奏が少年に救われた日から二年の月日が流れた20××年。夏。

「あっぢぃ~」
 鮫島(さめじま)優光(ひろみつ)はYシャツの前襟を左手で掴み。パタパタと前後に動かす。生暖かい風が心なしか優光(ひろみつ)に涼をおくった。漆黒の前髪は汗で額にはりつき、背中には汗が滲み出す。
「また、夏がきたか……」
 コンクリート地面から熱が照り返し、空からは悪魔のような太陽光が地上にいるモノを熱してゆく。
 セミが命のかぎり歌いつくす季節がまた来たのだ。
 優光はどこか鬱陶し気に溜息を溢し、教室の窓から空を見上げる。その表情は穏やかではあるが、どこか切なげだ。
「……死にたく、なるな」
 優光の言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。



  †



♪ラララン~ラララン。ラララッンラッン、ララ、ラッン~……♪
 セミの大合唱に隠れるようにして、どこか切なく懐かしさを感じさせるメロディーが、薄い肉付きながらも整った優光の口から流れ落ちてゆく。
 優光はメロディーを淡々と口ずさみながら階段を上がり、学校の屋上へと続く扉を開け放つ。
 夏特有の息がつまりそうな温度と風が優光を包み込むが、優光は眉根一つ動かすことはなく、フェンスの方へと足を動かす。
 コンクリートが照り返し、太陽光の暑さが優光をプレスする。それを気にすることもなく、優光は熱された緑色のフェンスを乱暴に掴んだ。フェンスの熱が優光の手に移り、優光の手の平が赤く色づいていく。
「……死にてぇ」
 無表情で吐き出した言葉と共に、優光はコンクリートに視線を落とす。前髪から滴り落ちた雫が一粒、二粒と、コンクリートを濡らした。
「ねぇ。それ、本気で言ってるの?」
 どこか苛立ちを含む声音が優光の背に投げかけられる。
「ッ⁉」
 優光は身体全体で振り返る。今までの色を持たない表情から一転、焦りの色に変化する。優光の人間味が垣間見えた瞬間だった。
 眉間に皺を寄せた優光は、奥二重で切れ長い目元が涼しい印象を与える目を細める。
 優光の黒目がちの瞳に、ツヤのある綺麗な黒髪を耳より上の位置で一つに結った、制服姿の少女が映る。


「本当は、そんなつもりないのよね?」
 少女はそう言って口元に弧を描く。
 少女の言葉は疑問符で終わってはいるが、少女の中ではそうであると確信しているのだろう。ヘーゼル色の瞳がそれを物語っていた。
「……誰、お前?」
 優光は少女の問いには答えず、少し威圧感のある声音で問い返す。
「優光君は、いつからそんなに可愛げがなくなっちゃったのかしらね?」
 少女は残念そうに肩を竦めてみせる。
「なにそれ? まるで俺を知っているような口ぶりだな」
 優光は瞳を上下に動かし、視覚に捉えることが出来る少女の全てを映す。
 小柄とも大柄とも言えない細身の体型ではあるが、白を基調としたマリンセーラー服からのぞく、色白の手足は長い。アーモンド型の目元という額縁の中には、ハーフかと思うほどのヘーゼル色の瞳が収まっている。整った鼻筋。少し肉厚の下唇が印象的な桜色の唇からは、どこか色香を醸し出していた。
 凛とした印象だが、涙袋があることにより、どこか優しい雰囲気を醸し出している。
 しばし少女を訝し気に見ていた優光は、小さな溜息と共に肩を竦める。
「……残念だが、俺はお前に見覚えなんてない」
 優光はそう言って、控えめに首を左右に振った。
「そうね。貴方は今の私を知らないでしょうね。だけど、“昔の私”なら知っているはずよ? 貴方がそれを忘れているだけ。もしくわ、忘れようとしているだけ――」
 少女の表情は淡々とした口調とは裏腹に、どこか寂しげだった。
「意味の分からないことを言うんだな。暑さで頭でもやられたか? 名前も答えないようだし。うちの制服とは違うな。不法侵入か? 訴えることも可能だけど――」
 優光は面倒臭そうに青チェックの制服ズボンの尻ポケットから、なんのケースにも入れられていないスマートフォンを取り出した。
「相手の名前を聞きたいときは、まずは自分から名乗りなさい。って、教えられなかったかしら?」
 少女の言葉に優光の眉根が微かに動く。
「……そうだな。だけど今更だろ? 俺のことを知っているようだったし」
 優光は鼻で笑い、同意を求めるように首を傾げて見せた。少女は小さな溜息を溢す。
「そうね。貴方の名前くらい知ってるわよ。鮫島優光君。友達からのあだ名は、ひろ君。歳は私よりも一つ下の一四歳。現在中学二年生。学歴優秀。運動神経は可もなく不可もなく」
 少女は途切れることなく答える。
「ほぉ。気味が悪いな。お前、ストーカーか?」
 瞠目する優光に、まさか。と首を振って否定する少女は、こう続ける。
「私は、お前という名前でもないし、貴方のストーカーでもないわ。私の名前は、千の夏と書いて、千夏よ。白石(しらいし)千夏(ちなつ)よ」
 千夏は小ぶりな胸を張って言う。
「千夏ねぇ……知らねーわ」
 優光はスマホを弄りながら言う。千夏に対しての興味は薄い。否。今の優光は全てのことに対し、興味を示さない。そういう生き方を選んだのだ。
「優光君。ちゃんとお相手のお顔を見てお話ししましょう。って、教えられなかったかしら?」
 両手を腰に当てた千夏は嘆くように言う。
「うっざ」
 優光は眉根を寄せながら悪態をつき、出入り口の扉に向かって歩き出す。
「待ちなさい! まだお話は終わっていないわ」
 千夏は優光の右腕を両手でつかんで引き止める。十五センチ近くある身長差に、自然と上目遣いで睨むことになる。
「俺はお前と話すことはない。これ以上関わってくるなら、マジで警察に突きつけるからな」
 優光は千夏を冷めた目で見下ろしながら、冷淡な声音で言った。千夏は一瞬息を飲むが、そこで諦めることはない。
「貴方がなくとも私はあるの。あと私を警察に突きつけるのなら、私も貴方がピッキングして屋上に出入りしているって、バラすから」
 千夏は怯むことなく、自分が持っているカードを突き出した。優光は一瞬目を見開くが、さして焦ることもない。
「見てたのか?」
「えぇ。貴方がズボンのポケットから直線のピッキングツールと、折れ曲がっているピッキングツールの計二本を取り出してた所からずっとね。その二つを器用に使って、屋上の扉を開けていたわよね? とても慣れた手つきだったから、かなりの常習犯とみたわ」
「覗きかよ。悪趣味だな」
 優光は舌打ち交じりに言って、後ろの髪を乱暴に掻く。
「悪趣味はどっちよ! ピッキングは立派な犯罪よ⁉ 一発で退学じゃない。ううん。退学だけで済まな……ッ⁉」
「うるさいッ」
 優光は千夏の言葉を押しつぶすように言葉を吐き出す。千夏は小さく息を飲む。
「お前って本当にうるさい女だな。大体、二四時間屋上の扉が開いていないのが悪いんだろ? 簡単に開けられたくないなら、せめてディンプルシンダー付きの鍵にすればいい。もちろん、それがいくら強いと言っても、開ける者は開けるけどな」
 鼻で笑う優光に対し、千夏はムッとする。
「それは、人の命を守るためじゃない。貴方も不穏なことを言っていたわよね? 本当に死にたいと思ってるの? どうしてそん……ッ!」
 優光は千夏の言葉を遮断するように、千夏の腕を振り払う。
「お前に何が分かる? 『死にたい』。この言葉の根っこの部分すら読み取れない奴に、ダラダラと説教を垂れられたくない。二度と俺に近づくな!」
 優光はきつい口調で言い放ち、大股で屋上を後にした。



「ひーちゃん……」
 その言葉は優光の耳に届くことはない。
 一人残された千夏はただ茫然と、去り行く背中を見つめることしか出来なかった。



  †


  †


 翌日。
 千夏は他校である寺院の木学園の校門前で、不安げに視線をさ迷わせていた。
「ぁ!」
 優光を見つけた千夏は不安げな表情から一転、一瞬で笑顔の花を咲かせる。
「ひーろーみーつーく~ん」
 他の生徒の視線を気にもとめずに叫ぶ。
 頭上で両手を大きく振り、自分の存在を示してくる千夏に気づいた優光は、一瞬ぎょっと目を見開く。すぐに無表情の仮面を被りなおす優光は学校の門をくぐる。
「ぇ? ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
 慌てて後についくる千夏に無視を決め込む優光は大股で歩く。
「ひーろーみーつー君ってば!」
「ついてくんなッ」
 後を追ってくる千夏に捕まらぬよう、優光は歩くスピードを上げていく。
「待ってって!」
 呼び止める千夏は優光の背中を追う。
 早足、駆け足――ついには、走り出してしまう。
「ついてくんな! って言ってんだろーが」
「だ、だったら、止ま、りなさい、よ!」
 真剣に走る千夏は息も切れ切れに叫ぶ。
「待つわけねーだろ!」
 刹那も止まる気のない優光は全速力で駆けて行く。
 それを追いかける千夏は持てる力の全てを使い、「待って! って、言ってるじゃないッ」と、優光の背中に飛びつく。
「のわッ⁉」
 思いもしない衝撃にバランスを崩した優光は、コンクリート地面に掌から転んでしまう。
「ほあっ⁉」
 巻き添えになる千夏は素っ頓狂な声を上げながら、優光におぶさる形で倒れてしまう。
「痛たたた」
「痛いのはこっちだ! お前はワンクッションあんだろーがッ。つーか重い! さっさとどけ」
 千夏に下敷きにされたままの優光は首だけで振り向き、ぷーすか叫ぶ。
「嫌よ! だって、貴方私がどいたら逃げる気でしょ?」
「当たり前だろ」
「ならどかないわ!」
 千夏は優光の背から上半身だけをおこし、梃子でも動きません! という風に腕組をする。
「め、めんどくせ~」
「面倒臭くありません。貴方が私のお話を聞いてくれればよいだけです!」
「お前、なんでまたいんだよ? 校門で待ち伏せってありえねー。ガチでストーカーじゃねーの?」
 盛大に溜息をつき、千夏に辟易する優光は顔をしかめる。
「貴方とお話したかったからに決まってるじゃない。他校の私が堂々と学校に入るわけにもいかないでしょ? それにストーカーじゃないわ。しいて言うなら、優光君の応援隊団長よ!」
「い、意味が分からん。ストーカーと応援隊団長の違いって何なんだよ? つーか、さっさとどけッ」
 体力が回復した優光はすり傷で血が滲む掌を地面につけ、勢いよく上半身を起こす。千夏は小さな悲鳴を上げながら、優光の背から馬乗りの形で落下する。
 一瞬何が起こったか分からないようにキョトンとする千夏に対し、「パンツ見えてるぞ」と立ち上がる。
「ぇ? ぁ、わ!」
 慌てて足をM字に閉じ、両手でスカートを太ももに押し付ける千夏の顔は赤い。
「嘘に決まってんだろ? ばぁ~か。お前のパンツなんか見て何が楽しいんだよ」
 優光は嘲笑いながら悪態をつき、スクールバックをリュックサックのように背負う。
 千夏は恨めし気に優光を睨むが、なんの効力もない。
「もうついてくんなよ」
 優光は犬でも払うように掌を前後に揺らし、千夏に背を向ける。千夏は、待ちなさい! と、慌てて優光のズボンを下げるように掴んで引きとめる。
 緩く履いていたのが運のつき。
「ぁ! ……黒。ギャップの欠片もないわね」
 優光の下着をチラリと目にした千夏から、ポロリと感想が零れる。
「うわッ」
 慌ててズボンを上げる優光は首だけで振り向き、千夏を恨めし気に睨む。
「えっと……私、なにも見てないわ」
 視線をそろりと逸らした千夏は見え見えの嘘をつく。
「はぁ⁉ なーにが、なにも見てないわ。だッ。しっかり見てたじゃねーかよ。あげくに、ギャップの欠片もないって……ほっとけよ!」
 少し耳を赤く色づかせた優光は、二度もあってはたまるかとばかりに、ベルトをきつく締めあげる。
「男のくせにパンツくらいでギャーギャー言うことないじゃない。女々しいわねぇ。大体、元々は貴方が逃げようとするから悪いのよ?」
「ぉ、お前ッ。なに責任転嫁しようとしてんだよ! 俺は女々しくない! ほんっとにとんでもない奴だな。もう二度と俺の前に現れんなよッ」
「嫌よ!」
 人差し指を千夏に向け、犬のように威嚇してくる優光に対して強い口調で即答する。
「私はもう二度と、貴方の手を離したくないの」
 悲痛交じりの千夏の声は、音漏れする赤色の乗用車にかき消される。
「……今、なんか言ったか?」
「別になにも言ってな――って、貴方怪我しているじゃないッ! どうして言わないのよッ?」
「あぁ。ただのかすり傷だろ? そんな騒ぐことじゃ――のわっ⁉」
 千夏は優光の言葉を最後まで聞かず、「ちょっと来なさい!」と、引きずるように歩き出す。
 うんざりするように盛大な溜息を一つ吐く優光は、千夏に引きずられるままに足を動かした。



 千夏が優光を連れてきたのは近くの公園だった。
 公園を囲うように生えている青々と茂った木々。水飲み噴水とパンダ型の滑り台。大きめの砂場とブランコの遊具があり、『パンダ公園』と子供達に親しまれている。
 優光の家もパンダ公園の近所だったため、昔はよく砂遊び道具を抱えてきていたものだ。そのせいだろうか? この公園に足を踏み入れてからの優光の表情はどこか優しい。と同時に、どこか切なさを抱えているように感じる。
「ほら、手を出して。まずは汚れを落とさなきゃ」
 千夏は水飲み場でボーっと突っ立ている優光の手を半ば強引に洗う。
 噴水は縦にしか水が出ないため、千夏は親指で水の出し口を抑え、水を散らばせて洗う。当然、二人の服にも水がかかってしまう。
「なぁ、服にかかってんだけど。水」
「文句言わないの。びしょ濡れになってないだけいいでしょ? 夏なんだから、こんなのすぐ乾くわよ」
 水しぶきのシミが増えてゆくYシャツを見て、不服気に言う優光を宥める。
「文句言わないの、ね……。お前、年より臭いな」
 どこか自嘲気味な笑みを浮かべる優光の瞳は千夏を通り越し、他の誰かを見ているようだった。
「はぁ?」
 おばさん呼ばわりされた千夏は、さも不服そうに眉間に皺を寄せる。
「ったく。とんだ失礼男に成長しちゃったものね」
 独り言のように悪態をつき、スクールバックから赤い薔薇の刺繍が入った白のハンカチで優光の手を優しく拭う。掌は薄皮がめくれ、所々に血肉が垣間見える。
「血は止まっているようだけど――」
 千夏はキャラクターもののポーチから四角い絆創膏を取り出し、傷口に張り付けて満足気に微笑む。
 なされるがままでいた優光は一言も発さない。
 不思議に思った千夏は優光の視線の先を追う。その先には優しそうな母親に手を引かれて歩く、四歳程の男の子の姿があった。
「ママ~。たのしかったね。また、あしたもあそびたーい」
 男の子はご機嫌に母を見上げ、明日のお願いをする。
「そうね~。明日は明日になってみないと分からないけれど、遊べたら遊びましょうね。ねぇ、大ちゃん。今日のお夕飯は何がいい?」
「えっとね、僕はハンバーグがたべたい!」
 優しく微笑む母の姿を見上げる男の子は瞳を輝かせる。きっと、母がつくってくれるハンバーグが大好きなのだろう。
「じゃぁ、ハンバーグの材料を買って帰りましょうか」
「うん! やったぁ。ぁ! でも、ピーマンはいれちゃヤダ」
「はいはい。もういれませんよ~」
 なんとも微笑ましい親子は、ほのぼのとしたオーラを放ちながら公園を後にした。
 千夏はそっと優光の左手を握る。壊れ物を扱うようにそっと。
「!」
 ビクッと肩を震わせる優光は千夏を見る。千夏は微笑み返す。
「……この手は、なんだ?」
「いや、なんか、手、つなぎたそうだったから」
 威嚇してくる優光にそう答える千夏は、親子が去っていった方角を見る。
「は?」
 眉間に皺を寄せる優光の頭には、クエスチョンマークが浮かぶ。
「いつまでも甘えたな所は変らないのね」
「分かったように言ってんじゃねーよ」
 優光はどこか嬉しそうに口元を綻ばせる千夏の手を乱暴に振り解く。
「どいつもこいつも、本当の俺なんて知らねーくせに。お前だって、なんも知らねーくせに」
 悔し気に吐き出された言葉はまるで、小さい子供が駄々をこねているようだ。
「それはそうよ。だって貴方、誰にも自分を分かってもらおうと思ってないじゃない。自分を見せようとしていないじゃない。自分の殻に閉じこもって自分のことを何も話そうとしない人のことを全て分かるなんて、超能力者でもないかぎり無理よ! 自分で自分もよく分かってないくせに、他人に知ってもらえると思ったら大間違いよ!」
「マジでうるさい。なんでお前に説教されなきゃなんねーんだよ! ……はぁ。マジで死にてぇ」
 捲くし立てられるように説教じみたことを言われた優光は、コンビニでたむろするヤンキーのようにしゃがみ込み、顔を隠すように右手で頭を抱える。
「その勘違いされるような口癖もやめなさい!」
 千夏はどこか憤っているかのように一喝する。
「勘違いってなんだよ?」
「だって、本当に死にたいとは思ってないんでしょ?」
 冷めた目で睨んでくる優光に一つ息を吐いた千夏は、声音を落ち着かせて言う。
「……思って、ないのよね?」
 優光に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ千夏は、優しい声音で言って小首を傾げる。
「……違う。お前は何も分かっていない」
 優光は静かに首を振って否定する。
「分かっていないのは貴方のほうよ。貴方が自分のことを一番分かってあげられていない。今の自分が立っている場所も分からず、ずっとフラフラしてる。……貴方はずっと、ずっと過去の中で生きている」
「どう生きようが俺の勝手だろ! それに、俺は過去の中で生きているつもりはない。もしそうだとしても、過去にしか生きれない人間の何が分かんだよッ。どうせお前みたいなやつは、前向きに未来しか見ない生き方しかしてこなかったんだろッ⁉」
 千夏の泣き叫ぶような言葉達に、優光も負けじと感情をぶつける。
「分かるわ! 分かるわよッ! だって、だって私もそうだから!」
「どういう、ことだ?」
 優光は涙を溢す千夏の言葉に目を丸くする。
「私は今も過去に生きてしまっている、ということよ。自分の命よりも大切な人を失ったの。今もそこから抜け出せない。抜け出したいのに。抜け出さなきゃいけないのに。相手も自分も縛るような生き方は駄目だって、前を向かなきゃいけない! って分かってるのに、私は今もココにいてしまうの。私の魂はずっと、ずっとそこから動けないままなのよ!」
 千夏は一人で抱えていたものを吐き出すかのように泣き叫ぶ。
「そうだな。でもそれはお前が思っていることで、俺には関係がない」
 強弱もない音でそう言った優光はゆっくり立ち上がり、光を失った瞳で千夏を見下ろす。
「もう、俺の前に現れるな」
 冷淡な声で千夏を拒絶する優光は、千夏に背を向け歩き出してしまう。
「ま、待ってよ! 話は終わってないわ! 私は貴方にお願いごとがあるのよ。それを聞いてくれるまで諦めないから~!」
 千夏は両拳を下げて力の限り叫ぶ。
 その力の限りの叫びは、千夏の心とリンクしているようだ。それでも、千夏の声が優光の心まで届くことはなかった。



 翌日。

 学生達を掻き分けるように走る足で駅前に向う優光。
「待ってよー」
 後ろに千夏が続く。
「待つわけねーだろ。ストーカしてんじゃねーよ」
 その場にいた通行人達が二人に視線を向けるものの、深くは関わろうとしない。カップルの痴話喧嘩とでも思ったのだろう。
「足早い―」
 文句を垂れる千夏はポニーテールを激しく揺らし、全速力でかけていく。
 本日は人通りが多いことにより、千夏の飛びつきが不可能となり、優光は独走を貫いていた。
 三軒茶屋駅のB1Fの南口Bから入り、西改札近くの男子トイレに逃げ込んだ。
「ず、ずるーい」
 不平を叫び、トイレ付近で足を止めた千夏は両膝に両掌をついて身体を曲げ、荒い呼吸を繰り返す。
 それは優光も同じこと。
 男子トイレの個室に引き籠る優光は、汗ではりつく前髪を鬱陶しそうに右手で払い、肩で息を繰り返していた。
「な、なっんなんだよアイツは」
 舌打ち交じりに吐き出される音は、苛立ちと呆れが入り混じっていた。
「――今で五分か。諦めた……よな?」
 十分程扉に背を預けて時間稼ぎをしていた優光は、紺色のベルトに丸型の文字盤がシンプルな腕時計で時間を確認する。
「そろそろでてみるか」
 一つ大きく息を吐き出した優光は、恐る恐る男子トイレの外にでる。
「……。い、いねーよな?」
 優光は老若男女多種多様の利用者の人波を、挙動不審気味に視線を泳がせて確認する。
「さ、さすがに諦めたか」
 胸を撫で下ろす優光は速足で目的のホームに向った。
 その背後に忍び足でついていく少女が一人――。



  †


 ホームに設置されている三人掛けのベンチに腰を下ろした優光は、盛大に溜息をつく。
「お疲れですね。おかげさまで私もヘトヘトです」
 優光は聞きなれた声にゾッと身震いさせ、勢いよく首を右に振った。
「こんにちは」
 ニコリと微笑む千夏の姿を目にした優光は驚愕し、金魚のごとく口元を上下させる。
「ぉ、おま、お前ッ、なん……で?」
「人に指差しちゃダメでしょ」
 千夏はそう注意をしつつ、優光の右手を両手でそっと下げる。
 驚きで頭が働かない優光は、千夏になされるがままだ。
「なんでって、話があるからに決まってるでしょ?」
 清々しい程の笑顔を見せる千夏とは対照的に、優光は悪寒でぶるりと身体を震わせた。が、飲まれてはいけないと、頭を左右に振って自分を取り戻す。
「ぉ、俺はお前に話はない」
「私があるのよ」
「……お前の目的ってなんなんだよ? マジで警察に突き出すぞ」
 千夏の即答に眉間に皺を寄せる優光は、狂犬のようにガルルルと威嚇する。
「警察に突き出されたら困るわ」
 千夏は小さな息を吐きながら肩を竦めて見せる。
「なら俺の周りをウロチョロするな。ついてくるな。消えろ」
「そんな邪険にしないでよ。私はただ、このひと夏の夏休みを貴方と過ごしたいだけなのよ」
 千夏はホームの出入り口を勢いよく指指す優光に対し、拗ねたように口を尖らかす。
「困るならこれ以上かまうな。つけてくるな。俺の前に現れるな。そして言っていることが意味不明すぎる。一から話せ」
 眉根を下げてしょんぼりする千夏に寄り添う訳もない優光は、強い言葉のパンチを四連発する。が、そこでひく千夏ではない。
「……。私には、とても大切な人がいたの。私の命よりも大切な人よ。だけど、その人は私の目の前から消えてしまった」
 千夏はいつもより落ち着いた声音と口調で静かに話しだす。
「ストーカー女じゃ振られて当然だな」
 話の腰を折るように言った優光は、ざまぁーみろ。とでも言いたげである。
「フラれてないわよ! 失礼しちゃうわね。人の話は最後まで聞いてちょうだい」
「はいはい」
 ご立腹の千夏に気のない相槌を打つ優光は右足を組む。もう話に飽きてきているようだ。
「その人に私の声は届かないし、その人の体温を感じることも出来ない。天と地で分かれてしまったから当然ね」
 その言葉に優光は足を組むのを止め、視線を千夏に向ける。
「私はその人とまだまだ話したいこともあったし、行きたい場所もあった。なにより、もっともっとその人と同じ時間を過ごしたかったの。だけど、私の時間は止まってしまった。そこからずっと、私は動けずにいるわ……」
 悄然と話す千夏に優光がゆっくりと口を開く。
「それが、俺となんの関係があるわけ?」
 優光は無意識に自分を守るよう自身の腕を組む。
「その子と貴方は瓜二つ。貴方を見ているとその子を思い出すの。貴方と一緒の時間を過ごせば、私はきっとまた前を向け……ッ」
「ようは、そいつの代わりになって、お前の未練を断ち切らせろってことかよ?」
 千夏の言葉を最後まで聞かず問うた声には、苛立ちの音が含まれていた。
「……」
 千夏は言葉を失う。それは肯定を意味していた。
「アホらし。それに付き合って俺になんの得がある。悪いけど、昨日今日会ったばかりのお前の未練を断ち切らすほど、俺はお人好しじゃねーよ」
 リュックのように背負っていたスクールバックのズレを直すように背負いなおした優光は、勢いよく立ち上がる。それを必然的な上目遣いで見る千夏はゆっくりと口を開く。
「貴方は私と一緒じゃないの? 貴方も未練があるのでしょう? 貴方の死にたい、という口癖の本質は、『会いたい』だものね。天に旅立てば、貴方の会いたい人に会えるかもしれないもの。でも、死ぬのは駄目。絶対に」
 千夏の穏やかな微笑みにはどこか、感傷の色が色濃く混じっていた。
「ッ……」
 唐突に図星を突かれた優光は一瞬目を見開き、複雑そうな表情になる。
 焦りと苛立ちが混じる色。そして、初めての理解者に出会えた驚きと、微かな喜び。
 二人の間に沈黙が流れる。
 二人にとって雑踏の音が嫌に大きく響いた。
 その沈黙を破るように、次にくる電車を知らせるアナウンスが流れる。その音で優光は我に返る。
「そ、そんなんじゃねーから。とにかく、俺はお前に協力しない。俺には関係ないことだし、俺のこともお前には関係ない!」
 優光は逃げるように最終帯のホームの黄色い線まで走る。
 千夏は慌てて地を蹴り上げた。
「待って!」
 次の乗客者達が押し寄せてくるなか、千夏は優光の右隣に立つ。
 ごめんなさい。と、千夏に押しのけられるように立ち位置を変えられたブレザー姿の高校生男子は、恨めし気に軽く舌打ちを打った。
「ねぇ、聞いて。多くは望まないわ。一週間。一週間だけ私にちょうだい?」
 懇願する千夏に対し、優光は冷めた目を向ける。
「一週間って結構な時間じゃね?」
 まるで自分の殻に閉じこもるかのように見えないバリアをはる優光に対し、千夏は焦りの色を見せる。今の機会を逃してしまっては、もう一生口も聞いてくれないと感じたのだろう。
「そ、それはッ……じゃ、じゃぁ鳥取。鳥取りょ……ッ⁉」
 千夏が言い終わらないうちに、先程の高校生が優光の背を突き飛ばすように蹴り上げる。
「ッ⁉」
 思いもしない衝撃に、くぐもった声を溢す優光は対応しきれずバランスを崩す。
 優光の身体がホーム下に向い、前のめりに倒れていく――。
「駄目ッ!」
 悲鳴じみた叫び声と共に、千夏は両手で優光の右腕を思いっきり後ろへと引っ張った。
 浮いた両足のまま方向を変えられた優光の身体は、荒いコンクリートの地面に斜めの体制で落ちる。バランスを崩した千夏はホーム下に落ちてしまう。
「なっ⁉」
 掌から地面に転がった刹那から身体を起こした優光は、焦ってホーム下をのぞく。
 左向きのまま寝ころぶ体勢のように落ちた千夏は、とっさに両手をつき身体を守ったものの、うつ伏せの状態で倒れこんでいた。
「ぉ、おい! 生きてるか⁉」
「ぅ、う~ん。だ、大丈夫ッ」
 とは答えるものの、打ち付けた身体の傷みに苦痛の音を溢す。
「立てるか⁉」
 優光の声は恐怖と焦りで震え、額と背中からは冷や汗が流れ出す。
「痛ッ」
 両掌をついて身体を起こそうと試みた千夏だが、足首に激痛が走り、起き上がることが出来なかった。それを見ていた優光は舌打ちを打つ。
「誰か非常停止ボタン押して下さいッ‼」
 優光は力の限り叫び、ホーム下に飛び込む。
 優光の言葉を聞いた者達が一斉に非常停止ボタンを探す。
 デパート帰りと思しき四十代の女性が非常停止ボタンを見つけ、力強く押した。
「ぉ、おい、大丈夫か? 感電してないか?」
 優光は線路を踏まないように千夏の傍まで駆け寄り、千夏の身体を抱き起す。
「か、感電?」
 意味不明なことを言うとばかりに、千夏は頭の上にクエスチョンマークを浮かばせる。
「電気が通っている線路を踏んで感電することがあるんだよ。……見た限り大丈夫そうだけど。足、怪我したか?」
 優光は早口で説明する。その声と表情には焦りの色あった。
「へぇー。優光君って電車に詳しいね。以外。まさかヲタ――」
「軽口が叩けるなら余裕だな」
 千夏の言葉を遮るように言った優光は、千夏の右腕を自分の首にかけて立ち上がろうとする。
「ッ!」
 痛みに顔を歪める千夏に気がつき、素早く動きを止めた。
(この状態でホーム下ステップを使ってホームに上がるのは無理だな。こいつを抱えて誰かに引き上げてもらうことも、厳しい。ホーム下の避難スペース……は駄目だ。小学生ならともかく、俺らが避難出来るほどスペースは大きくない。運が悪ければ不測の事態なる)
 優光は頭をフル回転させ、自分達が助かる方法を錯誤する。いつもの口癖が本音ではなかったという証拠だ。
「じっとしてろよ!」
 片膝をついた優光は右手を千夏の両膝の裏に差し込み、左手を千夏の背中に当てて俵担ぎをする。
「ちょ、変なところ触らないでよ! 下着見えちゃうッ」
「誰も触ってない。下着の一枚や二枚でぷーぷー言うな。急を要すんだよ」
 優光はお尻を抑えて頬を赤らめる千夏を気にも止めず、隣のホーム下に走って移動する。その後ろでは電車の先頭が見えていた。
 二人が移動したと同時に、耳を塞ぎたくなる程の甲高い音が辺りに響き渡る。
 先程まで二人がいた場所よりほんの僅か前で、電車が急停車する。あのままあの場にいたら、轢かれていたかもしれない。
「あっぶねぇッ」
 安堵の溜息交じりに音を吐き出す優光とは逆に、千夏は恐怖で言葉を失った。最悪の事態が脳内で流れたのだろう。
「おーい、大丈夫か?」
 ホーム上にいた高校生と思しき学生が両膝を折って、二人の安否を確認する。
「大丈夫です。ありがとうございます」
 千夏を担いだまま軽く会釈する優光は、元いた線路に戻る。
 この場にいては二の舞になる。かといって、何度も非常停止ボタンを押すのも悪いと思ったのだろう。
「き、君達、ケガはないか? 今助けがくるから」
 血色を変えた三十代後半程の男性運転手が、わたわたと二人に駆け寄る。
「この子が足を少し。俺は怪我してません。すみません。電車を止めざるを得なくなってしまいました」
 優光は冷静に答え、お詫びを言う。
 数分前まで命が危うかった人間とは思えない程の冷静沈着さは、とても中学生とは思えない。
「そうか。骨が折れてないといいんだが。いや、いいんだ。非常停止ボタンを押してくれて助かった。ありがとう」
 心配で顔を歪める運転手は千夏の様子を確認する。
「ほ、骨は折れてないと思います。大丈夫です」
 そう答える千夏の声は震えており、血色も悪い。恐怖からきているのもあるのだろうが、担がれている影響で血の気が悪くなってきているのも影響しているだろう。


 ほどなくしてレスキュー隊が到着し、二人は無事にホーム下から助けられる。
 千夏に関しては、捻挫と擦り傷だけで済んだようで、応急処置を施してもらうことで事なきを得た。
 千夏を突き飛ばした少年は、一部始終を見ていた男性に捕まえられ、駅員へと渡されたようだ。
 突き飛ばした理由については、向こうが当たってきたから自分も当たっただけだと話していたらしい。当たってきた千夏ではなく、優光を突き飛ばしたのは、千夏の大切な人を突き飛ばすほうがダメージを大きくつくれると思ったからだそうだ。



  †


 帰り道。
 おんぶされる千夏も、おんぶする優光も口を開かない。
 沈黙の中で千夏は優光の体温をどこか懐かし気に感じていた。
「背中、広いね」
「なんか言ったか?」
 空気に近い千夏の言葉を聞き取れなかった優光は、首だけで振り向き、ぎょっとする。
「ぉ、お前、泣いてるのか?」
 千夏の涙に気がつきぎょっとする優光は、少し焦りの色をみせる。女の涙に弱いようだ。
「べ、別に泣いてなんていないわよ」
 千夏はどもりながらも否定する。優光は呆れたように小さな溜息をつく。
「そんなに足が痛むのかよ? 俺なんて助けなきゃよかっただろ? 運が悪ければお前が死ぬところだったんだぞ?」
「足は平気。きっと二~三日もすれば治るわ。貴方を見捨てることなんて出来るわけないじゃない。だって、もう貴方を失いたくない」
 と言う千夏は、優光の両肩に添えていた指先の力が無意識に強くなる。
「俺はお前の大切な人じゃない。それは分かってんだろ? 偽物の為に命を粗末にするな」
 嫌気がさすような顔をした優光は、咎めるような口調で言った。
「分かってるわよ。分かってるけど見捨てることはできない。だいたい、人の命の危機を助けずに傍観してるだなんて悪魔みたいな真似、私がするわけないでしょ? あとその台詞、貴方が言う?」
「……お前さ、なにがしたいわけ?」
 優光は何かを少し考え、苛立ちの含む声音で問う。
「え?」
 千夏は唐突な質問に反応することができずに問い返す。
「貸しは作りたくない。お前に付き合うことにした。気が変わらないうちに言ってみろよ」
「ぁ、あの人と、あの人と出来なかったことをやりたい。……全部やりたい」
 悲しさの中にどこか悔しさを滲ませる音が優光の鼓膜を震わせる。
「俺は、そいつの代わりになればいいのか?」
「……私にとって、貴方は変わりじゃない」
 千夏は子供が嫌々するように小さくがぶりを振った。
「いや、かわりだろ?」
「そう思われても仕方がないけれど、私にとっては代わりじゃない。どうしてなのか、今は言えない」
 伝えることが出来ない言葉を呑み込むように、下唇を甘噛みする。
「お前って、本当に面倒臭い女だな」
 優光は溜息交じりに言った。どこか呆れているようにも思える。
「嫌ならいいわ。諦める……」
「なにそれ? 急にしおらしくなるとか逆に気持ちが悪い。つーか家どこ? 駅下りて結構歩いてるけど」
「この道を真っ直ぐ行った先で分かれる二股道を左に行くと、白のカントリー調のお家が見えるわ。私の家はそこよ。もう歩けるから下ろして」
 千夏は右手人差し指を前に突き出して説明する。
「無理に歩いて悪化されても嫌なんだけど」
 優光は不貞腐れた子供のように言いながら、千夏が説明した通り、真っ直ぐ歩み続ける。最後まで送るつもりなのだろう。
「ただの捻挫よ」
「まぁーな。家の前で下ろすから大人しくしてろ。あと……」
 優光は少し前のめりの体制で左膝に左手をあて、ズボンのポケットに入れていたスマホを千夏に手渡す。
「なに?」
「番号でもIDでも、なんでもいいからお前の連絡先いれとけ。今日でも明日でも、お前のやりたいことを全部書いて送って」
 と言いながら千夏を落とさぬように背負いなおす。
「う、うん。分かったわ」
 急展開に少し戸惑いながらも、左手に持っていた自分のスマホと共に電源を入れ、自分の電話番号を登録する。
「トークアプリにしねーんだな」
 優光の顔の真下で登録する千夏に意外そうな声をあげる。
「アプリ上に内容残したくないこともあるでしょ?」
「いったいどんなこと書くつもりだよ」
 苦笑い交じりに口元を引くつかせる。早くも身の危険を感じているのかもしれない。
「ふ、普通のことよ。ぁ、あの二股道を左よ」
「はいはい」
 気のない相槌を打った優光は二股の道を左に曲がり、進み続けた。
「登録完了!」
「お前の家ってこれ?」
 登録を終えてご機嫌にスマホの電源を落とす千夏に、目の前の家を顎で指す。
「えぇ、そうよ。ありがとう。重かったでしょ?」
「別に。ゴールデンレトリバーよりは重かった」
 優光は表情を崩すことなくそんなことを言いながら、千夏をゆっくりと地に下ろす。
「……そ、そう」
 いきなりのゴールデンレトリバー例えについていけない千夏は、頷くことしか出来なかった。
「スマホ」
「……ぁ! はい」
 自身に左手を突き出してくる優光にハッとする千夏は、慌てて持っていた優光のスマホを返す。
「じゃぁ、俺はもう帰るから」
「ぇ、上がっていかないの? 疲れたでしょ? 休んでいかなくて平気?」
「大丈夫。上がる方が疲れそう。またメールして」
 慌てて引き止めてくる千夏に対し、可愛げなく答えた優光は、その場を後にした。
「ありがとー」
 千夏は夕日を浴びながら去り行く優光の背に、めーいっぱいの感謝の気持ちを叫び、優光の姿が見えなくなるまで見守り続けたのだった。