一年後。
午前十時。夏休み最終日。
ファミリー層やカップル。友達同士などの来場者で溢れかえるアクアパーク品川水族館入り口前。
デニムとフード付きTシャツに身を包んでいた優光はスマホを弄りながら、本日の待ち人を待っていた。
もともと人混みが多いところが苦手な優光だ。ボーっと人を眺めながら待っているより、スマホ画面に集中しているほうが落ち着くのだろう。
「優光くんッ」
黒のシャツワンピースに身を包む奏千花が優光に駆け寄る。
「千花さん」
優光は千花の声に反応して顔を上げる。弄っていたスマホの電源を落とし、尻ポケットに差し込んだ。
「待たせちゃってごめんなさい。駅の出口に迷ってしまって」
申し訳ない気持ちがいっぱいの奏は、顔の前で両手を合わせて謝る。
「大丈夫です。そんな待ってないですよ。それより、無事に合流出来て良かったです。今度迷ったら連絡下さい。僕が迎えに行きますので」
一年前では考えられない穏やかな雰囲気を漂わせる優光が優しく答える。
「ありがとう。優光くんは本当に優しいね」
「べつに優しくないです。早く行きましょう」
照れ隠しにそっけなく返す優光は先に歩きだす。
千花は慌てて優光の後ろをついて行った。
二人は入場ゲートから左に曲がる
少しの坂を下ると右手に現れる、大きな海賊船をイメージさせるようなアトラクション遊具。それに気がついた千花は瞳を輝かせる。
「乗りますか?」
千花の視線の先に気がついた優光は、アトラクションを指さして言う。
「いいの⁉」
「もちろんです。並びましょうか」
歓喜の笑みを浮かべる千花に微笑む優光の雰囲気は、とても優しく穏やかだった。
「やった! ありがと~。私、アトラクションとか初めてなの」
二人は巨大な海賊船に乗り込み、命綱であるバーを下ろす。
「ドキドキしてきた」
期待と不安に胸を躍らせる千花に対し、「そうですね」と冷静に返す。
クールな優光に戻ったのかと思いきや、手が赤くなるほどバーを握りしめている。表には出さないが、恐怖しているのだろう。
「いざ出航の時! お頭に海に落とされないように気をつけて! いい航海を‼」
アトラクションスタッフが声をあげると、巨大な海賊船が振り子のように動き出す。
「ッ!」
恐怖と船酔いに耐える優光。
「ひゃぁ~ッ」
奏は叫びながらもアトラクションを満悦する。
ほどなくして、巨大な海賊船は島へ漂着した。
「皆さん、嵐の中の航海。お疲れ様でした~!」
アトラクションスタッフが声をあげる。
「楽しかった~! って、優光くん大丈夫ッ⁉」
ご満悦の千花は、青白い顔で硬直としている優光に焦る。
「は」
「は?」
「は、き、そーでずぅ~」
優光はオウム返しをする千花に、左手で口元を抑えて首を竦める。
「えぇー⁉ ま、待って待って! おお手洗いに行こう」
先に立ち上がった千花は優光の腕を持ち上げて立ち上がらせる。
「む、むりでずぅ~」
「む、無理じゃない! 諦めちゃダメよ」
「ごごがら、どいれ、とぼう~」
優光は両手で口元を覆いながら言った。
半ば無理やり出された言葉達には濁点が多く、瞬時に解釈できない。
「とぼう? ……ぁ! ここからお手洗いが遠いってこと?」
あたふたする千花の問いに、切羽詰まった優光がコクコクと頷く。
「わ、分かった。すみませーん」
言葉の意味と優光の限界を理解した千花は、右手を上げてアトラクションスタッフを呼ぶ。
「ど、どうされました?」
男性アトラクションスタッフが慌てて駆け寄ってくる。
「すみません。船酔いしたみたいで……ゴミ袋とかありますか? 一応エチケット袋は持っているのですが、溢れる可能性が無きにしもあらずですので」
「分かりました。これをお使いください」
男性スタッフは、ホルスターのような鞄に入っていた大き目の白いビニール袋を奏に渡す。
「ありがとうございます。助かります」
「いえ。時々こういうことがおこりますので。取り合えずアトラクションから降りてもらって、スタッフルームの隅で……」
「ぶぐ~」
二人のやり取りを遮るように、優光は苦し気に言った。もう限界を通り過ぎている。
「わぁ~ちょっと待ってー」
千花は優光の腕を引っ張ってデッドスペースまで連れていくと袋を手渡す。優光は袋を口元に当てて――地獄を見る。
「み、見ないで、ぐだざ~いぃ」
「大丈夫大丈夫。見てない観てない。なんか、ごめんね」
と、同情するような瞳で優光の背中を見る千花は、優光が落ち着くまで優しく背中をさすってやった。
ブラックライトに包まれるなか、発光するサンゴ達が訪れた人達を光照らす幻想的な空間。
水族館の世界観を壊さないカフェバーで、千花と優光は休息を取っていた。
優光は丸いテーブルに両肘をついて、主に精神的にぐったり項垂れていた。
「どう? 少し落ち着いた?」
千花はそんな優光の顔色を覗き込むようにして言った。
優光は心配と不安と申し訳なさが入り混じる顔をした千花に、「……はい」とだけ答え、気まずげに視線を逸らす。
あまりにもな出来事に、精神的ショックは大きかったのだろう。
「……すみません。お見苦しいところをお見せしてしまって」
「全然。私こそごめんね。無理な時とか、苦手なモノとかあったら遠慮せずに、ちゃんと言ってもらえると嬉しいよ」
千花は眉根を下げていう。
「苦手……だったんですかね? あーいったアトラクションに乗ったのは九歳の時以来なので、自分が駄目なのか分からなくて。ご迷惑をおかけしました。今度から気をつけます」
優光は苦笑いをしながら、冷えたジンジャエールを数口飲む。炭酸とさっぱりした味が、優光の気分と頭をスッキリさせてくれた。
「そうだったんだ。それだったら判断は難しいよね。でも、なんとか具合も戻ったみたいでよかった」
千花は安堵の溜息を溢し、シロップなしのアイスレモンティーを一口飲む。甘い物が苦手な千花は、シロップなしの紅茶を好んで飲んでいた。
「この後はどうするの?」
「飲み終わったら水族館を見て回って、軽く昼食を取ってから、例の場所へと向かう予定です」
「ハードスケジュールだけど大丈夫?」
千花は優光の体調を心配し、不安げに問う。
「大丈夫です。飲み物を飲んだらスッキリしましたし」
グラスに残っていた二割のジンジャエールを飲み干した優光は、千花を安心させるように笑顔を見せる。
「そっか。じゃー行こう」
笑顔で頷く千花もレモンティーを飲み干す。
こうしてカフェバーを後にした二人は、ゆったりとした足取りで、水族館と言う名の海の世界を堪能したのだった――。
†
「楽しかった~」
千花は太陽にも負けないほど光り輝く笑顔を見せる。
「それはよかったです。昼食、なに食べたいですか?」
「私、回転お寿司行ってみたい! サイドメニューが豊富で、スイーツもあって、パラダイスみたいなんだもん」
「え⁉ 行ったことないんですか? もしかして、普段は回らないお寿司とか食べに行くんですか?」
思いもよらない千花のリクエストに、優光は目をまん丸くして驚いて見せる。
「ぁ、うん……。といってもごく稀だけど。そもそも家族三人で外食することなんて、滅多にないもの。父は忙しい人だから」
千花は少し寂し気に言って、眉尻を下げて微笑む。
「な、なるほど。じゃぁー、回転寿司に行きましょうか。回転率も速そうですし」
優光は納得したように頷くと、スマホを弄る。
「ありがと……って、優光くん海鮮とか大丈夫? アレルギーとかじゃないよね⁉ なんでもかんでも私の意見を受け入れてくれなくてもいいんだよ。嫌なモノとか駄目なモノとかあったら、ちゃんと言ってね!」
千花は早口で突っ走るように言った。きっと脳裏で先程の悪夢がよぎったのだろう。
「大丈夫です。むしろお寿司は好きな方です。アレルギーとかはないです。食べ物で言ったらトマトが苦手です。特にプチトマトは敵です。ぁ、今一時間待ちで予約しました。ゆっくり歩いて行きましょう」
優光はそう言ってスマホの電源を落とし、尻ポケットに入れる。
「……そう? それならよかった。トマトが駄目なんだね! 脳内メモに書いとく。うん!」
千花は楽しそうに笑う。
少しだけ口角を上げて歩き出す優光の後ろに、千花も続いた。
†
「わぁ~! 本当にお寿司が回転してきてるよ! なにここ、なにここ! 優光くん凄いよ! お寿司はもちろんだけど、ラーメンにうどん。まぜそば? ベトナム風ぜんざいって何⁉ ぁ、長崎カステラだ! 一度お父さんが出張で行ったとき、お土産で買ってきてくれたことがあるの。おいしいよね! わ! ケーキにフレンチトーストもあるよ!」
千花は席へついてメニュー表を見るなり、大興奮の嵐である。
テンションMaxで子供のようにはしゃぎまくる千花に優光は少し呆気にとられる。
「ち、千花さん。少し、落ち着きましょう?」
優光は顔の前で両掌を突き出し、どぉどぉど~。という風に押しては引いての動きを繰り返し、千花を落ち着かせる。
「ぁ、ごめんなさい……つい。その、物珍しすぎて、はしゃぎ……すぎました」
千花は耳を赤くさせてぺこりと頭を下げる。
「ふふ。いえ、楽しそうで何よりです。僕はお水持ってくるので、千花さんはお茶入れておいてくれますか?」
「うん。湯呑にお茶のパック入れて、この黒い所を押したらいいの? ……か、固いッ」
千花は熱湯が出てくる所に湯呑の淵を重ねて押そうとするが、力の入れ具合が下手すぎて上手くいかない。
「片手だから駄目なのかな?」
一人納得したように頷く千花は、湯呑を包み込むように両手で持って、再度挑戦する。
「お、お茶は僕が入れますッ」
危険を察知した優光は慌てて湯呑を取り上げ、慣れた手つきで熱湯を注ぐ。
「ぁ、すんなりでてくる」
千花は不思議そうな顔で熱湯の出所を見つめた。
少し口を尖らかせている所を見ると、上手く出来なかったのが悔しかったようだ。
「最初は上手くいかないですよ。力が弱い方にはこの出し口硬いですし」
優光はすかさずフォローを入れる。
「つ、次までに練習しておくわ」
そんな言葉を返してくる千花に微苦笑を浮かべる優光だった。
「じゃぁ、僕はお水を入れてきますので、先に好きなのを頼んでいてください」
「えっと……どうやって?」
千花は複雑そうな顔をして問う。
「へ?」
と、素っ頓狂な声をあげる優光。
「え?」
千花は何か可笑しなことを言っただろうか? と首を傾げて見せる。
「この注文タッチパネルを使うんですよ――」
優光は注文方法を手短かつ分かりやすく説明すると、お水を取りに行くためその場を離れる。
「だ、大丈夫だろうか?」
優光は二つのグラスに冷たいお水を注ぎながら、不安の溜息を溢す。
お手軽で楽しく食事ができる回転寿司店のはずだが、今の優光にはとっては、戦々恐々の対象となっていた。
「ぁ、優光くーん。警報がなって止まらないの! 助けて~」
注文した商品が届くことを知らせる通知音。
それを警報音と勘違いして本気で慌てふためき、自分に助けを求めてくる千花に、優光は一瞬口を塞ぐことを忘れてしまう。
「千花さん。それは警報音ではなく、注文が届いたお知らせ音です。注文した商品を取ってから、赤いボタンを押して列車を戻すんです。じゃないと鳴り続けます」
優光は説明しながらその動作をして、着席する。
「な、なるほど……。色々ルールがあるのね」
千花は取り乱した自分を少し恥じるように、身を小さくさせた。
「ルールってほどでもないと思いますが……」
と言いながら、割りばしを自分用と千花用を取って渡す。
「ぁ、ありがとう」
千花はお礼を言って割りばしを受け取り、醤油入れを箸置き代わりにして、割りばしをそっと置いた。
「……。ちなみに、割りばしの割り方はご存知ですか?」
優光は恐る恐る問いかけてみる。
「もちろん! 私そこまで世間知らずじゃないわ」
失礼しちゃうわね! とでも言いたげに、割りばしをマナー良く、上下に引っ張るように割った。変な形になることもなく、綺麗な割りばしの完成系が出来上がる。
「ですよね。失礼しました。じゃぁ、いただきましょうか」
「うん」
二人は顔の前で両手を合わし、いただきます。と口にする。
その後も、回っているお寿司を取ってみたいと寿司カバーに悪戦苦闘する千花をフォローしたり、お茶汲みに再挑戦する千花にオロオロしたり、ケーキもお箸で食べるの? と問うてくる千花にスプーンを渡したりと、優光とっては、気の休まらない昼食会となった。
なんとも、持ちつ持たれつのいいコンビである。
†
神奈川県。鎌倉市堀越。
真夏の終わりを告げるような陽の光を放つ夕日を背に、二人は砂利道を踏み鳴らしながら、ゆったりとした歩幅で歩みを進める。
二人が訪れたのは、優光の大切な人が眠る霊園だった。
「昨日の約束通り、千花さんときたよ」
優光は墓石の前で微笑む。
「お久しぶりです。私もつれてきてもらっちゃいました」
優光の二歩後ろにいた千花は墓石の前で柔らかな笑みを見せる。
【二〇××年八月三十一日 永眠】
ここは、優光の母が永遠の眠りにつく場所だ。
「お墓のお手入れとかしなくてもいいの?」
「大丈夫です。昨日しておきました。でもお花は飾ろうと思っています」
優光は霊園の近くにある花屋で買った小さな花束と、陶器の小さな花瓶を見せる。
すでに墓石に備え付けられた花立てには、菊の花を主とする花束を飾っていたため、花屋で購入したのだ。
「そっか。じゃぁ私、その花瓶を洗って、お水入れてくるね」
千花は小さく頷き、花瓶洗いに行った。
「こ、転ばないで下さいね」
先程のこともあり、思わず子ども扱いをするようにそう声をかけてしまう。
華奢な千花の背中を見送る優光の表情は、とても穏やかだった。
「母さん。千花さんは本当に優しくて良い人だね。……少し変わってるけど」
優光は自分の目の前に、母がいるかのように話す。
「僕も母さんも、奏さんに出会えて本当によかったね。千花さんが僕達を前に向かせてくれたんだよ。過去でしか生きれない僕達を、前に向って生きていけるように、命がけで僕達を変えてくれたんだ」
穏やかな口調でそう言う優光の顔は温顔そのものだった。
優光はあの日を境に、本来の自分を取り戻したのだろう。
優光はもう、あの感情が冷めきったような冷たい視線を誰かに向けることはない。
感情を押し殺したような生き方も、人に冷たく当たることも、人と距離を置くこともなくなっていた。
何より、死にたい。という言葉を吐き出すことがない。
きっとその言葉の奥に潜んでいた、『会いたい』という願いが叶えられたこともあるが、強く生きるという、命を繋ぐ約束を母と交わしたことも大きいだろう。
「優光くーん」
「ぁ、戻ってきたよ」
響く千花の声に気づく優光は母に報告するように呟く。
「おまたせ〜」
水を注いだ花瓶を手にした千花は嬉しそうに優光へ駆け寄る。
「ありがとうございます。助かります」
優光は奏から花瓶を受け取った。
「母さん。この花、好きだったよね」
優光はそう話しかけながら、生前母が好きだった向日葵を主とした背の低い花束を花瓶に入れ、そっとお墓に供える。
「優光君。本当に私も来ちゃってよかったの?」
「もちろんです。千花さんは僕達の命と心の恩人ですから」
当然です! とでも言いたげに深く頷き、微笑んで見せる。
「ありがとう。優光君と優光君のお母様は私にとって、私の命と心の恩人だよ」
千花は穏やかに微笑み、目を細める。
「よかった。僕は奏さんと千花さんの心が、今よりもっと笑顔になってくれるのが、一番嬉しいです。きっと、母さんもそれを望んでいます」
優光はそう言って、静かに両手を合わせて瞳を瞑る。
その二歩ほど後ろで手を合わせる千花は、天国にいるであろう優光の母親に感謝の想いと、優光との近況を伝えるようにそっと瞳を瞑った。
あの日を境に、二人はよく遊ぶようになった。
友達以上恋人未満の関係ではあるが、その絆はどこの誰とよりも強いだろう。
一度は自ら命を落とそうとした千花を通りがかりの優光が助け。黄泉の国で嘆き苦しむ優光の母と、現世で苦しむ優光を千花が助ける。
守り守られ。助け助けられの関係。
二人が出会わなければ、優光と千花の命は失われていたかもしれない。
黄泉の国では成仏仕切れない感情と記憶を持つ一つの魂が、黄泉の使者により、強制的に“無”に戻されていたかもしれない。
優光と千花の出会い。
千花と一つの魂の出会い。
それらは、三人が前を向いて歩んでゆけるように、心をより強く再生できるようにと、奇跡の神様がかけてくれた、世界一優しい魔法だったのかもしれない――。
午前十時。夏休み最終日。
ファミリー層やカップル。友達同士などの来場者で溢れかえるアクアパーク品川水族館入り口前。
デニムとフード付きTシャツに身を包んでいた優光はスマホを弄りながら、本日の待ち人を待っていた。
もともと人混みが多いところが苦手な優光だ。ボーっと人を眺めながら待っているより、スマホ画面に集中しているほうが落ち着くのだろう。
「優光くんッ」
黒のシャツワンピースに身を包む奏千花が優光に駆け寄る。
「千花さん」
優光は千花の声に反応して顔を上げる。弄っていたスマホの電源を落とし、尻ポケットに差し込んだ。
「待たせちゃってごめんなさい。駅の出口に迷ってしまって」
申し訳ない気持ちがいっぱいの奏は、顔の前で両手を合わせて謝る。
「大丈夫です。そんな待ってないですよ。それより、無事に合流出来て良かったです。今度迷ったら連絡下さい。僕が迎えに行きますので」
一年前では考えられない穏やかな雰囲気を漂わせる優光が優しく答える。
「ありがとう。優光くんは本当に優しいね」
「べつに優しくないです。早く行きましょう」
照れ隠しにそっけなく返す優光は先に歩きだす。
千花は慌てて優光の後ろをついて行った。
二人は入場ゲートから左に曲がる
少しの坂を下ると右手に現れる、大きな海賊船をイメージさせるようなアトラクション遊具。それに気がついた千花は瞳を輝かせる。
「乗りますか?」
千花の視線の先に気がついた優光は、アトラクションを指さして言う。
「いいの⁉」
「もちろんです。並びましょうか」
歓喜の笑みを浮かべる千花に微笑む優光の雰囲気は、とても優しく穏やかだった。
「やった! ありがと~。私、アトラクションとか初めてなの」
二人は巨大な海賊船に乗り込み、命綱であるバーを下ろす。
「ドキドキしてきた」
期待と不安に胸を躍らせる千花に対し、「そうですね」と冷静に返す。
クールな優光に戻ったのかと思いきや、手が赤くなるほどバーを握りしめている。表には出さないが、恐怖しているのだろう。
「いざ出航の時! お頭に海に落とされないように気をつけて! いい航海を‼」
アトラクションスタッフが声をあげると、巨大な海賊船が振り子のように動き出す。
「ッ!」
恐怖と船酔いに耐える優光。
「ひゃぁ~ッ」
奏は叫びながらもアトラクションを満悦する。
ほどなくして、巨大な海賊船は島へ漂着した。
「皆さん、嵐の中の航海。お疲れ様でした~!」
アトラクションスタッフが声をあげる。
「楽しかった~! って、優光くん大丈夫ッ⁉」
ご満悦の千花は、青白い顔で硬直としている優光に焦る。
「は」
「は?」
「は、き、そーでずぅ~」
優光はオウム返しをする千花に、左手で口元を抑えて首を竦める。
「えぇー⁉ ま、待って待って! おお手洗いに行こう」
先に立ち上がった千花は優光の腕を持ち上げて立ち上がらせる。
「む、むりでずぅ~」
「む、無理じゃない! 諦めちゃダメよ」
「ごごがら、どいれ、とぼう~」
優光は両手で口元を覆いながら言った。
半ば無理やり出された言葉達には濁点が多く、瞬時に解釈できない。
「とぼう? ……ぁ! ここからお手洗いが遠いってこと?」
あたふたする千花の問いに、切羽詰まった優光がコクコクと頷く。
「わ、分かった。すみませーん」
言葉の意味と優光の限界を理解した千花は、右手を上げてアトラクションスタッフを呼ぶ。
「ど、どうされました?」
男性アトラクションスタッフが慌てて駆け寄ってくる。
「すみません。船酔いしたみたいで……ゴミ袋とかありますか? 一応エチケット袋は持っているのですが、溢れる可能性が無きにしもあらずですので」
「分かりました。これをお使いください」
男性スタッフは、ホルスターのような鞄に入っていた大き目の白いビニール袋を奏に渡す。
「ありがとうございます。助かります」
「いえ。時々こういうことがおこりますので。取り合えずアトラクションから降りてもらって、スタッフルームの隅で……」
「ぶぐ~」
二人のやり取りを遮るように、優光は苦し気に言った。もう限界を通り過ぎている。
「わぁ~ちょっと待ってー」
千花は優光の腕を引っ張ってデッドスペースまで連れていくと袋を手渡す。優光は袋を口元に当てて――地獄を見る。
「み、見ないで、ぐだざ~いぃ」
「大丈夫大丈夫。見てない観てない。なんか、ごめんね」
と、同情するような瞳で優光の背中を見る千花は、優光が落ち着くまで優しく背中をさすってやった。
ブラックライトに包まれるなか、発光するサンゴ達が訪れた人達を光照らす幻想的な空間。
水族館の世界観を壊さないカフェバーで、千花と優光は休息を取っていた。
優光は丸いテーブルに両肘をついて、主に精神的にぐったり項垂れていた。
「どう? 少し落ち着いた?」
千花はそんな優光の顔色を覗き込むようにして言った。
優光は心配と不安と申し訳なさが入り混じる顔をした千花に、「……はい」とだけ答え、気まずげに視線を逸らす。
あまりにもな出来事に、精神的ショックは大きかったのだろう。
「……すみません。お見苦しいところをお見せしてしまって」
「全然。私こそごめんね。無理な時とか、苦手なモノとかあったら遠慮せずに、ちゃんと言ってもらえると嬉しいよ」
千花は眉根を下げていう。
「苦手……だったんですかね? あーいったアトラクションに乗ったのは九歳の時以来なので、自分が駄目なのか分からなくて。ご迷惑をおかけしました。今度から気をつけます」
優光は苦笑いをしながら、冷えたジンジャエールを数口飲む。炭酸とさっぱりした味が、優光の気分と頭をスッキリさせてくれた。
「そうだったんだ。それだったら判断は難しいよね。でも、なんとか具合も戻ったみたいでよかった」
千花は安堵の溜息を溢し、シロップなしのアイスレモンティーを一口飲む。甘い物が苦手な千花は、シロップなしの紅茶を好んで飲んでいた。
「この後はどうするの?」
「飲み終わったら水族館を見て回って、軽く昼食を取ってから、例の場所へと向かう予定です」
「ハードスケジュールだけど大丈夫?」
千花は優光の体調を心配し、不安げに問う。
「大丈夫です。飲み物を飲んだらスッキリしましたし」
グラスに残っていた二割のジンジャエールを飲み干した優光は、千花を安心させるように笑顔を見せる。
「そっか。じゃー行こう」
笑顔で頷く千花もレモンティーを飲み干す。
こうしてカフェバーを後にした二人は、ゆったりとした足取りで、水族館と言う名の海の世界を堪能したのだった――。
†
「楽しかった~」
千花は太陽にも負けないほど光り輝く笑顔を見せる。
「それはよかったです。昼食、なに食べたいですか?」
「私、回転お寿司行ってみたい! サイドメニューが豊富で、スイーツもあって、パラダイスみたいなんだもん」
「え⁉ 行ったことないんですか? もしかして、普段は回らないお寿司とか食べに行くんですか?」
思いもよらない千花のリクエストに、優光は目をまん丸くして驚いて見せる。
「ぁ、うん……。といってもごく稀だけど。そもそも家族三人で外食することなんて、滅多にないもの。父は忙しい人だから」
千花は少し寂し気に言って、眉尻を下げて微笑む。
「な、なるほど。じゃぁー、回転寿司に行きましょうか。回転率も速そうですし」
優光は納得したように頷くと、スマホを弄る。
「ありがと……って、優光くん海鮮とか大丈夫? アレルギーとかじゃないよね⁉ なんでもかんでも私の意見を受け入れてくれなくてもいいんだよ。嫌なモノとか駄目なモノとかあったら、ちゃんと言ってね!」
千花は早口で突っ走るように言った。きっと脳裏で先程の悪夢がよぎったのだろう。
「大丈夫です。むしろお寿司は好きな方です。アレルギーとかはないです。食べ物で言ったらトマトが苦手です。特にプチトマトは敵です。ぁ、今一時間待ちで予約しました。ゆっくり歩いて行きましょう」
優光はそう言ってスマホの電源を落とし、尻ポケットに入れる。
「……そう? それならよかった。トマトが駄目なんだね! 脳内メモに書いとく。うん!」
千花は楽しそうに笑う。
少しだけ口角を上げて歩き出す優光の後ろに、千花も続いた。
†
「わぁ~! 本当にお寿司が回転してきてるよ! なにここ、なにここ! 優光くん凄いよ! お寿司はもちろんだけど、ラーメンにうどん。まぜそば? ベトナム風ぜんざいって何⁉ ぁ、長崎カステラだ! 一度お父さんが出張で行ったとき、お土産で買ってきてくれたことがあるの。おいしいよね! わ! ケーキにフレンチトーストもあるよ!」
千花は席へついてメニュー表を見るなり、大興奮の嵐である。
テンションMaxで子供のようにはしゃぎまくる千花に優光は少し呆気にとられる。
「ち、千花さん。少し、落ち着きましょう?」
優光は顔の前で両掌を突き出し、どぉどぉど~。という風に押しては引いての動きを繰り返し、千花を落ち着かせる。
「ぁ、ごめんなさい……つい。その、物珍しすぎて、はしゃぎ……すぎました」
千花は耳を赤くさせてぺこりと頭を下げる。
「ふふ。いえ、楽しそうで何よりです。僕はお水持ってくるので、千花さんはお茶入れておいてくれますか?」
「うん。湯呑にお茶のパック入れて、この黒い所を押したらいいの? ……か、固いッ」
千花は熱湯が出てくる所に湯呑の淵を重ねて押そうとするが、力の入れ具合が下手すぎて上手くいかない。
「片手だから駄目なのかな?」
一人納得したように頷く千花は、湯呑を包み込むように両手で持って、再度挑戦する。
「お、お茶は僕が入れますッ」
危険を察知した優光は慌てて湯呑を取り上げ、慣れた手つきで熱湯を注ぐ。
「ぁ、すんなりでてくる」
千花は不思議そうな顔で熱湯の出所を見つめた。
少し口を尖らかせている所を見ると、上手く出来なかったのが悔しかったようだ。
「最初は上手くいかないですよ。力が弱い方にはこの出し口硬いですし」
優光はすかさずフォローを入れる。
「つ、次までに練習しておくわ」
そんな言葉を返してくる千花に微苦笑を浮かべる優光だった。
「じゃぁ、僕はお水を入れてきますので、先に好きなのを頼んでいてください」
「えっと……どうやって?」
千花は複雑そうな顔をして問う。
「へ?」
と、素っ頓狂な声をあげる優光。
「え?」
千花は何か可笑しなことを言っただろうか? と首を傾げて見せる。
「この注文タッチパネルを使うんですよ――」
優光は注文方法を手短かつ分かりやすく説明すると、お水を取りに行くためその場を離れる。
「だ、大丈夫だろうか?」
優光は二つのグラスに冷たいお水を注ぎながら、不安の溜息を溢す。
お手軽で楽しく食事ができる回転寿司店のはずだが、今の優光にはとっては、戦々恐々の対象となっていた。
「ぁ、優光くーん。警報がなって止まらないの! 助けて~」
注文した商品が届くことを知らせる通知音。
それを警報音と勘違いして本気で慌てふためき、自分に助けを求めてくる千花に、優光は一瞬口を塞ぐことを忘れてしまう。
「千花さん。それは警報音ではなく、注文が届いたお知らせ音です。注文した商品を取ってから、赤いボタンを押して列車を戻すんです。じゃないと鳴り続けます」
優光は説明しながらその動作をして、着席する。
「な、なるほど……。色々ルールがあるのね」
千花は取り乱した自分を少し恥じるように、身を小さくさせた。
「ルールってほどでもないと思いますが……」
と言いながら、割りばしを自分用と千花用を取って渡す。
「ぁ、ありがとう」
千花はお礼を言って割りばしを受け取り、醤油入れを箸置き代わりにして、割りばしをそっと置いた。
「……。ちなみに、割りばしの割り方はご存知ですか?」
優光は恐る恐る問いかけてみる。
「もちろん! 私そこまで世間知らずじゃないわ」
失礼しちゃうわね! とでも言いたげに、割りばしをマナー良く、上下に引っ張るように割った。変な形になることもなく、綺麗な割りばしの完成系が出来上がる。
「ですよね。失礼しました。じゃぁ、いただきましょうか」
「うん」
二人は顔の前で両手を合わし、いただきます。と口にする。
その後も、回っているお寿司を取ってみたいと寿司カバーに悪戦苦闘する千花をフォローしたり、お茶汲みに再挑戦する千花にオロオロしたり、ケーキもお箸で食べるの? と問うてくる千花にスプーンを渡したりと、優光とっては、気の休まらない昼食会となった。
なんとも、持ちつ持たれつのいいコンビである。
†
神奈川県。鎌倉市堀越。
真夏の終わりを告げるような陽の光を放つ夕日を背に、二人は砂利道を踏み鳴らしながら、ゆったりとした歩幅で歩みを進める。
二人が訪れたのは、優光の大切な人が眠る霊園だった。
「昨日の約束通り、千花さんときたよ」
優光は墓石の前で微笑む。
「お久しぶりです。私もつれてきてもらっちゃいました」
優光の二歩後ろにいた千花は墓石の前で柔らかな笑みを見せる。
【二〇××年八月三十一日 永眠】
ここは、優光の母が永遠の眠りにつく場所だ。
「お墓のお手入れとかしなくてもいいの?」
「大丈夫です。昨日しておきました。でもお花は飾ろうと思っています」
優光は霊園の近くにある花屋で買った小さな花束と、陶器の小さな花瓶を見せる。
すでに墓石に備え付けられた花立てには、菊の花を主とする花束を飾っていたため、花屋で購入したのだ。
「そっか。じゃぁ私、その花瓶を洗って、お水入れてくるね」
千花は小さく頷き、花瓶洗いに行った。
「こ、転ばないで下さいね」
先程のこともあり、思わず子ども扱いをするようにそう声をかけてしまう。
華奢な千花の背中を見送る優光の表情は、とても穏やかだった。
「母さん。千花さんは本当に優しくて良い人だね。……少し変わってるけど」
優光は自分の目の前に、母がいるかのように話す。
「僕も母さんも、奏さんに出会えて本当によかったね。千花さんが僕達を前に向かせてくれたんだよ。過去でしか生きれない僕達を、前に向って生きていけるように、命がけで僕達を変えてくれたんだ」
穏やかな口調でそう言う優光の顔は温顔そのものだった。
優光はあの日を境に、本来の自分を取り戻したのだろう。
優光はもう、あの感情が冷めきったような冷たい視線を誰かに向けることはない。
感情を押し殺したような生き方も、人に冷たく当たることも、人と距離を置くこともなくなっていた。
何より、死にたい。という言葉を吐き出すことがない。
きっとその言葉の奥に潜んでいた、『会いたい』という願いが叶えられたこともあるが、強く生きるという、命を繋ぐ約束を母と交わしたことも大きいだろう。
「優光くーん」
「ぁ、戻ってきたよ」
響く千花の声に気づく優光は母に報告するように呟く。
「おまたせ〜」
水を注いだ花瓶を手にした千花は嬉しそうに優光へ駆け寄る。
「ありがとうございます。助かります」
優光は奏から花瓶を受け取った。
「母さん。この花、好きだったよね」
優光はそう話しかけながら、生前母が好きだった向日葵を主とした背の低い花束を花瓶に入れ、そっとお墓に供える。
「優光君。本当に私も来ちゃってよかったの?」
「もちろんです。千花さんは僕達の命と心の恩人ですから」
当然です! とでも言いたげに深く頷き、微笑んで見せる。
「ありがとう。優光君と優光君のお母様は私にとって、私の命と心の恩人だよ」
千花は穏やかに微笑み、目を細める。
「よかった。僕は奏さんと千花さんの心が、今よりもっと笑顔になってくれるのが、一番嬉しいです。きっと、母さんもそれを望んでいます」
優光はそう言って、静かに両手を合わせて瞳を瞑る。
その二歩ほど後ろで手を合わせる千花は、天国にいるであろう優光の母親に感謝の想いと、優光との近況を伝えるようにそっと瞳を瞑った。
あの日を境に、二人はよく遊ぶようになった。
友達以上恋人未満の関係ではあるが、その絆はどこの誰とよりも強いだろう。
一度は自ら命を落とそうとした千花を通りがかりの優光が助け。黄泉の国で嘆き苦しむ優光の母と、現世で苦しむ優光を千花が助ける。
守り守られ。助け助けられの関係。
二人が出会わなければ、優光と千花の命は失われていたかもしれない。
黄泉の国では成仏仕切れない感情と記憶を持つ一つの魂が、黄泉の使者により、強制的に“無”に戻されていたかもしれない。
優光と千花の出会い。
千花と一つの魂の出会い。
それらは、三人が前を向いて歩んでゆけるように、心をより強く再生できるようにと、奇跡の神様がかけてくれた、世界一優しい魔法だったのかもしれない――。