擦る。充電中のスマートフォンを寝ぼけ眼で手にし、画面を見た。時刻は朝の六時半。もう少しなら寝られるはず。
だが、表示された相手の名前に混乱した。天方律子。番号は知っていても、今まで一度も通話をしたことのない相手。たちまち胸騒ぎがする。
「……はい」
躊躇ってしまう前に、とにかく通話ボタンを押した。律子の言葉を聞いて、急速に背筋が凍り、働きかけていた思考も停止してしまった。
昨夜の深夜から、桜の容体が急変したらしい。既に目を覚ましていた母親に事情を話し、服だけ着替えて家を飛び出した。今日は平日だが、学校なんて知らない。最寄りの駅まで走り、いつもは乗らない時間帯の電車に飛び乗った。ようやく、母から金を借りてタクシーでも呼べばよかったと思いついたが、タクシーを待つ時間さえじっとしていられる気もしない。御浜町に近づいていく景色を睨みつけた。朝を迎える淡い空の色が、苛立つほどに美しい。
これほど電車の乗車時間を長く感じたことはなかった。ようやく到着した駅を出て病院まで走る。通勤ラッシュには少し早い時間帯、ちらほらと歩くスーツ姿のサラリーマンを追い抜きながらひたすらに駆ける。
息を切らしながら此花病院に辿り着いた。
律子が電話で教えてくれた通り、時間外専用の入口から院内に入った。彼女は一階の待合で待っていた。
「桜は……。おばさん、桜は!」
切れ切れの呼吸の中で絞り出す。律子は不安を隠しきれない表情で説明した。
腎臓の機能が落ちると、身体の免疫機能も低下する。気をつけてはいたが風邪をひいてしまったことで、更に免疫は落ちていた。原因はまだわからないが、弱った体はおそらく透析の際に感染症を合併し、意識を失い、今はICUで治療を受けている。
「ショックを起こしてて、すぐに治療を始めてくれたんだけど……。運が悪かったら後遺症が残るかもって。もっと悪かったら……」
律子は長椅子に座り込み、文也は言葉を失った。もっと悪かったら。もっと悪かったら?
そんな馬鹿な話があるか。数時間前まで、いつも通りやり取りをして、七夕には一緒に遊びに行こうと言っていたんだ。一番乗り気なのは桜で、絶対に元気になるなんて言ってたんだ。
心臓が激しく脈打ち、頭の中が真っ白になる。最悪のケースが脳内でぐるぐる回り、足が震えてうまく立てなくなる。「さくら……」文也も椅子にへたり込んで項垂れた。「さくら、桜……」祈るように名前を呟いた。彼女の笑顔が瞬きするたびに瞼の裏に見えて、辛くて目を強く瞑った。
今すぐ桜の顔を見たいが、集中治療室に飛び込むわけにもいかない。今、彼女は懸命に戦っている。その手さえ握れないのが悔しいが、代わりに両手を強く組んで、ひたすらに祈る。一人じゃないと、桜に呼びかける。どうか無事に戻って来てくれと必死に願う。後遺症が残ってもいい、生き延びてほしい。どうか、どうか――。
しばらくして呼び出し音に気づき、文也はポケットに突っ込んでいたスマートフォンを取り出した。母からだ。なんとか立ち上がり律子の元を離れる。
「桜ちゃん、どうだった」
母の心配に、先ほど聞いた説明をする。黙って聞いていた母親は、「そう……」と悲しげに吐息を漏らした。
外来患者がやって来る時間になると、文也の母も病院を訪れた。母親同士で会話をしているのをぼんやり眺めていた文也に、鞄が押し付けられる。
「心配だろうけど、あんたは学校に行きなさい」
通学鞄を持ってきた母の台詞に、文也は怒りを覚える。
「行けるわけないだろ。こんな状況なのに」
「心配なのはわかるけど、出来ることはないでしょう」
あまりにストレートな物言いに立ち上がり、声を荒げそうになる。それを察した律子が口を挟んだ。
「桜は、必ず元気になるから。その時、文也くんの時間を奪ったって知ったら、怒ると思うの。私のことは気にしなくてよかったのにって。あの子は、そんな子だから」
その姿は容易に想像できる。「ふー、心配し過ぎ」いつもの台詞を口にする、呆れ顔の桜。「学校ぐらい、ちゃんと行きなよ」そんなことまで言って。
文也は、唇を噛み締める。こんな心持ちで、授業なんて受けられるはずがない。その心情を理解し、母親同士も顔を見合わせている。
「文也、あんたが桜ちゃんを心配してるのは、よくわかってるから。どうしても無理だったら早退してもいいから。だから取り合えず、一度登校しなさい」
母親の説得に、辛うじて文也は呻いた。
「……わかった」
桜は、自分のせいで文也の生活に支障が出ることを望まない。自分を心配して欠席し、授業に遅れたとなれば怒るだろう。自己嫌悪を覚えるかもしれない。桜は、そんな女の子だ。
なにかあったらすぐに連絡すると律子は約束してくれた。文也は鞄を受け取った。それは引きずりたいほどに重たかった。
病院のトイレで制服に着替えて、のろのろと登校した。二時間目から授業に出たが、頭には何一つ入ってこない。数学の公式も、英語の発音も。とにかく不安ではち切れそうで、じっとしているなんて頭がおかしくなってしまう。
「なあ、本当にどうしたの」
昼時、虎太郎の声に顔を上げた。「どうしたって」文也はとぼけた台詞を返す。
「聞こえてなかった? オレ、何度も話しかけてたんだけど」虎太郎は苛立ちよりも心配そうな表情で、前の席に座っている。
「ごめん。聞いてなかった」
素直に謝り、取り合えず弁当を鞄から出す。しかし全く食べる気が起きない。むしろ下手に口にすれば、気分の悪さに戻してしまう気さえする。
「めちゃくちゃ疲れてそうだけど。なんかあったの」
躊躇いつつ自分の弁当に箸をつけながら、控えめに尋ねる虎太郎。抱えることに耐えられず、文也は重い口を開いた。
「桜の容体が、悪くなったんだ……」
ぽつぽつと今朝のことを話すと、虎太郎は真剣な顔をして話を聞き、最後には「そっかあ」と眉尻を下げた。
「そりゃあ、心配だよな」
彼も食べる手を止め、考えている。その姿は悲しげだ。
「いいよ、俺のことは放っといて」こんな自分と居るよりも、他の誰かと昼休みを過ごした方が楽しいだろう。彼まで憂鬱な気持ちでいる必要はない。
文也はそう思ったのだが、「オレも、祈っとくよ」と虎太郎は神妙な面持ちで言った。
「あの子が助かるように、応援するよ」
虎太郎と桜は、話したことさえないはずだ。桜の方は、彼の名前すら把握していない。
それでも人の良い虎太郎は、心痛している。その表情はただ相手に合わせているだけ、などとは思えない。文也は黙って頷いた。
放課後、再び文也は此花病院を訪ねた。
治療を続けている桜は、まだ予断を許さない状況らしい。面会できないことを謝る律子の疲れ具合に、文也は居たたまれなくなる。
「桜は、絶対に戻ってきます」
自らを鼓舞するように、文也は言う。
「絶対。絶対に、大丈夫」
同じ屋根の下で、桜は文字通り命がけで頑張っている。精いっぱい、生きようとしている。彼女を信じるしかないと思う。
颯介と薫子に知らせると、見舞いに行きたいと二人とも言った。だが二人の高校はそれなりに距離があるし、第一、桜に会うことはできない。桜が病室に戻ったらすぐに連絡するから、その時に見舞いに行こうと文也は説得した。しかし会えなくとも病院に行きたいと彼らが渋るので、明日の放課後に集まろうと約束する。明日は七夕。まさかこんな形での再会になるだなんて。
「桜ちゃんを、信じよう。大丈夫だよ。桜ちゃんはフミの元に必ず帰ってくるから」
夜になり電話をかけてくれた颯介の言葉に励まされ、文也は眠れない身体を横たえた。
寝不足の頭で、七月七日、文也は一人で御浜高校に登校する。病院に泊っている律子からは、不安定な状態が続いていると連絡があった。まるで悪夢の中を歩いているようだが、自分にできることはこれだけだと、文也はいつもの席につく。
緊張状態が続いているせいか、三時間目の国語の時間、瞼が下りてきた。それに抗う気力もなく、うとうとしてしまう。
これは、幻聴だな。文也は冷静に思った。
ふー、起きなよ。不真面目だなあ。
呆れる彼女の聞き慣れた声。桜のせいだよ、なんて頭の中で返事をする。
呼ばれていることに気がつき、文也ははっと顔を上げた。
「月城、ちょっと」
国語の教師がこっちを向いて呼んでいる。クラスの全員の視線が集まっている。目をやると、教室の出入り口に担任教師の姿がある。
あのまま眠っていれば、夢の中だけでももっと話ができただろうか。文也はいつまでも、そう思う。
七月七日。天方桜は息を引き取った。
葬式の記憶は、桜の眠る顔だけ。しつこく呼べば、「うっさい、ふー」と言って目を覚ましそうな自然な寝顔。その顔を見て自分がどんな反応をしたのか、文也はまったく覚えていない。
死因は、敗血症性ショック。元々病弱な彼女の身体は、耐えられなかった。
桜が亡くなって十日後、文也は彼女の居たマンションを訪れた。
「来てくれてありがとう」
葬儀や初七日を終えて少し落ち着いたところだと、母親である律子は奥に通してくれた。
低い長机の上に、眩しい笑顔の彼女の遺影。使われているのは、御浜高校の入学式で母親が撮った写真。ほんの三ヶ月前の写真。
「お墓参り、今度、文也くんも行ってあげてね。あの子も喜ぶから」
そばのテーブルに、冷えた麦茶の入ったコップを置いてくれる。
遺影のそばには、たくさんの果物が並べられていた。メロンは彼女の好物だ。他にもブドウやバナナ、季節の違うイチゴやリンゴまで。脇には、彼女が使っていたスマートフォンや、通学用の鞄が置いてある。
線香をあげ、鈴を鳴らし、文也は手を合わせる。
そして、律子に桜の話を聞かせた。彼女がどんな時に笑って、怒って、悲しんでいたのか。無理に見舞おうとして傷つけたことも、海辺で子どものようにはしゃいでいたことも。どれだけ彼女が一生懸命に生きていたか、自分の知る桜の姿を語って聞かせた。
「あの子は、頑張っていたのよね」
しみじみと母は頷く。
「最期にね、一度だけ意識を取り戻して、面会ができたの。私は、桜は助かったんだって思ったんだけど、違うのよね。あの子は、最期の力で私に顔を合わせてくれたのよね」
それからすぐに容体は悪化し、そのまま彼女は眠りについてしまった。
「本当に優しい子だった。お母さんを傷つけたくないって、移植まで拒んで。もし桜を説得できてたら、もしかしたら、助かってたかもしれないのに……」
律子は一度立ち上がり部屋を出ると、何かを持って戻ってきた。
「このお守り、文也くんに持っていてほしいの」
手渡された物を見て、文也は息を呑む。
桜が大切にしていたお守り。小さな鍵のついたそれには見覚えがあり、思わず「これ……」と声が漏れる。
可憐で美しい桜貝が、鍵と共に結び付けられていた。
「最期にね、面会できたって言ったでしょ。その時に、桜が言ってたの。おまもり、ふーに渡してって。……文也くんなら、大事にしてくれるって思ったんでしょうね」
律子の声が、次第に震える。
「……桜は、文也くんが大好きだったから」
彼女の言葉に、文也は軽く唇を噛んで俯いた。
「でも……桜は、ずっと俺のことなんか……」
恋人として結ばれた期間は二ヶ月にも満たない。それまで桜はずっと告白を断ってきた。大好きなら、きっともっと早くから付き合ってくれていたはずだ。
「桜はね、文也くんが好きだから、付き合わなかったの」
しかし顔を上げる文也に、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「あの子は身体が弱いから、普通の女の子みたいに気軽にデートできないでしょう。長生きできないかもしれないし、何が起きるかわからないから、文也くんとは付き合えないって言ってたの。ふーの人生を無駄にしたくないって」
頭を殴られたようなショックを受け、「無駄だなんて……」と文也は声を詰まらせる。律子はそんな彼を見て微笑んだ。
「大好きだから、傷つけたくないんだって。本当に、ばかよねえ。でもね、いつも喜んでた。こんなことを言ってくれた、私はとっても幸せものだって。結婚してドナーになるって言ってくれたんでしょ。あの時も、世界一幸せだって喜んでたのよ」
意外な言葉に、文也はもう何も言えなくなる。桜がそこまで自分を好いてくれていただなんて、知らなかった。自分の一方的な恋心だとずっと思い込んでいた。
「でも、もし腎臓が適合したら怖いって。文也くんは絶対に移植するっていうけど、それで身体に傷をつけさせたくないって」
律子の目に涙が浮かぶ。彼女はそれを拭わない。
「幸せなのに、それが怖いよって、泣いてたの。私にはもったいないって。好きでいてくれるのが嬉しいのに、好きになるのが怖いんだって」
しかし桜は、それでも受け入れてくれた。怖いながらも文也を愛する覚悟で、恋人になってくれていた。「いいよ」というあの日の言葉には、深い愛情が込められていた。
「怖いけど、ふーが好きでたまらないんだって」
ぽたぽたと、涙が落ちる音。
その音が至極近くから聞こえるのに、少しの間気づかなかった。
桜が亡くなってから一度も涙を流していない。あまりの悲しみに心が壊れてしまうのを防ぐように、大切な部分がずっと麻痺してしまっている。
それでもやっと、涙が頬を滑り落ちた。
「さくら……!」
すでに限界すれすれに達していたそれが一気に決壊し、文也は泣いた。桜のお守りを握りしめ、畳に突っ伏して、声を上げて泣いた。いくらでも涙が溢れてくる。桜、桜、桜。彼女の名を呼び、十日間流せなかった涙を流して号泣した。
好きでいてくれたなら、一度でいいから、その言葉を桜の声で聞いてみたかった。
しかし、そんな願いは決して叶わない。
天方桜は、死んだ。それをようやく、理解した。
声が掠れるほど泣いて、時間をかけて辛うじて涙を止めた文也は、なんとか電車に乗って家路についた。歩いている間にも、もう桜の家から御浜駅に歩くこともないんだなと思うと、景色が滲んだ。人目も気にせず腕で目元を拭い、鼻をすすって奥歯を噛み締めた。
住宅が立ち並ぶ閑静な橘(たちばな)町。変哲のないマンションの五階に帰った頃には、すっかり陽は傾き、どこかでヒグラシが鳴いていた。
泣き腫らした文也の横顔に、母親は食事を促さず、作ったばかりの夕飯にラップをかけた。
文也の父親は、単身赴任で県外に住んでいる。転勤が決まった時、父はついて来て欲しそうな顔をしていたが、妻子に無理強いはしなかった。文也も、桜や颯介のいる学校を離れるのは絶対に嫌だと主張した。既に中学二年生になっていた息子の心情を尊重し、彼には小学生の頃に一度転校を経験させている負い目を感じ、両親は父親だけ県外に出ることを選択した。
母と息子しかいない家の中は、今は随分と静まり返っている。足音さえも憚られる静寂が満ちている。
自室に戻ると力を振り絞って布団を敷き、文也は倒れ込んだ。もう一生分泣いた気がするのに、まだ熱い雫が瞼の隙間から零れてくる。彼女が若くして亡くなった悲しさや悔しさが溢れてきて、嗚咽が漏れる。大好きな彼女の死に目にも会えなかったことを思い出し、強く目を閉じ、咽び泣く。
泣き疲れて眠ってしまうなんて、思い出せないほど久々のことだった。
目を覚まし、ぼんやりしながら、天井の照明を見上げる。泣きすぎたせいで瞼が腫れぼったい。起き上がる気にもなれないまま、文也はただ仰向けに横たわる。
これからどうすればいいんだろう。
思考の霧はなかなか晴れない。霞がかった景色に、自分一人だけ取り残されているような気がする。桜がいれば、いつだって景色は色鮮やかだった。彼女を中心に、あらゆるものが新鮮で輝いて見えた。だから今は、灰色に燻った世界でどうやって生きていけばいいのか、それさえわからなくなっている。
ズボンのポケットに手を入れ、貰ったばかりのお守りを取り出した。組み紐の先に、小さな鍵と、小さな桜貝。桜を守ってくれるんじゃなかったのか。そう文句を言いたい半面、彼女がいつも大切に持っていたこれが、自分のてのひらにある悲しみが押し寄せる。洗って磨いたのだろう、貝殻はきらきらとして美しい。まさか、自分が拾ったこの桜貝が、再び自分の手元に戻ってくるだなんて、微塵も思わなかった。
お守りを枕元にそっと置き、反対のポケットからスマートフォンを出した。スイッチを押し、光る画面で今が午後の十時を過ぎていることを知る。四時間以上寝ていたことに、随分と疲れていたのだと気が付いた。
それでも起き上がる気力がなく、寝転がったまま指を滑らせアルバムを立ち上げ、写真を見返す。滅多に写真など撮らないから、枚数は少ないし、貰いものも多い。桜は恥ずかしいからと言って、記念の写真以外は、あまり撮らせてくれなかった。
薫子が送ってくれたのが、直近の写真。
海辺の公園で、四人で撮った記念写真。三人掛けのベンチに無理に四人で座り、窮屈ながらもみんな笑っている。この時に戻れたら、桜に忠告ができるのに。そんな仕方のないことを思う。
そして、自分と桜、二人だけの写真が五枚。ピースをしたり、万歳をしたり。不器用な自分は笑って写真に写るのが苦手だが、この日はうまく笑えていたように思う。桜は言わずもがな、いつも通りの可愛らしい笑顔だ。
ほんの先月のことを、何年も前の出来事のように感じながら、文也は最後の写真をじっと見つめた。
触れるだけのキスの写真。後ろには紫陽花が咲いている。この時の緊張は凄まじかった。心臓が破裂して壊れてしまう気がした。こうでもしないと本当に前進しないからと、後に颯介たちは言っていた。後押しがありがたい反面、このカップルには永遠にかなわないなと思った。
幸せだったのに。あんなに幸せだったのに。文也は枕に頬を押し付けたままため息をつき、途方に暮れる。これから桜のいない日常が待ち受けているのに嫌気がさす。
アルバムを閉じようと指をスライドさせたとき、ぽんと通知が届いた。画面の上に一行、「新着メッセージがあります」。文也は何も考えず、その一文に触れてリンクを立ち上げた。
トップ画面に、やり取りできる相手のアイコンが並ぶ。未読のメッセージが届いている場合、その相手のアイコンが緑色の枠で囲まれ、一番上に現れる仕組みになっている。
今しがたメッセージを送ってきた相手を確認し、思わず「えっ」と声を漏らして目を見開いた。
桜の花びらの写真。それを丸く切り取ったアイコンが緑の枠に囲まれ、新着メッセージがあることを表している。
あり得ない、不具合だろうか。不思議に思いながら、アイコンに触れてみる。
saku:久しぶり。今日は来てくれてありがとう。
飛び起きて、メッセージを凝視した。人違いかとも思ったが、「saku」の名前を使い、桜の花びらをアイコンにしている人物は、彼女しか登録されていない。現に、亡くなる数日前までのやり取りが、同じ画面にそのまま残っている。
saku:いつの間にか、すっかり夏になったね。
目の前で、次のメッセージが追加される。
「なんだ、これ……」
顔が引きつり、声が掠れる。頭が混乱する。確かに、桜は亡くなった。死んでしまったのだ。リンクを使うことなど出来るはずがない。
saku:今年の夏も暑いのかな。
呆然と画面を見つめていた文也だったが、ふつふつと怒りが込み上げてきた。どう考えても、これは誰かのいたずらだ。それもかなり悪質な。月城文也がこれ以上なく悲しんでいることを知っている者が、天方桜になりきってメッセージを送っている。ふざけんな、と文也は呻いた。
ふー:誰だ、おまえ。
打ち込んで待っていると、すぐに返事がくる。
saku:誰って、私だよ。
ふー:だから誰だよ。
saku:覚えてるでしょ、桜だよ。
「いい加減にしろ!」
怒鳴りつけ、興奮のあまり息を切らす。ひどすぎる、と思った。まるで桜が生きているかのように振舞って、知らない誰かは自分をからかっている。怒るのはまさに相手の思うツボだろうが、冷静でなんていられない。
誰かがこの様子を見て笑っているはずだと、窓に寄って外を確認する。五階の高さだから、一戸建ての家からでは覗けないだろう。それならマンションか。斜向かいに見える八階建てのマンションに目をやる。こちらには部屋のベランダではなく玄関のドア側が向いているから、廊下に出て双眼鏡でも使わない限り、そうそう覗き見は出来ない。そして今、電気の灯る廊下には人っ子一人姿はない。
不気味に思いながら、それでもカーテンを閉めた。手元でスマートフォンが振動する。
saku:ごめん、びっくりさせて。
saku:でももう遅いから、大きな声はだめだよ。
絶句し、やがて唇を軽く舐めた。相手は、さっき自分が怒鳴ったことを知っている。まるでこの部屋にいるかのような言い草だ。
気味が悪くなり、スマートフォンを布団に放り投げた。この様子も誰かに見られているのだろうか。寒気を覚えて部屋を出た。