八月三十一日。朝六時――。

♪ピロン、ピロン♪
 ベッドで眠りについていた優光を、連続した通知音が呼び起こす。
「なに、こんな、時間に……」
 優光は迷惑そうに眉間に皺を寄せる。
 それでもショートメールを無視することなく確認する辺りが、縮まった二人の距離を感じさせた。
『おはよう。早朝からごめんなさい。今日ね、海を見に行きたいの』 
『場所は、稲村ヶ崎。時間は十八時頃。アクセス方法は分かるかしら?』
「稲村城ヶ崎って確か……」
 ふと気がかりが脳裏に浮かぶ優光は、右手で文字を打っていく。
『稲村ヶ崎って、砂の流失が激しいってゆう理由で今は閉鎖されてるはずだけど?』
 メッセージを送信した優光はのそのそと起き上がり、身支度をはじめる。
『えぇ。海水浴場としてわね』
『鎌倉海浜公園稲村ヶ崎地区として設備されていて、絶景スポットとして有名なのよ。だから、安心して?』
 優光は届いた返信に納得し、『そうか。分かった。俺、今日用事があって……遅れたらごめん』と打ち込み、送信する。
♪ピロン、ピロン、ピロン♪
『分かったわ。きてくれるのなら何時でもかまわない』
『だけど、0時は回らないでちょうだい』
『それが私のタイムリミットだから……』
「よく、分からない」
 千夏の返信を訝し気にみた優光は首を傾げる。
 意味不明な返信に疑念を持つ優光だったが、あえて深くは突っ込まずに、『分かった』とだけ送りショートメールを終了させた。



 午後十四時八分。
 神奈川県鎌倉市堀越――。
「一年ぶりだな」
 砂利道を踏み鳴らしながら、優光は歩みを進める。
 右手には桶に突っ込んだ掃除道具一式。左手には買い物袋と小さな花束を抱えている。
 優光が訪れたのは、優光の大切な人が眠る霊園だった。
「きたよ……」
 優光はお墓の前で微笑む。
【二〇××年八月三十一日 永眠】
 今から八年前にここで眠りにつく、優光の大切な人。
 優光はその人を慈しみながら、お墓を丁寧に磨いてゆく。

 

 一八時十五分。
 神奈川県鎌倉市浜稲村ヶ崎。
 数キロ離れた霊園からやってきた優光は、「白石!」と千夏を呼ぶ。
「優光くん!」
 千夏は待ち人の登場に声を弾ませ、右手を振る。
 優光は千夏の元に駆け寄る。その両手には掃除道具や花束を抱えていない。一度家に帰ったのだろう。
「わりぃ。少し遅れた」
 優光は眉間を寄せて眉尻を避けながら謝る。
 額にはじんわりの汗が滲み、まつ毛にかかる前髪が額にはりついていた。
「全然大丈夫。きてくれてありがとう。ねぇねぇ、ココ座って」
「ぁ、うん」
 優光は千夏が座っていた大きな流木に腰掛け、ふぅ~。と、一息つく。
「もしかして、走ってきてくれた?」
 千夏は優光の額に前髪が張り付いていることと、少しだけ上下するスピードの速い肩に気づき、首を傾げる。
「普通」
「そっか。お水飲む? 氷入れてきたから冷たいはず」
 千夏はバックから水筒を取り出してそっと差し出す。
「……」
「ぁ、口付けてないし、毒も入ってないから安心して?」
 複雑そうな顔で口を噤む優光に慌てて言葉を付け加える。
「いや、そこは別に気にしてないし、毒持ってるとかは思ってねーけど。それ、白石のだろ? 俺自分で買ってくるし」
 そう言って立ち上がる優光を止めるように、千夏は優光の小指を控えめに握った。
「私、喉かわいてないから大丈夫。座ってて」
 千夏はどこか懇願するように言った。
「ぁ、うん」
 どこか懇願するような千夏の表情に少し戸惑う優光は、歯切れの悪い返事を返し、流木に座りなおす。
「どうぞ」
「どうも」
 今度は素直に水筒を受け取った優光は、いただきます。と言って冷たい水を飲む。
「うまっ」
 喉を鳴らして水を飲んだ優光は、生き返ったように口角をあげる。
「よかったよかった」
 千夏はそんな優光を見守り、嬉しそうに微笑む。
「ぁ、そういえばお夕飯は食べたのかしら?」
「そういえば食ってない」
 優光は言われて空腹を思い出したのか、左手で細身のお腹を押さえる。
「そうなの? じゃぁ、近くのお店で軽く食べましょう? まだ少しだけ付き合ってくれるかしら?」
「うん。別にいいけど。腹も空いてるし」
「じゃぁ行きましょ~」
 優光は千夏に道案内されるままついていく。
 今日の優光はどこか少し素直だった。
 千夏が優光を連れてきたのは、稲村ケ崎駅から徒歩十分程にあるカレーが名物のお店だった。
 木製のテーブルや机。大きな観葉植物がアジアン風テイストを感じさせるお店だ。
 夏休みの終りの夕食時なのもあり、店内は賑わっていた。
 予約呼び名票に白石の名前を記していた二人は三組待ったのち、店内の一番奥にある四人テーブル席に案内された。
 千夏はドライカレー。優光はポークカレーを注文して最後の食事を共にする。
「ライス少な目で頼んでたけど、足りそう?」
「そりゃ、白石がこの店は量が多いっていうからな。普通に足りた。元々大食漢じゃねーし」
「そうよね。知ってる。でも、昔よりは食べるようになってくれていて安心したわ」
「は?」
 意味不明なことを言う千夏を訝しげにみる。
 千夏は「こっちの話よ」と、軽く流す。
「白石は、その……少しは前向けそう?」
 優光は少し躊躇しながらも、気になっていたことを不安げに問うてみる。
「えぇ。あと一つ叶えたら」
「海を見る?」
 と首を傾げて見せる。
「それもだけど、優光くんに食べてもらいたいものがあるの」
「食べてもらいたいもの? 飯食ったばかりだからヘビーなのは厳しいけど……」
 優光は戦々恐々とばかりに眉根を下げる。
「ふふふ。大丈夫よ。ハンバーグや揚げ物やらではないから安心して?」
 千夏の言葉に優光は、そっか。と肩を撫で下ろす。
 元々大食漢ではない優光だが、もし唐揚げやハンバーグを差し出されたとしても完食しただろう。
 最初は嫌々付き合っていた優光だが、今となっては、千夏に前を向いて歩いて行って欲しいと願っているのだから。
「ここでは持ち込み禁止だから、さっきの場所に戻ってから……と思っているのだけど」
「分かった」
 優光は四分の一ほど残っていたソフトドリンクを飲み干し、伝票を手に席を立つ。千夏は慌てて後を追う。
 二人の間に、夏の終わりを告げる生ぬるい潮風が吹き抜けていった。


  †

  †

「ぁ、さっきの場所空いてるよ」
 千夏は先程二人が座っていた太くて長い流木を指差した。
「本当だ。チラホラと人もいるのにな」
「ラッキーだね。ここ座ってちょうだい」
 流木に腰掛けた千夏は、左隣をポンポンと叩く。
「はいはい」
 少し気だるそうに相槌を打つ優光は、促されるままに腰掛けた。太い流木は二人が腰掛けてもヒビすら入らない。
「食べてもらいたいものは、コレなんだけどね……」
 千夏は少し躊躇しながらも、白のココット皿と使い捨てスプーンを、持っていた紙袋から取り出した。
「なに?」
 首を傾げる優光にそっと差しだす。
 保冷剤を三つ入れていた保冷バックに入れていたため、まだ少しひんやりとしていた。
 差し出されたものを数秒見つめていた優光は、「……プリン?」と、独り言のように問う。その表情にはどこか戸惑いの色を感じさせた。
 ココットのお皿には、クリーム色の物体が平坦に注がれたまま固まっていた。所々気泡が出来ているあたり、手作り感が感じられる。
「そう。プリン。この前言っていたから。それに、約束していたから……」
 俯きながらそう伝える千夏の表情は、どこか儚く悲しげだった。
「別に、約束したつもりねーけど……」
「食べてみて?」
 千夏は優光の言葉を軽くスルーする。
 優光は大切な思い出がたくさん詰まったプリンを差し出され、なんとも複雑そうだ。
 優光は何年もの間、プリンを食べていなかった。大切な人を思い出し、大切な人に会いたくなるからだ。
 それをどこか分かっているような千夏はもう一度、食べてみて。と促す。その声はとても穏やかでありながら、どこか切羽つまっているような焦りを感じさせた。
「……あぁ」
 少し気が乗らない様子で頷く優光は、ココットにかかっているラップをはがす。
「いただきます」
 両手を合わせた優光は、プリンの表面にプラスチックのスプーンをそっと置き、ゆっくりと差し込んだ。
 少しかために仕上がっているプリンは弾力があり、スプーンが滑らかに入っていかない。その感じがまた、優光に懐かしさを感じさせた。
 優光は少し躊躇しながらも、プリンをのせたスプーンをゆっくりと口に運ぶ。
「……」
「ご、ごめんなさい。そんなにまずかった……かしら?」
 スプーンを口に銜えたままピクリとも動かない優光に不安になった千夏は、オドオドしながら問いかける。
 首を小さく振って否定する優光は、なにも言わず二口、三口とプリンを口に運び、時間をかけてプリンを間食した。
 千夏はその様子を静かに見守り続けた。
「うま……かった……」
 少し放心状態の優光は途切れ途切れに伝えながら、空になったココット皿を千夏に手渡す。
「よかった」
 ココット皿を受け取った千夏は嬉しそうに微笑み、安堵する。
「あの人の、あの人の味がした………」
 優光は懊悩するかのように、両手で頭を抱えた。
「うん」
 千夏はなにかを察したように、優しく深く相槌を打つ。
「ショッピングモールの回り方も、ミントアイスが好きなところも同じ。サッカーが好きな俺にあの人はいつも、サッカーボールにデコレーションされたおにぎりをつくってくれた。しょっぱい卵焼きが嫌いな俺には、父さんとは違う甘い卵焼きを作って、お弁当の中に入れてくれたんだ」
 優光は大切な人との思い出を消化しきれず、ポロポロと涙を溢す。
 千夏はなにも言わず、壊れ物を扱うかのようにそっと、優光の肩に手をまわした。
 優光は躊躇しながらも、肩に回された千夏の手に自分の手をそっと添えるように握った。
「ボードゲームはいつもオセロ。ワザとかどうか知らないけれど、半分こね。とでも言うように、左側の角を俺にとらせるのも一緒。絵本の種類も一緒。絵本には書いていない効果音まで勝手につけながら、楽しそうに絵本を読む読み方も一緒。いつも固めに仕上がるカラメルと手作りプリン。一緒だった。味も、香りも……」
「えぇ」
 思い出と共に幼子に戻り始める優光に、千夏がはじめて同意するような相槌を打つ。
「本当はさ、白石千夏って名前なんかじゃなくて、本当は鮫島……ッ!」
 千夏は優光の言葉を遮るように、人差し指をそっと優光の唇につける。まるで、その先は言ってはいけないのよ。とでもいうように。
「ねぇ、僕の、僕の名前の由来言ってみてよっ」
「貴方の名前は、鮫島優光くん。優しい光で、たくさんの人を照らしてあげられる人になってほしい。そう願いが込められた名前……。あだ名は、ひーくん」
 千夏の言葉にバラバラだったピースが埋まっていったのか、優光の瞳から止めどなく涙が溢れだす。
「本当に? 本物なの? どうして?」
 優光は千夏の両肩を掴んで何度も問いかける。
 焦りと不安と喜び――色々な感情が混ざり合う優光の心は乱される。もうクールな仮面などつけていられない。まるで、優光本来の姿へと戻っていくようだった。
「ひーくんが願ったから。あの日からずっと、お母さんに会いたいと願っていたから。そんな子をおいて旅立てないでしょ? だってひーくん、ずっとお空に行きたいって言うんだもの。そんな風にされたら、誰でも心配するでしょ? ちゃんと生きてくれなきゃ駄目じゃないッ」
 千夏は優光をそっと抱き寄せる。
 嗚咽を押し殺して涙を流し続ける優光は、千夏にしがみついた。まるで、もうどこにもいかないでと駄々をこねる子供のように。
「ひーくん、大きくなったね。私もう、ひーくんを抱っこしてあげられないわ」
「ぉ……おかあ……さん?」
 優光は震える声で、途切れ途切れに問いかける。
「かも、しれないわね」
 千夏は断言はしない。
 それでも優光は確信していた。目の前にいるのは千夏ではないことに。千夏ではあるかもしれないが、そこにいるのは、紛れもなく母であることを。
 そして思うのだ。
 これは弱い自分がかけてしまった、人の魂を成仏させずにこの世にとどめてしまう、純粋な呪いなのだと――。


 †


 ひとしきり泣いた優光達は顔をあげる。
「酷い顔ね」
「そっちもね。うさぎもビックリだよ」
 顔を見合わせた二人は小さな笑い声をあげる。
 その音はどこか切なく、どこか温かい。
「私、そろそろ行かなきゃ」
 千夏はそっと立ち上がる。
「待って!」
 優光は慌てて千夏の腕を両手でつかむ。
「僕を、置いて行かないで。僕も、一緒につ……!」
「駄目よ」
 千夏は強い口調で優光の言葉を制止させた。
「ひーくん、それは駄目よ。絶対にできないわ」
「どうして!?」
 駄々をこねる子供のように声をあげる優光は、置いて行かれないように勢いよく立ち上がった。
「ひーくんがこの世界で生きているからよ。生きていかなきゃいけないからよ」
 千夏は強い口調で伝えるが、その声は震えていた。
「でも、僕はッ」
 千夏は優光の唇に人差し指をそっとあて、その先の言葉を遮る。
「ひーくんは何歳になりましたか?」
「……一四歳」
 千夏の問いに躊躇しながら答える優光はどこか不服気だ。
「そう。八月三一日に私がいなくなって、もう八年の月日が立ちました。私、ずっとひーくんをお空から見ていたわ。毎日大泣きしている姿をみて、私も空から泣いていたのよ。ごめんね。って何度も謝っていたの。
 ずっと、ひーくんを抱きしめてあげたかった。約束していたプリンをつくってあげたかった。ひーくんとお話したいことも、行きたい場所も、まだまだたくさんあった。なにより、もっともっとひーくんと同じ時を過ごしていたかった。だけど、できなかった……。ごめんね。
 十歳を過ぎたあたりから、ひーくんは泣かなくなってしまった。まるで心を閉ざしてしまったように、人と深く関わろうとしなくなってしまった。喜怒哀楽も薄くなってしまって……。早熟させてしまって申し訳ないと思っているわ」
 千夏は滂沱しながら言葉を紡ぐ。
「だったら! だったら、もっとこの世界にいてよ。まだ一緒にいたい。もう行きたい所はないの? 話したいことは? 僕はあるよ?」
 優光は千夏の二の腕をがっしりと掴んで揺すった。
 泣き腫らした瞳からはまた涙が零れ始める。
「駄目よ。この子に悪いわ。それに、私はもう充分よ? ひーくんがお腹の中にいたとき、お父さんとあの水族館とカフェに行ったことがあるのよ。お腹の中にはひーくんもいたのよ。ひーくんが無事に産まれて大きくなったら、また家族で来ましょうね。って約束していたの。
四歳の頃に読んであげた絵本。そこにラクダに乗っている少年がでてきて、ひーくんはラクダに乗ってみたいって、ずっと言っていたわ。だけどラクダに乗るのにはまだ幼くて、もっと大きくなったときに行きましょうね。そう約束していたの。覚えてるかしら?」
 千夏は懐かしそうに目を細めながら話す。
 千夏――母の問いに優光は言葉をつまらせ、複雑そうな顔をした。高速で記憶の歯車を巻き戻そうとするも、幼すぎる記憶は戻ってはこない。
 その様子を見守っていた千夏は、微笑ましそうに声を上げて笑う。なんて穏やかで優しい音だろう。
「ごめん……」
「いいのよ。別に」
 千夏は砂を踏み、海へと足を進める。優光もそれに続いた。
「ねぇ、この子に悪い。ってどういう意味なの?」
 優光は先程の言葉が気になり問うてみる。
「この子の身体をかりているからよ」
「もっと分かりやすく言ってみて」
 千夏の言葉を読み解くことが出来ず、理解できる言葉を求める。
「この子の魂は三ヵ月前、私と同じ場所に届いた。だけど、身体はベッドの上で眠っていたの。本人が望めば助かる可能性のある命よ。どうして戻らないのかと聞いたらね、ひー君がここにいないか調べてから戻るって」
「どういうこと?」
 怪訝な顔で問うてくる息子に、千夏は話を続けた。
「その子はね、ひーくんに助けられたことがあるんですって。あらためてお礼が言いたくて、ずっとひーくんを探していたらしいの。名前は『(かなで)千花』ちゃん。千花(ちか)ちゃんの話を聞いて、ひーくんのことだと分かったわ。いけないと分かっていたけれど、天界の違反であることは知っていたけれど、その子の器を貸してもらったの。
人は天界へ旅立つとね、輪廻転生を繰り返して、新たな魂としてこの世に生れ落ちるの。その為には、今まで持っていた名前は必要がないと奪われてしまう。新たな名を手にするためには必要なことなんですって。
 千花ちゃんは恩返しになるのなら――と、快くかしてくれたわ。私の命日までね。二十四時〇〇分。それが私のタイムリミット。そして、その子が元の世界に帰る時間。分かってくれたかした?」
 丁寧に説明する母の話を素直に信じることができない。
「そんなことって……」
 現実を受け入れらないと、首を左右に振る。
「そんなことがあるのよ。世の中は不思議なことがたくさん。悲しいことが多い世界だけど、同じくらいの奇跡が溢れた世界。その世界で私達は生まれ落ちた。私が生まれたのも大きな奇跡。大人まで生きて、ひーくんのお父さんに出会って、恋をして、結婚をして、ひーくんが私の元にきてくれた。たくさんの大きな奇跡が紡がれて、今があるの。それを思うと、魔法のような奇跡がおこっても、不思議ではないでしょう?」
 千夏はどこか優しく言い聞かせるように言って首を傾げて見せる。
「……そうかも、しれないね」
 優光は素直に頷くことはできないが、過去の自分も含め、今まさに奇跡の力を体感しているのだと、現実を受け入れるように言う。




 二三時五〇分――。

 千夏は歩みを進め、海の中へ入っていく。
 優光は千夏の後ろをついてゆく。
 二人の服は急速に海水が含み、身体にまとわりつく。
 胸下あたりまで海水がつかるところで、千夏はピタリと歩みを止める。
「どうしたの?」
 向かい合うように千夏の前に立った優光は不安気に問うた。
「お迎えがくるのよ」
 長い息を一つ吐いた千夏は、優光の目を見てハッキリと伝えた。
「お迎え? もう、会えないの?」
 穏やかだった優光の表情は一気に、焦りと恐怖の色へと塗りつぶされる。
「そうね。でも、お空の上からずっと、ず~っと……ひーくんのことを見守っているから」
「嫌だ。やだやだやだやだッ! ずっと一緒にいたい。傍にいてくれなきゃやだ!」
 赤ちゃん返りをする優光ががぶりを振った。
 幼き頃に無理やり引き離された千夏がまた、自分の傍から消えてしまう。そのことが優光を深い闇へと落とす。
「駄目よ。魔法はね、ずっと続いてはくれないの。魔法の力で人は前に進み、強く生きるの。それができるように、神様は魔法をかけてくれるのよ。ときに気まぐれなのが、たまに傷なんだけどね。だから、ひーくんも強く生きてちょうだい。じゃないと私は、ずっとこの世界をさ迷うことになってしまうわ。私がちゃんとお空の上から、ひーくんを見守ってあげられるように、強く生きて? 私も、強くなるから。約束」
 優光は差し出された小指に自分の小指をそっとからめた。
「ぼ、僕が強くなったら、お母さん、嬉しい?」
 歔欷しながら問うてくる息子に千夏は、「えぇ。とても」と、口元を綻ばせる。だがその瞳には、寂しさと悲しさが住み着いていた。
「わ、分かった」
 優光は左腕で涙を乱暴に拭い、鼻水をすすった。その様子を見ていた千夏は肩を竦める。口角は上がっているが、目の端にはまた涙が浮かんでいた。それでも、涙を流すことを我慢していた。
 強くなって欲しいと願うのに、自分が先に弱くなってはいけないと思ったのだろう。
 二三時五十八分――。
「じゃぁ、私いくわね。お父さんと仲良くしてね」
「……ぎゅって、ぎゅってしてくれたらいいよ」
「もぉ~。約束したばかりでしょ?」
 千夏は息子の最後の甘えに対し、少し呆れ口調になりながらも、優しくそれに答えた。
「これが、最後だから……」
「そうね……」
 二人は音もなく涙を流す。
 そんな二人の周りを囲む水面が、ゆるやかに年輪を作ってゆく。
 優光は泣いていたらいけないと、親指で涙を拭った。
「ひーくん、愛しているわ。私の元にきてくれてありがとう。生きてくれてありがとう」
 千夏は悲痛な声を押し殺すように伝える。
 自分よりも随分と身長が高くなった息子の肩口に、泣き顔を隠すかのように顔を埋めた。パーカー付きのホワイトTシャツが零れ落ちる涙によって、色が変化していく。
「お母さん、今までありがとう。お母さんは僕にとって、世界で一番大切な人だよ。 本当にありがとう……」
 沈痛な面持ちで瞳を潤ませる優光は、千夏を抱きしめる腕の力を強くした。
 どこにも行ってほしくない。自分の元で生きて欲しい。そんな思いが自然と腕の力に変わるのだろう。だが優光は我儘も無理も言わなかった。全てを受け止め、強く生きていくと決めたのだ。
 年輪の中央にいる優光達を飲み込むように、海水が下がってゆく。二人はそれを静かに見つめ続けていた。




 これは呪いだ。
 息子が母にかけてしまった、世界で一番純粋な想いをした呪いだ。


 これは魔法だ。
 神様がいたずらな計らいでかけた、世界で一番切なくて優しい魔法なのだ――。