千夏は戻ってきた。深くて暗い黄泉の国へと。
闇の中に強い光が一つ浮かび上がる。奏千花の魂だ。
千夏は千花の魂と向き合うように、正面に立った。
「愛ある夏を過ごせましたか?」
千花の魂は千夏に問う。柔らかで落ち着いた口調でありながら、ソーダーのように爽やかな一生のある声音だ。
「えぇ」
千夏は深く頷く。
「息子さんとの再会はどうでしたか?」
「そうね〜……」
千夏は視線を左斜めに向け、息子と再会した日のことを思い起こす――。
♪ミーンミンミンミーン♪
久々に生で感じるセミの大合唱。悪魔のように照り付ける太陽が皮膚を焼いていくような感覚。
車の走行音に、人々の話し声。木々や風達のざわめき。自然の匂いと排気ガスなどの人工的な匂い。
五感で感じる全てが、少女にとっては生きている実感となり、懐かしさに歓喜するものだった。
優光の母親の魂は今、奏千花の器を借り、白石千夏として、現世界へ降り立っていた。
愛すべき息子に、もう一度会うため。
愛すべき息子と、やり残したことをするため。
愛すべき息子との約束を果たすために――。
下校時間でセキュリティーが甘くなる寺院の木学園に、白のマリンセーラー服姿の少女が一人潜り込む。白石千夏だ。
ほとんどの生徒達が帰宅していたため、騒がれることもなく、千夏が会うべき人の元へとすんなり行けた。
「ぁ! いた」
渡り廊下を歩く少年、鮫嶋優光に気がついた千夏は、思わず小さな声を溢す。
「っ」
千夏は慌てて両手で口元を覆った。ここでバレるわけにはいかないのだ。
自分を落ち着かせるよう小さくて細長い息を吐いた千夏は、抜き足差し足で優光の背中について行く。
♪ラララン~ラララン。ラララッンラッン、ララ、ラッン~……♪
優光は凛とした声で淡々と口ずさむ。そのどこか切なく懐かしさを感じさせるメロディーに、千夏の脳裏にある光景がフラッシュバックする。
「この曲……ベビーベッドに取り付けていたオルゴールの曲じゃない」
ベビーベッドですやすや眠る我が子の思い出と、成長した息子の姿。思い出の曲を口ずさむ息子に対し、千夏は胸と目頭が熱くさせた。
「なっ!?」
温かい感動も束の間、優光は屋上の鍵を器用にピッキングして開け放つ。千夏は思わず飛び出して制止してしまいそうになるが、グッとこらえて様子を見守った。
「あのスピードに手つき……常習犯じゃない。そんな子に育てた覚えは……って、言えるほど一緒に過ごしていないわよね」
表情を曇らせる千夏の姿を知る由もない優光は、悠々と屋上へ足を踏み入れた。
夏特有の息がつまりそうな温度と風が階段に吹き抜けてゆき、扉という防音を無くしたセミの大合唱が、千夏の耳奥に嫌というほど響き渡る。
千夏は慌てて息子を追った。
視界に映るのは、熱された緑色のフェンスを乱暴に掴み、苦痛に顔を歪ませた優光の姿だった。
「……死にてぇ」
無表情で吐き出された言葉に千夏は息を飲む。
千夏は黄泉の国からずっと優光のことを見守っていたため、優光の行動も口癖も全て知っていた。知ってはいたが、肌で感じるのとはわけが違う。
千夏は灼熱から来る汗と冷や汗が混じり合う雫を額から拭い去る。ここで冷静さを失うわけにはいかなかった。
「ねぇ。それ、本気で言ってるの?」
どこか苛立ちを含む声音を優光の背に投げかける。
千夏は優光が本気で言っていないと分かっていた。分かっていたけれど、もしもの恐怖が脳裏に過り、指先を震わせる。
「⁉」
優光は身体全体で勢いよく振り返る。
「本当は、そんなつもりないのよね?」
千夏は驚く優光に続けざまに問うが、その答えが返ってくることはなかった。
「……誰、お前?」
訝し気な瞳。威圧的な声音が千夏に降りかかる。
千夏は小さく息を飲み、ほんの少し後ずさる。
分かっていた。否。分かっているつもりだった。
この姿では自分が母親だと分かってもらえないことも、千夏の姿を見ても何も思わない優光のことも。幼子の時よりも可愛げがなくなってしまったことも全て、全て理解しているつもりだった。
だが、愛すべき息子にそんな風に言われてしまえば、目の当たりにしてしまえば、ショックは隠しきれない。自分の事を知らないという息子に、千夏はゆっくりと口を開く。
「貴方は“今の私”を知らないでしょうね。だけど、“昔の私”なら知っているはずよ? 貴方がそれを忘れているだけ。もしくわ、忘れようとしているだけ……」
それは、ある意味の真実。
今の私=奏千花。の身体を借りた、白石千夏を名乗る姿。
昔の私=自分の身体と名前をちゃんと持っていた生前の自分であり、優光の母としての姿。
そんな意味合いが含まれた言葉の真意など、優光に気づけるわけもない。
優光にとって、白石千夏と名乗る少女でしかない。しかも、自分の名前やあだ名や年齢などの簡単なプロフィールを手に取るように話す姿は、ただのストーカーにしか見えない。
話はないと去っていこうとする優光に負けじと、千夏は食い下がった。
「お前に何が分かる? 『死にたい』。この言葉の根っこの部分すら読み取れない奴に、ダラダラ説教を垂れられたくない。二度と俺に近づくな!」
きつい口調で言い放つ優光は足早に、千夏の元から去っていく。大切な人に気づきもせず、自らその人の傍を去っていくのだ。
その去り行く背中を見つめていた千夏は、「言葉の根っこの部分を読み取れていないのは、どっちの方よ」と嘆くように呟く。
千夏の瞳が涙で滲み、陽炎のように世界を歪ませる。悔しさ。悲しさ。切なさ。歯がゆさ。だけど一番は……。
「ひー君……」
大切な息子がちゃんとこの世界で生きていたこと。もう一度、大切な息子と会えたこと。その計り知れない喜びと感謝の気持ちは瞳から溢れだし、千夏の頬を伝い、焼け付くコンクリートを濡らした。
黄泉の国――。
「ふふふ。最悪で最高の再会だったわ」
千夏は目の前で楽し気に浮遊する千花の魂に、声を弾ませながら言った。
そんな千夏を見た千花の魂が柔らかな笑い声をあげる。
「ふふ。最悪で最高の再会から、最高の夏休みになりましたか?」
千花の魂は思い出話の続きを催促するように問う。
「そうね~……」
千夏は写真アルバムをめくるように、アルバムの続きを話し始める。
追いかけっこを終えたネズミと猫のような二人は、ホームのベンチに腰掛けていた。千夏と優光だ。
追いかけられているうえ、一夏を共に過ごせといわれる意味を問う優光に、千夏は少し間を置いて話しだす。その声音はいつもよりも低い。
「……。私には、とても大切な人がいたの。私の命より大切な人よ。だけど、その人は私の目の前から消えてしまった」
千夏が言うとても大切な人。それはもちろん、今まさに、千夏の目の前にいる優光のことだ。ハッキリ言ってしまいたいけれど、けしてそうはしない。優光に混乱や恐れを与えたくはないのだ。
何より、本当のことを話すことによって、優光が本気で自分の元を去ってしまったら、自分の目的は達成されずに終わってしまう。そうなればこれから先の人生、自分も優光も過去の中で生きていくことになってしまう。それだけは避けたい千夏は、丁寧かつ慎重に言葉を紡いでいった。
「その人に私の声は届かないし、その人の体温も感じることも出来ない。天と地で分かれてしまったから当然ね」
千夏の声が微かに振るえる。
天と地。天上で魂を浮遊させ続ける自分と、地上で生きる優光。
けして触れ合うことが出来ぬ距離に離れてしまった自分達を思うと、胸が苦しくなるのだろう。
「私はその人とまだまだ話したいこともあったし、行きたい場所もあった。なにより、もっともっとその人と同じ時間を過ごしたかった。だけど、私の時間は止まってしまった。そこからずっと、私は動けずにいるわ……」
千夏は八年前、不運なひき逃げ交通事故にあって命を絶たれた。
幼い我が子を残し、一人だけ天上の最上へ旅立つことなど出来なかった。
黄泉の国でずっと嘆き苦しみ、千夏の時間だけが止まってしまったのだ。その時間を動かせることが出来るのは、目の前にいる息子だけだった。
「その人と貴方は瓜二つ。貴方を見ているとその人を思い出すの。貴方と一緒の時間を過ごせば、私はきっとまた前を……」
瓜二つなどではない。大切な人そのものなのだ。だけど、今ここでハッキリ言うわけにはいかなかった。そのため、優光に言葉の真意が伝わることはなかった。
「ようは、そいつの代わりになって、お前の未練を断ち切らせろってことかよ?」
苛立ちの音が千夏の耳奥に響く。完全なる勘違いだ。だがそれを否定することは、その時の千夏には出来なかった。
馬鹿らしい。と去っていく優光に千夏は慌てた。
「貴方は私と一緒じゃないの? 貴方も未練があるのでしょう? 貴方の死にたい、という口癖の本質は、『会いたい』だものね。天に旅立てば、貴方の会いたい人に会えるかもしれないもの。でも、死ぬのは駄目。絶対に」
強い口調で伝えるそう千夏は、瞳だけは逃げないとばかりに、視線を優光に向け続けた。
優光は背を向け去っていく。
千夏はもう二度と大切な人を見失いたくない。手放したくない。とばかりに後を追いかけた。
不運な事故が連鎖してゆくように、優光の身体がホーム下へと倒れてゆく。もちろん千夏は全力で助けた。我が子は自分の手で守る。死なせはしない! そう強い意志で。
「ッ!」
優光のかわりにホーム下へと身体を鎮めることになった千夏は、痛みに顔を顰める。
(やってしまった。借り物の身体なのに)
千夏は千花に身体を借りていたことを思い出し、顔を青白くさせる。
女の子の身体を傷モノにしては大変だ。何より、この身体を生きて返さなければならないのだ。
千夏は焦って身体を起こすが、足首に激痛が走り蹲ってしまう。
「誰か非常停止ボタン押してくださいッ!!」
優光の叫び声が千夏の鼓膜を震わせた。
その指示に、千夏は自然と口を綻ばせる。
八年前に一緒に読んだ電車の本。
色々な電車の紹介や、電車のパーツの説明が掲載されている、子ども向きの専門辞書のような本。電車好きの幼き優光がよく好んで、本のページを開いていたものだ。
その本の中に、もしお友達がホーム下に落ちてしまった場合どうするの? というコーナーに掲載されていた“非常停止ボタン”の説明。
優光はちゃんとそれを覚えていて、冷静に実践したのだ。
千夏は息子との思い出のピース一つと、息子の成長に、思うものがたくさんあったのだろう。
優光の冷静かつ的確な対応により、命が助かった二人は家路を歩く。
足を怪我した千夏をおぶさる優光は無言だ。何かを考えているのか、難しい顔で口を真一文字に結んでいた。
(この子の背中、いったいいつからこんなに大きくなったのかしら? 女の子一人背負えてしまうほど、守れてしまうほどに……)
「背中、広いね」
自然とそんな言葉が零れ落ちる。と共に、我が子の成長を直に感じた千夏は、音もなく一筋の涙を溢した。
(昔は私が貴方をおんぶしていたのにね。毎日何度もおんぶや抱っこをねだってきていた貴方が、今はこんなに男らしくなったのね。強くなったのね)
そんな心情で流す涙を痛みからくる涙と勘違いする優光に、千夏は口元を刹那、そっと綻ばせる。
押し黙っていた優光が、何がしたいわけ? 貸しは作りたくないからお前に付き合うことにした。と、口を開く。
千夏はその言葉に、やっとスタートラインに立てたのだと心から安堵する。
「あの人と出来なかったことをやりたい……全部やりたい」
千夏がそう素直に答えると、優光は複雑そうに顔を歪ませた。
「俺は、そいつの変わりになればいいのか?」
その言葉が千夏の心を差す。
優光の代わりなど、世界中のどこを探してもいない。だがそれを伝える術は、今の千夏にはなかった。
「そう思われても仕方がないけれど、私にとっては代わりじゃない。どうしてなのか、今は言えない」
千夏はそう答えるだけでせーいっぱいだった。
優光は深くは踏み込んでくることはしない。それどころか、諦めかける千夏に言葉の手を差し伸べた。千夏はもちろんその言葉の手に縋りつく。
この瞬間、世界で一番切ない魔法がかかる。そして、母と息子、最後の夏物語の序章が終わりを告げ、新たな舞台の幕が上がる瞬間だった――。
†
アクアパーク品川――。
(ちゃんと来てくれるかしら……)
期待と喜びに胸を躍らせながら、心の片隅で優光がちゃんときてくれるのか不安を抱える千夏は、優光を待っていた。
待ち合わせ時刻から五分過ぎた頃、千夏の瞳に優光が映る。
インディゴ色のジーンズ。フード付きの半袖に薄い白シャツを着た少年――鮫島優光は千夏に気づき、軽く手を上げる。
マイペースな足取りに焦りは一つもない。このデートにやる気もない。それでも、太陽嫌いな引き籠り少年が約束を果たすため、ココまで足を運んだ。それだけで千夏には凄いことだった。
「ちゃんときてくれてありがと~」
いつもより高くなる声色とその言葉は、千夏の喜びと安堵が滲みだしていた。感動のあまり、胸の前で手を握り合わせる始末だ。
「拝むな。一応、約束したからな。守るよ」
やや不服さが滲む口調とぶっきらぼうな態度で答える優光の姿を、困った子ね。とでも言いたげに千夏は微笑む。
幼き日の優光はいつも、約束は絶対守るんだ! という公言通りに約束を守っていた。その姿と目の前の優光がリンクし、千夏の心をあったかくさせる。
入場ゲートを潜った二人を鮮やかに光り輝く魚群達が出迎える。
水槽に投射された映像が来場客を出迎えるエントラス。
「わぁ~」
千夏の口から自然と歓声が零れる。
それもそのはずだ。千夏がもう一人の愛すべき人である夫と、お腹の中で眠る小さな小さな優光とここを訪れてから、一四年の年月が経っている。それ以来、千夏がここへ訪れたことはない。
千夏は八年前。小学校に上がった優光の夏休みに家族でここを訪れようと、夫婦で計画を立てていた。だがその計画は果たされることはなく、千夏は天へと旅立ってしまった。それゆえ、心残りの一つとなっていたのだ。
「二〇一五年の夏にグランドオープンしたらしいからな」
はしゃぐ千夏を尻目に優光が冷静に答える。
同年代の子供達より早熟してしまったために、どこか冷めている気がある息子の姿。千夏の心がチクリと痛む。
「え? 何で知ってるの? もしかしてもしかして、今日が楽しみで調べちゃったとか?」
千夏は優光を茶化す。
少しくらい冷めた目で見られても、手厳しい言葉が返ってこようとも、千夏はけしてめげない。
少しでも笑顔が見たい。色々な顔を見せて欲しい。同年代の子供達のように、感情や表情豊かになって欲しい。と願う千夏は率先してその場を楽しむ。もちろん、心の底からこのひと時を楽しんでいたのは事実だ。
入場ゲートをくぐって少しの坂を下っていると、右手に大きな海賊船を彷彿とさせるアトラクション遊具が二人の視界に飛び込んでくる。
「乗りたい?」
千夏はアトラクションを指差しながら問うてみる。
優光はさも興味なさげに「別に」と答える。
イエスの答えが返ってくると思っていた千夏は、予想外の答えに刹那、面を喰らってしまう。
(昔はアトラクション乗りたーい! って、泣いて叫んで、私達を困らせてたのに……)
千夏は幼少期の面影をなくした我が子に、チクリと心を痛める。だがここで立ち止まっていても仕方ないと、気持ちを切り替える。
「じゃぁ行こう。ここで具合悪くなったら困るもんね。行こ行こ~」
千夏は明るい声を上げて先頭を歩いてゆく。ちゃんとついてきてくれる優光の気配を背中で感じ、千夏は口元を緩ませる。
「ぁ! あれ乗ろう!?」
千夏は良いモノを見つけたとばかりに、光と魚のミュージアムに圧巻されていた優光の背中をバシバシと叩く。
海の生き物とデジタルアートが融合された世界に魅了されていた優光は、何事だと驚く。千夏はお目当てのモノを指差してみせる。
円状の柵で囲われた中。鉄棒を魂柱のように身体に突き通すイルカやタツノオトシゴやラッコなど、六種類の海の生き物達がくるくると楽しげに踊るパーティーが繰り広げられていた。
生き物達は、一二mの壁のLEDの光で美しくライトアップされていて、華やかかつ、美しく輝いていた。楽し気な音楽に包まれたメルヘンな世界。なんとも、ゆめかわいいメリーゴーラウンドである。
「あんな乙女なの乗りたくねーよ。一人で行ってこい。俺は魚を見ている」
拒絶する優光を、千夏は無理やりメリーゴーラウンドに連行していく。
そして半ば無理やり優光をイルカの背に跨らせ、自分はタツノオトシゴの背に乗っかる。多少の小競り合いの末に勝ち取った千夏は、ゆめかわいいメリーゴーラウンドタイムにご満悦である。
八年前の優光初めての春休み。
千夏は夫と小さな優光。家族三人で遊園地に訪れたことがあった。
その時の優光は、船が空中を上下するアトラクションやジェットコースターに乗るんだ! と意気揚々としていたが、身長が足りずそれは叶わなかった。
それでも優光が乗りたいと泣き叫んだのは、千夏の苦い思い出の一つだった。
大きくなったときに遊びに来ようと約束していたのだが、先程のアトラクションには興味を示さなかったので無理には進めなかった。もし嘔吐でもしたら、楽しむことが出来なくなってしまう。
「ほら、楽しいね」
不貞腐れたようにイルカの背に跨った優光に、千夏が満面の笑顔を向ける。
「楽しかねーよ。白石のせいで降りそこねただろ」
優光は吐き捨てるように答える。ほんのりと耳が赤く色づいていた。相当恥ずかしいようだ。
その様子を見た千夏はふふ。と、穏やかな笑みを浮かべる。
八年前の春。
アトラクションに乗りたい! とぐずり続ける優光を慰めるように、馬のメリーゴーラウンドにつれていったことがある。
もちろん、幼き優光は一人で乗ることが出来ず、千夏が包み込んで守るように一緒に乗ったのは、言うまでもないだろう。
それが今では文句をたれながら、一人でアトラクションに乗っているのだ。しかも持ち手のポールを持つこともない。両足が床についている。
(昔は一緒にお馬さんのメリーゴーラウンドに乗っていたのに……今はもう私の補助なしで乗れるようになったのね)
千夏は胸の内で、我が子の成長に喜びと安堵した。それと同時に、我が子が手元を離れていったような淡い切なさを感じ、少しの寂しさを感じた。
パンツの小競り合いの末に、大人しくメリーゴーラウンドに乗る息子を見守る千夏は、微笑みながら夢のひと時を楽しむのだった。
ブラックライトに包まれる中、発光するサンゴ達が光を放つ幻想的な空間。けして世界観を崩さないプロの技が、来客者を楽しませるカフェバー。
ラングドシャで出来たコーンに、形よく注がれたソフトクリームが掲載されている看板を、千夏は子供のようにキラキラした瞳で見つめていた。
「ソフトクリーム食うよな?」
「いいの!?」
千夏は少し呆れ気味に問うてくる優光に対し、嬉しそうに声を躍らせる。その光景は親子が入れ替わったようだった。
「お待たせいたしました~」
ソフトクリームとジンジャエールが、ショートカットがよく似合う二十代前半程の女性店員の手によって、二人の元に届けられる。
「わぁ~美味しそう!」
ソフトクリームに歓喜する千夏に対し、甘い物が苦手な優光は眉根を寄せる。それに気づいた千夏は、優光に気づかれないように苦笑いを浮かべた。
(小さいときはあんなに甘い物が大好きだったのに……今は食べなくなったのね。飲み物ジンジャエールって、私がよく頼んでたやつじゃない。炭酸も舌が痛いよ~って飲めなかったくせに。まぁ、味覚も変わってゆくわよね……。私の手料理でも、苦手なメニューとか出てきてたりするのかしら? それだったら悲しいわね)
千夏は優光を流し見る。
ジンジャエールをすました顔で飲む我が子の姿に、穏やかに目を細めた。
「あそこ空いてるから、座ろうぜ。危ないし」
優光は筒状の水槽をイメージして作られたテーブルが印象的なイートインスペースを指差す。
(あら。マナーもわきまえているじゃない! えらいえらい)
千夏は満足げな笑みをソフトクリームで隠しながら、「そうね」と答えるのだった。
「なにかいい所ありそう?」
千夏は背伸びをして、食事処を探している優光のスマホ画面をのぞき込もうと試みる。
避けられない所を見ると、水族館パワーで少し優光との距離が縮まったようだ。
「このへん手軽な店がねーんだよなぁ」
「ここから一五分ほど歩いたところにあるカフェはどう? ファミリー向けだけど、オシャレなところよ」
千夏はなかなかお店を見つけられずにいる優光に助け舟を出す。
「どこにあるんだ? 行ったことあんの?」
自分が出した案に乗り気になってくれる優光に、千夏はホッと胸を撫で下ろした。
「大崎駅から徒歩五分程の所にあるお店よ。一度行ったことあるから、道案内は任せてちょうだい! そこね、休日メニューのハッシュドビーフオムライスが凄く美味しかったの。ぁ、お値段も七百円くらい。お手軽でしょ?」
千夏はどこか得意げに言いながら、掌を胸にあてる。
そのお店は千夏夫妻が八年前、水族館の後に訪れたお店だった。
優光が生まれて、カフェで食事が出来る程の年齢になったら一緒に訪れよう思っていたお店だ。生前は叶わなかったため、千夏が優光と行きたい所の一つとなっていた。
「そうだな。まぁ、迷子になってもスマホがあるしな。取り合えず白石についてくよ。お昼時だし急いでもいっぱいだろ」
「信用ないな~」
まったく~。とでも言いたげに両肩を落とす千夏に対して優光は、「まぁーな」と言って笑う。
お腹を空かせた二人は他愛もない会話を交わしながらお店へと向かったのだった。
八月二十一日。二十一時二十分。
東京駅鍜治橋駐車場――。
落ち着かない様子で、待ち人を待っていた千夏から遅れること五分程……。
サラリーマンが出張にでも使いそうな、無地の紺色が大人っぽいボストンバックを抱える気だるげな優光が、ゆるい黒のラフパンツと白のフード付き半袖姿で現れる。
「ぁ! 優光くーん」
優光の姿に気がついた千夏は、左手をあげて左右に振る。千夏が動くたび、ガウチョパンツの裾がひらひらと踊った。
「優光くん。こっちだよー」
優光を呼ぶ千夏はハッとする。
近づいてくる優光の持っているバックに気がついたからだ。
(あのバック、お父さんの出張バックじゃない。他になかったのかしら? でも、それもいいかもしれないわね。あの人とも一緒に旅行している気分になれるもの)
千夏は一人納得したように小さく頷き、ほくほくと幸せそうな笑みを浮かべた。
「はいはい。ちゃんと来ましたよ。信用ねーなぁ」
優光はテンションの高い千夏に小さな溜息を吐いた。
「し、信用してないわけじゃないけど?」
「なんでそこ疑問形なんだよ」
「ふふふ」
千夏が声を出して笑っていると、同乗者達が次々と現れる。
そうこうしているあいだに出発時刻となり、二人はバスへと乗り込んだ。
「どっち座る?」
指定の座席前で優光が問う。
(まぁ! レディーファーストできるのね。この子が一人で教養の本を読むとは思えないし……あの人に似たのかしら?)
自然なレディーファースト対応に、千夏は一瞬目を丸くする。
千夏は愛する夫とのデートを思い出す。
二人は大学生時代からの付き合いで、そのままゴールインしたのだ。
千夏の夫は、電車やバスに乗れば千夏を先に座らせ、自動車は助手席のドアを開けて千夏が乗り込むのを待機する。
お店のドアは、千夏が入るまで開けて待っていてくれたし、買い物時の荷物は、絶対千夏に持たせなかった。持たせたとしても、パンなどの軽いモノが入った袋のみだ。
何か選ぶ場面ではもちろん千夏の意見を先に聞いて、それを汲み取ってくれていた。車道を通るときは、千夏を車道から遠い方を歩かせていた。
その行動全てが自然で嫌味がなく、千夏が夫に惹かれた大きな要因の一つだった。
「……聞こえてる?」
「ぁ、ごめんね。聞こえてる。ちゃんと。私、通路側がいい」
優光の声で我に返った千夏は、慌てて答えた。
「了解」
千夏の意見をくむ優光は、ささっと窓際の席に腰を下ろす。
その横顔が大学生時代と夫と重なり、懐かしさで千夏の目元と口元の筋肉が緩まる。
二人を乗せたバスは横浜駅YCAT―海老名。と走り、二人を目的地まで送っていくのだった……。
八月二十二日。九時三十分。鳥取駅南口。
到着三十分程前に目を覚ましていた千夏は、「優光くん。ついたわ。起きてちょうだい」と、優光の肩を優しく揺すった。
生前の千夏は、朝が弱くて寝坊ばかりする幼き優光をよくこうして起こしていたものだ。
「ん、あぁ~」
少し声の枯れた唸り声をあげた優光に、我が子の成長を感じた千夏は微苦笑を浮かべた。
幼少期の優光はこんな枯れた声は出さないし、あーうー、ままぁ~。が第一声だったのだ。
「朝だ……すげぇ。ついてる」
寝起きの優光はまだ頭が回っていないのか、当たり前のことを素直に口にする。
バスを下りるように指示を出す千夏に、眠い目をこすりながら素直に頷く。覚束ない足取りで千夏の後ろをついていく優光は、どこか少し幼さを感じさせた。
バスを下り、コンクリートでできた歩道をついて歩く優光は、「これからどうするの?」と、千夏の背中に問う。
「朝食にしましょうか?」
「朝ごはん……。どこ行くの?」
とまらない欠伸を噛み殺した優光は、いつもより少し幼い口調で問う。
どこか幼子に戻ったような優光の姿に肩を竦めながらも、千夏はどこか嬉しそうである。
その後。二人は朝食を取るため、鳥取鉄道記念物公園に足を運ぶのだった。
公園内に作られたお手洗いにて軽く顔を洗った二人は、木々が多い場所で朝の清々しい空気を吸い込む。
「目、覚めた」
前髪を水滴で濡らした優光が独り言のように呟いた。
「それはよかった。顔拭く? 髪とか」
「もう乾いたからいい。前髪もすぐ乾く。夏だし」
優光は千夏が手渡そうとした可愛らしいタオルハンカチを、左手を突き出して断った。
「そう? じゃぁ~、お茶でも買って駅舎で食べましょうか」
「あぁ」
目が覚めた優光の相槌は、見事に幼さを失ってしまった。
千夏は元に戻った優光に少し寂しく思う一方で、仕方ないわね。と言うように肩を竦めた。
ゆったりした歩幅で駅舎に足を向ける千夏の後ろを、気だるげな優光が遅い足取りでついていった。
駅舎に腰掛けている二人の正面で、にゃぁ~と鳴きながら、軽やかな足取りで去っていく三毛猫が一匹。ここでは有名な猫駅長だ。こうして時折、ふらりと現れては遊びに来ていた人を和ますのだ。
「可愛らしい駅長さんだね」
「あれは、駅長と言っていいのか?」
優光は楽しそうに笑う千夏対して、どこか冷めた独り言を呟き、首を傾げる。
千夏はそんな優光と、駅長さんだよ! 有名な駅長さんなんだから! などという不毛な争いをするつもりはない。
千夏にそんな無意味な争いに費やすエネルギーや時間はないのだ。
優光と一秒でも長く、楽しい時間を過ごしたいのだから。
「ベンチとかあったらよかったんだけどね~。ちょっと調べミス。ごめんね?」
「俺は別にいい。白石が平気なら」
(それって……このあいだ私がホーム下に落ちたから、気にしてくれているの? 言葉も態度も素っ気ないけれど、優しくて思いやりがあるところは変わらないのね)
千夏は優光の言葉の真意に気がつき、ありがとう。と優しい口調で言って、嬉しそうに微笑んだ。
「これ、優光くんのね」
千夏は可愛らしいクマがデザインされた手提げ紙袋から、使い捨て容器につめられた愛情いっぱいの弁当を手渡す。
八年前の優光の遠足以来になる手作りお弁当。千夏が気合いに気合を入れ、愛情をたくさん詰め込んだのは言うまでもないだろう。
「ぁ、ありがとう」
どこか不器用ながらも素直にお礼を言って、首だけでペコリと会釈をする優光は、両手でお弁当を受け取った。
そんな優光の姿に、やはり根っこの部分は変わらないのだと、喜びに心を綻ばせる千夏だった。
千夏が手渡したお弁当には、タコさんウインナーやハート型の卵焼き。
ハートの卵焼きに関しては、藤崎千花の自宅でまたま見ていたテレビ番組を参考に作ったものだ。
故に、優光にとって思い出はない。それを分かっていても、可愛いデコレーションを加えてみたかったのだ。母の愛情表現はどこまでも……である。
他にも、幼少期の優光が大好きだった母親特製ソースがついたハンバーグ。保育園のお弁当で好評だった星型フライドポテト。アスパラ。オクラ。を豚肉で巻いて照り焼きにしたもの。トマトが苦手だった優光のお助け彩りアイテムに、茹でたブロッコリー。デザートにはキューブ状の大学芋がついている。
どれもこれも、幼少期の優光が大好きだった食べ物ばかりだった。
千夏は綺麗に重ねた両手を顎にそっと当てる。
優光も手を合わせる。
「「いただきます」」
と、二人の声がそろう。
命に感謝して手を合わし、「いただきます」と言うのよ。という母の教えを、優光は今も守っていた。千夏もまた、その教えを自分の母親から教えてもらっていて、今に至っている。
少し顔を見合し可笑し気に笑う二人の姿は、なんとも微笑ましい光景である。
少しずつではあるが、二人を包む空気は温かいものへと変化していた。それは、親子という空気感ではないかもしれないが、優しくて温かいことには変わりはない。
「サッカー……ボール?」
丸い白いおにぎりに五角形にカットされた海苔を、サッカーボールになるようデコレーションされた可愛いおにぎりを割りばしで器用に持ち上げた優光は、答え合わせをするように首を傾げる。
「そうっ。サッカーボール! 分かってくれた?」
千夏は目を輝かせる。
サッカーボール型のおにぎりは、幼少期の優光が大好きだったもの。中の具には、甘いおかかが入れられている。
「……」
「ど、どうしたの? もしかして手作りおにぎり食べられない?」
「ぁ、いや食べられる。ちょっと思い出しただけ」
すぐに返答した優光は、おにぎりを一旦元の場所に戻し、チラリと千夏を流しみる。その瞳は何処か儚げに揺れていた。
「それはよかった。……思い出したって?」
人が握ったおにぎりを食べられなくなったのかと心配した千夏は、ホッと胸を撫で下ろしながら、控えめに問うてみる。
千夏は自分との思い出でも語ってくれるのかと、ほんの少し淡い期待をする。が、優光の答えは違った。
「昔のこと。ずっと昔……」
と言うだけで、優光はそれ以上は答えない。悄然するように声が儚い。
千夏はそんな優光に深く入ってはいかず、小さな相槌だけ返した。
「卵焼き……甘い」
「お砂糖入れてるからね。嫌いだった?」
幼少期の優光はしょっぱい卵焼きが苦手で、甘い卵焼きが大好きだった。だが、あれからもう八年の月日が流れている。今ではもう味覚が変わっているのかもしれない。と思う千夏は不安げに問う。
優光は千夏に首を左右に振って否定した。
「そっか。よかったよかった」
今も優光にとって甘い卵焼きは思い出の味で、大好きな味なのだと感じ取った千夏は、嬉しそうな笑顔で大きく頷くのだった。
「白石の大切な人ってさ、鉄道とか好きだった?」
「うん。昔ね、大好きだった。今はどうかなぁ? 好きだといいけど……」
最初は笑顔で答える千夏だったが、最後はどこか物思いにふけてしまう。
幼少期の優光は鉄道が大好きだった。千夏はよくそんな優光に電車の本を読み聞かせたり、一緒に鉄道のおもちゃで遊んだものだ。
――僕は車掌さんで、ママはお客さんだよ。切符がないと駄目だからね。
――はいはい。では小さな車掌さん、スミレ駅までお願いしますね。
穏やかで儚い思い出が千夏の脳裏に過ってゆく。
千夏は切なさと悲しみを押し殺すように、一度だけ深く瞬きした。
「そうだな」
千夏に少し寄り添うように頷いた優光の声音が、千夏の鼓膜を小さく響かせたのだった――。
十五時五分。『らくだや』にて。
「ラクダいたー!」
砂丘を歩く四匹のラクダを見つけた千夏は、砂丘の砂がスニーカーにかかることや、砂が舞うことを気にもとめず、ライド体験できる場所へと走っていく。
優光は千夏と対照的に、「暑い」とぼやきフードを深くかぶる。
「砂丘で走るとか無理」
汗で額にはりつく長めにカットされた前髪を、なんとも鬱陶しそう手で払いのけた優光は、マイペースにとぼとぼ歩く。
八年前であれば、優光が先に駆け出していたであろうに。
時の流れは砂丘の砂のようにサラサラと流れ、一秒一秒姿を変えてゆくようだ。
「すっごい迫力……」
「マシでこれ乗れんの?」
初めて見る本物のラクダに圧倒される千夏から、一~二分ほど遅れてやってきた優光は、懐疑の念を抱く。
「乗れるよ! 私、ちゃんと調べてきたもん」
そう。千夏はしっかりと調べていた。八年前の春に。
「この場所って、ラクダに乗ってお散歩体験できますよね?」
「はい。できますよ。大人二名での騎乗はできませんので、そこはご了承いただけたら……と思います」
男性スタッフは暑さにも負けない笑顔で答える。
「よかったぁ~。ほらほら~だから言ったじゃない」
千夏は後ろにいた優光にドヤ顔をする。
内心では、抜かりわないのよ! こっちは八年前から調べてたんですから。と思っていた。
「なんかムカつく顔」
「えっと、じゃぁ……ライド体験を二人。お願いできますか? 優光くんも乗るでしょ?」
「ぁ、うん……」
千夏の笑顔に圧倒されるように、優光は大人しく頷く。その表情は複雑気だった。
八年前にあったはずの、ライド体験を楽しもうという心は、とうに失われているように思える。だが千夏はお構いなしに進めた。
「では、ライド体験の方はこちらへ」
二匹のラクダがお行儀よく座っている場所へと案内する男性スタッフに、二人はついていったのだった。
一七時〇八分――。
「楽しかったね~」
本日の宿である格安ゲストハウス。和室の個室部屋。ライド体験を思う存分堪能して楽しんだ二人は、部屋の隅同士で寝ころび、疲れを癒していた。
普段からアクティブに動かない優光にとって、今日はハードなスケジュールであったのだろう。幼少期は母親を振り回すほどのエネルギーを持て余していた優光だが、今は振り回される立場になったようだ。
「少しお昼寝してからご飯にする?」
「ん~……」
「優光くん? 寝ちゃったの?」
千夏は身体を起こし、無反応になった優光の様子を確認する。
優光は小さい子供のようにほんの少し口を開け、穏やかな寝息を立てながら気持ちよさそうに眠っていた。
「眠ってるときだけは、ちっちゃい子みたいで可愛いんだけどなぁ」
眉根を下げる千夏は、バックからグレーのパーカーを取り出し、優光のお腹にそっとかける。
優光がまだ保育園に通っていた頃は、二人でこうしてお昼寝したものだ。
懐かしさに千夏の頬がゆるむ。と同時に気が緩んだのか、強烈な睡魔が千夏を襲ってくる。
千夏はその睡魔に耐え切れず、スマホアラームをかけて浅い眠りにつくのだった。
♪ピピピ。ピピピ♪
一八時一五分――。
アラーム音が千夏を起こす。
目覚めの悪い優光は、まだ夢の中だ。
「優光くん。起きてちょうだい。そろそろお夕飯、食べに行きましょう?」
千夏は優光の肩を優しく揺すって起こす。
ほどなくして目を覚ました優光だが、中々覚醒することが出来ない。
お風呂の準備を含む外出の準備を千夏の指示通りに動く優光だが、無理やり身体を動かしていないと、立ったまま寝てしまいそうだった。
そんな優光の姿を流し見る千夏は、保育園や学校の朝の準備もこんな感じだったわね。と、小さな溜息をつく。
「なに食べる?」
「お肉」
「料理名じゃなくて食材なのね」
千夏は眠気眼で即答する優光に対し、思わず苦笑いしてしまう。
(昔は、ママがつくったハンバーグ。ママが作ったプリン。ママのカレーライス。とか、料理名を言ってくれてたのに。今やお肉って……幅が広すぎるわ。せめて焼きなのか、茹で系なのか言って欲しいものね)
千夏はそんなことを思いながら、ボーっとする優光を引き連れて部屋を後にするのだった。
†
「なに買うの?」
コンビニの店内を歩んでいく優光の後ろを、千夏はお行儀良くついて歩く。
(背中……本当に大きくなったね。183㎝あるお父さんには負けるけど、身長も凄く伸びて、掌も大きくなった。当たり前だけど、もうコンビニやスーパーで走り回らないのね)
我が子の後ろ姿を感慨深げに見つめていた千夏に、「アイス」とそっけない答えが返ってくる。
(あげくに、可愛さが欠落したわね)
千夏はそんなことを胸の内で付け足し、「私も買おう。ミントアイス」と言いながら、優光と歩幅を合わせた。
「どうせ、歯磨き粉の味じゃん。とでも思ってるんでしょ?」
ミントアイスに全く興味を示さない優光に気がついた千夏は、恨めし気に言う。その台詞は、幼い優光が母親に放った言葉だった。
「ご名答。まぁ、味覚は人それぞれですから」
「どうせ優光くんは、棒状のソーダーアイスでしょ?」
(ひーくん、いっつもソーダーアイス食べてたもんね。ソフトクリームは絶対にチョコレートだったけ。たまには違うの食べてみれば? って言っても、僕はこれがいいんだもん。 お母さんだって、歯磨き粉アイスばっかじゃん! とか言ったりしてさ。あの頃の頃、覚えてたりするのかしら? そういえば、その頃からだったわね。ママと呼んでくれなくなったのは。小学校に上がってしばらくしたら、お友達に影響されたのか急に大人びるようになったのよね……)
と言う言葉が外の世界にでることはなかった。
「正解。なんで分かんの? なんか嫌なんだけど」
優光は怪訝な顔で千夏を見る。
「私は優光くんのことならな~んでも、お見通しなのよ」
千夏は、ふっふっふ。と得意げに胸を張った。
なんでもお見通しなのは当たり前である。
幼少期の頃から変わってしまったものはたくさんあるが、千夏にとっては、変わらないモノのほうがずっと多かったように思える。
†
「ねぇねぇ、オセロしよー。私ね、持ってきたんだぁ」
ゲストハウスに戻って早々、千夏は声を弾ませる。
「用意周到なことで」
「そりゃ旅ですから」
ご機嫌な千夏は畳に小さなボードゲームを広げ、いそいそと遊ぶ準備を始めた。
「アイス食う?」
「もちろん」
「ん」
小さな相槌を打つ優光は、カップアイスと木のスプーンを千夏に渡す。
空になったコンビニのビニール袋にパッケージを捨て、「ゴミはここに」と袋も手渡した。
食べたゴミや出したごみはすぐに片付けましょう。という千夏の教えを、優光はちゃんと守っていたのだ。
「ありがとう。優光くんも座って?」
「ふぁいふぁい」
「優光くんからね」
千夏はカップアイスと木のスプーンの封を開けて、ゴミを袋に捨てる。
かくして、アイスを食べながらのオセロ勝負が幕を開けたのだった。
一時間後――。
「また負けた……」
千夏はあり得ないという風に項垂れる。
勝負は三勝三敗。全て千夏が負けていた。千夏にとって、それは信じられない出来事だ。
幼い優光と何度もオセロ勝負を真剣にしたことがあるが、いつも千夏が勝っていた。けして千夏が大人げないわけではない。
幼い頃の優光は序盤に自分の石をたくさん増やし、最終的に打つところがなくなって敗北してしまうのだ。故に、千夏の必然的勝利となってしまう。
負けず嫌いだった優光は、『おかーさん! これで最後にするから、もー一回!』と、何度も対戦をねだったものだ。
それが今となっては、序盤に自分の石を増やさず隅(角)を意識して取り、相手にたくさんの石を取らせていく。そして最後に自分が石をかっさらっていくという、なんとも戦略的な勝ち方を身につけていたのだから、千夏にとっては驚きの嵐だろう。
「弱すぎ。これで終わりな。もう眠い」
「そうね。お布団敷きましょうか」
気持ちがいいほど惨敗した千夏はボードゲームを片付け、絵本を取り出す。
「ねぇねぇ、ぐ〇とぐ〇でいい?」
ぐ〇とぐ〇。それは、千夏が幼き優光に一番読み聞かせていた絵本だった。
「なんでもいいから自分の布団くらい、自分で敷いてくれ」
そんな思い出など忘れました。かのような優光は、千夏の布団セットを部屋の隅にどさりと置いた。
「そうでしたそうでした」
千夏は一旦絵本をバックの上に置いて、布団をセットする。昔はよく、自分の布団と優光の布団をセットしたものだ。
小学校に上がった優光は自分の部屋を持つようになり、一緒に眠ることもなくなってしまった。
「なんか遠くないかしら? 端っこと端っこって……寂しくないの?」
「寂しくない。少しは危機感持てば? 別に興味ねーけどさ」
優光は呆れたように溜息を吐く。
(……それもそうね。私は私である前に、藤崎千花ちゃんの身体を借りて、白石千夏として生きてるんでした)
優光の言葉で我に返る。少しはしゃぎ過ぎていたと、ちょっぴり反省する千夏だ。
「俺はもう疲れたから寝る。電気は好きにして」
「もうちょっと待ってちょうだい」
「いやいや、寝るの待てってどういうことよ? 絵本の読み聞かせだって、子供を寝かしつけるためだろ? 俺、普通に寝むれるし。むしろ、普通に寝かせてくれ」
「まぁまぁ、そう言わないの」
千夏は優光を宥めつつ、優光の顔の近くで腰を下ろす。
優光が物心ついた頃からの読み聞かせスタイルで、太股の上で本を立て、優光の目に入りやすいように絵本を開く。
「絵本、始まるよ~」
「はいはい」
優光は欠伸を噛み殺し、千夏の方へ横たわる。
(昔は、わ~い‼ とか言って拍手してくれてたんだけどな~。でも、ひーくんも中学生だもんね。こうして付き合ってくれるだけで凄い事よね。……二ページ後には寝てしまってそうだけど)
千夏はそんなことを思いながら、絵本の表紙を開く。
「ぐ〇とぐ〇――……」
ゆっくりと優しい口調で絵本を読んでいく千夏は、幼き日の優光との思い出と共に、物語を噛み締める――。
「……おしまい」
「おしまい?」
「そう。おしまい。今日一日付き合ってくれて、本当にありがとう」
千夏が放つ、おしまい。という言葉には、どこか喪失感と切なさが含まれているようだった。
この世界で過ごせる時間が刻一刻と過ぎ去り、優光と過ごせる残りの日々がよぎったのだろう。
「別に。約束したし。ラクダ楽しかったし。弁当も美味しくて、懐かしかった……」
夢の中へと落ちてしまいそうな優光は、普段より舌足らずな口調で、素直に気持ちを表現する。
その口調が幼き日の優光と重なり、千夏の心に切なさを募らせた。
「それはよかった」
「あとは、海だけ……だな」
「そうね。優光くんはなにかやり残したことはないの? 私みたいに……。私になにかできることはない?」
(私にはひーくんとやり残したことが数えきれないほどがあったけれど、ひーくんが何を思っていたのかまでは、聞かなければ分からない。出来うるなら、ひーくんがやり残したことも全て叶えてあげたい)
そんなことを内心で思っていた千夏に、すぐに答えが返ってくる。
「俺は、あの人のプリンが食べたい」
「プリン?」
「そう。プリン。あの人が、来週の日曜日に作ってくれる。って約束してくれたプリン。 売っているものよりも少し硬いけど、とっても美味しい。それ、食べたい。もう一度だけで、いい。でも、白石には……絶対に無理だ。味も、香りも……。あの人と……違う、から――……」
優光は望みを吐露しながら重い瞼を閉じ、浅い夢の海へと落ちていく。
八年前の春。
「ねぇねぇ〜」
幼い優光は甘えた声で、生前の姿をした母親を呼んだ。
「おかぁさ〜ん」
優光は正座をして洗濯物を畳んでいた母親の背におぶさる。
「ひーくん、どーしたの? お洗濯ものが畳みにくいから、どいてくれると嬉しいんだけど?」
母親は柔らかく微笑み、肩越しに愛する我が子を見る。
「プリン食べたい。最近食べてないもん。食べたーい」
「そういえば、最近作ってなかったわね」
「作ってー。バニラびーずん? 入りのがいい!」
「ひーくん、おしい。びーずんはお豆よ。それを言うなら、バニラビーンズね。残念だけど、バニラビーンズは今お家にないのよ。今度買ってくるわね」
母親は小さく肩を竦めながら微笑む。なんて平和で穏やかな光景なのだろう。
「バニラびーんず? 買いに行こう! 僕、いま食べたいんだもん」
優光は前に回り、母親の膝の上にちょこんと座る。
「だーめ。今日はもう、今週のお買い物すませちゃったもの」
「じゃぁーいつ作ってくれるの? たべたーい」
「じゃぁ、来週の日曜日。一緒に作って、お父さんと一緒に食べましょうか。それまで待っていてくれる?」
「……分かった。来週はお父さんがお仕事から帰ってくるもんね」
不服気だった優光だったが、来週の日曜日に出張から帰宅してくる父親の顔を思い出し、笑顔を取り戻す。
「ありがとう」
母親は微笑を浮かべてお礼を言った。
「指切りげんまんしよー。ぜったい約束守ってね」
「はいはい」
母親の長くて綺麗な小指に、幼い優光の小さな小指が絡みつく。
♪ゆーびきーり、げーんまん~♪
二人の柔らかい笑い声と共に、ゆびきりの歌声が響き渡る。
柔らかくてあったかい幸せな空気が、部屋中を包み込んでいった――。
「ひーくん。ごめんね……。ずっと一緒にいてあげられなくて」
千夏は慈悲深き微笑みと共に、一筋の涙を溢す。
自分が作るプリンを覚えていてくれていたこと、心から美味しいと思ってくれていたこと。もう一度食べたいと思ってくれていたことへの喜び。と同時に、日曜日の約束を叶えることが出来なかったことへの後悔と申し訳なさが、千夏の心でぐるぐると混ざり合う。
「おやすみ。愛してるわ」
千夏は夢と現実の狭間にいる優光には聞えぬほど小さな声を溢し、絵本をバックにしまって布団にもぐる。
その日の夜。
千夏は優光に気づかれないように、嗚咽を押し殺し、涙を流し続けたのだった――。
†
八月三十一日。朝五時三十分――。
♪ピピ、ピピ、ピピッ!♪
「朝だ……。起きなきゃ……一秒でも、無駄にしてはいけない」
千夏は重だるい身体を叩き起こすように目覚まし時計を止め、ベッドから起き上がる。
じっとりした汗で額に張り付いた前髪を拭い払う千夏は、朝の支度をするため浴室へと向かった。
藤崎千花の器を借りて生きる、白石千夏の最後の一日が始まったのだ。
千夏が軽い朝風呂を済ませた頃には、六時になっていた。
既に、本日の十八時頃に稲村ヶ崎で海をみる。と言う約束を優光と交わしている千夏は、そそくさとキッチンへと足を向けた。
藤崎家の家族に見つからず、集中してプリンを作ることが目的だ。
八年ぶりに作るプリン。愛する我が子のリクエストメニューであり、八年越しの約束を叶えるプリン。千夏の気合が嫌でも入る。
「まずは、カラメル作りね」
千夏は藤崎千花が愛用していた紺色エプロンを借り、アイランドキッチンに立つ。一ヵ月藤崎千花として住んだ藤崎家。千夏はどこに何があるのかを全て把握していた。
テキパキとキッチン上部にある戸棚からボウル。下部からは小鍋。引き出しからは、木べらなどの必要な調理器具。食器棚から耐熱容器を準備していく。
「久々だから、上手くできるか分からないけど……」
不安を口にしながらも作業を進めていく。
まずは砂糖大さじ三と、水を大さじ一入れた耐熱容器をレンジにかける。レンジ待ちタイムを活用して、プリン液に使う牛乳や砂糖などを計量していった。作り慣れていたメニューだけあって、要領がいい。
「準備完了!」
計量を終えた千夏は、電子レンジが甲高い知らせを響かせる前に扉を開く。レンジ通知音が藤崎夫妻の目覚まし時計になりかねないからだ。
調理ミトンで手を保護しながら耐熱容器を取り出した千夏は、少し隙間を空けてバッドを耐熱容器に被せ、大さじ一の追加水を隙間から加えた。それにより、カラメルがバットに勢いよく飛び散ってゆく。
千夏はミトンをした手袋でバッドを抑え、カラメルが落ち着くのを待った。
本来であれば、小鍋などでカラメルソースを作るのが一般的だ。だが面倒臭がり屋な千夏は時間短縮も兼ね、カラメル花火恐怖と戦うことを覚悟のうえ、レンジ調理を選んでいた。
「落ち着いた落ち着いた。ふふ。今回も私の勝利ね!」
などと言いながら、ご機嫌にカラメルをよく混ぜてゆく。
千夏の中で、カラメルソースを火傷せずに完成させられたら勝利。火傷したら敗北。という戦いがあるらしい。
「お次は、プリン液作りね」
千夏は計量済みの牛乳と砂糖を入れた小鍋を弱火にかけ、砂糖を溶かしてゆく。この時、沸騰させないのがポイントだ。沸騰したが最後、湯葉もどきが出来て終わる。
♪ラララン~ラララン。ラララッンラッン、ララ、ラッン~……♪
千夏は優光との思い出のメロディーを口ずさみながら、大きめのボウルに卵一つ割り入れる。卵の殻が入ることも割れることもなく、綺麗な形を維持していた。
カラザを取って泡だて器で軽くかき混ぜる。下準備していたバニラビーンズと、砂糖が溶けた牛乳を仲間入りさせ、よく混ぜてゆく。
生クリーム類などを使わないのが、千夏のこだわりだった。故に、滑らかプリンとはほど遠い、昔ながらのしっかりしたプリンに仕上がるのだ。
きっと優光は、そのプリンの食感と濃い味が大好きだったのだろう。
「ここで面倒臭がらずに、しっかりと濾すのがポイントなのよね~」
千夏は独り言をしみじみ呟きつつ、プリン液を裏漉ししてゆく。
一度裏漉しせずにプリンを作ったことがあるが、なんとも口当たりの悪い仕上がりとなってしまった。その結果、面倒臭いという思いがその後に勝利することもなく、ちゃんと裏漉しをして作るようになった。
「後は火にかけるだけね。どうにかこうにか、藤崎家の朝食のお邪魔をしなくて済みそうね」
千夏はホッと息をつき、耐熱容器の型に10/7程プリン液を入れ、アルミホイルで蓋をした。
キッチン下部の引き戸から厚手の鍋を取り出し、容器の1/3~半分程が浸るまで湯を入れて火にかける。最初から蓋をしないのがポイントだ。鍋に入れた水が沸騰してようやく蓋をする。そこから弱火~中火で十分~十五分程待てば、全体に火が通った頃合いのはずだ。
千夏はその間に、汚した調理器具やキッチンを綺麗に片付ける。
「そろそろかしら?」
千夏は竹串でプリンを差して火の通りを確認する。
「うん! 上出来ね」
納得したように頷く千夏は、鍋から容器を取り出して粗熱を取る。その間に鍋を洗い、藤崎千花の両親と、自分の朝食の準備を始めた。
メニューはベーコンエッグとサラダにトーストだ。
父親はブラックコーヒー。母親と藤崎千花がホットミルクだと知ったのは、藤崎千花として住んでから、三日目のことだった。
人数分の朝食を作り終えた頃には、プリンの粗熱が取れていた。
「タイミングバッチリね」
千夏はカラメルソースを上から流し込み、冷蔵庫に寝かせた。
「あの頃の味のままだったらいいのだけど……」
少し不安気に呟く千夏は、藤崎千花として笑顔を作り直す。この家にいる時は、白石千夏ではなく、藤崎千花として暮らしてきたのだ。ここで仮面を取るわけにはいかない。
その後千夏は、藤崎夫妻と最後の時間を共にするのだった――。
午後一六時。
神奈川県鎌倉市浜稲村ヶ崎――。
ピンク色と白色のストライプが可愛らしい保冷剤バッグを持つ千夏は、Aラインの黒いワンピースに出来うる限り皺がつかないよう、太い流木に腰掛けていた。
夏の生温い風が千夏の綺麗な黒髪を躍らせる。
千夏は白ベルトに丸い形がころんと可愛らしい腕時計を見つめた。時計の針は一八時十五分を示している。大幅と言うわけではないが、約束時刻を過ぎていた。
一分、一秒も無駄に出来ない千夏にとって、一人で待つ一秒は不安を煽る対象でしかない。刻一刻と、愛すべき息子と過ごせる時間が過ぎ去ってゆくのだから。
(ひーくん……ちゃんと、来てくれるよね? 約束、したもんね。信じてるからね)
不安に押しつぶされそうな気持を抱えながら、優光を信じて待ち続けると決めた千夏の耳に、「白石!」と呼ぶ声が響く。優光だ。
「優光くん!」
待ち人の登場に声を弾ませる千夏は、優光に向って右手を振った。
「わりぃ。少し遅れた」
「全然大丈夫。きてくれてありがとう。ねぇねぇ、ココ座って」
「ぁ、うん」
両肩を上下させる優光は、千夏が座っていた大きな流木に腰掛けると、ふぅ~。と、一息ついた。
「もしかして、走ってきてくれた?」
「普通」
素っ気なく答える素直じゃない優光がおかしくて、千夏は内心でくすっと笑う。
「そっか。お水飲む? 氷入れてきたから冷たいはず」
「……」
優光は差し出された白のスリムな水筒を複雑そうな顔で口噤んだ。
「ぁ、口付けてないし、毒も入ってないから安心して?」
「いや、そこは別に気にしてないし、毒持ってるとかは思ってねーけど。それ、白石のだろ? 俺自分で買ってくるし」
そう言って立ち上がる優光を止めるように、千夏は優光の小指を控えめに握った。一秒でも無駄にしたくないのだ。
「私、喉かわいてないから大丈夫。座ってて」
(私にはもう時間がないのよ……。一秒でも長く、貴方と同じ時間を過ごしていたいの)
という胸の内が優光に伝わることはない。
優光はどこか懇願するような千夏に少し戸惑いながら、流木に座り直した。
「どうぞ」
「どうも」
今度は素直に水筒を受け取った優光は、いただきます。と言って冷たい水を飲む。
「うまっ」
優光は生き返ったように口角をあげた。
「よかったよかった」
その横顔を眺める千夏は、嬉しそうに微笑んだ。脳裏では、いつかの日、二人でピクニックしたときの思い出がフラッシュバックしていた。
――おかーさーん。喉かわいたぁ~。
蝶々を追いかけて走り回っていた幼い優光は、レジャーシートの上でのんびりしていた母親に駆け寄って行った。
――はいはい。凄い汗ね。
母親は穏やかな優しい笑みを浮かべ、アニメの絵柄をした水筒の蓋にお茶を注ぎ、溢しちゃダメよ。と手渡す。
優光は喉を鳴らしながら勢いよく飲み切る。
――おいしー!
そういって満面の笑みを浮かべる幼き優光。母親はその姿をかけがえのないものを見るように目を細め、柔らかな笑みを返すのだった。
そんな思い出に浸っていた千夏は我に返る。
「ぁ、そういえばお夕飯は食べてたのかしら?」
「そういえば食ってない」
「そうなの? じゃぁ、近くのお店で軽く食べましょう? まだ少しだけ付き合ってくれるかしら?」
「うん。別にいいけど。腹も空いてるし」
「じゃぁ行きましょ~」
かくして二人は、夕食を食べるためにその場を後にするのだった。
†
「ライス少な目で頼んでたけど、足りそう?」
アジアン風テイストの店内が印象的なお店。一番奥にある木製の四人テーブル。優光と向き合うように座る千夏は、名物ポークカレーを食べる優光に問いかける。
「そりゃ、白石がこの店は量が多いっていうからな。普通に足りた。元々大食漢じゃねーし」
「そうよね。知ってる。でも、昔よりは食べるようになってくれていて安心したわ」
「は?」
優光は意味不明なことを言う千夏を訝しげに見る。
千夏は「こっちの話よ」と、軽く流した。
八年前の春。
――おかぁさん、ごちそうさましてもいい?
母親が軽く盛ったカレーライスを二割残す幼き優光は、四人掛けテーブル席を挟んで向かい合う母親に問うた。
――まだ残ってるじゃない。あと少しよ?
――だって、お腹いっぱいなんだもん。これ以上食べると、また苦しくて唸ることになるもん。僕、昨日すっごく苦しかったから、もうヤダ。
幼い優光は昨日、母親が盛ってくれたカレーライスを完食した。といっても、三割程残っていたのを母親に促され、頑張って完食するかたちなのだが。
その日の夜は、お腹苦しー。はちきれちゃうよ~と、寝るが寝るまでお腹の苦しさに耐えるしかない優光だった。
それを考慮して少なめに盛ったつもりだったが、小食の優光には多かったらしい。
――仕方ないわね。ごちそうさましていいわよ。
昨夜の苦しみようを思うと、許可するしかない母親だった。
――ありがとーう。残してごめんなさい。ごちそーさまでした。
優光は顔の前で両手を合わせると、食卓から離れてゆく。
小学校の平均身長よりも低く、体重の軽い華奢な我が子の背中を見つめていた母親は、もっと食べてくれるようになったら嬉しいし、安心できるんだけど……。と、一人ぼやくのだった。
「白石は、その……少しは前向けそう?」
「えぇ。あと一つ叶えたら」
「海を見る?」
「それもだけど、優光くんに食べてもらいたいものがあるの」
「食べてもらいたいもの? 飯食ったばかりだからヘビーなのは厳しいけど……」
優光は戦々恐々とばかりに眉根を下げる。
「ふふふ。大丈夫よ。ハンバーグや揚げ物やらではないから安心して?」
千夏の言葉に優光は、そっか。と肩を撫で下ろした。
「ここでは持ち込み禁止だから、さっきの場所に戻ってから……と思っているのだけど」
「分かった」
最後の食事を賑やかな場所で、穏やかに終えた二人はその場を後にした。
二人の間に、夏の終わりを告げる生ぬるい潮風が吹き抜けていく。
そこには、世界で一番純粋な呪いと、切ない魔法がとける粒子が入り混じっていたのかもしれない――。
差し出されたものを数秒見つめていた優光は、「……プリン?」と、独り言のように問う。その表情にはどこか戸惑いの色があった。
ココットのお皿にはクリーム色の物体が平坦に注がれたまま固まっている。所々気泡が出来ているあたり、手作り感が感じられた。
「そう。プリン。このまえ言ってたから。それに、約束していたから……」
俯きながらそう伝える千夏の表情は、どこか儚く悲しげだった。
(まさかその約束を、こんな形で叶えられるとは思っていなかったけれど)
「別に、約束したつもりねーけど……」
(それは知っているわ。だって、ひーくんが約束したのは白石千夏じゃなく、八年前の母親としての私だもの)
という千夏の言葉が外にでることはない。
「食べてみて?」
千夏は優光の言葉を軽くスルーして言う。
その声はどこまでも穏やかだった。
優光は大切な思い出がたくさん詰まったプリンを差し出され、なんとも複雑そうだ。
その理由をどこか分かっているような千夏は、もう一度、食べてみて。と促す。その声はとても穏やかでありながら、どこか切羽つまっているような焦りを感じさせた。
それもそのはずだ。刻一刻と、優光と離れる時刻が迫っているのだから。
「……あぁ」
優光は少し気が乗らない様子で、ココットにかかっているラップをそっと剥がす。その手付きはどこか緊張の色を感じさせた。
「いただきます」
両手を合わせた優光はプリンの表面にプラスチックのスプーンをそっと置き、ゆっくりと差し込む。
少しかために仕上がっているプリンは弾力があり、スプーンが滑らかに入ってはいかない。その感じがまた、優光に懐かしさを感じさせた。
優光は少し躊躇しながらも、プリンをのせたスプーンをゆっくりと口に運び、一口食べる。
「――」
優光はスプーンを口に銜えたままピクリとも動かない。
「ご、ごめんなさい。そんなに、まずかった……かしら?」
おどおどと不安げに問いかける千夏に対し、優光は首を小さく振って否定した。
優光はなにも言わない。それでも、なにかを噛み締めるかのように、二口、三口とプリンを口に運び、時間をかけてプリンを間食した。
(……ひーくん)
千夏は胸の内で我が子の呼び名を口にし、その様子を静かに見守り続けた。
†
「あの人の、あの人の味がした………」
優光は懊悩するかのように、両手で頭を抱えた。
(ひーくん……もしかして、気がついたの? 私のことに)
千夏は優光の心中を察したように、優しく深く、「うん」と相槌を打つ。
「ショッピングモールの回り方も、ミントアイスが好きなところも同じ。サッカーが好きな俺に、あの人はいつも、サッカーボールにデコレーションされたおにぎりをつくってくれた。しょっぱい卵焼きが嫌いな俺には、父さんとは違う甘い卵焼きを作って、お弁当の中に入れてくれたんだ」
優光は大切な人との思い出を消化しきれず、涙をポロポロと溢す。
(ひーくん。全部覚えてくれていたのね)
千夏は心の内で秘める言葉や想いを面には出さず、壊れ物を扱うかのようにそっと優光の肩に手を回した。
優光は躊躇しながらも、肩に回された千夏の手に自分の手をそっと添えるように握った。
幼かった優光の小さな掌が今では、千夏の掌を包み込めるほど大きく成長していた。それは、二人が心の空白を抱えながら過ごした年月を物語っていた。
「ボードゲームはいつもオセロ。ワザとかどうか知らないけれど、半分こね。とでも言うように、左側の角を俺にとらせるのも一緒。絵本の種類も一緒。絵本には書いていない効果音まで勝手につけながら、楽しそうに絵本を読む読み方も一緒。いつも固めに仕上がるカラメルと手作りプリン。一緒だった。味も、香りも……」
「えぇ」
思い出と共に幼子に戻り始める優光。
そんな優光に対し、千夏は初めて同意するような相槌を打つ
「本当はさ、白石千夏って名前なんかじゃなくて、本当は鮫島……ッ!」
千夏は優光の言葉を遮るように、人差し指をそっと優光の唇につけた。
(その名前を口にしては駄目。その人はもう――生前の私はもう、器も名前もこの世にはないの。本当は魂でさえも、あってはならない存在なのだから)
と言う千夏の言葉が世に出ることはない。だがその先の言葉を言ってはならないのだと感じ取った優光は、言葉を変えた。
「ねぇ、僕の、僕の名前の由来言ってみてよっ」
(……僕。口調も表情も、まるで小さい頃に戻ったみたいだわ)
千夏は慈しむように目を細めながら、優光の質問に答える。
「貴方の名前は、鮫島優光くん。優しい光で、たくさんの人を照らしてあげられる人になってほしい。そう願いが込められた名前。あだ名は、ひーくん」
千夏の言葉に、優光の中でバラバラだったピースが全て埋まってゆく。
優光の瞳から止めどなく涙が溢れだす。
「本当に? 本物なの? どうして?」
色々な感情が混ざり合い心を乱す優光は、恥ずかしげもなく素顔をさらけだす。大人びた仮面は壊れ、自分の気持ちを押し込めていたパンドラの箱が、音を立てて開いてゆく。
「ひーくんが願ったから。それに、あの日、約束したでしょ?」
「?」
きょとんとする優光に対し、千夏はゆっくりと話し出す。
四年前の夏――。
十才の鮫島優光は家で一人、父の帰りを待っていた。
母親の死から、出張が多い部署を無理言って辞めさせてもらった優光の父であったが、帰りが夕飯の時刻を回ることが多々あった。
優光は四人掛けテーブルに座り、ひたすら父の帰りを待っていた。
静けさの中に、アニメ番組の音だけが虚しく響く。
「昔は楽しかったなぁ」
幼い優光は五歳頃の記憶を呼び起こす。
四人掛けテーブルに並ぶのは、母親のあったかい手料理が並べられていて、正面には笑顔の両親が腰掛けている。
いただきます。三人の声がそろう。温かくて美味しいご飯。あたたかい食卓。 大好きな両親の笑顔。他愛もない会話を交わしながら、食事をする幸せなひと時。そんな光景が脳裏によみがえり、優光はしくしくと涙を溢し、机の上に突っ伏した。
「お母さん……どこに行っちゃったの?」
そんな言葉が優光の口をつく。もちろん、天国に旅立っていたのは知っていた。理解していた。だが本当の意味では理解できずにいたのだ。
「どうして、僕をおいていったの? どうして僕も連れて行ってくれなかったの? お母さん、僕が嫌いになっちゃったの? お母さん、会いたい。もう一度会いたいよぉ。
お母さんの声が聞きたい。お母さんの笑顔が見たい。お母さんとお話がしたい。お母さんのプリンが食べたい。プリン、約束……ちゃんと指切りげんまんしたのに……どうして約束やぶるのーッ。ひどいよぉ。どうして何も答えてくれないの? 僕がいい子にしなかったから嫌になっちゃったの? 僕、ちゃんといい子にするよ。僕、おもちゃも自分でお片付けも出来るし、ちゃんと自分で着替えられるようになったんだよ。もう夜中のおトイレだって、自分で行けるようになったんだ。
だから、もう寝ているお母さんを起こしたりしない。お母さんが作ってくれたご飯も残さず食べる。だから、だから――戻ってきてぇ……。お願いだから……」
優光の悲痛な想いは、母親のいる黄泉の国まで届いていた。
そんな我が子を見ていた母は絶望と罪悪感に苛まれ、どうしようもない現実をただ絶望し、恨み、我が子に謝り続ける。
止めどない涙が現世界を映す水晶を濡らしていった。
幼い優光の想いはいつしか、母の魂をずっと黄泉の世界に引き止める呪いとなっていた。
それは穢れの知らない、世界で一番純粋な呪いだった――。
「ひーくん、大きくなったね。私もう、ひーくんを抱っこしてあげられないわ」
千夏は母親としての想いをさらけ出すように、優光を呼ぶ。
「ぉ……おかあ……さん?」
「かも、しれないわね」
震える声で途切れ途切れに問いかけてくる我が子に、うやむやな答えを返す。千夏はけして、そうであると断言はしなかった。それでも、優光には通じていた。
自分の目の前にいる人が白石千夏ではないことに。白石千夏ではあるかもしれないが、そこにいるのは、紛れもなく母であるということを――。
†
黄泉の国――。
「……。とても素敵な夏を過ごすことが出来たわ。けして忘れることが出来ない、忘れてはいけない、かけがえのない夏休みを」
瞼のカーテンをそって開けた千夏はそう言って、強い光に微笑む。
「それはよかったです。お二人が素敵な夏を過ごせたのなら、こんなに嬉しいことはありません」
強き光はホッと胸を撫で下ろしたように息を吐き、声を弾ませる。
「ありがとう」
随喜する千夏は心からお礼を言って、口元を綻ばせた。
「息子さんに、伝えたいことは伝えられましたか……?」
強き光は不安げに問う。千夏に心残りを持っていてほしくないのだ。
「そうね……」
千夏はまた思い出の波に身と心をゆだね始める――。
†
ひとしきり泣いた二人は顔を見合わせ、小さな笑い声をあげる。その音はどこか切なく、どこか温かかった。
「私、そろそろ行かなきゃ」
「待って!」
優光は静かに立ち上がった千夏の腕を両手で掴む。
「僕を、置いて行かないで。僕も、一緒に――ッ!」
我が子の心からの言葉に、千夏の心がずきりと痛んだ。
「駄目よ!」
千夏は強い口調で優光の言葉を制止させた。
「ひーくん、それは駄目よ。絶対にできないわ」
タイムリミット付きではあるが、もう一度この世界で生きれることになった千夏は、我が子の願いであればどんなことでも叶えてあげたいと心から思っていた。だが、これだけは絶対に叶えられない。叶えてはいけないのだ。
「どうして⁉」
駄々をこねる子供のように声をあげた優光は、置いて行かれないように勢いよく立ち上がる。
「ひーくんがこの世界で生きているからよ。生きていかなきゃいけないからよ」
千夏は強い口調で伝えるが、その声は震えていた。
千夏だって本当は、我が子と離れることなどしたくない。したくはないけれど、そうしなければいけないのが現実なのだ。自ら我が子の命を落とさせることなどありえないだろう。
千夏としてこの世界で生きて優光と一緒に過ごせば、千花の命を奪うことになる。どちらも選べない。選んではいけないのだ。
「でも、僕はッ」
千夏は優光の唇に人差し指をそっとあて、その先の言葉を遮った。
「ひーくんは何歳になりましたか?」
「……一四歳」
「そう。八月三一日に私がいなくなって、もう八年の月日が立ちました。ずっとひーくんを空から見ていたわ。毎日大泣きしている姿をみて、私も空から泣いていたのよ。ごめんね。って何度も謝っていたの。ずっとひーくんを抱きしめてあげたかった。約束していた、プリンをつくってあげたかった。ひーくんとお話したいことも、行きたい場所も、まだまだたくさんあった。なにより、もっともっとひーくんと同じ時を過ごしていたかった。だけど、できなかった……。ごめんね。
十歳を過ぎたあたりから、ひーくんは泣かなくなってしまった。そして心を閉ざして、人と深く関わろうとしなくなってしまったわ。喜怒哀楽も薄くなってしまって……。早熟させてしまって申し訳ないと思っているわ」
千夏は滂沱しながら言葉を紡ぐ。
黄泉の国で我が子をずっと見守り、申し訳ないことをしたと謝罪を繰り返し、嘆き苦しんでいた日々が脳内でフラッシュバックしていく。
†
妻が交通事故にあったと連絡を受けた優光の父、鮫島優弥は、五歳の優光を連れて病院へ走った。だがすでに妻が旅立った後だった。
その意味を理解している父は我が子を強く抱きしめ、嗚咽を押し殺すように泣いていた。
「ねぇ、どーしてお母さん眠ったままなの? どうして白い布をかぶされてるの? どうしてお話しないの? お父さん、どーして泣いてるの?」
まだ何も分からない、理解できない幼い優光は問い続ける。父は上手く言葉を紡ぐことが出来ない。
「俺が、お前を、守る……ッから。二人で、生きていこう……」
とだけ伝えるのが、せーいっぱいだった。
すでに黄泉の国へと魂だけが送還されていた千夏は、二人の姿を天から見ていた。
二人に想いを伝えることも、二人と触れ合うことも出来ず、ただただ暗く冷たい闇の中、涙を流し続けることしか出来なかったのだ――。
その後、慌ただしく状況は変化していった。
千夏の両親は、長野県から東京へ。優光の父の両親は、北海道から東京へ。
千夏に深い繋がりがある者達だけで、小さなお葬式が執り行われた。
「優弥さん。あの子をどうするつもりですか? 私達が預かりましょうか? あんな小さい子を一人にしておくことなんてできないでしょう?」
千夏の母である明恵は仲良く夫と遊ぶ孫の姿を見ながら、深刻な口調と表情で言う。その視線と言葉の先には、鮫島優弥の姿があった。
「僕が育てるつもりです。僕が守っていきます。お義母さん達に、ご迷惑はおかけしません」
「迷惑だなんて思わないわ。だって、あの子は私達の大切な孫なんですもの。貴方もそうよ? 血は繋がっていないけれど、大切な一人息子だと思っているわ。だから、そんなに思いつめないでちょうだい」
ボリュームのある黒髪ショートヘア―が印象的な六十歳と思しき女性、水口明恵はいった。いつもエレガントな装いの明恵だが、本日は娘を弔うために、華奢な身体を喪服スーツに包んでいた。
優弥は明恵の言葉に力なく微笑を浮かべる。
「……優弥君。もしかして、子一人、父一人で暮らしていくつもり? 片親で子一人育てようなんて無謀というものよ。それでなくても優弥さんは出張が多いのでしょう?」
口調は優しいが、どこか優弥を咎めているようだ。まるで、娘のことさえ守れなかった貴方が、一人で育てきることなど出来ない。と言うように。
「ありがとうございます。お気持ちだけ、ありがたく受け取っておきます。母親を失った優光を一人、長野に行かせるのは心配です。学校のことだってありますし……」
「……それはそうだけど」
明恵は腑に落ちないように溜息を吐く。
「大丈夫です。僕があの子を命がけで守り切ります。仕事も、部署を変えてもらえるように言いました。多少の残業はあるかもしれませんが、ずっと東京にいられます。一人暮らしが長かったので、家事も問題なくできます。安心して下さい」
優弥はそう真摯に伝える。が、そんな簡単に受け入れられる話ではない。
「安心してって言ったってね……」
「もし、本当にどうしようもないときは、申し訳ありませんが……手を貸してもらってもかまいませんか?」
優弥は控えめに問うてみる。
「えぇ。それはもちろん。でも……」
「お父さーん」
話し合いが深みにはまっていくのを遮るかのように、幼い優光の声が部屋に響く。祖父の傍を離れた幼い優光がドタバタと父親の方にかけてくる。
正座をしていた優弥の背におぶさるように抱き着く幼い優光。祖父はそんな孫の姿を微笑ましそうに見つめていた。
「いったい何を揉めていたんだ?」
千夏の父、茂雄は少し呆れたように妻に言った。
「もめてはしていません。ただ、父一人、子一人では大変でしょうから、優光君をうちで預かりましょうか? という相談していただけです」
明恵は、失礼しちゃうわね。というような口ぶりで答える。
「そーか。優弥君はもちろん、優光君を一人で育てきるつもりなんだろう?」
「はい。そのつもりです。そのために仕事の部署も変えてもらいました」
優弥は強い意志を宿した瞳で茂雄をみる。
「じゃぁー、優弥君に任せた方がいいんじゃないか?」
「貴方ッ!」
明恵は叫ぶように茂雄を呼び、講義をするように勢いよく立ち上がった。
「明恵。そう目くじらを立てるモノじゃない。優弥君を信じてて任せるのが一番いい。私達は二人のフォローに回る。それが一番、優光君にはいいことだと俺は思う。母親と引き離された優光君を、父親からも引き離すだなんて酷すぎる。それだけじゃない。長野に転校となると、お友達とも離れ離れ。慣れ親しんだ街とも離れることになる。明恵はそんな悲しくて辛いことを、優光君にさせるつもりなのか? 一番に考えるべきなのは、優光君の幸せなんじゃないか……と、俺は思うよ」
「ッ……」
夫の言葉に明恵はぐうの音もだせない。
突きつけられた正論と真実。明恵は悔し気に下唇を噛んだ。
「優光君はお父さんと毎日一緒にいたいか?」
茂雄の問いかけに、幼い優光は力強く頷く。
「僕、ずっとお父さんとお母さんといる!」
優光はそういって優弥にぎゅーっと抱き着く。
なんでもないように言った優光の言葉に、その場にいた三人は言葉をつまらせた。
現実を本当に受け止めた時の優光のことを思うと、胸が張り裂けそうだ。
「……そうね。今の優光君を優弥さんの傍から離すべきじゃないわよね」
明恵は決心がついたように小さく頷く。
「優弥さん。優光のことをお願いします。何かあったら遠慮せずに、私達を頼ってください。幸い私達はまだまだ健康そのものです。すぐにこちらへ飛んできます」
明恵はそう言って左手を差し出す。
優弥は優光を右腕で抱き上げて立ち上がり、「はい!」と力強く返事をして握手に答えた。
こうして、父一人、子一人の生活が始まったのだ。
初めの一週間は何事もなく過ごしていた二人だったが、八日目の夜に異変が起こり始める――。
「よっし。終わった!」
優弥は持ち帰った仕事をリビングの四人掛けテーブルで完了させ、ふぅと一息つく。
時刻は夜の十時を回っていた。
「俺も早く寝ないとな」
黒縁眼鏡を外した優弥は、白のノートパソコンを紺色の収納ケースに直し、子供部屋に向かう。
自分が眠る前に一度、優光の様子を見に行こうと思ったのだ。
「ひっく、ひっく……ッ。おかぁさん」
優弥がドアノブに手をかけた時、すすり泣く声が耳に届く。
「優光!?」
優弥は慌てて部屋の扉を開ける。
豆電球がついた部屋。大学生になっても使えるようにと購入した大き目の木製ベットで、優光は一人寂しく眠っていた。
「……ひろ、みつ?」
膝を抱えて泣いているのを想像していた優弥の予想は外れる。優光は涙を流しながらも、ベッドで眠りについていた。先程の声は寝言だったのだ。
優弥は優光の涙を親指の腹でそっと拭ってやる。
「ぉかあ……さん。どーして? うー……ゔぅ」
優光は悪夢にうなされるように、四肢をジタバタともがかせる。
「優光! しっかりしろ。俺がココにいるから」
優弥は慌てて幼い優光を起こす。
「ゔぅ~ん……」
優光は苦しそうな唸り声をあげながら、重く硬く閉じられた瞼をゆっくりと開ける。
「……ぉとーさん?」
「優光ッ」
優弥は意識が覚醒しきらず、ぼーっと自分を見つめる我が子を強く抱きしめた。優弥の指先は微かに振るえている。
「おとーさん? だいじょうぶ?」
「それはこっちのセリフだ」
我が子の思わぬ言葉に、優弥は苦笑いする。
「うなされていたけど、怖い夢でもみたか?」
あえて母親のことは触れずに問うてみる。
「……うん。ねぇ、お父さん……」
優光は何か言いたそうにしながらも口つぐむ。
「どうした? 言いたいことがあるなら言ってみろ」
優光は優弥に背中を押されるかのように、「……うん。あのね……」と、ゆっくりと口を開く。
「どうして、お母さんは帰ってこないの?」
「ッ⁉」
優弥は我が子の言葉に思わず言葉をつまらせてしまう。
「ねぇ、どうして? お母さんはどこに行っちゃったの? 僕がいい子じゃないから、僕のこと嫌いになっちゃのかなー? ……ぼ、ぼく、僕のこと、どぉーして、おいてったのぉ?」
優光は最後の方の言葉達を、涙で溺れるように伝えることしか出来なかった。
「優光。そんなことない。優光はとてもいい子だ。お母さんが優光を嫌いになること、絶対にありえな……ッ」
「じゃぁーどうして⁉」
優弥の言葉を遮るように、優光は声をあげる。
「どうして帰ってこないの? 来週の日曜日、一緒にプリン作るって約束したのに! もう来週の日曜日はとっくに過ぎちゃったよ?」
優光はポロポロと涙を溢しながら、優弥の皺一つない白のYシャツに縋りつくように握りしめる。止めどなく溢れだす優光の涙が、優弥のYシャツを濡らしていった。
「優光……。ごめんな」
耐え切れなくなった優弥は、優光の小さな身体をそっと抱きしめる。
本当のことが分かるように伝えるのが正解なのか、優弥は分かりかねていた。
「ど、どうしてお父さんが謝るの?」
優光はどこか不安に問いかける。
「……ごめん。今週の日曜日、俺とプリン作ろう」
「やだ」
優光は不貞腐れたような口調で即答する。
「はは。お父さんとは嫌か。ごめんな……。お母さん秘伝のプリン、実はレシピを知らなくてな……。一緒にお母さんのプリンを作ってみるのもいいかと思ったんだけどな……嫌か。嫌だよな。ごめんな……。ごめん……」
優弥は落涙しそうなのをグッとこらえながら、優光に謝り続けた。自分自身もまだ、妻が旅立ったことや、妻のいない生活を受け入れ切れていないのだ。
その日から優光は毎夜毎夜悪夢にうなされ、一人で涙を流し続けていた。それを見かねた優弥は、自分のベッドで息子と眠ることにした。
息子が悪夢にうなされたら優光を起こし、泣き止むまであやし、寝付くまで待った。
満足に眠れていない優弥は早朝から優光のお弁当と朝食を作り、ゴミを出す。その後に優光を起こし、二人で朝食を終えると、あと片付けをして家を後にする。
優光を保育園に預けてドタバタと会社に向かう優弥は、集中力を切らさぬように仕事に奮闘する。働かなければ生活が出来なくなってしまうのだ。どちらかを手抜きにすることなど出来ない。
定時に終えられなかった仕事は、家に持ち込むことにしていた。今大切なのは、一秒でも長く優光の傍にいることだと思っていた。
夕食は優弥が作ることもあれば、コンビニやお弁当屋で済ますこともあった。
夕食を終えると、息子と一緒にお風呂に入り、夜の家事をこなす。
優弥は精神的にも体力的にもヘトヘトであったが、我が子を守るために必死になった。それが我が子にも伝わったのだろうか?
母親が旅立って三ヵ月後以降、優光は母親のことを口にしなくなった。だがそれは意識があるときだけだ。夜中はうなされ、母親の存在を求めるように涙を流す。そういった生活が一年と半年続いた。
それを黄泉の国からずっと見ていた母親もまた、嘆き苦しみ、涙を流し続けていた――。
コンコン――。
寝室の扉をノックした優光は、「お父さん、朝食出来たよ」と声をかける。
一二歳になった優光は父親に負担をかけないため、身の回りのことは全て自分でしていたし、料理もするようになっていた。
「あぁ。助かる。ありがとう」
スーツ姿の優弥はそう言いながら寝室からでてくる。
優光がまだ幼かった頃の優弥は頬がこけて、毎日のようにクマを作って疲労困憊という感じであったが、今は健康的に見える。
「そんな。お礼なんていいよ。早く食べよう。遅刻する」
優光はどこかそっけなく言って、一人リビングへと足を向ける。そんな我が子の背中を微苦笑した優弥は、小さく肩を竦めた。
一二歳になった優光はとてもしっかりしていた。していたのだが、感情表現豊かだった優光はどこかに消えてしまっていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて。今夜は少し遅くなりそうだから、先に夕飯食べててくれ」
「分かった。父さんも気をつけて」
八階建てマンションの小さなエントランスで別れた二人は、それぞれの帰路に向ってゆく。
季節は夏。
セミの大合唱が鳴り響く。そんな中で優光は、アスファルトの照り返しと、天からさす陽の針に眉を顰める。
幼稚園に向かう親子連れが、駅に向かっていた優光の横を通り過ぎた。優光はその二人をどこか羨ましそうに目を細め、小さな溜息をつく。
「……死にたく、なるな……」
この頃から、優光の口癖が出るようになっていた。本当に旅立とうとは思っていない。 この言葉の真意は、母親に『会いたい』なのだから――。
母親はそんな優光の姿を、黄泉の国からずっと見守り続けることしか出来なかった。
うなされながら涙を流して眠る我が子。
テレビの中にいる家族や、近所の家族を羨まし気に見る我が子。
一人寂しそうに、公園で遊ぶ我が子。
慣れない手料理で怪我をして泣く我が子と、それを焦りながら手当てする夫。
高熱にうなされる我が子。
成長していく我が子。
そして、「死にたくなる」という言葉を口にするようになった我が子。
その全てを、母は黄泉の国からずっと見ていた。見ることしか出来なかったのだ――。
†
「だったら! だったら、もっとこの世界にいてよ。まだ一緒にいたい。もう行きたい所はないの? 話したいことは? 僕はあるよ?」
優光の声で千夏は我に返る。
愛する我が子の泣き腫らした瞳からは、また涙が零れ始めていた。
「駄目よ。この子に悪いわ。それに私はもう充分よ? ひーくんがお腹の中にいたとき、ひーくんのお父さんとあの水族館とカフェに行ったことがあるの。その時ね、お腹の中にひーくんもいたのよ。ひーくんが無事に産まれて大きくなったら、家族三人で来ましょうと約束していたの。
四歳の頃に読んであげた絵本。そこにラクダに乗っている少年がでてきて、自分もラクダに乗ってみたい! ってずっと言っていたわ。だけどその時のひーくんがラクダに乗るのにはまだ幼くて。もっと大きくなったときに行きましょう。と約束していたの。覚えているかしら?」
優光は母親の問いに言葉をつまらせる。
複雑そうな顔をしながら、高速で記憶の歯車を巻き戻す。が、上手く記憶を見つけることが出来ない。
記憶の歯車を上手く動かすことが出来たのは、母親である千夏だけだった。
八年前の春。
――優弥さん、見て見て! クラゲがこんなにたくさんいるわ。なんだかとても幻想的ね。まるでおとぎ話のようだわ。
――そうだな。ここの水族館、二〇一五年にリニューアルオープンする。って噂を会社で聞いたよ。だから……。
――この子が大きくなったら、またここへ来ましょう!
若きし頃の優光の母親は、優弥が話そうとしていたことを瞬時に理解したのか、先に言ってしまう。その弾むような声はとても楽しそうだった。
――ったく。言おうとしていたことを先に言うなよ。
優弥はまいっちゃうよ。とばかりに、後ろ髪を掻く。
――あら、ごめんなさい。つい。……ッ。
楽しそうに笑っていた若きし頃の優光の母親は、一瞬顔を苦痛に歪ませる。
――ど、どうした?
優弥は慌てて妻の顔を覗き込むようにして問いかける。
――大丈夫よ。今この子が私のお腹を蹴ってきたの。きっと、僕も早く行きたいよー! って言っているんだわ。
――そうかもしれないな。
キラキラと瞳を輝かせる妻と、妻のお腹の中にいる我が子を、優弥は愛しそうに見つめ続けた。
――優弥。ここのハッシュドビーフオムライス、とっても美味しいわ。卵がふわとろなの。
水族館を満喫した二人は、大崎駅から徒歩五分程のところにあるカフェでランチを楽しんでいた。
――それはよかった。このカツカレーも美味しいよ。来てみて正解だったな。また一緒にこよう。
――えぇ。お子様ライスもあるみたいだし、この子が大きくなって遊びにきたときも、ここに来ましょう。
――そうだな。そうしよう。
優弥は妻の意見に笑顔で大きく頷いて見せる。
平和に時は流れ、無事にこの世に生まれ落ちた優光は四歳になっていた。
――あのねぇ。
幼い優光は眠たい目を小さな拳で擦りながら、大好きな母親を呼ぶ。
――どうしたの?
母は読み終えたばかりの絵本をそっと閉じ、穏やかな笑みを我が子に向ける。
――ラクダさんは今、さきゅう。ってところにいるの? だって、動物園を抜け出しちゃったんでしょ? だから本当の動物園にもいないの?
――そうね~。
母親は相槌を打つが、強く断言はしない。
もしかしたら、世界のどこかの動物園にはラクダがいるかもしれない。間違った情報を伝えたくはなかったのだ。
――僕もラクダさんに会ってみたい。どこに行ったら会えるの?
――鳥取の砂丘。ってところにいけば、ラクダさんに会えるわ。それに、ラクダさんの背にものせてもらえるのよ。
母はどこか得意げに言ってみせた。
――ママ、それ本当なの!?
爛々と目を輝かせる幼き優光はベッドから飛び起きる。
――えぇ。本当よ。お母さんが嘘ついたことあるかしら?
――……ない。じゃ、じゃぁーさ、とっとり? ってところにいこーよ! 僕、ラクダさんに乗りたい!
――そうね~。じゃぁ、ひーくんがもう少し大きくなってから、お父さんに連れて行ってもらいましょうか?
らくだのライド体験は、小さい子供となら二人乗り可能である。だが四歳の優光にはまだ早いと感じたのだろう。
子供が怖がって暴れたり泣いたりすると、ラクダの精神に影響をきたし、ラクダが暴れ出したという話を耳にしたことがある。それを思うと、幼い我が子をつれて、安易に体験することはできない母だ。
――大きくって、いくつになったらいいの?
――う~ん……六歳くらいかしら? ひーくんがあと二回誕生日を迎えたら、きっとラクダさんも、おいでおいで~って言ってくれると思うわ。
――えぇー! あと二回も? 遅いよ~。
――あと二回。二年なんてすぐ立つわ。
と言って、ぐずる息子を宥める。
――すぐって……。じゃぁさ~、約束してくれる? 僕が六歳になったら、そこにつれていってくれるの。
――えぇ。分かったわ。約束ね。さぁさぁ。もう夜も遅いし、今日は眠りましょう。おやすみ。
母親は優光の心を落ち着かせるように、小さな胸をポンポンと繰り返し叩いてやる。優光の瞼は幾度と瞬きを繰り返す。
――……おやすみなさい。
優光は呟くように言って、夢の中に落ちていった。
これら全ての記憶は母親にとってはかけがえのない宝物のような思い出であり、叶えなければならない約束だった。だが幼すぎる記憶は、今の優光がどう頑張っても戻ってくることはなかった。
†
「ごめん……」
必死に記憶を手繰り寄せようとするも、失敗に終わってしまった我が子を見守っていた千夏は、微笑ましそうに声を上げて笑う。
「いいのよ別に」
千夏は海辺の砂を踏み、海へと足を進める。
優光もそれに続いた。
「ねぇ、この子に悪い。って、どういう意味なの?」
「この子の身体をかりているから」
「もっと、分かりやすく言ってみて」
優光は言葉を読み解くことが出来ず、理解できる言葉を求める。
「この子の魂は三ヵ月前、私と同じ場所に届いた。だけど身体はまだベッドの上で眠っていたの。本人が望めば助かる可能性のある命。どうして戻らないのかと聞いたらね、ひーくんがここにいないか調べてから戻るって」
「どういうこと?」
怪訝な顔で問うてくる優光に、千夏はこう続ける。
「人は天界へ旅立つとね、輪廻転生を繰り返して、新たな魂としてこの世に生れ落ちるの。そのためには、今まで持っていた名前は必要がないと奪われてしまう。新たな名を手にするためには必要なことなんですって。その子は私達の力になれるなら――と、快くかしてくれたわ。私の命日までね。二十四時〇〇分。それが私のタイムリミット。そして、その子が元の世界に帰る時間。分かってくれたかした?」
「そんなことって……」
優光は丁寧に説明する千夏の話を信じることも、現実を受け入れることも出来ないと、首を左右に振る。
「そんなことがあるのよ。世の中は不思議なことがたくさん。悲しいことが多い世界だけど、同じくらいの奇跡が溢れた世界。その世界で私達は産まれ落ちた。私は産まれたのも大きな奇跡。大人まで生きて、ひーくんのお父さんに出会って、恋をして、結婚をして、ひーくんが私の元にきてくれた。たくさんの大きな奇跡が紡がれて、今があるの。それを思うと、魔法のような奇跡がおこっても、不思議ではないでしょう?」
千夏はどこか優しく言い聞かせるように言って、同意を求めるように首を傾げて見せる。
「……そうかも、しれないね」
優光は素直に頷くことはできないが、過去の自分も含め、今まさに奇跡の力を体感しているのだと、現実を受け入れるように言う。
二三時五〇分――。
千夏は歩みを進め、海の中へ入っていく。
優光は千夏の後ろをついてゆく。
二人の服は急速に海水が含み、身体にまとわりつく。
千夏は胸下あたりまで海水がつかるところでピタリと歩みを止めた、
「どうしたの?」
千夏と向かい合うように立った優光は不安げに問う。
一度長い息を吐いた千夏は、「お迎えがくるのよ」と、ハッキリ伝えた。
「お迎え? もう、会えないの?」
穏やかだった優光の表情は一気に焦りと恐怖の色へと塗り潰される。
「そうね。でも、お空の上からずっと、ず~っと、ひーくんのことを見守っているから」
「嫌だ。やだやだやだやだッ! ずっと一緒にいたい。傍にいてくれなきゃやだ!」
赤ちゃん返りをする優光ががぶりをふる。
幼き頃に無理やり引きはがされた千夏がまた、自分の傍から消えてしまう。そのことが優光を深い闇へと落とす。
だがそれは千夏にも言えることだった。
(ひーくん……。私だって嫌よ。ずっと貴方の傍にいたいわ。だけど、それじゃダメなの。貴方はこの世界で生きていかなければいけないんだから。そして私はちゃんと成仏して、次に生を受ける人の一部となる。それが生と死がある世界で生きている者の、抗えないルールなのだもの。一つの魂を未来永劫自分モノにすることなど、出来ないのよ……)
千夏は自分がしっかりしなくてはいけないと、拳を握りしめ、意を決したように口を開く。
「駄目よ。魔法はね、ずっと続いてはくれないの。魔法の力で人は前に進み、強く生きるの。それができるように、神様は魔法をかけてくれるのよ。ときに気まぐれなのがたまに傷なんだけどね。
だからひーくんも強く生きてちょうだい。じゃないと私は、ずっとこの世界をさ迷うことになってしまうわ。私がちゃんとお空の上から、ひーくんを見守ってあげられるように、強く生きて? 私も、強くなるから。約束」
優光は差し出された小指に自分の小指をそっとからめる。
千夏の脳裏に、八年前の指切りげんまんがフラッシュバックする。
幼かった優光と交わした約束。
生前叶えられることが出来なかった約束。
だが今回の約束は、優光がこの世界で生きている限り続く約束だ。と同時に、優光が強く生きてゆけるためのお守りであり、魔法。
「ぼ、僕が強くなったら、お母さん、嬉しい?」
「えぇ。とても」
「……わ、分かった」
優光は左腕で涙を乱暴に拭い、鼻水をすする。
♪ゆーびきーりげんまん~♪
響き渡る指切りげんまんの歌声に、さざ波の音が絡みつく。
きっとこれは、愛しい我が子に母親が指切りげんまんでかけた、世界で一番優しい魔法の奇跡になるだろう――。
二三時五十八分――。
「じゃぁ、私いくわね。お父さんと仲良くしてね」
「……ぎゅって、ぎゅってしてくれたらいいよ」
「もぉ~。約束したばかりでしょ?」
優光の最後の甘えに呆れ口調で答えながらも、優しくそれに応える。
「これが、最後だから……」
「そうね……」
二人は音もなく涙を流す。
そんな二人の周りを囲む水面がゆるやかに年輪を作ってゆく。
優光は泣いていたらいけないと、親指で涙を拭った。
「ひーくん、愛しているわ。私の元に産まれて来てくれてありがとう。生きてくれてありがとう」
千夏は悲痛な声を押し殺すように伝える。
千夏は自分よりもずいぶんと身長が高くなった息子の肩口に、泣き顔を隠すかのように顔を埋めた。パーカー付きのホワイトTシャツが零れ落ちる涙によって、色が変化してゆく。
「お母さん、今までありがとう。お母さんは僕にとって、世界で一番大切な人だよ。本当にありがとう……」
沈痛な面持ちで瞳を潤ませる優光は、千夏を抱きしめる腕の力を強くする。
どこにも行ってほしくない。自分の元で生きて欲しい。そんな思いが自然と腕の力に変わるのだろう。だが、優光は我儘も無理も言わない。全てを受け止め、強く生きていくと決めたのだ。
年輪の中央にいる優光達を飲み込むように海水が下がってゆく。のを、二人はそれを静かに見つめ続けていた。
これは呪いだ。
息子が母にかけてしまった、世界で一番純粋な想いをした呪いだ。
これは魔法だ。
神様がいたずらな計らいでかけた、世界で一番切なくて優しい魔法――。
†
黄泉の国――。
「えぇ。生前叶えられなかった約束を全て叶え、伝えたいことをちゃんと伝えることが出来た今、思い残すことはないわ。貴方の器を借りてごめんなさい。本当にありがとう」
奏千花の身体を借りる優光の母が深々と頭を下げる。
「いいんです。二人が前を向けるようなきっかけの役に立てたのなら」
千花の魂はふんわりとした声音で言った。
「ありがとう」
涙が滲む千夏の声音が闇へ響く。
滲む涙を拭い、そっと口を開く。
「今、借りしき器、あるべき場所へ戻りしとき、一つの魂が永遠の眠りに……」
瞼を閉じた千夏が静かに唱える。それは、魂を入れかえる言の唄。
千夏の胸元から霧がかった強き光の塊が押し出される。その光は千夏の目の前にある光よりもずっと、弱くて儚い光。光を失った身体は、蝋人形のように闇の中へ崩れ落ちた。
強い光――否、魂はあるべき場所へと戻ってゆく。
蝋人形とかしていた藤崎千花の身体に、藤崎千花の魂という命が吹き込まれる。それを、吐き出された弱い光を放つ魂が静かに見守っていた。
「ゔっ……」
小さな呻き声をあげた千花の身体がふらふらと立ち上がる。
「ち、千花ちゃん。大丈夫?」
器を無くし儚き光となった優光の母の魂が、当惑したように千花の周りを浮遊する。
「はい。大丈夫です」
千花は少し掠れた声で答えると共に、儚き光となった母の魂に微笑みかけた。
「そう……? ならよかった。千花ちゃんも早く元の世界に戻らないといけないわね」
母の魂は安堵の溜息をつき、千花と見合うように顔の正面で止まる。
「はい。……心残りはありませんか? 言い残した言葉とか……」
千花は不安げに問うた。
「心残りがないと言えば嘘になるわね。やっぱり、あの子が心配だもの。今は大丈夫かもしれないけれど、また過去に囚われて生きるようになるかもしれない。そう思うと心配だわ。だから、もしよかったら、あの子のこと……よろしくお願いします」
母の魂から放たれる声音が涙で溺れる。
やはり何をしても、どんなことをしてでも、心配なものは心配なのだ。けして手放しで安心することなどできない。それが大切な人であればあるほどに。
「……。はい!」
千花は少しの間をおいて力強く頷く。その瞳には強い意志が放たれていた。
「ありがとう。……千花ちゃん。私、そろそろ行くわね。空からずっと、ずっと貴方達のことを見守っているわ。……さようなら」
母の魂は静かに音もなく闇の中へと溶けてゆく。それは、一つの命が永遠の眠りについたという証だ。
「私も戻らなきゃ」
千花は瞼を閉じ、呪文を唱える。
「我が器と魂、あるべき場所へ戻りしとき、闇が消え、光照らす」
呪文を唱え終えると、千花は闇の中で弾けるように消えた。
命が永遠の眠りについたわけではない。命の残り時間をあるべき場所で過ごすために消えたのだ。
闇の中に強い光が一つ浮かび上がる。奏千花の魂だ。
千夏は千花の魂と向き合うように、正面に立った。
「愛ある夏を過ごせましたか?」
千花の魂は千夏に問う。柔らかで落ち着いた口調でありながら、ソーダーのように爽やかな一生のある声音だ。
「えぇ」
千夏は深く頷く。
「息子さんとの再会はどうでしたか?」
「そうね〜……」
千夏は視線を左斜めに向け、息子と再会した日のことを思い起こす――。
♪ミーンミンミンミーン♪
久々に生で感じるセミの大合唱。悪魔のように照り付ける太陽が皮膚を焼いていくような感覚。
車の走行音に、人々の話し声。木々や風達のざわめき。自然の匂いと排気ガスなどの人工的な匂い。
五感で感じる全てが、少女にとっては生きている実感となり、懐かしさに歓喜するものだった。
優光の母親の魂は今、奏千花の器を借り、白石千夏として、現世界へ降り立っていた。
愛すべき息子に、もう一度会うため。
愛すべき息子と、やり残したことをするため。
愛すべき息子との約束を果たすために――。
下校時間でセキュリティーが甘くなる寺院の木学園に、白のマリンセーラー服姿の少女が一人潜り込む。白石千夏だ。
ほとんどの生徒達が帰宅していたため、騒がれることもなく、千夏が会うべき人の元へとすんなり行けた。
「ぁ! いた」
渡り廊下を歩く少年、鮫嶋優光に気がついた千夏は、思わず小さな声を溢す。
「っ」
千夏は慌てて両手で口元を覆った。ここでバレるわけにはいかないのだ。
自分を落ち着かせるよう小さくて細長い息を吐いた千夏は、抜き足差し足で優光の背中について行く。
♪ラララン~ラララン。ラララッンラッン、ララ、ラッン~……♪
優光は凛とした声で淡々と口ずさむ。そのどこか切なく懐かしさを感じさせるメロディーに、千夏の脳裏にある光景がフラッシュバックする。
「この曲……ベビーベッドに取り付けていたオルゴールの曲じゃない」
ベビーベッドですやすや眠る我が子の思い出と、成長した息子の姿。思い出の曲を口ずさむ息子に対し、千夏は胸と目頭が熱くさせた。
「なっ!?」
温かい感動も束の間、優光は屋上の鍵を器用にピッキングして開け放つ。千夏は思わず飛び出して制止してしまいそうになるが、グッとこらえて様子を見守った。
「あのスピードに手つき……常習犯じゃない。そんな子に育てた覚えは……って、言えるほど一緒に過ごしていないわよね」
表情を曇らせる千夏の姿を知る由もない優光は、悠々と屋上へ足を踏み入れた。
夏特有の息がつまりそうな温度と風が階段に吹き抜けてゆき、扉という防音を無くしたセミの大合唱が、千夏の耳奥に嫌というほど響き渡る。
千夏は慌てて息子を追った。
視界に映るのは、熱された緑色のフェンスを乱暴に掴み、苦痛に顔を歪ませた優光の姿だった。
「……死にてぇ」
無表情で吐き出された言葉に千夏は息を飲む。
千夏は黄泉の国からずっと優光のことを見守っていたため、優光の行動も口癖も全て知っていた。知ってはいたが、肌で感じるのとはわけが違う。
千夏は灼熱から来る汗と冷や汗が混じり合う雫を額から拭い去る。ここで冷静さを失うわけにはいかなかった。
「ねぇ。それ、本気で言ってるの?」
どこか苛立ちを含む声音を優光の背に投げかける。
千夏は優光が本気で言っていないと分かっていた。分かっていたけれど、もしもの恐怖が脳裏に過り、指先を震わせる。
「⁉」
優光は身体全体で勢いよく振り返る。
「本当は、そんなつもりないのよね?」
千夏は驚く優光に続けざまに問うが、その答えが返ってくることはなかった。
「……誰、お前?」
訝し気な瞳。威圧的な声音が千夏に降りかかる。
千夏は小さく息を飲み、ほんの少し後ずさる。
分かっていた。否。分かっているつもりだった。
この姿では自分が母親だと分かってもらえないことも、千夏の姿を見ても何も思わない優光のことも。幼子の時よりも可愛げがなくなってしまったことも全て、全て理解しているつもりだった。
だが、愛すべき息子にそんな風に言われてしまえば、目の当たりにしてしまえば、ショックは隠しきれない。自分の事を知らないという息子に、千夏はゆっくりと口を開く。
「貴方は“今の私”を知らないでしょうね。だけど、“昔の私”なら知っているはずよ? 貴方がそれを忘れているだけ。もしくわ、忘れようとしているだけ……」
それは、ある意味の真実。
今の私=奏千花。の身体を借りた、白石千夏を名乗る姿。
昔の私=自分の身体と名前をちゃんと持っていた生前の自分であり、優光の母としての姿。
そんな意味合いが含まれた言葉の真意など、優光に気づけるわけもない。
優光にとって、白石千夏と名乗る少女でしかない。しかも、自分の名前やあだ名や年齢などの簡単なプロフィールを手に取るように話す姿は、ただのストーカーにしか見えない。
話はないと去っていこうとする優光に負けじと、千夏は食い下がった。
「お前に何が分かる? 『死にたい』。この言葉の根っこの部分すら読み取れない奴に、ダラダラ説教を垂れられたくない。二度と俺に近づくな!」
きつい口調で言い放つ優光は足早に、千夏の元から去っていく。大切な人に気づきもせず、自らその人の傍を去っていくのだ。
その去り行く背中を見つめていた千夏は、「言葉の根っこの部分を読み取れていないのは、どっちの方よ」と嘆くように呟く。
千夏の瞳が涙で滲み、陽炎のように世界を歪ませる。悔しさ。悲しさ。切なさ。歯がゆさ。だけど一番は……。
「ひー君……」
大切な息子がちゃんとこの世界で生きていたこと。もう一度、大切な息子と会えたこと。その計り知れない喜びと感謝の気持ちは瞳から溢れだし、千夏の頬を伝い、焼け付くコンクリートを濡らした。
黄泉の国――。
「ふふふ。最悪で最高の再会だったわ」
千夏は目の前で楽し気に浮遊する千花の魂に、声を弾ませながら言った。
そんな千夏を見た千花の魂が柔らかな笑い声をあげる。
「ふふ。最悪で最高の再会から、最高の夏休みになりましたか?」
千花の魂は思い出話の続きを催促するように問う。
「そうね~……」
千夏は写真アルバムをめくるように、アルバムの続きを話し始める。
追いかけっこを終えたネズミと猫のような二人は、ホームのベンチに腰掛けていた。千夏と優光だ。
追いかけられているうえ、一夏を共に過ごせといわれる意味を問う優光に、千夏は少し間を置いて話しだす。その声音はいつもよりも低い。
「……。私には、とても大切な人がいたの。私の命より大切な人よ。だけど、その人は私の目の前から消えてしまった」
千夏が言うとても大切な人。それはもちろん、今まさに、千夏の目の前にいる優光のことだ。ハッキリ言ってしまいたいけれど、けしてそうはしない。優光に混乱や恐れを与えたくはないのだ。
何より、本当のことを話すことによって、優光が本気で自分の元を去ってしまったら、自分の目的は達成されずに終わってしまう。そうなればこれから先の人生、自分も優光も過去の中で生きていくことになってしまう。それだけは避けたい千夏は、丁寧かつ慎重に言葉を紡いでいった。
「その人に私の声は届かないし、その人の体温も感じることも出来ない。天と地で分かれてしまったから当然ね」
千夏の声が微かに振るえる。
天と地。天上で魂を浮遊させ続ける自分と、地上で生きる優光。
けして触れ合うことが出来ぬ距離に離れてしまった自分達を思うと、胸が苦しくなるのだろう。
「私はその人とまだまだ話したいこともあったし、行きたい場所もあった。なにより、もっともっとその人と同じ時間を過ごしたかった。だけど、私の時間は止まってしまった。そこからずっと、私は動けずにいるわ……」
千夏は八年前、不運なひき逃げ交通事故にあって命を絶たれた。
幼い我が子を残し、一人だけ天上の最上へ旅立つことなど出来なかった。
黄泉の国でずっと嘆き苦しみ、千夏の時間だけが止まってしまったのだ。その時間を動かせることが出来るのは、目の前にいる息子だけだった。
「その人と貴方は瓜二つ。貴方を見ているとその人を思い出すの。貴方と一緒の時間を過ごせば、私はきっとまた前を……」
瓜二つなどではない。大切な人そのものなのだ。だけど、今ここでハッキリ言うわけにはいかなかった。そのため、優光に言葉の真意が伝わることはなかった。
「ようは、そいつの代わりになって、お前の未練を断ち切らせろってことかよ?」
苛立ちの音が千夏の耳奥に響く。完全なる勘違いだ。だがそれを否定することは、その時の千夏には出来なかった。
馬鹿らしい。と去っていく優光に千夏は慌てた。
「貴方は私と一緒じゃないの? 貴方も未練があるのでしょう? 貴方の死にたい、という口癖の本質は、『会いたい』だものね。天に旅立てば、貴方の会いたい人に会えるかもしれないもの。でも、死ぬのは駄目。絶対に」
強い口調で伝えるそう千夏は、瞳だけは逃げないとばかりに、視線を優光に向け続けた。
優光は背を向け去っていく。
千夏はもう二度と大切な人を見失いたくない。手放したくない。とばかりに後を追いかけた。
不運な事故が連鎖してゆくように、優光の身体がホーム下へと倒れてゆく。もちろん千夏は全力で助けた。我が子は自分の手で守る。死なせはしない! そう強い意志で。
「ッ!」
優光のかわりにホーム下へと身体を鎮めることになった千夏は、痛みに顔を顰める。
(やってしまった。借り物の身体なのに)
千夏は千花に身体を借りていたことを思い出し、顔を青白くさせる。
女の子の身体を傷モノにしては大変だ。何より、この身体を生きて返さなければならないのだ。
千夏は焦って身体を起こすが、足首に激痛が走り蹲ってしまう。
「誰か非常停止ボタン押してくださいッ!!」
優光の叫び声が千夏の鼓膜を震わせた。
その指示に、千夏は自然と口を綻ばせる。
八年前に一緒に読んだ電車の本。
色々な電車の紹介や、電車のパーツの説明が掲載されている、子ども向きの専門辞書のような本。電車好きの幼き優光がよく好んで、本のページを開いていたものだ。
その本の中に、もしお友達がホーム下に落ちてしまった場合どうするの? というコーナーに掲載されていた“非常停止ボタン”の説明。
優光はちゃんとそれを覚えていて、冷静に実践したのだ。
千夏は息子との思い出のピース一つと、息子の成長に、思うものがたくさんあったのだろう。
優光の冷静かつ的確な対応により、命が助かった二人は家路を歩く。
足を怪我した千夏をおぶさる優光は無言だ。何かを考えているのか、難しい顔で口を真一文字に結んでいた。
(この子の背中、いったいいつからこんなに大きくなったのかしら? 女の子一人背負えてしまうほど、守れてしまうほどに……)
「背中、広いね」
自然とそんな言葉が零れ落ちる。と共に、我が子の成長を直に感じた千夏は、音もなく一筋の涙を溢した。
(昔は私が貴方をおんぶしていたのにね。毎日何度もおんぶや抱っこをねだってきていた貴方が、今はこんなに男らしくなったのね。強くなったのね)
そんな心情で流す涙を痛みからくる涙と勘違いする優光に、千夏は口元を刹那、そっと綻ばせる。
押し黙っていた優光が、何がしたいわけ? 貸しは作りたくないからお前に付き合うことにした。と、口を開く。
千夏はその言葉に、やっとスタートラインに立てたのだと心から安堵する。
「あの人と出来なかったことをやりたい……全部やりたい」
千夏がそう素直に答えると、優光は複雑そうに顔を歪ませた。
「俺は、そいつの変わりになればいいのか?」
その言葉が千夏の心を差す。
優光の代わりなど、世界中のどこを探してもいない。だがそれを伝える術は、今の千夏にはなかった。
「そう思われても仕方がないけれど、私にとっては代わりじゃない。どうしてなのか、今は言えない」
千夏はそう答えるだけでせーいっぱいだった。
優光は深くは踏み込んでくることはしない。それどころか、諦めかける千夏に言葉の手を差し伸べた。千夏はもちろんその言葉の手に縋りつく。
この瞬間、世界で一番切ない魔法がかかる。そして、母と息子、最後の夏物語の序章が終わりを告げ、新たな舞台の幕が上がる瞬間だった――。
†
アクアパーク品川――。
(ちゃんと来てくれるかしら……)
期待と喜びに胸を躍らせながら、心の片隅で優光がちゃんときてくれるのか不安を抱える千夏は、優光を待っていた。
待ち合わせ時刻から五分過ぎた頃、千夏の瞳に優光が映る。
インディゴ色のジーンズ。フード付きの半袖に薄い白シャツを着た少年――鮫島優光は千夏に気づき、軽く手を上げる。
マイペースな足取りに焦りは一つもない。このデートにやる気もない。それでも、太陽嫌いな引き籠り少年が約束を果たすため、ココまで足を運んだ。それだけで千夏には凄いことだった。
「ちゃんときてくれてありがと~」
いつもより高くなる声色とその言葉は、千夏の喜びと安堵が滲みだしていた。感動のあまり、胸の前で手を握り合わせる始末だ。
「拝むな。一応、約束したからな。守るよ」
やや不服さが滲む口調とぶっきらぼうな態度で答える優光の姿を、困った子ね。とでも言いたげに千夏は微笑む。
幼き日の優光はいつも、約束は絶対守るんだ! という公言通りに約束を守っていた。その姿と目の前の優光がリンクし、千夏の心をあったかくさせる。
入場ゲートを潜った二人を鮮やかに光り輝く魚群達が出迎える。
水槽に投射された映像が来場客を出迎えるエントラス。
「わぁ~」
千夏の口から自然と歓声が零れる。
それもそのはずだ。千夏がもう一人の愛すべき人である夫と、お腹の中で眠る小さな小さな優光とここを訪れてから、一四年の年月が経っている。それ以来、千夏がここへ訪れたことはない。
千夏は八年前。小学校に上がった優光の夏休みに家族でここを訪れようと、夫婦で計画を立てていた。だがその計画は果たされることはなく、千夏は天へと旅立ってしまった。それゆえ、心残りの一つとなっていたのだ。
「二〇一五年の夏にグランドオープンしたらしいからな」
はしゃぐ千夏を尻目に優光が冷静に答える。
同年代の子供達より早熟してしまったために、どこか冷めている気がある息子の姿。千夏の心がチクリと痛む。
「え? 何で知ってるの? もしかしてもしかして、今日が楽しみで調べちゃったとか?」
千夏は優光を茶化す。
少しくらい冷めた目で見られても、手厳しい言葉が返ってこようとも、千夏はけしてめげない。
少しでも笑顔が見たい。色々な顔を見せて欲しい。同年代の子供達のように、感情や表情豊かになって欲しい。と願う千夏は率先してその場を楽しむ。もちろん、心の底からこのひと時を楽しんでいたのは事実だ。
入場ゲートをくぐって少しの坂を下っていると、右手に大きな海賊船を彷彿とさせるアトラクション遊具が二人の視界に飛び込んでくる。
「乗りたい?」
千夏はアトラクションを指差しながら問うてみる。
優光はさも興味なさげに「別に」と答える。
イエスの答えが返ってくると思っていた千夏は、予想外の答えに刹那、面を喰らってしまう。
(昔はアトラクション乗りたーい! って、泣いて叫んで、私達を困らせてたのに……)
千夏は幼少期の面影をなくした我が子に、チクリと心を痛める。だがここで立ち止まっていても仕方ないと、気持ちを切り替える。
「じゃぁ行こう。ここで具合悪くなったら困るもんね。行こ行こ~」
千夏は明るい声を上げて先頭を歩いてゆく。ちゃんとついてきてくれる優光の気配を背中で感じ、千夏は口元を緩ませる。
「ぁ! あれ乗ろう!?」
千夏は良いモノを見つけたとばかりに、光と魚のミュージアムに圧巻されていた優光の背中をバシバシと叩く。
海の生き物とデジタルアートが融合された世界に魅了されていた優光は、何事だと驚く。千夏はお目当てのモノを指差してみせる。
円状の柵で囲われた中。鉄棒を魂柱のように身体に突き通すイルカやタツノオトシゴやラッコなど、六種類の海の生き物達がくるくると楽しげに踊るパーティーが繰り広げられていた。
生き物達は、一二mの壁のLEDの光で美しくライトアップされていて、華やかかつ、美しく輝いていた。楽し気な音楽に包まれたメルヘンな世界。なんとも、ゆめかわいいメリーゴーラウンドである。
「あんな乙女なの乗りたくねーよ。一人で行ってこい。俺は魚を見ている」
拒絶する優光を、千夏は無理やりメリーゴーラウンドに連行していく。
そして半ば無理やり優光をイルカの背に跨らせ、自分はタツノオトシゴの背に乗っかる。多少の小競り合いの末に勝ち取った千夏は、ゆめかわいいメリーゴーラウンドタイムにご満悦である。
八年前の優光初めての春休み。
千夏は夫と小さな優光。家族三人で遊園地に訪れたことがあった。
その時の優光は、船が空中を上下するアトラクションやジェットコースターに乗るんだ! と意気揚々としていたが、身長が足りずそれは叶わなかった。
それでも優光が乗りたいと泣き叫んだのは、千夏の苦い思い出の一つだった。
大きくなったときに遊びに来ようと約束していたのだが、先程のアトラクションには興味を示さなかったので無理には進めなかった。もし嘔吐でもしたら、楽しむことが出来なくなってしまう。
「ほら、楽しいね」
不貞腐れたようにイルカの背に跨った優光に、千夏が満面の笑顔を向ける。
「楽しかねーよ。白石のせいで降りそこねただろ」
優光は吐き捨てるように答える。ほんのりと耳が赤く色づいていた。相当恥ずかしいようだ。
その様子を見た千夏はふふ。と、穏やかな笑みを浮かべる。
八年前の春。
アトラクションに乗りたい! とぐずり続ける優光を慰めるように、馬のメリーゴーラウンドにつれていったことがある。
もちろん、幼き優光は一人で乗ることが出来ず、千夏が包み込んで守るように一緒に乗ったのは、言うまでもないだろう。
それが今では文句をたれながら、一人でアトラクションに乗っているのだ。しかも持ち手のポールを持つこともない。両足が床についている。
(昔は一緒にお馬さんのメリーゴーラウンドに乗っていたのに……今はもう私の補助なしで乗れるようになったのね)
千夏は胸の内で、我が子の成長に喜びと安堵した。それと同時に、我が子が手元を離れていったような淡い切なさを感じ、少しの寂しさを感じた。
パンツの小競り合いの末に、大人しくメリーゴーラウンドに乗る息子を見守る千夏は、微笑みながら夢のひと時を楽しむのだった。
ブラックライトに包まれる中、発光するサンゴ達が光を放つ幻想的な空間。けして世界観を崩さないプロの技が、来客者を楽しませるカフェバー。
ラングドシャで出来たコーンに、形よく注がれたソフトクリームが掲載されている看板を、千夏は子供のようにキラキラした瞳で見つめていた。
「ソフトクリーム食うよな?」
「いいの!?」
千夏は少し呆れ気味に問うてくる優光に対し、嬉しそうに声を躍らせる。その光景は親子が入れ替わったようだった。
「お待たせいたしました~」
ソフトクリームとジンジャエールが、ショートカットがよく似合う二十代前半程の女性店員の手によって、二人の元に届けられる。
「わぁ~美味しそう!」
ソフトクリームに歓喜する千夏に対し、甘い物が苦手な優光は眉根を寄せる。それに気づいた千夏は、優光に気づかれないように苦笑いを浮かべた。
(小さいときはあんなに甘い物が大好きだったのに……今は食べなくなったのね。飲み物ジンジャエールって、私がよく頼んでたやつじゃない。炭酸も舌が痛いよ~って飲めなかったくせに。まぁ、味覚も変わってゆくわよね……。私の手料理でも、苦手なメニューとか出てきてたりするのかしら? それだったら悲しいわね)
千夏は優光を流し見る。
ジンジャエールをすました顔で飲む我が子の姿に、穏やかに目を細めた。
「あそこ空いてるから、座ろうぜ。危ないし」
優光は筒状の水槽をイメージして作られたテーブルが印象的なイートインスペースを指差す。
(あら。マナーもわきまえているじゃない! えらいえらい)
千夏は満足げな笑みをソフトクリームで隠しながら、「そうね」と答えるのだった。
「なにかいい所ありそう?」
千夏は背伸びをして、食事処を探している優光のスマホ画面をのぞき込もうと試みる。
避けられない所を見ると、水族館パワーで少し優光との距離が縮まったようだ。
「このへん手軽な店がねーんだよなぁ」
「ここから一五分ほど歩いたところにあるカフェはどう? ファミリー向けだけど、オシャレなところよ」
千夏はなかなかお店を見つけられずにいる優光に助け舟を出す。
「どこにあるんだ? 行ったことあんの?」
自分が出した案に乗り気になってくれる優光に、千夏はホッと胸を撫で下ろした。
「大崎駅から徒歩五分程の所にあるお店よ。一度行ったことあるから、道案内は任せてちょうだい! そこね、休日メニューのハッシュドビーフオムライスが凄く美味しかったの。ぁ、お値段も七百円くらい。お手軽でしょ?」
千夏はどこか得意げに言いながら、掌を胸にあてる。
そのお店は千夏夫妻が八年前、水族館の後に訪れたお店だった。
優光が生まれて、カフェで食事が出来る程の年齢になったら一緒に訪れよう思っていたお店だ。生前は叶わなかったため、千夏が優光と行きたい所の一つとなっていた。
「そうだな。まぁ、迷子になってもスマホがあるしな。取り合えず白石についてくよ。お昼時だし急いでもいっぱいだろ」
「信用ないな~」
まったく~。とでも言いたげに両肩を落とす千夏に対して優光は、「まぁーな」と言って笑う。
お腹を空かせた二人は他愛もない会話を交わしながらお店へと向かったのだった。
八月二十一日。二十一時二十分。
東京駅鍜治橋駐車場――。
落ち着かない様子で、待ち人を待っていた千夏から遅れること五分程……。
サラリーマンが出張にでも使いそうな、無地の紺色が大人っぽいボストンバックを抱える気だるげな優光が、ゆるい黒のラフパンツと白のフード付き半袖姿で現れる。
「ぁ! 優光くーん」
優光の姿に気がついた千夏は、左手をあげて左右に振る。千夏が動くたび、ガウチョパンツの裾がひらひらと踊った。
「優光くん。こっちだよー」
優光を呼ぶ千夏はハッとする。
近づいてくる優光の持っているバックに気がついたからだ。
(あのバック、お父さんの出張バックじゃない。他になかったのかしら? でも、それもいいかもしれないわね。あの人とも一緒に旅行している気分になれるもの)
千夏は一人納得したように小さく頷き、ほくほくと幸せそうな笑みを浮かべた。
「はいはい。ちゃんと来ましたよ。信用ねーなぁ」
優光はテンションの高い千夏に小さな溜息を吐いた。
「し、信用してないわけじゃないけど?」
「なんでそこ疑問形なんだよ」
「ふふふ」
千夏が声を出して笑っていると、同乗者達が次々と現れる。
そうこうしているあいだに出発時刻となり、二人はバスへと乗り込んだ。
「どっち座る?」
指定の座席前で優光が問う。
(まぁ! レディーファーストできるのね。この子が一人で教養の本を読むとは思えないし……あの人に似たのかしら?)
自然なレディーファースト対応に、千夏は一瞬目を丸くする。
千夏は愛する夫とのデートを思い出す。
二人は大学生時代からの付き合いで、そのままゴールインしたのだ。
千夏の夫は、電車やバスに乗れば千夏を先に座らせ、自動車は助手席のドアを開けて千夏が乗り込むのを待機する。
お店のドアは、千夏が入るまで開けて待っていてくれたし、買い物時の荷物は、絶対千夏に持たせなかった。持たせたとしても、パンなどの軽いモノが入った袋のみだ。
何か選ぶ場面ではもちろん千夏の意見を先に聞いて、それを汲み取ってくれていた。車道を通るときは、千夏を車道から遠い方を歩かせていた。
その行動全てが自然で嫌味がなく、千夏が夫に惹かれた大きな要因の一つだった。
「……聞こえてる?」
「ぁ、ごめんね。聞こえてる。ちゃんと。私、通路側がいい」
優光の声で我に返った千夏は、慌てて答えた。
「了解」
千夏の意見をくむ優光は、ささっと窓際の席に腰を下ろす。
その横顔が大学生時代と夫と重なり、懐かしさで千夏の目元と口元の筋肉が緩まる。
二人を乗せたバスは横浜駅YCAT―海老名。と走り、二人を目的地まで送っていくのだった……。
八月二十二日。九時三十分。鳥取駅南口。
到着三十分程前に目を覚ましていた千夏は、「優光くん。ついたわ。起きてちょうだい」と、優光の肩を優しく揺すった。
生前の千夏は、朝が弱くて寝坊ばかりする幼き優光をよくこうして起こしていたものだ。
「ん、あぁ~」
少し声の枯れた唸り声をあげた優光に、我が子の成長を感じた千夏は微苦笑を浮かべた。
幼少期の優光はこんな枯れた声は出さないし、あーうー、ままぁ~。が第一声だったのだ。
「朝だ……すげぇ。ついてる」
寝起きの優光はまだ頭が回っていないのか、当たり前のことを素直に口にする。
バスを下りるように指示を出す千夏に、眠い目をこすりながら素直に頷く。覚束ない足取りで千夏の後ろをついていく優光は、どこか少し幼さを感じさせた。
バスを下り、コンクリートでできた歩道をついて歩く優光は、「これからどうするの?」と、千夏の背中に問う。
「朝食にしましょうか?」
「朝ごはん……。どこ行くの?」
とまらない欠伸を噛み殺した優光は、いつもより少し幼い口調で問う。
どこか幼子に戻ったような優光の姿に肩を竦めながらも、千夏はどこか嬉しそうである。
その後。二人は朝食を取るため、鳥取鉄道記念物公園に足を運ぶのだった。
公園内に作られたお手洗いにて軽く顔を洗った二人は、木々が多い場所で朝の清々しい空気を吸い込む。
「目、覚めた」
前髪を水滴で濡らした優光が独り言のように呟いた。
「それはよかった。顔拭く? 髪とか」
「もう乾いたからいい。前髪もすぐ乾く。夏だし」
優光は千夏が手渡そうとした可愛らしいタオルハンカチを、左手を突き出して断った。
「そう? じゃぁ~、お茶でも買って駅舎で食べましょうか」
「あぁ」
目が覚めた優光の相槌は、見事に幼さを失ってしまった。
千夏は元に戻った優光に少し寂しく思う一方で、仕方ないわね。と言うように肩を竦めた。
ゆったりした歩幅で駅舎に足を向ける千夏の後ろを、気だるげな優光が遅い足取りでついていった。
駅舎に腰掛けている二人の正面で、にゃぁ~と鳴きながら、軽やかな足取りで去っていく三毛猫が一匹。ここでは有名な猫駅長だ。こうして時折、ふらりと現れては遊びに来ていた人を和ますのだ。
「可愛らしい駅長さんだね」
「あれは、駅長と言っていいのか?」
優光は楽しそうに笑う千夏対して、どこか冷めた独り言を呟き、首を傾げる。
千夏はそんな優光と、駅長さんだよ! 有名な駅長さんなんだから! などという不毛な争いをするつもりはない。
千夏にそんな無意味な争いに費やすエネルギーや時間はないのだ。
優光と一秒でも長く、楽しい時間を過ごしたいのだから。
「ベンチとかあったらよかったんだけどね~。ちょっと調べミス。ごめんね?」
「俺は別にいい。白石が平気なら」
(それって……このあいだ私がホーム下に落ちたから、気にしてくれているの? 言葉も態度も素っ気ないけれど、優しくて思いやりがあるところは変わらないのね)
千夏は優光の言葉の真意に気がつき、ありがとう。と優しい口調で言って、嬉しそうに微笑んだ。
「これ、優光くんのね」
千夏は可愛らしいクマがデザインされた手提げ紙袋から、使い捨て容器につめられた愛情いっぱいの弁当を手渡す。
八年前の優光の遠足以来になる手作りお弁当。千夏が気合いに気合を入れ、愛情をたくさん詰め込んだのは言うまでもないだろう。
「ぁ、ありがとう」
どこか不器用ながらも素直にお礼を言って、首だけでペコリと会釈をする優光は、両手でお弁当を受け取った。
そんな優光の姿に、やはり根っこの部分は変わらないのだと、喜びに心を綻ばせる千夏だった。
千夏が手渡したお弁当には、タコさんウインナーやハート型の卵焼き。
ハートの卵焼きに関しては、藤崎千花の自宅でまたま見ていたテレビ番組を参考に作ったものだ。
故に、優光にとって思い出はない。それを分かっていても、可愛いデコレーションを加えてみたかったのだ。母の愛情表現はどこまでも……である。
他にも、幼少期の優光が大好きだった母親特製ソースがついたハンバーグ。保育園のお弁当で好評だった星型フライドポテト。アスパラ。オクラ。を豚肉で巻いて照り焼きにしたもの。トマトが苦手だった優光のお助け彩りアイテムに、茹でたブロッコリー。デザートにはキューブ状の大学芋がついている。
どれもこれも、幼少期の優光が大好きだった食べ物ばかりだった。
千夏は綺麗に重ねた両手を顎にそっと当てる。
優光も手を合わせる。
「「いただきます」」
と、二人の声がそろう。
命に感謝して手を合わし、「いただきます」と言うのよ。という母の教えを、優光は今も守っていた。千夏もまた、その教えを自分の母親から教えてもらっていて、今に至っている。
少し顔を見合し可笑し気に笑う二人の姿は、なんとも微笑ましい光景である。
少しずつではあるが、二人を包む空気は温かいものへと変化していた。それは、親子という空気感ではないかもしれないが、優しくて温かいことには変わりはない。
「サッカー……ボール?」
丸い白いおにぎりに五角形にカットされた海苔を、サッカーボールになるようデコレーションされた可愛いおにぎりを割りばしで器用に持ち上げた優光は、答え合わせをするように首を傾げる。
「そうっ。サッカーボール! 分かってくれた?」
千夏は目を輝かせる。
サッカーボール型のおにぎりは、幼少期の優光が大好きだったもの。中の具には、甘いおかかが入れられている。
「……」
「ど、どうしたの? もしかして手作りおにぎり食べられない?」
「ぁ、いや食べられる。ちょっと思い出しただけ」
すぐに返答した優光は、おにぎりを一旦元の場所に戻し、チラリと千夏を流しみる。その瞳は何処か儚げに揺れていた。
「それはよかった。……思い出したって?」
人が握ったおにぎりを食べられなくなったのかと心配した千夏は、ホッと胸を撫で下ろしながら、控えめに問うてみる。
千夏は自分との思い出でも語ってくれるのかと、ほんの少し淡い期待をする。が、優光の答えは違った。
「昔のこと。ずっと昔……」
と言うだけで、優光はそれ以上は答えない。悄然するように声が儚い。
千夏はそんな優光に深く入ってはいかず、小さな相槌だけ返した。
「卵焼き……甘い」
「お砂糖入れてるからね。嫌いだった?」
幼少期の優光はしょっぱい卵焼きが苦手で、甘い卵焼きが大好きだった。だが、あれからもう八年の月日が流れている。今ではもう味覚が変わっているのかもしれない。と思う千夏は不安げに問う。
優光は千夏に首を左右に振って否定した。
「そっか。よかったよかった」
今も優光にとって甘い卵焼きは思い出の味で、大好きな味なのだと感じ取った千夏は、嬉しそうな笑顔で大きく頷くのだった。
「白石の大切な人ってさ、鉄道とか好きだった?」
「うん。昔ね、大好きだった。今はどうかなぁ? 好きだといいけど……」
最初は笑顔で答える千夏だったが、最後はどこか物思いにふけてしまう。
幼少期の優光は鉄道が大好きだった。千夏はよくそんな優光に電車の本を読み聞かせたり、一緒に鉄道のおもちゃで遊んだものだ。
――僕は車掌さんで、ママはお客さんだよ。切符がないと駄目だからね。
――はいはい。では小さな車掌さん、スミレ駅までお願いしますね。
穏やかで儚い思い出が千夏の脳裏に過ってゆく。
千夏は切なさと悲しみを押し殺すように、一度だけ深く瞬きした。
「そうだな」
千夏に少し寄り添うように頷いた優光の声音が、千夏の鼓膜を小さく響かせたのだった――。
十五時五分。『らくだや』にて。
「ラクダいたー!」
砂丘を歩く四匹のラクダを見つけた千夏は、砂丘の砂がスニーカーにかかることや、砂が舞うことを気にもとめず、ライド体験できる場所へと走っていく。
優光は千夏と対照的に、「暑い」とぼやきフードを深くかぶる。
「砂丘で走るとか無理」
汗で額にはりつく長めにカットされた前髪を、なんとも鬱陶しそう手で払いのけた優光は、マイペースにとぼとぼ歩く。
八年前であれば、優光が先に駆け出していたであろうに。
時の流れは砂丘の砂のようにサラサラと流れ、一秒一秒姿を変えてゆくようだ。
「すっごい迫力……」
「マシでこれ乗れんの?」
初めて見る本物のラクダに圧倒される千夏から、一~二分ほど遅れてやってきた優光は、懐疑の念を抱く。
「乗れるよ! 私、ちゃんと調べてきたもん」
そう。千夏はしっかりと調べていた。八年前の春に。
「この場所って、ラクダに乗ってお散歩体験できますよね?」
「はい。できますよ。大人二名での騎乗はできませんので、そこはご了承いただけたら……と思います」
男性スタッフは暑さにも負けない笑顔で答える。
「よかったぁ~。ほらほら~だから言ったじゃない」
千夏は後ろにいた優光にドヤ顔をする。
内心では、抜かりわないのよ! こっちは八年前から調べてたんですから。と思っていた。
「なんかムカつく顔」
「えっと、じゃぁ……ライド体験を二人。お願いできますか? 優光くんも乗るでしょ?」
「ぁ、うん……」
千夏の笑顔に圧倒されるように、優光は大人しく頷く。その表情は複雑気だった。
八年前にあったはずの、ライド体験を楽しもうという心は、とうに失われているように思える。だが千夏はお構いなしに進めた。
「では、ライド体験の方はこちらへ」
二匹のラクダがお行儀よく座っている場所へと案内する男性スタッフに、二人はついていったのだった。
一七時〇八分――。
「楽しかったね~」
本日の宿である格安ゲストハウス。和室の個室部屋。ライド体験を思う存分堪能して楽しんだ二人は、部屋の隅同士で寝ころび、疲れを癒していた。
普段からアクティブに動かない優光にとって、今日はハードなスケジュールであったのだろう。幼少期は母親を振り回すほどのエネルギーを持て余していた優光だが、今は振り回される立場になったようだ。
「少しお昼寝してからご飯にする?」
「ん~……」
「優光くん? 寝ちゃったの?」
千夏は身体を起こし、無反応になった優光の様子を確認する。
優光は小さい子供のようにほんの少し口を開け、穏やかな寝息を立てながら気持ちよさそうに眠っていた。
「眠ってるときだけは、ちっちゃい子みたいで可愛いんだけどなぁ」
眉根を下げる千夏は、バックからグレーのパーカーを取り出し、優光のお腹にそっとかける。
優光がまだ保育園に通っていた頃は、二人でこうしてお昼寝したものだ。
懐かしさに千夏の頬がゆるむ。と同時に気が緩んだのか、強烈な睡魔が千夏を襲ってくる。
千夏はその睡魔に耐え切れず、スマホアラームをかけて浅い眠りにつくのだった。
♪ピピピ。ピピピ♪
一八時一五分――。
アラーム音が千夏を起こす。
目覚めの悪い優光は、まだ夢の中だ。
「優光くん。起きてちょうだい。そろそろお夕飯、食べに行きましょう?」
千夏は優光の肩を優しく揺すって起こす。
ほどなくして目を覚ました優光だが、中々覚醒することが出来ない。
お風呂の準備を含む外出の準備を千夏の指示通りに動く優光だが、無理やり身体を動かしていないと、立ったまま寝てしまいそうだった。
そんな優光の姿を流し見る千夏は、保育園や学校の朝の準備もこんな感じだったわね。と、小さな溜息をつく。
「なに食べる?」
「お肉」
「料理名じゃなくて食材なのね」
千夏は眠気眼で即答する優光に対し、思わず苦笑いしてしまう。
(昔は、ママがつくったハンバーグ。ママが作ったプリン。ママのカレーライス。とか、料理名を言ってくれてたのに。今やお肉って……幅が広すぎるわ。せめて焼きなのか、茹で系なのか言って欲しいものね)
千夏はそんなことを思いながら、ボーっとする優光を引き連れて部屋を後にするのだった。
†
「なに買うの?」
コンビニの店内を歩んでいく優光の後ろを、千夏はお行儀良くついて歩く。
(背中……本当に大きくなったね。183㎝あるお父さんには負けるけど、身長も凄く伸びて、掌も大きくなった。当たり前だけど、もうコンビニやスーパーで走り回らないのね)
我が子の後ろ姿を感慨深げに見つめていた千夏に、「アイス」とそっけない答えが返ってくる。
(あげくに、可愛さが欠落したわね)
千夏はそんなことを胸の内で付け足し、「私も買おう。ミントアイス」と言いながら、優光と歩幅を合わせた。
「どうせ、歯磨き粉の味じゃん。とでも思ってるんでしょ?」
ミントアイスに全く興味を示さない優光に気がついた千夏は、恨めし気に言う。その台詞は、幼い優光が母親に放った言葉だった。
「ご名答。まぁ、味覚は人それぞれですから」
「どうせ優光くんは、棒状のソーダーアイスでしょ?」
(ひーくん、いっつもソーダーアイス食べてたもんね。ソフトクリームは絶対にチョコレートだったけ。たまには違うの食べてみれば? って言っても、僕はこれがいいんだもん。 お母さんだって、歯磨き粉アイスばっかじゃん! とか言ったりしてさ。あの頃の頃、覚えてたりするのかしら? そういえば、その頃からだったわね。ママと呼んでくれなくなったのは。小学校に上がってしばらくしたら、お友達に影響されたのか急に大人びるようになったのよね……)
と言う言葉が外の世界にでることはなかった。
「正解。なんで分かんの? なんか嫌なんだけど」
優光は怪訝な顔で千夏を見る。
「私は優光くんのことならな~んでも、お見通しなのよ」
千夏は、ふっふっふ。と得意げに胸を張った。
なんでもお見通しなのは当たり前である。
幼少期の頃から変わってしまったものはたくさんあるが、千夏にとっては、変わらないモノのほうがずっと多かったように思える。
†
「ねぇねぇ、オセロしよー。私ね、持ってきたんだぁ」
ゲストハウスに戻って早々、千夏は声を弾ませる。
「用意周到なことで」
「そりゃ旅ですから」
ご機嫌な千夏は畳に小さなボードゲームを広げ、いそいそと遊ぶ準備を始めた。
「アイス食う?」
「もちろん」
「ん」
小さな相槌を打つ優光は、カップアイスと木のスプーンを千夏に渡す。
空になったコンビニのビニール袋にパッケージを捨て、「ゴミはここに」と袋も手渡した。
食べたゴミや出したごみはすぐに片付けましょう。という千夏の教えを、優光はちゃんと守っていたのだ。
「ありがとう。優光くんも座って?」
「ふぁいふぁい」
「優光くんからね」
千夏はカップアイスと木のスプーンの封を開けて、ゴミを袋に捨てる。
かくして、アイスを食べながらのオセロ勝負が幕を開けたのだった。
一時間後――。
「また負けた……」
千夏はあり得ないという風に項垂れる。
勝負は三勝三敗。全て千夏が負けていた。千夏にとって、それは信じられない出来事だ。
幼い優光と何度もオセロ勝負を真剣にしたことがあるが、いつも千夏が勝っていた。けして千夏が大人げないわけではない。
幼い頃の優光は序盤に自分の石をたくさん増やし、最終的に打つところがなくなって敗北してしまうのだ。故に、千夏の必然的勝利となってしまう。
負けず嫌いだった優光は、『おかーさん! これで最後にするから、もー一回!』と、何度も対戦をねだったものだ。
それが今となっては、序盤に自分の石を増やさず隅(角)を意識して取り、相手にたくさんの石を取らせていく。そして最後に自分が石をかっさらっていくという、なんとも戦略的な勝ち方を身につけていたのだから、千夏にとっては驚きの嵐だろう。
「弱すぎ。これで終わりな。もう眠い」
「そうね。お布団敷きましょうか」
気持ちがいいほど惨敗した千夏はボードゲームを片付け、絵本を取り出す。
「ねぇねぇ、ぐ〇とぐ〇でいい?」
ぐ〇とぐ〇。それは、千夏が幼き優光に一番読み聞かせていた絵本だった。
「なんでもいいから自分の布団くらい、自分で敷いてくれ」
そんな思い出など忘れました。かのような優光は、千夏の布団セットを部屋の隅にどさりと置いた。
「そうでしたそうでした」
千夏は一旦絵本をバックの上に置いて、布団をセットする。昔はよく、自分の布団と優光の布団をセットしたものだ。
小学校に上がった優光は自分の部屋を持つようになり、一緒に眠ることもなくなってしまった。
「なんか遠くないかしら? 端っこと端っこって……寂しくないの?」
「寂しくない。少しは危機感持てば? 別に興味ねーけどさ」
優光は呆れたように溜息を吐く。
(……それもそうね。私は私である前に、藤崎千花ちゃんの身体を借りて、白石千夏として生きてるんでした)
優光の言葉で我に返る。少しはしゃぎ過ぎていたと、ちょっぴり反省する千夏だ。
「俺はもう疲れたから寝る。電気は好きにして」
「もうちょっと待ってちょうだい」
「いやいや、寝るの待てってどういうことよ? 絵本の読み聞かせだって、子供を寝かしつけるためだろ? 俺、普通に寝むれるし。むしろ、普通に寝かせてくれ」
「まぁまぁ、そう言わないの」
千夏は優光を宥めつつ、優光の顔の近くで腰を下ろす。
優光が物心ついた頃からの読み聞かせスタイルで、太股の上で本を立て、優光の目に入りやすいように絵本を開く。
「絵本、始まるよ~」
「はいはい」
優光は欠伸を噛み殺し、千夏の方へ横たわる。
(昔は、わ~い‼ とか言って拍手してくれてたんだけどな~。でも、ひーくんも中学生だもんね。こうして付き合ってくれるだけで凄い事よね。……二ページ後には寝てしまってそうだけど)
千夏はそんなことを思いながら、絵本の表紙を開く。
「ぐ〇とぐ〇――……」
ゆっくりと優しい口調で絵本を読んでいく千夏は、幼き日の優光との思い出と共に、物語を噛み締める――。
「……おしまい」
「おしまい?」
「そう。おしまい。今日一日付き合ってくれて、本当にありがとう」
千夏が放つ、おしまい。という言葉には、どこか喪失感と切なさが含まれているようだった。
この世界で過ごせる時間が刻一刻と過ぎ去り、優光と過ごせる残りの日々がよぎったのだろう。
「別に。約束したし。ラクダ楽しかったし。弁当も美味しくて、懐かしかった……」
夢の中へと落ちてしまいそうな優光は、普段より舌足らずな口調で、素直に気持ちを表現する。
その口調が幼き日の優光と重なり、千夏の心に切なさを募らせた。
「それはよかった」
「あとは、海だけ……だな」
「そうね。優光くんはなにかやり残したことはないの? 私みたいに……。私になにかできることはない?」
(私にはひーくんとやり残したことが数えきれないほどがあったけれど、ひーくんが何を思っていたのかまでは、聞かなければ分からない。出来うるなら、ひーくんがやり残したことも全て叶えてあげたい)
そんなことを内心で思っていた千夏に、すぐに答えが返ってくる。
「俺は、あの人のプリンが食べたい」
「プリン?」
「そう。プリン。あの人が、来週の日曜日に作ってくれる。って約束してくれたプリン。 売っているものよりも少し硬いけど、とっても美味しい。それ、食べたい。もう一度だけで、いい。でも、白石には……絶対に無理だ。味も、香りも……。あの人と……違う、から――……」
優光は望みを吐露しながら重い瞼を閉じ、浅い夢の海へと落ちていく。
八年前の春。
「ねぇねぇ〜」
幼い優光は甘えた声で、生前の姿をした母親を呼んだ。
「おかぁさ〜ん」
優光は正座をして洗濯物を畳んでいた母親の背におぶさる。
「ひーくん、どーしたの? お洗濯ものが畳みにくいから、どいてくれると嬉しいんだけど?」
母親は柔らかく微笑み、肩越しに愛する我が子を見る。
「プリン食べたい。最近食べてないもん。食べたーい」
「そういえば、最近作ってなかったわね」
「作ってー。バニラびーずん? 入りのがいい!」
「ひーくん、おしい。びーずんはお豆よ。それを言うなら、バニラビーンズね。残念だけど、バニラビーンズは今お家にないのよ。今度買ってくるわね」
母親は小さく肩を竦めながら微笑む。なんて平和で穏やかな光景なのだろう。
「バニラびーんず? 買いに行こう! 僕、いま食べたいんだもん」
優光は前に回り、母親の膝の上にちょこんと座る。
「だーめ。今日はもう、今週のお買い物すませちゃったもの」
「じゃぁーいつ作ってくれるの? たべたーい」
「じゃぁ、来週の日曜日。一緒に作って、お父さんと一緒に食べましょうか。それまで待っていてくれる?」
「……分かった。来週はお父さんがお仕事から帰ってくるもんね」
不服気だった優光だったが、来週の日曜日に出張から帰宅してくる父親の顔を思い出し、笑顔を取り戻す。
「ありがとう」
母親は微笑を浮かべてお礼を言った。
「指切りげんまんしよー。ぜったい約束守ってね」
「はいはい」
母親の長くて綺麗な小指に、幼い優光の小さな小指が絡みつく。
♪ゆーびきーり、げーんまん~♪
二人の柔らかい笑い声と共に、ゆびきりの歌声が響き渡る。
柔らかくてあったかい幸せな空気が、部屋中を包み込んでいった――。
「ひーくん。ごめんね……。ずっと一緒にいてあげられなくて」
千夏は慈悲深き微笑みと共に、一筋の涙を溢す。
自分が作るプリンを覚えていてくれていたこと、心から美味しいと思ってくれていたこと。もう一度食べたいと思ってくれていたことへの喜び。と同時に、日曜日の約束を叶えることが出来なかったことへの後悔と申し訳なさが、千夏の心でぐるぐると混ざり合う。
「おやすみ。愛してるわ」
千夏は夢と現実の狭間にいる優光には聞えぬほど小さな声を溢し、絵本をバックにしまって布団にもぐる。
その日の夜。
千夏は優光に気づかれないように、嗚咽を押し殺し、涙を流し続けたのだった――。
†
八月三十一日。朝五時三十分――。
♪ピピ、ピピ、ピピッ!♪
「朝だ……。起きなきゃ……一秒でも、無駄にしてはいけない」
千夏は重だるい身体を叩き起こすように目覚まし時計を止め、ベッドから起き上がる。
じっとりした汗で額に張り付いた前髪を拭い払う千夏は、朝の支度をするため浴室へと向かった。
藤崎千花の器を借りて生きる、白石千夏の最後の一日が始まったのだ。
千夏が軽い朝風呂を済ませた頃には、六時になっていた。
既に、本日の十八時頃に稲村ヶ崎で海をみる。と言う約束を優光と交わしている千夏は、そそくさとキッチンへと足を向けた。
藤崎家の家族に見つからず、集中してプリンを作ることが目的だ。
八年ぶりに作るプリン。愛する我が子のリクエストメニューであり、八年越しの約束を叶えるプリン。千夏の気合が嫌でも入る。
「まずは、カラメル作りね」
千夏は藤崎千花が愛用していた紺色エプロンを借り、アイランドキッチンに立つ。一ヵ月藤崎千花として住んだ藤崎家。千夏はどこに何があるのかを全て把握していた。
テキパキとキッチン上部にある戸棚からボウル。下部からは小鍋。引き出しからは、木べらなどの必要な調理器具。食器棚から耐熱容器を準備していく。
「久々だから、上手くできるか分からないけど……」
不安を口にしながらも作業を進めていく。
まずは砂糖大さじ三と、水を大さじ一入れた耐熱容器をレンジにかける。レンジ待ちタイムを活用して、プリン液に使う牛乳や砂糖などを計量していった。作り慣れていたメニューだけあって、要領がいい。
「準備完了!」
計量を終えた千夏は、電子レンジが甲高い知らせを響かせる前に扉を開く。レンジ通知音が藤崎夫妻の目覚まし時計になりかねないからだ。
調理ミトンで手を保護しながら耐熱容器を取り出した千夏は、少し隙間を空けてバッドを耐熱容器に被せ、大さじ一の追加水を隙間から加えた。それにより、カラメルがバットに勢いよく飛び散ってゆく。
千夏はミトンをした手袋でバッドを抑え、カラメルが落ち着くのを待った。
本来であれば、小鍋などでカラメルソースを作るのが一般的だ。だが面倒臭がり屋な千夏は時間短縮も兼ね、カラメル花火恐怖と戦うことを覚悟のうえ、レンジ調理を選んでいた。
「落ち着いた落ち着いた。ふふ。今回も私の勝利ね!」
などと言いながら、ご機嫌にカラメルをよく混ぜてゆく。
千夏の中で、カラメルソースを火傷せずに完成させられたら勝利。火傷したら敗北。という戦いがあるらしい。
「お次は、プリン液作りね」
千夏は計量済みの牛乳と砂糖を入れた小鍋を弱火にかけ、砂糖を溶かしてゆく。この時、沸騰させないのがポイントだ。沸騰したが最後、湯葉もどきが出来て終わる。
♪ラララン~ラララン。ラララッンラッン、ララ、ラッン~……♪
千夏は優光との思い出のメロディーを口ずさみながら、大きめのボウルに卵一つ割り入れる。卵の殻が入ることも割れることもなく、綺麗な形を維持していた。
カラザを取って泡だて器で軽くかき混ぜる。下準備していたバニラビーンズと、砂糖が溶けた牛乳を仲間入りさせ、よく混ぜてゆく。
生クリーム類などを使わないのが、千夏のこだわりだった。故に、滑らかプリンとはほど遠い、昔ながらのしっかりしたプリンに仕上がるのだ。
きっと優光は、そのプリンの食感と濃い味が大好きだったのだろう。
「ここで面倒臭がらずに、しっかりと濾すのがポイントなのよね~」
千夏は独り言をしみじみ呟きつつ、プリン液を裏漉ししてゆく。
一度裏漉しせずにプリンを作ったことがあるが、なんとも口当たりの悪い仕上がりとなってしまった。その結果、面倒臭いという思いがその後に勝利することもなく、ちゃんと裏漉しをして作るようになった。
「後は火にかけるだけね。どうにかこうにか、藤崎家の朝食のお邪魔をしなくて済みそうね」
千夏はホッと息をつき、耐熱容器の型に10/7程プリン液を入れ、アルミホイルで蓋をした。
キッチン下部の引き戸から厚手の鍋を取り出し、容器の1/3~半分程が浸るまで湯を入れて火にかける。最初から蓋をしないのがポイントだ。鍋に入れた水が沸騰してようやく蓋をする。そこから弱火~中火で十分~十五分程待てば、全体に火が通った頃合いのはずだ。
千夏はその間に、汚した調理器具やキッチンを綺麗に片付ける。
「そろそろかしら?」
千夏は竹串でプリンを差して火の通りを確認する。
「うん! 上出来ね」
納得したように頷く千夏は、鍋から容器を取り出して粗熱を取る。その間に鍋を洗い、藤崎千花の両親と、自分の朝食の準備を始めた。
メニューはベーコンエッグとサラダにトーストだ。
父親はブラックコーヒー。母親と藤崎千花がホットミルクだと知ったのは、藤崎千花として住んでから、三日目のことだった。
人数分の朝食を作り終えた頃には、プリンの粗熱が取れていた。
「タイミングバッチリね」
千夏はカラメルソースを上から流し込み、冷蔵庫に寝かせた。
「あの頃の味のままだったらいいのだけど……」
少し不安気に呟く千夏は、藤崎千花として笑顔を作り直す。この家にいる時は、白石千夏ではなく、藤崎千花として暮らしてきたのだ。ここで仮面を取るわけにはいかない。
その後千夏は、藤崎夫妻と最後の時間を共にするのだった――。
午後一六時。
神奈川県鎌倉市浜稲村ヶ崎――。
ピンク色と白色のストライプが可愛らしい保冷剤バッグを持つ千夏は、Aラインの黒いワンピースに出来うる限り皺がつかないよう、太い流木に腰掛けていた。
夏の生温い風が千夏の綺麗な黒髪を躍らせる。
千夏は白ベルトに丸い形がころんと可愛らしい腕時計を見つめた。時計の針は一八時十五分を示している。大幅と言うわけではないが、約束時刻を過ぎていた。
一分、一秒も無駄に出来ない千夏にとって、一人で待つ一秒は不安を煽る対象でしかない。刻一刻と、愛すべき息子と過ごせる時間が過ぎ去ってゆくのだから。
(ひーくん……ちゃんと、来てくれるよね? 約束、したもんね。信じてるからね)
不安に押しつぶされそうな気持を抱えながら、優光を信じて待ち続けると決めた千夏の耳に、「白石!」と呼ぶ声が響く。優光だ。
「優光くん!」
待ち人の登場に声を弾ませる千夏は、優光に向って右手を振った。
「わりぃ。少し遅れた」
「全然大丈夫。きてくれてありがとう。ねぇねぇ、ココ座って」
「ぁ、うん」
両肩を上下させる優光は、千夏が座っていた大きな流木に腰掛けると、ふぅ~。と、一息ついた。
「もしかして、走ってきてくれた?」
「普通」
素っ気なく答える素直じゃない優光がおかしくて、千夏は内心でくすっと笑う。
「そっか。お水飲む? 氷入れてきたから冷たいはず」
「……」
優光は差し出された白のスリムな水筒を複雑そうな顔で口噤んだ。
「ぁ、口付けてないし、毒も入ってないから安心して?」
「いや、そこは別に気にしてないし、毒持ってるとかは思ってねーけど。それ、白石のだろ? 俺自分で買ってくるし」
そう言って立ち上がる優光を止めるように、千夏は優光の小指を控えめに握った。一秒でも無駄にしたくないのだ。
「私、喉かわいてないから大丈夫。座ってて」
(私にはもう時間がないのよ……。一秒でも長く、貴方と同じ時間を過ごしていたいの)
という胸の内が優光に伝わることはない。
優光はどこか懇願するような千夏に少し戸惑いながら、流木に座り直した。
「どうぞ」
「どうも」
今度は素直に水筒を受け取った優光は、いただきます。と言って冷たい水を飲む。
「うまっ」
優光は生き返ったように口角をあげた。
「よかったよかった」
その横顔を眺める千夏は、嬉しそうに微笑んだ。脳裏では、いつかの日、二人でピクニックしたときの思い出がフラッシュバックしていた。
――おかーさーん。喉かわいたぁ~。
蝶々を追いかけて走り回っていた幼い優光は、レジャーシートの上でのんびりしていた母親に駆け寄って行った。
――はいはい。凄い汗ね。
母親は穏やかな優しい笑みを浮かべ、アニメの絵柄をした水筒の蓋にお茶を注ぎ、溢しちゃダメよ。と手渡す。
優光は喉を鳴らしながら勢いよく飲み切る。
――おいしー!
そういって満面の笑みを浮かべる幼き優光。母親はその姿をかけがえのないものを見るように目を細め、柔らかな笑みを返すのだった。
そんな思い出に浸っていた千夏は我に返る。
「ぁ、そういえばお夕飯は食べてたのかしら?」
「そういえば食ってない」
「そうなの? じゃぁ、近くのお店で軽く食べましょう? まだ少しだけ付き合ってくれるかしら?」
「うん。別にいいけど。腹も空いてるし」
「じゃぁ行きましょ~」
かくして二人は、夕食を食べるためにその場を後にするのだった。
†
「ライス少な目で頼んでたけど、足りそう?」
アジアン風テイストの店内が印象的なお店。一番奥にある木製の四人テーブル。優光と向き合うように座る千夏は、名物ポークカレーを食べる優光に問いかける。
「そりゃ、白石がこの店は量が多いっていうからな。普通に足りた。元々大食漢じゃねーし」
「そうよね。知ってる。でも、昔よりは食べるようになってくれていて安心したわ」
「は?」
優光は意味不明なことを言う千夏を訝しげに見る。
千夏は「こっちの話よ」と、軽く流した。
八年前の春。
――おかぁさん、ごちそうさましてもいい?
母親が軽く盛ったカレーライスを二割残す幼き優光は、四人掛けテーブル席を挟んで向かい合う母親に問うた。
――まだ残ってるじゃない。あと少しよ?
――だって、お腹いっぱいなんだもん。これ以上食べると、また苦しくて唸ることになるもん。僕、昨日すっごく苦しかったから、もうヤダ。
幼い優光は昨日、母親が盛ってくれたカレーライスを完食した。といっても、三割程残っていたのを母親に促され、頑張って完食するかたちなのだが。
その日の夜は、お腹苦しー。はちきれちゃうよ~と、寝るが寝るまでお腹の苦しさに耐えるしかない優光だった。
それを考慮して少なめに盛ったつもりだったが、小食の優光には多かったらしい。
――仕方ないわね。ごちそうさましていいわよ。
昨夜の苦しみようを思うと、許可するしかない母親だった。
――ありがとーう。残してごめんなさい。ごちそーさまでした。
優光は顔の前で両手を合わせると、食卓から離れてゆく。
小学校の平均身長よりも低く、体重の軽い華奢な我が子の背中を見つめていた母親は、もっと食べてくれるようになったら嬉しいし、安心できるんだけど……。と、一人ぼやくのだった。
「白石は、その……少しは前向けそう?」
「えぇ。あと一つ叶えたら」
「海を見る?」
「それもだけど、優光くんに食べてもらいたいものがあるの」
「食べてもらいたいもの? 飯食ったばかりだからヘビーなのは厳しいけど……」
優光は戦々恐々とばかりに眉根を下げる。
「ふふふ。大丈夫よ。ハンバーグや揚げ物やらではないから安心して?」
千夏の言葉に優光は、そっか。と肩を撫で下ろした。
「ここでは持ち込み禁止だから、さっきの場所に戻ってから……と思っているのだけど」
「分かった」
最後の食事を賑やかな場所で、穏やかに終えた二人はその場を後にした。
二人の間に、夏の終わりを告げる生ぬるい潮風が吹き抜けていく。
そこには、世界で一番純粋な呪いと、切ない魔法がとける粒子が入り混じっていたのかもしれない――。
差し出されたものを数秒見つめていた優光は、「……プリン?」と、独り言のように問う。その表情にはどこか戸惑いの色があった。
ココットのお皿にはクリーム色の物体が平坦に注がれたまま固まっている。所々気泡が出来ているあたり、手作り感が感じられた。
「そう。プリン。このまえ言ってたから。それに、約束していたから……」
俯きながらそう伝える千夏の表情は、どこか儚く悲しげだった。
(まさかその約束を、こんな形で叶えられるとは思っていなかったけれど)
「別に、約束したつもりねーけど……」
(それは知っているわ。だって、ひーくんが約束したのは白石千夏じゃなく、八年前の母親としての私だもの)
という千夏の言葉が外にでることはない。
「食べてみて?」
千夏は優光の言葉を軽くスルーして言う。
その声はどこまでも穏やかだった。
優光は大切な思い出がたくさん詰まったプリンを差し出され、なんとも複雑そうだ。
その理由をどこか分かっているような千夏は、もう一度、食べてみて。と促す。その声はとても穏やかでありながら、どこか切羽つまっているような焦りを感じさせた。
それもそのはずだ。刻一刻と、優光と離れる時刻が迫っているのだから。
「……あぁ」
優光は少し気が乗らない様子で、ココットにかかっているラップをそっと剥がす。その手付きはどこか緊張の色を感じさせた。
「いただきます」
両手を合わせた優光はプリンの表面にプラスチックのスプーンをそっと置き、ゆっくりと差し込む。
少しかために仕上がっているプリンは弾力があり、スプーンが滑らかに入ってはいかない。その感じがまた、優光に懐かしさを感じさせた。
優光は少し躊躇しながらも、プリンをのせたスプーンをゆっくりと口に運び、一口食べる。
「――」
優光はスプーンを口に銜えたままピクリとも動かない。
「ご、ごめんなさい。そんなに、まずかった……かしら?」
おどおどと不安げに問いかける千夏に対し、優光は首を小さく振って否定した。
優光はなにも言わない。それでも、なにかを噛み締めるかのように、二口、三口とプリンを口に運び、時間をかけてプリンを間食した。
(……ひーくん)
千夏は胸の内で我が子の呼び名を口にし、その様子を静かに見守り続けた。
†
「あの人の、あの人の味がした………」
優光は懊悩するかのように、両手で頭を抱えた。
(ひーくん……もしかして、気がついたの? 私のことに)
千夏は優光の心中を察したように、優しく深く、「うん」と相槌を打つ。
「ショッピングモールの回り方も、ミントアイスが好きなところも同じ。サッカーが好きな俺に、あの人はいつも、サッカーボールにデコレーションされたおにぎりをつくってくれた。しょっぱい卵焼きが嫌いな俺には、父さんとは違う甘い卵焼きを作って、お弁当の中に入れてくれたんだ」
優光は大切な人との思い出を消化しきれず、涙をポロポロと溢す。
(ひーくん。全部覚えてくれていたのね)
千夏は心の内で秘める言葉や想いを面には出さず、壊れ物を扱うかのようにそっと優光の肩に手を回した。
優光は躊躇しながらも、肩に回された千夏の手に自分の手をそっと添えるように握った。
幼かった優光の小さな掌が今では、千夏の掌を包み込めるほど大きく成長していた。それは、二人が心の空白を抱えながら過ごした年月を物語っていた。
「ボードゲームはいつもオセロ。ワザとかどうか知らないけれど、半分こね。とでも言うように、左側の角を俺にとらせるのも一緒。絵本の種類も一緒。絵本には書いていない効果音まで勝手につけながら、楽しそうに絵本を読む読み方も一緒。いつも固めに仕上がるカラメルと手作りプリン。一緒だった。味も、香りも……」
「えぇ」
思い出と共に幼子に戻り始める優光。
そんな優光に対し、千夏は初めて同意するような相槌を打つ
「本当はさ、白石千夏って名前なんかじゃなくて、本当は鮫島……ッ!」
千夏は優光の言葉を遮るように、人差し指をそっと優光の唇につけた。
(その名前を口にしては駄目。その人はもう――生前の私はもう、器も名前もこの世にはないの。本当は魂でさえも、あってはならない存在なのだから)
と言う千夏の言葉が世に出ることはない。だがその先の言葉を言ってはならないのだと感じ取った優光は、言葉を変えた。
「ねぇ、僕の、僕の名前の由来言ってみてよっ」
(……僕。口調も表情も、まるで小さい頃に戻ったみたいだわ)
千夏は慈しむように目を細めながら、優光の質問に答える。
「貴方の名前は、鮫島優光くん。優しい光で、たくさんの人を照らしてあげられる人になってほしい。そう願いが込められた名前。あだ名は、ひーくん」
千夏の言葉に、優光の中でバラバラだったピースが全て埋まってゆく。
優光の瞳から止めどなく涙が溢れだす。
「本当に? 本物なの? どうして?」
色々な感情が混ざり合い心を乱す優光は、恥ずかしげもなく素顔をさらけだす。大人びた仮面は壊れ、自分の気持ちを押し込めていたパンドラの箱が、音を立てて開いてゆく。
「ひーくんが願ったから。それに、あの日、約束したでしょ?」
「?」
きょとんとする優光に対し、千夏はゆっくりと話し出す。
四年前の夏――。
十才の鮫島優光は家で一人、父の帰りを待っていた。
母親の死から、出張が多い部署を無理言って辞めさせてもらった優光の父であったが、帰りが夕飯の時刻を回ることが多々あった。
優光は四人掛けテーブルに座り、ひたすら父の帰りを待っていた。
静けさの中に、アニメ番組の音だけが虚しく響く。
「昔は楽しかったなぁ」
幼い優光は五歳頃の記憶を呼び起こす。
四人掛けテーブルに並ぶのは、母親のあったかい手料理が並べられていて、正面には笑顔の両親が腰掛けている。
いただきます。三人の声がそろう。温かくて美味しいご飯。あたたかい食卓。 大好きな両親の笑顔。他愛もない会話を交わしながら、食事をする幸せなひと時。そんな光景が脳裏によみがえり、優光はしくしくと涙を溢し、机の上に突っ伏した。
「お母さん……どこに行っちゃったの?」
そんな言葉が優光の口をつく。もちろん、天国に旅立っていたのは知っていた。理解していた。だが本当の意味では理解できずにいたのだ。
「どうして、僕をおいていったの? どうして僕も連れて行ってくれなかったの? お母さん、僕が嫌いになっちゃったの? お母さん、会いたい。もう一度会いたいよぉ。
お母さんの声が聞きたい。お母さんの笑顔が見たい。お母さんとお話がしたい。お母さんのプリンが食べたい。プリン、約束……ちゃんと指切りげんまんしたのに……どうして約束やぶるのーッ。ひどいよぉ。どうして何も答えてくれないの? 僕がいい子にしなかったから嫌になっちゃったの? 僕、ちゃんといい子にするよ。僕、おもちゃも自分でお片付けも出来るし、ちゃんと自分で着替えられるようになったんだよ。もう夜中のおトイレだって、自分で行けるようになったんだ。
だから、もう寝ているお母さんを起こしたりしない。お母さんが作ってくれたご飯も残さず食べる。だから、だから――戻ってきてぇ……。お願いだから……」
優光の悲痛な想いは、母親のいる黄泉の国まで届いていた。
そんな我が子を見ていた母は絶望と罪悪感に苛まれ、どうしようもない現実をただ絶望し、恨み、我が子に謝り続ける。
止めどない涙が現世界を映す水晶を濡らしていった。
幼い優光の想いはいつしか、母の魂をずっと黄泉の世界に引き止める呪いとなっていた。
それは穢れの知らない、世界で一番純粋な呪いだった――。
「ひーくん、大きくなったね。私もう、ひーくんを抱っこしてあげられないわ」
千夏は母親としての想いをさらけ出すように、優光を呼ぶ。
「ぉ……おかあ……さん?」
「かも、しれないわね」
震える声で途切れ途切れに問いかけてくる我が子に、うやむやな答えを返す。千夏はけして、そうであると断言はしなかった。それでも、優光には通じていた。
自分の目の前にいる人が白石千夏ではないことに。白石千夏ではあるかもしれないが、そこにいるのは、紛れもなく母であるということを――。
†
黄泉の国――。
「……。とても素敵な夏を過ごすことが出来たわ。けして忘れることが出来ない、忘れてはいけない、かけがえのない夏休みを」
瞼のカーテンをそって開けた千夏はそう言って、強い光に微笑む。
「それはよかったです。お二人が素敵な夏を過ごせたのなら、こんなに嬉しいことはありません」
強き光はホッと胸を撫で下ろしたように息を吐き、声を弾ませる。
「ありがとう」
随喜する千夏は心からお礼を言って、口元を綻ばせた。
「息子さんに、伝えたいことは伝えられましたか……?」
強き光は不安げに問う。千夏に心残りを持っていてほしくないのだ。
「そうね……」
千夏はまた思い出の波に身と心をゆだね始める――。
†
ひとしきり泣いた二人は顔を見合わせ、小さな笑い声をあげる。その音はどこか切なく、どこか温かかった。
「私、そろそろ行かなきゃ」
「待って!」
優光は静かに立ち上がった千夏の腕を両手で掴む。
「僕を、置いて行かないで。僕も、一緒に――ッ!」
我が子の心からの言葉に、千夏の心がずきりと痛んだ。
「駄目よ!」
千夏は強い口調で優光の言葉を制止させた。
「ひーくん、それは駄目よ。絶対にできないわ」
タイムリミット付きではあるが、もう一度この世界で生きれることになった千夏は、我が子の願いであればどんなことでも叶えてあげたいと心から思っていた。だが、これだけは絶対に叶えられない。叶えてはいけないのだ。
「どうして⁉」
駄々をこねる子供のように声をあげた優光は、置いて行かれないように勢いよく立ち上がる。
「ひーくんがこの世界で生きているからよ。生きていかなきゃいけないからよ」
千夏は強い口調で伝えるが、その声は震えていた。
千夏だって本当は、我が子と離れることなどしたくない。したくはないけれど、そうしなければいけないのが現実なのだ。自ら我が子の命を落とさせることなどありえないだろう。
千夏としてこの世界で生きて優光と一緒に過ごせば、千花の命を奪うことになる。どちらも選べない。選んではいけないのだ。
「でも、僕はッ」
千夏は優光の唇に人差し指をそっとあて、その先の言葉を遮った。
「ひーくんは何歳になりましたか?」
「……一四歳」
「そう。八月三一日に私がいなくなって、もう八年の月日が立ちました。ずっとひーくんを空から見ていたわ。毎日大泣きしている姿をみて、私も空から泣いていたのよ。ごめんね。って何度も謝っていたの。ずっとひーくんを抱きしめてあげたかった。約束していた、プリンをつくってあげたかった。ひーくんとお話したいことも、行きたい場所も、まだまだたくさんあった。なにより、もっともっとひーくんと同じ時を過ごしていたかった。だけど、できなかった……。ごめんね。
十歳を過ぎたあたりから、ひーくんは泣かなくなってしまった。そして心を閉ざして、人と深く関わろうとしなくなってしまったわ。喜怒哀楽も薄くなってしまって……。早熟させてしまって申し訳ないと思っているわ」
千夏は滂沱しながら言葉を紡ぐ。
黄泉の国で我が子をずっと見守り、申し訳ないことをしたと謝罪を繰り返し、嘆き苦しんでいた日々が脳内でフラッシュバックしていく。
†
妻が交通事故にあったと連絡を受けた優光の父、鮫島優弥は、五歳の優光を連れて病院へ走った。だがすでに妻が旅立った後だった。
その意味を理解している父は我が子を強く抱きしめ、嗚咽を押し殺すように泣いていた。
「ねぇ、どーしてお母さん眠ったままなの? どうして白い布をかぶされてるの? どうしてお話しないの? お父さん、どーして泣いてるの?」
まだ何も分からない、理解できない幼い優光は問い続ける。父は上手く言葉を紡ぐことが出来ない。
「俺が、お前を、守る……ッから。二人で、生きていこう……」
とだけ伝えるのが、せーいっぱいだった。
すでに黄泉の国へと魂だけが送還されていた千夏は、二人の姿を天から見ていた。
二人に想いを伝えることも、二人と触れ合うことも出来ず、ただただ暗く冷たい闇の中、涙を流し続けることしか出来なかったのだ――。
その後、慌ただしく状況は変化していった。
千夏の両親は、長野県から東京へ。優光の父の両親は、北海道から東京へ。
千夏に深い繋がりがある者達だけで、小さなお葬式が執り行われた。
「優弥さん。あの子をどうするつもりですか? 私達が預かりましょうか? あんな小さい子を一人にしておくことなんてできないでしょう?」
千夏の母である明恵は仲良く夫と遊ぶ孫の姿を見ながら、深刻な口調と表情で言う。その視線と言葉の先には、鮫島優弥の姿があった。
「僕が育てるつもりです。僕が守っていきます。お義母さん達に、ご迷惑はおかけしません」
「迷惑だなんて思わないわ。だって、あの子は私達の大切な孫なんですもの。貴方もそうよ? 血は繋がっていないけれど、大切な一人息子だと思っているわ。だから、そんなに思いつめないでちょうだい」
ボリュームのある黒髪ショートヘア―が印象的な六十歳と思しき女性、水口明恵はいった。いつもエレガントな装いの明恵だが、本日は娘を弔うために、華奢な身体を喪服スーツに包んでいた。
優弥は明恵の言葉に力なく微笑を浮かべる。
「……優弥君。もしかして、子一人、父一人で暮らしていくつもり? 片親で子一人育てようなんて無謀というものよ。それでなくても優弥さんは出張が多いのでしょう?」
口調は優しいが、どこか優弥を咎めているようだ。まるで、娘のことさえ守れなかった貴方が、一人で育てきることなど出来ない。と言うように。
「ありがとうございます。お気持ちだけ、ありがたく受け取っておきます。母親を失った優光を一人、長野に行かせるのは心配です。学校のことだってありますし……」
「……それはそうだけど」
明恵は腑に落ちないように溜息を吐く。
「大丈夫です。僕があの子を命がけで守り切ります。仕事も、部署を変えてもらえるように言いました。多少の残業はあるかもしれませんが、ずっと東京にいられます。一人暮らしが長かったので、家事も問題なくできます。安心して下さい」
優弥はそう真摯に伝える。が、そんな簡単に受け入れられる話ではない。
「安心してって言ったってね……」
「もし、本当にどうしようもないときは、申し訳ありませんが……手を貸してもらってもかまいませんか?」
優弥は控えめに問うてみる。
「えぇ。それはもちろん。でも……」
「お父さーん」
話し合いが深みにはまっていくのを遮るかのように、幼い優光の声が部屋に響く。祖父の傍を離れた幼い優光がドタバタと父親の方にかけてくる。
正座をしていた優弥の背におぶさるように抱き着く幼い優光。祖父はそんな孫の姿を微笑ましそうに見つめていた。
「いったい何を揉めていたんだ?」
千夏の父、茂雄は少し呆れたように妻に言った。
「もめてはしていません。ただ、父一人、子一人では大変でしょうから、優光君をうちで預かりましょうか? という相談していただけです」
明恵は、失礼しちゃうわね。というような口ぶりで答える。
「そーか。優弥君はもちろん、優光君を一人で育てきるつもりなんだろう?」
「はい。そのつもりです。そのために仕事の部署も変えてもらいました」
優弥は強い意志を宿した瞳で茂雄をみる。
「じゃぁー、優弥君に任せた方がいいんじゃないか?」
「貴方ッ!」
明恵は叫ぶように茂雄を呼び、講義をするように勢いよく立ち上がった。
「明恵。そう目くじらを立てるモノじゃない。優弥君を信じてて任せるのが一番いい。私達は二人のフォローに回る。それが一番、優光君にはいいことだと俺は思う。母親と引き離された優光君を、父親からも引き離すだなんて酷すぎる。それだけじゃない。長野に転校となると、お友達とも離れ離れ。慣れ親しんだ街とも離れることになる。明恵はそんな悲しくて辛いことを、優光君にさせるつもりなのか? 一番に考えるべきなのは、優光君の幸せなんじゃないか……と、俺は思うよ」
「ッ……」
夫の言葉に明恵はぐうの音もだせない。
突きつけられた正論と真実。明恵は悔し気に下唇を噛んだ。
「優光君はお父さんと毎日一緒にいたいか?」
茂雄の問いかけに、幼い優光は力強く頷く。
「僕、ずっとお父さんとお母さんといる!」
優光はそういって優弥にぎゅーっと抱き着く。
なんでもないように言った優光の言葉に、その場にいた三人は言葉をつまらせた。
現実を本当に受け止めた時の優光のことを思うと、胸が張り裂けそうだ。
「……そうね。今の優光君を優弥さんの傍から離すべきじゃないわよね」
明恵は決心がついたように小さく頷く。
「優弥さん。優光のことをお願いします。何かあったら遠慮せずに、私達を頼ってください。幸い私達はまだまだ健康そのものです。すぐにこちらへ飛んできます」
明恵はそう言って左手を差し出す。
優弥は優光を右腕で抱き上げて立ち上がり、「はい!」と力強く返事をして握手に答えた。
こうして、父一人、子一人の生活が始まったのだ。
初めの一週間は何事もなく過ごしていた二人だったが、八日目の夜に異変が起こり始める――。
「よっし。終わった!」
優弥は持ち帰った仕事をリビングの四人掛けテーブルで完了させ、ふぅと一息つく。
時刻は夜の十時を回っていた。
「俺も早く寝ないとな」
黒縁眼鏡を外した優弥は、白のノートパソコンを紺色の収納ケースに直し、子供部屋に向かう。
自分が眠る前に一度、優光の様子を見に行こうと思ったのだ。
「ひっく、ひっく……ッ。おかぁさん」
優弥がドアノブに手をかけた時、すすり泣く声が耳に届く。
「優光!?」
優弥は慌てて部屋の扉を開ける。
豆電球がついた部屋。大学生になっても使えるようにと購入した大き目の木製ベットで、優光は一人寂しく眠っていた。
「……ひろ、みつ?」
膝を抱えて泣いているのを想像していた優弥の予想は外れる。優光は涙を流しながらも、ベッドで眠りについていた。先程の声は寝言だったのだ。
優弥は優光の涙を親指の腹でそっと拭ってやる。
「ぉかあ……さん。どーして? うー……ゔぅ」
優光は悪夢にうなされるように、四肢をジタバタともがかせる。
「優光! しっかりしろ。俺がココにいるから」
優弥は慌てて幼い優光を起こす。
「ゔぅ~ん……」
優光は苦しそうな唸り声をあげながら、重く硬く閉じられた瞼をゆっくりと開ける。
「……ぉとーさん?」
「優光ッ」
優弥は意識が覚醒しきらず、ぼーっと自分を見つめる我が子を強く抱きしめた。優弥の指先は微かに振るえている。
「おとーさん? だいじょうぶ?」
「それはこっちのセリフだ」
我が子の思わぬ言葉に、優弥は苦笑いする。
「うなされていたけど、怖い夢でもみたか?」
あえて母親のことは触れずに問うてみる。
「……うん。ねぇ、お父さん……」
優光は何か言いたそうにしながらも口つぐむ。
「どうした? 言いたいことがあるなら言ってみろ」
優光は優弥に背中を押されるかのように、「……うん。あのね……」と、ゆっくりと口を開く。
「どうして、お母さんは帰ってこないの?」
「ッ⁉」
優弥は我が子の言葉に思わず言葉をつまらせてしまう。
「ねぇ、どうして? お母さんはどこに行っちゃったの? 僕がいい子じゃないから、僕のこと嫌いになっちゃのかなー? ……ぼ、ぼく、僕のこと、どぉーして、おいてったのぉ?」
優光は最後の方の言葉達を、涙で溺れるように伝えることしか出来なかった。
「優光。そんなことない。優光はとてもいい子だ。お母さんが優光を嫌いになること、絶対にありえな……ッ」
「じゃぁーどうして⁉」
優弥の言葉を遮るように、優光は声をあげる。
「どうして帰ってこないの? 来週の日曜日、一緒にプリン作るって約束したのに! もう来週の日曜日はとっくに過ぎちゃったよ?」
優光はポロポロと涙を溢しながら、優弥の皺一つない白のYシャツに縋りつくように握りしめる。止めどなく溢れだす優光の涙が、優弥のYシャツを濡らしていった。
「優光……。ごめんな」
耐え切れなくなった優弥は、優光の小さな身体をそっと抱きしめる。
本当のことが分かるように伝えるのが正解なのか、優弥は分かりかねていた。
「ど、どうしてお父さんが謝るの?」
優光はどこか不安に問いかける。
「……ごめん。今週の日曜日、俺とプリン作ろう」
「やだ」
優光は不貞腐れたような口調で即答する。
「はは。お父さんとは嫌か。ごめんな……。お母さん秘伝のプリン、実はレシピを知らなくてな……。一緒にお母さんのプリンを作ってみるのもいいかと思ったんだけどな……嫌か。嫌だよな。ごめんな……。ごめん……」
優弥は落涙しそうなのをグッとこらえながら、優光に謝り続けた。自分自身もまだ、妻が旅立ったことや、妻のいない生活を受け入れ切れていないのだ。
その日から優光は毎夜毎夜悪夢にうなされ、一人で涙を流し続けていた。それを見かねた優弥は、自分のベッドで息子と眠ることにした。
息子が悪夢にうなされたら優光を起こし、泣き止むまであやし、寝付くまで待った。
満足に眠れていない優弥は早朝から優光のお弁当と朝食を作り、ゴミを出す。その後に優光を起こし、二人で朝食を終えると、あと片付けをして家を後にする。
優光を保育園に預けてドタバタと会社に向かう優弥は、集中力を切らさぬように仕事に奮闘する。働かなければ生活が出来なくなってしまうのだ。どちらかを手抜きにすることなど出来ない。
定時に終えられなかった仕事は、家に持ち込むことにしていた。今大切なのは、一秒でも長く優光の傍にいることだと思っていた。
夕食は優弥が作ることもあれば、コンビニやお弁当屋で済ますこともあった。
夕食を終えると、息子と一緒にお風呂に入り、夜の家事をこなす。
優弥は精神的にも体力的にもヘトヘトであったが、我が子を守るために必死になった。それが我が子にも伝わったのだろうか?
母親が旅立って三ヵ月後以降、優光は母親のことを口にしなくなった。だがそれは意識があるときだけだ。夜中はうなされ、母親の存在を求めるように涙を流す。そういった生活が一年と半年続いた。
それを黄泉の国からずっと見ていた母親もまた、嘆き苦しみ、涙を流し続けていた――。
コンコン――。
寝室の扉をノックした優光は、「お父さん、朝食出来たよ」と声をかける。
一二歳になった優光は父親に負担をかけないため、身の回りのことは全て自分でしていたし、料理もするようになっていた。
「あぁ。助かる。ありがとう」
スーツ姿の優弥はそう言いながら寝室からでてくる。
優光がまだ幼かった頃の優弥は頬がこけて、毎日のようにクマを作って疲労困憊という感じであったが、今は健康的に見える。
「そんな。お礼なんていいよ。早く食べよう。遅刻する」
優光はどこかそっけなく言って、一人リビングへと足を向ける。そんな我が子の背中を微苦笑した優弥は、小さく肩を竦めた。
一二歳になった優光はとてもしっかりしていた。していたのだが、感情表現豊かだった優光はどこかに消えてしまっていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて。今夜は少し遅くなりそうだから、先に夕飯食べててくれ」
「分かった。父さんも気をつけて」
八階建てマンションの小さなエントランスで別れた二人は、それぞれの帰路に向ってゆく。
季節は夏。
セミの大合唱が鳴り響く。そんな中で優光は、アスファルトの照り返しと、天からさす陽の針に眉を顰める。
幼稚園に向かう親子連れが、駅に向かっていた優光の横を通り過ぎた。優光はその二人をどこか羨ましそうに目を細め、小さな溜息をつく。
「……死にたく、なるな……」
この頃から、優光の口癖が出るようになっていた。本当に旅立とうとは思っていない。 この言葉の真意は、母親に『会いたい』なのだから――。
母親はそんな優光の姿を、黄泉の国からずっと見守り続けることしか出来なかった。
うなされながら涙を流して眠る我が子。
テレビの中にいる家族や、近所の家族を羨まし気に見る我が子。
一人寂しそうに、公園で遊ぶ我が子。
慣れない手料理で怪我をして泣く我が子と、それを焦りながら手当てする夫。
高熱にうなされる我が子。
成長していく我が子。
そして、「死にたくなる」という言葉を口にするようになった我が子。
その全てを、母は黄泉の国からずっと見ていた。見ることしか出来なかったのだ――。
†
「だったら! だったら、もっとこの世界にいてよ。まだ一緒にいたい。もう行きたい所はないの? 話したいことは? 僕はあるよ?」
優光の声で千夏は我に返る。
愛する我が子の泣き腫らした瞳からは、また涙が零れ始めていた。
「駄目よ。この子に悪いわ。それに私はもう充分よ? ひーくんがお腹の中にいたとき、ひーくんのお父さんとあの水族館とカフェに行ったことがあるの。その時ね、お腹の中にひーくんもいたのよ。ひーくんが無事に産まれて大きくなったら、家族三人で来ましょうと約束していたの。
四歳の頃に読んであげた絵本。そこにラクダに乗っている少年がでてきて、自分もラクダに乗ってみたい! ってずっと言っていたわ。だけどその時のひーくんがラクダに乗るのにはまだ幼くて。もっと大きくなったときに行きましょう。と約束していたの。覚えているかしら?」
優光は母親の問いに言葉をつまらせる。
複雑そうな顔をしながら、高速で記憶の歯車を巻き戻す。が、上手く記憶を見つけることが出来ない。
記憶の歯車を上手く動かすことが出来たのは、母親である千夏だけだった。
八年前の春。
――優弥さん、見て見て! クラゲがこんなにたくさんいるわ。なんだかとても幻想的ね。まるでおとぎ話のようだわ。
――そうだな。ここの水族館、二〇一五年にリニューアルオープンする。って噂を会社で聞いたよ。だから……。
――この子が大きくなったら、またここへ来ましょう!
若きし頃の優光の母親は、優弥が話そうとしていたことを瞬時に理解したのか、先に言ってしまう。その弾むような声はとても楽しそうだった。
――ったく。言おうとしていたことを先に言うなよ。
優弥はまいっちゃうよ。とばかりに、後ろ髪を掻く。
――あら、ごめんなさい。つい。……ッ。
楽しそうに笑っていた若きし頃の優光の母親は、一瞬顔を苦痛に歪ませる。
――ど、どうした?
優弥は慌てて妻の顔を覗き込むようにして問いかける。
――大丈夫よ。今この子が私のお腹を蹴ってきたの。きっと、僕も早く行きたいよー! って言っているんだわ。
――そうかもしれないな。
キラキラと瞳を輝かせる妻と、妻のお腹の中にいる我が子を、優弥は愛しそうに見つめ続けた。
――優弥。ここのハッシュドビーフオムライス、とっても美味しいわ。卵がふわとろなの。
水族館を満喫した二人は、大崎駅から徒歩五分程のところにあるカフェでランチを楽しんでいた。
――それはよかった。このカツカレーも美味しいよ。来てみて正解だったな。また一緒にこよう。
――えぇ。お子様ライスもあるみたいだし、この子が大きくなって遊びにきたときも、ここに来ましょう。
――そうだな。そうしよう。
優弥は妻の意見に笑顔で大きく頷いて見せる。
平和に時は流れ、無事にこの世に生まれ落ちた優光は四歳になっていた。
――あのねぇ。
幼い優光は眠たい目を小さな拳で擦りながら、大好きな母親を呼ぶ。
――どうしたの?
母は読み終えたばかりの絵本をそっと閉じ、穏やかな笑みを我が子に向ける。
――ラクダさんは今、さきゅう。ってところにいるの? だって、動物園を抜け出しちゃったんでしょ? だから本当の動物園にもいないの?
――そうね~。
母親は相槌を打つが、強く断言はしない。
もしかしたら、世界のどこかの動物園にはラクダがいるかもしれない。間違った情報を伝えたくはなかったのだ。
――僕もラクダさんに会ってみたい。どこに行ったら会えるの?
――鳥取の砂丘。ってところにいけば、ラクダさんに会えるわ。それに、ラクダさんの背にものせてもらえるのよ。
母はどこか得意げに言ってみせた。
――ママ、それ本当なの!?
爛々と目を輝かせる幼き優光はベッドから飛び起きる。
――えぇ。本当よ。お母さんが嘘ついたことあるかしら?
――……ない。じゃ、じゃぁーさ、とっとり? ってところにいこーよ! 僕、ラクダさんに乗りたい!
――そうね~。じゃぁ、ひーくんがもう少し大きくなってから、お父さんに連れて行ってもらいましょうか?
らくだのライド体験は、小さい子供となら二人乗り可能である。だが四歳の優光にはまだ早いと感じたのだろう。
子供が怖がって暴れたり泣いたりすると、ラクダの精神に影響をきたし、ラクダが暴れ出したという話を耳にしたことがある。それを思うと、幼い我が子をつれて、安易に体験することはできない母だ。
――大きくって、いくつになったらいいの?
――う~ん……六歳くらいかしら? ひーくんがあと二回誕生日を迎えたら、きっとラクダさんも、おいでおいで~って言ってくれると思うわ。
――えぇー! あと二回も? 遅いよ~。
――あと二回。二年なんてすぐ立つわ。
と言って、ぐずる息子を宥める。
――すぐって……。じゃぁさ~、約束してくれる? 僕が六歳になったら、そこにつれていってくれるの。
――えぇ。分かったわ。約束ね。さぁさぁ。もう夜も遅いし、今日は眠りましょう。おやすみ。
母親は優光の心を落ち着かせるように、小さな胸をポンポンと繰り返し叩いてやる。優光の瞼は幾度と瞬きを繰り返す。
――……おやすみなさい。
優光は呟くように言って、夢の中に落ちていった。
これら全ての記憶は母親にとってはかけがえのない宝物のような思い出であり、叶えなければならない約束だった。だが幼すぎる記憶は、今の優光がどう頑張っても戻ってくることはなかった。
†
「ごめん……」
必死に記憶を手繰り寄せようとするも、失敗に終わってしまった我が子を見守っていた千夏は、微笑ましそうに声を上げて笑う。
「いいのよ別に」
千夏は海辺の砂を踏み、海へと足を進める。
優光もそれに続いた。
「ねぇ、この子に悪い。って、どういう意味なの?」
「この子の身体をかりているから」
「もっと、分かりやすく言ってみて」
優光は言葉を読み解くことが出来ず、理解できる言葉を求める。
「この子の魂は三ヵ月前、私と同じ場所に届いた。だけど身体はまだベッドの上で眠っていたの。本人が望めば助かる可能性のある命。どうして戻らないのかと聞いたらね、ひーくんがここにいないか調べてから戻るって」
「どういうこと?」
怪訝な顔で問うてくる優光に、千夏はこう続ける。
「人は天界へ旅立つとね、輪廻転生を繰り返して、新たな魂としてこの世に生れ落ちるの。そのためには、今まで持っていた名前は必要がないと奪われてしまう。新たな名を手にするためには必要なことなんですって。その子は私達の力になれるなら――と、快くかしてくれたわ。私の命日までね。二十四時〇〇分。それが私のタイムリミット。そして、その子が元の世界に帰る時間。分かってくれたかした?」
「そんなことって……」
優光は丁寧に説明する千夏の話を信じることも、現実を受け入れることも出来ないと、首を左右に振る。
「そんなことがあるのよ。世の中は不思議なことがたくさん。悲しいことが多い世界だけど、同じくらいの奇跡が溢れた世界。その世界で私達は産まれ落ちた。私は産まれたのも大きな奇跡。大人まで生きて、ひーくんのお父さんに出会って、恋をして、結婚をして、ひーくんが私の元にきてくれた。たくさんの大きな奇跡が紡がれて、今があるの。それを思うと、魔法のような奇跡がおこっても、不思議ではないでしょう?」
千夏はどこか優しく言い聞かせるように言って、同意を求めるように首を傾げて見せる。
「……そうかも、しれないね」
優光は素直に頷くことはできないが、過去の自分も含め、今まさに奇跡の力を体感しているのだと、現実を受け入れるように言う。
二三時五〇分――。
千夏は歩みを進め、海の中へ入っていく。
優光は千夏の後ろをついてゆく。
二人の服は急速に海水が含み、身体にまとわりつく。
千夏は胸下あたりまで海水がつかるところでピタリと歩みを止めた、
「どうしたの?」
千夏と向かい合うように立った優光は不安げに問う。
一度長い息を吐いた千夏は、「お迎えがくるのよ」と、ハッキリ伝えた。
「お迎え? もう、会えないの?」
穏やかだった優光の表情は一気に焦りと恐怖の色へと塗り潰される。
「そうね。でも、お空の上からずっと、ず~っと、ひーくんのことを見守っているから」
「嫌だ。やだやだやだやだッ! ずっと一緒にいたい。傍にいてくれなきゃやだ!」
赤ちゃん返りをする優光ががぶりをふる。
幼き頃に無理やり引きはがされた千夏がまた、自分の傍から消えてしまう。そのことが優光を深い闇へと落とす。
だがそれは千夏にも言えることだった。
(ひーくん……。私だって嫌よ。ずっと貴方の傍にいたいわ。だけど、それじゃダメなの。貴方はこの世界で生きていかなければいけないんだから。そして私はちゃんと成仏して、次に生を受ける人の一部となる。それが生と死がある世界で生きている者の、抗えないルールなのだもの。一つの魂を未来永劫自分モノにすることなど、出来ないのよ……)
千夏は自分がしっかりしなくてはいけないと、拳を握りしめ、意を決したように口を開く。
「駄目よ。魔法はね、ずっと続いてはくれないの。魔法の力で人は前に進み、強く生きるの。それができるように、神様は魔法をかけてくれるのよ。ときに気まぐれなのがたまに傷なんだけどね。
だからひーくんも強く生きてちょうだい。じゃないと私は、ずっとこの世界をさ迷うことになってしまうわ。私がちゃんとお空の上から、ひーくんを見守ってあげられるように、強く生きて? 私も、強くなるから。約束」
優光は差し出された小指に自分の小指をそっとからめる。
千夏の脳裏に、八年前の指切りげんまんがフラッシュバックする。
幼かった優光と交わした約束。
生前叶えられることが出来なかった約束。
だが今回の約束は、優光がこの世界で生きている限り続く約束だ。と同時に、優光が強く生きてゆけるためのお守りであり、魔法。
「ぼ、僕が強くなったら、お母さん、嬉しい?」
「えぇ。とても」
「……わ、分かった」
優光は左腕で涙を乱暴に拭い、鼻水をすする。
♪ゆーびきーりげんまん~♪
響き渡る指切りげんまんの歌声に、さざ波の音が絡みつく。
きっとこれは、愛しい我が子に母親が指切りげんまんでかけた、世界で一番優しい魔法の奇跡になるだろう――。
二三時五十八分――。
「じゃぁ、私いくわね。お父さんと仲良くしてね」
「……ぎゅって、ぎゅってしてくれたらいいよ」
「もぉ~。約束したばかりでしょ?」
優光の最後の甘えに呆れ口調で答えながらも、優しくそれに応える。
「これが、最後だから……」
「そうね……」
二人は音もなく涙を流す。
そんな二人の周りを囲む水面がゆるやかに年輪を作ってゆく。
優光は泣いていたらいけないと、親指で涙を拭った。
「ひーくん、愛しているわ。私の元に産まれて来てくれてありがとう。生きてくれてありがとう」
千夏は悲痛な声を押し殺すように伝える。
千夏は自分よりもずいぶんと身長が高くなった息子の肩口に、泣き顔を隠すかのように顔を埋めた。パーカー付きのホワイトTシャツが零れ落ちる涙によって、色が変化してゆく。
「お母さん、今までありがとう。お母さんは僕にとって、世界で一番大切な人だよ。本当にありがとう……」
沈痛な面持ちで瞳を潤ませる優光は、千夏を抱きしめる腕の力を強くする。
どこにも行ってほしくない。自分の元で生きて欲しい。そんな思いが自然と腕の力に変わるのだろう。だが、優光は我儘も無理も言わない。全てを受け止め、強く生きていくと決めたのだ。
年輪の中央にいる優光達を飲み込むように海水が下がってゆく。のを、二人はそれを静かに見つめ続けていた。
これは呪いだ。
息子が母にかけてしまった、世界で一番純粋な想いをした呪いだ。
これは魔法だ。
神様がいたずらな計らいでかけた、世界で一番切なくて優しい魔法――。
†
黄泉の国――。
「えぇ。生前叶えられなかった約束を全て叶え、伝えたいことをちゃんと伝えることが出来た今、思い残すことはないわ。貴方の器を借りてごめんなさい。本当にありがとう」
奏千花の身体を借りる優光の母が深々と頭を下げる。
「いいんです。二人が前を向けるようなきっかけの役に立てたのなら」
千花の魂はふんわりとした声音で言った。
「ありがとう」
涙が滲む千夏の声音が闇へ響く。
滲む涙を拭い、そっと口を開く。
「今、借りしき器、あるべき場所へ戻りしとき、一つの魂が永遠の眠りに……」
瞼を閉じた千夏が静かに唱える。それは、魂を入れかえる言の唄。
千夏の胸元から霧がかった強き光の塊が押し出される。その光は千夏の目の前にある光よりもずっと、弱くて儚い光。光を失った身体は、蝋人形のように闇の中へ崩れ落ちた。
強い光――否、魂はあるべき場所へと戻ってゆく。
蝋人形とかしていた藤崎千花の身体に、藤崎千花の魂という命が吹き込まれる。それを、吐き出された弱い光を放つ魂が静かに見守っていた。
「ゔっ……」
小さな呻き声をあげた千花の身体がふらふらと立ち上がる。
「ち、千花ちゃん。大丈夫?」
器を無くし儚き光となった優光の母の魂が、当惑したように千花の周りを浮遊する。
「はい。大丈夫です」
千花は少し掠れた声で答えると共に、儚き光となった母の魂に微笑みかけた。
「そう……? ならよかった。千花ちゃんも早く元の世界に戻らないといけないわね」
母の魂は安堵の溜息をつき、千花と見合うように顔の正面で止まる。
「はい。……心残りはありませんか? 言い残した言葉とか……」
千花は不安げに問うた。
「心残りがないと言えば嘘になるわね。やっぱり、あの子が心配だもの。今は大丈夫かもしれないけれど、また過去に囚われて生きるようになるかもしれない。そう思うと心配だわ。だから、もしよかったら、あの子のこと……よろしくお願いします」
母の魂から放たれる声音が涙で溺れる。
やはり何をしても、どんなことをしてでも、心配なものは心配なのだ。けして手放しで安心することなどできない。それが大切な人であればあるほどに。
「……。はい!」
千花は少しの間をおいて力強く頷く。その瞳には強い意志が放たれていた。
「ありがとう。……千花ちゃん。私、そろそろ行くわね。空からずっと、ずっと貴方達のことを見守っているわ。……さようなら」
母の魂は静かに音もなく闇の中へと溶けてゆく。それは、一つの命が永遠の眠りについたという証だ。
「私も戻らなきゃ」
千花は瞼を閉じ、呪文を唱える。
「我が器と魂、あるべき場所へ戻りしとき、闇が消え、光照らす」
呪文を唱え終えると、千花は闇の中で弾けるように消えた。
命が永遠の眠りについたわけではない。命の残り時間をあるべき場所で過ごすために消えたのだ。