文字を書く音だけが響いていた部屋に、ピロン、と言う通知音が大きく響く。
「あいつか」
優光はベッドに寝転ぶスマホを確認もせず、千夏からの連絡だと決めつける。
♪ピロン! ピロン! ピロン! ピロン! ピロン!♪
「多ッ!」
繰り返される通知音に集中力が切れたのか、シルバーのシャープペンシルを勉強机に投げ捨てるように置き、大股でベッドに向かう。
「何個送ってくんだよ」
文句を垂れながらスマホを起動させ、ショートメールを開ける。
『優光君こんばんは。今日は色々とありがとう。早速、メッセージ送ってみたわ。届いてるかしら?』
『優光君の気が変わらないうちに、私がしたいことを送らせてもらうわね』
『手を差し伸べるかどうかは、それで判断してちょうだい』
『アクアパーク品川水族館。ラクダに乗る。本を読み聞かせる。海を見る。手料理食べて欲しい』
『って感じなんだけど……どうでしょう?』
連弾で送られてきたショートメールに目を通した優光は、「本を読み聞かせるって、どういう状況?」と、複雑そうに顔を歪める。
『こんばんは。メッセ見た。二つほど可笑しなもんあるけど、お前に付き合うよ』
手短にメッセージを送り、スマホを持ったまま勉強机に戻る。
♪ピロン♪
「はえッ!」
電源を落とした瞬間に通知音が響き、優光は目を見開く。
『本当に? 男に二言は……』
優光は千夏のメッセージに、ない。とだけ送り返す。
スマホからシャープペンシルに変え、宿題の続きに取り掛かる。どうあっても今日中に五ページ目を終わらせるつもりのようだ。
学生の夏休みは長いようで短い。
宿題で地獄を見ていたクラスメイトの二の舞にはなりたくないのだろう。
♪ピロン、ピロン、ピロン!♪
優光が一問といた頃、短いメロディーが五畳の洋室に響く。
「はいはい」
優光はメールを確認する。どうやら放置はやめたらしい。
『やった! 嬉しい。ありがとう』
『絵本の読み聞かせは、鳥取旅行とセットなの。その旅行でラクダに乗るのよ』
『ちなみに一泊二日。旅行費は全部私持ちだから、そこは安心してちょうだい』
「と、鳥取旅行だ~⁉」
嘆くように叫びながら勢いよく立ち上がる。
その勢いでコマ付き椅子が優光から、少し遠ざかってしまった。
『一泊二日の鳥取旅行なんて聞いてないぞ。先に言えよ!』
♪ピロン♪
『男に二言はない! のよね? 前言撤回はカッコ悪いわよ?』
焦る優光とは対照的に、どこかほくそ笑むような千夏のメッセージが届く。
どうやら千夏の方が一枚上手(うわて)だったようだ。
「ぁ、あいつ……マジで性格を疑う」
優光は口元をひくつかせる。
『お前、やり方が汚ねーぞ!』
優光は悪態をつきながらメッセージを送る。もう宿題などそっちのけである。
♪ピロン♪
『汚いのは致し方ないわ。一応、悪いと思ってるわよ。だけど、どうしても叶えたいのよ』
♪ピロン!♪
優光が返信を打ち込んでいるあいだに、もう一通ショートメールが届く。
『私には時間がないのよ。一週間だけ付き合って? なんなら、宿題手伝うから』
「宿題の手伝いと割に合わない気がするのは気のせいか?」
ボヤく優光は文字を打ち込み、送信する。
『いや、いらねーし。宿題くらい自分で出来るし』
『だいたい、そっちの親は許してんのかよ?』
♪ピロン♪
『両親にはOKを貰ってるから大丈夫V! 気にしてくれてるの? 優光君は優しいのぉ』
テンション高めな千夏のメッセージに、優光の戦闘気力を奪われてゆく。
「大丈夫V! っていくつだよ? 今時聞いたことないわ」
お手上げだ。とばかりに一つ息を吐く優光は、観念したようにメッセージを送る。
不毛な争いも話もしない主義だ。これ以上続けても時間も無駄だと感じたのだろう。
『そうか。分かった。不毛な話はもうやめよう。時間の無駄だ』
『で、なにから制覇していくわけ?』
『スケジュール全部教えて。お前に合わせるから』
そう話題を変えた優光は、仕事疲れしたおじさんのごとく盛大な溜息をつき、引き寄せた椅子にどかりと座る。
♪ピロン♪
『まずは八月五日に、アクアパーク品川水族館! 朝からね』
♪ピロン♪
『八月二十二日から一泊二日の鳥取旅行』
『と言っても、二十一日の夜行バスで出発するから、実質、二泊三日なの。大丈夫?』
『あぁ』
と愛想のない返信を送り、スマホを机に置いた。
B6サイズのシンプルな紺色のスケジュール手帳を引き出しから取り出した優光は、八月のページを開ける。
そのページには、三十一日だけに〇記号が記入されていた。
『よかった。宿泊先は既に予約済み。野宿の心配はなしよ♪ そこでラクダね』
千夏の鼻歌でも聞こえてきそうな程ご機嫌なメッセージ。
優光は眉根を上げながら首を竦める。まるで海外ドラマ俳優のような仕草は、洋画好きの父の影響だろう。
「はいはい。二泊三日ですね。仰せのままに」
と、書き込みやすいと愛用している極細黒色ボールペンで予定を書き込んだ。
その文字や文字の配列バランスなどの綺麗さから、繊細で几帳面な一面が伺える。
そもそも、今時の学生が手帳に予定を書き込むことすら珍しい。
スマホは活用しているものの、レスポンスや打ち込みスピードは遅い。
そこには多少なりとも、人との関わり合いの少なさが影響しているのかもしれない。
精神年齢だけでなく、日常生活のそこかしこでも、どこか若者らしさにかける優光であった。
♪ピロン♪
『宿で本を読み聞かせね。なんの絵本がいい?』
「だから、なぜ絵本? マジで意味不明」
怪訝な顔で首を傾げる。
どんなに画面を見たところで千夏に問わなければ、その答えが返ってくることはない。
『はいはい。なんでもいい。じゃぁ、また八月五日に。現地集合でいいよな?』
優光は早々にショートメールを切り上げようとする。
♪ピロン、ピロン!♪
『現地集合、致し方ない。それでよいです』
『じゃぁ、その日ね。絶対来てね! 一人で見るのやだからね!』
絶対に来るよう念を押してくる千夏に、はいはい。とだけメッセージを送り、スマホの電源を落とす。
全く乗り気じゃない優光は少しの倦怠感を抱えながら、残りの問題に取り掛かったのだった――。
†
八月五日。
ファミリー層やカップル。友達同士などの来場者で賑わう水族館出入り口前。
肩がしっかりと隠れる袖に襟のついたシルエット。細い縦の線でデザインされたストライプのシャツワンピースに身を包む千夏は、不安げに視線をさ迷わせていた。
待ち合わせの十時から五分ほど過ぎたあたりで、千夏の待ち人が現れる。
「優光くーん!」
安堵した笑顔と共に、両手を上げて左右に振る。まるで小さい子供のようだ。
千夏の動きに合わせ、水色ワンピースの裾が楽し気に踊る。
軽く手を上げて反応しながら、マイペースな足取りで千夏の元に向かう。
「ちゃんときてくれてありがと~」
優光の登場に安堵する千夏は、感動を表すように胸の前で手を握り合わせる。
「拝むな。一応、約束したからな。守るよ」
優光は冷静に突っ込みを入れ、やや不服さを滲ませながら言った。
「そっかそっか。約束を守れる人は素敵だよ。じゃぁ、行きましょー!」
勢いよく右拳を突き上げる。
「探検でもしにいくのかよ」
優光の入れた小さなツッコミは周りのざわめきにかき消され、千夏の耳には届かなかった。
「すっごい人」
もとより人混みが苦手な優光は、発券機を並ぶ所ですでに肩を落とす。
「夏休みだもの。仕方がないわ。ねぇ、どこから行く?」
そんな優光をよそに楽し気な千夏は、キョロキョロと視線を動かしていた。
「どこからって、普通は入場ゲートから順に行くもんだろ?」
「そうよね。水族館だもの。これがショッピングモールやデパートとかだったら、最上階から回れるんだけど……」
千夏は人差し指を顎に当てながら話す。頭の中ではショッピングモールを歩いているのだろう。
「なんで最上階から?」
「その方が効率がいいじゃない。最上階から順にお買い物をして、最後にスーパーで食材買って帰れるでしょ?」
「……主婦みたいなことを言うんだな」
小さく首を傾げて同意を求めてくる千夏に目を丸くさせる。
「ぇ? ぁ、うん。いい奥さんになれそうでしょ?」
優光の言葉に少し動揺の色を見せる千夏だが、すぐに笑顔で対応する。
「それだけじゃ分からねーよ」
「それもそうね。ぁ! 順番きたよ」
二人は発券機でチケットを買い、入場ゲートをくぐってゆくのだった。
鮮やかに光り輝く魚群達と水槽に投射された映像が来場客を出迎えるエントラス。
「わぁ~。なんだか前きたときと全然違う! 前までは、こんな光と音に包まれてなかったもの」
千夏は歓声を上げる。
まるで見知らぬ土地に降り立ったかのように、上半身ごとキョロキョロと視線をさ迷わせる。
「二〇一五年の夏にグランドオープンしたらしいからな」
そう冷静に答える。
優光は同年代の子供達より早熟してしまったためか、どこか冷めている気があった。
「え? 何で知ってるの? もしかしてもしかして、今日が楽しみで調べちゃったとか?」
両拳を口元に当てて茶化すように問う。
「んっなわけあるか! パンフレットに書いてるだろーが」
優光はすかさず威嚇する犬のように言葉のツッコミを入れる。
千夏は持っていたパンフレットに目を通し、本当だ! と声を上げた。
「ったく。お前の想像で勝手に決めんなよな」
「チェッ。つまらないの~」
千夏は幼子のように口を尖らかせる。かと思えば、なにかを思い出したのか、あ! と声を上げた。
「んっだよ。さっきから騒がしい」
ビクリと両肩を震わせた優光は、うっとおしそうに眉根を寄せる。
「お前って呼ぶの止めてくれる? 私には千夏って名前がちゃんとあるのよ。失礼しちゃうわね~。もう忘れちゃったのかしら? ……可哀そうに。もう老化現象が始まってしまってるのね」
千夏は泣き真似をしながら、人差し指で涙を拭う振りをする。
「勝手に人をボケさすんじゃねーよ。お前の方が失礼だからな!」
優光は瞬時に突っ込みをいれて否定する。言葉のお返しまで込めて。
普段感情を露わにしない優光にとって、ここまで一つ一つの言葉を拾うことすら珍しいことだった。
「お前って言わないで。って言ってるじゃない。もう忘れてるの?」
優光は千夏の言葉に対し、面倒臭さと苛立ちを抑えるように後ろ髪を掻く。
「はいはい。分かりましたよ、白石さん」
と、にんまり笑う。どうあっても、千夏。とは言いたくないらしい。
「はい?」
「お前の苗字だろ? 家に送ったとき表札が見えたんだよ。なんか不満か? “お前”って言わなきゃいいんだろ?」
優光はどこか勝ち誇ったように口恥を上げる。
「そ、それはそうだけど……なんだか、ズルいわ」
「ズルかないだろ」
どこか恨めし気に自分を見てくる千夏に対し、優光は即答する。
今回は優光のほうが一枚上手だったようだ。
「ま、まぁ白石でいいわ。お前より全然マシだもの」
千夏は小さく頷き、自分を渋々納得させた。
「あの~……少し邪魔なのですが」
四人組女子グループの一人が苛立ちを現しながら、入場ゲート付近で小競り合いする二人に言った。
「え? ぁ、すみません」
千夏は慌てて入場ゲート付近から距離を取る。優光は軽く頭を下げ、千夏の元に大股で駆けよった。
二人の間に刹那の沈黙が流れる。
「ったく。さっさと行くぞ。また来客者の邪魔になる」
優光は入場ゲートから左に曲がる。
「ぁ、待ってー」
千夏は大股で先を行く優光の後を慌てて追いかける。
少しの坂を下っていると、右手に大きな海賊船をイメージさせるようなアトラクション遊具が二人の視界に飛び込んできた。
「乗りたい?」
「別に」
優光はさも興味なさげに答える。
そもそも水族館自体が乗り気ではないのだから、ここではっちゃけるわけがないのだ。
「じゃぁ行こう。ここで具合悪くなったら困るもんね。行こ行こ~」
「……」
千夏の解釈はどこか少しずれている。と思う優光であったが、あえてなにも言わずに歩みを進める。
二人がアトラクションをスルーして歩みを進めていると、上下白を基調とした外壁の中にサンドされた水槽が現れた。
少しづつ斜めに配置された水槽は、一つ一つ違ったカラーで照らされていた。その中では、泳ぐ小さな魚達が二人を和ませる。
さらに歩みを進めると、また違った世界が二人を出迎えた。
まるで月光が照らされた深海に迷い込んだかのように錯覚させられる。
青を基調とした光に包まれた不思議な世界。プロジェクションマッピングが海の生き物達の美しさを際立たせ、デジタルアートと融合させた世界は圧巻だ。
「すげぇ……」
優光は小さく声をあげる。
大規模の水族館に足を踏み入れたことがない優光にとって、全てが新鮮で興味深く映っているのだろう。
密やかに圧倒されている優光を盗み見る千夏は、柔らかく口元綻ばせた。
「ぁ! あれ乗ろう⁉」
千夏は優光の背中をバシバシ叩く。その叩き方は、もはやおばさんである。
「ぇ、あ、なに? つーか痛いんだけど」
光と魚のミュージアムに圧巻されていた優光は、千夏の声と背中の痛みで我に返る。
「あれよあれ!」
優光は興奮気味の千夏が指さすほうに視線をやった瞬間、げんなりした顔で肩を落とす。
円状の柵で囲われた中。鉄棒を魂柱のように身体に突き通すイルカやタツノオトシゴやラッコなど、六種類の海の生き物達がくるくると踊るパーティを繰り広げている。
生き物達は一二mの壁のLEDの光で美しくライトアップされた中で、楽し気な音楽に包まれたメルヘンな世界。
「メ、メリーゴーラウンド?」
優光はげっそりだ! とばかりに肩を落とす。
「えぇ」
千夏は嬉しそうに大きく頷いてみせる。とことん対照的な二人である。
「あんな乙女なの乗りたくねーよ。一人で行ってこい。俺は魚を見ている」
優光は、犬や虫でも払いのけるかのように、しっし! とでもするように、手の平を前後に動かす。
「そんなの許すわけないじゃない。大体、なにが悲しくて一人で乗らなきゃいけないのよ! ほら~、行こうッ」
千夏は優光の腕を両手で巻きつかせるように掴み、メリーゴーラウンドに向って走り出す。もはや優光に拒否権などない。
「ほら! これに乗ってちょうだい」
千夏は半ば無理やり優光をイルカの背に跨らせた。
「私はタツノオトシゴ~。って、なんかこれ馬ぽいね」
千夏は楽しそうに笑いながら、優光の左隣にいた海の生き物に座る。
「やっぱ降りる!」
付き合いきれないとばかりに、優光はイルカの背から下りようと左足をあげる。
「あぁ~駄目よ! もう動くし危ないわ」
千夏は左手をめーいっぱい優光に伸ばして止めにはいる。が、優光の身体に触れるまでにはいたらない。
「おま……んっん!」
お前と言いかけた優光は咳ばらいを一つ。
「危ないのはそっちの座り方のほうだろ? なんで椅子に座るみたいに足揃えて座ってんだよ。つーか、手を伸ばすな。危ない」
「ワンピースで跨るわけにはいかないでしょ?」
千夏はワンピースを少し広げ、当たり前でしょ? とばかりに首を傾げる。
「またパンツ事情かよ。お前のパンツに誰も興味ねーよ」
「パンツパンツ言わないでよ」
千夏は頬を赤らめながら、小声で叫ぶ。
「自分もパンツパンツ言ってんじゃんッ」
二人が小競り合いをしていると、出発を知らせる高い音が一つ響く。楽し気な音楽と共に、メリーゴーラウンドがゆっくりと回り出す。
「ほら、楽しいね」
「楽しかねーよ! 白石のせいで降りそこねただろ」
「なにがそんなに不満なのよ?」
千夏は不服気な優光に問う。
「いい年した男がメルヘン無理」
優光は溜息を吐きながら、首を左右に振る。
「いい年した。って言ってもまだ中学生じゃない。だから、そんなに照れなくてもいいのよ?」
千夏はポシェットからスマホを取り出して、耳を赤く色づかせる優光の姿をカメラに収める。
「んっなもん、撮んじゃねーよ」
優光は千夏のスマホを取り上げようと手を伸ばす。
「そこの二人組。水色ストライプワンピースの女の子と、ジーンズに白のロックTシャツの二人―。危ないのでちゃんと持ち手に捕まってて下さーい。海の生き物が暴れても振り落とされないようにしっかりと」
小競り合いする二人に対し、係員から注意のアナウンスが響く。
他の乗客や次の乗客達が二人を見て、微笑ましそうにクスクスと笑う。
恥ずかしさで委縮する二人の顔が桜色に染まる。
その後、二人は大人しく海の生き物と散歩するのであった。
「ったく」
メリーゴーラウンドが停止した瞬間、優光は逃げるようにその場を離れる。
「ぁ、待ってよ! 置いて行かないでよ」
千夏は慌てて追いかける。
「まぁまぁ、そんなカリカリしないで? 楽しかったからいいじゃない」
千夏はご機嫌斜めな優光を宥めるように言う。
「楽しかったのは白石だけだろ。おかげで恥かいたわ」
優光はガルルルと、牙をむく。
「変な汗かいた。暑い」
Tシャツの襟元を人差し指で引っかけるように掴み、上下に動かして風を送る。エアコンで冷えた空気が優光の身体に涼を届ける。
「ぁ! あそこでジュースでも買おうぜ」
優光の案に同意する千夏は早めの休息を取り、2Fも楽しむのだった。
†
「お腹空いたね」
「もう十二時半だしな」
優光は腕時計で時間を確認しながら冷静に答える。
「けっこういたんだね」
水族館から出てきた二人は歩幅を合わせて歩く。水族館パワーによって、二人の距離が少しは縮まったように思える。
「なにか食べて帰ろう。どこ行く?」
「どこ行っても人がいっぱいそうだけど、空腹には負けるし」
優光はスマホで水族館付近にある食事処を検索する。
「なにかいい所ありそう?」
千夏は背伸びをして、優光のスマホ画面をのぞき込もうと試みる。
「このへん手軽な店がねーんだよなぁ」
優光はGOマップで周辺地図を調べる。
地図はよく利用するのか、手の動きがなんともスムーズな運びだ。
「ここから一五分ほど歩いたところにあるカフェはどう? ファミリー向けだけど、オシャレなところよ」
「どこにあるんだ? 行ったことあんの?」
千夏の出した案に乗り気の優光は、場所を確認する。
「大崎駅から徒歩五分程の所にあるお店よ。一度行ったことあるから、道案内は任せてちょうだい! そこね、休日メニューのハッシュドビーフオムライスが凄く美味しかったのよ。ぁ、お値段も七百円くらい。お手軽でしょ?」
千夏はどこか得意げに言いながら、掌を胸にあてる。
「そうだな。まぁ、迷子になってもスマホがあるしな。取り合えず白石についてくよ。お昼時だし急いでもいっぱいだろ」
「信用ないな~」
まったく~。とでも言いたげに両肩を落とす千夏に、優光は「まぁーな」と笑う。
その後。
ファミリー層や若者で賑わうカフェで遅めの昼食をすました二人は、品川駅前でそれぞれの帰路についた。
†
♪ピロン、ピロン♪
夜の八時三十分頃、自室にいた優光のスマホが通知音を響かせる。
少年漫画を読んでいた手を止めた優光は、勉強机の左上に置いていたスマホを手に取り、早々に確認する。
『優光くん。こんばんは』
『今日は一日付き合ってくれて、ありがとう。すっごく楽しかった』
それはなにより。と打ち込んだところで、優光の手が止まる。
視線を左斜め上に向け、物思いにふける。
ほんの少しの時間なにかを考えていた優光は、小さな息を吐くと共に頷く。
『それはなにより。俺も……楽しかった。色々見れて』
珍しく素直なメッセージが送信されてすぐ、返信が届く。
『嬉しい! メリーゴーラウンドも楽しかったわね⁉』
「げ!」
『それはない! やっぱ言わなきゃよかった』
千夏を調子に乗らせてしまったと、優光は慌てて返信する。
続けて、『次は、鳥取旅行だっけ?』と打ち込み送信。
♪ピロン。ピロン♪
『うん。一泊二日って言ったけど、実質二泊三日になっちゃうのよねぇ』
『夜行バス使ったほうがお安いから。それでも大丈夫?』
「あいつって、基本重要なことは後から言ってくるよな」
とボヤキながらメッセージを打ち込む。
『別に。その週は予定ないからいい。何時に何処集合?』
♪ピロン、ピロン、ピロン♪
『やったぁ~。ありがとう。時間は二十一時三十分』
『場所は東京駅鍜治橋駐車場から出発なの』
『その時間に間に合うように来てくれると嬉しい♪』
簡潔的な優光のメッセージに対して届くのはご機嫌な返信。
『了解。じゃぁまたその日に』
優光は次の予定の確認を終えると、早々にショートメールを切り上げたのであった。
†
八月二十一日。二十一時二十分。
東京駅鍜治橋駐車場。
明るいビタミンカラーのロゴTシャツ。白のフレア素材が涼し気なガウチョパンツに黒のスニーカーを着こなす千夏は、落ち着かない様子で優光を待っていた。
その手には、二泊三日に必要なものがぎゅうぎゅうに詰め込まれているであろう、大き目のボストンバックをお行儀よく両手で持っている。
千夏から遅れること五分程――。
サラリーマンが出張にでも使いそうな無地の紺色が大人ぽいボストンバックを抱え、ゆるい黒のラフパンツと白のフード付き半袖姿をした優光は、どこか気だるげに現れる。
「ぁ! 優光くーん」
優光の姿に気がついた千夏は左手を頭上で左右に振った。千夏が動くたび、ガウチョパンツの裾がひらひらと踊る。
「優光くん。こっちだよー」
千夏は嬉しそうに優光を呼ぶ。
「はいはい。ちゃんと来ましたよ。信用ねーなぁ」
気だるげに小さな溜息を吐く優光のテンションは低い。
「し、信用してないわけじゃないけど?」
「なんでそこ疑問形なんだよ」
優光は拗ねたような口調で、すぐさま突っ込みを入れる。
「ふふふ」
千夏が声を出して笑っているあいだに出発時刻となり、二人もバスへと乗り込んだ。
「どっち座る?」
指定の座席前で優光が問う。
自然なレディーファースト対応に、千夏は一瞬目を丸くする。
「……聞こえてる?」
「ぁ、ごめんね。聞こえてる。ちゃんと。私、通路側がいい」
優光の声で我に返った千夏は、慌てて答える。
「了解」
千夏の意見をくむ優光は、さっさと窓際の席に腰を下ろした。
千夏は「ありがとう」と言って、通路側の席に腰を下ろす。
二人を乗せたバスは横浜駅YCAT―海老名。と走り、秦野BSを走行する頃、二人は浅い眠りについた。
†
八月二十二日。九時三十分。
鳥取駅南口でバスは静かに停車した。
三十分程前に目を覚ましていた千夏は、何事もなく目的地についたことにホッと肩を撫で下ろした。
「優光くん。ついたわ。起きてちょうだい」
黒色のアイマスクをして、本格的な眠りについていた優光の左肩を優しく揺らす。
「ん、あぁ~」
少し声の枯れた唸り声をあげた優光はアイマスクを取ると、陽の眩しさに目を細める。
「朝だ……すげぇ。ついてる」
寝起きの優光はまだ頭が回っていないのか、少し幼さを感じさせた。
「そう、もう朝よ。トータル十二時間程の移動お疲れ様。降りましょう?」
先に立ち上がった千夏は、息子を優しく起こすような口調で答え、優光が出られる通路を開ける。その間に、他の乗客達が次々に下りてゆく。
「うん」
眠い目をこする優光は素直に頷き、覚束ない足取りで千夏の後ろをついていく。
「眠い?」
「少し」
ふぁ~っと大きな欠伸をする優光に肩を竦める千夏は、どこか嬉しそうである。
バスを下り、足取り軽くコンクリートでできた歩道を歩く千夏。
「これからどうするの?」
優光は眠たい目を幼子の様に握りこぶしで擦りながら、足取り重く千夏の後ろについて歩く。
「朝食にしましょうか?」
千夏は肩越しに振り向き、穏やかな笑顔で言う。
「朝ごはん……。どこ行くの?」
とまらない欠伸を噛み殺した優光は、いつもより少し幼い口調で問う。
「鳥取鉄道記念物公園よ。お弁当作ってきたから、自販機でお茶を買って朝食にしましょう。その後はバスの出発時刻まで時間を潰す予定。その公園の近くには図書館もあるみたいだし、暇すぎて倒れることはないと思うわ」
千夏の説明に「分かった」と頷く優光は、また一つ欠伸をする。
鳥取駅裏玄関から約三百メートル程石畳の川沿い。
歩道を歩む二人は赤色の橋を渡る。その先に、鳥取鉄道記念公園が現れる。
鉄道関連の記念物はサビている物が多く、時代を感じさせた。だが、しっかりと駅長が存在しているようだ。
公園内に作られたお手洗いにて軽く顔を洗った二人は、緑が多い清々しい空気を吸う。
「目、覚めた」
前髪を水滴で濡らした優光が短い言葉で言う。もはや独り言だ。
「それはよかった。顔拭く? 髪とか」
千夏はうさぎが刺繍されたタオルハンカチを手渡そうとする。
「もう乾いたからいい。前髪もすぐ乾く。夏だし」
優光はなんとも可愛気なく断る。
千夏は元に戻ってしまった優光に少し寂しそうに肩を竦める。
「そう? じゃぁ~、お茶でも買って駅舎で食べましょうか」
「あぁ」
目が覚めた優光の相槌は、見事に幼さを失ってしまった。
自販機で買ったペットボトルのお茶を手に、二人は駅舎に腰掛けた。
その二人の正面で三毛猫がにゃぁ~と鳴き、軽やかな足取りで去っていく。
「可愛らしい駅長さんだね」
「あれは、駅長と言っていいのか?」
楽しそうに笑う千夏に対し、優光は複雑そうに首を傾げる。
「ベンチとかあったらよかったんだけどね~。ちょっと調べミス。ごめんね?」
千夏は顔の前で両手を合わせ、しょんぼりと眉根を下げた。
「俺は別にいい。白石が平気なら」
優光は珍しく千夏に寄り添うような言葉をかける。
ホーム下に落ちた千夏がトラウマになっていないか、恐怖を感じないか、優光なりに気にかけているのだろう。
それに感づいた千夏は、ありがとう。と優しい口調で言って、嬉しそうに微笑んだ。
「別に」
優光はどこか照れを隠すかのように、そっけなく答えて、千夏から視線を外す。
「これ、優光くんのね」
千夏は可愛らしいクマがデザインされた手提げ紙袋から、使い捨て容器につめられた愛情いっぱいの弁当を手渡す。
「ぁ、ありがとう」
どこか不器用ながらも素直にお礼を言って、首だけでペコリと会釈をする優光は、両手でお弁当を受け取った。
「どういたしまして」
穏やかな笑みを浮かべた千夏は座ったまま会釈をする。
千夏が手渡した弁当には、タコさんウインナーやハート型の卵焼き。特製ソースがついたハンバーグ。星型フライドポテト。アスパラ。オクラ。を豚肉で巻いて照り焼きにしたもの。彩りに茹でたブロッコリー。デザートには、キューブ状の大学芋がついている、なんとも子供が好きそうなおかず達がつめられていた。
千夏は綺麗に重ねた両手を顎にそっとあてる。
優光も手を合わせる。
「「いただきます」」
と、二人の声がそろう。それが可笑しかったのか、二人は少し顔を見合して笑う。なんとも微笑ましい光景である。
少しずつではあるが、二人を包む空気は、温かいものへと変化していた。
「サッカー……ボール?」
割りばしで器用に持ち上げたのは、五角形にカットされた海苔をサッカーボールにみたて、可愛くデコレーションされたおにぎりだった。
「そうっ。サッカーボール! 分かってくれた?」
割りばしで卵焼きを摘まみかける手を止めた千夏は、勢いよく優光のほうに上半身ごと振り向く。その勢いで低めのポニーテールに結っていた綺麗な黒髪が鞭のように動く。
千夏は良いことをして母親に褒めて欲しそうな幼子のごとく、期待の眼差しで優光を見つめた。
「……」
優光は何も反応を示さない。
千夏と目を合わせることもなく、どこか切なくも懐かしそうな眼差しで、おにぎりを見つめ続ける。
「ど、どうしたの? もしかして手作りおにぎり食べられない?」
千夏の表情は一転、焦りと不安の色に染まる。
いつかの情報番組で、今の時代、家族に握ってもらったおにぎりも食べられない子が多い。という話を思い出したのだろう。
「ぁ、いや食べられる。ちょっと思い出しただけ」
すぐに返答した優光はおにぎりを一旦元の場所に戻し、チラリと千夏を流し見る。
「それはよかった。……思い出したって?」
「昔のこと。ずっと昔……」
安堵する千夏の問いかけに対し、優光はそれ以上を答えない。
悄然するように声が儚い。
失い方は違うかもしれないが、優光も千夏と同じように大切な人を失っていた。
ふとした時に思い出せば、寂しさが顔を出すのだろう。
「そっかぁ」
千夏は深くは聞かず小さく相槌を打ち、この話に幕を下ろした。
器用にサッカーボールおにぎりをお箸で掴んだ優光は、そっと口に運ぶ。
口に合ったのか、優光の口角が自然と上がった。
それを見つめていた千夏は胸を撫で下ろし、微笑みながら頷いた。
「卵焼き……甘い」
優光は一口サイズの卵焼きを一つ食べ、少し驚いたかのように小さく呟く。
「お砂糖を入れてるからね。嫌いだった?」
不安げに問う千夏に優光は首を左右に振って否定する。嫌いなんかじゃない。優光にとって甘い卵焼きは思い出の味で、大好きな味なのだから。
「そっか。よかったよかった」
と笑顔で大きく頷く。
ぱくりと卵焼きを頬張る千夏は本日もご機嫌である。
「白石の大切な人ってさ、鉄道とか好きだった?」
優光が初めて千夏のことについて問う。猫とネズミの時代では考えられないことだ。
「うん。昔ね、大好きだった。今はどうかなぁ? 好きだといいけど……」
最初は笑顔で答える千夏であったが、最後はどこか物思いにふけていた。
「そうだな」
優光は千夏に少し寄り添うように頷く。
少しの寂しさが滲みながらも穏やかな朝食を終えた二人は、バスの出発時間までのんびりと時間を潰したのだった。
†
一四時三十五分に出発する砂丘線のバスに揺られた二人は、十五時五分に『らくだや』に到着する。若いからこそできるスケジュールである。
「ラクダいたー!」
千夏は砂丘を歩く四匹のラクダ見つけて指差す。
砂丘の砂がスニーカーにかかることや、砂が舞うことを気にもとめず、ライド体験できる場所へと走る。まだまだ元気があり余っている様子だ。
「暑い」
優光はそうぼやきフードを深くかぶる。
基本学校とおつかい以外で外に出ないため、日差しと暑さが堪えてきたのだろう。
こちらは体力と気力の限界が近そうだ。
「砂丘で走るとか無理」
汗で額にはりつく長めにカットされた前髪を、なんとも鬱陶しそうに手で払いのける。
優光はマイペースさを崩すことなく、とぼとぼと歩く。
足を進めるたび、砂丘の砂が控えめに紺色のスニーカーにかかっていった。
「すっごい迫力ね」
初めて見る本物のラクダに圧倒されていた千夏から遅れること一~二分。
「マジでこれ乗れんの?」
優光はラクダを見て早々、疑念の念を抱く。
「乗れるよ! 私、ちゃんと調べてきたもん」
千夏は自信満々に答える。
「ぁ! すみませーん」
手の空いた係員を見つけた千夏は、片手を上げて話しかける。
「どうされましたか?」
千夏に気がついた人当たりがよさそうな若い男性スタッフが、笑顔で二人に駆け寄ってくる。
「この場所って、ラクダに乗ってお散歩体験できますよね?」
千夏は不安げに問う。ここまで来て出来ませんと言われたら、千夏は確実に泣き崩れるだろう。
「はい。できますよ。大人二名での騎乗はできませんので、そこはご了承いただけたら……と思います」
男性スタッフは暑さにも負けない笑顔で答える。千夏はホッと肩を撫で下ろす。
「よかったぁ~。ほらほら~、だから言ったじゃない」
千夏は後ろにいた優光にドヤ顔をする。それを見た優光は、「なんかムカつく顔」と悪態を垂れる。
「えっと、じゃぁ……ライド体験を二人。お願いできますか? 優光くんも乗るでしょ?」
ご機嫌な千夏は優光の言葉を軽く受け流し、サクサクと話を進める。
「ぁ、うん……」
と、楽しそうな千夏の笑顔に圧倒されたかのように、大人しく頷く。が、優光の表情は複雑気だ。
「はい。ライド体験の方はこちらへ」
二人は二匹のラクダがお行儀よく座っている場所へと、案内させられる。
スタッフにご機嫌についていく千夏と項垂れてついていく優光。やはり対照的な二人である。
「でけぇ」
優光は思わず声を上げる。
二人をライド体験コーナーに案内したスタッフは足を止め、身体全体で二人の方に振り向く。
「ライド体験していただくときには、いくつかの注意点があります。ラクダさんの正面と後ろには立たないで下さい。ラクダさんを撫でるさいは、身体を優しく撫でてあげて下さい。ゆっくりラクダさんに跨ったあとは、けして暴れたり泣き喚いたりしないで下さい。ラクダさんが驚いて暴れる可能性があります。また――」
スタッフは流れるような口調で説明をする。
二人は少し恐怖を覚えながらも、ライド体験でラクダに乗らなければ見られない景色や、知りえないことを体感して、思う存分と楽しむのだった。
†
一七時〇八分――。
「楽しかったね~」
本日の宿である格安ゲストハウス。
和室の個室部屋。
二人は隣同士に寝ころび、疲れを癒していた。
「これからどうすんの?」
「この宿素泊まりなの。外でお夕飯食べた後、岩美町内にある温泉に入ってから、宿に戻ってこようと思っているけど……お風呂先がいい?」
「いや、後でいい。風呂入って汗かくの嫌だし」
「そうよね。ぁ、このへんねコンビニもスーパーも近くにあるから、お菓子もアイスも買い放題だよ」
楽しそうな千夏に対し、優光は瞼が重そうである。普段からアクティブに動かない優光にとって、今日はハードスケジュールであったのだろう。
「少しお昼寝してからご飯にする?」
「ん~……」
間延びした返事をする優光は、ほどなくして穏やかな寝息を立てる。
「優光くん? 寝ちゃったの?」
千夏は身体を起こし、優光の様子を確認しにいく。
優光はほんの少し口をあけ、スースーと寝息を立てながら気持ちよさそうに眠っていた。
「眠ってるときだけは、ちっちゃい子みたいで可愛いんだけどなぁ」
眉根を下げる千夏はバックからグレーのパーカーを取り出し、優光のお腹にそっとかける。
クーラーで冷やしている部屋だ、少しなにかを羽織っておいたほうが良いだろう。
千夏は優光から少し離れた場所で身体を横たわらせ、ふぅーと息を吐きながら全身の力を抜く。お疲れモードは千夏も同じだ。
「ちゃんと起きれるようにしとかなきゃ」
淡いピンク色の手帳ケースに収納しているスマホの電源を入れる。
重い瞼を無理やり開けながらアラームをかけ終えると、千夏も身体を休めるように浅い眠りにつくのであった。
†
「なに買うの?」
「アイス」
「私も買おう。ミントアイス」
ゲストハウス近くのお食事処で食事を終え、岩美町内にある温泉でゆっくりした二人は、優光の意向によってコンビニに立ち寄っていた。
「ふ~ん」
千夏が手に取るアイスに全く興味を示さない優光に、「どうせ、歯磨き粉の味じゃん。とでも思ってるんでしょ?」と、恨めし気に言う。
「ご名答。まぁ、味覚は人それぞれですから」
「どうせ優光くんは、棒状のソーダーアイスでしょ?」
「正解。なんで分かんの? なんか嫌なんだけど」
優光は怪訝な顔で千夏を見る。
「私は優光くんのことならな~んでも、お見通しなのよ」
千夏は、ふっふっふ。と得意げに控えめな胸をはる。
「相変わらず気持ちが悪いな」
と悪態をつく優光は一人レジに向かう。千夏は置いてけぼりである。
「ミントアイスね。そういえば、あの人も好きだったな……ミントアイス」
優光が懐かし気に呟いた小さな音は、誰の耳にも届くことはなかった。
「ねぇねぇ、オセロしよー。私ね、持ってきたんだぁ」
千夏は声を弾ませながら、バックから小さいサイズに設計されたボードゲームを自慢するように掲げてみせる。
「用意周到なことで」
優光はさして興味なさげに流しみると、買ってきたアイスのパッケージを開ける。
「そりゃ旅ですから」
声を弾ませる千夏は畳に小さなボードゲームを広げ、いそいそと遊ぶ準備をはじめた。
「アイス食う?」
「もちろん」
「ん」
小さな相槌を打つ優光はカップアイスと木のスプーンを千夏に渡す。
「ゴミはここに」
とコンビニの袋も渡す。すでに袋の中には、ソーダーアイスのパッケージ袋が捨てられていた。
「ありがとう。優光くんも座って?」
「ふぁいふぁい」
ソーダーアイスを銜えたまま少し面倒臭そうに返事する優光は、胡坐を掻いて座る。
「優光くんからね」
千夏はカップアイスと木のスプーンの封を開け、ゴミを袋に捨てる。
かくしてアイスを食べながらのオセロ勝負が幕を開けたのだった。
一時間後――。
「また負けた……」
千夏はあり得ないという風に項垂れる。
勝負は三勝三敗。全て千夏が負けている。
「弱すぎ。これで終わりな。もう眠い」
苦笑いを浮かべる優光は欠伸を噛み殺す。
「そうね。お布団敷きましょうか」
千夏はボードゲームを片付け、絵本を取り出す。
「ねぇねぇ、ぐ〇とぐ〇でいい?」
千夏は絵本を嬉しそうに優光に見せる。
「なんでもいいから自分の布団くらい、自分で敷いてくれ」
興味なさげに答える優光は、千夏のぶんの布団セットを部屋の隅にどさりと置く。自分の布団は出入口付近に置いていた。
「そうでしたそうでした」
千夏は一旦絵本をバックの上に置いて、布団をセットする。
「なんか遠くないかしら? 端っこと端っこって……寂しくないの?」
「寂しくない。少しは危機感持てば? 別に興味ねーけどさ」
優光は呆れたように溜息を吐く。
「俺はもう疲れたから寝る。電気は好きにして」
千夏は早々に布団へ潜る優光に対し、「もうちょっと待ってちょうだい」と、慌てて絵本を手に駆け寄る。
「いやいや、寝るのを待てってどういうことよ? 絵本の読み聞かせだって、子供を寝かしつけるためだろ? 普通に寝むれるし。むしろ、普通に寝かせてくれ」
「まぁまぁ、そう言わないの」
千夏は優光を宥めつつ、優光の顔の近くで腰を下ろす。太ももの上で本を立て、優光の目に入りやすいように絵本を開く。
「絵本、始まるよ~」
「はいはい」
優光は欠伸を噛み殺し、千夏の方へ横たわる。
「ぐ〇とぐ〇――」
千夏はゆっくりと優しい口調で絵本を読む。
優光は眠い目を何度も擦りながら、最後まで千夏に付き合ってあげるのだった。
「……おしまい」
「おしまい?」
千夏の言葉に優光はオウム返しをする。
「そう。おしまい。今日一日付き合ってくれて、本当にありがとう」
と、優しく微笑みながら絵本を閉じる。
「別に。約束したし。ラクダ楽しかったし。弁当も美味しくて、懐かしかった……」
夢の中へと落ちてしまいそうな優光は、普段より舌足らずな口調で気持ちを素直に表現する。
「それはよかった」
千夏はホッと肩を撫で下ろす。
「あとは、海だけ……だな」
「そうね。優光くんはなにかやり残したことはないの? 私みたいに。私になにかできることはない?」
「俺は、あの人のプリンが食べたい」
「プリン?」
「そう。プリン。あの人が、来週の日曜日に作ってくれる。って約束してくれたプリン。売っているものよりも少し硬いけど、とっても美味しい。それ、食べたい。もう一度だけで、いい。でも、白石には……絶対に無理だ。味も、香りも……。あの人と……違う、から――」
優光は望みを吐露しながら重い瞼を閉じ、浅い夢の海へと落ちていく。
「ひーくん。ごめんね……。ずっと一緒にいてあげられなくて」
千夏は慈悲深き微笑みと共に一筋の涙を溢す。
瞼にかかる優光の前髪をそっと払い、優光の布団を肩までかける。
「おやすみ。愛してるわ」
夢と現実の狭間にいる優光には聞えぬ程小さな声で胸中を吐露した千夏は、絵本をバックにしまって布団にもぐる。
「なんで、お前が、ひーくんって呼ぶ……んだよ……」
布団にもぐる千夏の背中を寝ぼけ眼で見ていた優光は苦しそうにボヤキ、深い夢の海へと落ちていった……。
翌日。
「おはよう。朝よ。起きてちょうだい」
着替えなど身支度を全て終えていた千夏は、優光を優しく起こす。
「ん、起きてる」
優光は嘘が丸わかりの返事と共に欠伸をしながら、モゾモゾと起き上がる。
千夏はそれを、しょうがないわね。というふうに見守った。
「今日は、どうするの?」
「今日はお土産を少し買って帰宅。一時間でも早く帰ってくるように言われているから」
「なるほど」
納得したように頷く優光は、大きな欠伸を繰り返す。
千夏同様に身支度を終えた優光と共に、鳥取を後にした。
午後一五時。
東京駅鍜治橋駐車場――。
「じゃぁ、ここで。本当に送らなくて平気か?」
少しだけ疲れの残り香を感じさせる顔をした優光は、バッグを抱えなおして言った。
「うん。ありがとう。大丈夫。またね。気をつけて帰ってね」
千夏は笑顔で答え、胸の前で手を振った。
「ん。じゃぁ……またメールして」
優光は千夏に背を向けて歩き出す。
千夏はその背中が見えなくなるまで見守り続けていた。その表情には先程あった笑顔の面影はどこにもなく、どこか切なさを感じさせていた。
「ひーくん……」
儚げに呼んだ音は夏の生温い風に飲み込まれてゆく。
「あいつか」
優光はベッドに寝転ぶスマホを確認もせず、千夏からの連絡だと決めつける。
♪ピロン! ピロン! ピロン! ピロン! ピロン!♪
「多ッ!」
繰り返される通知音に集中力が切れたのか、シルバーのシャープペンシルを勉強机に投げ捨てるように置き、大股でベッドに向かう。
「何個送ってくんだよ」
文句を垂れながらスマホを起動させ、ショートメールを開ける。
『優光君こんばんは。今日は色々とありがとう。早速、メッセージ送ってみたわ。届いてるかしら?』
『優光君の気が変わらないうちに、私がしたいことを送らせてもらうわね』
『手を差し伸べるかどうかは、それで判断してちょうだい』
『アクアパーク品川水族館。ラクダに乗る。本を読み聞かせる。海を見る。手料理食べて欲しい』
『って感じなんだけど……どうでしょう?』
連弾で送られてきたショートメールに目を通した優光は、「本を読み聞かせるって、どういう状況?」と、複雑そうに顔を歪める。
『こんばんは。メッセ見た。二つほど可笑しなもんあるけど、お前に付き合うよ』
手短にメッセージを送り、スマホを持ったまま勉強机に戻る。
♪ピロン♪
「はえッ!」
電源を落とした瞬間に通知音が響き、優光は目を見開く。
『本当に? 男に二言は……』
優光は千夏のメッセージに、ない。とだけ送り返す。
スマホからシャープペンシルに変え、宿題の続きに取り掛かる。どうあっても今日中に五ページ目を終わらせるつもりのようだ。
学生の夏休みは長いようで短い。
宿題で地獄を見ていたクラスメイトの二の舞にはなりたくないのだろう。
♪ピロン、ピロン、ピロン!♪
優光が一問といた頃、短いメロディーが五畳の洋室に響く。
「はいはい」
優光はメールを確認する。どうやら放置はやめたらしい。
『やった! 嬉しい。ありがとう』
『絵本の読み聞かせは、鳥取旅行とセットなの。その旅行でラクダに乗るのよ』
『ちなみに一泊二日。旅行費は全部私持ちだから、そこは安心してちょうだい』
「と、鳥取旅行だ~⁉」
嘆くように叫びながら勢いよく立ち上がる。
その勢いでコマ付き椅子が優光から、少し遠ざかってしまった。
『一泊二日の鳥取旅行なんて聞いてないぞ。先に言えよ!』
♪ピロン♪
『男に二言はない! のよね? 前言撤回はカッコ悪いわよ?』
焦る優光とは対照的に、どこかほくそ笑むような千夏のメッセージが届く。
どうやら千夏の方が一枚上手(うわて)だったようだ。
「ぁ、あいつ……マジで性格を疑う」
優光は口元をひくつかせる。
『お前、やり方が汚ねーぞ!』
優光は悪態をつきながらメッセージを送る。もう宿題などそっちのけである。
♪ピロン♪
『汚いのは致し方ないわ。一応、悪いと思ってるわよ。だけど、どうしても叶えたいのよ』
♪ピロン!♪
優光が返信を打ち込んでいるあいだに、もう一通ショートメールが届く。
『私には時間がないのよ。一週間だけ付き合って? なんなら、宿題手伝うから』
「宿題の手伝いと割に合わない気がするのは気のせいか?」
ボヤく優光は文字を打ち込み、送信する。
『いや、いらねーし。宿題くらい自分で出来るし』
『だいたい、そっちの親は許してんのかよ?』
♪ピロン♪
『両親にはOKを貰ってるから大丈夫V! 気にしてくれてるの? 優光君は優しいのぉ』
テンション高めな千夏のメッセージに、優光の戦闘気力を奪われてゆく。
「大丈夫V! っていくつだよ? 今時聞いたことないわ」
お手上げだ。とばかりに一つ息を吐く優光は、観念したようにメッセージを送る。
不毛な争いも話もしない主義だ。これ以上続けても時間も無駄だと感じたのだろう。
『そうか。分かった。不毛な話はもうやめよう。時間の無駄だ』
『で、なにから制覇していくわけ?』
『スケジュール全部教えて。お前に合わせるから』
そう話題を変えた優光は、仕事疲れしたおじさんのごとく盛大な溜息をつき、引き寄せた椅子にどかりと座る。
♪ピロン♪
『まずは八月五日に、アクアパーク品川水族館! 朝からね』
♪ピロン♪
『八月二十二日から一泊二日の鳥取旅行』
『と言っても、二十一日の夜行バスで出発するから、実質、二泊三日なの。大丈夫?』
『あぁ』
と愛想のない返信を送り、スマホを机に置いた。
B6サイズのシンプルな紺色のスケジュール手帳を引き出しから取り出した優光は、八月のページを開ける。
そのページには、三十一日だけに〇記号が記入されていた。
『よかった。宿泊先は既に予約済み。野宿の心配はなしよ♪ そこでラクダね』
千夏の鼻歌でも聞こえてきそうな程ご機嫌なメッセージ。
優光は眉根を上げながら首を竦める。まるで海外ドラマ俳優のような仕草は、洋画好きの父の影響だろう。
「はいはい。二泊三日ですね。仰せのままに」
と、書き込みやすいと愛用している極細黒色ボールペンで予定を書き込んだ。
その文字や文字の配列バランスなどの綺麗さから、繊細で几帳面な一面が伺える。
そもそも、今時の学生が手帳に予定を書き込むことすら珍しい。
スマホは活用しているものの、レスポンスや打ち込みスピードは遅い。
そこには多少なりとも、人との関わり合いの少なさが影響しているのかもしれない。
精神年齢だけでなく、日常生活のそこかしこでも、どこか若者らしさにかける優光であった。
♪ピロン♪
『宿で本を読み聞かせね。なんの絵本がいい?』
「だから、なぜ絵本? マジで意味不明」
怪訝な顔で首を傾げる。
どんなに画面を見たところで千夏に問わなければ、その答えが返ってくることはない。
『はいはい。なんでもいい。じゃぁ、また八月五日に。現地集合でいいよな?』
優光は早々にショートメールを切り上げようとする。
♪ピロン、ピロン!♪
『現地集合、致し方ない。それでよいです』
『じゃぁ、その日ね。絶対来てね! 一人で見るのやだからね!』
絶対に来るよう念を押してくる千夏に、はいはい。とだけメッセージを送り、スマホの電源を落とす。
全く乗り気じゃない優光は少しの倦怠感を抱えながら、残りの問題に取り掛かったのだった――。
†
八月五日。
ファミリー層やカップル。友達同士などの来場者で賑わう水族館出入り口前。
肩がしっかりと隠れる袖に襟のついたシルエット。細い縦の線でデザインされたストライプのシャツワンピースに身を包む千夏は、不安げに視線をさ迷わせていた。
待ち合わせの十時から五分ほど過ぎたあたりで、千夏の待ち人が現れる。
「優光くーん!」
安堵した笑顔と共に、両手を上げて左右に振る。まるで小さい子供のようだ。
千夏の動きに合わせ、水色ワンピースの裾が楽し気に踊る。
軽く手を上げて反応しながら、マイペースな足取りで千夏の元に向かう。
「ちゃんときてくれてありがと~」
優光の登場に安堵する千夏は、感動を表すように胸の前で手を握り合わせる。
「拝むな。一応、約束したからな。守るよ」
優光は冷静に突っ込みを入れ、やや不服さを滲ませながら言った。
「そっかそっか。約束を守れる人は素敵だよ。じゃぁ、行きましょー!」
勢いよく右拳を突き上げる。
「探検でもしにいくのかよ」
優光の入れた小さなツッコミは周りのざわめきにかき消され、千夏の耳には届かなかった。
「すっごい人」
もとより人混みが苦手な優光は、発券機を並ぶ所ですでに肩を落とす。
「夏休みだもの。仕方がないわ。ねぇ、どこから行く?」
そんな優光をよそに楽し気な千夏は、キョロキョロと視線を動かしていた。
「どこからって、普通は入場ゲートから順に行くもんだろ?」
「そうよね。水族館だもの。これがショッピングモールやデパートとかだったら、最上階から回れるんだけど……」
千夏は人差し指を顎に当てながら話す。頭の中ではショッピングモールを歩いているのだろう。
「なんで最上階から?」
「その方が効率がいいじゃない。最上階から順にお買い物をして、最後にスーパーで食材買って帰れるでしょ?」
「……主婦みたいなことを言うんだな」
小さく首を傾げて同意を求めてくる千夏に目を丸くさせる。
「ぇ? ぁ、うん。いい奥さんになれそうでしょ?」
優光の言葉に少し動揺の色を見せる千夏だが、すぐに笑顔で対応する。
「それだけじゃ分からねーよ」
「それもそうね。ぁ! 順番きたよ」
二人は発券機でチケットを買い、入場ゲートをくぐってゆくのだった。
鮮やかに光り輝く魚群達と水槽に投射された映像が来場客を出迎えるエントラス。
「わぁ~。なんだか前きたときと全然違う! 前までは、こんな光と音に包まれてなかったもの」
千夏は歓声を上げる。
まるで見知らぬ土地に降り立ったかのように、上半身ごとキョロキョロと視線をさ迷わせる。
「二〇一五年の夏にグランドオープンしたらしいからな」
そう冷静に答える。
優光は同年代の子供達より早熟してしまったためか、どこか冷めている気があった。
「え? 何で知ってるの? もしかしてもしかして、今日が楽しみで調べちゃったとか?」
両拳を口元に当てて茶化すように問う。
「んっなわけあるか! パンフレットに書いてるだろーが」
優光はすかさず威嚇する犬のように言葉のツッコミを入れる。
千夏は持っていたパンフレットに目を通し、本当だ! と声を上げた。
「ったく。お前の想像で勝手に決めんなよな」
「チェッ。つまらないの~」
千夏は幼子のように口を尖らかせる。かと思えば、なにかを思い出したのか、あ! と声を上げた。
「んっだよ。さっきから騒がしい」
ビクリと両肩を震わせた優光は、うっとおしそうに眉根を寄せる。
「お前って呼ぶの止めてくれる? 私には千夏って名前がちゃんとあるのよ。失礼しちゃうわね~。もう忘れちゃったのかしら? ……可哀そうに。もう老化現象が始まってしまってるのね」
千夏は泣き真似をしながら、人差し指で涙を拭う振りをする。
「勝手に人をボケさすんじゃねーよ。お前の方が失礼だからな!」
優光は瞬時に突っ込みをいれて否定する。言葉のお返しまで込めて。
普段感情を露わにしない優光にとって、ここまで一つ一つの言葉を拾うことすら珍しいことだった。
「お前って言わないで。って言ってるじゃない。もう忘れてるの?」
優光は千夏の言葉に対し、面倒臭さと苛立ちを抑えるように後ろ髪を掻く。
「はいはい。分かりましたよ、白石さん」
と、にんまり笑う。どうあっても、千夏。とは言いたくないらしい。
「はい?」
「お前の苗字だろ? 家に送ったとき表札が見えたんだよ。なんか不満か? “お前”って言わなきゃいいんだろ?」
優光はどこか勝ち誇ったように口恥を上げる。
「そ、それはそうだけど……なんだか、ズルいわ」
「ズルかないだろ」
どこか恨めし気に自分を見てくる千夏に対し、優光は即答する。
今回は優光のほうが一枚上手だったようだ。
「ま、まぁ白石でいいわ。お前より全然マシだもの」
千夏は小さく頷き、自分を渋々納得させた。
「あの~……少し邪魔なのですが」
四人組女子グループの一人が苛立ちを現しながら、入場ゲート付近で小競り合いする二人に言った。
「え? ぁ、すみません」
千夏は慌てて入場ゲート付近から距離を取る。優光は軽く頭を下げ、千夏の元に大股で駆けよった。
二人の間に刹那の沈黙が流れる。
「ったく。さっさと行くぞ。また来客者の邪魔になる」
優光は入場ゲートから左に曲がる。
「ぁ、待ってー」
千夏は大股で先を行く優光の後を慌てて追いかける。
少しの坂を下っていると、右手に大きな海賊船をイメージさせるようなアトラクション遊具が二人の視界に飛び込んできた。
「乗りたい?」
「別に」
優光はさも興味なさげに答える。
そもそも水族館自体が乗り気ではないのだから、ここではっちゃけるわけがないのだ。
「じゃぁ行こう。ここで具合悪くなったら困るもんね。行こ行こ~」
「……」
千夏の解釈はどこか少しずれている。と思う優光であったが、あえてなにも言わずに歩みを進める。
二人がアトラクションをスルーして歩みを進めていると、上下白を基調とした外壁の中にサンドされた水槽が現れた。
少しづつ斜めに配置された水槽は、一つ一つ違ったカラーで照らされていた。その中では、泳ぐ小さな魚達が二人を和ませる。
さらに歩みを進めると、また違った世界が二人を出迎えた。
まるで月光が照らされた深海に迷い込んだかのように錯覚させられる。
青を基調とした光に包まれた不思議な世界。プロジェクションマッピングが海の生き物達の美しさを際立たせ、デジタルアートと融合させた世界は圧巻だ。
「すげぇ……」
優光は小さく声をあげる。
大規模の水族館に足を踏み入れたことがない優光にとって、全てが新鮮で興味深く映っているのだろう。
密やかに圧倒されている優光を盗み見る千夏は、柔らかく口元綻ばせた。
「ぁ! あれ乗ろう⁉」
千夏は優光の背中をバシバシ叩く。その叩き方は、もはやおばさんである。
「ぇ、あ、なに? つーか痛いんだけど」
光と魚のミュージアムに圧巻されていた優光は、千夏の声と背中の痛みで我に返る。
「あれよあれ!」
優光は興奮気味の千夏が指さすほうに視線をやった瞬間、げんなりした顔で肩を落とす。
円状の柵で囲われた中。鉄棒を魂柱のように身体に突き通すイルカやタツノオトシゴやラッコなど、六種類の海の生き物達がくるくると踊るパーティを繰り広げている。
生き物達は一二mの壁のLEDの光で美しくライトアップされた中で、楽し気な音楽に包まれたメルヘンな世界。
「メ、メリーゴーラウンド?」
優光はげっそりだ! とばかりに肩を落とす。
「えぇ」
千夏は嬉しそうに大きく頷いてみせる。とことん対照的な二人である。
「あんな乙女なの乗りたくねーよ。一人で行ってこい。俺は魚を見ている」
優光は、犬や虫でも払いのけるかのように、しっし! とでもするように、手の平を前後に動かす。
「そんなの許すわけないじゃない。大体、なにが悲しくて一人で乗らなきゃいけないのよ! ほら~、行こうッ」
千夏は優光の腕を両手で巻きつかせるように掴み、メリーゴーラウンドに向って走り出す。もはや優光に拒否権などない。
「ほら! これに乗ってちょうだい」
千夏は半ば無理やり優光をイルカの背に跨らせた。
「私はタツノオトシゴ~。って、なんかこれ馬ぽいね」
千夏は楽しそうに笑いながら、優光の左隣にいた海の生き物に座る。
「やっぱ降りる!」
付き合いきれないとばかりに、優光はイルカの背から下りようと左足をあげる。
「あぁ~駄目よ! もう動くし危ないわ」
千夏は左手をめーいっぱい優光に伸ばして止めにはいる。が、優光の身体に触れるまでにはいたらない。
「おま……んっん!」
お前と言いかけた優光は咳ばらいを一つ。
「危ないのはそっちの座り方のほうだろ? なんで椅子に座るみたいに足揃えて座ってんだよ。つーか、手を伸ばすな。危ない」
「ワンピースで跨るわけにはいかないでしょ?」
千夏はワンピースを少し広げ、当たり前でしょ? とばかりに首を傾げる。
「またパンツ事情かよ。お前のパンツに誰も興味ねーよ」
「パンツパンツ言わないでよ」
千夏は頬を赤らめながら、小声で叫ぶ。
「自分もパンツパンツ言ってんじゃんッ」
二人が小競り合いをしていると、出発を知らせる高い音が一つ響く。楽し気な音楽と共に、メリーゴーラウンドがゆっくりと回り出す。
「ほら、楽しいね」
「楽しかねーよ! 白石のせいで降りそこねただろ」
「なにがそんなに不満なのよ?」
千夏は不服気な優光に問う。
「いい年した男がメルヘン無理」
優光は溜息を吐きながら、首を左右に振る。
「いい年した。って言ってもまだ中学生じゃない。だから、そんなに照れなくてもいいのよ?」
千夏はポシェットからスマホを取り出して、耳を赤く色づかせる優光の姿をカメラに収める。
「んっなもん、撮んじゃねーよ」
優光は千夏のスマホを取り上げようと手を伸ばす。
「そこの二人組。水色ストライプワンピースの女の子と、ジーンズに白のロックTシャツの二人―。危ないのでちゃんと持ち手に捕まってて下さーい。海の生き物が暴れても振り落とされないようにしっかりと」
小競り合いする二人に対し、係員から注意のアナウンスが響く。
他の乗客や次の乗客達が二人を見て、微笑ましそうにクスクスと笑う。
恥ずかしさで委縮する二人の顔が桜色に染まる。
その後、二人は大人しく海の生き物と散歩するのであった。
「ったく」
メリーゴーラウンドが停止した瞬間、優光は逃げるようにその場を離れる。
「ぁ、待ってよ! 置いて行かないでよ」
千夏は慌てて追いかける。
「まぁまぁ、そんなカリカリしないで? 楽しかったからいいじゃない」
千夏はご機嫌斜めな優光を宥めるように言う。
「楽しかったのは白石だけだろ。おかげで恥かいたわ」
優光はガルルルと、牙をむく。
「変な汗かいた。暑い」
Tシャツの襟元を人差し指で引っかけるように掴み、上下に動かして風を送る。エアコンで冷えた空気が優光の身体に涼を届ける。
「ぁ! あそこでジュースでも買おうぜ」
優光の案に同意する千夏は早めの休息を取り、2Fも楽しむのだった。
†
「お腹空いたね」
「もう十二時半だしな」
優光は腕時計で時間を確認しながら冷静に答える。
「けっこういたんだね」
水族館から出てきた二人は歩幅を合わせて歩く。水族館パワーによって、二人の距離が少しは縮まったように思える。
「なにか食べて帰ろう。どこ行く?」
「どこ行っても人がいっぱいそうだけど、空腹には負けるし」
優光はスマホで水族館付近にある食事処を検索する。
「なにかいい所ありそう?」
千夏は背伸びをして、優光のスマホ画面をのぞき込もうと試みる。
「このへん手軽な店がねーんだよなぁ」
優光はGOマップで周辺地図を調べる。
地図はよく利用するのか、手の動きがなんともスムーズな運びだ。
「ここから一五分ほど歩いたところにあるカフェはどう? ファミリー向けだけど、オシャレなところよ」
「どこにあるんだ? 行ったことあんの?」
千夏の出した案に乗り気の優光は、場所を確認する。
「大崎駅から徒歩五分程の所にあるお店よ。一度行ったことあるから、道案内は任せてちょうだい! そこね、休日メニューのハッシュドビーフオムライスが凄く美味しかったのよ。ぁ、お値段も七百円くらい。お手軽でしょ?」
千夏はどこか得意げに言いながら、掌を胸にあてる。
「そうだな。まぁ、迷子になってもスマホがあるしな。取り合えず白石についてくよ。お昼時だし急いでもいっぱいだろ」
「信用ないな~」
まったく~。とでも言いたげに両肩を落とす千夏に、優光は「まぁーな」と笑う。
その後。
ファミリー層や若者で賑わうカフェで遅めの昼食をすました二人は、品川駅前でそれぞれの帰路についた。
†
♪ピロン、ピロン♪
夜の八時三十分頃、自室にいた優光のスマホが通知音を響かせる。
少年漫画を読んでいた手を止めた優光は、勉強机の左上に置いていたスマホを手に取り、早々に確認する。
『優光くん。こんばんは』
『今日は一日付き合ってくれて、ありがとう。すっごく楽しかった』
それはなにより。と打ち込んだところで、優光の手が止まる。
視線を左斜め上に向け、物思いにふける。
ほんの少しの時間なにかを考えていた優光は、小さな息を吐くと共に頷く。
『それはなにより。俺も……楽しかった。色々見れて』
珍しく素直なメッセージが送信されてすぐ、返信が届く。
『嬉しい! メリーゴーラウンドも楽しかったわね⁉』
「げ!」
『それはない! やっぱ言わなきゃよかった』
千夏を調子に乗らせてしまったと、優光は慌てて返信する。
続けて、『次は、鳥取旅行だっけ?』と打ち込み送信。
♪ピロン。ピロン♪
『うん。一泊二日って言ったけど、実質二泊三日になっちゃうのよねぇ』
『夜行バス使ったほうがお安いから。それでも大丈夫?』
「あいつって、基本重要なことは後から言ってくるよな」
とボヤキながらメッセージを打ち込む。
『別に。その週は予定ないからいい。何時に何処集合?』
♪ピロン、ピロン、ピロン♪
『やったぁ~。ありがとう。時間は二十一時三十分』
『場所は東京駅鍜治橋駐車場から出発なの』
『その時間に間に合うように来てくれると嬉しい♪』
簡潔的な優光のメッセージに対して届くのはご機嫌な返信。
『了解。じゃぁまたその日に』
優光は次の予定の確認を終えると、早々にショートメールを切り上げたのであった。
†
八月二十一日。二十一時二十分。
東京駅鍜治橋駐車場。
明るいビタミンカラーのロゴTシャツ。白のフレア素材が涼し気なガウチョパンツに黒のスニーカーを着こなす千夏は、落ち着かない様子で優光を待っていた。
その手には、二泊三日に必要なものがぎゅうぎゅうに詰め込まれているであろう、大き目のボストンバックをお行儀よく両手で持っている。
千夏から遅れること五分程――。
サラリーマンが出張にでも使いそうな無地の紺色が大人ぽいボストンバックを抱え、ゆるい黒のラフパンツと白のフード付き半袖姿をした優光は、どこか気だるげに現れる。
「ぁ! 優光くーん」
優光の姿に気がついた千夏は左手を頭上で左右に振った。千夏が動くたび、ガウチョパンツの裾がひらひらと踊る。
「優光くん。こっちだよー」
千夏は嬉しそうに優光を呼ぶ。
「はいはい。ちゃんと来ましたよ。信用ねーなぁ」
気だるげに小さな溜息を吐く優光のテンションは低い。
「し、信用してないわけじゃないけど?」
「なんでそこ疑問形なんだよ」
優光は拗ねたような口調で、すぐさま突っ込みを入れる。
「ふふふ」
千夏が声を出して笑っているあいだに出発時刻となり、二人もバスへと乗り込んだ。
「どっち座る?」
指定の座席前で優光が問う。
自然なレディーファースト対応に、千夏は一瞬目を丸くする。
「……聞こえてる?」
「ぁ、ごめんね。聞こえてる。ちゃんと。私、通路側がいい」
優光の声で我に返った千夏は、慌てて答える。
「了解」
千夏の意見をくむ優光は、さっさと窓際の席に腰を下ろした。
千夏は「ありがとう」と言って、通路側の席に腰を下ろす。
二人を乗せたバスは横浜駅YCAT―海老名。と走り、秦野BSを走行する頃、二人は浅い眠りについた。
†
八月二十二日。九時三十分。
鳥取駅南口でバスは静かに停車した。
三十分程前に目を覚ましていた千夏は、何事もなく目的地についたことにホッと肩を撫で下ろした。
「優光くん。ついたわ。起きてちょうだい」
黒色のアイマスクをして、本格的な眠りについていた優光の左肩を優しく揺らす。
「ん、あぁ~」
少し声の枯れた唸り声をあげた優光はアイマスクを取ると、陽の眩しさに目を細める。
「朝だ……すげぇ。ついてる」
寝起きの優光はまだ頭が回っていないのか、少し幼さを感じさせた。
「そう、もう朝よ。トータル十二時間程の移動お疲れ様。降りましょう?」
先に立ち上がった千夏は、息子を優しく起こすような口調で答え、優光が出られる通路を開ける。その間に、他の乗客達が次々に下りてゆく。
「うん」
眠い目をこする優光は素直に頷き、覚束ない足取りで千夏の後ろをついていく。
「眠い?」
「少し」
ふぁ~っと大きな欠伸をする優光に肩を竦める千夏は、どこか嬉しそうである。
バスを下り、足取り軽くコンクリートでできた歩道を歩く千夏。
「これからどうするの?」
優光は眠たい目を幼子の様に握りこぶしで擦りながら、足取り重く千夏の後ろについて歩く。
「朝食にしましょうか?」
千夏は肩越しに振り向き、穏やかな笑顔で言う。
「朝ごはん……。どこ行くの?」
とまらない欠伸を噛み殺した優光は、いつもより少し幼い口調で問う。
「鳥取鉄道記念物公園よ。お弁当作ってきたから、自販機でお茶を買って朝食にしましょう。その後はバスの出発時刻まで時間を潰す予定。その公園の近くには図書館もあるみたいだし、暇すぎて倒れることはないと思うわ」
千夏の説明に「分かった」と頷く優光は、また一つ欠伸をする。
鳥取駅裏玄関から約三百メートル程石畳の川沿い。
歩道を歩む二人は赤色の橋を渡る。その先に、鳥取鉄道記念公園が現れる。
鉄道関連の記念物はサビている物が多く、時代を感じさせた。だが、しっかりと駅長が存在しているようだ。
公園内に作られたお手洗いにて軽く顔を洗った二人は、緑が多い清々しい空気を吸う。
「目、覚めた」
前髪を水滴で濡らした優光が短い言葉で言う。もはや独り言だ。
「それはよかった。顔拭く? 髪とか」
千夏はうさぎが刺繍されたタオルハンカチを手渡そうとする。
「もう乾いたからいい。前髪もすぐ乾く。夏だし」
優光はなんとも可愛気なく断る。
千夏は元に戻ってしまった優光に少し寂しそうに肩を竦める。
「そう? じゃぁ~、お茶でも買って駅舎で食べましょうか」
「あぁ」
目が覚めた優光の相槌は、見事に幼さを失ってしまった。
自販機で買ったペットボトルのお茶を手に、二人は駅舎に腰掛けた。
その二人の正面で三毛猫がにゃぁ~と鳴き、軽やかな足取りで去っていく。
「可愛らしい駅長さんだね」
「あれは、駅長と言っていいのか?」
楽しそうに笑う千夏に対し、優光は複雑そうに首を傾げる。
「ベンチとかあったらよかったんだけどね~。ちょっと調べミス。ごめんね?」
千夏は顔の前で両手を合わせ、しょんぼりと眉根を下げた。
「俺は別にいい。白石が平気なら」
優光は珍しく千夏に寄り添うような言葉をかける。
ホーム下に落ちた千夏がトラウマになっていないか、恐怖を感じないか、優光なりに気にかけているのだろう。
それに感づいた千夏は、ありがとう。と優しい口調で言って、嬉しそうに微笑んだ。
「別に」
優光はどこか照れを隠すかのように、そっけなく答えて、千夏から視線を外す。
「これ、優光くんのね」
千夏は可愛らしいクマがデザインされた手提げ紙袋から、使い捨て容器につめられた愛情いっぱいの弁当を手渡す。
「ぁ、ありがとう」
どこか不器用ながらも素直にお礼を言って、首だけでペコリと会釈をする優光は、両手でお弁当を受け取った。
「どういたしまして」
穏やかな笑みを浮かべた千夏は座ったまま会釈をする。
千夏が手渡した弁当には、タコさんウインナーやハート型の卵焼き。特製ソースがついたハンバーグ。星型フライドポテト。アスパラ。オクラ。を豚肉で巻いて照り焼きにしたもの。彩りに茹でたブロッコリー。デザートには、キューブ状の大学芋がついている、なんとも子供が好きそうなおかず達がつめられていた。
千夏は綺麗に重ねた両手を顎にそっとあてる。
優光も手を合わせる。
「「いただきます」」
と、二人の声がそろう。それが可笑しかったのか、二人は少し顔を見合して笑う。なんとも微笑ましい光景である。
少しずつではあるが、二人を包む空気は、温かいものへと変化していた。
「サッカー……ボール?」
割りばしで器用に持ち上げたのは、五角形にカットされた海苔をサッカーボールにみたて、可愛くデコレーションされたおにぎりだった。
「そうっ。サッカーボール! 分かってくれた?」
割りばしで卵焼きを摘まみかける手を止めた千夏は、勢いよく優光のほうに上半身ごと振り向く。その勢いで低めのポニーテールに結っていた綺麗な黒髪が鞭のように動く。
千夏は良いことをして母親に褒めて欲しそうな幼子のごとく、期待の眼差しで優光を見つめた。
「……」
優光は何も反応を示さない。
千夏と目を合わせることもなく、どこか切なくも懐かしそうな眼差しで、おにぎりを見つめ続ける。
「ど、どうしたの? もしかして手作りおにぎり食べられない?」
千夏の表情は一転、焦りと不安の色に染まる。
いつかの情報番組で、今の時代、家族に握ってもらったおにぎりも食べられない子が多い。という話を思い出したのだろう。
「ぁ、いや食べられる。ちょっと思い出しただけ」
すぐに返答した優光はおにぎりを一旦元の場所に戻し、チラリと千夏を流し見る。
「それはよかった。……思い出したって?」
「昔のこと。ずっと昔……」
安堵する千夏の問いかけに対し、優光はそれ以上を答えない。
悄然するように声が儚い。
失い方は違うかもしれないが、優光も千夏と同じように大切な人を失っていた。
ふとした時に思い出せば、寂しさが顔を出すのだろう。
「そっかぁ」
千夏は深くは聞かず小さく相槌を打ち、この話に幕を下ろした。
器用にサッカーボールおにぎりをお箸で掴んだ優光は、そっと口に運ぶ。
口に合ったのか、優光の口角が自然と上がった。
それを見つめていた千夏は胸を撫で下ろし、微笑みながら頷いた。
「卵焼き……甘い」
優光は一口サイズの卵焼きを一つ食べ、少し驚いたかのように小さく呟く。
「お砂糖を入れてるからね。嫌いだった?」
不安げに問う千夏に優光は首を左右に振って否定する。嫌いなんかじゃない。優光にとって甘い卵焼きは思い出の味で、大好きな味なのだから。
「そっか。よかったよかった」
と笑顔で大きく頷く。
ぱくりと卵焼きを頬張る千夏は本日もご機嫌である。
「白石の大切な人ってさ、鉄道とか好きだった?」
優光が初めて千夏のことについて問う。猫とネズミの時代では考えられないことだ。
「うん。昔ね、大好きだった。今はどうかなぁ? 好きだといいけど……」
最初は笑顔で答える千夏であったが、最後はどこか物思いにふけていた。
「そうだな」
優光は千夏に少し寄り添うように頷く。
少しの寂しさが滲みながらも穏やかな朝食を終えた二人は、バスの出発時間までのんびりと時間を潰したのだった。
†
一四時三十五分に出発する砂丘線のバスに揺られた二人は、十五時五分に『らくだや』に到着する。若いからこそできるスケジュールである。
「ラクダいたー!」
千夏は砂丘を歩く四匹のラクダ見つけて指差す。
砂丘の砂がスニーカーにかかることや、砂が舞うことを気にもとめず、ライド体験できる場所へと走る。まだまだ元気があり余っている様子だ。
「暑い」
優光はそうぼやきフードを深くかぶる。
基本学校とおつかい以外で外に出ないため、日差しと暑さが堪えてきたのだろう。
こちらは体力と気力の限界が近そうだ。
「砂丘で走るとか無理」
汗で額にはりつく長めにカットされた前髪を、なんとも鬱陶しそうに手で払いのける。
優光はマイペースさを崩すことなく、とぼとぼと歩く。
足を進めるたび、砂丘の砂が控えめに紺色のスニーカーにかかっていった。
「すっごい迫力ね」
初めて見る本物のラクダに圧倒されていた千夏から遅れること一~二分。
「マジでこれ乗れんの?」
優光はラクダを見て早々、疑念の念を抱く。
「乗れるよ! 私、ちゃんと調べてきたもん」
千夏は自信満々に答える。
「ぁ! すみませーん」
手の空いた係員を見つけた千夏は、片手を上げて話しかける。
「どうされましたか?」
千夏に気がついた人当たりがよさそうな若い男性スタッフが、笑顔で二人に駆け寄ってくる。
「この場所って、ラクダに乗ってお散歩体験できますよね?」
千夏は不安げに問う。ここまで来て出来ませんと言われたら、千夏は確実に泣き崩れるだろう。
「はい。できますよ。大人二名での騎乗はできませんので、そこはご了承いただけたら……と思います」
男性スタッフは暑さにも負けない笑顔で答える。千夏はホッと肩を撫で下ろす。
「よかったぁ~。ほらほら~、だから言ったじゃない」
千夏は後ろにいた優光にドヤ顔をする。それを見た優光は、「なんかムカつく顔」と悪態を垂れる。
「えっと、じゃぁ……ライド体験を二人。お願いできますか? 優光くんも乗るでしょ?」
ご機嫌な千夏は優光の言葉を軽く受け流し、サクサクと話を進める。
「ぁ、うん……」
と、楽しそうな千夏の笑顔に圧倒されたかのように、大人しく頷く。が、優光の表情は複雑気だ。
「はい。ライド体験の方はこちらへ」
二人は二匹のラクダがお行儀よく座っている場所へと、案内させられる。
スタッフにご機嫌についていく千夏と項垂れてついていく優光。やはり対照的な二人である。
「でけぇ」
優光は思わず声を上げる。
二人をライド体験コーナーに案内したスタッフは足を止め、身体全体で二人の方に振り向く。
「ライド体験していただくときには、いくつかの注意点があります。ラクダさんの正面と後ろには立たないで下さい。ラクダさんを撫でるさいは、身体を優しく撫でてあげて下さい。ゆっくりラクダさんに跨ったあとは、けして暴れたり泣き喚いたりしないで下さい。ラクダさんが驚いて暴れる可能性があります。また――」
スタッフは流れるような口調で説明をする。
二人は少し恐怖を覚えながらも、ライド体験でラクダに乗らなければ見られない景色や、知りえないことを体感して、思う存分と楽しむのだった。
†
一七時〇八分――。
「楽しかったね~」
本日の宿である格安ゲストハウス。
和室の個室部屋。
二人は隣同士に寝ころび、疲れを癒していた。
「これからどうすんの?」
「この宿素泊まりなの。外でお夕飯食べた後、岩美町内にある温泉に入ってから、宿に戻ってこようと思っているけど……お風呂先がいい?」
「いや、後でいい。風呂入って汗かくの嫌だし」
「そうよね。ぁ、このへんねコンビニもスーパーも近くにあるから、お菓子もアイスも買い放題だよ」
楽しそうな千夏に対し、優光は瞼が重そうである。普段からアクティブに動かない優光にとって、今日はハードスケジュールであったのだろう。
「少しお昼寝してからご飯にする?」
「ん~……」
間延びした返事をする優光は、ほどなくして穏やかな寝息を立てる。
「優光くん? 寝ちゃったの?」
千夏は身体を起こし、優光の様子を確認しにいく。
優光はほんの少し口をあけ、スースーと寝息を立てながら気持ちよさそうに眠っていた。
「眠ってるときだけは、ちっちゃい子みたいで可愛いんだけどなぁ」
眉根を下げる千夏はバックからグレーのパーカーを取り出し、優光のお腹にそっとかける。
クーラーで冷やしている部屋だ、少しなにかを羽織っておいたほうが良いだろう。
千夏は優光から少し離れた場所で身体を横たわらせ、ふぅーと息を吐きながら全身の力を抜く。お疲れモードは千夏も同じだ。
「ちゃんと起きれるようにしとかなきゃ」
淡いピンク色の手帳ケースに収納しているスマホの電源を入れる。
重い瞼を無理やり開けながらアラームをかけ終えると、千夏も身体を休めるように浅い眠りにつくのであった。
†
「なに買うの?」
「アイス」
「私も買おう。ミントアイス」
ゲストハウス近くのお食事処で食事を終え、岩美町内にある温泉でゆっくりした二人は、優光の意向によってコンビニに立ち寄っていた。
「ふ~ん」
千夏が手に取るアイスに全く興味を示さない優光に、「どうせ、歯磨き粉の味じゃん。とでも思ってるんでしょ?」と、恨めし気に言う。
「ご名答。まぁ、味覚は人それぞれですから」
「どうせ優光くんは、棒状のソーダーアイスでしょ?」
「正解。なんで分かんの? なんか嫌なんだけど」
優光は怪訝な顔で千夏を見る。
「私は優光くんのことならな~んでも、お見通しなのよ」
千夏は、ふっふっふ。と得意げに控えめな胸をはる。
「相変わらず気持ちが悪いな」
と悪態をつく優光は一人レジに向かう。千夏は置いてけぼりである。
「ミントアイスね。そういえば、あの人も好きだったな……ミントアイス」
優光が懐かし気に呟いた小さな音は、誰の耳にも届くことはなかった。
「ねぇねぇ、オセロしよー。私ね、持ってきたんだぁ」
千夏は声を弾ませながら、バックから小さいサイズに設計されたボードゲームを自慢するように掲げてみせる。
「用意周到なことで」
優光はさして興味なさげに流しみると、買ってきたアイスのパッケージを開ける。
「そりゃ旅ですから」
声を弾ませる千夏は畳に小さなボードゲームを広げ、いそいそと遊ぶ準備をはじめた。
「アイス食う?」
「もちろん」
「ん」
小さな相槌を打つ優光はカップアイスと木のスプーンを千夏に渡す。
「ゴミはここに」
とコンビニの袋も渡す。すでに袋の中には、ソーダーアイスのパッケージ袋が捨てられていた。
「ありがとう。優光くんも座って?」
「ふぁいふぁい」
ソーダーアイスを銜えたまま少し面倒臭そうに返事する優光は、胡坐を掻いて座る。
「優光くんからね」
千夏はカップアイスと木のスプーンの封を開け、ゴミを袋に捨てる。
かくしてアイスを食べながらのオセロ勝負が幕を開けたのだった。
一時間後――。
「また負けた……」
千夏はあり得ないという風に項垂れる。
勝負は三勝三敗。全て千夏が負けている。
「弱すぎ。これで終わりな。もう眠い」
苦笑いを浮かべる優光は欠伸を噛み殺す。
「そうね。お布団敷きましょうか」
千夏はボードゲームを片付け、絵本を取り出す。
「ねぇねぇ、ぐ〇とぐ〇でいい?」
千夏は絵本を嬉しそうに優光に見せる。
「なんでもいいから自分の布団くらい、自分で敷いてくれ」
興味なさげに答える優光は、千夏のぶんの布団セットを部屋の隅にどさりと置く。自分の布団は出入口付近に置いていた。
「そうでしたそうでした」
千夏は一旦絵本をバックの上に置いて、布団をセットする。
「なんか遠くないかしら? 端っこと端っこって……寂しくないの?」
「寂しくない。少しは危機感持てば? 別に興味ねーけどさ」
優光は呆れたように溜息を吐く。
「俺はもう疲れたから寝る。電気は好きにして」
千夏は早々に布団へ潜る優光に対し、「もうちょっと待ってちょうだい」と、慌てて絵本を手に駆け寄る。
「いやいや、寝るのを待てってどういうことよ? 絵本の読み聞かせだって、子供を寝かしつけるためだろ? 普通に寝むれるし。むしろ、普通に寝かせてくれ」
「まぁまぁ、そう言わないの」
千夏は優光を宥めつつ、優光の顔の近くで腰を下ろす。太ももの上で本を立て、優光の目に入りやすいように絵本を開く。
「絵本、始まるよ~」
「はいはい」
優光は欠伸を噛み殺し、千夏の方へ横たわる。
「ぐ〇とぐ〇――」
千夏はゆっくりと優しい口調で絵本を読む。
優光は眠い目を何度も擦りながら、最後まで千夏に付き合ってあげるのだった。
「……おしまい」
「おしまい?」
千夏の言葉に優光はオウム返しをする。
「そう。おしまい。今日一日付き合ってくれて、本当にありがとう」
と、優しく微笑みながら絵本を閉じる。
「別に。約束したし。ラクダ楽しかったし。弁当も美味しくて、懐かしかった……」
夢の中へと落ちてしまいそうな優光は、普段より舌足らずな口調で気持ちを素直に表現する。
「それはよかった」
千夏はホッと肩を撫で下ろす。
「あとは、海だけ……だな」
「そうね。優光くんはなにかやり残したことはないの? 私みたいに。私になにかできることはない?」
「俺は、あの人のプリンが食べたい」
「プリン?」
「そう。プリン。あの人が、来週の日曜日に作ってくれる。って約束してくれたプリン。売っているものよりも少し硬いけど、とっても美味しい。それ、食べたい。もう一度だけで、いい。でも、白石には……絶対に無理だ。味も、香りも……。あの人と……違う、から――」
優光は望みを吐露しながら重い瞼を閉じ、浅い夢の海へと落ちていく。
「ひーくん。ごめんね……。ずっと一緒にいてあげられなくて」
千夏は慈悲深き微笑みと共に一筋の涙を溢す。
瞼にかかる優光の前髪をそっと払い、優光の布団を肩までかける。
「おやすみ。愛してるわ」
夢と現実の狭間にいる優光には聞えぬ程小さな声で胸中を吐露した千夏は、絵本をバックにしまって布団にもぐる。
「なんで、お前が、ひーくんって呼ぶ……んだよ……」
布団にもぐる千夏の背中を寝ぼけ眼で見ていた優光は苦しそうにボヤキ、深い夢の海へと落ちていった……。
翌日。
「おはよう。朝よ。起きてちょうだい」
着替えなど身支度を全て終えていた千夏は、優光を優しく起こす。
「ん、起きてる」
優光は嘘が丸わかりの返事と共に欠伸をしながら、モゾモゾと起き上がる。
千夏はそれを、しょうがないわね。というふうに見守った。
「今日は、どうするの?」
「今日はお土産を少し買って帰宅。一時間でも早く帰ってくるように言われているから」
「なるほど」
納得したように頷く優光は、大きな欠伸を繰り返す。
千夏同様に身支度を終えた優光と共に、鳥取を後にした。
午後一五時。
東京駅鍜治橋駐車場――。
「じゃぁ、ここで。本当に送らなくて平気か?」
少しだけ疲れの残り香を感じさせる顔をした優光は、バッグを抱えなおして言った。
「うん。ありがとう。大丈夫。またね。気をつけて帰ってね」
千夏は笑顔で答え、胸の前で手を振った。
「ん。じゃぁ……またメールして」
優光は千夏に背を向けて歩き出す。
千夏はその背中が見えなくなるまで見守り続けていた。その表情には先程あった笑顔の面影はどこにもなく、どこか切なさを感じさせていた。
「ひーくん……」
儚げに呼んだ音は夏の生温い風に飲み込まれてゆく。