「ねぇ、大丈夫? 母さんッ」
 優光は意識を手放した母の身体――否。溺れそうになる少女の身体を持ち上げ、陸へとあがっていた。
「ね、ねぇって!」
 目を覚まさない少女の肩口を揺らしながら、繰り返し母を呼び続ける。大切な人を失う恐怖により、優光の血色が失われてゆく。
「ね、ねぇ、大丈夫? しっかりして」
 優光はピクリとも動かない少女を優しく揺すって起こす。
 規則正しいリズムで胸が上下している所を見ると、息はしているようだ。
「ッ……」
 数分後。
 少女は唸り声を上げながら目を覚ます。
「か、母さん。だ、大丈夫?」
 少女の頭を膝の上にのせていた優光は、慌てて少女の顔を覗き込む。その優光の表情は今までよりもどこか幼げだ。これが本来の姿なのかもしれない。
 瞼を開けた少女の焦げ茶色の瞳が優光を映す。
「ぇ⁉」
 少女の瞳を見た優光は驚異する。
 白石千夏の瞳の色がヘーゼル色だったのに対し、今目の前にいる少女の瞳は焦げ茶色をしているのだ。
「ご、ごめんなさい。だい、じょうぶ……です。が、わたしは、貴方の……おかあさま、じゃ……ない、です」
 少女は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。久しぶりの生身の身体に、上手く対応しきれていないように思える。
「き、きみは、誰なのッ?」
 優光は震えた声音で問う。
 海水で体温が下がったこともあるだろうが、優光から血色が失われてゆく。その表情はまるで、あやかしにでも出会ったようだ。
 優光が感じている恐れは少女にも届く。
「だ……大丈夫、です。私は貴方に、危害を及ぼしません」
 自分の脳と身体が馴染んできたのか、少女はフラフラと立ち上がる。
 少女の髪に滴る海水がポタリポタリと地面を濡らす。
 優光は愕然と少女を見上げた。
「私の名前は白石千夏ではなく、奏(かなで)千花(ちか)です」
「母さんは千夏だって。瞳の色も違うし……いったいどういうことなの?」
 困惑する優光は両手で頭を抱え、視線をさ迷わせる。
「白石千夏という名前は、貴方のお母さんが考えた偽名です。私の本当の名前は、奏千花。死者に残るのは魂だけで、身体という器も名前も全てが0になります。貴方のお母様は、私の名前を名乗ることに気が引けたのかと。だから、偽名を名乗ったのでしょう。瞳の色が違うのは、貴方に私だと気がつかれては困ると、カラーコンタクトをしていたんです」
 千花は落ち着いた口調で簡潔に説明する。
「そんなこと……」
 優光は恐怖するようにがぶりを振る。
「ありえなくても、信じられなくても、今貴方が体験していることは全て、真実なんですよ」
 真剣な眼差しで伝えてくる千花の言葉に、優光は複雑そうに下唇を噛み締めた。
「ど、どうして? どうしてお母さんに協力してくれたの? それに、気がつかれては困るって、僕と会ったことないよね?」
 優光は理解不能だとばかりに眉間に皺を寄せる。
「……。私は二年前、貴方に命を救われたんです。貴方の役に立てるのなら、自分に出来ることを全てしようと思ったんです」
「二年前?」
 優光は話の糸が見えるように話して欲しいと、首を左右に振る。
 千花はゆっくりと、事の真相を話し出す。


 二年前――。
「行ってきます」
 白のマリンセーラー服に身を包んだ少女が、ホワイトカントリー調の家からでてくる。奏千花だ。表情は暗い。
 重い足取りで学校に向かう千花の横を、他校の学生が自転車で颯爽と通り過ぎていく。その後ろでは、女子高生二人組が楽し気に話しをしながら歩いて行く。
 夏休みに差し掛かる頃の学生は、どこか浮足立っているように千花は思えた。
「学校、行きたくない。夏休みも、こなければいいのに」
 千花はボヤキながら学校へと向かった。
 どんなに学校へ行きたくなくとも、千花はけしてズル休みなどしない。もし学校に行かなければすぐに親に連絡が入り、父親から激怒されることが目に見えているからだ。
 行っても地獄。行かなくても地獄。
 今の千花に逃げ場などなかった。
「……ない」
 千花は下駄箱に上履きがないことに気がついて小さな溜息をつくが、慌てふためくことはしない。
「なんて低能なの」
 千花は憤りを吐き捨てるような溜息と共に、ここにはいない犯人に悪態をつく。
 スクールバッグから予備の上履きを取り出す千花は、手早く履き替える。履いてきた白のスニーカーは、持ってきていた上履き入れに直してバッグにしまった。その無駄のないスムーズな動きは、日課でもこなすようだ。
「あら、奏様。ごきげんよう」
 金髪巻き髪をしたハーフ美少女が千花に気がつき、品良く微笑む。その笑みはどこかお人形じみていて、優しさも温かみも感じられなかった。
「ミリア様。ごきげんよう」
 千花は力なく微笑み返す。
「では、奏様。お先に失礼しますわね」
 ミリアは軽く会釈をして、自分の教室へと向かった。その数歩後ろを付き人が追う。ミリアを護衛する執事兼SPのようなものだ。
「奏様、ごきげんよう」
 鎖骨下でカットされた甘栗色の髪をした少女が、背後から千花に声をかける。
 気配のないところからの声かけに驚く千花は、身体全体で飛び退くように振り向いた。その際、背中に靴箱が当たった衝撃で顔をしかめる。
「本日も、一緒に勉学に励みましょうね? クラスメイトですもの」
 少女は穏やかに微笑み、千花に左手を差し出す。握手を求めているのだろう。
「えぇ」
 ぎこちなく微笑む千花だが、握手は交わさない。
「あら? どうして握り返して下さらないのかしら? 奏様は私のことを汚らわしくお思いなのかしら?」
 少女はしょぼくれたように眉を下げて見せる。
「いえ、そんなことはありません」
 千花は慌てて握手を交わす。
「ッ⁉」
 千花はチクリとした刺されるような痛みを感じ、慌てて手を離す。掌を見ると小さな赤点が出来ており、薄い血が細長く流れ出していた。
 千花は説明を求めるように目の前の少女を見つめる。
 少女は左掌を胸の前で見せる。そこには両面テープではられた画鋲の姿があった。握手を交わすと、必然的に相手の掌に刺さるようになっていたのだ。
「ミリア様にお声がけいただけたからって、調子に乗らないで下さいね。ミリア様は誰でも平等に接して下さる麗しき人なのですから」
 少女は口恥を吊り上げると、鼻を鳴らして颯爽と去っていく。
 千花はその背中を呆然と見つめ続けた。
 ミリア・サーシェス。千花より一年先輩。千花が通うお嬢様学校の中でも、ミリアは群を抜いているお嬢様だった。
 政治界で働く父を持ち、いつも護衛の付き人を一人従えている。成績は常にトップ。運動神経もよく人当たりもよい。先生や生徒達からの信頼も高い。けして低能なことをする者ではない。だが、千花を悩ます一人なのは確かだった。
 千花の父も政治界で働いている。
 ミリアの父が文部科学省教育再生担当の大臣。千花の父は、文部科学省教育再生担当の政務官を務めていた。
 千花の父はそこで一生終えるつもりはなく、虎視眈々と大臣の座を狙っている。
 それによって、千花の学校生活を厳しく指導し、学歴も常にトップじゃないと許されなかった。
 ミリアとの関係も仲良くして父の弱みでも握ってこい。とスパイじみたことを要求される始末だ。
 もちろん千花はそんなことをしない。表面上仲良くしている程度にとどめていた。深く付き合えば、後から傷つくことになるのが分かり切っているからだ。
 だがミリアに憧れる取り巻きのお嬢様達に、千花はよく思われていない。簡潔的に言うならば、嫉妬……なのだろう。
 父親同士の働き口が同じなことで距離はぐっと近くなる。という思い込みもあるのかもしれない。
 ミリアが千花に一言声をかけるだけで、陰口を言われるのだ。酷いときでは、こうして外傷を負わされることもある。
 手口は他の生徒や教員、付き人にバレないように巧妙なことが多い。
「わッ⁉」
 千花は教室に入ってすぐ何かに躓き、前のめりにコケる。
「あら奏様⁉ ごめんなさいね。私の細くて長い足が貴方のお邪魔をしてしまったわね」
 と意地の悪い微笑を浮かべるクラスメイト。
「いえ。私の不注意ですので」
 千花は冷静な口調で微笑み、何事もなかったかのように自分の席に着いた。
「面白みに欠ける子ね」
 足を引っかけた高飛車なクラスメイトは、そんな千花の背中に鼻を鳴らす。
(なにが細くて長い足が邪魔をしたよ。どう考えてもわざとじゃない)
 千花は心内で苛立ちを現しながら、バッグから一限目に必要な教科書類だけを取り出し、机に置く。スクールバッグは膝の上に置いたままだ。
 いつかの日、千花のバッグに財布を隠し入れようとした者と鉢合わせして以来、千花は肌身離さずバッグを持ち歩いている。
 教科書はいつも持ち帰るし、必要な物しか取り出さない。悪事を働く者達は教師がいる前では鳴りを潜めている。千花にとって、授業時間だけが落ち着ける時間だった。
 もちろん、常に学歴トップを取らなくてはいけないプレッシャーがのしかかっているため、居眠りなどできる心のゆとりなどはない。

 その日の授業を平和に終えた千花に、ゆるふわウェーブがかかる黒髪を揺らした女子生徒が寄ってくる。
「奏様。このあいだオープンした駅前のカフェでお茶でもしません?」
「ぁ、西東様。お誘いありがとうございます。とても嬉しいのですが、これから塾がありますので……ごめんなさい」
 千花は誰にでも人懐っこく接する西東に頭を下げて謝り、スクールバッグを背負いなおす。
「あら、またですの? 奏様はいつも塾で学んでいらっしゃるのね? たまには息抜きも必要じゃなくって? って、そんなことは無理ですわよね。お父様がお父様ですもの。一人娘のプレッシャーも相当なものだと思いますわ。なんでも、医師か弁護士以外の役職についてはいけないのでしょう?」
 西東は掌を右頬に当てながらペラペラと喋る。話し出すと止まらないタイプなのだ。
 人の話は最後まで聞けと育てられてきた千花だ。当初は西東の話を最後まで付き合っていた。だがそのおかげで塾の時間に遅れ、二度程傷い目にあったことがある。それが学びとなり、今では話を早めに切り上げるようになっていた。
「西東様。ごめんなさいね。私そろそろ行かなくてはなりませんの。お先に失礼いたします」
 千花は深々と頭を下げ、足早に学校を後にした。


  †



 塾帰りの千花は盛大に溜息をつきながら、重い足取りで家路を歩く。
 楽し気に談笑する学生カップルが千花の左隣を去っていく。
「いつものファミレス行こうよ」
 ブリーチで傷む茶髪のボブヘアを揺らすミニスカ女子高生は、並んで歩く学生に声をかける。
「そだね。ドリンクバーとかマジでありがたいよね。何杯でも行けちゃうし、何時間でもいれる。これで、スナック菓子持ち込みOKとかだったら、天国なのにね。椿もそう思うでしょ?」
「あははw お菓子持ち込みOKとかありえないでしょ? でもサイコー。そんなお店あったら常連になるなる」
 金髪ロングヘアーがトレードマークの椿と呼ばれた学生は、お猿の人形がタンバリンでも叩くように手を叩き、大口を開けて笑う。なんとも品にかける姿である。
「でしょー。私、そんなファミレス作っちゃおうかなー。その時は桜をチーフで雇うね」
 椿は友達の桜に名案だとばかりに話す。
「ありがとう。そしたら私、就職活動しなくて済むから助かるわー」
 桜は楽し気に笑った。
 二人はなんとも現実味のない会話を楽し気に話しながら、千花の隣を通り過ぎ、目的地に向かってゆく。
 そんな二人をどこか羨まし気に見つめ続けていた千夏は、盛大な溜息をつく。
 千花には他愛もない会話を交わす友人が一人もいない。物心ついたときに田舎から東京に引っ越してきてから、一人の日々を過ごすことが日常となった。
 今の学校に通うため、小学生低学年の時から受験勉強に明け暮れていた。
 毎日のように、英会話・水泳・ピアノ・塾・フランス語などの稽古事でスケジュールは埋め尽くされ、友達をつくる暇さえ与えられなかった。
 小学校高学年に入る頃には、人づきあいが悪いから話しかけても意味がないと、誰も千花に興味を示さなくなった。
 教室にはいるけど、いない存在として扱われる。まるで、生きる空気のように過ごした小学校時代を経て、今の千花に至る。いくら成長しても、低能なイジメと両親からのプレッシャーが増えただけで、千花に光が訪れることはなかったのだ。
 千花にとって一番頭が痛くなるのは、両親が敷いたレールの上を歩んでいくことだ。
 両親が決めた習い事を受け、求められる結果を出す。
 両親が決めた学校に入れるように、死ぬ気で勉強をして入学する。そして、両親が求めるトップという座を取り続けるために、自由な時間を消し去って過ごす日々。
 これから先も両親が決めたレールをゆき、両親から求められる結果を出し続けなければいけない。そうすれば、両親が笑ってくれる。
「よく頑張った。さすが私の娘だ」
「千花ちゃんは天才ね。千花ちゃんのような子が育ってくれて幸せだわ」
 両親はいつもそう言って千花を褒めてくれ、笑ってくれ、愛してくれる。
 だが、求められる結果を出せなかったときには、千花への言葉も表情も一八〇度変化した。
「お前みたいな子が私の娘とは……」
「私は貴方をこんな子に育てた覚えはないのよ。もっとしっかりしてちょうだい! お父様の品位に傷がつくじゃない」
 という言葉と共に、これでもかというほど落胆される。
 両親から笑顔が消え、向けられる冷ややかな視線に耐えなければいけない。
 両親の求める完璧な子供にならなければ愛されない。という恐怖。
 それがある限り、千花は両親に歯向かうことは出来ない。
 愛し続けられたい。そのためには、両親の期待に応え続けなくてはいけない。
 千花にとってそれはもはや強迫観念に等しかった。
 そこから抜け出し、楽しい学園生活を送ることが、千花の夢なのだ。
 両親が見定める人と恋愛もどきをするのではなく、先程の学生カップルのような自然な恋愛に憧れていた。
 それが悲しい恋の結末であっても、親通しが決めた人と共に過ごすよりも、ずっといいと思っているのだ。
 他愛もない会話を交わし、現実味のない話に笑顔の花を咲かせる。
 美味しいモノを食べて笑い合い、口に合わないモノを食べても笑い合う。
 どの洋服が好きだの、このモデルさんがカッコいいだのと、勉強になんら関係のないファッション雑誌を広げる。
 下校時にファミレスやクレープ屋に寄ったり、休みの日はショッピングモールやゲームセンターに遊びに行く。
 可愛く盛れた、盛れてない、など話しながらプリクラをとったり、消しゴムが転がっただけでも面白がれるような友人と共に、平穏で楽しい学園生活を送る。そんな生活が千花の憧れであり夢だった。
 常に隣に誰かがいて、楽し気に笑っていて欲しかった。だけど千花の現実は、いつだって一人だったのだ……。
 この先を生きていても、今のような生活が続くだけなんじゃないだろうか?
 いっそのこと、最初からやり直せたらいいのに……。
 千花は何度目か分からない深く大きな溜息を吐き出した。


  †





♪カンカンカンカーン♪
 警告音が響き、幾人かの利用者は時が過ぎ去るのを待つ。
 丸みのある軽い前髪に内巻きボブヘアーをした少女、奏千花は、感情を失ったピエロのようにふらふらと踏切に近づき、踏切が落ちきる寸前を潜りきってしまう。
 その場にいた者達が右往左往するなか、一人の少年が千花の左手首を掴む。
「⁉」
 前しか見ていなかった千花が初めて振り向く。その表情は驚きと恐怖の色が滲んでいた。
 意思が宿っていなかった千花の焦げ茶色の瞳に、涼しい目元が印象的な少年の姿が映る。
 少年は何も言わず、千花を踏切外に引きずり出す。
「な、なにす――ッ」
「どうせ捨てるつもりの命なら、その命、欲しい奴にやれば?」
 千花の言葉を遮断するかのようにそう放つ少年の声音には、苛立ちと冷徹さが含まれていた。
「?」
 千花は一瞬言葉の意味が分からず、視線をさ迷わせる。
「あんたがどうしようと俺の知ったことじゃない。でも命を落とすつもりなら他でやれ」
 あどけなさの残る少年の声には似つかわしくない冷徹な声が響く。
「ど、どうして見も知らぬ貴方にそんなことを言われなきゃいけないんですか?」
 当惑する千花は震えた声で問う。
「もう、誰かが死ぬのは見たくないから」
「?」
 千花は意味を求めるように少年を見る。
 さも面倒臭そうに溜息を溢す少年は、奏から視線を逸らし、淡々と話を続ける。
「……俺の大切な人も死んだよ。でも、あんたみたいな命の落し方じゃない。自分の命と最後まで向き合って、最後の最後まで生きるんだ! って必死にもがいたはずだ。だけど旅立ってしまった」
 少年の話に千花は愕然とする。
「今この瞬間も必死にもがき苦しんで、自分の命と向き合って生きようとしている奴が星の数ほどいるんだ。だから、あんたみたいなやつを見てると、腹が立つ」
 少年は千花を軽蔑する目で睨み見る。
 千花は少年の言葉と視線に目を見開き、自分を恥じるように耳を赤くさせる。居た堪れないのか、少年から視線を逸らした。
「で、でも! こ、心が死んで生きていけなくなることだって、あるんですッ」
 千花は振り絞るように言い返す。白のマリンセーラー服を握り締める指先は震えていた。
「ふ~ん」
 千花のせーいっぱいの反論に対し、少年はさも興味のない相槌を打つ。
「ふ、ふ~ん。って……」
 千花はその反応に対して唇を震わせた。
「お前の心が死んだのってさ、イジメが原因? それとも家庭環境?」
 少年は鋭利な洞察力を使って問いかけるが、千花は複雑そうな顔を返すしか出来ない。
「まぁ、俺にとってはどうでもいいけどさ」
 話を聞くことを諦め放棄したかのように、少年は深く息を吐く。
 二人の間に沈黙が流れる。
 その沈黙は少年の言葉によって破られた。
「心は何千回死のうと、何千回も息を吹き返すものだろ? だけど、命はたった一回死んだだけで、もう二度と生き返りはしない。その重みの違いをもっと感じたほうがいいんじゃねーの。お前の心だって……俺の心だってさ、いまは死んでるかもしれねーけど、いつかはまた息を吹き返す、はずなんだよ。だからさ、お互いもっと、自分を信じて生きていければいいな」
 どこか自分に言い聞かすかのようにそう告げた少年は、儚げな笑みを浮かべ、去ってゆく。
 千花はただ息を飲むしか出来なかった。
 まるで、少年の言葉を咀嚼して、自分の中へと取り組むかのように。


 †

 過去を話す千花は、どこか切なくも懐かし笑みを浮かべ、優光を見る。
「二年前の夏。あの時のボブヘアの少女のことを覚えていますか?」
 その言葉に優光はハッとする。
「私、あれから心を入れなおして、私なりに必死に生きてみました。だけど半年前――」
「自ら、手放したの?」
 眉間に皺を寄せて問う優光に、千花は静かに首を振って否定する。
「見知らぬ人からストレス発散の対象として、線路へ突き飛ばされました。電車は急停車して命は助かりましたが、打ちどころが悪く半永眠状態。幽体離脱したもう一人の私は黄泉の国へ。そこで出会ったんです。貴方のお母様と」
「お母さんは死んでいないって。どうしてお母さんと同じ場所に?」
 優光は問う。
「身体と魂が一時的に飛ばされたようです。そこからまた自分がいた世界に戻るかは自分次第」
「すぐに戻ったんだよね?」
 千花は優光の問いに苦笑しながら、左右に首を振る。
「自分の世界に戻って生きていく覚悟が持てなくて、しばらくその世界にいました。そこには色々な人の魂が嘆き悲しみ、恨みや喜び――色々な感情が蠢いてました。私はそこで、ずっと息子さんを見守っている母親の魂に強く惹かれ、声をかけた」
 千花は落ち着いた口調で淡々と説明する。まるで他人事かのような話ようである。
「それが僕のお母さんなの? お母さんはずっとそこにいたの? 八年間ずっと?」
「えぇ……」
 千花は静かに話し始める。

 黄泉の国――。
 闇の中。靄がかかる薄い光が幾千と儚く光っていた。
 その光達は闇の中を自由に浮遊する。出口のない闇の迷路。闇の鳥かごに捕まった光達はさ迷っていた。その闇の中で、ある一つの光がずっと同じ場所で現世界を見つめている。
 闇の中で一人身体を持つ者――奏千花はその光に歩み寄る。
「ぁ、あの……」
 千花は恐る恐る儚き光に声をかけた。その声は自分でも驚くほど細くて、震えを帯びていた。
『な、なにかしら?』
 儚き光はいきなり声をかけられたことに驚き、どもりながら返答する。
「ぁ、驚かせてしまってすみません。少し、お話させてもらってもかまいませんか?」
『えぇ。私でよければ』
 儚き光は控えめに問いかける千夏に、頷くように返事をする。
「どうしてずっと、そこから動かないのですか? ここにいる光の感情は多種多様ですが、なぜだか、貴方の感情と魂だけに惹かれてしまって……」
『……そう。私は、愛する息子を見ていたの』
 少し戸惑う様子を見せた儚き光はそう答える。
 儚き光が慈悲深き柔らかな笑みを口元に浮かべているように感じた。
 もちろん実際は、儚い光の靄がかかった球体が浮かぶだけで、表情や仕草まで目に映すことはできない。全ては千花の憶測と感覚で感じ取ったものだ。
「ずっと……ですか?」
『えぇ。あの子を残して旅立った自分を責めて、悔いては嘆きを繰り返していたら、八年の月日がたってしまったわ。あの子もずいぶんと成長したけれど、心の成長が止まってしまっているみたい……』
 儚き光は困憊したような口調で答える。
「……その息子さんは、どんな子なんですか? ぁ、差し支えなければで結構です」
 千花はほんの少し間を置き、どこか躊躇しながら控えめに問うてみる。心の深いところまで抉って問うつもりはないのだろう。

『とても素直で可愛くて、甘えたな子よ。優光っていうの。今はずいぶんと性格が変わってしまったように思えるけど……きっと、本当の自分を押し殺してしまっているのね』
 困ったように小さな溜息を吐く儚き光は、千花を誘うように浮遊する。
『覗いて見て?』
 儚き光は闇の中に転がる水晶玉を千花に見せた。そこには、学校の屋上に立ち、複雑そうに空を見上げていた優光の姿が映し出されていた。
『この水晶玉は一つの光に対して、一つ提供されるものよ。現世界を映してくれるものなの。現世界に残る心残りを少しでも取り除き、天国へ旅立ち、成仏できるようにね。だけど、私は八年間あの子の姿を見続けても、天国へ行けないわ。だって、心配だもの。大切だもの。せめて、もう一度だけ会えたら……』
 儚き光が話すなか、千花は食い入るように水晶玉に映し出される光景を眺め続けていた。
『貴方は? どうしてココに? 肉体があるということは、貴方の意思次第で助かる命よね。戻りたくない理由でもあるのかしら……』
「それは……。また自分の世界で生きて、戦っていく自信が持てなくて……」
 千花は恥ずかしくも、申し訳なさそうに答えた。
 儚き光は悲しくも複雑そうに、『……そう』とだけ答えた。
「だけど、闇の世界にいるうちに思い出したことがあります。とても大切な、忘れてはいけない出来事と言葉。私には、自ら命を終えようとしていた私を助け、叱ってくれた人がいるんです」
 千花は慌てて話しを繋げ、想いを話す。
「そのときの私はただ茫然とするだけで、なにも言えなかった。なにも出来なかった。だけど、その人の言葉があったから、心が生きようと立ち上がってくれたんです。私はその人にお礼が言いたくて、その人を探し回りました。だけど見つけられなくて、もしかしてこの闇の中にいるのかと思い、戻る前にその人を探していたのだと思います
 と、どこか懐かしむように話す声はどこか力強い。
『その子って、もしかして……』
 儚き光はハッとする。
「はい。この子です! この水晶玉に映っている男の子! 貴方の息子さん。この子が私を助けてくれたんですッ」
 千花は興奮しながら答える。
 二年間探し回ってやっと見つけた探し人。喜びが込み上げて当然だ。
「二年前より少し大人っぽくなっているかも。どこの学校だろう……」
 千花は水晶玉を見つめながら、ブツブツと独り言を繰り返す。


『大人っぽく見えるのは、あの子が感情を押し殺してしまっているからだわ。本当のあの子は、もっと素直で甘えたなんだもの。なのに今は感情を押し殺して、人を避けるような生き方をしている。あの子があの子らしく生きられるようにしてあげたいわ……』
 儚き光は溜息交じりに言う。
「わ、私に、私になにかできませんか?」
 千花は勢いよく儚き光の方に振り向く。
『え⁉』
 驚く儚き光は千花と距離を取った。
「そうだ! もう一度、もう一度息子さんと過ごしてください」
『は、はい?』
 儚き光は意味が分からないというように、素っ頓狂な声をあげた。
「私の器を使って、現世界へと舞い降りるんです! そこで息子さんともう一度会って、お話をして、二人の心残りや、心のキズを少しでも癒すことができたなら……素敵だと思いませんか?」
 不安げな儚き光とは対照的に、千花はこれは名案だ! と瞳をキラキラ輝かせる。
『あの子ともう一度過ごせるのなら、そんな嬉しいことはないけれど……危険すぎるわ。少しでも戻る時間がくるってしまえば、貴方はココから一生抜け出せなくなってしまうのよ?』
 儚き光は複雑な気持ちを咀嚼しながら、千花を止めようとする。
「大丈夫です。私、貴方と貴方の息子さんの役に立ちたいんです。二人に笑顔になってほしい。それに、貴方は私の器を奪ったままにしたりしませんよね? 必ず、時間通りに戻ってきて下さる。そう信じられるから」
 千花は力強く訴えた。
『千花ちゃん……。ありがとう。貴方をこんな孤独な闇の中へ置き去りになんてしないわ』
「はい」
 千花は穏やかに頷く。
『千花ちゃん、本当にいいのね?』
 儚き光は最後にもう一度問いかける。それはどこか、自分にも問いかけているようだった。
「はい! 私もあの人のために、なにかしたいんです。ううん。あの人が大切に思っている貴方のためにも。私で力になれることがあるのなら、力になりたい」
 千花は胸の前で両拳を握りしめ、力強く頷く。
『……ありがとう。本当に』
 儚き光は千花に勇気と希望の欠片をもらい、心を決めることができたようだ。
『必ず戻ってくるから。貴方を消したりなんてしないわ』
 千花の真っ直ぐな想いが心に響く儚き光は、涙声ながら強く答えた。
「はい。待っています」
 満足げな笑顔を輝かせる千花は大きく頷いてみせた。
 千花は気持ちを落ち着かせるように、一つ小さな息を吐く。
 ゆっくりと瞼を閉じ、口元に穏やかな弧を描く。
 闇の中に現れた霧が千花を覆い隠す。
 霧が全て消えた頃には、千花の器と儚き光の姿はどこにもいなかった――。


 †


 千花の話を聞いて呆然としていた優光は、ゆっくりと口を開く。
「それが僕のお母さんなの? お母さんはずっとそこにいたの? 八年間ずっと?」
「えぇ。小さい貴方を残して旅立った自分を責めて、悔いては嘆き、ずっと貴方をそこから見ていたんです」
 千花は静かに答える。
「ど、どうしてそんなに長くッ」
「貴方のことが心配で心配でたまらなかったからに決まってるじゃないですか。魂が成仏できず、ずっと闇の中にいるしかできなかったんです」
「そんな……」
 優光は申し訳なさに押しつぶされるように項垂れる。
「私、涙が止まらなかった。お母様の愛に。こんなにも生きたい、元の世界に戻りたいと願っている人がいるのに、意味もなくそこへいた自分の申し訳なさ。その人の愛する息子さんが貴方だったということ。貴方の言葉を忘れてしまっていた自分の弱さに」
 千花はポロポロと涙を溢す。
「お母さんはまだ闇の中にいるの?」
「いいえ。もういません。貴方のことはもちろんだけど、お母様の魂を早く成仏させてあげたかった。だから私は、私の魂以外を全てかしたんです。命日の二四時まで。それを過ぎれば私はずっと黄泉の世界へいなくてはいけなかった。違う器に入ったお母様の魂は、黄泉を取り締まっている機関の人から魂を引きずりだされ、全ての記憶は強制的に消滅させられる。その二つのリスクを背負ってでも」
 千花は涙で赤くなった瞳を優光に向ける。
 優光は、どうしてそこまでする必要があったのだと、戸惑いの色を見せる。
「私は二人に笑って欲しいと思ったんです。そして、人の心は再生できるのだと、貴方に証明して欲しかった。なにより、貴方のお母様を一秒でも早く闇の中から救いたかった。貴方は……本当に、心は再生できると思いますか? 私達はまた、強く生きられますか?」
 千花は涙を溢しながら、縋るように答えを求める。
「……。うん。ありがとう。今なら断言できるよ。そう思わせてくれてありがとう。僕達を救ってくれて、本当にありがとう」
 優光は穏やかに微笑み、心からの感謝の気持ちを込めて頭を下げる。
「大丈夫」
 心を込めてその一言を言った優光は、千花の右手を両手でそっと包み込む。
「僕達の心は、自分の力だけでは再生できないかもしれない。だけど、なにかの拍子に息を吹き返すことがある。まるで魔法のように。今度は、僕が君の心を生き返らせてみせる。証明するよ。心だけは死なないということを。時間はかかるかもしれないけれど、心は何度でも再生するってことを」
 優光はあたたかくも意志の強い瞳で千花を見つめる。
 握る手にも自然と力がこもる。
 海水で冷えた二人の手が、お互いの体温で温かさを取り戻してゆく。
 まるで、心が息を吹き返すように――。