純粋な呪いと、切なくも優しい魔法の奇跡

 文字を書く音だけが響いていた部屋に、ピロン、と言う通知音が大きく響く。
「あいつか」
 優光はベッドに寝転ぶスマホを確認もせず、千夏からの連絡だと決めつける。
♪ピロン! ピロン! ピロン! ピロン! ピロン!♪
「多ッ!」
 繰り返される通知音に集中力が切れたのか、シルバーのシャープペンシルを勉強机に投げ捨てるように置き、大股でベッドに向かう。
「何個送ってくんだよ」
 文句を垂れながらスマホを起動させ、ショートメールを開ける。
『優光君こんばんは。今日は色々とありがとう。早速、メッセージ送ってみたわ。届いてるかしら?』
『優光君の気が変わらないうちに、私がしたいことを送らせてもらうわね』
『手を差し伸べるかどうかは、それで判断してちょうだい』
『アクアパーク品川水族館。ラクダに乗る。本を読み聞かせる。海を見る。手料理食べて欲しい』
『って感じなんだけど……どうでしょう?』
 連弾で送られてきたショートメールに目を通した優光は、「本を読み聞かせるって、どういう状況?」と、複雑そうに顔を歪める。
『こんばんは。メッセ見た。二つほど可笑しなもんあるけど、お前に付き合うよ』
 手短にメッセージを送り、スマホを持ったまま勉強机に戻る。
♪ピロン♪
「はえッ!」
 電源を落とした瞬間に通知音が響き、優光は目を見開く。
『本当に? 男に二言は……』
 優光は千夏のメッセージに、ない。とだけ送り返す。
 スマホからシャープペンシルに変え、宿題の続きに取り掛かる。どうあっても今日中に五ページ目を終わらせるつもりのようだ。
 学生の夏休みは長いようで短い。
 宿題で地獄を見ていたクラスメイトの二の舞にはなりたくないのだろう。
♪ピロン、ピロン、ピロン!♪
 優光が一問といた頃、短いメロディーが五畳の洋室に響く。
「はいはい」
 優光はメールを確認する。どうやら放置はやめたらしい。
『やった! 嬉しい。ありがとう』
『絵本の読み聞かせは、鳥取旅行とセットなの。その旅行でラクダに乗るのよ』
『ちなみに一泊二日。旅行費は全部私持ちだから、そこは安心してちょうだい』
「と、鳥取旅行だ~⁉」
 嘆くように叫びながら勢いよく立ち上がる。
 その勢いでコマ付き椅子が優光から、少し遠ざかってしまった。
『一泊二日の鳥取旅行なんて聞いてないぞ。先に言えよ!』
♪ピロン♪
『男に二言はない! のよね? 前言撤回はカッコ悪いわよ?』
 焦る優光とは対照的に、どこかほくそ笑むような千夏のメッセージが届く。
 どうやら千夏の方が一枚上手(うわて)だったようだ。
「ぁ、あいつ……マジで性格を疑う」
優光は口元をひくつかせる。
『お前、やり方が汚ねーぞ!』
 優光は悪態をつきながらメッセージを送る。もう宿題などそっちのけである。
♪ピロン♪
『汚いのは致し方ないわ。一応、悪いと思ってるわよ。だけど、どうしても叶えたいのよ』
♪ピロン!♪
 優光が返信を打ち込んでいるあいだに、もう一通ショートメールが届く。
『私には時間がないのよ。一週間だけ付き合って? なんなら、宿題手伝うから』
「宿題の手伝いと割に合わない気がするのは気のせいか?」
 ボヤく優光は文字を打ち込み、送信する。
『いや、いらねーし。宿題くらい自分で出来るし』
『だいたい、そっちの親は許してんのかよ?』
♪ピロン♪
『両親にはOKを貰ってるから大丈夫V! 気にしてくれてるの? 優光君は優しいのぉ』
 テンション高めな千夏のメッセージに、優光の戦闘気力を奪われてゆく。
「大丈夫V! っていくつだよ? 今時聞いたことないわ」
 お手上げだ。とばかりに一つ息を吐く優光は、観念したようにメッセージを送る。
 不毛な争いも話もしない主義だ。これ以上続けても時間も無駄だと感じたのだろう。
『そうか。分かった。不毛な話はもうやめよう。時間の無駄だ』
『で、なにから制覇していくわけ?』
『スケジュール全部教えて。お前に合わせるから』
 そう話題を変えた優光は、仕事疲れしたおじさんのごとく盛大な溜息をつき、引き寄せた椅子にどかりと座る。
♪ピロン♪
『まずは八月五日に、アクアパーク品川水族館! 朝からね』
♪ピロン♪
『八月二十二日から一泊二日の鳥取旅行』
『と言っても、二十一日の夜行バスで出発するから、実質、二泊三日なの。大丈夫?』
『あぁ』
 と愛想のない返信を送り、スマホを机に置いた。
 B6サイズのシンプルな紺色のスケジュール手帳を引き出しから取り出した優光は、八月のページを開ける。
 そのページには、三十一日だけに〇記号が記入されていた。
『よかった。宿泊先は既に予約済み。野宿の心配はなしよ♪ そこでラクダね』
 千夏の鼻歌でも聞こえてきそうな程ご機嫌なメッセージ。
 優光は眉根を上げながら首を竦める。まるで海外ドラマ俳優のような仕草は、洋画好きの父の影響だろう。
「はいはい。二泊三日ですね。仰せのままに」
 と、書き込みやすいと愛用している極細黒色ボールペンで予定を書き込んだ。
 その文字や文字の配列バランスなどの綺麗さから、繊細で几帳面な一面が伺える。
 そもそも、今時の学生が手帳に予定を書き込むことすら珍しい。
 スマホは活用しているものの、レスポンスや打ち込みスピードは遅い。
 そこには多少なりとも、人との関わり合いの少なさが影響しているのかもしれない。
 精神年齢だけでなく、日常生活のそこかしこでも、どこか若者らしさにかける優光であった。
♪ピロン♪
『宿で本を読み聞かせね。なんの絵本がいい?』
「だから、なぜ絵本? マジで意味不明」
 怪訝な顔で首を傾げる。
 どんなに画面を見たところで千夏に問わなければ、その答えが返ってくることはない。
『はいはい。なんでもいい。じゃぁ、また八月五日に。現地集合でいいよな?』
 優光は早々にショートメールを切り上げようとする。
♪ピロン、ピロン!♪
『現地集合、致し方ない。それでよいです』
『じゃぁ、その日ね。絶対来てね! 一人で見るのやだからね!』
 絶対に来るよう念を押してくる千夏に、はいはい。とだけメッセージを送り、スマホの電源を落とす。
 全く乗り気じゃない優光は少しの倦怠感を抱えながら、残りの問題に取り掛かったのだった――。



   †


 八月五日。

 ファミリー層やカップル。友達同士などの来場者で賑わう水族館出入り口前。
 肩がしっかりと隠れる袖に襟のついたシルエット。細い縦の線でデザインされたストライプのシャツワンピースに身を包む千夏は、不安げに視線をさ迷わせていた。
 待ち合わせの十時から五分ほど過ぎたあたりで、千夏の待ち人が現れる。
「優光くーん!」
 安堵した笑顔と共に、両手を上げて左右に振る。まるで小さい子供のようだ。
 千夏の動きに合わせ、水色ワンピースの裾が楽し気に踊る。
 軽く手を上げて反応しながら、マイペースな足取りで千夏の元に向かう。
「ちゃんときてくれてありがと~」
 優光の登場に安堵する千夏は、感動を表すように胸の前で手を握り合わせる。
「拝むな。一応、約束したからな。守るよ」
 優光は冷静に突っ込みを入れ、やや不服さを滲ませながら言った。
「そっかそっか。約束を守れる人は素敵だよ。じゃぁ、行きましょー!」
 勢いよく右拳を突き上げる。
「探検でもしにいくのかよ」
 優光の入れた小さなツッコミは周りのざわめきにかき消され、千夏の耳には届かなかった。


「すっごい人」
 もとより人混みが苦手な優光は、発券機を並ぶ所ですでに肩を落とす。
「夏休みだもの。仕方がないわ。ねぇ、どこから行く?」
 そんな優光をよそに楽し気な千夏は、キョロキョロと視線を動かしていた。
「どこからって、普通は入場ゲートから順に行くもんだろ?」
「そうよね。水族館だもの。これがショッピングモールやデパートとかだったら、最上階から回れるんだけど……」
 千夏は人差し指を顎に当てながら話す。頭の中ではショッピングモールを歩いているのだろう。
「なんで最上階から?」
「その方が効率がいいじゃない。最上階から順にお買い物をして、最後にスーパーで食材買って帰れるでしょ?」
「……主婦みたいなことを言うんだな」
 小さく首を傾げて同意を求めてくる千夏に目を丸くさせる。
「ぇ? ぁ、うん。いい奥さんになれそうでしょ?」
 優光の言葉に少し動揺の色を見せる千夏だが、すぐに笑顔で対応する。
「それだけじゃ分からねーよ」
「それもそうね。ぁ! 順番きたよ」
 二人は発券機でチケットを買い、入場ゲートをくぐってゆくのだった。


 鮮やかに光り輝く魚群達と水槽に投射された映像が来場客を出迎えるエントラス。
「わぁ~。なんだか前きたときと全然違う! 前までは、こんな光と音に包まれてなかったもの」
 千夏は歓声を上げる。
 まるで見知らぬ土地に降り立ったかのように、上半身ごとキョロキョロと視線をさ迷わせる。
「二〇一五年の夏にグランドオープンしたらしいからな」
 そう冷静に答える。
 優光は同年代の子供達より早熟してしまったためか、どこか冷めている気があった。
「え? 何で知ってるの? もしかしてもしかして、今日が楽しみで調べちゃったとか?」
 両拳を口元に当てて茶化すように問う。
「んっなわけあるか! パンフレットに書いてるだろーが」
 優光はすかさず威嚇する犬のように言葉のツッコミを入れる。
 千夏は持っていたパンフレットに目を通し、本当だ! と声を上げた。
「ったく。お前の想像で勝手に決めんなよな」
「チェッ。つまらないの~」
 千夏は幼子のように口を尖らかせる。かと思えば、なにかを思い出したのか、あ! と声を上げた。
「んっだよ。さっきから騒がしい」
 ビクリと両肩を震わせた優光は、うっとおしそうに眉根を寄せる。
「お前って呼ぶの止めてくれる? 私には千夏って名前がちゃんとあるのよ。失礼しちゃうわね~。もう忘れちゃったのかしら? ……可哀そうに。もう老化現象が始まってしまってるのね」
 千夏は泣き真似をしながら、人差し指で涙を拭う振りをする。
「勝手に人をボケさすんじゃねーよ。お前の方が失礼だからな!」
 優光は瞬時に突っ込みをいれて否定する。言葉のお返しまで込めて。
 普段感情を露わにしない優光にとって、ここまで一つ一つの言葉を拾うことすら珍しいことだった。
「お前って言わないで。って言ってるじゃない。もう忘れてるの?」
 優光は千夏の言葉に対し、面倒臭さと苛立ちを抑えるように後ろ髪を掻く。
「はいはい。分かりましたよ、白石さん」
 と、にんまり笑う。どうあっても、千夏。とは言いたくないらしい。
「はい?」
「お前の苗字だろ? 家に送ったとき表札が見えたんだよ。なんか不満か? “お前”って言わなきゃいいんだろ?」
 優光はどこか勝ち誇ったように口恥を上げる。
「そ、それはそうだけど……なんだか、ズルいわ」
「ズルかないだろ」
 どこか恨めし気に自分を見てくる千夏に対し、優光は即答する。
 今回は優光のほうが一枚上手だったようだ。
「ま、まぁ白石でいいわ。お前より全然マシだもの」
 千夏は小さく頷き、自分を渋々納得させた。
「あの~……少し邪魔なのですが」
 四人組女子グループの一人が苛立ちを現しながら、入場ゲート付近で小競り合いする二人に言った。
「え? ぁ、すみません」
 千夏は慌てて入場ゲート付近から距離を取る。優光は軽く頭を下げ、千夏の元に大股で駆けよった。
 二人の間に刹那の沈黙が流れる。
「ったく。さっさと行くぞ。また来客者の邪魔になる」
 優光は入場ゲートから左に曲がる。
「ぁ、待ってー」
 千夏は大股で先を行く優光の後を慌てて追いかける。



 少しの坂を下っていると、右手に大きな海賊船をイメージさせるようなアトラクション遊具が二人の視界に飛び込んできた。
「乗りたい?」
「別に」
 優光はさも興味なさげに答える。
 そもそも水族館自体が乗り気ではないのだから、ここではっちゃけるわけがないのだ。
「じゃぁ行こう。ここで具合悪くなったら困るもんね。行こ行こ~」
「……」
 千夏の解釈はどこか少しずれている。と思う優光であったが、あえてなにも言わずに歩みを進める。
 二人がアトラクションをスルーして歩みを進めていると、上下白を基調とした外壁の中にサンドされた水槽が現れた。
 少しづつ斜めに配置された水槽は、一つ一つ違ったカラーで照らされていた。その中では、泳ぐ小さな魚達が二人を和ませる。
 さらに歩みを進めると、また違った世界が二人を出迎えた。
 まるで月光が照らされた深海に迷い込んだかのように錯覚させられる。
 青を基調とした光に包まれた不思議な世界。プロジェクションマッピングが海の生き物達の美しさを際立たせ、デジタルアートと融合させた世界は圧巻だ。
「すげぇ……」
 優光は小さく声をあげる。
 大規模の水族館に足を踏み入れたことがない優光にとって、全てが新鮮で興味深く映っているのだろう。
 密やかに圧倒されている優光を盗み見る千夏は、柔らかく口元綻ばせた。
「ぁ! あれ乗ろう⁉」
 千夏は優光の背中をバシバシ叩く。その叩き方は、もはやおばさんである。
「ぇ、あ、なに? つーか痛いんだけど」
 光と魚のミュージアムに圧巻されていた優光は、千夏の声と背中の痛みで我に返る。
「あれよあれ!」
 優光は興奮気味の千夏が指さすほうに視線をやった瞬間、げんなりした顔で肩を落とす。
 円状の柵で囲われた中。鉄棒を魂柱のように身体に突き通すイルカやタツノオトシゴやラッコなど、六種類の海の生き物達がくるくると踊るパーティを繰り広げている。
 生き物達は一二mの壁のLEDの光で美しくライトアップされた中で、楽し気な音楽に包まれたメルヘンな世界。
「メ、メリーゴーラウンド?」
 優光はげっそりだ! とばかりに肩を落とす。
「えぇ」
 千夏は嬉しそうに大きく頷いてみせる。とことん対照的な二人である。
「あんな乙女なの乗りたくねーよ。一人で行ってこい。俺は魚を見ている」
 優光は、犬や虫でも払いのけるかのように、しっし! とでもするように、手の平を前後に動かす。
「そんなの許すわけないじゃない。大体、なにが悲しくて一人で乗らなきゃいけないのよ! ほら~、行こうッ」
 千夏は優光の腕を両手で巻きつかせるように掴み、メリーゴーラウンドに向って走り出す。もはや優光に拒否権などない。
「ほら! これに乗ってちょうだい」
 千夏は半ば無理やり優光をイルカの背に跨らせた。
「私はタツノオトシゴ~。って、なんかこれ馬ぽいね」
 千夏は楽しそうに笑いながら、優光の左隣にいた海の生き物に座る。
「やっぱ降りる!」
 付き合いきれないとばかりに、優光はイルカの背から下りようと左足をあげる。
「あぁ~駄目よ! もう動くし危ないわ」
 千夏は左手をめーいっぱい優光に伸ばして止めにはいる。が、優光の身体に触れるまでにはいたらない。
「おま……んっん!」
 お前と言いかけた優光は咳ばらいを一つ。
「危ないのはそっちの座り方のほうだろ? なんで椅子に座るみたいに足揃えて座ってんだよ。つーか、手を伸ばすな。危ない」
「ワンピースで跨るわけにはいかないでしょ?」
 千夏はワンピースを少し広げ、当たり前でしょ? とばかりに首を傾げる。
「またパンツ事情かよ。お前のパンツに誰も興味ねーよ」
「パンツパンツ言わないでよ」
 千夏は頬を赤らめながら、小声で叫ぶ。
「自分もパンツパンツ言ってんじゃんッ」
 二人が小競り合いをしていると、出発を知らせる高い音が一つ響く。楽し気な音楽と共に、メリーゴーラウンドがゆっくりと回り出す。
「ほら、楽しいね」
「楽しかねーよ! 白石のせいで降りそこねただろ」
「なにがそんなに不満なのよ?」
 千夏は不服気な優光に問う。
「いい年した男がメルヘン無理」
 優光は溜息を吐きながら、首を左右に振る。
「いい年した。って言ってもまだ中学生じゃない。だから、そんなに照れなくてもいいのよ?」
 千夏はポシェットからスマホを取り出して、耳を赤く色づかせる優光の姿をカメラに収める。
「んっなもん、撮んじゃねーよ」
 優光は千夏のスマホを取り上げようと手を伸ばす。
「そこの二人組。水色ストライプワンピースの女の子と、ジーンズに白のロックTシャツの二人―。危ないのでちゃんと持ち手に捕まってて下さーい。海の生き物が暴れても振り落とされないようにしっかりと」
 小競り合いする二人に対し、係員から注意のアナウンスが響く。
 他の乗客や次の乗客達が二人を見て、微笑ましそうにクスクスと笑う。
 恥ずかしさで委縮する二人の顔が桜色に染まる。
 その後、二人は大人しく海の生き物と散歩するのであった。


「ったく」
 メリーゴーラウンドが停止した瞬間、優光は逃げるようにその場を離れる。
「ぁ、待ってよ! 置いて行かないでよ」
 千夏は慌てて追いかける。
「まぁまぁ、そんなカリカリしないで? 楽しかったからいいじゃない」
 千夏はご機嫌斜めな優光を宥めるように言う。
「楽しかったのは白石だけだろ。おかげで恥かいたわ」
 優光はガルルルと、牙をむく。
「変な汗かいた。暑い」
 Tシャツの襟元を人差し指で引っかけるように掴み、上下に動かして風を送る。エアコンで冷えた空気が優光の身体に涼を届ける。
「ぁ! あそこでジュースでも買おうぜ」
 優光の案に同意する千夏は早めの休息を取り、2Fも楽しむのだった。



   †


「お腹空いたね」
「もう十二時半だしな」
 優光は腕時計で時間を確認しながら冷静に答える。
「けっこういたんだね」
 水族館から出てきた二人は歩幅を合わせて歩く。水族館パワーによって、二人の距離が少しは縮まったように思える。
「なにか食べて帰ろう。どこ行く?」
「どこ行っても人がいっぱいそうだけど、空腹には負けるし」
 優光はスマホで水族館付近にある食事処を検索する。
「なにかいい所ありそう?」
 千夏は背伸びをして、優光のスマホ画面をのぞき込もうと試みる。
「このへん手軽な店がねーんだよなぁ」
 優光はGOマップで周辺地図を調べる。
 地図はよく利用するのか、手の動きがなんともスムーズな運びだ。
「ここから一五分ほど歩いたところにあるカフェはどう? ファミリー向けだけど、オシャレなところよ」
「どこにあるんだ? 行ったことあんの?」
 千夏の出した案に乗り気の優光は、場所を確認する。
「大崎駅から徒歩五分程の所にあるお店よ。一度行ったことあるから、道案内は任せてちょうだい! そこね、休日メニューのハッシュドビーフオムライスが凄く美味しかったのよ。ぁ、お値段も七百円くらい。お手軽でしょ?」
 千夏はどこか得意げに言いながら、掌を胸にあてる。
「そうだな。まぁ、迷子になってもスマホがあるしな。取り合えず白石についてくよ。お昼時だし急いでもいっぱいだろ」
「信用ないな~」
 まったく~。とでも言いたげに両肩を落とす千夏に、優光は「まぁーな」と笑う。
 その後。
 ファミリー層や若者で賑わうカフェで遅めの昼食をすました二人は、品川駅前でそれぞれの帰路についた。



   †


♪ピロン、ピロン♪
 夜の八時三十分頃、自室にいた優光のスマホが通知音を響かせる。
 少年漫画を読んでいた手を止めた優光は、勉強机の左上に置いていたスマホを手に取り、早々に確認する。
『優光くん。こんばんは』
『今日は一日付き合ってくれて、ありがとう。すっごく楽しかった』
 それはなにより。と打ち込んだところで、優光の手が止まる。
 視線を左斜め上に向け、物思いにふける。
 ほんの少しの時間なにかを考えていた優光は、小さな息を吐くと共に頷く。
『それはなにより。俺も……楽しかった。色々見れて』
 珍しく素直なメッセージが送信されてすぐ、返信が届く。
『嬉しい! メリーゴーラウンドも楽しかったわね⁉』
「げ!」
『それはない! やっぱ言わなきゃよかった』
 千夏を調子に乗らせてしまったと、優光は慌てて返信する。
 続けて、『次は、鳥取旅行だっけ?』と打ち込み送信。
♪ピロン。ピロン♪
『うん。一泊二日って言ったけど、実質二泊三日になっちゃうのよねぇ』
『夜行バス使ったほうがお安いから。それでも大丈夫?』
「あいつって、基本重要なことは後から言ってくるよな」
 とボヤキながらメッセージを打ち込む。
『別に。その週は予定ないからいい。何時に何処集合?』
♪ピロン、ピロン、ピロン♪
『やったぁ~。ありがとう。時間は二十一時三十分』
『場所は東京駅鍜治橋駐車場から出発なの』
『その時間に間に合うように来てくれると嬉しい♪』
 簡潔的な優光のメッセージに対して届くのはご機嫌な返信。
『了解。じゃぁまたその日に』
 優光は次の予定の確認を終えると、早々にショートメールを切り上げたのであった。


 †


 八月二十一日。二十一時二十分。
 東京駅鍜治橋駐車場。

 明るいビタミンカラーのロゴTシャツ。白のフレア素材が涼し気なガウチョパンツに黒のスニーカーを着こなす千夏は、落ち着かない様子で優光を待っていた。
 その手には、二泊三日に必要なものがぎゅうぎゅうに詰め込まれているであろう、大き目のボストンバックをお行儀よく両手で持っている。
 千夏から遅れること五分程――。
 サラリーマンが出張にでも使いそうな無地の紺色が大人ぽいボストンバックを抱え、ゆるい黒のラフパンツと白のフード付き半袖姿をした優光は、どこか気だるげに現れる。
「ぁ! 優光くーん」
 優光の姿に気がついた千夏は左手を頭上で左右に振った。千夏が動くたび、ガウチョパンツの裾がひらひらと踊る。
「優光くん。こっちだよー」
 千夏は嬉しそうに優光を呼ぶ。
「はいはい。ちゃんと来ましたよ。信用ねーなぁ」
 気だるげに小さな溜息を吐く優光のテンションは低い。
「し、信用してないわけじゃないけど?」
「なんでそこ疑問形なんだよ」
 優光は拗ねたような口調で、すぐさま突っ込みを入れる。
「ふふふ」
 千夏が声を出して笑っているあいだに出発時刻となり、二人もバスへと乗り込んだ。
「どっち座る?」
 指定の座席前で優光が問う。
 自然なレディーファースト対応に、千夏は一瞬目を丸くする。
「……聞こえてる?」
「ぁ、ごめんね。聞こえてる。ちゃんと。私、通路側がいい」
 優光の声で我に返った千夏は、慌てて答える。
「了解」
 千夏の意見をくむ優光は、さっさと窓際の席に腰を下ろした。
 千夏は「ありがとう」と言って、通路側の席に腰を下ろす。
 二人を乗せたバスは横浜駅YCAT―海老名。と走り、秦野BSを走行する頃、二人は浅い眠りについた。



   †


 八月二十二日。九時三十分。
 鳥取駅南口でバスは静かに停車した。

 三十分程前に目を覚ましていた千夏は、何事もなく目的地についたことにホッと肩を撫で下ろした。
「優光くん。ついたわ。起きてちょうだい」
 黒色のアイマスクをして、本格的な眠りについていた優光の左肩を優しく揺らす。
「ん、あぁ~」
 少し声の枯れた唸り声をあげた優光はアイマスクを取ると、陽の眩しさに目を細める。
「朝だ……すげぇ。ついてる」
 寝起きの優光はまだ頭が回っていないのか、少し幼さを感じさせた。
「そう、もう朝よ。トータル十二時間程の移動お疲れ様。降りましょう?」
 先に立ち上がった千夏は、息子を優しく起こすような口調で答え、優光が出られる通路を開ける。その間に、他の乗客達が次々に下りてゆく。
「うん」
 眠い目をこする優光は素直に頷き、覚束ない足取りで千夏の後ろをついていく。
「眠い?」
「少し」
 ふぁ~っと大きな欠伸をする優光に肩を竦める千夏は、どこか嬉しそうである。
 バスを下り、足取り軽くコンクリートでできた歩道を歩く千夏。
「これからどうするの?」
 優光は眠たい目を幼子の様に握りこぶしで擦りながら、足取り重く千夏の後ろについて歩く。
「朝食にしましょうか?」
 千夏は肩越しに振り向き、穏やかな笑顔で言う。
「朝ごはん……。どこ行くの?」
 とまらない欠伸を噛み殺した優光は、いつもより少し幼い口調で問う。
「鳥取鉄道記念物公園よ。お弁当作ってきたから、自販機でお茶を買って朝食にしましょう。その後はバスの出発時刻まで時間を潰す予定。その公園の近くには図書館もあるみたいだし、暇すぎて倒れることはないと思うわ」
 千夏の説明に「分かった」と頷く優光は、また一つ欠伸をする。



 鳥取駅裏玄関から約三百メートル程石畳の川沿い。
 歩道を歩む二人は赤色の橋を渡る。その先に、鳥取鉄道記念公園が現れる。
 鉄道関連の記念物はサビている物が多く、時代を感じさせた。だが、しっかりと駅長が存在しているようだ。
 公園内に作られたお手洗いにて軽く顔を洗った二人は、緑が多い清々しい空気を吸う。
「目、覚めた」
 前髪を水滴で濡らした優光が短い言葉で言う。もはや独り言だ。
「それはよかった。顔拭く? 髪とか」
 千夏はうさぎが刺繍されたタオルハンカチを手渡そうとする。
「もう乾いたからいい。前髪もすぐ乾く。夏だし」
 優光はなんとも可愛気なく断る。
 千夏は元に戻ってしまった優光に少し寂しそうに肩を竦める。
「そう? じゃぁ~、お茶でも買って駅舎で食べましょうか」
「あぁ」
 目が覚めた優光の相槌は、見事に幼さを失ってしまった。
 自販機で買ったペットボトルのお茶を手に、二人は駅舎に腰掛けた。
 その二人の正面で三毛猫がにゃぁ~と鳴き、軽やかな足取りで去っていく。
「可愛らしい駅長さんだね」
「あれは、駅長と言っていいのか?」
 楽しそうに笑う千夏に対し、優光は複雑そうに首を傾げる。
「ベンチとかあったらよかったんだけどね~。ちょっと調べミス。ごめんね?」
 千夏は顔の前で両手を合わせ、しょんぼりと眉根を下げた。
「俺は別にいい。白石が平気なら」
 優光は珍しく千夏に寄り添うような言葉をかける。
 ホーム下に落ちた千夏がトラウマになっていないか、恐怖を感じないか、優光なりに気にかけているのだろう。
 それに感づいた千夏は、ありがとう。と優しい口調で言って、嬉しそうに微笑んだ。
「別に」
 優光はどこか照れを隠すかのように、そっけなく答えて、千夏から視線を外す。
「これ、優光くんのね」
 千夏は可愛らしいクマがデザインされた手提げ紙袋から、使い捨て容器につめられた愛情いっぱいの弁当を手渡す。
「ぁ、ありがとう」
 どこか不器用ながらも素直にお礼を言って、首だけでペコリと会釈をする優光は、両手でお弁当を受け取った。
「どういたしまして」
 穏やかな笑みを浮かべた千夏は座ったまま会釈をする。
 千夏が手渡した弁当には、タコさんウインナーやハート型の卵焼き。特製ソースがついたハンバーグ。星型フライドポテト。アスパラ。オクラ。を豚肉で巻いて照り焼きにしたもの。彩りに茹でたブロッコリー。デザートには、キューブ状の大学芋がついている、なんとも子供が好きそうなおかず達がつめられていた。
 千夏は綺麗に重ねた両手を顎にそっとあてる。
 優光も手を合わせる。
「「いただきます」」
 と、二人の声がそろう。それが可笑しかったのか、二人は少し顔を見合して笑う。なんとも微笑ましい光景である。
 少しずつではあるが、二人を包む空気は、温かいものへと変化していた。


「サッカー……ボール?」
 割りばしで器用に持ち上げたのは、五角形にカットされた海苔をサッカーボールにみたて、可愛くデコレーションされたおにぎりだった。
「そうっ。サッカーボール! 分かってくれた?」
 割りばしで卵焼きを摘まみかける手を止めた千夏は、勢いよく優光のほうに上半身ごと振り向く。その勢いで低めのポニーテールに結っていた綺麗な黒髪が鞭のように動く。
 千夏は良いことをして母親に褒めて欲しそうな幼子のごとく、期待の眼差しで優光を見つめた。
「……」
 優光は何も反応を示さない。
 千夏と目を合わせることもなく、どこか切なくも懐かしそうな眼差しで、おにぎりを見つめ続ける。
「ど、どうしたの? もしかして手作りおにぎり食べられない?」
 千夏の表情は一転、焦りと不安の色に染まる。
 いつかの情報番組で、今の時代、家族に握ってもらったおにぎりも食べられない子が多い。という話を思い出したのだろう。
「ぁ、いや食べられる。ちょっと思い出しただけ」
 すぐに返答した優光はおにぎりを一旦元の場所に戻し、チラリと千夏を流し見る。
「それはよかった。……思い出したって?」
「昔のこと。ずっと昔……」
 安堵する千夏の問いかけに対し、優光はそれ以上を答えない。
 悄然するように声が儚い。
 失い方は違うかもしれないが、優光も千夏と同じように大切な人を失っていた。
 ふとした時に思い出せば、寂しさが顔を出すのだろう。
「そっかぁ」
 千夏は深くは聞かず小さく相槌を打ち、この話に幕を下ろした。
 器用にサッカーボールおにぎりをお箸で掴んだ優光は、そっと口に運ぶ。
 口に合ったのか、優光の口角が自然と上がった。
 それを見つめていた千夏は胸を撫で下ろし、微笑みながら頷いた。
「卵焼き……甘い」
 優光は一口サイズの卵焼きを一つ食べ、少し驚いたかのように小さく呟く。
「お砂糖を入れてるからね。嫌いだった?」
 不安げに問う千夏に優光は首を左右に振って否定する。嫌いなんかじゃない。優光にとって甘い卵焼きは思い出の味で、大好きな味なのだから。
「そっか。よかったよかった」
 と笑顔で大きく頷く。
 ぱくりと卵焼きを頬張る千夏は本日もご機嫌である。
「白石の大切な人ってさ、鉄道とか好きだった?」
 優光が初めて千夏のことについて問う。猫とネズミの時代では考えられないことだ。
「うん。昔ね、大好きだった。今はどうかなぁ? 好きだといいけど……」
 最初は笑顔で答える千夏であったが、最後はどこか物思いにふけていた。
「そうだな」
 優光は千夏に少し寄り添うように頷く。
 少しの寂しさが滲みながらも穏やかな朝食を終えた二人は、バスの出発時間までのんびりと時間を潰したのだった。


  †


 一四時三十五分に出発する砂丘線のバスに揺られた二人は、十五時五分に『らくだや』に到着する。若いからこそできるスケジュールである。
「ラクダいたー!」
 千夏は砂丘を歩く四匹のラクダ見つけて指差す。
 砂丘の砂がスニーカーにかかることや、砂が舞うことを気にもとめず、ライド体験できる場所へと走る。まだまだ元気があり余っている様子だ。
「暑い」
 優光はそうぼやきフードを深くかぶる。
 基本学校とおつかい以外で外に出ないため、日差しと暑さが堪えてきたのだろう。
 こちらは体力と気力の限界が近そうだ。
「砂丘で走るとか無理」
 汗で額にはりつく長めにカットされた前髪を、なんとも鬱陶しそうに手で払いのける。
 優光はマイペースさを崩すことなく、とぼとぼと歩く。
 足を進めるたび、砂丘の砂が控えめに紺色のスニーカーにかかっていった。
「すっごい迫力ね」
 初めて見る本物のラクダに圧倒されていた千夏から遅れること一~二分。
「マジでこれ乗れんの?」
 優光はラクダを見て早々、疑念の念を抱く。
「乗れるよ! 私、ちゃんと調べてきたもん」
 千夏は自信満々に答える。
「ぁ! すみませーん」
 手の空いた係員を見つけた千夏は、片手を上げて話しかける。
「どうされましたか?」
 千夏に気がついた人当たりがよさそうな若い男性スタッフが、笑顔で二人に駆け寄ってくる。
「この場所って、ラクダに乗ってお散歩体験できますよね?」
 千夏は不安げに問う。ここまで来て出来ませんと言われたら、千夏は確実に泣き崩れるだろう。
「はい。できますよ。大人二名での騎乗はできませんので、そこはご了承いただけたら……と思います」
 男性スタッフは暑さにも負けない笑顔で答える。千夏はホッと肩を撫で下ろす。
「よかったぁ~。ほらほら~、だから言ったじゃない」
 千夏は後ろにいた優光にドヤ顔をする。それを見た優光は、「なんかムカつく顔」と悪態を垂れる。
「えっと、じゃぁ……ライド体験を二人。お願いできますか? 優光くんも乗るでしょ?」
 ご機嫌な千夏は優光の言葉を軽く受け流し、サクサクと話を進める。
「ぁ、うん……」
 と、楽しそうな千夏の笑顔に圧倒されたかのように、大人しく頷く。が、優光の表情は複雑気だ。
「はい。ライド体験の方はこちらへ」
 二人は二匹のラクダがお行儀よく座っている場所へと、案内させられる。
 スタッフにご機嫌についていく千夏と項垂れてついていく優光。やはり対照的な二人である。
「でけぇ」
 優光は思わず声を上げる。
 二人をライド体験コーナーに案内したスタッフは足を止め、身体全体で二人の方に振り向く。
「ライド体験していただくときには、いくつかの注意点があります。ラクダさんの正面と後ろには立たないで下さい。ラクダさんを撫でるさいは、身体を優しく撫でてあげて下さい。ゆっくりラクダさんに跨ったあとは、けして暴れたり泣き喚いたりしないで下さい。ラクダさんが驚いて暴れる可能性があります。また――」
 スタッフは流れるような口調で説明をする。
 二人は少し恐怖を覚えながらも、ライド体験でラクダに乗らなければ見られない景色や、知りえないことを体感して、思う存分と楽しむのだった。

   †


 一七時〇八分――。

「楽しかったね~」
 本日の宿である格安ゲストハウス。
 和室の個室部屋。
 二人は隣同士に寝ころび、疲れを癒していた。
「これからどうすんの?」
「この宿素泊まりなの。外でお夕飯食べた後、岩美町内にある温泉に入ってから、宿に戻ってこようと思っているけど……お風呂先がいい?」
「いや、後でいい。風呂入って汗かくの嫌だし」
「そうよね。ぁ、このへんねコンビニもスーパーも近くにあるから、お菓子もアイスも買い放題だよ」
 楽しそうな千夏に対し、優光は瞼が重そうである。普段からアクティブに動かない優光にとって、今日はハードスケジュールであったのだろう。
「少しお昼寝してからご飯にする?」
「ん~……」
 間延びした返事をする優光は、ほどなくして穏やかな寝息を立てる。
「優光くん? 寝ちゃったの?」
 千夏は身体を起こし、優光の様子を確認しにいく。
 優光はほんの少し口をあけ、スースーと寝息を立てながら気持ちよさそうに眠っていた。
「眠ってるときだけは、ちっちゃい子みたいで可愛いんだけどなぁ」
 眉根を下げる千夏はバックからグレーのパーカーを取り出し、優光のお腹にそっとかける。
 クーラーで冷やしている部屋だ、少しなにかを羽織っておいたほうが良いだろう。
 千夏は優光から少し離れた場所で身体を横たわらせ、ふぅーと息を吐きながら全身の力を抜く。お疲れモードは千夏も同じだ。
「ちゃんと起きれるようにしとかなきゃ」
 淡いピンク色の手帳ケースに収納しているスマホの電源を入れる。
 重い瞼を無理やり開けながらアラームをかけ終えると、千夏も身体を休めるように浅い眠りにつくのであった。



  †


「なに買うの?」
「アイス」
「私も買おう。ミントアイス」
 ゲストハウス近くのお食事処で食事を終え、岩美町内にある温泉でゆっくりした二人は、優光の意向によってコンビニに立ち寄っていた。
「ふ~ん」
 千夏が手に取るアイスに全く興味を示さない優光に、「どうせ、歯磨き粉の味じゃん。とでも思ってるんでしょ?」と、恨めし気に言う。
「ご名答。まぁ、味覚は人それぞれですから」
「どうせ優光くんは、棒状のソーダーアイスでしょ?」
「正解。なんで分かんの? なんか嫌なんだけど」
 優光は怪訝な顔で千夏を見る。
「私は優光くんのことならな~んでも、お見通しなのよ」
 千夏は、ふっふっふ。と得意げに控えめな胸をはる。
「相変わらず気持ちが悪いな」
 と悪態をつく優光は一人レジに向かう。千夏は置いてけぼりである。
「ミントアイスね。そういえば、あの人も好きだったな……ミントアイス」
 優光が懐かし気に呟いた小さな音は、誰の耳にも届くことはなかった。
「ねぇねぇ、オセロしよー。私ね、持ってきたんだぁ」
 千夏は声を弾ませながら、バックから小さいサイズに設計されたボードゲームを自慢するように掲げてみせる。
「用意周到なことで」
 優光はさして興味なさげに流しみると、買ってきたアイスのパッケージを開ける。
「そりゃ旅ですから」
 声を弾ませる千夏は畳に小さなボードゲームを広げ、いそいそと遊ぶ準備をはじめた。
「アイス食う?」
「もちろん」
「ん」
 小さな相槌を打つ優光はカップアイスと木のスプーンを千夏に渡す。
「ゴミはここに」
 とコンビニの袋も渡す。すでに袋の中には、ソーダーアイスのパッケージ袋が捨てられていた。
「ありがとう。優光くんも座って?」
「ふぁいふぁい」
 ソーダーアイスを銜えたまま少し面倒臭そうに返事する優光は、胡坐を掻いて座る。
「優光くんからね」
 千夏はカップアイスと木のスプーンの封を開け、ゴミを袋に捨てる。
 かくしてアイスを食べながらのオセロ勝負が幕を開けたのだった。




 一時間後――。


「また負けた……」
 千夏はあり得ないという風に項垂れる。
 勝負は三勝三敗。全て千夏が負けている。
「弱すぎ。これで終わりな。もう眠い」
 苦笑いを浮かべる優光は欠伸を噛み殺す。
「そうね。お布団敷きましょうか」
 千夏はボードゲームを片付け、絵本を取り出す。
「ねぇねぇ、ぐ〇とぐ〇でいい?」
 千夏は絵本を嬉しそうに優光に見せる。
「なんでもいいから自分の布団くらい、自分で敷いてくれ」
 興味なさげに答える優光は、千夏のぶんの布団セットを部屋の隅にどさりと置く。自分の布団は出入口付近に置いていた。
「そうでしたそうでした」
 千夏は一旦絵本をバックの上に置いて、布団をセットする。
「なんか遠くないかしら? 端っこと端っこって……寂しくないの?」
「寂しくない。少しは危機感持てば? 別に興味ねーけどさ」
 優光は呆れたように溜息を吐く。
「俺はもう疲れたから寝る。電気は好きにして」
 千夏は早々に布団へ潜る優光に対し、「もうちょっと待ってちょうだい」と、慌てて絵本を手に駆け寄る。
「いやいや、寝るのを待てってどういうことよ? 絵本の読み聞かせだって、子供を寝かしつけるためだろ? 普通に寝むれるし。むしろ、普通に寝かせてくれ」
「まぁまぁ、そう言わないの」
 千夏は優光を宥めつつ、優光の顔の近くで腰を下ろす。太ももの上で本を立て、優光の目に入りやすいように絵本を開く。
「絵本、始まるよ~」
「はいはい」
 優光は欠伸を噛み殺し、千夏の方へ横たわる。
「ぐ〇とぐ〇――」
 千夏はゆっくりと優しい口調で絵本を読む。
 優光は眠い目を何度も擦りながら、最後まで千夏に付き合ってあげるのだった。


「……おしまい」
「おしまい?」
 千夏の言葉に優光はオウム返しをする。
「そう。おしまい。今日一日付き合ってくれて、本当にありがとう」
 と、優しく微笑みながら絵本を閉じる。
「別に。約束したし。ラクダ楽しかったし。弁当も美味しくて、懐かしかった……」
 夢の中へと落ちてしまいそうな優光は、普段より舌足らずな口調で気持ちを素直に表現する。
「それはよかった」
 千夏はホッと肩を撫で下ろす。
「あとは、海だけ……だな」
「そうね。優光くんはなにかやり残したことはないの? 私みたいに。私になにかできることはない?」
「俺は、あの人のプリンが食べたい」
「プリン?」
「そう。プリン。あの人が、来週の日曜日に作ってくれる。って約束してくれたプリン。売っているものよりも少し硬いけど、とっても美味しい。それ、食べたい。もう一度だけで、いい。でも、白石には……絶対に無理だ。味も、香りも……。あの人と……違う、から――」
 優光は望みを吐露しながら重い瞼を閉じ、浅い夢の海へと落ちていく。
「ひーくん。ごめんね……。ずっと一緒にいてあげられなくて」
 千夏は慈悲深き微笑みと共に一筋の涙を溢す。
 瞼にかかる優光の前髪をそっと払い、優光の布団を肩までかける。
「おやすみ。愛してるわ」
 夢と現実の狭間にいる優光には聞えぬ程小さな声で胸中を吐露した千夏は、絵本をバックにしまって布団にもぐる。
「なんで、お前が、ひーくんって呼ぶ……んだよ……」
 布団にもぐる千夏の背中を寝ぼけ眼で見ていた優光は苦しそうにボヤキ、深い夢の海へと落ちていった……。



 翌日。
「おはよう。朝よ。起きてちょうだい」
 着替えなど身支度を全て終えていた千夏は、優光を優しく起こす。
「ん、起きてる」
 優光は嘘が丸わかりの返事と共に欠伸をしながら、モゾモゾと起き上がる。
 千夏はそれを、しょうがないわね。というふうに見守った。
「今日は、どうするの?」
「今日はお土産を少し買って帰宅。一時間でも早く帰ってくるように言われているから」
「なるほど」
 納得したように頷く優光は、大きな欠伸を繰り返す。
 千夏同様に身支度を終えた優光と共に、鳥取を後にした。



 午後一五時。
 東京駅鍜治橋駐車場――。
「じゃぁ、ここで。本当に送らなくて平気か?」
 少しだけ疲れの残り香を感じさせる顔をした優光は、バッグを抱えなおして言った。
「うん。ありがとう。大丈夫。またね。気をつけて帰ってね」
 千夏は笑顔で答え、胸の前で手を振った。
「ん。じゃぁ……またメールして」
 優光は千夏に背を向けて歩き出す。
 千夏はその背中が見えなくなるまで見守り続けていた。その表情には先程あった笑顔の面影はどこにもなく、どこか切なさを感じさせていた。
「ひーくん……」
 儚げに呼んだ音は夏の生温い風に飲み込まれてゆく。
 八月三十一日。朝六時――。

♪ピロン、ピロン♪
 ベッドで眠りについていた優光を、連続した通知音が呼び起こす。
「なに、こんな、時間に……」
 優光は迷惑そうに眉間に皺を寄せる。
 それでもショートメールを無視することなく確認する辺りが、縮まった二人の距離を感じさせた。
『おはよう。早朝からごめんなさい。今日ね、海を見に行きたいの』 
『場所は、稲村ヶ崎。時間は十八時頃。アクセス方法は分かるかしら?』
「稲村城ヶ崎って確か……」
 ふと気がかりが脳裏に浮かぶ優光は、右手で文字を打っていく。
『稲村ヶ崎って、砂の流失が激しいってゆう理由で今は閉鎖されてるはずだけど?』
 メッセージを送信した優光はのそのそと起き上がり、身支度をはじめる。
『えぇ。海水浴場としてわね』
『鎌倉海浜公園稲村ヶ崎地区として設備されていて、絶景スポットとして有名なのよ。だから、安心して?』
 優光は届いた返信に納得し、『そうか。分かった。俺、今日用事があって……遅れたらごめん』と打ち込み、送信する。
♪ピロン、ピロン、ピロン♪
『分かったわ。きてくれるのなら何時でもかまわない』
『だけど、0時は回らないでちょうだい』
『それが私のタイムリミットだから……』
「よく、分からない」
 千夏の返信を訝し気にみた優光は首を傾げる。
 意味不明な返信に疑念を持つ優光だったが、あえて深くは突っ込まずに、『分かった』とだけ送りショートメールを終了させた。



 午後十四時八分。
 神奈川県鎌倉市堀越――。
「一年ぶりだな」
 砂利道を踏み鳴らしながら、優光は歩みを進める。
 右手には桶に突っ込んだ掃除道具一式。左手には買い物袋と小さな花束を抱えている。
 優光が訪れたのは、優光の大切な人が眠る霊園だった。
「きたよ……」
 優光はお墓の前で微笑む。
【二〇××年八月三十一日 永眠】
 今から八年前にここで眠りにつく、優光の大切な人。
 優光はその人を慈しみながら、お墓を丁寧に磨いてゆく。

 

 一八時十五分。
 神奈川県鎌倉市浜稲村ヶ崎。
 数キロ離れた霊園からやってきた優光は、「白石!」と千夏を呼ぶ。
「優光くん!」
 千夏は待ち人の登場に声を弾ませ、右手を振る。
 優光は千夏の元に駆け寄る。その両手には掃除道具や花束を抱えていない。一度家に帰ったのだろう。
「わりぃ。少し遅れた」
 優光は眉間を寄せて眉尻を避けながら謝る。
 額にはじんわりの汗が滲み、まつ毛にかかる前髪が額にはりついていた。
「全然大丈夫。きてくれてありがとう。ねぇねぇ、ココ座って」
「ぁ、うん」
 優光は千夏が座っていた大きな流木に腰掛け、ふぅ~。と、一息つく。
「もしかして、走ってきてくれた?」
 千夏は優光の額に前髪が張り付いていることと、少しだけ上下するスピードの速い肩に気づき、首を傾げる。
「普通」
「そっか。お水飲む? 氷入れてきたから冷たいはず」
 千夏はバックから水筒を取り出してそっと差し出す。
「……」
「ぁ、口付けてないし、毒も入ってないから安心して?」
 複雑そうな顔で口を噤む優光に慌てて言葉を付け加える。
「いや、そこは別に気にしてないし、毒持ってるとかは思ってねーけど。それ、白石のだろ? 俺自分で買ってくるし」
 そう言って立ち上がる優光を止めるように、千夏は優光の小指を控えめに握った。
「私、喉かわいてないから大丈夫。座ってて」
 千夏はどこか懇願するように言った。
「ぁ、うん」
 どこか懇願するような千夏の表情に少し戸惑う優光は、歯切れの悪い返事を返し、流木に座りなおす。
「どうぞ」
「どうも」
 今度は素直に水筒を受け取った優光は、いただきます。と言って冷たい水を飲む。
「うまっ」
 喉を鳴らして水を飲んだ優光は、生き返ったように口角をあげる。
「よかったよかった」
 千夏はそんな優光を見守り、嬉しそうに微笑む。
「ぁ、そういえばお夕飯は食べたのかしら?」
「そういえば食ってない」
 優光は言われて空腹を思い出したのか、左手で細身のお腹を押さえる。
「そうなの? じゃぁ、近くのお店で軽く食べましょう? まだ少しだけ付き合ってくれるかしら?」
「うん。別にいいけど。腹も空いてるし」
「じゃぁ行きましょ~」
 優光は千夏に道案内されるままついていく。
 今日の優光はどこか少し素直だった。
 千夏が優光を連れてきたのは、稲村ケ崎駅から徒歩十分程にあるカレーが名物のお店だった。
 木製のテーブルや机。大きな観葉植物がアジアン風テイストを感じさせるお店だ。
 夏休みの終りの夕食時なのもあり、店内は賑わっていた。
 予約呼び名票に白石の名前を記していた二人は三組待ったのち、店内の一番奥にある四人テーブル席に案内された。
 千夏はドライカレー。優光はポークカレーを注文して最後の食事を共にする。
「ライス少な目で頼んでたけど、足りそう?」
「そりゃ、白石がこの店は量が多いっていうからな。普通に足りた。元々大食漢じゃねーし」
「そうよね。知ってる。でも、昔よりは食べるようになってくれていて安心したわ」
「は?」
 意味不明なことを言う千夏を訝しげにみる。
 千夏は「こっちの話よ」と、軽く流す。
「白石は、その……少しは前向けそう?」
 優光は少し躊躇しながらも、気になっていたことを不安げに問うてみる。
「えぇ。あと一つ叶えたら」
「海を見る?」
 と首を傾げて見せる。
「それもだけど、優光くんに食べてもらいたいものがあるの」
「食べてもらいたいもの? 飯食ったばかりだからヘビーなのは厳しいけど……」
 優光は戦々恐々とばかりに眉根を下げる。
「ふふふ。大丈夫よ。ハンバーグや揚げ物やらではないから安心して?」
 千夏の言葉に優光は、そっか。と肩を撫で下ろす。
 元々大食漢ではない優光だが、もし唐揚げやハンバーグを差し出されたとしても完食しただろう。
 最初は嫌々付き合っていた優光だが、今となっては、千夏に前を向いて歩いて行って欲しいと願っているのだから。
「ここでは持ち込み禁止だから、さっきの場所に戻ってから……と思っているのだけど」
「分かった」
 優光は四分の一ほど残っていたソフトドリンクを飲み干し、伝票を手に席を立つ。千夏は慌てて後を追う。
 二人の間に、夏の終わりを告げる生ぬるい潮風が吹き抜けていった。


  †

  †

「ぁ、さっきの場所空いてるよ」
 千夏は先程二人が座っていた太くて長い流木を指差した。
「本当だ。チラホラと人もいるのにな」
「ラッキーだね。ここ座ってちょうだい」
 流木に腰掛けた千夏は、左隣をポンポンと叩く。
「はいはい」
 少し気だるそうに相槌を打つ優光は、促されるままに腰掛けた。太い流木は二人が腰掛けてもヒビすら入らない。
「食べてもらいたいものは、コレなんだけどね……」
 千夏は少し躊躇しながらも、白のココット皿と使い捨てスプーンを、持っていた紙袋から取り出した。
「なに?」
 首を傾げる優光にそっと差しだす。
 保冷剤を三つ入れていた保冷バックに入れていたため、まだ少しひんやりとしていた。
 差し出されたものを数秒見つめていた優光は、「……プリン?」と、独り言のように問う。その表情にはどこか戸惑いの色を感じさせた。
 ココットのお皿には、クリーム色の物体が平坦に注がれたまま固まっていた。所々気泡が出来ているあたり、手作り感が感じられる。
「そう。プリン。この前言っていたから。それに、約束していたから……」
 俯きながらそう伝える千夏の表情は、どこか儚く悲しげだった。
「別に、約束したつもりねーけど……」
「食べてみて?」
 千夏は優光の言葉を軽くスルーする。
 優光は大切な思い出がたくさん詰まったプリンを差し出され、なんとも複雑そうだ。
 優光は何年もの間、プリンを食べていなかった。大切な人を思い出し、大切な人に会いたくなるからだ。
 それをどこか分かっているような千夏はもう一度、食べてみて。と促す。その声はとても穏やかでありながら、どこか切羽つまっているような焦りを感じさせた。
「……あぁ」
 少し気が乗らない様子で頷く優光は、ココットにかかっているラップをはがす。
「いただきます」
 両手を合わせた優光は、プリンの表面にプラスチックのスプーンをそっと置き、ゆっくりと差し込んだ。
 少しかために仕上がっているプリンは弾力があり、スプーンが滑らかに入っていかない。その感じがまた、優光に懐かしさを感じさせた。
 優光は少し躊躇しながらも、プリンをのせたスプーンをゆっくりと口に運ぶ。
「……」
「ご、ごめんなさい。そんなにまずかった……かしら?」
 スプーンを口に銜えたままピクリとも動かない優光に不安になった千夏は、オドオドしながら問いかける。
 首を小さく振って否定する優光は、なにも言わず二口、三口とプリンを口に運び、時間をかけてプリンを間食した。
 千夏はその様子を静かに見守り続けた。
「うま……かった……」
 少し放心状態の優光は途切れ途切れに伝えながら、空になったココット皿を千夏に手渡す。
「よかった」
 ココット皿を受け取った千夏は嬉しそうに微笑み、安堵する。
「あの人の、あの人の味がした………」
 優光は懊悩するかのように、両手で頭を抱えた。
「うん」
 千夏はなにかを察したように、優しく深く相槌を打つ。
「ショッピングモールの回り方も、ミントアイスが好きなところも同じ。サッカーが好きな俺にあの人はいつも、サッカーボールにデコレーションされたおにぎりをつくってくれた。しょっぱい卵焼きが嫌いな俺には、父さんとは違う甘い卵焼きを作って、お弁当の中に入れてくれたんだ」
 優光は大切な人との思い出を消化しきれず、ポロポロと涙を溢す。
 千夏はなにも言わず、壊れ物を扱うかのようにそっと、優光の肩に手をまわした。
 優光は躊躇しながらも、肩に回された千夏の手に自分の手をそっと添えるように握った。
「ボードゲームはいつもオセロ。ワザとかどうか知らないけれど、半分こね。とでも言うように、左側の角を俺にとらせるのも一緒。絵本の種類も一緒。絵本には書いていない効果音まで勝手につけながら、楽しそうに絵本を読む読み方も一緒。いつも固めに仕上がるカラメルと手作りプリン。一緒だった。味も、香りも……」
「えぇ」
 思い出と共に幼子に戻り始める優光に、千夏がはじめて同意するような相槌を打つ。
「本当はさ、白石千夏って名前なんかじゃなくて、本当は鮫島……ッ!」
 千夏は優光の言葉を遮るように、人差し指をそっと優光の唇につける。まるで、その先は言ってはいけないのよ。とでもいうように。
「ねぇ、僕の、僕の名前の由来言ってみてよっ」
「貴方の名前は、鮫島優光くん。優しい光で、たくさんの人を照らしてあげられる人になってほしい。そう願いが込められた名前……。あだ名は、ひーくん」
 千夏の言葉にバラバラだったピースが埋まっていったのか、優光の瞳から止めどなく涙が溢れだす。
「本当に? 本物なの? どうして?」
 優光は千夏の両肩を掴んで何度も問いかける。
 焦りと不安と喜び――色々な感情が混ざり合う優光の心は乱される。もうクールな仮面などつけていられない。まるで、優光本来の姿へと戻っていくようだった。
「ひーくんが願ったから。あの日からずっと、お母さんに会いたいと願っていたから。そんな子をおいて旅立てないでしょ? だってひーくん、ずっとお空に行きたいって言うんだもの。そんな風にされたら、誰でも心配するでしょ? ちゃんと生きてくれなきゃ駄目じゃないッ」
 千夏は優光をそっと抱き寄せる。
 嗚咽を押し殺して涙を流し続ける優光は、千夏にしがみついた。まるで、もうどこにもいかないでと駄々をこねる子供のように。
「ひーくん、大きくなったね。私もう、ひーくんを抱っこしてあげられないわ」
「ぉ……おかあ……さん?」
 優光は震える声で、途切れ途切れに問いかける。
「かも、しれないわね」
 千夏は断言はしない。
 それでも優光は確信していた。目の前にいるのは千夏ではないことに。千夏ではあるかもしれないが、そこにいるのは、紛れもなく母であることを。
 そして思うのだ。
 これは弱い自分がかけてしまった、人の魂を成仏させずにこの世にとどめてしまう、純粋な呪いなのだと――。


 †


 ひとしきり泣いた優光達は顔をあげる。
「酷い顔ね」
「そっちもね。うさぎもビックリだよ」
 顔を見合わせた二人は小さな笑い声をあげる。
 その音はどこか切なく、どこか温かい。
「私、そろそろ行かなきゃ」
 千夏はそっと立ち上がる。
「待って!」
 優光は慌てて千夏の腕を両手でつかむ。
「僕を、置いて行かないで。僕も、一緒につ……!」
「駄目よ」
 千夏は強い口調で優光の言葉を制止させた。
「ひーくん、それは駄目よ。絶対にできないわ」
「どうして!?」
 駄々をこねる子供のように声をあげる優光は、置いて行かれないように勢いよく立ち上がった。
「ひーくんがこの世界で生きているからよ。生きていかなきゃいけないからよ」
 千夏は強い口調で伝えるが、その声は震えていた。
「でも、僕はッ」
 千夏は優光の唇に人差し指をそっとあて、その先の言葉を遮る。
「ひーくんは何歳になりましたか?」
「……一四歳」
 千夏の問いに躊躇しながら答える優光はどこか不服気だ。
「そう。八月三一日に私がいなくなって、もう八年の月日が立ちました。私、ずっとひーくんをお空から見ていたわ。毎日大泣きしている姿をみて、私も空から泣いていたのよ。ごめんね。って何度も謝っていたの。
 ずっと、ひーくんを抱きしめてあげたかった。約束していたプリンをつくってあげたかった。ひーくんとお話したいことも、行きたい場所も、まだまだたくさんあった。なにより、もっともっとひーくんと同じ時を過ごしていたかった。だけど、できなかった……。ごめんね。
 十歳を過ぎたあたりから、ひーくんは泣かなくなってしまった。まるで心を閉ざしてしまったように、人と深く関わろうとしなくなってしまった。喜怒哀楽も薄くなってしまって……。早熟させてしまって申し訳ないと思っているわ」
 千夏は滂沱しながら言葉を紡ぐ。
「だったら! だったら、もっとこの世界にいてよ。まだ一緒にいたい。もう行きたい所はないの? 話したいことは? 僕はあるよ?」
 優光は千夏の二の腕をがっしりと掴んで揺すった。
 泣き腫らした瞳からはまた涙が零れ始める。
「駄目よ。この子に悪いわ。それに、私はもう充分よ? ひーくんがお腹の中にいたとき、お父さんとあの水族館とカフェに行ったことがあるのよ。お腹の中にはひーくんもいたのよ。ひーくんが無事に産まれて大きくなったら、また家族で来ましょうね。って約束していたの。
四歳の頃に読んであげた絵本。そこにラクダに乗っている少年がでてきて、ひーくんはラクダに乗ってみたいって、ずっと言っていたわ。だけどラクダに乗るのにはまだ幼くて、もっと大きくなったときに行きましょうね。そう約束していたの。覚えてるかしら?」
 千夏は懐かしそうに目を細めながら話す。
 千夏――母の問いに優光は言葉をつまらせ、複雑そうな顔をした。高速で記憶の歯車を巻き戻そうとするも、幼すぎる記憶は戻ってはこない。
 その様子を見守っていた千夏は、微笑ましそうに声を上げて笑う。なんて穏やかで優しい音だろう。
「ごめん……」
「いいのよ。別に」
 千夏は砂を踏み、海へと足を進める。優光もそれに続いた。
「ねぇ、この子に悪い。ってどういう意味なの?」
 優光は先程の言葉が気になり問うてみる。
「この子の身体をかりているからよ」
「もっと分かりやすく言ってみて」
 千夏の言葉を読み解くことが出来ず、理解できる言葉を求める。
「この子の魂は三ヵ月前、私と同じ場所に届いた。だけど、身体はベッドの上で眠っていたの。本人が望めば助かる可能性のある命よ。どうして戻らないのかと聞いたらね、ひー君がここにいないか調べてから戻るって」
「どういうこと?」
 怪訝な顔で問うてくる息子に、千夏は話を続けた。
「その子はね、ひーくんに助けられたことがあるんですって。あらためてお礼が言いたくて、ずっとひーくんを探していたらしいの。名前は『(かなで)千花』ちゃん。千花(ちか)ちゃんの話を聞いて、ひーくんのことだと分かったわ。いけないと分かっていたけれど、天界の違反であることは知っていたけれど、その子の器を貸してもらったの。
人は天界へ旅立つとね、輪廻転生を繰り返して、新たな魂としてこの世に生れ落ちるの。その為には、今まで持っていた名前は必要がないと奪われてしまう。新たな名を手にするためには必要なことなんですって。
 千花ちゃんは恩返しになるのなら――と、快くかしてくれたわ。私の命日までね。二十四時〇〇分。それが私のタイムリミット。そして、その子が元の世界に帰る時間。分かってくれたかした?」
 丁寧に説明する母の話を素直に信じることができない。
「そんなことって……」
 現実を受け入れらないと、首を左右に振る。
「そんなことがあるのよ。世の中は不思議なことがたくさん。悲しいことが多い世界だけど、同じくらいの奇跡が溢れた世界。その世界で私達は生まれ落ちた。私が生まれたのも大きな奇跡。大人まで生きて、ひーくんのお父さんに出会って、恋をして、結婚をして、ひーくんが私の元にきてくれた。たくさんの大きな奇跡が紡がれて、今があるの。それを思うと、魔法のような奇跡がおこっても、不思議ではないでしょう?」
 千夏はどこか優しく言い聞かせるように言って首を傾げて見せる。
「……そうかも、しれないね」
 優光は素直に頷くことはできないが、過去の自分も含め、今まさに奇跡の力を体感しているのだと、現実を受け入れるように言う。




 二三時五〇分――。

 千夏は歩みを進め、海の中へ入っていく。
 優光は千夏の後ろをついてゆく。
 二人の服は急速に海水が含み、身体にまとわりつく。
 胸下あたりまで海水がつかるところで、千夏はピタリと歩みを止める。
「どうしたの?」
 向かい合うように千夏の前に立った優光は不安気に問うた。
「お迎えがくるのよ」
 長い息を一つ吐いた千夏は、優光の目を見てハッキリと伝えた。
「お迎え? もう、会えないの?」
 穏やかだった優光の表情は一気に、焦りと恐怖の色へと塗りつぶされる。
「そうね。でも、お空の上からずっと、ず~っと……ひーくんのことを見守っているから」
「嫌だ。やだやだやだやだッ! ずっと一緒にいたい。傍にいてくれなきゃやだ!」
 赤ちゃん返りをする優光ががぶりを振った。
 幼き頃に無理やり引き離された千夏がまた、自分の傍から消えてしまう。そのことが優光を深い闇へと落とす。
「駄目よ。魔法はね、ずっと続いてはくれないの。魔法の力で人は前に進み、強く生きるの。それができるように、神様は魔法をかけてくれるのよ。ときに気まぐれなのが、たまに傷なんだけどね。だから、ひーくんも強く生きてちょうだい。じゃないと私は、ずっとこの世界をさ迷うことになってしまうわ。私がちゃんとお空の上から、ひーくんを見守ってあげられるように、強く生きて? 私も、強くなるから。約束」
 優光は差し出された小指に自分の小指をそっとからめた。
「ぼ、僕が強くなったら、お母さん、嬉しい?」
 歔欷しながら問うてくる息子に千夏は、「えぇ。とても」と、口元を綻ばせる。だがその瞳には、寂しさと悲しさが住み着いていた。
「わ、分かった」
 優光は左腕で涙を乱暴に拭い、鼻水をすすった。その様子を見ていた千夏は肩を竦める。口角は上がっているが、目の端にはまた涙が浮かんでいた。それでも、涙を流すことを我慢していた。
 強くなって欲しいと願うのに、自分が先に弱くなってはいけないと思ったのだろう。
 二三時五十八分――。
「じゃぁ、私いくわね。お父さんと仲良くしてね」
「……ぎゅって、ぎゅってしてくれたらいいよ」
「もぉ~。約束したばかりでしょ?」
 千夏は息子の最後の甘えに対し、少し呆れ口調になりながらも、優しくそれに答えた。
「これが、最後だから……」
「そうね……」
 二人は音もなく涙を流す。
 そんな二人の周りを囲む水面が、ゆるやかに年輪を作ってゆく。
 優光は泣いていたらいけないと、親指で涙を拭った。
「ひーくん、愛しているわ。私の元にきてくれてありがとう。生きてくれてありがとう」
 千夏は悲痛な声を押し殺すように伝える。
 自分よりも随分と身長が高くなった息子の肩口に、泣き顔を隠すかのように顔を埋めた。パーカー付きのホワイトTシャツが零れ落ちる涙によって、色が変化していく。
「お母さん、今までありがとう。お母さんは僕にとって、世界で一番大切な人だよ。 本当にありがとう……」
 沈痛な面持ちで瞳を潤ませる優光は、千夏を抱きしめる腕の力を強くした。
 どこにも行ってほしくない。自分の元で生きて欲しい。そんな思いが自然と腕の力に変わるのだろう。だが優光は我儘も無理も言わなかった。全てを受け止め、強く生きていくと決めたのだ。
 年輪の中央にいる優光達を飲み込むように、海水が下がってゆく。二人はそれを静かに見つめ続けていた。




 これは呪いだ。
 息子が母にかけてしまった、世界で一番純粋な想いをした呪いだ。


 これは魔法だ。
 神様がいたずらな計らいでかけた、世界で一番切なくて優しい魔法なのだ――。
 千夏は戻ってきた。深くて暗い黄泉の国へと。
 闇の中に強い光が一つ浮かび上がる。(かなで)千花(ちか)の魂だ。
 千夏は千花の魂と向き合うように、正面に立った。
「愛ある夏を過ごせましたか?」
 千花の魂は千夏に問う。柔らかで落ち着いた口調でありながら、ソーダーのように爽やかな一生のある声音だ。
「えぇ」
 千夏は深く頷く。
「息子さんとの再会はどうでしたか?」
「そうね〜……」
 千夏は視線を左斜めに向け、息子と再会した日のことを思い起こす――。


♪ミーンミンミンミーン♪
 久々に生で感じるセミの大合唱。悪魔のように照り付ける太陽が皮膚を焼いていくような感覚。
 車の走行音に、人々の話し声。木々や風達のざわめき。自然の匂いと排気ガスなどの人工的な匂い。
 五感で感じる全てが、少女にとっては生きている実感となり、懐かしさに歓喜するものだった。
 優光の母親の魂は今、奏千花の器を借り、白石千夏として、現世界へ降り立っていた。

 愛すべき息子に、もう一度会うため。
 愛すべき息子と、やり残したことをするため。
 愛すべき息子との約束を果たすために――。



 下校時間でセキュリティーが甘くなる寺院の木学園に、白のマリンセーラー服姿の少女が一人潜り込む。白石千夏だ。
 ほとんどの生徒達が帰宅していたため、騒がれることもなく、千夏が会うべき人の元へとすんなり行けた。
「ぁ! いた」
 渡り廊下を歩く少年、鮫嶋優光に気がついた千夏は、思わず小さな声を溢す。
「っ」
 千夏は慌てて両手で口元を覆った。ここでバレるわけにはいかないのだ。
 自分を落ち着かせるよう小さくて細長い息を吐いた千夏は、抜き足差し足で優光の背中について行く。
♪ラララン~ラララン。ラララッンラッン、ララ、ラッン~……♪
 優光は凛とした声で淡々と口ずさむ。そのどこか切なく懐かしさを感じさせるメロディーに、千夏の脳裏にある光景がフラッシュバックする。
「この曲……ベビーベッドに取り付けていたオルゴールの曲じゃない」
 ベビーベッドですやすや眠る我が子の思い出と、成長した息子の姿。思い出の曲を口ずさむ息子に対し、千夏は胸と目頭が熱くさせた。
「なっ!?」
 温かい感動も束の間、優光は屋上の鍵を器用にピッキングして開け放つ。千夏は思わず飛び出して制止してしまいそうになるが、グッとこらえて様子を見守った。
「あのスピードに手つき……常習犯じゃない。そんな子に育てた覚えは……って、言えるほど一緒に過ごしていないわよね」
 表情を曇らせる千夏の姿を知る由もない優光は、悠々と屋上へ足を踏み入れた。
 夏特有の息がつまりそうな温度と風が階段に吹き抜けてゆき、扉という防音を無くしたセミの大合唱が、千夏の耳奥に嫌というほど響き渡る。
 千夏は慌てて息子を追った。
 視界に映るのは、熱された緑色のフェンスを乱暴に掴み、苦痛に顔を歪ませた優光の姿だった。
「……死にてぇ」
 無表情で吐き出された言葉に千夏は息を飲む。
 千夏は黄泉の国からずっと優光のことを見守っていたため、優光の行動も口癖も全て知っていた。知ってはいたが、肌で感じるのとはわけが違う。
 千夏は灼熱から来る汗と冷や汗が混じり合う雫を額から拭い去る。ここで冷静さを失うわけにはいかなかった。
「ねぇ。それ、本気で言ってるの?」
 どこか苛立ちを含む声音を優光の背に投げかける。
 千夏は優光が本気で言っていないと分かっていた。分かっていたけれど、もしもの恐怖が脳裏に過り、指先を震わせる。
「⁉」
 優光は身体全体で勢いよく振り返る。
「本当は、そんなつもりないのよね?」
 千夏は驚く優光に続けざまに問うが、その答えが返ってくることはなかった。
「……誰、お前?」
 訝し気な瞳。威圧的な声音が千夏に降りかかる。
 千夏は小さく息を飲み、ほんの少し後ずさる。
 分かっていた。否。分かっているつもりだった。
 この姿では自分が母親だと分かってもらえないことも、千夏の姿を見ても何も思わない優光のことも。幼子の時よりも可愛げがなくなってしまったことも全て、全て理解しているつもりだった。
 だが、愛すべき息子にそんな風に言われてしまえば、目の当たりにしてしまえば、ショックは隠しきれない。自分の事を知らないという息子に、千夏はゆっくりと口を開く。
「貴方は“今の私”を知らないでしょうね。だけど、“昔の私”なら知っているはずよ? 貴方がそれを忘れているだけ。もしくわ、忘れようとしているだけ……」
 それは、ある意味の真実。
 今の私=奏千花。の身体を借りた、白石千夏を名乗る姿。
 昔の私=自分の身体と名前をちゃんと持っていた生前の自分であり、優光の母としての姿。
 そんな意味合いが含まれた言葉の真意など、優光に気づけるわけもない。
 優光にとって、白石千夏と名乗る少女でしかない。しかも、自分の名前やあだ名や年齢などの簡単なプロフィールを手に取るように話す姿は、ただのストーカーにしか見えない。
 話はないと去っていこうとする優光に負けじと、千夏は食い下がった。
「お前に何が分かる? 『死にたい』。この言葉の根っこの部分すら読み取れない奴に、ダラダラ説教を垂れられたくない。二度と俺に近づくな!」
 きつい口調で言い放つ優光は足早に、千夏の元から去っていく。大切な人に気づきもせず、自らその人の傍を去っていくのだ。
 その去り行く背中を見つめていた千夏は、「言葉の根っこの部分を読み取れていないのは、どっちの方よ」と嘆くように呟く。
 千夏の瞳が涙で滲み、陽炎のように世界を歪ませる。悔しさ。悲しさ。切なさ。歯がゆさ。だけど一番は……。
「ひー君……」
 大切な息子がちゃんとこの世界で生きていたこと。もう一度、大切な息子と会えたこと。その計り知れない喜びと感謝の気持ちは瞳から溢れだし、千夏の頬を伝い、焼け付くコンクリートを濡らした。



 黄泉の国――。

「ふふふ。最悪で最高の再会だったわ」
 千夏は目の前で楽し気に浮遊する千花の魂に、声を弾ませながら言った。
 そんな千夏を見た千花の魂が柔らかな笑い声をあげる。
「ふふ。最悪で最高の再会から、最高の夏休みになりましたか?」
 千花の魂は思い出話の続きを催促するように問う。
「そうね~……」
 千夏は写真アルバムをめくるように、アルバムの続きを話し始める。
 追いかけっこを終えたネズミと猫のような二人は、ホームのベンチに腰掛けていた。千夏と優光だ。
 追いかけられているうえ、一夏を共に過ごせといわれる意味を問う優光に、千夏は少し間を置いて話しだす。その声音はいつもよりも低い。
「……。私には、とても大切な人がいたの。私の命より大切な人よ。だけど、その人は私の目の前から消えてしまった」
 千夏が言うとても大切な人。それはもちろん、今まさに、千夏の目の前にいる優光のことだ。ハッキリ言ってしまいたいけれど、けしてそうはしない。優光に混乱や恐れを与えたくはないのだ。
 何より、本当のことを話すことによって、優光が本気で自分の元を去ってしまったら、自分の目的は達成されずに終わってしまう。そうなればこれから先の人生、自分も優光も過去の中で生きていくことになってしまう。それだけは避けたい千夏は、丁寧かつ慎重に言葉を紡いでいった。
「その人に私の声は届かないし、その人の体温も感じることも出来ない。天と地で分かれてしまったから当然ね」
 千夏の声が微かに振るえる。
 天と地。天上で魂を浮遊させ続ける自分と、地上で生きる優光。
 けして触れ合うことが出来ぬ距離に離れてしまった自分達を思うと、胸が苦しくなるのだろう。
「私はその人とまだまだ話したいこともあったし、行きたい場所もあった。なにより、もっともっとその人と同じ時間を過ごしたかった。だけど、私の時間は止まってしまった。そこからずっと、私は動けずにいるわ……」
 千夏は八年前、不運なひき逃げ交通事故にあって命を絶たれた。
 幼い我が子を残し、一人だけ天上の最上へ旅立つことなど出来なかった。
 黄泉の国でずっと嘆き苦しみ、千夏の時間だけが止まってしまったのだ。その時間を動かせることが出来るのは、目の前にいる息子だけだった。
「その人と貴方は瓜二つ。貴方を見ているとその人を思い出すの。貴方と一緒の時間を過ごせば、私はきっとまた前を……」
 瓜二つなどではない。大切な人そのものなのだ。だけど、今ここでハッキリ言うわけにはいかなかった。そのため、優光に言葉の真意が伝わることはなかった。
「ようは、そいつの代わりになって、お前の未練を断ち切らせろってことかよ?」
 苛立ちの音が千夏の耳奥に響く。完全なる勘違いだ。だがそれを否定することは、その時の千夏には出来なかった。
 馬鹿らしい。と去っていく優光に千夏は慌てた。
「貴方は私と一緒じゃないの? 貴方も未練があるのでしょう? 貴方の死にたい、という口癖の本質は、『会いたい』だものね。天に旅立てば、貴方の会いたい人に会えるかもしれないもの。でも、死ぬのは駄目。絶対に」
 強い口調で伝えるそう千夏は、瞳だけは逃げないとばかりに、視線を優光に向け続けた。
 優光は背を向け去っていく。
 千夏はもう二度と大切な人を見失いたくない。手放したくない。とばかりに後を追いかけた。
 不運な事故が連鎖してゆくように、優光の身体がホーム下へと倒れてゆく。もちろん千夏は全力で助けた。我が子は自分の手で守る。死なせはしない! そう強い意志で。
「ッ!」
 優光のかわりにホーム下へと身体を鎮めることになった千夏は、痛みに顔を顰める。
(やってしまった。借り物の身体なのに)
 千夏は千花に身体を借りていたことを思い出し、顔を青白くさせる。
 女の子の身体を傷モノにしては大変だ。何より、この身体を生きて返さなければならないのだ。
 千夏は焦って身体を起こすが、足首に激痛が走り蹲ってしまう。
「誰か非常停止ボタン押してくださいッ!!」
 優光の叫び声が千夏の鼓膜を震わせた。
 その指示に、千夏は自然と口を綻ばせる。


 八年前に一緒に読んだ電車の本。
 色々な電車の紹介や、電車のパーツの説明が掲載されている、子ども向きの専門辞書のような本。電車好きの幼き優光がよく好んで、本のページを開いていたものだ。
 その本の中に、もしお友達がホーム下に落ちてしまった場合どうするの? というコーナーに掲載されていた“非常停止ボタン”の説明。
 優光はちゃんとそれを覚えていて、冷静に実践したのだ。
 千夏は息子との思い出のピース一つと、息子の成長に、思うものがたくさんあったのだろう。


 優光の冷静かつ的確な対応により、命が助かった二人は家路を歩く。
 足を怪我した千夏をおぶさる優光は無言だ。何かを考えているのか、難しい顔で口を真一文字に結んでいた。
(この子の背中、いったいいつからこんなに大きくなったのかしら? 女の子一人背負えてしまうほど、守れてしまうほどに……)
「背中、広いね」
 自然とそんな言葉が零れ落ちる。と共に、我が子の成長を直に感じた千夏は、音もなく一筋の涙を溢した。
(昔は私が貴方をおんぶしていたのにね。毎日何度もおんぶや抱っこをねだってきていた貴方が、今はこんなに男らしくなったのね。強くなったのね)
 そんな心情で流す涙を痛みからくる涙と勘違いする優光に、千夏は口元を刹那、そっと綻ばせる。
 押し黙っていた優光が、何がしたいわけ? 貸しは作りたくないからお前に付き合うことにした。と、口を開く。
 千夏はその言葉に、やっとスタートラインに立てたのだと心から安堵する。
「あの人と出来なかったことをやりたい……全部やりたい」
 千夏がそう素直に答えると、優光は複雑そうに顔を歪ませた。
「俺は、そいつの変わりになればいいのか?」
 その言葉が千夏の心を差す。
 優光の代わりなど、世界中のどこを探してもいない。だがそれを伝える術は、今の千夏にはなかった。
「そう思われても仕方がないけれど、私にとっては代わりじゃない。どうしてなのか、今は言えない」
 千夏はそう答えるだけでせーいっぱいだった。
 優光は深くは踏み込んでくることはしない。それどころか、諦めかける千夏に言葉の手を差し伸べた。千夏はもちろんその言葉の手に縋りつく。
 この瞬間、世界で一番切ない魔法がかかる。そして、母と息子、最後の夏物語の序章が終わりを告げ、新たな舞台の幕が上がる瞬間だった――。


  †

 アクアパーク品川――。

(ちゃんと来てくれるかしら……)
 期待と喜びに胸を躍らせながら、心の片隅で優光がちゃんときてくれるのか不安を抱える千夏は、優光を待っていた。
 待ち合わせ時刻から五分過ぎた頃、千夏の瞳に優光が映る。
 インディゴ色のジーンズ。フード付きの半袖に薄い白シャツを着た少年――鮫島優光は千夏に気づき、軽く手を上げる。
 マイペースな足取りに焦りは一つもない。このデートにやる気もない。それでも、太陽嫌いな引き籠り少年が約束を果たすため、ココまで足を運んだ。それだけで千夏には凄いことだった。
「ちゃんときてくれてありがと~」
 いつもより高くなる声色とその言葉は、千夏の喜びと安堵が滲みだしていた。感動のあまり、胸の前で手を握り合わせる始末だ。
「拝むな。一応、約束したからな。守るよ」
 やや不服さが滲む口調とぶっきらぼうな態度で答える優光の姿を、困った子ね。とでも言いたげに千夏は微笑む。
 幼き日の優光はいつも、約束は絶対守るんだ! という公言通りに約束を守っていた。その姿と目の前の優光がリンクし、千夏の心をあったかくさせる。
 入場ゲートを潜った二人を鮮やかに光り輝く魚群達が出迎える。
 水槽に投射された映像が来場客を出迎えるエントラス。
「わぁ~」
 千夏の口から自然と歓声が零れる。
 それもそのはずだ。千夏がもう一人の愛すべき人である夫と、お腹の中で眠る小さな小さな優光とここを訪れてから、一四年の年月が経っている。それ以来、千夏がここへ訪れたことはない。
 千夏は八年前。小学校に上がった優光の夏休みに家族でここを訪れようと、夫婦で計画を立てていた。だがその計画は果たされることはなく、千夏は天へと旅立ってしまった。それゆえ、心残りの一つとなっていたのだ。
「二〇一五年の夏にグランドオープンしたらしいからな」
 はしゃぐ千夏を尻目に優光が冷静に答える。
 同年代の子供達より早熟してしまったために、どこか冷めている気がある息子の姿。千夏の心がチクリと痛む。
「え? 何で知ってるの? もしかしてもしかして、今日が楽しみで調べちゃったとか?」
 千夏は優光を茶化す。
 少しくらい冷めた目で見られても、手厳しい言葉が返ってこようとも、千夏はけしてめげない。
 少しでも笑顔が見たい。色々な顔を見せて欲しい。同年代の子供達のように、感情や表情豊かになって欲しい。と願う千夏は率先してその場を楽しむ。もちろん、心の底からこのひと時を楽しんでいたのは事実だ。
 入場ゲートをくぐって少しの坂を下っていると、右手に大きな海賊船を彷彿とさせるアトラクション遊具が二人の視界に飛び込んでくる。
「乗りたい?」
 千夏はアトラクションを指差しながら問うてみる。
 優光はさも興味なさげに「別に」と答える。
 イエスの答えが返ってくると思っていた千夏は、予想外の答えに刹那、面を喰らってしまう。
(昔はアトラクション乗りたーい! って、泣いて叫んで、私達を困らせてたのに……)
 千夏は幼少期の面影をなくした我が子に、チクリと心を痛める。だがここで立ち止まっていても仕方ないと、気持ちを切り替える。
「じゃぁ行こう。ここで具合悪くなったら困るもんね。行こ行こ~」
 千夏は明るい声を上げて先頭を歩いてゆく。ちゃんとついてきてくれる優光の気配を背中で感じ、千夏は口元を緩ませる。
「ぁ! あれ乗ろう!?」
 千夏は良いモノを見つけたとばかりに、光と魚のミュージアムに圧巻されていた優光の背中をバシバシと叩く。
 海の生き物とデジタルアートが融合された世界に魅了されていた優光は、何事だと驚く。千夏はお目当てのモノを指差してみせる。
 円状の柵で囲われた中。鉄棒を魂柱のように身体に突き通すイルカやタツノオトシゴやラッコなど、六種類の海の生き物達がくるくると楽しげに踊るパーティーが繰り広げられていた。
 生き物達は、一二mの壁のLEDの光で美しくライトアップされていて、華やかかつ、美しく輝いていた。楽し気な音楽に包まれたメルヘンな世界。なんとも、ゆめかわいいメリーゴーラウンドである。
「あんな乙女なの乗りたくねーよ。一人で行ってこい。俺は魚を見ている」
 拒絶する優光を、千夏は無理やりメリーゴーラウンドに連行していく。
 そして半ば無理やり優光をイルカの背に跨らせ、自分はタツノオトシゴの背に乗っかる。多少の小競り合いの末に勝ち取った千夏は、ゆめかわいいメリーゴーラウンドタイムにご満悦である。
 八年前の優光初めての春休み。
 千夏は夫と小さな優光。家族三人で遊園地に訪れたことがあった。
 その時の優光は、船が空中を上下するアトラクションやジェットコースターに乗るんだ! と意気揚々としていたが、身長が足りずそれは叶わなかった。
 それでも優光が乗りたいと泣き叫んだのは、千夏の苦い思い出の一つだった。
 大きくなったときに遊びに来ようと約束していたのだが、先程のアトラクションには興味を示さなかったので無理には進めなかった。もし嘔吐でもしたら、楽しむことが出来なくなってしまう。
「ほら、楽しいね」
 不貞腐れたようにイルカの背に跨った優光に、千夏が満面の笑顔を向ける。
「楽しかねーよ。白石のせいで降りそこねただろ」
 優光は吐き捨てるように答える。ほんのりと耳が赤く色づいていた。相当恥ずかしいようだ。
 その様子を見た千夏はふふ。と、穏やかな笑みを浮かべる。
 八年前の春。
 アトラクションに乗りたい! とぐずり続ける優光を慰めるように、馬のメリーゴーラウンドにつれていったことがある。
 もちろん、幼き優光は一人で乗ることが出来ず、千夏が包み込んで守るように一緒に乗ったのは、言うまでもないだろう。
 それが今では文句をたれながら、一人でアトラクションに乗っているのだ。しかも持ち手のポールを持つこともない。両足が床についている。
(昔は一緒にお馬さんのメリーゴーラウンドに乗っていたのに……今はもう私の補助なしで乗れるようになったのね)
 千夏は胸の内で、我が子の成長に喜びと安堵した。それと同時に、我が子が手元を離れていったような淡い切なさを感じ、少しの寂しさを感じた。
 パンツの小競り合いの末に、大人しくメリーゴーラウンドに乗る息子を見守る千夏は、微笑みながら夢のひと時を楽しむのだった。
 ブラックライトに包まれる中、発光するサンゴ達が光を放つ幻想的な空間。けして世界観を崩さないプロの技が、来客者を楽しませるカフェバー。
 ラングドシャで出来たコーンに、形よく注がれたソフトクリームが掲載されている看板を、千夏は子供のようにキラキラした瞳で見つめていた。
「ソフトクリーム食うよな?」
「いいの!?」
 千夏は少し呆れ気味に問うてくる優光に対し、嬉しそうに声を躍らせる。その光景は親子が入れ替わったようだった。
「お待たせいたしました~」
 ソフトクリームとジンジャエールが、ショートカットがよく似合う二十代前半程の女性店員の手によって、二人の元に届けられる。
「わぁ~美味しそう!」
 ソフトクリームに歓喜する千夏に対し、甘い物が苦手な優光は眉根を寄せる。それに気づいた千夏は、優光に気づかれないように苦笑いを浮かべた。
(小さいときはあんなに甘い物が大好きだったのに……今は食べなくなったのね。飲み物ジンジャエールって、私がよく頼んでたやつじゃない。炭酸も舌が痛いよ~って飲めなかったくせに。まぁ、味覚も変わってゆくわよね……。私の手料理でも、苦手なメニューとか出てきてたりするのかしら? それだったら悲しいわね)
 千夏は優光を流し見る。
 ジンジャエールをすました顔で飲む我が子の姿に、穏やかに目を細めた。
「あそこ空いてるから、座ろうぜ。危ないし」
 優光は筒状の水槽をイメージして作られたテーブルが印象的なイートインスペースを指差す。
(あら。マナーもわきまえているじゃない! えらいえらい)
 千夏は満足げな笑みをソフトクリームで隠しながら、「そうね」と答えるのだった。
「なにかいい所ありそう?」
 千夏は背伸びをして、食事処を探している優光のスマホ画面をのぞき込もうと試みる。
 避けられない所を見ると、水族館パワーで少し優光との距離が縮まったようだ。
「このへん手軽な店がねーんだよなぁ」
「ここから一五分ほど歩いたところにあるカフェはどう? ファミリー向けだけど、オシャレなところよ」
 千夏はなかなかお店を見つけられずにいる優光に助け舟を出す。
「どこにあるんだ? 行ったことあんの?」
 自分が出した案に乗り気になってくれる優光に、千夏はホッと胸を撫で下ろした。
「大崎駅から徒歩五分程の所にあるお店よ。一度行ったことあるから、道案内は任せてちょうだい! そこね、休日メニューのハッシュドビーフオムライスが凄く美味しかったの。ぁ、お値段も七百円くらい。お手軽でしょ?」
 千夏はどこか得意げに言いながら、掌を胸にあてる。
 そのお店は千夏夫妻が八年前、水族館の後に訪れたお店だった。
 優光が生まれて、カフェで食事が出来る程の年齢になったら一緒に訪れよう思っていたお店だ。生前は叶わなかったため、千夏が優光と行きたい所の一つとなっていた。
「そうだな。まぁ、迷子になってもスマホがあるしな。取り合えず白石についてくよ。お昼時だし急いでもいっぱいだろ」
「信用ないな~」
 まったく~。とでも言いたげに両肩を落とす千夏に対して優光は、「まぁーな」と言って笑う。
 お腹を空かせた二人は他愛もない会話を交わしながらお店へと向かったのだった。
 八月二十一日。二十一時二十分。
 東京駅鍜治橋駐車場――。
 落ち着かない様子で、待ち人を待っていた千夏から遅れること五分程……。
 サラリーマンが出張にでも使いそうな、無地の紺色が大人っぽいボストンバックを抱える気だるげな優光が、ゆるい黒のラフパンツと白のフード付き半袖姿で現れる。
「ぁ! 優光くーん」
 優光の姿に気がついた千夏は、左手をあげて左右に振る。千夏が動くたび、ガウチョパンツの裾がひらひらと踊った。
「優光くん。こっちだよー」
 優光を呼ぶ千夏はハッとする。
 近づいてくる優光の持っているバックに気がついたからだ。
(あのバック、お父さんの出張バックじゃない。他になかったのかしら? でも、それもいいかもしれないわね。あの人とも一緒に旅行している気分になれるもの)
 千夏は一人納得したように小さく頷き、ほくほくと幸せそうな笑みを浮かべた。
「はいはい。ちゃんと来ましたよ。信用ねーなぁ」
 優光はテンションの高い千夏に小さな溜息を吐いた。
「し、信用してないわけじゃないけど?」
「なんでそこ疑問形なんだよ」
「ふふふ」
 千夏が声を出して笑っていると、同乗者達が次々と現れる。
 そうこうしているあいだに出発時刻となり、二人はバスへと乗り込んだ。
「どっち座る?」
 指定の座席前で優光が問う。
(まぁ! レディーファーストできるのね。この子が一人で教養の本を読むとは思えないし……あの人に似たのかしら?)
 自然なレディーファースト対応に、千夏は一瞬目を丸くする。
 千夏は愛する夫とのデートを思い出す。
 二人は大学生時代からの付き合いで、そのままゴールインしたのだ。
 千夏の夫は、電車やバスに乗れば千夏を先に座らせ、自動車は助手席のドアを開けて千夏が乗り込むのを待機する。
 お店のドアは、千夏が入るまで開けて待っていてくれたし、買い物時の荷物は、絶対千夏に持たせなかった。持たせたとしても、パンなどの軽いモノが入った袋のみだ。
 何か選ぶ場面ではもちろん千夏の意見を先に聞いて、それを汲み取ってくれていた。車道を通るときは、千夏を車道から遠い方を歩かせていた。
 その行動全てが自然で嫌味がなく、千夏が夫に惹かれた大きな要因の一つだった。
「……聞こえてる?」
「ぁ、ごめんね。聞こえてる。ちゃんと。私、通路側がいい」
 優光の声で我に返った千夏は、慌てて答えた。
「了解」
 千夏の意見をくむ優光は、ささっと窓際の席に腰を下ろす。
 その横顔が大学生時代と夫と重なり、懐かしさで千夏の目元と口元の筋肉が緩まる。
 二人を乗せたバスは横浜駅YCAT―海老名。と走り、二人を目的地まで送っていくのだった……。
 八月二十二日。九時三十分。鳥取駅南口。
 到着三十分程前に目を覚ましていた千夏は、「優光くん。ついたわ。起きてちょうだい」と、優光の肩を優しく揺すった。
 生前の千夏は、朝が弱くて寝坊ばかりする幼き優光をよくこうして起こしていたものだ。
「ん、あぁ~」
 少し声の枯れた唸り声をあげた優光に、我が子の成長を感じた千夏は微苦笑を浮かべた。
 幼少期の優光はこんな枯れた声は出さないし、あーうー、ままぁ~。が第一声だったのだ。
「朝だ……すげぇ。ついてる」
 寝起きの優光はまだ頭が回っていないのか、当たり前のことを素直に口にする。
 バスを下りるように指示を出す千夏に、眠い目をこすりながら素直に頷く。覚束ない足取りで千夏の後ろをついていく優光は、どこか少し幼さを感じさせた。
 バスを下り、コンクリートでできた歩道をついて歩く優光は、「これからどうするの?」と、千夏の背中に問う。
「朝食にしましょうか?」
「朝ごはん……。どこ行くの?」
 とまらない欠伸を噛み殺した優光は、いつもより少し幼い口調で問う。
 どこか幼子に戻ったような優光の姿に肩を竦めながらも、千夏はどこか嬉しそうである。
 その後。二人は朝食を取るため、鳥取鉄道記念物公園に足を運ぶのだった。
 公園内に作られたお手洗いにて軽く顔を洗った二人は、木々が多い場所で朝の清々しい空気を吸い込む。
「目、覚めた」
 前髪を水滴で濡らした優光が独り言のように呟いた。
「それはよかった。顔拭く? 髪とか」
「もう乾いたからいい。前髪もすぐ乾く。夏だし」
 優光は千夏が手渡そうとした可愛らしいタオルハンカチを、左手を突き出して断った。
「そう? じゃぁ~、お茶でも買って駅舎で食べましょうか」
「あぁ」
 目が覚めた優光の相槌は、見事に幼さを失ってしまった。
 千夏は元に戻った優光に少し寂しく思う一方で、仕方ないわね。と言うように肩を竦めた。
 ゆったりした歩幅で駅舎に足を向ける千夏の後ろを、気だるげな優光が遅い足取りでついていった。
 駅舎に腰掛けている二人の正面で、にゃぁ~と鳴きながら、軽やかな足取りで去っていく三毛猫が一匹。ここでは有名な猫駅長だ。こうして時折、ふらりと現れては遊びに来ていた人を和ますのだ。
「可愛らしい駅長さんだね」
「あれは、駅長と言っていいのか?」
 優光は楽しそうに笑う千夏対して、どこか冷めた独り言を呟き、首を傾げる。
 千夏はそんな優光と、駅長さんだよ! 有名な駅長さんなんだから! などという不毛な争いをするつもりはない。
 千夏にそんな無意味な争いに費やすエネルギーや時間はないのだ。
 優光と一秒でも長く、楽しい時間を過ごしたいのだから。
「ベンチとかあったらよかったんだけどね~。ちょっと調べミス。ごめんね?」
「俺は別にいい。白石が平気なら」
(それって……このあいだ私がホーム下に落ちたから、気にしてくれているの? 言葉も態度も素っ気ないけれど、優しくて思いやりがあるところは変わらないのね)
 千夏は優光の言葉の真意に気がつき、ありがとう。と優しい口調で言って、嬉しそうに微笑んだ。
「これ、優光くんのね」
 千夏は可愛らしいクマがデザインされた手提げ紙袋から、使い捨て容器につめられた愛情いっぱいの弁当を手渡す。
 八年前の優光の遠足以来になる手作りお弁当。千夏が気合いに気合を入れ、愛情をたくさん詰め込んだのは言うまでもないだろう。
「ぁ、ありがとう」
 どこか不器用ながらも素直にお礼を言って、首だけでペコリと会釈をする優光は、両手でお弁当を受け取った。
 そんな優光の姿に、やはり根っこの部分は変わらないのだと、喜びに心を綻ばせる千夏だった。
 千夏が手渡したお弁当には、タコさんウインナーやハート型の卵焼き。
 ハートの卵焼きに関しては、藤崎千花の自宅でまたま見ていたテレビ番組を参考に作ったものだ。
 故に、優光にとって思い出はない。それを分かっていても、可愛いデコレーションを加えてみたかったのだ。母の愛情表現はどこまでも……である。
 他にも、幼少期の優光が大好きだった母親特製ソースがついたハンバーグ。保育園のお弁当で好評だった星型フライドポテト。アスパラ。オクラ。を豚肉で巻いて照り焼きにしたもの。トマトが苦手だった優光のお助け彩りアイテムに、茹でたブロッコリー。デザートにはキューブ状の大学芋がついている。
 どれもこれも、幼少期の優光が大好きだった食べ物ばかりだった。
 千夏は綺麗に重ねた両手を顎にそっと当てる。
 優光も手を合わせる。
「「いただきます」」
 と、二人の声がそろう。
 命に感謝して手を合わし、「いただきます」と言うのよ。という母の教えを、優光は今も守っていた。千夏もまた、その教えを自分の母親から教えてもらっていて、今に至っている。
 少し顔を見合し可笑し気に笑う二人の姿は、なんとも微笑ましい光景である。
 少しずつではあるが、二人を包む空気は温かいものへと変化していた。それは、親子という空気感ではないかもしれないが、優しくて温かいことには変わりはない。
「サッカー……ボール?」
 丸い白いおにぎりに五角形にカットされた海苔を、サッカーボールになるようデコレーションされた可愛いおにぎりを割りばしで器用に持ち上げた優光は、答え合わせをするように首を傾げる。
「そうっ。サッカーボール! 分かってくれた?」
 千夏は目を輝かせる。
 サッカーボール型のおにぎりは、幼少期の優光が大好きだったもの。中の具には、甘いおかかが入れられている。
「……」
「ど、どうしたの? もしかして手作りおにぎり食べられない?」
「ぁ、いや食べられる。ちょっと思い出しただけ」
 すぐに返答した優光は、おにぎりを一旦元の場所に戻し、チラリと千夏を流しみる。その瞳は何処か儚げに揺れていた。
「それはよかった。……思い出したって?」
 人が握ったおにぎりを食べられなくなったのかと心配した千夏は、ホッと胸を撫で下ろしながら、控えめに問うてみる。
 千夏は自分との思い出でも語ってくれるのかと、ほんの少し淡い期待をする。が、優光の答えは違った。
「昔のこと。ずっと昔……」
 と言うだけで、優光はそれ以上は答えない。悄然するように声が儚い。
 千夏はそんな優光に深く入ってはいかず、小さな相槌だけ返した。
「卵焼き……甘い」
「お砂糖入れてるからね。嫌いだった?」
 幼少期の優光はしょっぱい卵焼きが苦手で、甘い卵焼きが大好きだった。だが、あれからもう八年の月日が流れている。今ではもう味覚が変わっているのかもしれない。と思う千夏は不安げに問う。
 優光は千夏に首を左右に振って否定した。
「そっか。よかったよかった」
 今も優光にとって甘い卵焼きは思い出の味で、大好きな味なのだと感じ取った千夏は、嬉しそうな笑顔で大きく頷くのだった。
「白石の大切な人ってさ、鉄道とか好きだった?」
「うん。昔ね、大好きだった。今はどうかなぁ? 好きだといいけど……」
 最初は笑顔で答える千夏だったが、最後はどこか物思いにふけてしまう。
 幼少期の優光は鉄道が大好きだった。千夏はよくそんな優光に電車の本を読み聞かせたり、一緒に鉄道のおもちゃで遊んだものだ。

 ――僕は車掌さんで、ママはお客さんだよ。切符がないと駄目だからね。
 ――はいはい。では小さな車掌さん、スミレ駅までお願いしますね。

 穏やかで儚い思い出が千夏の脳裏に過ってゆく。
 千夏は切なさと悲しみを押し殺すように、一度だけ深く瞬きした。
「そうだな」
 千夏に少し寄り添うように頷いた優光の声音が、千夏の鼓膜を小さく響かせたのだった――。
 十五時五分。『らくだや』にて。
「ラクダいたー!」
 砂丘を歩く四匹のラクダを見つけた千夏は、砂丘の砂がスニーカーにかかることや、砂が舞うことを気にもとめず、ライド体験できる場所へと走っていく。
 優光は千夏と対照的に、「暑い」とぼやきフードを深くかぶる。
「砂丘で走るとか無理」
 汗で額にはりつく長めにカットされた前髪を、なんとも鬱陶しそう手で払いのけた優光は、マイペースにとぼとぼ歩く。
 八年前であれば、優光が先に駆け出していたであろうに。
 時の流れは砂丘の砂のようにサラサラと流れ、一秒一秒姿を変えてゆくようだ。
「すっごい迫力……」
「マシでこれ乗れんの?」
 初めて見る本物のラクダに圧倒される千夏から、一~二分ほど遅れてやってきた優光は、懐疑の念を抱く。
「乗れるよ! 私、ちゃんと調べてきたもん」
 そう。千夏はしっかりと調べていた。八年前の春に。
「この場所って、ラクダに乗ってお散歩体験できますよね?」
「はい。できますよ。大人二名での騎乗はできませんので、そこはご了承いただけたら……と思います」
 男性スタッフは暑さにも負けない笑顔で答える。
「よかったぁ~。ほらほら~だから言ったじゃない」
 千夏は後ろにいた優光にドヤ顔をする。
 内心では、抜かりわないのよ! こっちは八年前から調べてたんですから。と思っていた。
「なんかムカつく顔」
「えっと、じゃぁ……ライド体験を二人。お願いできますか? 優光くんも乗るでしょ?」
「ぁ、うん……」
 千夏の笑顔に圧倒されるように、優光は大人しく頷く。その表情は複雑気だった。
 八年前にあったはずの、ライド体験を楽しもうという心は、とうに失われているように思える。だが千夏はお構いなしに進めた。
「では、ライド体験の方はこちらへ」
 二匹のラクダがお行儀よく座っている場所へと案内する男性スタッフに、二人はついていったのだった。

 一七時〇八分――。
「楽しかったね~」
 本日の宿である格安ゲストハウス。和室の個室部屋。ライド体験を思う存分堪能して楽しんだ二人は、部屋の隅同士で寝ころび、疲れを癒していた。
 普段からアクティブに動かない優光にとって、今日はハードなスケジュールであったのだろう。幼少期は母親を振り回すほどのエネルギーを持て余していた優光だが、今は振り回される立場になったようだ。
「少しお昼寝してからご飯にする?」
「ん~……」
「優光くん? 寝ちゃったの?」
 千夏は身体を起こし、無反応になった優光の様子を確認する。
 優光は小さい子供のようにほんの少し口を開け、穏やかな寝息を立てながら気持ちよさそうに眠っていた。
「眠ってるときだけは、ちっちゃい子みたいで可愛いんだけどなぁ」
 眉根を下げる千夏は、バックからグレーのパーカーを取り出し、優光のお腹にそっとかける。
 優光がまだ保育園に通っていた頃は、二人でこうしてお昼寝したものだ。
 懐かしさに千夏の頬がゆるむ。と同時に気が緩んだのか、強烈な睡魔が千夏を襲ってくる。
 千夏はその睡魔に耐え切れず、スマホアラームをかけて浅い眠りにつくのだった。
♪ピピピ。ピピピ♪
 一八時一五分――。
 アラーム音が千夏を起こす。
 目覚めの悪い優光は、まだ夢の中だ。
「優光くん。起きてちょうだい。そろそろお夕飯、食べに行きましょう?」
 千夏は優光の肩を優しく揺すって起こす。
 ほどなくして目を覚ました優光だが、中々覚醒することが出来ない。
 お風呂の準備を含む外出の準備を千夏の指示通りに動く優光だが、無理やり身体を動かしていないと、立ったまま寝てしまいそうだった。
 そんな優光の姿を流し見る千夏は、保育園や学校の朝の準備もこんな感じだったわね。と、小さな溜息をつく。
「なに食べる?」
「お肉」
「料理名じゃなくて食材なのね」
 千夏は眠気眼で即答する優光に対し、思わず苦笑いしてしまう。
(昔は、ママがつくったハンバーグ。ママが作ったプリン。ママのカレーライス。とか、料理名を言ってくれてたのに。今やお肉って……幅が広すぎるわ。せめて焼きなのか、茹で系なのか言って欲しいものね)
 千夏はそんなことを思いながら、ボーっとする優光を引き連れて部屋を後にするのだった。

  †

「なに買うの?」
 コンビニの店内を歩んでいく優光の後ろを、千夏はお行儀良くついて歩く。
(背中……本当に大きくなったね。183㎝あるお父さんには負けるけど、身長も凄く伸びて、掌も大きくなった。当たり前だけど、もうコンビニやスーパーで走り回らないのね)
 我が子の後ろ姿を感慨深げに見つめていた千夏に、「アイス」とそっけない答えが返ってくる。
(あげくに、可愛さが欠落したわね)
 千夏はそんなことを胸の内で付け足し、「私も買おう。ミントアイス」と言いながら、優光と歩幅を合わせた。
「どうせ、歯磨き粉の味じゃん。とでも思ってるんでしょ?」
 ミントアイスに全く興味を示さない優光に気がついた千夏は、恨めし気に言う。その台詞は、幼い優光が母親に放った言葉だった。
「ご名答。まぁ、味覚は人それぞれですから」
「どうせ優光くんは、棒状のソーダーアイスでしょ?」
(ひーくん、いっつもソーダーアイス食べてたもんね。ソフトクリームは絶対にチョコレートだったけ。たまには違うの食べてみれば? って言っても、僕はこれがいいんだもん。 お母さんだって、歯磨き粉アイスばっかじゃん! とか言ったりしてさ。あの頃の頃、覚えてたりするのかしら? そういえば、その頃からだったわね。ママと呼んでくれなくなったのは。小学校に上がってしばらくしたら、お友達に影響されたのか急に大人びるようになったのよね……)
 と言う言葉が外の世界にでることはなかった。
「正解。なんで分かんの? なんか嫌なんだけど」
 優光は怪訝な顔で千夏を見る。
「私は優光くんのことならな~んでも、お見通しなのよ」
 千夏は、ふっふっふ。と得意げに胸を張った。
 なんでもお見通しなのは当たり前である。
 幼少期の頃から変わってしまったものはたくさんあるが、千夏にとっては、変わらないモノのほうがずっと多かったように思える。

 †

「ねぇねぇ、オセロしよー。私ね、持ってきたんだぁ」
 ゲストハウスに戻って早々、千夏は声を弾ませる。
「用意周到なことで」
「そりゃ旅ですから」
 ご機嫌な千夏は畳に小さなボードゲームを広げ、いそいそと遊ぶ準備を始めた。
「アイス食う?」
「もちろん」
「ん」
 小さな相槌を打つ優光は、カップアイスと木のスプーンを千夏に渡す。
 空になったコンビニのビニール袋にパッケージを捨て、「ゴミはここに」と袋も手渡した。
 食べたゴミや出したごみはすぐに片付けましょう。という千夏の教えを、優光はちゃんと守っていたのだ。
「ありがとう。優光くんも座って?」
「ふぁいふぁい」
「優光くんからね」
 千夏はカップアイスと木のスプーンの封を開けて、ゴミを袋に捨てる。
 かくして、アイスを食べながらのオセロ勝負が幕を開けたのだった。



 一時間後――。
「また負けた……」
 千夏はあり得ないという風に項垂れる。
 勝負は三勝三敗。全て千夏が負けていた。千夏にとって、それは信じられない出来事だ。
 幼い優光と何度もオセロ勝負を真剣にしたことがあるが、いつも千夏が勝っていた。けして千夏が大人げないわけではない。
 幼い頃の優光は序盤に自分の石をたくさん増やし、最終的に打つところがなくなって敗北してしまうのだ。故に、千夏の必然的勝利となってしまう。
 負けず嫌いだった優光は、『おかーさん! これで最後にするから、もー一回!』と、何度も対戦をねだったものだ。
 それが今となっては、序盤に自分の石を増やさず隅(角)を意識して取り、相手にたくさんの石を取らせていく。そして最後に自分が石をかっさらっていくという、なんとも戦略的な勝ち方を身につけていたのだから、千夏にとっては驚きの嵐だろう。
「弱すぎ。これで終わりな。もう眠い」
「そうね。お布団敷きましょうか」
 気持ちがいいほど惨敗した千夏はボードゲームを片付け、絵本を取り出す。
「ねぇねぇ、ぐ〇とぐ〇でいい?」
 ぐ〇とぐ〇。それは、千夏が幼き優光に一番読み聞かせていた絵本だった。
「なんでもいいから自分の布団くらい、自分で敷いてくれ」
 そんな思い出など忘れました。かのような優光は、千夏の布団セットを部屋の隅にどさりと置いた。
「そうでしたそうでした」
 千夏は一旦絵本をバックの上に置いて、布団をセットする。昔はよく、自分の布団と優光の布団をセットしたものだ。
 小学校に上がった優光は自分の部屋を持つようになり、一緒に眠ることもなくなってしまった。
「なんか遠くないかしら? 端っこと端っこって……寂しくないの?」
「寂しくない。少しは危機感持てば? 別に興味ねーけどさ」
 優光は呆れたように溜息を吐く。
(……それもそうね。私は私である前に、藤崎千花ちゃんの身体を借りて、白石千夏として生きてるんでした)
 優光の言葉で我に返る。少しはしゃぎ過ぎていたと、ちょっぴり反省する千夏だ。
「俺はもう疲れたから寝る。電気は好きにして」
「もうちょっと待ってちょうだい」
「いやいや、寝るの待てってどういうことよ? 絵本の読み聞かせだって、子供を寝かしつけるためだろ? 俺、普通に寝むれるし。むしろ、普通に寝かせてくれ」
「まぁまぁ、そう言わないの」
 千夏は優光を宥めつつ、優光の顔の近くで腰を下ろす。
 優光が物心ついた頃からの読み聞かせスタイルで、太股の上で本を立て、優光の目に入りやすいように絵本を開く。
「絵本、始まるよ~」
「はいはい」
 優光は欠伸を噛み殺し、千夏の方へ横たわる。
(昔は、わ~い‼ とか言って拍手してくれてたんだけどな~。でも、ひーくんも中学生だもんね。こうして付き合ってくれるだけで凄い事よね。……二ページ後には寝てしまってそうだけど)
 千夏はそんなことを思いながら、絵本の表紙を開く。
「ぐ〇とぐ〇――……」
 ゆっくりと優しい口調で絵本を読んでいく千夏は、幼き日の優光との思い出と共に、物語を噛み締める――。


「……おしまい」
「おしまい?」
「そう。おしまい。今日一日付き合ってくれて、本当にありがとう」
 千夏が放つ、おしまい。という言葉には、どこか喪失感と切なさが含まれているようだった。
 この世界で過ごせる時間が刻一刻と過ぎ去り、優光と過ごせる残りの日々がよぎったのだろう。
「別に。約束したし。ラクダ楽しかったし。弁当も美味しくて、懐かしかった……」
 夢の中へと落ちてしまいそうな優光は、普段より舌足らずな口調で、素直に気持ちを表現する。
 その口調が幼き日の優光と重なり、千夏の心に切なさを募らせた。
「それはよかった」
「あとは、海だけ……だな」
「そうね。優光くんはなにかやり残したことはないの? 私みたいに……。私になにかできることはない?」
(私にはひーくんとやり残したことが数えきれないほどがあったけれど、ひーくんが何を思っていたのかまでは、聞かなければ分からない。出来うるなら、ひーくんがやり残したことも全て叶えてあげたい)
 そんなことを内心で思っていた千夏に、すぐに答えが返ってくる。
「俺は、あの人のプリンが食べたい」
「プリン?」
「そう。プリン。あの人が、来週の日曜日に作ってくれる。って約束してくれたプリン。 売っているものよりも少し硬いけど、とっても美味しい。それ、食べたい。もう一度だけで、いい。でも、白石には……絶対に無理だ。味も、香りも……。あの人と……違う、から――……」
 優光は望みを吐露しながら重い瞼を閉じ、浅い夢の海へと落ちていく。
 八年前の春。
「ねぇねぇ〜」
 幼い優光は甘えた声で、生前の姿をした母親を呼んだ。
「おかぁさ〜ん」
 優光は正座をして洗濯物を畳んでいた母親の背におぶさる。
「ひーくん、どーしたの? お洗濯ものが畳みにくいから、どいてくれると嬉しいんだけど?」
 母親は柔らかく微笑み、肩越しに愛する我が子を見る。
「プリン食べたい。最近食べてないもん。食べたーい」
「そういえば、最近作ってなかったわね」
「作ってー。バニラびーずん? 入りのがいい!」
「ひーくん、おしい。びーずんはお豆よ。それを言うなら、バニラビーンズね。残念だけど、バニラビーンズは今お家にないのよ。今度買ってくるわね」
 母親は小さく肩を竦めながら微笑む。なんて平和で穏やかな光景なのだろう。
「バニラびーんず? 買いに行こう! 僕、いま食べたいんだもん」
 優光は前に回り、母親の膝の上にちょこんと座る。
「だーめ。今日はもう、今週のお買い物すませちゃったもの」
「じゃぁーいつ作ってくれるの? たべたーい」
「じゃぁ、来週の日曜日。一緒に作って、お父さんと一緒に食べましょうか。それまで待っていてくれる?」
「……分かった。来週はお父さんがお仕事から帰ってくるもんね」
 不服気だった優光だったが、来週の日曜日に出張から帰宅してくる父親の顔を思い出し、笑顔を取り戻す。
「ありがとう」
 母親は微笑を浮かべてお礼を言った。
「指切りげんまんしよー。ぜったい約束守ってね」
「はいはい」
 母親の長くて綺麗な小指に、幼い優光の小さな小指が絡みつく。
♪ゆーびきーり、げーんまん~♪
 二人の柔らかい笑い声と共に、ゆびきりの歌声が響き渡る。
 柔らかくてあったかい幸せな空気が、部屋中を包み込んでいった――。

「ひーくん。ごめんね……。ずっと一緒にいてあげられなくて」
 千夏は慈悲深き微笑みと共に、一筋の涙を溢す。
 自分が作るプリンを覚えていてくれていたこと、心から美味しいと思ってくれていたこと。もう一度食べたいと思ってくれていたことへの喜び。と同時に、日曜日の約束を叶えることが出来なかったことへの後悔と申し訳なさが、千夏の心でぐるぐると混ざり合う。
「おやすみ。愛してるわ」
 千夏は夢と現実の狭間にいる優光には聞えぬほど小さな声を溢し、絵本をバックにしまって布団にもぐる。
 その日の夜。
 千夏は優光に気づかれないように、嗚咽を押し殺し、涙を流し続けたのだった――。


 †

 八月三十一日。朝五時三十分――。
♪ピピ、ピピ、ピピッ!♪
「朝だ……。起きなきゃ……一秒でも、無駄にしてはいけない」
 千夏は重だるい身体を叩き起こすように目覚まし時計を止め、ベッドから起き上がる。
 じっとりした汗で額に張り付いた前髪を拭い払う千夏は、朝の支度をするため浴室へと向かった。
 藤崎千花の器を借りて生きる、白石千夏の最後の一日が始まったのだ。
 千夏が軽い朝風呂を済ませた頃には、六時になっていた。
 既に、本日の十八時頃に稲村ヶ崎で海をみる。と言う約束を優光と交わしている千夏は、そそくさとキッチンへと足を向けた。
 藤崎家の家族に見つからず、集中してプリンを作ることが目的だ。
 八年ぶりに作るプリン。愛する我が子のリクエストメニューであり、八年越しの約束を叶えるプリン。千夏の気合が嫌でも入る。
「まずは、カラメル作りね」
 千夏は藤崎千花が愛用していた紺色エプロンを借り、アイランドキッチンに立つ。一ヵ月藤崎千花として住んだ藤崎家。千夏はどこに何があるのかを全て把握していた。
 テキパキとキッチン上部にある戸棚からボウル。下部からは小鍋。引き出しからは、木べらなどの必要な調理器具。食器棚から耐熱容器を準備していく。
「久々だから、上手くできるか分からないけど……」
 不安を口にしながらも作業を進めていく。
 まずは砂糖大さじ三と、水を大さじ一入れた耐熱容器をレンジにかける。レンジ待ちタイムを活用して、プリン液に使う牛乳や砂糖などを計量していった。作り慣れていたメニューだけあって、要領がいい。
「準備完了!」
 計量を終えた千夏は、電子レンジが甲高い知らせを響かせる前に扉を開く。レンジ通知音が藤崎夫妻の目覚まし時計になりかねないからだ。
 調理ミトンで手を保護しながら耐熱容器を取り出した千夏は、少し隙間を空けてバッドを耐熱容器に被せ、大さじ一の追加水を隙間から加えた。それにより、カラメルがバットに勢いよく飛び散ってゆく。
 千夏はミトンをした手袋でバッドを抑え、カラメルが落ち着くのを待った。
 本来であれば、小鍋などでカラメルソースを作るのが一般的だ。だが面倒臭がり屋な千夏は時間短縮も兼ね、カラメル花火恐怖と戦うことを覚悟のうえ、レンジ調理を選んでいた。
「落ち着いた落ち着いた。ふふ。今回も私の勝利ね!」
 などと言いながら、ご機嫌にカラメルをよく混ぜてゆく。
 千夏の中で、カラメルソースを火傷せずに完成させられたら勝利。火傷したら敗北。という戦いがあるらしい。
「お次は、プリン液作りね」
 千夏は計量済みの牛乳と砂糖を入れた小鍋を弱火にかけ、砂糖を溶かしてゆく。この時、沸騰させないのがポイントだ。沸騰したが最後、湯葉もどきが出来て終わる。
♪ラララン~ラララン。ラララッンラッン、ララ、ラッン~……♪
 千夏は優光との思い出のメロディーを口ずさみながら、大きめのボウルに卵一つ割り入れる。卵の殻が入ることも割れることもなく、綺麗な形を維持していた。
 カラザを取って泡だて器で軽くかき混ぜる。下準備していたバニラビーンズと、砂糖が溶けた牛乳を仲間入りさせ、よく混ぜてゆく。
 生クリーム類などを使わないのが、千夏のこだわりだった。故に、滑らかプリンとはほど遠い、昔ながらのしっかりしたプリンに仕上がるのだ。
 きっと優光は、そのプリンの食感と濃い味が大好きだったのだろう。
「ここで面倒臭がらずに、しっかりと濾すのがポイントなのよね~」
 千夏は独り言をしみじみ呟きつつ、プリン液を裏漉ししてゆく。
 一度裏漉しせずにプリンを作ったことがあるが、なんとも口当たりの悪い仕上がりとなってしまった。その結果、面倒臭いという思いがその後に勝利することもなく、ちゃんと裏漉しをして作るようになった。
「後は火にかけるだけね。どうにかこうにか、藤崎家の朝食のお邪魔をしなくて済みそうね」
 千夏はホッと息をつき、耐熱容器の型に10/7程プリン液を入れ、アルミホイルで蓋をした。
 キッチン下部の引き戸から厚手の鍋を取り出し、容器の1/3~半分程が浸るまで湯を入れて火にかける。最初から蓋をしないのがポイントだ。鍋に入れた水が沸騰してようやく蓋をする。そこから弱火~中火で十分~十五分程待てば、全体に火が通った頃合いのはずだ。
 千夏はその間に、汚した調理器具やキッチンを綺麗に片付ける。
「そろそろかしら?」
 千夏は竹串でプリンを差して火の通りを確認する。
「うん! 上出来ね」
 納得したように頷く千夏は、鍋から容器を取り出して粗熱を取る。その間に鍋を洗い、藤崎千花の両親と、自分の朝食の準備を始めた。
 メニューはベーコンエッグとサラダにトーストだ。
 父親はブラックコーヒー。母親と藤崎千花がホットミルクだと知ったのは、藤崎千花として住んでから、三日目のことだった。
 人数分の朝食を作り終えた頃には、プリンの粗熱が取れていた。
「タイミングバッチリね」
 千夏はカラメルソースを上から流し込み、冷蔵庫に寝かせた。
「あの頃の味のままだったらいいのだけど……」
 少し不安気に呟く千夏は、藤崎千花として笑顔を作り直す。この家にいる時は、白石千夏ではなく、藤崎千花として暮らしてきたのだ。ここで仮面を取るわけにはいかない。
 その後千夏は、藤崎夫妻と最後の時間を共にするのだった――。


 午後一六時。
 神奈川県鎌倉市浜稲村ヶ崎――。
 ピンク色と白色のストライプが可愛らしい保冷剤バッグを持つ千夏は、Aラインの黒いワンピースに出来うる限り皺がつかないよう、太い流木に腰掛けていた。
 夏の生温い風が千夏の綺麗な黒髪を躍らせる。
 千夏は白ベルトに丸い形がころんと可愛らしい腕時計を見つめた。時計の針は一八時十五分を示している。大幅と言うわけではないが、約束時刻を過ぎていた。
 一分、一秒も無駄に出来ない千夏にとって、一人で待つ一秒は不安を煽る対象でしかない。刻一刻と、愛すべき息子と過ごせる時間が過ぎ去ってゆくのだから。
(ひーくん……ちゃんと、来てくれるよね? 約束、したもんね。信じてるからね)
 不安に押しつぶされそうな気持を抱えながら、優光を信じて待ち続けると決めた千夏の耳に、「白石!」と呼ぶ声が響く。優光だ。
「優光くん!」
 待ち人の登場に声を弾ませる千夏は、優光に向って右手を振った。
「わりぃ。少し遅れた」
「全然大丈夫。きてくれてありがとう。ねぇねぇ、ココ座って」
「ぁ、うん」
 両肩を上下させる優光は、千夏が座っていた大きな流木に腰掛けると、ふぅ~。と、一息ついた。
「もしかして、走ってきてくれた?」
「普通」
 素っ気なく答える素直じゃない優光がおかしくて、千夏は内心でくすっと笑う。
「そっか。お水飲む? 氷入れてきたから冷たいはず」
「……」
 優光は差し出された白のスリムな水筒を複雑そうな顔で口噤んだ。
「ぁ、口付けてないし、毒も入ってないから安心して?」
「いや、そこは別に気にしてないし、毒持ってるとかは思ってねーけど。それ、白石のだろ? 俺自分で買ってくるし」
 そう言って立ち上がる優光を止めるように、千夏は優光の小指を控えめに握った。一秒でも無駄にしたくないのだ。
「私、喉かわいてないから大丈夫。座ってて」
(私にはもう時間がないのよ……。一秒でも長く、貴方と同じ時間を過ごしていたいの)
 という胸の内が優光に伝わることはない。
 優光はどこか懇願するような千夏に少し戸惑いながら、流木に座り直した。
「どうぞ」
「どうも」
 今度は素直に水筒を受け取った優光は、いただきます。と言って冷たい水を飲む。
「うまっ」
 優光は生き返ったように口角をあげた。
「よかったよかった」
 その横顔を眺める千夏は、嬉しそうに微笑んだ。脳裏では、いつかの日、二人でピクニックしたときの思い出がフラッシュバックしていた。


――おかーさーん。喉かわいたぁ~。
 蝶々を追いかけて走り回っていた幼い優光は、レジャーシートの上でのんびりしていた母親に駆け寄って行った。

――はいはい。凄い汗ね。
 母親は穏やかな優しい笑みを浮かべ、アニメの絵柄をした水筒の蓋にお茶を注ぎ、溢しちゃダメよ。と手渡す。
 優光は喉を鳴らしながら勢いよく飲み切る。

――おいしー!
 そういって満面の笑みを浮かべる幼き優光。母親はその姿をかけがえのないものを見るように目を細め、柔らかな笑みを返すのだった。


 そんな思い出に浸っていた千夏は我に返る。
「ぁ、そういえばお夕飯は食べてたのかしら?」
「そういえば食ってない」
「そうなの? じゃぁ、近くのお店で軽く食べましょう? まだ少しだけ付き合ってくれるかしら?」
「うん。別にいいけど。腹も空いてるし」
「じゃぁ行きましょ~」
 かくして二人は、夕食を食べるためにその場を後にするのだった。


  †

「ライス少な目で頼んでたけど、足りそう?」
 アジアン風テイストの店内が印象的なお店。一番奥にある木製の四人テーブル。優光と向き合うように座る千夏は、名物ポークカレーを食べる優光に問いかける。
「そりゃ、白石がこの店は量が多いっていうからな。普通に足りた。元々大食漢じゃねーし」
「そうよね。知ってる。でも、昔よりは食べるようになってくれていて安心したわ」
「は?」
 優光は意味不明なことを言う千夏を訝しげに見る。
 千夏は「こっちの話よ」と、軽く流した。
 八年前の春。

――おかぁさん、ごちそうさましてもいい?
 母親が軽く盛ったカレーライスを二割残す幼き優光は、四人掛けテーブル席を挟んで向かい合う母親に問うた。

――まだ残ってるじゃない。あと少しよ?

――だって、お腹いっぱいなんだもん。これ以上食べると、また苦しくて唸ることになるもん。僕、昨日すっごく苦しかったから、もうヤダ。
 幼い優光は昨日、母親が盛ってくれたカレーライスを完食した。といっても、三割程残っていたのを母親に促され、頑張って完食するかたちなのだが。
 その日の夜は、お腹苦しー。はちきれちゃうよ~と、寝るが寝るまでお腹の苦しさに耐えるしかない優光だった。
 それを考慮して少なめに盛ったつもりだったが、小食の優光には多かったらしい。

――仕方ないわね。ごちそうさましていいわよ。
 昨夜の苦しみようを思うと、許可するしかない母親だった。

――ありがとーう。残してごめんなさい。ごちそーさまでした。
 優光は顔の前で両手を合わせると、食卓から離れてゆく。
 小学校の平均身長よりも低く、体重の軽い華奢な我が子の背中を見つめていた母親は、もっと食べてくれるようになったら嬉しいし、安心できるんだけど……。と、一人ぼやくのだった。


「白石は、その……少しは前向けそう?」
「えぇ。あと一つ叶えたら」
「海を見る?」
「それもだけど、優光くんに食べてもらいたいものがあるの」
「食べてもらいたいもの? 飯食ったばかりだからヘビーなのは厳しいけど……」
 優光は戦々恐々とばかりに眉根を下げる。
「ふふふ。大丈夫よ。ハンバーグや揚げ物やらではないから安心して?」
 千夏の言葉に優光は、そっか。と肩を撫で下ろした。
「ここでは持ち込み禁止だから、さっきの場所に戻ってから……と思っているのだけど」
「分かった」
 最後の食事を賑やかな場所で、穏やかに終えた二人はその場を後にした。
 二人の間に、夏の終わりを告げる生ぬるい潮風が吹き抜けていく。
 そこには、世界で一番純粋な呪いと、切ない魔法がとける粒子が入り混じっていたのかもしれない――。


 差し出されたものを数秒見つめていた優光は、「……プリン?」と、独り言のように問う。その表情にはどこか戸惑いの色があった。
 ココットのお皿にはクリーム色の物体が平坦に注がれたまま固まっている。所々気泡が出来ているあたり、手作り感が感じられた。
「そう。プリン。このまえ言ってたから。それに、約束していたから……」
 俯きながらそう伝える千夏の表情は、どこか儚く悲しげだった。
(まさかその約束を、こんな形で叶えられるとは思っていなかったけれど)
「別に、約束したつもりねーけど……」
(それは知っているわ。だって、ひーくんが約束したのは白石千夏じゃなく、八年前の母親としての私だもの)
 という千夏の言葉が外にでることはない。
「食べてみて?」
 千夏は優光の言葉を軽くスルーして言う。
 その声はどこまでも穏やかだった。
 優光は大切な思い出がたくさん詰まったプリンを差し出され、なんとも複雑そうだ。
 その理由をどこか分かっているような千夏は、もう一度、食べてみて。と促す。その声はとても穏やかでありながら、どこか切羽つまっているような焦りを感じさせた。
 それもそのはずだ。刻一刻と、優光と離れる時刻が迫っているのだから。
「……あぁ」
 優光は少し気が乗らない様子で、ココットにかかっているラップをそっと剥がす。その手付きはどこか緊張の色を感じさせた。
「いただきます」
 両手を合わせた優光はプリンの表面にプラスチックのスプーンをそっと置き、ゆっくりと差し込む。
 少しかために仕上がっているプリンは弾力があり、スプーンが滑らかに入ってはいかない。その感じがまた、優光に懐かしさを感じさせた。
 優光は少し躊躇しながらも、プリンをのせたスプーンをゆっくりと口に運び、一口食べる。
「――」
 優光はスプーンを口に銜えたままピクリとも動かない。
「ご、ごめんなさい。そんなに、まずかった……かしら?」
 おどおどと不安げに問いかける千夏に対し、優光は首を小さく振って否定した。
 優光はなにも言わない。それでも、なにかを噛み締めるかのように、二口、三口とプリンを口に運び、時間をかけてプリンを間食した。
(……ひーくん)
 千夏は胸の内で我が子の呼び名を口にし、その様子を静かに見守り続けた。


  †

「あの人の、あの人の味がした………」
 優光は懊悩するかのように、両手で頭を抱えた。
(ひーくん……もしかして、気がついたの? 私のことに)
 千夏は優光の心中を察したように、優しく深く、「うん」と相槌を打つ。
「ショッピングモールの回り方も、ミントアイスが好きなところも同じ。サッカーが好きな俺に、あの人はいつも、サッカーボールにデコレーションされたおにぎりをつくってくれた。しょっぱい卵焼きが嫌いな俺には、父さんとは違う甘い卵焼きを作って、お弁当の中に入れてくれたんだ」
 優光は大切な人との思い出を消化しきれず、涙をポロポロと溢す。
(ひーくん。全部覚えてくれていたのね)
 千夏は心の内で秘める言葉や想いを面には出さず、壊れ物を扱うかのようにそっと優光の肩に手を回した。
 優光は躊躇しながらも、肩に回された千夏の手に自分の手をそっと添えるように握った。
 幼かった優光の小さな掌が今では、千夏の掌を包み込めるほど大きく成長していた。それは、二人が心の空白を抱えながら過ごした年月を物語っていた。
「ボードゲームはいつもオセロ。ワザとかどうか知らないけれど、半分こね。とでも言うように、左側の角を俺にとらせるのも一緒。絵本の種類も一緒。絵本には書いていない効果音まで勝手につけながら、楽しそうに絵本を読む読み方も一緒。いつも固めに仕上がるカラメルと手作りプリン。一緒だった。味も、香りも……」
「えぇ」
 思い出と共に幼子に戻り始める優光。
 そんな優光に対し、千夏は初めて同意するような相槌を打つ
「本当はさ、白石千夏って名前なんかじゃなくて、本当は鮫島……ッ!」
 千夏は優光の言葉を遮るように、人差し指をそっと優光の唇につけた。
(その名前を口にしては駄目。その人はもう――生前の私はもう、器も名前もこの世にはないの。本当は魂でさえも、あってはならない存在なのだから)
 と言う千夏の言葉が世に出ることはない。だがその先の言葉を言ってはならないのだと感じ取った優光は、言葉を変えた。
「ねぇ、僕の、僕の名前の由来言ってみてよっ」
(……僕。口調も表情も、まるで小さい頃に戻ったみたいだわ)
 千夏は慈しむように目を細めながら、優光の質問に答える。
「貴方の名前は、鮫島優光くん。優しい光で、たくさんの人を照らしてあげられる人になってほしい。そう願いが込められた名前。あだ名は、ひーくん」
 千夏の言葉に、優光の中でバラバラだったピースが全て埋まってゆく。
 優光の瞳から止めどなく涙が溢れだす。
「本当に? 本物なの? どうして?」
 色々な感情が混ざり合い心を乱す優光は、恥ずかしげもなく素顔をさらけだす。大人びた仮面は壊れ、自分の気持ちを押し込めていたパンドラの箱が、音を立てて開いてゆく。
「ひーくんが願ったから。それに、あの日、約束したでしょ?」
「?」
 きょとんとする優光に対し、千夏はゆっくりと話し出す。


 四年前の夏――。

 十才の鮫島優光は家で一人、父の帰りを待っていた。
 母親の死から、出張が多い部署を無理言って辞めさせてもらった優光の父であったが、帰りが夕飯の時刻を回ることが多々あった。
 優光は四人掛けテーブルに座り、ひたすら父の帰りを待っていた。
 静けさの中に、アニメ番組の音だけが虚しく響く。
「昔は楽しかったなぁ」
 幼い優光は五歳頃の記憶を呼び起こす。
 四人掛けテーブルに並ぶのは、母親のあったかい手料理が並べられていて、正面には笑顔の両親が腰掛けている。
 いただきます。三人の声がそろう。温かくて美味しいご飯。あたたかい食卓。 大好きな両親の笑顔。他愛もない会話を交わしながら、食事をする幸せなひと時。そんな光景が脳裏によみがえり、優光はしくしくと涙を溢し、机の上に突っ伏した。
「お母さん……どこに行っちゃったの?」
 そんな言葉が優光の口をつく。もちろん、天国に旅立っていたのは知っていた。理解していた。だが本当の意味では理解できずにいたのだ。
「どうして、僕をおいていったの? どうして僕も連れて行ってくれなかったの? お母さん、僕が嫌いになっちゃったの? お母さん、会いたい。もう一度会いたいよぉ。
 お母さんの声が聞きたい。お母さんの笑顔が見たい。お母さんとお話がしたい。お母さんのプリンが食べたい。プリン、約束……ちゃんと指切りげんまんしたのに……どうして約束やぶるのーッ。ひどいよぉ。どうして何も答えてくれないの? 僕がいい子にしなかったから嫌になっちゃったの? 僕、ちゃんといい子にするよ。僕、おもちゃも自分でお片付けも出来るし、ちゃんと自分で着替えられるようになったんだよ。もう夜中のおトイレだって、自分で行けるようになったんだ。
 だから、もう寝ているお母さんを起こしたりしない。お母さんが作ってくれたご飯も残さず食べる。だから、だから――戻ってきてぇ……。お願いだから……」
 優光の悲痛な想いは、母親のいる黄泉の国まで届いていた。
 そんな我が子を見ていた母は絶望と罪悪感に苛まれ、どうしようもない現実をただ絶望し、恨み、我が子に謝り続ける。
 止めどない涙が現世界を映す水晶を濡らしていった。
 幼い優光の想いはいつしか、母の魂をずっと黄泉の世界に引き止める呪いとなっていた。
 それは穢れの知らない、世界で一番純粋な呪いだった――。
「ひーくん、大きくなったね。私もう、ひーくんを抱っこしてあげられないわ」
 千夏は母親としての想いをさらけ出すように、優光を呼ぶ。
「ぉ……おかあ……さん?」
「かも、しれないわね」
 震える声で途切れ途切れに問いかけてくる我が子に、うやむやな答えを返す。千夏はけして、そうであると断言はしなかった。それでも、優光には通じていた。
 自分の目の前にいる人が白石千夏ではないことに。白石千夏ではあるかもしれないが、そこにいるのは、紛れもなく母であるということを――。


  †

 黄泉の国――。
「……。とても素敵な夏を過ごすことが出来たわ。けして忘れることが出来ない、忘れてはいけない、かけがえのない夏休みを」
 瞼のカーテンをそって開けた千夏はそう言って、強い光に微笑む。
「それはよかったです。お二人が素敵な夏を過ごせたのなら、こんなに嬉しいことはありません」
 強き光はホッと胸を撫で下ろしたように息を吐き、声を弾ませる。
「ありがとう」
 随喜する千夏は心からお礼を言って、口元を綻ばせた。
「息子さんに、伝えたいことは伝えられましたか……?」
 強き光は不安げに問う。千夏に心残りを持っていてほしくないのだ。
「そうね……」
 千夏はまた思い出の波に身と心をゆだね始める――。


  †

 ひとしきり泣いた二人は顔を見合わせ、小さな笑い声をあげる。その音はどこか切なく、どこか温かかった。
「私、そろそろ行かなきゃ」
「待って!」
 優光は静かに立ち上がった千夏の腕を両手で掴む。
「僕を、置いて行かないで。僕も、一緒に――ッ!」
 我が子の心からの言葉に、千夏の心がずきりと痛んだ。
「駄目よ!」
 千夏は強い口調で優光の言葉を制止させた。
「ひーくん、それは駄目よ。絶対にできないわ」
 タイムリミット付きではあるが、もう一度この世界で生きれることになった千夏は、我が子の願いであればどんなことでも叶えてあげたいと心から思っていた。だが、これだけは絶対に叶えられない。叶えてはいけないのだ。
「どうして⁉」
 駄々をこねる子供のように声をあげた優光は、置いて行かれないように勢いよく立ち上がる。
「ひーくんがこの世界で生きているからよ。生きていかなきゃいけないからよ」
 千夏は強い口調で伝えるが、その声は震えていた。
 千夏だって本当は、我が子と離れることなどしたくない。したくはないけれど、そうしなければいけないのが現実なのだ。自ら我が子の命を落とさせることなどありえないだろう。
 千夏としてこの世界で生きて優光と一緒に過ごせば、千花の命を奪うことになる。どちらも選べない。選んではいけないのだ。
「でも、僕はッ」
 千夏は優光の唇に人差し指をそっとあて、その先の言葉を遮った。
「ひーくんは何歳になりましたか?」
「……一四歳」
「そう。八月三一日に私がいなくなって、もう八年の月日が立ちました。ずっとひーくんを空から見ていたわ。毎日大泣きしている姿をみて、私も空から泣いていたのよ。ごめんね。って何度も謝っていたの。ずっとひーくんを抱きしめてあげたかった。約束していた、プリンをつくってあげたかった。ひーくんとお話したいことも、行きたい場所も、まだまだたくさんあった。なにより、もっともっとひーくんと同じ時を過ごしていたかった。だけど、できなかった……。ごめんね。
 十歳を過ぎたあたりから、ひーくんは泣かなくなってしまった。そして心を閉ざして、人と深く関わろうとしなくなってしまったわ。喜怒哀楽も薄くなってしまって……。早熟させてしまって申し訳ないと思っているわ」
 千夏は滂沱しながら言葉を紡ぐ。
 黄泉の国で我が子をずっと見守り、申し訳ないことをしたと謝罪を繰り返し、嘆き苦しんでいた日々が脳内でフラッシュバックしていく。

  †

 妻が交通事故にあったと連絡を受けた優光の父、鮫島優弥は、五歳の優光を連れて病院へ走った。だがすでに妻が旅立った後だった。
 その意味を理解している父は我が子を強く抱きしめ、嗚咽を押し殺すように泣いていた。
「ねぇ、どーしてお母さん眠ったままなの? どうして白い布をかぶされてるの? どうしてお話しないの? お父さん、どーして泣いてるの?」
 まだ何も分からない、理解できない幼い優光は問い続ける。父は上手く言葉を紡ぐことが出来ない。
「俺が、お前を、守る……ッから。二人で、生きていこう……」
 とだけ伝えるのが、せーいっぱいだった。
 すでに黄泉の国へと魂だけが送還されていた千夏は、二人の姿を天から見ていた。
 二人に想いを伝えることも、二人と触れ合うことも出来ず、ただただ暗く冷たい闇の中、涙を流し続けることしか出来なかったのだ――。
 その後、慌ただしく状況は変化していった。
 千夏の両親は、長野県から東京へ。優光の父の両親は、北海道から東京へ。
 千夏に深い繋がりがある者達だけで、小さなお葬式が執り行われた。
「優弥さん。あの子をどうするつもりですか? 私達が預かりましょうか? あんな小さい子を一人にしておくことなんてできないでしょう?」
 千夏の母である明恵は仲良く夫と遊ぶ孫の姿を見ながら、深刻な口調と表情で言う。その視線と言葉の先には、鮫島優弥の姿があった。
「僕が育てるつもりです。僕が守っていきます。お義母さん達に、ご迷惑はおかけしません」
「迷惑だなんて思わないわ。だって、あの子は私達の大切な孫なんですもの。貴方もそうよ? 血は繋がっていないけれど、大切な一人息子だと思っているわ。だから、そんなに思いつめないでちょうだい」
 ボリュームのある黒髪ショートヘア―が印象的な六十歳と思しき女性、水口明恵はいった。いつもエレガントな装いの明恵だが、本日は娘を弔うために、華奢な身体を喪服スーツに包んでいた。
 優弥は明恵の言葉に力なく微笑を浮かべる。
「……優弥君。もしかして、子一人、父一人で暮らしていくつもり? 片親で子一人育てようなんて無謀というものよ。それでなくても優弥さんは出張が多いのでしょう?」
 口調は優しいが、どこか優弥を咎めているようだ。まるで、娘のことさえ守れなかった貴方が、一人で育てきることなど出来ない。と言うように。
「ありがとうございます。お気持ちだけ、ありがたく受け取っておきます。母親を失った優光を一人、長野に行かせるのは心配です。学校のことだってありますし……」
「……それはそうだけど」
 明恵は腑に落ちないように溜息を吐く。
「大丈夫です。僕があの子を命がけで守り切ります。仕事も、部署を変えてもらえるように言いました。多少の残業はあるかもしれませんが、ずっと東京にいられます。一人暮らしが長かったので、家事も問題なくできます。安心して下さい」
 優弥はそう真摯に伝える。が、そんな簡単に受け入れられる話ではない。
「安心してって言ったってね……」
「もし、本当にどうしようもないときは、申し訳ありませんが……手を貸してもらってもかまいませんか?」
 優弥は控えめに問うてみる。
「えぇ。それはもちろん。でも……」
「お父さーん」
 話し合いが深みにはまっていくのを遮るかのように、幼い優光の声が部屋に響く。祖父の傍を離れた幼い優光がドタバタと父親の方にかけてくる。
 正座をしていた優弥の背におぶさるように抱き着く幼い優光。祖父はそんな孫の姿を微笑ましそうに見つめていた。
「いったい何を揉めていたんだ?」
 千夏の父、茂雄は少し呆れたように妻に言った。
「もめてはしていません。ただ、父一人、子一人では大変でしょうから、優光君をうちで預かりましょうか? という相談していただけです」
 明恵は、失礼しちゃうわね。というような口ぶりで答える。
「そーか。優弥君はもちろん、優光君を一人で育てきるつもりなんだろう?」
「はい。そのつもりです。そのために仕事の部署も変えてもらいました」
 優弥は強い意志を宿した瞳で茂雄をみる。
「じゃぁー、優弥君に任せた方がいいんじゃないか?」
「貴方ッ!」
 明恵は叫ぶように茂雄を呼び、講義をするように勢いよく立ち上がった。
「明恵。そう目くじらを立てるモノじゃない。優弥君を信じてて任せるのが一番いい。私達は二人のフォローに回る。それが一番、優光君にはいいことだと俺は思う。母親と引き離された優光君を、父親からも引き離すだなんて酷すぎる。それだけじゃない。長野に転校となると、お友達とも離れ離れ。慣れ親しんだ街とも離れることになる。明恵はそんな悲しくて辛いことを、優光君にさせるつもりなのか? 一番に考えるべきなのは、優光君の幸せなんじゃないか……と、俺は思うよ」
「ッ……」
 夫の言葉に明恵はぐうの音もだせない。
 突きつけられた正論と真実。明恵は悔し気に下唇を噛んだ。
「優光君はお父さんと毎日一緒にいたいか?」
 茂雄の問いかけに、幼い優光は力強く頷く。
「僕、ずっとお父さんとお母さんといる!」
 優光はそういって優弥にぎゅーっと抱き着く。
 なんでもないように言った優光の言葉に、その場にいた三人は言葉をつまらせた。
 現実を本当に受け止めた時の優光のことを思うと、胸が張り裂けそうだ。
「……そうね。今の優光君を優弥さんの傍から離すべきじゃないわよね」
 明恵は決心がついたように小さく頷く。
「優弥さん。優光のことをお願いします。何かあったら遠慮せずに、私達を頼ってください。幸い私達はまだまだ健康そのものです。すぐにこちらへ飛んできます」
 明恵はそう言って左手を差し出す。
 優弥は優光を右腕で抱き上げて立ち上がり、「はい!」と力強く返事をして握手に答えた。
 こうして、父一人、子一人の生活が始まったのだ。


 
 初めの一週間は何事もなく過ごしていた二人だったが、八日目の夜に異変が起こり始める――。

「よっし。終わった!」
 優弥は持ち帰った仕事をリビングの四人掛けテーブルで完了させ、ふぅと一息つく。
 時刻は夜の十時を回っていた。
「俺も早く寝ないとな」
 黒縁眼鏡を外した優弥は、白のノートパソコンを紺色の収納ケースに直し、子供部屋に向かう。
 自分が眠る前に一度、優光の様子を見に行こうと思ったのだ。
「ひっく、ひっく……ッ。おかぁさん」
 優弥がドアノブに手をかけた時、すすり泣く声が耳に届く。
「優光!?」
 優弥は慌てて部屋の扉を開ける。
 豆電球がついた部屋。大学生になっても使えるようにと購入した大き目の木製ベットで、優光は一人寂しく眠っていた。
「……ひろ、みつ?」
 膝を抱えて泣いているのを想像していた優弥の予想は外れる。優光は涙を流しながらも、ベッドで眠りについていた。先程の声は寝言だったのだ。
 優弥は優光の涙を親指の腹でそっと拭ってやる。
「ぉかあ……さん。どーして? うー……ゔぅ」
 優光は悪夢にうなされるように、四肢をジタバタともがかせる。
「優光! しっかりしろ。俺がココにいるから」
 優弥は慌てて幼い優光を起こす。
「ゔぅ~ん……」
 優光は苦しそうな唸り声をあげながら、重く硬く閉じられた瞼をゆっくりと開ける。
「……ぉとーさん?」
「優光ッ」
 優弥は意識が覚醒しきらず、ぼーっと自分を見つめる我が子を強く抱きしめた。優弥の指先は微かに振るえている。
「おとーさん? だいじょうぶ?」
「それはこっちのセリフだ」
 我が子の思わぬ言葉に、優弥は苦笑いする。
「うなされていたけど、怖い夢でもみたか?」
 あえて母親のことは触れずに問うてみる。
「……うん。ねぇ、お父さん……」
 優光は何か言いたそうにしながらも口つぐむ。
「どうした? 言いたいことがあるなら言ってみろ」
 優光は優弥に背中を押されるかのように、「……うん。あのね……」と、ゆっくりと口を開く。
「どうして、お母さんは帰ってこないの?」
「ッ⁉」
 優弥は我が子の言葉に思わず言葉をつまらせてしまう。
「ねぇ、どうして? お母さんはどこに行っちゃったの? 僕がいい子じゃないから、僕のこと嫌いになっちゃのかなー? ……ぼ、ぼく、僕のこと、どぉーして、おいてったのぉ?」
 優光は最後の方の言葉達を、涙で溺れるように伝えることしか出来なかった。
「優光。そんなことない。優光はとてもいい子だ。お母さんが優光を嫌いになること、絶対にありえな……ッ」
「じゃぁーどうして⁉」
 優弥の言葉を遮るように、優光は声をあげる。
「どうして帰ってこないの? 来週の日曜日、一緒にプリン作るって約束したのに! もう来週の日曜日はとっくに過ぎちゃったよ?」
 優光はポロポロと涙を溢しながら、優弥の皺一つない白のYシャツに縋りつくように握りしめる。止めどなく溢れだす優光の涙が、優弥のYシャツを濡らしていった。
「優光……。ごめんな」
 耐え切れなくなった優弥は、優光の小さな身体をそっと抱きしめる。
 本当のことが分かるように伝えるのが正解なのか、優弥は分かりかねていた。
「ど、どうしてお父さんが謝るの?」
 優光はどこか不安に問いかける。
「……ごめん。今週の日曜日、俺とプリン作ろう」
「やだ」
 優光は不貞腐れたような口調で即答する。
「はは。お父さんとは嫌か。ごめんな……。お母さん秘伝のプリン、実はレシピを知らなくてな……。一緒にお母さんのプリンを作ってみるのもいいかと思ったんだけどな……嫌か。嫌だよな。ごめんな……。ごめん……」
 優弥は落涙しそうなのをグッとこらえながら、優光に謝り続けた。自分自身もまだ、妻が旅立ったことや、妻のいない生活を受け入れ切れていないのだ。


 その日から優光は毎夜毎夜悪夢にうなされ、一人で涙を流し続けていた。それを見かねた優弥は、自分のベッドで息子と眠ることにした。
 息子が悪夢にうなされたら優光を起こし、泣き止むまであやし、寝付くまで待った。
 満足に眠れていない優弥は早朝から優光のお弁当と朝食を作り、ゴミを出す。その後に優光を起こし、二人で朝食を終えると、あと片付けをして家を後にする。
 優光を保育園に預けてドタバタと会社に向かう優弥は、集中力を切らさぬように仕事に奮闘する。働かなければ生活が出来なくなってしまうのだ。どちらかを手抜きにすることなど出来ない。
 定時に終えられなかった仕事は、家に持ち込むことにしていた。今大切なのは、一秒でも長く優光の傍にいることだと思っていた。
 夕食は優弥が作ることもあれば、コンビニやお弁当屋で済ますこともあった。
 夕食を終えると、息子と一緒にお風呂に入り、夜の家事をこなす。
 優弥は精神的にも体力的にもヘトヘトであったが、我が子を守るために必死になった。それが我が子にも伝わったのだろうか?
 母親が旅立って三ヵ月後以降、優光は母親のことを口にしなくなった。だがそれは意識があるときだけだ。夜中はうなされ、母親の存在を求めるように涙を流す。そういった生活が一年と半年続いた。
 それを黄泉の国からずっと見ていた母親もまた、嘆き苦しみ、涙を流し続けていた――。


 コンコン――。
 寝室の扉をノックした優光は、「お父さん、朝食出来たよ」と声をかける。
 一二歳になった優光は父親に負担をかけないため、身の回りのことは全て自分でしていたし、料理もするようになっていた。
「あぁ。助かる。ありがとう」
 スーツ姿の優弥はそう言いながら寝室からでてくる。
 優光がまだ幼かった頃の優弥は頬がこけて、毎日のようにクマを作って疲労困憊という感じであったが、今は健康的に見える。
「そんな。お礼なんていいよ。早く食べよう。遅刻する」
 優光はどこかそっけなく言って、一人リビングへと足を向ける。そんな我が子の背中を微苦笑した優弥は、小さく肩を竦めた。
 一二歳になった優光はとてもしっかりしていた。していたのだが、感情表現豊かだった優光はどこかに消えてしまっていた。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて。今夜は少し遅くなりそうだから、先に夕飯食べててくれ」
「分かった。父さんも気をつけて」
 八階建てマンションの小さなエントランスで別れた二人は、それぞれの帰路に向ってゆく。
 季節は夏。
 セミの大合唱が鳴り響く。そんな中で優光は、アスファルトの照り返しと、天からさす陽の針に眉を顰める。
 幼稚園に向かう親子連れが、駅に向かっていた優光の横を通り過ぎた。優光はその二人をどこか羨ましそうに目を細め、小さな溜息をつく。
「……死にたく、なるな……」
 この頃から、優光の口癖が出るようになっていた。本当に旅立とうとは思っていない。 この言葉の真意は、母親に『会いたい』なのだから――。
 母親はそんな優光の姿を、黄泉の国からずっと見守り続けることしか出来なかった。
 うなされながら涙を流して眠る我が子。
 テレビの中にいる家族や、近所の家族を羨まし気に見る我が子。
 一人寂しそうに、公園で遊ぶ我が子。
 慣れない手料理で怪我をして泣く我が子と、それを焦りながら手当てする夫。
 高熱にうなされる我が子。
 成長していく我が子。
 そして、「死にたくなる」という言葉を口にするようになった我が子。
 その全てを、母は黄泉の国からずっと見ていた。見ることしか出来なかったのだ――。

  †

「だったら! だったら、もっとこの世界にいてよ。まだ一緒にいたい。もう行きたい所はないの? 話したいことは? 僕はあるよ?」
 優光の声で千夏は我に返る。
 愛する我が子の泣き腫らした瞳からは、また涙が零れ始めていた。
「駄目よ。この子に悪いわ。それに私はもう充分よ? ひーくんがお腹の中にいたとき、ひーくんのお父さんとあの水族館とカフェに行ったことがあるの。その時ね、お腹の中にひーくんもいたのよ。ひーくんが無事に産まれて大きくなったら、家族三人で来ましょうと約束していたの。
四歳の頃に読んであげた絵本。そこにラクダに乗っている少年がでてきて、自分もラクダに乗ってみたい! ってずっと言っていたわ。だけどその時のひーくんがラクダに乗るのにはまだ幼くて。もっと大きくなったときに行きましょう。と約束していたの。覚えているかしら?」
 優光は母親の問いに言葉をつまらせる。
 複雑そうな顔をしながら、高速で記憶の歯車を巻き戻す。が、上手く記憶を見つけることが出来ない。
 記憶の歯車を上手く動かすことが出来たのは、母親である千夏だけだった。




 八年前の春。

――優弥さん、見て見て! クラゲがこんなにたくさんいるわ。なんだかとても幻想的ね。まるでおとぎ話のようだわ。
――そうだな。ここの水族館、二〇一五年にリニューアルオープンする。って噂を会社で聞いたよ。だから……。
――この子が大きくなったら、またここへ来ましょう!
 若きし頃の優光の母親は、優弥が話そうとしていたことを瞬時に理解したのか、先に言ってしまう。その弾むような声はとても楽しそうだった。
――ったく。言おうとしていたことを先に言うなよ。
 優弥はまいっちゃうよ。とばかりに、後ろ髪を掻く。
――あら、ごめんなさい。つい。……ッ。
 楽しそうに笑っていた若きし頃の優光の母親は、一瞬顔を苦痛に歪ませる。
――ど、どうした?
 優弥は慌てて妻の顔を覗き込むようにして問いかける。
――大丈夫よ。今この子が私のお腹を蹴ってきたの。きっと、僕も早く行きたいよー! って言っているんだわ。
――そうかもしれないな。
 キラキラと瞳を輝かせる妻と、妻のお腹の中にいる我が子を、優弥は愛しそうに見つめ続けた。


――優弥。ここのハッシュドビーフオムライス、とっても美味しいわ。卵がふわとろなの。
 水族館を満喫した二人は、大崎駅から徒歩五分程のところにあるカフェでランチを楽しんでいた。
――それはよかった。このカツカレーも美味しいよ。来てみて正解だったな。また一緒にこよう。
――えぇ。お子様ライスもあるみたいだし、この子が大きくなって遊びにきたときも、ここに来ましょう。
――そうだな。そうしよう。
 優弥は妻の意見に笑顔で大きく頷いて見せる。


 平和に時は流れ、無事にこの世に生まれ落ちた優光は四歳になっていた。
――あのねぇ。
 幼い優光は眠たい目を小さな拳で擦りながら、大好きな母親を呼ぶ。
――どうしたの?
 母は読み終えたばかりの絵本をそっと閉じ、穏やかな笑みを我が子に向ける。
――ラクダさんは今、さきゅう。ってところにいるの? だって、動物園を抜け出しちゃったんでしょ? だから本当の動物園にもいないの?
――そうね~。
 母親は相槌を打つが、強く断言はしない。
 もしかしたら、世界のどこかの動物園にはラクダがいるかもしれない。間違った情報を伝えたくはなかったのだ。
――僕もラクダさんに会ってみたい。どこに行ったら会えるの?
――鳥取の砂丘。ってところにいけば、ラクダさんに会えるわ。それに、ラクダさんの背にものせてもらえるのよ。
 母はどこか得意げに言ってみせた。
――ママ、それ本当なの!?
 爛々と目を輝かせる幼き優光はベッドから飛び起きる。
――えぇ。本当よ。お母さんが嘘ついたことあるかしら?
――……ない。じゃ、じゃぁーさ、とっとり? ってところにいこーよ! 僕、ラクダさんに乗りたい!
――そうね~。じゃぁ、ひーくんがもう少し大きくなってから、お父さんに連れて行ってもらいましょうか?
 らくだのライド体験は、小さい子供となら二人乗り可能である。だが四歳の優光にはまだ早いと感じたのだろう。
 子供が怖がって暴れたり泣いたりすると、ラクダの精神に影響をきたし、ラクダが暴れ出したという話を耳にしたことがある。それを思うと、幼い我が子をつれて、安易に体験することはできない母だ。
――大きくって、いくつになったらいいの?
――う~ん……六歳くらいかしら? ひーくんがあと二回誕生日を迎えたら、きっとラクダさんも、おいでおいで~って言ってくれると思うわ。
――えぇー! あと二回も? 遅いよ~。
――あと二回。二年なんてすぐ立つわ。
 と言って、ぐずる息子を宥める。
――すぐって……。じゃぁさ~、約束してくれる? 僕が六歳になったら、そこにつれていってくれるの。
――えぇ。分かったわ。約束ね。さぁさぁ。もう夜も遅いし、今日は眠りましょう。おやすみ。
 母親は優光の心を落ち着かせるように、小さな胸をポンポンと繰り返し叩いてやる。優光の瞼は幾度と瞬きを繰り返す。
――……おやすみなさい。
 優光は呟くように言って、夢の中に落ちていった。
 これら全ての記憶は母親にとってはかけがえのない宝物のような思い出であり、叶えなければならない約束だった。だが幼すぎる記憶は、今の優光がどう頑張っても戻ってくることはなかった。


  †

「ごめん……」
 必死に記憶を手繰り寄せようとするも、失敗に終わってしまった我が子を見守っていた千夏は、微笑ましそうに声を上げて笑う。
「いいのよ別に」
 千夏は海辺の砂を踏み、海へと足を進める。
 優光もそれに続いた。
「ねぇ、この子に悪い。って、どういう意味なの?」
「この子の身体をかりているから」
「もっと、分かりやすく言ってみて」
 優光は言葉を読み解くことが出来ず、理解できる言葉を求める。
「この子の魂は三ヵ月前、私と同じ場所に届いた。だけど身体はまだベッドの上で眠っていたの。本人が望めば助かる可能性のある命。どうして戻らないのかと聞いたらね、ひーくんがここにいないか調べてから戻るって」
「どういうこと?」
 怪訝な顔で問うてくる優光に、千夏はこう続ける。
「人は天界へ旅立つとね、輪廻転生を繰り返して、新たな魂としてこの世に生れ落ちるの。そのためには、今まで持っていた名前は必要がないと奪われてしまう。新たな名を手にするためには必要なことなんですって。その子は私達の力になれるなら――と、快くかしてくれたわ。私の命日までね。二十四時〇〇分。それが私のタイムリミット。そして、その子が元の世界に帰る時間。分かってくれたかした?」
「そんなことって……」
 優光は丁寧に説明する千夏の話を信じることも、現実を受け入れることも出来ないと、首を左右に振る。
「そんなことがあるのよ。世の中は不思議なことがたくさん。悲しいことが多い世界だけど、同じくらいの奇跡が溢れた世界。その世界で私達は産まれ落ちた。私は産まれたのも大きな奇跡。大人まで生きて、ひーくんのお父さんに出会って、恋をして、結婚をして、ひーくんが私の元にきてくれた。たくさんの大きな奇跡が紡がれて、今があるの。それを思うと、魔法のような奇跡がおこっても、不思議ではないでしょう?」
 千夏はどこか優しく言い聞かせるように言って、同意を求めるように首を傾げて見せる。
「……そうかも、しれないね」
 優光は素直に頷くことはできないが、過去の自分も含め、今まさに奇跡の力を体感しているのだと、現実を受け入れるように言う。


 二三時五〇分――。
 千夏は歩みを進め、海の中へ入っていく。
 優光は千夏の後ろをついてゆく。
 二人の服は急速に海水が含み、身体にまとわりつく。
 千夏は胸下あたりまで海水がつかるところでピタリと歩みを止めた、
「どうしたの?」
 千夏と向かい合うように立った優光は不安げに問う。
 一度長い息を吐いた千夏は、「お迎えがくるのよ」と、ハッキリ伝えた。
「お迎え? もう、会えないの?」
 穏やかだった優光の表情は一気に焦りと恐怖の色へと塗り潰される。
「そうね。でも、お空の上からずっと、ず~っと、ひーくんのことを見守っているから」
「嫌だ。やだやだやだやだッ! ずっと一緒にいたい。傍にいてくれなきゃやだ!」
 赤ちゃん返りをする優光ががぶりをふる。
 幼き頃に無理やり引きはがされた千夏がまた、自分の傍から消えてしまう。そのことが優光を深い闇へと落とす。
 だがそれは千夏にも言えることだった。
(ひーくん……。私だって嫌よ。ずっと貴方の傍にいたいわ。だけど、それじゃダメなの。貴方はこの世界で生きていかなければいけないんだから。そして私はちゃんと成仏して、次に生を受ける人の一部となる。それが生と死がある世界で生きている者の、抗えないルールなのだもの。一つの魂を未来永劫自分モノにすることなど、出来ないのよ……)
 千夏は自分がしっかりしなくてはいけないと、拳を握りしめ、意を決したように口を開く。

「駄目よ。魔法はね、ずっと続いてはくれないの。魔法の力で人は前に進み、強く生きるの。それができるように、神様は魔法をかけてくれるのよ。ときに気まぐれなのがたまに傷なんだけどね。
 だからひーくんも強く生きてちょうだい。じゃないと私は、ずっとこの世界をさ迷うことになってしまうわ。私がちゃんとお空の上から、ひーくんを見守ってあげられるように、強く生きて? 私も、強くなるから。約束」
 優光は差し出された小指に自分の小指をそっとからめる。
 千夏の脳裏に、八年前の指切りげんまんがフラッシュバックする。
 幼かった優光と交わした約束。
 生前叶えられることが出来なかった約束。
 だが今回の約束は、優光がこの世界で生きている限り続く約束だ。と同時に、優光が強く生きてゆけるためのお守りであり、魔法。
「ぼ、僕が強くなったら、お母さん、嬉しい?」
「えぇ。とても」
「……わ、分かった」
 優光は左腕で涙を乱暴に拭い、鼻水をすする。
 ♪ゆーびきーりげんまん~♪
 響き渡る指切りげんまんの歌声に、さざ波の音が絡みつく。
 きっとこれは、愛しい我が子に母親が指切りげんまんでかけた、世界で一番優しい魔法の奇跡になるだろう――。

 二三時五十八分――。

「じゃぁ、私いくわね。お父さんと仲良くしてね」
「……ぎゅって、ぎゅってしてくれたらいいよ」
「もぉ~。約束したばかりでしょ?」
 優光の最後の甘えに呆れ口調で答えながらも、優しくそれに応える。
「これが、最後だから……」
「そうね……」
 二人は音もなく涙を流す。
 そんな二人の周りを囲む水面がゆるやかに年輪を作ってゆく。
 優光は泣いていたらいけないと、親指で涙を拭った。
「ひーくん、愛しているわ。私の元に産まれて来てくれてありがとう。生きてくれてありがとう」
 千夏は悲痛な声を押し殺すように伝える。
 千夏は自分よりもずいぶんと身長が高くなった息子の肩口に、泣き顔を隠すかのように顔を埋めた。パーカー付きのホワイトTシャツが零れ落ちる涙によって、色が変化してゆく。
「お母さん、今までありがとう。お母さんは僕にとって、世界で一番大切な人だよ。本当にありがとう……」
 沈痛な面持ちで瞳を潤ませる優光は、千夏を抱きしめる腕の力を強くする。
 どこにも行ってほしくない。自分の元で生きて欲しい。そんな思いが自然と腕の力に変わるのだろう。だが、優光は我儘も無理も言わない。全てを受け止め、強く生きていくと決めたのだ。
 年輪の中央にいる優光達を飲み込むように海水が下がってゆく。のを、二人はそれを静かに見つめ続けていた。


 これは呪いだ。
 息子が母にかけてしまった、世界で一番純粋な想いをした呪いだ。
 これは魔法だ。
 神様がいたずらな計らいでかけた、世界で一番切なくて優しい魔法――。




  †

 黄泉の国――。
「えぇ。生前叶えられなかった約束を全て叶え、伝えたいことをちゃんと伝えることが出来た今、思い残すことはないわ。貴方の器を借りてごめんなさい。本当にありがとう」
 奏千花の身体を借りる優光の母が深々と頭を下げる。
「いいんです。二人が前を向けるようなきっかけの役に立てたのなら」
 千花の魂はふんわりとした声音で言った。
「ありがとう」
 涙が滲む千夏の声音が闇へ響く。
 滲む涙を拭い、そっと口を開く。
「今、借りしき器、あるべき場所へ戻りしとき、一つの魂が永遠の眠りに……」
 瞼を閉じた千夏が静かに唱える。それは、魂を入れかえる言の唄。
 千夏の胸元から霧がかった強き光の塊が押し出される。その光は千夏の目の前にある光よりもずっと、弱くて儚い光。光を失った身体は、蝋人形のように闇の中へ崩れ落ちた。
 強い光――否、魂はあるべき場所へと戻ってゆく。
 蝋人形とかしていた藤崎千花の身体に、藤崎千花の魂という命が吹き込まれる。それを、吐き出された弱い光を放つ魂が静かに見守っていた。
「ゔっ……」
 小さな呻き声をあげた千花の身体がふらふらと立ち上がる。
「ち、千花ちゃん。大丈夫?」
 器を無くし儚き光となった優光の母の魂が、当惑したように千花の周りを浮遊する。
「はい。大丈夫です」
 千花は少し掠れた声で答えると共に、儚き光となった母の魂に微笑みかけた。
「そう……? ならよかった。千花ちゃんも早く元の世界に戻らないといけないわね」
 母の魂は安堵の溜息をつき、千花と見合うように顔の正面で止まる。
「はい。……心残りはありませんか? 言い残した言葉とか……」
 千花は不安げに問うた。
「心残りがないと言えば嘘になるわね。やっぱり、あの子が心配だもの。今は大丈夫かもしれないけれど、また過去に囚われて生きるようになるかもしれない。そう思うと心配だわ。だから、もしよかったら、あの子のこと……よろしくお願いします」
 母の魂から放たれる声音が涙で溺れる。
 やはり何をしても、どんなことをしてでも、心配なものは心配なのだ。けして手放しで安心することなどできない。それが大切な人であればあるほどに。
「……。はい!」
 千花は少しの間をおいて力強く頷く。その瞳には強い意志が放たれていた。
「ありがとう。……千花ちゃん。私、そろそろ行くわね。空からずっと、ずっと貴方達のことを見守っているわ。……さようなら」
 母の魂は静かに音もなく闇の中へと溶けてゆく。それは、一つの命が永遠の眠りについたという証だ。
「私も戻らなきゃ」
 千花は瞼を閉じ、呪文を唱える。
「我が器と魂、あるべき場所へ戻りしとき、闇が消え、光照らす」
 呪文を唱え終えると、千花は闇の中で弾けるように消えた。
 命が永遠の眠りについたわけではない。命の残り時間をあるべき場所で過ごすために消えたのだ。
「ねぇ、大丈夫? 母さんッ」
 優光は意識を手放した母の身体――否。溺れそうになる少女の身体を持ち上げ、陸へとあがっていた。
「ね、ねぇって!」
 目を覚まさない少女の肩口を揺らしながら、繰り返し母を呼び続ける。大切な人を失う恐怖により、優光の血色が失われてゆく。
「ね、ねぇ、大丈夫? しっかりして」
 優光はピクリとも動かない少女を優しく揺すって起こす。
 規則正しいリズムで胸が上下している所を見ると、息はしているようだ。
「ッ……」
 数分後。
 少女は唸り声を上げながら目を覚ます。
「か、母さん。だ、大丈夫?」
 少女の頭を膝の上にのせていた優光は、慌てて少女の顔を覗き込む。その優光の表情は今までよりもどこか幼げだ。これが本来の姿なのかもしれない。
 瞼を開けた少女の焦げ茶色の瞳が優光を映す。
「ぇ⁉」
 少女の瞳を見た優光は驚異する。
 白石千夏の瞳の色がヘーゼル色だったのに対し、今目の前にいる少女の瞳は焦げ茶色をしているのだ。
「ご、ごめんなさい。だい、じょうぶ……です。が、わたしは、貴方の……おかあさま、じゃ……ない、です」
 少女は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。久しぶりの生身の身体に、上手く対応しきれていないように思える。
「き、きみは、誰なのッ?」
 優光は震えた声音で問う。
 海水で体温が下がったこともあるだろうが、優光から血色が失われてゆく。その表情はまるで、あやかしにでも出会ったようだ。
 優光が感じている恐れは少女にも届く。
「だ……大丈夫、です。私は貴方に、危害を及ぼしません」
 自分の脳と身体が馴染んできたのか、少女はフラフラと立ち上がる。
 少女の髪に滴る海水がポタリポタリと地面を濡らす。
 優光は愕然と少女を見上げた。
「私の名前は白石千夏ではなく、奏(かなで)千花(ちか)です」
「母さんは千夏だって。瞳の色も違うし……いったいどういうことなの?」
 困惑する優光は両手で頭を抱え、視線をさ迷わせる。
「白石千夏という名前は、貴方のお母さんが考えた偽名です。私の本当の名前は、奏千花。死者に残るのは魂だけで、身体という器も名前も全てが0になります。貴方のお母様は、私の名前を名乗ることに気が引けたのかと。だから、偽名を名乗ったのでしょう。瞳の色が違うのは、貴方に私だと気がつかれては困ると、カラーコンタクトをしていたんです」
 千花は落ち着いた口調で簡潔に説明する。
「そんなこと……」
 優光は恐怖するようにがぶりを振る。
「ありえなくても、信じられなくても、今貴方が体験していることは全て、真実なんですよ」
 真剣な眼差しで伝えてくる千花の言葉に、優光は複雑そうに下唇を噛み締めた。
「ど、どうして? どうしてお母さんに協力してくれたの? それに、気がつかれては困るって、僕と会ったことないよね?」
 優光は理解不能だとばかりに眉間に皺を寄せる。
「……。私は二年前、貴方に命を救われたんです。貴方の役に立てるのなら、自分に出来ることを全てしようと思ったんです」
「二年前?」
 優光は話の糸が見えるように話して欲しいと、首を左右に振る。
 千花はゆっくりと、事の真相を話し出す。


 二年前――。
「行ってきます」
 白のマリンセーラー服に身を包んだ少女が、ホワイトカントリー調の家からでてくる。奏千花だ。表情は暗い。
 重い足取りで学校に向かう千花の横を、他校の学生が自転車で颯爽と通り過ぎていく。その後ろでは、女子高生二人組が楽し気に話しをしながら歩いて行く。
 夏休みに差し掛かる頃の学生は、どこか浮足立っているように千花は思えた。
「学校、行きたくない。夏休みも、こなければいいのに」
 千花はボヤキながら学校へと向かった。
 どんなに学校へ行きたくなくとも、千花はけしてズル休みなどしない。もし学校に行かなければすぐに親に連絡が入り、父親から激怒されることが目に見えているからだ。
 行っても地獄。行かなくても地獄。
 今の千花に逃げ場などなかった。
「……ない」
 千花は下駄箱に上履きがないことに気がついて小さな溜息をつくが、慌てふためくことはしない。
「なんて低能なの」
 千花は憤りを吐き捨てるような溜息と共に、ここにはいない犯人に悪態をつく。
 スクールバッグから予備の上履きを取り出す千花は、手早く履き替える。履いてきた白のスニーカーは、持ってきていた上履き入れに直してバッグにしまった。その無駄のないスムーズな動きは、日課でもこなすようだ。
「あら、奏様。ごきげんよう」
 金髪巻き髪をしたハーフ美少女が千花に気がつき、品良く微笑む。その笑みはどこかお人形じみていて、優しさも温かみも感じられなかった。
「ミリア様。ごきげんよう」
 千花は力なく微笑み返す。
「では、奏様。お先に失礼しますわね」
 ミリアは軽く会釈をして、自分の教室へと向かった。その数歩後ろを付き人が追う。ミリアを護衛する執事兼SPのようなものだ。
「奏様、ごきげんよう」
 鎖骨下でカットされた甘栗色の髪をした少女が、背後から千花に声をかける。
 気配のないところからの声かけに驚く千花は、身体全体で飛び退くように振り向いた。その際、背中に靴箱が当たった衝撃で顔をしかめる。
「本日も、一緒に勉学に励みましょうね? クラスメイトですもの」
 少女は穏やかに微笑み、千花に左手を差し出す。握手を求めているのだろう。
「えぇ」
 ぎこちなく微笑む千花だが、握手は交わさない。
「あら? どうして握り返して下さらないのかしら? 奏様は私のことを汚らわしくお思いなのかしら?」
 少女はしょぼくれたように眉を下げて見せる。
「いえ、そんなことはありません」
 千花は慌てて握手を交わす。
「ッ⁉」
 千花はチクリとした刺されるような痛みを感じ、慌てて手を離す。掌を見ると小さな赤点が出来ており、薄い血が細長く流れ出していた。
 千花は説明を求めるように目の前の少女を見つめる。
 少女は左掌を胸の前で見せる。そこには両面テープではられた画鋲の姿があった。握手を交わすと、必然的に相手の掌に刺さるようになっていたのだ。
「ミリア様にお声がけいただけたからって、調子に乗らないで下さいね。ミリア様は誰でも平等に接して下さる麗しき人なのですから」
 少女は口恥を吊り上げると、鼻を鳴らして颯爽と去っていく。
 千花はその背中を呆然と見つめ続けた。
 ミリア・サーシェス。千花より一年先輩。千花が通うお嬢様学校の中でも、ミリアは群を抜いているお嬢様だった。
 政治界で働く父を持ち、いつも護衛の付き人を一人従えている。成績は常にトップ。運動神経もよく人当たりもよい。先生や生徒達からの信頼も高い。けして低能なことをする者ではない。だが、千花を悩ます一人なのは確かだった。
 千花の父も政治界で働いている。
 ミリアの父が文部科学省教育再生担当の大臣。千花の父は、文部科学省教育再生担当の政務官を務めていた。
 千花の父はそこで一生終えるつもりはなく、虎視眈々と大臣の座を狙っている。
 それによって、千花の学校生活を厳しく指導し、学歴も常にトップじゃないと許されなかった。
 ミリアとの関係も仲良くして父の弱みでも握ってこい。とスパイじみたことを要求される始末だ。
 もちろん千花はそんなことをしない。表面上仲良くしている程度にとどめていた。深く付き合えば、後から傷つくことになるのが分かり切っているからだ。
 だがミリアに憧れる取り巻きのお嬢様達に、千花はよく思われていない。簡潔的に言うならば、嫉妬……なのだろう。
 父親同士の働き口が同じなことで距離はぐっと近くなる。という思い込みもあるのかもしれない。
 ミリアが千花に一言声をかけるだけで、陰口を言われるのだ。酷いときでは、こうして外傷を負わされることもある。
 手口は他の生徒や教員、付き人にバレないように巧妙なことが多い。
「わッ⁉」
 千花は教室に入ってすぐ何かに躓き、前のめりにコケる。
「あら奏様⁉ ごめんなさいね。私の細くて長い足が貴方のお邪魔をしてしまったわね」
 と意地の悪い微笑を浮かべるクラスメイト。
「いえ。私の不注意ですので」
 千花は冷静な口調で微笑み、何事もなかったかのように自分の席に着いた。
「面白みに欠ける子ね」
 足を引っかけた高飛車なクラスメイトは、そんな千花の背中に鼻を鳴らす。
(なにが細くて長い足が邪魔をしたよ。どう考えてもわざとじゃない)
 千花は心内で苛立ちを現しながら、バッグから一限目に必要な教科書類だけを取り出し、机に置く。スクールバッグは膝の上に置いたままだ。
 いつかの日、千花のバッグに財布を隠し入れようとした者と鉢合わせして以来、千花は肌身離さずバッグを持ち歩いている。
 教科書はいつも持ち帰るし、必要な物しか取り出さない。悪事を働く者達は教師がいる前では鳴りを潜めている。千花にとって、授業時間だけが落ち着ける時間だった。
 もちろん、常に学歴トップを取らなくてはいけないプレッシャーがのしかかっているため、居眠りなどできる心のゆとりなどはない。

 その日の授業を平和に終えた千花に、ゆるふわウェーブがかかる黒髪を揺らした女子生徒が寄ってくる。
「奏様。このあいだオープンした駅前のカフェでお茶でもしません?」
「ぁ、西東様。お誘いありがとうございます。とても嬉しいのですが、これから塾がありますので……ごめんなさい」
 千花は誰にでも人懐っこく接する西東に頭を下げて謝り、スクールバッグを背負いなおす。
「あら、またですの? 奏様はいつも塾で学んでいらっしゃるのね? たまには息抜きも必要じゃなくって? って、そんなことは無理ですわよね。お父様がお父様ですもの。一人娘のプレッシャーも相当なものだと思いますわ。なんでも、医師か弁護士以外の役職についてはいけないのでしょう?」
 西東は掌を右頬に当てながらペラペラと喋る。話し出すと止まらないタイプなのだ。
 人の話は最後まで聞けと育てられてきた千花だ。当初は西東の話を最後まで付き合っていた。だがそのおかげで塾の時間に遅れ、二度程傷い目にあったことがある。それが学びとなり、今では話を早めに切り上げるようになっていた。
「西東様。ごめんなさいね。私そろそろ行かなくてはなりませんの。お先に失礼いたします」
 千花は深々と頭を下げ、足早に学校を後にした。


  †



 塾帰りの千花は盛大に溜息をつきながら、重い足取りで家路を歩く。
 楽し気に談笑する学生カップルが千花の左隣を去っていく。
「いつものファミレス行こうよ」
 ブリーチで傷む茶髪のボブヘアを揺らすミニスカ女子高生は、並んで歩く学生に声をかける。
「そだね。ドリンクバーとかマジでありがたいよね。何杯でも行けちゃうし、何時間でもいれる。これで、スナック菓子持ち込みOKとかだったら、天国なのにね。椿もそう思うでしょ?」
「あははw お菓子持ち込みOKとかありえないでしょ? でもサイコー。そんなお店あったら常連になるなる」
 金髪ロングヘアーがトレードマークの椿と呼ばれた学生は、お猿の人形がタンバリンでも叩くように手を叩き、大口を開けて笑う。なんとも品にかける姿である。
「でしょー。私、そんなファミレス作っちゃおうかなー。その時は桜をチーフで雇うね」
 椿は友達の桜に名案だとばかりに話す。
「ありがとう。そしたら私、就職活動しなくて済むから助かるわー」
 桜は楽し気に笑った。
 二人はなんとも現実味のない会話を楽し気に話しながら、千花の隣を通り過ぎ、目的地に向かってゆく。
 そんな二人をどこか羨まし気に見つめ続けていた千夏は、盛大な溜息をつく。
 千花には他愛もない会話を交わす友人が一人もいない。物心ついたときに田舎から東京に引っ越してきてから、一人の日々を過ごすことが日常となった。
 今の学校に通うため、小学生低学年の時から受験勉強に明け暮れていた。
 毎日のように、英会話・水泳・ピアノ・塾・フランス語などの稽古事でスケジュールは埋め尽くされ、友達をつくる暇さえ与えられなかった。
 小学校高学年に入る頃には、人づきあいが悪いから話しかけても意味がないと、誰も千花に興味を示さなくなった。
 教室にはいるけど、いない存在として扱われる。まるで、生きる空気のように過ごした小学校時代を経て、今の千花に至る。いくら成長しても、低能なイジメと両親からのプレッシャーが増えただけで、千花に光が訪れることはなかったのだ。
 千花にとって一番頭が痛くなるのは、両親が敷いたレールの上を歩んでいくことだ。
 両親が決めた習い事を受け、求められる結果を出す。
 両親が決めた学校に入れるように、死ぬ気で勉強をして入学する。そして、両親が求めるトップという座を取り続けるために、自由な時間を消し去って過ごす日々。
 これから先も両親が決めたレールをゆき、両親から求められる結果を出し続けなければいけない。そうすれば、両親が笑ってくれる。
「よく頑張った。さすが私の娘だ」
「千花ちゃんは天才ね。千花ちゃんのような子が育ってくれて幸せだわ」
 両親はいつもそう言って千花を褒めてくれ、笑ってくれ、愛してくれる。
 だが、求められる結果を出せなかったときには、千花への言葉も表情も一八〇度変化した。
「お前みたいな子が私の娘とは……」
「私は貴方をこんな子に育てた覚えはないのよ。もっとしっかりしてちょうだい! お父様の品位に傷がつくじゃない」
 という言葉と共に、これでもかというほど落胆される。
 両親から笑顔が消え、向けられる冷ややかな視線に耐えなければいけない。
 両親の求める完璧な子供にならなければ愛されない。という恐怖。
 それがある限り、千花は両親に歯向かうことは出来ない。
 愛し続けられたい。そのためには、両親の期待に応え続けなくてはいけない。
 千花にとってそれはもはや強迫観念に等しかった。
 そこから抜け出し、楽しい学園生活を送ることが、千花の夢なのだ。
 両親が見定める人と恋愛もどきをするのではなく、先程の学生カップルのような自然な恋愛に憧れていた。
 それが悲しい恋の結末であっても、親通しが決めた人と共に過ごすよりも、ずっといいと思っているのだ。
 他愛もない会話を交わし、現実味のない話に笑顔の花を咲かせる。
 美味しいモノを食べて笑い合い、口に合わないモノを食べても笑い合う。
 どの洋服が好きだの、このモデルさんがカッコいいだのと、勉強になんら関係のないファッション雑誌を広げる。
 下校時にファミレスやクレープ屋に寄ったり、休みの日はショッピングモールやゲームセンターに遊びに行く。
 可愛く盛れた、盛れてない、など話しながらプリクラをとったり、消しゴムが転がっただけでも面白がれるような友人と共に、平穏で楽しい学園生活を送る。そんな生活が千花の憧れであり夢だった。
 常に隣に誰かがいて、楽し気に笑っていて欲しかった。だけど千花の現実は、いつだって一人だったのだ……。
 この先を生きていても、今のような生活が続くだけなんじゃないだろうか?
 いっそのこと、最初からやり直せたらいいのに……。
 千花は何度目か分からない深く大きな溜息を吐き出した。


  †





♪カンカンカンカーン♪
 警告音が響き、幾人かの利用者は時が過ぎ去るのを待つ。
 丸みのある軽い前髪に内巻きボブヘアーをした少女、奏千花は、感情を失ったピエロのようにふらふらと踏切に近づき、踏切が落ちきる寸前を潜りきってしまう。
 その場にいた者達が右往左往するなか、一人の少年が千花の左手首を掴む。
「⁉」
 前しか見ていなかった千花が初めて振り向く。その表情は驚きと恐怖の色が滲んでいた。
 意思が宿っていなかった千花の焦げ茶色の瞳に、涼しい目元が印象的な少年の姿が映る。
 少年は何も言わず、千花を踏切外に引きずり出す。
「な、なにす――ッ」
「どうせ捨てるつもりの命なら、その命、欲しい奴にやれば?」
 千花の言葉を遮断するかのようにそう放つ少年の声音には、苛立ちと冷徹さが含まれていた。
「?」
 千花は一瞬言葉の意味が分からず、視線をさ迷わせる。
「あんたがどうしようと俺の知ったことじゃない。でも命を落とすつもりなら他でやれ」
 あどけなさの残る少年の声には似つかわしくない冷徹な声が響く。
「ど、どうして見も知らぬ貴方にそんなことを言われなきゃいけないんですか?」
 当惑する千花は震えた声で問う。
「もう、誰かが死ぬのは見たくないから」
「?」
 千花は意味を求めるように少年を見る。
 さも面倒臭そうに溜息を溢す少年は、奏から視線を逸らし、淡々と話を続ける。
「……俺の大切な人も死んだよ。でも、あんたみたいな命の落し方じゃない。自分の命と最後まで向き合って、最後の最後まで生きるんだ! って必死にもがいたはずだ。だけど旅立ってしまった」
 少年の話に千花は愕然とする。
「今この瞬間も必死にもがき苦しんで、自分の命と向き合って生きようとしている奴が星の数ほどいるんだ。だから、あんたみたいなやつを見てると、腹が立つ」
 少年は千花を軽蔑する目で睨み見る。
 千花は少年の言葉と視線に目を見開き、自分を恥じるように耳を赤くさせる。居た堪れないのか、少年から視線を逸らした。
「で、でも! こ、心が死んで生きていけなくなることだって、あるんですッ」
 千花は振り絞るように言い返す。白のマリンセーラー服を握り締める指先は震えていた。
「ふ~ん」
 千花のせーいっぱいの反論に対し、少年はさも興味のない相槌を打つ。
「ふ、ふ~ん。って……」
 千花はその反応に対して唇を震わせた。
「お前の心が死んだのってさ、イジメが原因? それとも家庭環境?」
 少年は鋭利な洞察力を使って問いかけるが、千花は複雑そうな顔を返すしか出来ない。
「まぁ、俺にとってはどうでもいいけどさ」
 話を聞くことを諦め放棄したかのように、少年は深く息を吐く。
 二人の間に沈黙が流れる。
 その沈黙は少年の言葉によって破られた。
「心は何千回死のうと、何千回も息を吹き返すものだろ? だけど、命はたった一回死んだだけで、もう二度と生き返りはしない。その重みの違いをもっと感じたほうがいいんじゃねーの。お前の心だって……俺の心だってさ、いまは死んでるかもしれねーけど、いつかはまた息を吹き返す、はずなんだよ。だからさ、お互いもっと、自分を信じて生きていければいいな」
 どこか自分に言い聞かすかのようにそう告げた少年は、儚げな笑みを浮かべ、去ってゆく。
 千花はただ息を飲むしか出来なかった。
 まるで、少年の言葉を咀嚼して、自分の中へと取り組むかのように。


 †

 過去を話す千花は、どこか切なくも懐かし笑みを浮かべ、優光を見る。
「二年前の夏。あの時のボブヘアの少女のことを覚えていますか?」
 その言葉に優光はハッとする。
「私、あれから心を入れなおして、私なりに必死に生きてみました。だけど半年前――」
「自ら、手放したの?」
 眉間に皺を寄せて問う優光に、千花は静かに首を振って否定する。
「見知らぬ人からストレス発散の対象として、線路へ突き飛ばされました。電車は急停車して命は助かりましたが、打ちどころが悪く半永眠状態。幽体離脱したもう一人の私は黄泉の国へ。そこで出会ったんです。貴方のお母様と」
「お母さんは死んでいないって。どうしてお母さんと同じ場所に?」
 優光は問う。
「身体と魂が一時的に飛ばされたようです。そこからまた自分がいた世界に戻るかは自分次第」
「すぐに戻ったんだよね?」
 千花は優光の問いに苦笑しながら、左右に首を振る。
「自分の世界に戻って生きていく覚悟が持てなくて、しばらくその世界にいました。そこには色々な人の魂が嘆き悲しみ、恨みや喜び――色々な感情が蠢いてました。私はそこで、ずっと息子さんを見守っている母親の魂に強く惹かれ、声をかけた」
 千花は落ち着いた口調で淡々と説明する。まるで他人事かのような話ようである。
「それが僕のお母さんなの? お母さんはずっとそこにいたの? 八年間ずっと?」
「えぇ……」
 千花は静かに話し始める。

 黄泉の国――。
 闇の中。靄がかかる薄い光が幾千と儚く光っていた。
 その光達は闇の中を自由に浮遊する。出口のない闇の迷路。闇の鳥かごに捕まった光達はさ迷っていた。その闇の中で、ある一つの光がずっと同じ場所で現世界を見つめている。
 闇の中で一人身体を持つ者――奏千花はその光に歩み寄る。
「ぁ、あの……」
 千花は恐る恐る儚き光に声をかけた。その声は自分でも驚くほど細くて、震えを帯びていた。
『な、なにかしら?』
 儚き光はいきなり声をかけられたことに驚き、どもりながら返答する。
「ぁ、驚かせてしまってすみません。少し、お話させてもらってもかまいませんか?」
『えぇ。私でよければ』
 儚き光は控えめに問いかける千夏に、頷くように返事をする。
「どうしてずっと、そこから動かないのですか? ここにいる光の感情は多種多様ですが、なぜだか、貴方の感情と魂だけに惹かれてしまって……」
『……そう。私は、愛する息子を見ていたの』
 少し戸惑う様子を見せた儚き光はそう答える。
 儚き光が慈悲深き柔らかな笑みを口元に浮かべているように感じた。
 もちろん実際は、儚い光の靄がかかった球体が浮かぶだけで、表情や仕草まで目に映すことはできない。全ては千花の憶測と感覚で感じ取ったものだ。
「ずっと……ですか?」
『えぇ。あの子を残して旅立った自分を責めて、悔いては嘆きを繰り返していたら、八年の月日がたってしまったわ。あの子もずいぶんと成長したけれど、心の成長が止まってしまっているみたい……』
 儚き光は困憊したような口調で答える。
「……その息子さんは、どんな子なんですか? ぁ、差し支えなければで結構です」
 千花はほんの少し間を置き、どこか躊躇しながら控えめに問うてみる。心の深いところまで抉って問うつもりはないのだろう。

『とても素直で可愛くて、甘えたな子よ。優光っていうの。今はずいぶんと性格が変わってしまったように思えるけど……きっと、本当の自分を押し殺してしまっているのね』
 困ったように小さな溜息を吐く儚き光は、千花を誘うように浮遊する。
『覗いて見て?』
 儚き光は闇の中に転がる水晶玉を千花に見せた。そこには、学校の屋上に立ち、複雑そうに空を見上げていた優光の姿が映し出されていた。
『この水晶玉は一つの光に対して、一つ提供されるものよ。現世界を映してくれるものなの。現世界に残る心残りを少しでも取り除き、天国へ旅立ち、成仏できるようにね。だけど、私は八年間あの子の姿を見続けても、天国へ行けないわ。だって、心配だもの。大切だもの。せめて、もう一度だけ会えたら……』
 儚き光が話すなか、千花は食い入るように水晶玉に映し出される光景を眺め続けていた。
『貴方は? どうしてココに? 肉体があるということは、貴方の意思次第で助かる命よね。戻りたくない理由でもあるのかしら……』
「それは……。また自分の世界で生きて、戦っていく自信が持てなくて……」
 千花は恥ずかしくも、申し訳なさそうに答えた。
 儚き光は悲しくも複雑そうに、『……そう』とだけ答えた。
「だけど、闇の世界にいるうちに思い出したことがあります。とても大切な、忘れてはいけない出来事と言葉。私には、自ら命を終えようとしていた私を助け、叱ってくれた人がいるんです」
 千花は慌てて話しを繋げ、想いを話す。
「そのときの私はただ茫然とするだけで、なにも言えなかった。なにも出来なかった。だけど、その人の言葉があったから、心が生きようと立ち上がってくれたんです。私はその人にお礼が言いたくて、その人を探し回りました。だけど見つけられなくて、もしかしてこの闇の中にいるのかと思い、戻る前にその人を探していたのだと思います
 と、どこか懐かしむように話す声はどこか力強い。
『その子って、もしかして……』
 儚き光はハッとする。
「はい。この子です! この水晶玉に映っている男の子! 貴方の息子さん。この子が私を助けてくれたんですッ」
 千花は興奮しながら答える。
 二年間探し回ってやっと見つけた探し人。喜びが込み上げて当然だ。
「二年前より少し大人っぽくなっているかも。どこの学校だろう……」
 千花は水晶玉を見つめながら、ブツブツと独り言を繰り返す。


『大人っぽく見えるのは、あの子が感情を押し殺してしまっているからだわ。本当のあの子は、もっと素直で甘えたなんだもの。なのに今は感情を押し殺して、人を避けるような生き方をしている。あの子があの子らしく生きられるようにしてあげたいわ……』
 儚き光は溜息交じりに言う。
「わ、私に、私になにかできませんか?」
 千花は勢いよく儚き光の方に振り向く。
『え⁉』
 驚く儚き光は千花と距離を取った。
「そうだ! もう一度、もう一度息子さんと過ごしてください」
『は、はい?』
 儚き光は意味が分からないというように、素っ頓狂な声をあげた。
「私の器を使って、現世界へと舞い降りるんです! そこで息子さんともう一度会って、お話をして、二人の心残りや、心のキズを少しでも癒すことができたなら……素敵だと思いませんか?」
 不安げな儚き光とは対照的に、千花はこれは名案だ! と瞳をキラキラ輝かせる。
『あの子ともう一度過ごせるのなら、そんな嬉しいことはないけれど……危険すぎるわ。少しでも戻る時間がくるってしまえば、貴方はココから一生抜け出せなくなってしまうのよ?』
 儚き光は複雑な気持ちを咀嚼しながら、千花を止めようとする。
「大丈夫です。私、貴方と貴方の息子さんの役に立ちたいんです。二人に笑顔になってほしい。それに、貴方は私の器を奪ったままにしたりしませんよね? 必ず、時間通りに戻ってきて下さる。そう信じられるから」
 千花は力強く訴えた。
『千花ちゃん……。ありがとう。貴方をこんな孤独な闇の中へ置き去りになんてしないわ』
「はい」
 千花は穏やかに頷く。
『千花ちゃん、本当にいいのね?』
 儚き光は最後にもう一度問いかける。それはどこか、自分にも問いかけているようだった。
「はい! 私もあの人のために、なにかしたいんです。ううん。あの人が大切に思っている貴方のためにも。私で力になれることがあるのなら、力になりたい」
 千花は胸の前で両拳を握りしめ、力強く頷く。
『……ありがとう。本当に』
 儚き光は千花に勇気と希望の欠片をもらい、心を決めることができたようだ。
『必ず戻ってくるから。貴方を消したりなんてしないわ』
 千花の真っ直ぐな想いが心に響く儚き光は、涙声ながら強く答えた。
「はい。待っています」
 満足げな笑顔を輝かせる千花は大きく頷いてみせた。
 千花は気持ちを落ち着かせるように、一つ小さな息を吐く。
 ゆっくりと瞼を閉じ、口元に穏やかな弧を描く。
 闇の中に現れた霧が千花を覆い隠す。
 霧が全て消えた頃には、千花の器と儚き光の姿はどこにもいなかった――。


 †


 千花の話を聞いて呆然としていた優光は、ゆっくりと口を開く。
「それが僕のお母さんなの? お母さんはずっとそこにいたの? 八年間ずっと?」
「えぇ。小さい貴方を残して旅立った自分を責めて、悔いては嘆き、ずっと貴方をそこから見ていたんです」
 千花は静かに答える。
「ど、どうしてそんなに長くッ」
「貴方のことが心配で心配でたまらなかったからに決まってるじゃないですか。魂が成仏できず、ずっと闇の中にいるしかできなかったんです」
「そんな……」
 優光は申し訳なさに押しつぶされるように項垂れる。
「私、涙が止まらなかった。お母様の愛に。こんなにも生きたい、元の世界に戻りたいと願っている人がいるのに、意味もなくそこへいた自分の申し訳なさ。その人の愛する息子さんが貴方だったということ。貴方の言葉を忘れてしまっていた自分の弱さに」
 千花はポロポロと涙を溢す。
「お母さんはまだ闇の中にいるの?」
「いいえ。もういません。貴方のことはもちろんだけど、お母様の魂を早く成仏させてあげたかった。だから私は、私の魂以外を全てかしたんです。命日の二四時まで。それを過ぎれば私はずっと黄泉の世界へいなくてはいけなかった。違う器に入ったお母様の魂は、黄泉を取り締まっている機関の人から魂を引きずりだされ、全ての記憶は強制的に消滅させられる。その二つのリスクを背負ってでも」
 千花は涙で赤くなった瞳を優光に向ける。
 優光は、どうしてそこまでする必要があったのだと、戸惑いの色を見せる。
「私は二人に笑って欲しいと思ったんです。そして、人の心は再生できるのだと、貴方に証明して欲しかった。なにより、貴方のお母様を一秒でも早く闇の中から救いたかった。貴方は……本当に、心は再生できると思いますか? 私達はまた、強く生きられますか?」
 千花は涙を溢しながら、縋るように答えを求める。
「……。うん。ありがとう。今なら断言できるよ。そう思わせてくれてありがとう。僕達を救ってくれて、本当にありがとう」
 優光は穏やかに微笑み、心からの感謝の気持ちを込めて頭を下げる。
「大丈夫」
 心を込めてその一言を言った優光は、千花の右手を両手でそっと包み込む。
「僕達の心は、自分の力だけでは再生できないかもしれない。だけど、なにかの拍子に息を吹き返すことがある。まるで魔法のように。今度は、僕が君の心を生き返らせてみせる。証明するよ。心だけは死なないということを。時間はかかるかもしれないけれど、心は何度でも再生するってことを」
 優光はあたたかくも意志の強い瞳で千花を見つめる。
 握る手にも自然と力がこもる。
 海水で冷えた二人の手が、お互いの体温で温かさを取り戻してゆく。
 まるで、心が息を吹き返すように――。
 一年後。

 午前十時。夏休み最終日。
 ファミリー層やカップル。友達同士などの来場者で溢れかえるアクアパーク品川水族館入り口前。
 デニムとフード付きTシャツに身を包んでいた優光はスマホを弄りながら、本日の待ち人を待っていた。
 もともと人混みが多いところが苦手な優光だ。ボーっと人を眺めながら待っているより、スマホ画面に集中しているほうが落ち着くのだろう。
「優光くんッ」
 黒のシャツワンピースに身を包む奏千花が優光に駆け寄る。
「千花さん」
 優光は千花の声に反応して顔を上げる。弄っていたスマホの電源を落とし、尻ポケットに差し込んだ。
「待たせちゃってごめんなさい。駅の出口に迷ってしまって」
 申し訳ない気持ちがいっぱいの奏は、顔の前で両手を合わせて謝る。
「大丈夫です。そんな待ってないですよ。それより、無事に合流出来て良かったです。今度迷ったら連絡下さい。僕が迎えに行きますので」
 一年前では考えられない穏やかな雰囲気を漂わせる優光が優しく答える。
「ありがとう。優光くんは本当に優しいね」
「べつに優しくないです。早く行きましょう」
 照れ隠しにそっけなく返す優光は先に歩きだす。
 千花は慌てて優光の後ろをついて行った。


 二人は入場ゲートから左に曲がる
 少しの坂を下ると右手に現れる、大きな海賊船をイメージさせるようなアトラクション遊具。それに気がついた千花は瞳を輝かせる。
「乗りますか?」
 千花の視線の先に気がついた優光は、アトラクションを指さして言う。
「いいの⁉」
「もちろんです。並びましょうか」
 歓喜の笑みを浮かべる千花に微笑む優光の雰囲気は、とても優しく穏やかだった。
「やった! ありがと~。私、アトラクションとか初めてなの」
 二人は巨大な海賊船に乗り込み、命綱であるバーを下ろす。
「ドキドキしてきた」
 期待と不安に胸を躍らせる千花に対し、「そうですね」と冷静に返す。
 クールな優光に戻ったのかと思いきや、手が赤くなるほどバーを握りしめている。表には出さないが、恐怖しているのだろう。
「いざ出航の時! お頭に海に落とされないように気をつけて! いい航海を‼」
 アトラクションスタッフが声をあげると、巨大な海賊船が振り子のように動き出す。
「ッ!」
 恐怖と船酔いに耐える優光。
「ひゃぁ~ッ」
 奏は叫びながらもアトラクションを満悦する。
 ほどなくして、巨大な海賊船は島へ漂着した。


「皆さん、嵐の中の航海。お疲れ様でした~!」
 アトラクションスタッフが声をあげる。
「楽しかった~! って、優光くん大丈夫ッ⁉」
 ご満悦の千花は、青白い顔で硬直としている優光に焦る。
「は」
「は?」
「は、き、そーでずぅ~」
 優光はオウム返しをする千花に、左手で口元を抑えて首を竦める。
「えぇー⁉ ま、待って待って! おお手洗いに行こう」
 先に立ち上がった千花は優光の腕を持ち上げて立ち上がらせる。
「む、むりでずぅ~」
「む、無理じゃない! 諦めちゃダメよ」
「ごごがら、どいれ、とぼう~」
 優光は両手で口元を覆いながら言った。
 半ば無理やり出された言葉達には濁点が多く、瞬時に解釈できない。
「とぼう? ……ぁ! ここからお手洗いが遠いってこと?」
 あたふたする千花の問いに、切羽詰まった優光がコクコクと頷く。
「わ、分かった。すみませーん」
 言葉の意味と優光の限界を理解した千花は、右手を上げてアトラクションスタッフを呼ぶ。
「ど、どうされました?」
 男性アトラクションスタッフが慌てて駆け寄ってくる。
「すみません。船酔いしたみたいで……ゴミ袋とかありますか? 一応エチケット袋は持っているのですが、溢れる可能性が無きにしもあらずですので」
「分かりました。これをお使いください」
 男性スタッフは、ホルスターのような鞄に入っていた大き目の白いビニール袋を奏に渡す。
「ありがとうございます。助かります」
「いえ。時々こういうことがおこりますので。取り合えずアトラクションから降りてもらって、スタッフルームの隅で……」
「ぶぐ~」
 二人のやり取りを遮るように、優光は苦し気に言った。もう限界を通り過ぎている。
「わぁ~ちょっと待ってー」
 千花は優光の腕を引っ張ってデッドスペースまで連れていくと袋を手渡す。優光は袋を口元に当てて――地獄を見る。
「み、見ないで、ぐだざ~いぃ」
「大丈夫大丈夫。見てない観てない。なんか、ごめんね」
 と、同情するような瞳で優光の背中を見る千花は、優光が落ち着くまで優しく背中をさすってやった。



 ブラックライトに包まれるなか、発光するサンゴ達が訪れた人達を光照らす幻想的な空間。
 水族館の世界観を壊さないカフェバーで、千花と優光は休息を取っていた。
 優光は丸いテーブルに両肘をついて、主に精神的にぐったり項垂れていた。
「どう? 少し落ち着いた?」
 千花はそんな優光の顔色を覗き込むようにして言った。
 優光は心配と不安と申し訳なさが入り混じる顔をした千花に、「……はい」とだけ答え、気まずげに視線を逸らす。
 あまりにもな出来事に、精神的ショックは大きかったのだろう。
「……すみません。お見苦しいところをお見せしてしまって」
「全然。私こそごめんね。無理な時とか、苦手なモノとかあったら遠慮せずに、ちゃんと言ってもらえると嬉しいよ」
 千花は眉根を下げていう。
「苦手……だったんですかね? あーいったアトラクションに乗ったのは九歳の時以来なので、自分が駄目なのか分からなくて。ご迷惑をおかけしました。今度から気をつけます」
 優光は苦笑いをしながら、冷えたジンジャエールを数口飲む。炭酸とさっぱりした味が、優光の気分と頭をスッキリさせてくれた。
「そうだったんだ。それだったら判断は難しいよね。でも、なんとか具合も戻ったみたいでよかった」
 千花は安堵の溜息を溢し、シロップなしのアイスレモンティーを一口飲む。甘い物が苦手な千花は、シロップなしの紅茶を好んで飲んでいた。
「この後はどうするの?」
「飲み終わったら水族館を見て回って、軽く昼食を取ってから、例の場所へと向かう予定です」
「ハードスケジュールだけど大丈夫?」
 千花は優光の体調を心配し、不安げに問う。
「大丈夫です。飲み物を飲んだらスッキリしましたし」
 グラスに残っていた二割のジンジャエールを飲み干した優光は、千花を安心させるように笑顔を見せる。
「そっか。じゃー行こう」
 笑顔で頷く千花もレモンティーを飲み干す。
 こうしてカフェバーを後にした二人は、ゆったりとした足取りで、水族館と言う名の海の世界を堪能したのだった――。




 †

「楽しかった~」
 千花は太陽にも負けないほど光り輝く笑顔を見せる。
「それはよかったです。昼食、なに食べたいですか?」
「私、回転お寿司行ってみたい! サイドメニューが豊富で、スイーツもあって、パラダイスみたいなんだもん」
「え⁉ 行ったことないんですか? もしかして、普段は回らないお寿司とか食べに行くんですか?」
 思いもよらない千花のリクエストに、優光は目をまん丸くして驚いて見せる。
「ぁ、うん……。といってもごく稀だけど。そもそも家族三人で外食することなんて、滅多にないもの。父は忙しい人だから」
 千花は少し寂し気に言って、眉尻を下げて微笑む。
「な、なるほど。じゃぁー、回転寿司に行きましょうか。回転率も速そうですし」
 優光は納得したように頷くと、スマホを弄る。
「ありがと……って、優光くん海鮮とか大丈夫? アレルギーとかじゃないよね⁉ なんでもかんでも私の意見を受け入れてくれなくてもいいんだよ。嫌なモノとか駄目なモノとかあったら、ちゃんと言ってね!」
 千花は早口で突っ走るように言った。きっと脳裏で先程の悪夢がよぎったのだろう。
「大丈夫です。むしろお寿司は好きな方です。アレルギーとかはないです。食べ物で言ったらトマトが苦手です。特にプチトマトは敵です。ぁ、今一時間待ちで予約しました。ゆっくり歩いて行きましょう」
 優光はそう言ってスマホの電源を落とし、尻ポケットに入れる。
「……そう? それならよかった。トマトが駄目なんだね! 脳内メモに書いとく。うん!」
 千花は楽しそうに笑う。
 少しだけ口角を上げて歩き出す優光の後ろに、千花も続いた。



  †

「わぁ~! 本当にお寿司が回転してきてるよ! なにここ、なにここ! 優光くん凄いよ! お寿司はもちろんだけど、ラーメンにうどん。まぜそば? ベトナム風ぜんざいって何⁉ ぁ、長崎カステラだ! 一度お父さんが出張で行ったとき、お土産で買ってきてくれたことがあるの。おいしいよね! わ! ケーキにフレンチトーストもあるよ!」
 千花は席へついてメニュー表を見るなり、大興奮の嵐である。
 テンションMaxで子供のようにはしゃぎまくる千花に優光は少し呆気にとられる。
「ち、千花さん。少し、落ち着きましょう?」
 優光は顔の前で両掌を突き出し、どぉどぉど~。という風に押しては引いての動きを繰り返し、千花を落ち着かせる。
「ぁ、ごめんなさい……つい。その、物珍しすぎて、はしゃぎ……すぎました」
 千花は耳を赤くさせてぺこりと頭を下げる。
「ふふ。いえ、楽しそうで何よりです。僕はお水持ってくるので、千花さんはお茶入れておいてくれますか?」
「うん。湯呑にお茶のパック入れて、この黒い所を押したらいいの? ……か、固いッ」
 千花は熱湯が出てくる所に湯呑の淵を重ねて押そうとするが、力の入れ具合が下手すぎて上手くいかない。
「片手だから駄目なのかな?」
 一人納得したように頷く千花は、湯呑を包み込むように両手で持って、再度挑戦する。
「お、お茶は僕が入れますッ」
 危険を察知した優光は慌てて湯呑を取り上げ、慣れた手つきで熱湯を注ぐ。
「ぁ、すんなりでてくる」
 千花は不思議そうな顔で熱湯の出所を見つめた。
 少し口を尖らかせている所を見ると、上手く出来なかったのが悔しかったようだ。
「最初は上手くいかないですよ。力が弱い方にはこの出し口硬いですし」
 優光はすかさずフォローを入れる。
「つ、次までに練習しておくわ」
 そんな言葉を返してくる千花に微苦笑を浮かべる優光だった。
「じゃぁ、僕はお水を入れてきますので、先に好きなのを頼んでいてください」
「えっと……どうやって?」
 千花は複雑そうな顔をして問う。
「へ?」
 と、素っ頓狂な声をあげる優光。
「え?」
 千花は何か可笑しなことを言っただろうか? と首を傾げて見せる。
「この注文タッチパネルを使うんですよ――」
 優光は注文方法を手短かつ分かりやすく説明すると、お水を取りに行くためその場を離れる。
「だ、大丈夫だろうか?」
 優光は二つのグラスに冷たいお水を注ぎながら、不安の溜息を溢す。
 お手軽で楽しく食事ができる回転寿司店のはずだが、今の優光にはとっては、戦々恐々の対象となっていた。


「ぁ、優光くーん。警報がなって止まらないの! 助けて~」
 注文した商品が届くことを知らせる通知音。
 それを警報音と勘違いして本気で慌てふためき、自分に助けを求めてくる千花に、優光は一瞬口を塞ぐことを忘れてしまう。
「千花さん。それは警報音ではなく、注文が届いたお知らせ音です。注文した商品を取ってから、赤いボタンを押して列車を戻すんです。じゃないと鳴り続けます」
 優光は説明しながらその動作をして、着席する。
「な、なるほど……。色々ルールがあるのね」
 千花は取り乱した自分を少し恥じるように、身を小さくさせた。
「ルールってほどでもないと思いますが……」
 と言いながら、割りばしを自分用と千花用を取って渡す。
「ぁ、ありがとう」
 千花はお礼を言って割りばしを受け取り、醤油入れを箸置き代わりにして、割りばしをそっと置いた。
「……。ちなみに、割りばしの割り方はご存知ですか?」
 優光は恐る恐る問いかけてみる。
「もちろん! 私そこまで世間知らずじゃないわ」
 失礼しちゃうわね! とでも言いたげに、割りばしをマナー良く、上下に引っ張るように割った。変な形になることもなく、綺麗な割りばしの完成系が出来上がる。
「ですよね。失礼しました。じゃぁ、いただきましょうか」
「うん」
 二人は顔の前で両手を合わし、いただきます。と口にする。


 その後も、回っているお寿司を取ってみたいと寿司カバーに悪戦苦闘する千花をフォローしたり、お茶汲みに再挑戦する千花にオロオロしたり、ケーキもお箸で食べるの? と問うてくる千花にスプーンを渡したりと、優光とっては、気の休まらない昼食会となった。
 なんとも、持ちつ持たれつのいいコンビである。
  †


 神奈川県。鎌倉市堀越。
 真夏の終わりを告げるような陽の光を放つ夕日を背に、二人は砂利道を踏み鳴らしながら、ゆったりとした歩幅で歩みを進める。
 二人が訪れたのは、優光の大切な人が眠る霊園だった。
「昨日の約束通り、千花さんときたよ」
 優光は墓石の前で微笑む。
「お久しぶりです。私もつれてきてもらっちゃいました」
 優光の二歩後ろにいた千花は墓石の前で柔らかな笑みを見せる。


【二〇××年八月三十一日 永眠】

 ここは、優光の母が永遠の眠りにつく場所だ。
「お墓のお手入れとかしなくてもいいの?」
「大丈夫です。昨日しておきました。でもお花は飾ろうと思っています」
 優光は霊園の近くにある花屋で買った小さな花束と、陶器の小さな花瓶を見せる。
 すでに墓石に備え付けられた花立てには、菊の花を主とする花束を飾っていたため、花屋で購入したのだ。
「そっか。じゃぁ私、その花瓶を洗って、お水入れてくるね」
 千花は小さく頷き、花瓶洗いに行った。
「こ、転ばないで下さいね」
 先程のこともあり、思わず子ども扱いをするようにそう声をかけてしまう。
 華奢な千花の背中を見送る優光の表情は、とても穏やかだった。
「母さん。千花さんは本当に優しくて良い人だね。……少し変わってるけど」
 優光は自分の目の前に、母がいるかのように話す。
「僕も母さんも、奏さんに出会えて本当によかったね。千花さんが僕達を前に向かせてくれたんだよ。過去でしか生きれない僕達を、前に向って生きていけるように、命がけで僕達を変えてくれたんだ」
 穏やかな口調でそう言う優光の顔は温顔そのものだった。
 優光はあの日を境に、本来の自分を取り戻したのだろう。
 優光はもう、あの感情が冷めきったような冷たい視線を誰かに向けることはない。
 感情を押し殺したような生き方も、人に冷たく当たることも、人と距離を置くこともなくなっていた。
 何より、死にたい。という言葉を吐き出すことがない。
 きっとその言葉の奥に潜んでいた、『会いたい』という願いが叶えられたこともあるが、強く生きるという、命を繋ぐ約束を母と交わしたことも大きいだろう。
「優光くーん」
「ぁ、戻ってきたよ」
 響く千花の声に気づく優光は母に報告するように呟く。


「おまたせ〜」
 水を注いだ花瓶を手にした千花は嬉しそうに優光へ駆け寄る。
「ありがとうございます。助かります」
 優光は奏から花瓶を受け取った。
「母さん。この花、好きだったよね」
 優光はそう話しかけながら、生前母が好きだった向日葵を主とした背の低い花束を花瓶に入れ、そっとお墓に供える。
「優光君。本当に私も来ちゃってよかったの?」
「もちろんです。千花さんは僕達の命と心の恩人ですから」
 当然です! とでも言いたげに深く頷き、微笑んで見せる。
「ありがとう。優光君と優光君のお母様は私にとって、私の命と心の恩人だよ」
 千花は穏やかに微笑み、目を細める。
「よかった。僕は奏さんと千花さんの心が、今よりもっと笑顔になってくれるのが、一番嬉しいです。きっと、母さんもそれを望んでいます」
 優光はそう言って、静かに両手を合わせて瞳を瞑る。
 その二歩ほど後ろで手を合わせる千花は、天国にいるであろう優光の母親に感謝の想いと、優光との近況を伝えるようにそっと瞳を瞑った。


 あの日を境に、二人はよく遊ぶようになった。
 友達以上恋人未満の関係ではあるが、その絆はどこの誰とよりも強いだろう。
 一度は自ら命を落とそうとした千花を通りがかりの優光が助け。黄泉の国で嘆き苦しむ優光の母と、現世で苦しむ優光を千花が助ける。
 守り守られ。助け助けられの関係。
 二人が出会わなければ、優光と千花の命は失われていたかもしれない。
 黄泉の国では成仏仕切れない感情と記憶を持つ一つの魂が、黄泉の使者により、強制的に“無”に戻されていたかもしれない。
 優光と千花の出会い。
 千花と一つの魂の出会い。
 それらは、三人が前を向いて歩んでゆけるように、心をより強く再生できるようにと、奇跡の神様がかけてくれた、世界一優しい魔法だったのかもしれない――。

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