頬を突き刺すような寒気に身をすくめる。
息を吐くたび、薄い藍色を零したような夕方の空に白い靄が溶け込んでいく。コンビニで買った安物のビニール傘に雪の混じった雨がしきりに降り注いでいた。
ぱきり、ぱきり、と薄氷を割りながら律は行き慣れた道を慎重に歩く。蛇行した自転車のタイヤ痕が律の行く道に続いていた。
連日の止まない氷雨がより一層寒さを引き連れているのだろう。傘の露先から垂れた冷たい雫が律の頬に滑り落ちる。まるで、誰かがずっと静かに泣いているようだった。
目的地は数分程度で辿り付いた。
律は、門扉の前に立ち、いつも通り2階のとある一室を見上げた。カーテンで閉め切られたその部屋から明かりが漏れることは無く、律は小さく息を吐いた後、インターフォンを鳴らす。数十秒後、彼女によく似た顔立ちの妙齢の女性がドアを開けた。律は傘を差したまま、小さく会釈する。
「こんばんは」
「あら、律くん。今日も来てくれたの?」
「はい。……あの、」
後に続く言葉を律は紡ぐことが出なかった。ドアを開けた瞬間の、表情を見ればすぐに察することが出来たからだ。
「ありがとう、律くん」
「……俺は、何も」
「そんなことないわ。あの子、律くんが来たよって言うと少し反応があるのよ。……すっかり、身体冷えてない? よかったら上がっていって。ココアでも淹れるわ」
招き入れるようにドアを開く彼女に、律は頭を横に振った。
「いえ。今日はこれを渡しに来ただけなので」
「あの子に?」
「はい」
右手に握りしめたそれを、差し出す。彼女はそれを門扉越しに受け取った。
「これを渡せばいいのかしら?」
「はい」
緩く頷くと、続けざまに律は言う。
「……あとは、透花の好きにしていいよって、伝えてください」
他の誰がなんと言おうと、透花が選んだ選択を尊重する。だから、透花に選んで欲しい、その問いかけが手渡したUSBの中にすべて込められていた。
例え、彼女がこの曲を聴くこともなくゴミ箱に投げ入れたとしても。
二度と、『創作』をすることがなくなったとしても。
闇の正義ちゃん@seigi_125
え、待って待って。
これってさ、トレパク?
完全一致なんだけど。
きっかけは、単なる個人の『つぶやき』だった。
フォロワーも30人もいない、知名度も無いに等しいただの雑多アカウントでそれはツイートされた。その内容は、とあるアカウントで描かれたイラストと、『ITSUKA』の『劣等犯』MVで出てくるワンシーンのイラストを重ね合わせてトレースした画像だった。
それは、瞬きをするよりも速く、そして爆発的にインターネットの海に波を起こした。
たかが一つ石を投じただけの、小さな揺らぎは、匿名という大義名分を持った様々な人間の目に晒され、拡散され、瞬く間に苛烈な火となって燃え盛った。
そうそれはまさしく、『炎上』と呼ぶに相応しい有様だった。
鏡乃@ zjtmvxu
盗作とか最低。
シルタネン@0KsZK___
やば。丸パクリじゃん。
こんだけ一致しててよく気づかれないと思ったな
しらそ戯曲@Lz1X1NFp
無許可で人のもん取ったらそれは窃盗罪なんですけど?笑
@こいん@y72sHX
『劣等犯』じゃなくて『窃盗犯』じゃんw
茶織@M5J0yL
【悲報】ITSUKAさん丸パクリで炎上。言い逃れできないレベルで草
カレンちゃん@Q2CFW000D
掘れば掘るほど出てくる出てくる笑
もしかして他のMVでもやってたりして。特定班よろ!
shinori@j5a4ZO79M
まじでmelの評判まで悪くするから本当にやめてほしい。
melもこんなパクリ集団と絶対コラボしないで…
不安定ロメオ@Ob0kE8w3n
トレパクして平然とネットに投稿できる神経がやばい
夢落ち@k3i5eqHhi
友達の絵師もトレパクされて、結局界隈から出てっちゃったから本当に許せない
一生懸命描いたもの他人に盗られる人間の気持ち考えて
#トレパク #拡散希望
愛一薯@nAoQWM1
死んだ方がいいよ。聴かなきゃよかった
シトシト狂@w5yhwH5
これもう垢消して失踪しかないね。
正直あんまりMVも好きじゃなかったし、消えてさっぱり笑
花桜里@55947j9
公式のITSUKAからもツイートがないのに決めつけるやつ何なの?
向こうがパクったかもしんないのに
熔@c09x4989l0_
擁護してるキモい信者大杉
ガルビアーティ@sd832si334
別にITSUKAのファンじゃないけど、
当事者たち以外がとやかく言うのはお門違いでしょ。
匿名だから何言ってもいいわけじゃない。
行き過ぎた誹謗中傷で攻撃すんのはただの正義マン
悪寒が走る地獄図@OZ9j1vmM76
信者乙wwww冤罪なわけないからwwww
ロセル@1125_momoiro
MVのせいで曲が台無し。絵師だけすり替えよ?
これぐらいのレベルならいくらでもいるんだからさ
見るに堪えない身勝手な言葉が、無責任な言葉が、卑劣な言葉が、親指でスクロールするだけで次々と流れていく。
透花はその画面をまるで他人事のように眺める。肌を刺すような重い空気が、『アリスの家』の一室に流れていた。
纏に呼び出された『ITSUKA』のメンバーたちは、ただただ永遠にも感じる沈黙の中で険しい顔つきで立ち尽くしている。
纏は膝をついて、黒髪で隠れる透花の死人のように冷白い頬に触れた。
「……透花、」
透花がスマホから視線を上げる。
その視線が合わさった途端、纏はぐしゃりと顔を歪めて、その瞳から逃げるように顔を下に逸らした。用意していた言葉が何一つ喉から出てこなかった。代わりに出てきた言葉は余りにか細かった。
「答えて、透花。……透花は、……そんなこと、してないって、言って」
頼むから。お願いだから、否定して。
それはまるで、天から降ろされたたった一本の細い蜘蛛の糸に縋るような、祈りにすら聞こえるような声だった。
SNS上では、透花の描いた絵がトレパクだ、と検証した画像が次々に投稿されていた。
トレパクとは、「トレース」と呼ばれる模写で自分のものと偽って公開することであり、つまりは『トレース』と『パクリ』を組み合わせたネットの造語だ。
発端となったそのツイートを上げた張本人は、透花が盗作をした確たる証拠を追加で何度もツイートしていた。
何より、投稿日が決定打になった。
件のイラストがSNSに投稿されたのは、MVが初公開された『mel』のライブよりも、1か月ほど前。要するに、どちらが先に公開したかだけに焦点を絞れば、透花がそのイラストを盗作するには十分な猶予があったいうことだ。
そして、その答え合わせができるのは、他でもない透花だけだった。
「……わ、たしは」
透花は、手にしたスマホを握りしめた。
「……誰かの作品を、盗んだことは……ない」
彼女の言葉に皆一様に胸を撫でおろした。しかし、透花は唇を強く噛み締め、その空気を断ち切るように続けた。
「でも、わたしは……それを証明するだけの証拠を……なにも、持ってない。だから、わたし、は……みんなに、信じてほしいって、それだけしか言えない。こんな都合のいいことしか、言えない」
言葉なんていくらでも偽ることが出来る。求められているのは、明確な証拠だ。
確かに透花が自分自身で生み出した『創作』であるという証拠を、透花は何一つ持ち合わせていなかった。
「ごめん、なさい」
譫言のように、呟いた。
「ごめ、ごめん、なさい。ごめんなさ、わたし、は……」
直視するにはあまりに痛い現実から目を背けたくて、透花は両手で自分の顔を覆う。
これ以上、何も見たくなかった。何も聞きたくなかった。だというのに醜く歪んだ視界の中、それでもなお、覆い隠せなかった指の隙間から透花に突き付けてくるのだ。お前の逃げ場所なんてどこにもない、目を逸らすな、と頭を押さえつけ、せせら笑いながら、呪いの言葉を吐きかけるのだ。
「わたしの……わたしの、せいだ」
最悪な結末を引き寄せたのは、まぎれもなく。
「……ごめんなさい、わたしの、全部、わたしのせいだ」
初めて思い知る。生み出した創作が、今この瞬間にも残虐に無慈悲に壊されるのが、それをただ見ていることしかできない悔しさが、怒りが、辛さが、これほどまでに途方もないことを。
「わたしが、みんなの創ったものめちゃくちゃにして、あんなに頑張ったのに、みんなでっ、たいせつに、つくったのに……! わたしが、あんな絵を描かなかったらっ、ごめん、ごめんなさい、わたしのせいで、ごめんなさい」
壊れたラジオのように透花は何度も繰り返す。
もはや誰に許してもらうための言葉なのかすら、分からなかった。もしくは誰でもよかったのかもしれない。誰かに許してほしかったのだ、この罪悪感から、苦痛から、現実から、救い出してくれるなら、誰でもよかった。
(もし誰にも許されなかったら、そうしたら、わたしは、)
あまりに脆く柔い内側が、ゆっくりと崩れ落ちて奈落の底に沈むような感覚に、透花の目の前が真っ暗になった。
(わたしは、もう、二度と、)
「透花」
透花の頭は、大きな手のひらによって引き寄せられた。とん、と温かな体温が頬に触れる。左の耳から、心臓の鼓動が直接伝わってくる。
一瞬何が起こったかが理解できずに固まる。しかし、透花の頭から降り注ぐ声色が現実に引き戻す。
「大丈夫、大丈夫だから。落ち着け、透花」
それは、律の声だった。
「俺は信じるよ、透花のこと」
だた、それだけの言葉が、透花の目頭を熱くさせた。
「っ、わたし……本当は、嘘ついてるかも、しれないんだよ?」
「うん」
「平気で、誰かの創作を盗むような、人間かもしれないんだよ……?」
「うん」
「それでも……、わたしを、信じてくれる……?」
「信じる」
「な、んで」
「透花が他の誰よりも、真剣に創作に向き合おうとしてること、俺は知ってるから。そんな奴が出来るわけないだろうが」
どうして、と透花は震える唇を噛み締めた。油断すればすぐに声が漏れてしまうと思ったからだ。
「ネットの人間が何言おうが知ったこっちゃねえよ。俺は、俺の目で見たものだけを信じる。だから、俺は透花の言葉を信じる」
その言葉に、透花がどれほど救われたのか、きっと律には理解できないだろう。気が付いたら透花は、律の胸に縋って赤ん坊のように泣き出した。より一層、透花の背中に回った腕に力が入る。
項垂れた透花の手の甲に、誰かの手がそっと重なった。
「あたしも、透花ちゃんの言葉を信じる」
にちかがお日様みたいに微笑む。その目じりにたくさんの涙をためて、それでもなお笑って見せた。
「コイツと同じ意見なのはなんか腹立つけどさ……、でも、その通りだよ。あたしも知ってる。透花ちゃんがどんだけ真剣に向き合って、あのMVを描いてくれたのか。じゃなきゃ、あんな心を打たれる絵なんて描けないもん。それを知らない外野が、憶測だけで好き勝手言うのが、あたしは許せない」
にちかは、少しだけ考えるようなそぶりをしてぱっと思いついた案を口に出した。
「あたしにどれだけ影響力があるかわかんないけど、SNSで呼びかけてみる。透花ちゃんは盗作なんかしてない、何かの間違いですって。そうしたら、もしかして、」
「──そんな無駄なことしたって、意味なんかねえよ」
言葉を遮られたにちかは、静かに後ろを振り返った。両手を強く握りしめた纏が、険相な顔つきのまま、もう一度繰り返す。
「無駄なことだって言われなきゃ分かんねえのかよ」
「……は? ……それ、どういう意味よ」
「意味も何もそのまんまだよ。そんな無意味なことして何になる?」
「ちょっと、纏」
頭に血を上らせたにちかが立ち上がって、纏に詰め寄る。横に立っていた佐都子が、慌てて纏の腕を掴んで引き留めるが、纏はそれを強引に振り払った。ふたりは互いしか視界に入っていないのか、まるで意味を成さない。
「纏、あんた自分が何言ったか分かってる?」
「してる。その上で言った、無駄なことだって」
「っ、纏!」
「ちょっと、ふたりとも!」
烈火の如く燃え上がったその衝動で、にちかの手は思わず纏の襟首を掴み掛かった。
しかし、纏は顔色一つ変えずただにちかを見下す。こちらが責めているはずなのに、ぴくりとも動揺しない纏のその気迫に、にちかは一瞬怯む。
「はは。本当さ……何にも分かってないね、にちかは」
「……何が!」
「歪んだ正義感を持った人間が、悪意のある人間より、何倍も残虐なんだよ」
感情を押し殺した纏の言葉を耳にした瞬間、透花は胸を抉られるような痛みに顔を歪めた。
「お前だってネットの書き込み見たろ? あいつらにとって、盗作疑惑かけられてる『ITSUKA』は成敗すべき悪で、その悪を倒す為にっていう大義名分のもと歪んだ正義感振りかざして悦に浸ってんの。そんな奴らがさ……にちかの言葉に耳を貸すと、本当に思うの? はは。……結果なんか目に見えてるよ。『mel』が『ITSUKA』を庇ったってさらに炎上するってオチがさ!」
「そんな、こと、」
「んなことあんだよ! お前だって知ってるだろ、夕爾の漫画が好きだったならさ!! あいつがどんな、末路を辿ったのか。それでも同じこと言えんのかよ!? なあ!?」
にちかは血が滲むほど唇を噛み締めた。
纏の言葉を何一つ反論することが出来なかった。大好きだった漫画が、SNSで誹謗中傷される辛さをにちかは知っている。擁護に回れば、名も知らない幾つものアカウントから吊し上げられ、笑いものにされ、信者だと馬鹿にされた。純粋な読者ほどその餌食にされた。
ただ、好きなものを傷つけられたくなかった、それだけだったのに。
「そんなのっ、馬鹿なあたしだって、分かってるよ! でも、じゃあっ、他にどうしろって言うのよ!! 何も反論せずただ見てるだけ!? ……だって、透花ちゃんはやってないってそう言ってるんだよ? 纏は、それを信じてあげないの?」
「僕だって、信じてるよ。透花がそんなことする奴じゃない。そんなこと、ここに居る誰より分かってる!」
「じゃあっ、」
「だから、現実はそんなに甘くないんだよ! やったことの証明なんかより、やってないことを証明する方が何十倍も難しいんだよ」
纏に掴み掛かった手はだらりと落ちた。
誰も纏を反論する人間はいなかった。纏は、深く息を吐いて重々しく口を開いた。
「ひとつだけ、方法は……ある」
纏の視線が合う。その表情を見たとき、透花は纏がこれから何を言おうとしているのか察した。
「──盗作を認めて、謝罪する。それが今できる、最善の方法」
皆一様に目を見開いて絶句する。ただ一人、透花を除いて。
「っ、纏、それは」
声を荒らげた律を遮るように、纏は慟哭した。
「言われなくても分かってる! けど、これしかないんだよ! このまま放置し続けたら、僕たちじゃ透花を守れなくなる! 今はまだ作品に批判の目が向いてるけど、このまま炎上し続ければ、透花個人を攻撃するようになるかもしれない。そうなったら、学校も、顔写真も、住所も、何もかも晒される。夕爾の時みたいに。そうなったら、僕たちには守れない。…………僕たちみたいガキには、何もできないんだよ! ……ごめん、透花」
今透花がどんな顔をしているのか、直視することが纏には出来なかった。
「僕は……こんな、最低な方法しか思いつかない」
もし実行すれば、たちまち炎上は鎮火するのだろう。
けれど裏を返せばそれは、透花が『盗作』をしたというレッテルを一生貼られるということでもある。『ITSUKA』と活動していくことは、おそらく不可能だろう。世間の目は、あまりに厳しい。どれほど良い作品を創ったとしても、色眼鏡で見られ続けることになる。純粋に作品を見てもらうことはできないだろう。
『盗作』を認めることは、すなわち『ITSUKA』を解散することに他ならなかった。
「透花が、決めて。僕は、それに従う」
罪を認めるか、否か。ここで、『ITSUKA』を終わらせるか、否か。残酷な二択が、突き付けられた。
「わたし、は……」
呼吸が出来ない。身体の感覚が奪われていくようだった。世界にたった一人取り残されたかのような孤独感に、眩暈がする。
ふっと身体が羽が付いたような浮遊感の中、透花は思い出す。
この世界すべてを憎んでも足りないほどの鮮烈な怒りに満ち満ちた瞳がこちらを見ている。
『お前も俺に──死ねっていうのか?』
そこから、透花の意識は途切れた。
*
病院の待合室は深い青に呑まれていた。
大きな窓ガラスから差し込む月夜の明かりが、ビニール床に反射して点々と続いている。
静寂に包まれた待合室の一角で、纏はただぼうっと誘導灯の明かりを眺める。ぱちり、ぱちり、と今にも電球の切れそうな音が響き渡る。
「纏」
ふと、纏の横から影が差した。声の主は、振り返るまでもなく律だ。
「ん」
一音だけ言い放って、律は自販機で買ってきたホットコーヒーを空白の席に置く。纏が受け取るのも確認せず、律は手に持ったコーヒーのプルタブを開けて、一口煽った。開けた缶の口から湯気が立つ。
「透花、さっき目が覚めた。軽い貧血みたいなものだって」
強張っていた身体が弛緩した。その言葉を最後に、ふたりの間に沈黙が流れた。
纏は、置かれたコーヒーに手を付けることなく、立ち上がる。
そのまま横を通り過ぎようとする纏の腕を、思わず律は掴んだ。
「どこ行くつもりだよ」
纏はしばしの無言の後、諦めたように息をつく。
「……、透花のところ」
「行ってどうするつもりだよ」
「は、言う必要ある? いいから離せ」
掴まれた腕を振り払おうと乱暴に寄せようとするが、律はそれを許さなかった。腕に跡が残るほど強く掴む。
「落ち着けよ、纏。お前らしくない」
は、と纏の口から零れたのは、自嘲するような乾いた笑い声だった。
「……僕らしいって、何?」
「いつものお前はもっと冷静に状況を見てる。今のお前は焦り過ぎて周りが見えてない」
「この状況で、冷静でいろって?」
「そうだよ」
「今こうしてる間に、何んにも知らない他人が透花のことを誹謗中傷してるのにか!? それでも冷静でいろってお前は言うのかよ!!」
「少なくとも、今、纏がやろうとしてることが間違いだってことは、俺にも分かる」
「っだから、方法はもう一つしかないんだってば。それなら、炎上が広まる前に対処すべきだろ!? だから僕は、」
「二度と透花が創作しなくなってでも、か?」
纏は一瞬、目を見開いて、くしゃりと顔を歪めた。
言い訳がましい言葉がそこから喉を通ることは無かった。力なく首を垂れる纏は、それまで抵抗していた腕をすとんと重力のままに落とした。
「……どうして、」
纏は、揺らぐ視界の中、ただ嘆いた。
「どうして、僕は……こんな、無力なの……」
重力に逆らうことなく、涙が零れ落ちる。
「ねえ、律でも、いいから」
「……」
「誰でも、いいから。どうにか、してよ」
喉に絡みつく息苦しさに藻掻くように、纏は救いを求め律の胸に縋る。
「僕は、透花が創作を嫌いになるの……もう、見たくないよっ……」
笹原夕爾という一人の天才が、いた。
彼の才能が世間に認められたのは、彼が高校一年生になった頃である。
若干16歳という若さで、才能を認められた天才。
彼の最も特筆すべき才能は、その成長速度にあった。とある大手の漫画雑誌に投稿した作品が、編集者の目に留まり、ついに連載が開始したのは中学3年のころである。
それから、彼は驚くべきスピードで作画や構図、ストーリーの展開において、成長を見せた。次第にその漫画に魅せられていく読者が増えていった。
誰もが、彼を天才だと称える。人気絶頂の最中、彼の漫画が名誉ある漫画の賞を受賞した。さらに彼の漫画は世間に名を轟かせた。何より、16歳という若き天才という肩書が、メディアから大いに持て囃されたのだ。
そんな最中に、事件は起こった。
『二目メメ』の漫画は、俺の作品の盗作だ。
とあるネットの掲示板に書かれた、一文で、界隈は大いに揺れた。
匿名という隠れ蓑を利用して、『二目メメ』の漫画に描かれたストーリーが盗作である所以を、次々に投稿していった。そのどれもがどちらとも判断が付かないような曖昧な情報ばかりだった。確かに、それが確たる証拠ではないと主張する人間もいた。ただ、この世界はおかしなことに、声の大きい人間の方が正義だと思われる。それが例え、事実であろうが、無かろうが。
情報は次第に単純化され、ただ『二目メメ』が盗作をした、という情報だけがネットの海に流れ、多くの人間の目に触れていく。
彼の作品は、休載に追い込まれざる負えなかった。それが彼らの正義感をなお煽った。ほら見ろやっぱり、『二目メメ』は盗作だった、と。そこからは、およそ目にも当てられない最悪の方向へと向かっていった。
情報がどこから洩れたかは分からない。
恐らく、彼の学校関係者の誰かか、少なくとも彼の情報を知る人物から、『笹原夕爾』に関する情報がネット掲示板に晒された。その情報は直ちに削除されたものの、残念ながら手遅れだった。『笹原夕爾』という個人情報は瞬く間に全世界へと公開された。
【速報】漫画家『二目メメ』氏の通う高校に不審者が侵入
『本日未明、漫画家二目メメさんが通う高等学校に凶器を持った不審者が侵入した。高校職員の通報によって警察が駆け付け、その場で現行犯逮捕された。男は「盗作をする人間は生きていてはいけない。だから殺すべきだ」などと供述している。生徒数名が軽いけがを負った。また、登下校時を狙った計画的犯行とみられ、警察は引き続き慎重に捜査を───』
その日から今日に至るまで、夕爾が物語の続きを描くことは、なかった。
皮肉なことにその事件をきっかけに、全く動かなかった大人たちが未成年を危険に晒してしまったと、当時のニュースやネット、SNSは徹底的に規制され、事態は沈静化されたのである。
それからだ。
透花が『創作』を恐れ、描かなくなかったのは。
「……本当はね、透花が描かなくなって安心した」
毎日のように通っていた『アリスの家』にも来なくなって。描きかけのキャンバスの色が日に日に色褪せていって。彼女にとって、『創作』が無価値なものへと変換されていって。
それでいいと、纏は思った。
「だってさ、あいつら、すごい似てんの。一度のめり込んだらスポンジみたいに吸収しちゃう天才肌のとことか、こだわり強くて決めたら曲げないとことか、……指でつついたら壊れちゃいそうなほど、心が繊細なとことか」
「後悔してるか?」
「してる」
律の問いかけに、纏は即答した。
「きっと、僕は、透花を止めるべきだった。今じゃなくても、透花を傷つけるようなことを言う人間なんて幾らでもいる。いつかこんな日が来てもおかしくなかった。分かってた、分かってたよ。……なのに、止められなかった」
消化できない痛みから逃れるように、纏は息を吐き出した。
「……これは俺の持論だけど、創作って、誰かの創作を噛み砕きながら自分のものに落とし込むことだと、俺は思ってる」
ゆっくり、口に含んで。咀嚼を繰り返す。自分に馴染むまで。
「今、この世界にどれだけの創作があると思う? 何十、何千、何万、途方もない数の創作がひしめき合った中で、誰の影響も受けずに創作するなんて不可能だ。俺だって、影響を受けた曲なんて腐るほどある。……創作したことない奴はさ、きっと知らないんだ。自分が見て、聴いて、触れて、感じたものでしか何かを生み出せないってことを」
律はゆっくりと瞼を閉じる。浮かぶのは、件のツイートだ。絵に関しては全くの素人である律にも、あれが意図をもって描かれたものだと分かった。
「あれは、自分のものに出来ていなかった。だから、盗作になった」
「律、お前……透花が盗作したって言いたいのか?」
「してないって信じてる。だから、なおさら混乱してるよ」
「……どういうこと?」
「もし透花が盗作してないとするなら、向こうが盗作したってことだろ?」
「そ、れは」
纏の瞳が分かりやすく揺れた。
そうして、何かを言いかけるように口を開いたが、纏にしては珍しく歯切れが悪そうに、眉に皴を寄せ黙りこくる。
「証拠があれば、今の状況を変えられるか?」
律の言わんとしていることは、すぐに纏は理解した。
「……もし、証拠が見つかったとしても、透花が描きたくないって言ったら?」
「そん時はそん時だよ」
「行き当たりばっかりが過ぎるでしょ」
「それでも俺は、まだ諦めたくねえわ。透花の創作が好きだから。纏は違うのか?」
立ち上がった律が、纏の目の前で手を差し伸べる。見上げれば、影の差した暗がりの中で、唯一、浮かぶ二つの眼が纏を射抜いた。
クソったれ、と、纏は心の中で悪態をつく。
どうしてこんな時に、似ても似つかない律の瞳が、透花の青に重なって見えるのか。
気が付けば、纏の左手は律の手を握り返していた。そのまま、律の腕を伝って海の底から引き上げられるように纏の身体は立ち上がる。
「1週間」
「何が?」
「猶予。SNSで事実確認中とか掲載して適当に引き延ばしても、それが限界。1週間で証拠を見つける。死ぬ気で」
律はくいっと顎を上げ、不敵に笑った。
「上等」
ITSUKA@ituka_official
【ご報告】
平素より、『ITSUKA』を応援いただきありがとうございます。
この度、『ITSUKA』の楽曲MVにつきまして、盗作ではないかといったご意見が挙がっております。現在、MV製作者や当事者の方へ事実確認を行っております。
状況が分かり次第、ご報告させていただきます。またこの件につきまして、憶測や事実と異なる───
その日、『ITSUKA』がSNSに上げたツイートは、一時間で3万以上のリツイートされた。トレンドに並ぶ『盗作』『ITSUKA』『MV』『トレパク』『mel』の羅列。
纏は、透花の個人情報が洩れないようSNSも動画サイトのコメント欄もすべて閉鎖した。
*
古臭いウッドドアには『close』のプレートがぶら下がっていた。
いつも通り、ノブを捻ってドアを開けるとからん、からん、とベルが鳴る。底冷えするような寒さが、店内の暖房でほんの少し和らぐ。適当に巻き付けたマフラーを外しながら、視線を上げると、バーカウンターを挟んで見知った二人が談笑しているのが見えた。
ベルの音に気付いたらしいバーテン服の男が、お、と声を上げた。
「お帰り律。寒かったろ? コーヒーいるか?」
「いる」
「はいよ」
カウンターの奥に消えていく叔父の姿を見送りながら、律は無言で彼女の隣に腰を下した。
「……どうだった?」
にちかは、恐る恐る律に尋ねた。軽く息を吐いて首を横に振る。
「そっか」
あっさりとした返事を返すと、にちかは冷めきったコーヒーに口を付けた。
「……お前の方こそ大丈夫なのかよ? 盗作騒動で、『mel』も結構叩かれてんだろ。しかもライブの動画も出回ってるし。身バレとか」
「大丈夫大丈夫。さすがにクラスメイトもこんなもっさい見た目の女が『mel』だなんて思わないでしょ」
「あーそれもそうか」
「あ? 喧嘩なら買うけど?」
「当店には喧嘩は販売しておりませーん」
「屁理屈うっざ」
いつもの軽口のやり取りをしているだけで、律の心持は少しだけ軽くなった。
透花が倒れ、病院に運ばれた日から4日ほどが経った。
幸い異常なしと診断結果が出たため、透花は母親に連れられ、すぐに帰宅することが出来た。
その日からである。透花からの連絡は途絶えたのは。
律だけではない。纏や、佐都子、にちかもまた、返信が返ってくることは無かった。
各々が透花に会うため、彼女の家に通っているが、今だ誰も会えず仕舞いである。
纏と約束した期限まで、あと3日。
悪魔の証明、などと、よく言ったものだ。
やっていないことを証明するための、確たる証拠が何一つ見つからない。
そして、律の焦りをさらに助長させるように、炎上の火花は様々な界隈へと飛び火していた。『ITSUKA』という名を知らないような人間にも知れ渡るほどには。纏の言うように、事実確認中などと言い訳が通じるのは、1週間が限界だろう。
それに加えて、透花の音信不通状態。証拠が見つかったところで、透花にこれ以上描く気力がなくなれば、今やっていることは全て無駄な徒労になるだろう。
この最悪な状況を打破するために、律は、透花の母親にUSBを託した。初めて、透花が律に書いてほしいと願った曲だ。透花が、透花自身と向き合うために、あるいは過去と決別するために描くと決めた曲。
後は、もう、ひたすら透花を信じるしかない。
「しゃんとしろ!」
唐突に、背中に衝撃が走る。ばしん、と小気味のいい音とともに叩かれた背中の真ん中あたりが猛烈に熱くなった。
「ってーな!」
「あの夜、ステージから逃げたあたしに説教垂れた人間とは思えないわ。なにを弱気になってんのよ」
「……俺の黒歴史いじんな」
「あっはっは奇遇だこと、あたしも黒歴史だわ! 何なら今度はあたしが説教垂れてやりたいくらいにはね」
痛いところをついてきやがる、と律は心の中だけで文句を垂れる。
「つーか、アンタも纏も舐めすぎ」
「何が」
「透花ちゃんは、お前らが思ってるほど弱くないっての」
重い前髪から見え隠れする強い意志のこもった真っ黒な瞳に、情けない顔をした自分が反射する。
「女だからって、勝手にヤワだって決めつけんな。言っとくけど、ネットに自分の創作物曝け出せるような女の子のメンタル弱いわけないから」
あたしも含めね、とにちかは口角を上げて笑う。
「けどさ、もし、もしも、だよ? 透花ちゃんが竦んで一歩も動けなくなってるんだったら、後ろから思いっきり蹴っ飛ばして、一発喝入れてやれ。そんで、あとは全部まるごと受け止めてやるって、でっかい懐見せつけてやればいいの。それが惚れた男の義務ってやつじゃん」
「……にちか」
律の呼びかけに、にちかは不愛想に答える。
「何よ」
「お前って意外と、いい奴だったんだな」
一瞬呆けたように目を丸くしたにちかは、軽めのパンチを律の脇腹にお見舞いした。
「意外と、は余計だっつの」
いてて、と小突かれた箇所を押さえて大袈裟に痛がりながら、律は神妙な顔で言う。
「……てか、俺ってそんな分かりやすい?」
纏だけでなく、にちかにまで看破されるほど、分かりやすく態度で示したことなど一度もなかったはずなのに。おそらく、当の本人には全くと言っていいほど伝わっていないだろうけれど。
対しておかしな質問をしたわけでもないのに、にちかは言葉の意味を理解してから数秒後、ぷっと吹き出したかと思えば、店内に響きわたるほどの大声で笑う。
そうして、口を開いた、その時である。
「きっ、緊急事態!」
けたたましくドアベルを鳴らし、外から飛び込んできた纏の鬼気迫る声が、それを切り裂いた。恐らくここまで全速力で走ってきたのだろう、風と雪で髪もマフラーも乱れた纏が肩を上下させながら、真っ赤に染まった右手で握りしめたスマホを律たちに向ける。
「っ、証拠、見つかったかも、しれない」
*
あの日からずっと、夜に囚われている。
いつもは固く閉じられていたドアが、ほんの少しだけ開いていた。
しゃきん、しゃきん。
フローリングの床はまるで氷のように冷たく、素足で立っているだけでたちまち体温を奪われる。
しゃきん、しゃきん。
真っ暗な夜の暗がりの中で、ドアの隙間から漏れ出したぼやけた月明りが伸びている。
しゃきん、しゃきん。
何かを裂くような音が、一定のリズムを刻んでいた。そこに感情など、一切なくて、ただ淡々と機械のように。獰猛な狼の唸り声のような風が、地面を這うように時折聴こえてくる。ますますドアの向こう側に怪物でもいるのではないかと思わせた。
しゃきん。
ついに音は止んだ。手で覆ってもいないのに、心臓の音が耳の奥でやけに鳴り響いていた。気が付けば、血の気を失った真っ白な手がドアノブに伸びていた。
本能が警告していた。絶対に開けてはいけない、と。
けれど、一度だけ。
透花は、ただ一度だけ、ドアに手を伸ばしてしまった。
ドアの向こうに待ち受けている現実が、悲哀に満ちた物語よりも残酷だとも知らず。
「なに、してるの」
黒。
黒、黒、黒。
黒、黒、黒、黒。
夜の不気味な闇すら、すべて飲み干してしまうほどの、黒。開いた窓から吹く風が、嗅ぎ慣れたインクの匂いを運んでくる。首の折れた人形のように項垂れ、足元に広がった無残な紙きれを見下ろす兄の手には、鋏が握られていた。刃先からぽたり、ぽたり、と雫が落ち、原稿用紙に真っ黒な染みを付けていく。
出来上がった物語の死体の上で、兄は、嗤った。
「……ふふ、あは、あははは! なにしてるって? 処分してるんだよ、要らないものだから」
目の前にいる人間は、兄ではなかった。
足元に落ちた物語たちを蟻の巣を踏み潰すみたいに、踏み付ける。
「誰にも読まれない漫画に、存在価値なんてない。ただの、塵だよ。塵は処分するものだろ? だから捨てる、当たり前のことじゃん」
透花にとって、兄は憧れだった。兄のようになりたいと、思っていた。
そのすべてを全否定された透花にはその言葉がどうしようもなく耐えがたかった。
「……塵なんかじゃ、ないよ」
口から出た言葉は、吹き込む風に攫われそうなほど、あまりに弱弱しかった。
「やめようよ、お兄ちゃん。……いま捨てたらきっと、もう、二度と……描けなくなるよ……」
透花は、上澄みのような綺麗事しか喉を通らない。こんな言葉を積み重ねたところで、過去が変えられるわけでも、事態が好転するわけでもないというのに。
透花の薄っぺらい言葉一つで救われる世界だったのなら、どれほどよかったことか。
ああ、どうして。あまりに不公平じゃないか、不平等じゃないか。
だって、この世界はたった一つの言葉だけで、兄から創作を奪いさったというのに。
「──黙れ!!」
びり、と窓ガラスが軋むほどの慟哭だった。
「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れぇえええ! どいつも、こいつも、五月蠅いんだよ! 描き続けても、死ね、死ね、死ね、描かなくても死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返しやがって語彙力皆無の低能が、てめえらみたいなゴミカスにサンドバックにされる覚えなんかひっつもねえんだよ!! こっちが必死に命削って描いたもん、盗作だって全否定されて、ただ最年少って話題作りのために選ばれただけとかこき下ろされてさァ、俺以上の才能もない能無しの分際で勝手に評価すんな虫唾が走んだよッ!! ペンも握ったことねえ奴らに漫画の何が、創作したことねえ奴に物語の何が分かるってんだ!? てめえらの暇つぶしに俺が、どんだけ人生賭けてるのかも知らねえ癖に知ったように俺のこと語るんじゃねえよ、俺の漫画に金払って読んでもねえ奴らが都合のいい上辺の情報だけ聞き齧って説教垂れて気持ちくなってんじゃねえよ、俺の漫画はお前らにレイプされるために描いてねえわ、気持ち悪いんだよ吐き気がするっ……! いいから黙って読めや! どうして誰もちゃんと読んでくれないだよっ、どうしてっ、どうして、それすらできない奴らに俺の漫画をこき下ろされなくちゃいけねえんだよ!! 頼むからさァ、他人の道を妨害するだけの無能な人間は、その辺で誰の邪魔にならないように縮こまって一生自分のしょうもねえ人生嘆いてろや!! ああ、クソ、クソクソ、クソッ!! なんで、なんで、なんで、なんでだよ、なんで俺がそんな奴らのせいで奪われなくちゃいけないんだよっ、どうして俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだよッ! なあ、頼むよ、他の何を奪ったっていい、全部くれてやるからっ……! だから、俺から『これ』だけは奪わないでよ。俺には『これ』しか、無い。これだけが、俺の存在価値だ、無くなったら俺は……なのに、なんで、なんでっ……」
壊れていく。
「………ああ……、描かなければ、よかった」
砂の城が瓦解する、ゆっくりと。
「こんなクソみたいな未来が待ってるって知ってたら、俺は……どっかで、立ち止まれたのかな」
彼の口からその問いかけに対する答えが、続くことは無かった。
「……もう、いいよ。もう、疲れた」
それが、合図だった。
「俺が創った、俺の物語だ。これ以上、他の誰かに壊されるくらいなら、もういっそ───全部、終わりにする」
彼の手に掬い上げられた物語の死骸たちが、今、この瞬間に、吹き荒れるような風と共に窓の向こう側の闇に攫われようとしていた。
その光景は、まるで地獄だ。
透花の身体は、彼女が脳裏に信号を出すよりも先に動いていた。窓の向こうへと伸びようとしていた手を、無意識に掴んでいた。無我夢中で口走ったその言葉が彼の耳に届いた刹那、透花の身体は振り払われた反動ででいとも簡単にドアまで突き飛ばされていた。背中を打ち付けた衝撃で、息が止まる。朦朧とした意識の中で、それだけははっきりと聞こえた。耳を塞ぎたくなるような、咆哮にも似た嗤い声だ。
「……ははは、ははははっはははっ!」
床に広がる真っ黒な水溜まりが裸足に滲んで、その闇に侵食されていくようだった。
どうか、これが夢であってくれと願いながら、しかし背中に走る鋭い痛みが逃げようのない現実を突きつけてくる。
「なあ」
息が苦しい。酸素が奪われていく。
暗闇より深い奥底を映したような二つの眼がこちらをじっと見つめている。それは、呪いの言葉だ。一生染みついてとれない呪いの言葉。
「お前は俺に──死ねっていうのか?」
不意に、目が覚めた。
玉のような汗が額から、だらだらと流れ落ちて枕を濡らす。頭を締め付けるような痛みがずきん、ずきん、と悪戯に遠のいては近づいてくる。両手の甲を目に押さえつけ、透花は大きく息を吐き出した。
真っ暗な天井を見つめ続けていると、微かに自分の呼吸音以外の音があることに気付く。
視線を僅かにずらして、音のする方へと引き寄せられる。床に散らばったラフ画、途中描けのまま絵コンテ、転がる鉛筆、ひどい有様の部屋の中でそれは、唯一、目を細めたくなるような光を放っていた。
机の上に置かれたPCは起動したままだった。刺さったままのUSBから赤いランプが何度も点滅している。
透花は静かにその音に耳を澄ませる。
こんなにも胸を容赦なく突き刺す音なのに。耳を塞いで聴こえないようにしてしまいたい衝動が後から後から湧き出て止まないというのに。
(ああ。わたしは……、)
気が付けば、透花の視界は深く、透明な青に呑まれていた。
ひとつ、ふたつ、と枕を濡らす水滴が次から次へと流れ落ちていく。
(あの日からずっと、朝が来るのを待っている)
透@to_ru 20××/9/23
製作途中。
そのツイートとともに添付された画像は、ほんの一部しか見えない状態になっていたが、確かに『劣等犯』のラストシーンに出てくる構図と一致していた。
言わずもがな、『透』と名乗るアカウントは、透花が使っているSNSのアカウントだった。30人ほどしかフォロワーのいないアカウントの呟きが、今多くの人間にリツイートされ、ネットは大きな波紋を呼んでいた。
「盲点だった。透花がたまに上げてたんだ、『ITSUKA』のイラスト」
纏を挟むように、律とにちかはそのスマホを凝視した。
「佐都子と打ち合わせして、こっちに向かってる最中に佐都子から連絡入って、教えてくれた」
「ちょ、ちょ、待ってめちゃくちゃ混乱してる。つまりどういうこと?」
「これ見て」
纏はスマホをスクロールして切り替え、次に表示されたのは、盗作をされたとされる例のアカウントである。
無色@musyoku_125 20××/9/30
どうせ、あなたには為れない。
短いツイートともに添付された画像は、炎上の火種にもなった『劣等犯』のラストシーンだ。このイラストと、透花が描いた『劣等犯』のイラストが線から配色まで一致していると、トレパク疑惑が持ち上がったのである。
「ここ」
纏が指さしたのは、ツイートの文言でもなく、件のイラストでもなく──投稿日だった。
「この『無色』ってひとの投稿日は9月30日で、透花が投稿した日は9月23日。確かに、『劣等犯』のMVが初公開されたのは10月のことだけど、透花が『透』のアカウントで『劣等犯』のMVで使うイラストを上げた方が、先。つまり、」
「盗作してない証拠になる!!??」
纏の言葉を遮り、律とにちかは声を揃えて立ち上がった。
その勢いに目を丸くした纏が、分かりやすく眉を下げて首を横に振った。悔しいけど、と吐き捨てるように続ける。
「……このイラストに限って言えば、って枕詞が付く」
透花が気まぐれにSNSに上げた『劣等犯』のイラストは、この一枚のみ。それがたまたま、盗作疑惑を晴らすだけに足るイチ証拠にはなるが、現実はそう甘くはなかった。
「今、ネットで『劣等犯』だけじゃなくて、『青以上、春未満』のMVでも疑惑が挙がってる。素人目から見ても、言い逃れは出来ないレベルだと思う」
「……じゃあ」
「今の時点では、全部の盗作疑惑を晴らすだけの材料は、無い」
「そんな」
「……アンチもだんだん作品じゃなくて、作者に攻撃が向き始めてる。コメント欄なんか、目も当てられない誹謗中傷で埋め尽くされてる。正直、引き延ばしするのも、そろそろ限界に近い、と思う」
1週間。自らが設けた期限まで、あと3日。
結局、たったこれだけの証拠しか見つけられなかった自分の無力さに嫌気が差す。今、無意味に浪費している時間すら、彼女を追い詰める刃は刻一刻と彼女の心臓を貫こうとしているというのに。
重く、沈んだような空気が流れる中、纏はついに耐え切れなくなって顔を上げた。
やっぱり、もう、と紡ごうとした声を、大きな手が阻んだ。
「っ、ちょ、なに!?」
突然、纏の髪をぐちゃぐちゃに掻きまわしてくる、大きな手を掴んで制止する。纏の乱れた髪の隙間から、覗き込むように腰を曲げて目線を合わせてくるのは、律だった。
「見切り早えぞ、纏」
ぴん、と軽く纏の鼻を律の人差し指が弾く。
「お前がそんな焦る理由は、分かるよ。ただでさえ、お前頭良くて聡いから。俺らなんかより、何倍も状況も見えてるんだろうよ。でも、今はまだ見切る時じゃない。折角ひとつ証拠が見つかったんだ、それに必死に縋るくらいのみっともない姿晒したって、罰は当たんねえよ」
「……それに納得するだけの、根拠あんのかよ」
「ない! 俺がまだ諦めたくないだけだ」
「……ほんとお前馬鹿。馬鹿」
「はあ? なんだやんのか?」
互いに顔を見合わせて睨み合っていたふたりを遮るように声が上がった。
唐突に上がった驚きの声に、纏の思考は現実へと引き戻される。
テーブルに身を乗り出してスマホを凝視していたにちかが、「ねえ、」と纏たちへスマホを向けた。
「どうした?」
「これさ、何だろ? 何かのシルエット?」
纏と律は頭を寄せ合って、スマホを覗き込んだ。
そこに表示されていたのは、透花が描いた『青以上、春未満』のイラストを、限りなく拡大したものだ。振り返った少女の瞳の中をスマホの画面いっぱいに拡大することで、ようやく視認できるほど細かく描かれた、その瞳に反射する黒い影。
そのシルエットは、おそらく、女性の横顔だ。大きく息を吸い込むように口を開く姿は、まるで。
「……あっ、」
思わず声を上げた律に視線が集まった。
「……これ、たぶん……」
煮え切らない口調で、視線を右往左往させる律へ、いよいよ苛立ちを覚え始めた纏とにちかの間を縫うように、律の人差し指がある一点を指さした。
ちょうど、纏とにちかの真後ろにそれはあった。
額縁に収められた、一枚の写真。マイクを手に歌う一人の女性の写真である。その女性の横顔と、瞳の中に映るシルエット。
スマホを手にした纏が、それと照らし合わせ、視線を交互させる。
「確かに、あの写真と同じだ。律、あのひとは誰?」
「……俺の母親」
「律の?」
「確かに面影あるかも」
「……なんで、律の母親を透花は描いたんだ?」
纏から問いかけられた当然の疑問に、律はためらいがちに口を開いた。
「透花だけに、伝えてたことがあるんだ」
「何を?」
「──来年の3月5日に『ITSUKA』は解散する。そうしたら、俺はもう、二度と音楽はしない」
あの日、夏の月明りの下。ふたりぼっちの公園で、透花に告げたように、律は繰り返す。
あの夜と同じように、時が止まったような静寂が訪れる。
「は」
あんぐりと口を開けたまま、硬直していたにちかがはっと我に返った。
「はああああああ!!!??」
立ち上がった衝撃で、椅子が後ろへと倒れ込む。派手な金属音が店内に響き渡った。
「……悪い」
「ちょ、ちょ、え!? ガチ!? 悪い冗談? 何それどういうことよ!?」
「にちか、ストップ」
今にも律の胸倉を掴み掛からんとする勢いで問い詰めるにちかを、横から伸びてきた腕が制した。纏に止められたにちかは、何度も口を開いては言葉を飲み込んで、怒り上がった肩をようやく撫でおろす。
それを横目で確認した纏は、今だ口を噤んだまま下を向く律に問いかけた。
「一から説明しろ」
「……俺が、『ITSUKA』をやろうと思ったのは、ただ、知りたかったからだ」
「何を」
「母さんが死ぬ間際に何を考えていたのか」
纏もにちかも、言葉を失い、なにひとつ反応を返すことは出来なかった。
「3月5日は、母さんの命日だよ。だから、『ITSUKA』。……はは、案外さ、単純でしょ? 俺は、その日に音楽と決別するために、『ITSUKA』をはじめた。そのこと、透花にだけは先に伝えてた。……えっと、確か、『青以上、春未満』のMV締め切りのすぐ前だった、気が、」
「そういう、ことか」
全て律が言い切る前に、纏が遮った。独り言を呟くみたいに、纏は言った。
「だから、ロゴ変えるなんて急に言い出したのか、透花は」
「ロゴ?」
「……ああ、にちかはまだ、居なかったっけ。そういえば」
居直った纏が、あの怒涛の夏の出来事を一つ一つ整理をする。
「『青以上、春未満』のMVが完成する直前、透花はもう製作してたロゴを変更したいって、いきなり言い出したんだ。ラストに数秒映るくらいのロゴを、だよ? クソ律がなんか吹き込んだんだろう、って検討はついてたけど」
「ついてたのか」
相変わらずの慧眼に律は、思わず項垂れてしまう。
「……まあ、でも纏が正解だよ。俺は、締め切り前日、透花に問いかけた。3月5日に『ITSUKA』は解散する。それでも、俺と一緒に『創作』してほしい、って」
「その答えが、あれだった、ってことか」
「……ど、どういうこと? さっきからあたし、めちゃ置いてけぼり食らってるんだけど」
纏は、ふっと軽く笑い、にちかの問いに答える。
「『ITSUKA』のロゴって、青いバラの花がモチーフでしょ?」
「え? あ、ああ。そうね」
「あの花、なんていう名前か知ってる?」
「花の名前? ごめん、全然知らないや」
首を振るにちかへ、律は間髪入れずに答えを告げる。
「──ミッドナイトブルー」
真夜中の青。そして、あるいは。
「俺の母さんの作った曲だ」
あのロゴは、YESの代わりに送られた律のくだらない我儘に対する、透花からの返事だった。
その瞬間である。
纏は理解する。
『青以上、春未満』『劣等犯』『ミッドナイトブルー』『無色』『MV』
『透』『ラストシーン』『ロゴ』『歌詞』『盗作』『創作』『トレース』『ITSUKA』
そして、『どうせ、あなたには為れない。』という言葉。
それらすべてのピースは、纏の感じていた違和感の正体へと行きつくにはあまりに十分すぎた。いや、あるいは、最初から、心のどこか奥底では、その正解を纏は知っていた。
しかし、纏は目を瞑った。都合の悪い、直視したくない現実から逃げるように。
「……おい、纏? 大丈夫か?」
遠のいていた意識が、自分を呼びかける声によって引き戻される。ゆっくりと息を吐き出して、纏はその答えを口に出す。およそ、探偵の名推理というにはあまりにもお粗末な答えを。
「……分かったよ」
「何を、」
「──この炎上を起こした、張本人」
*
数学の難解な問題は少しだけ考えて、結局、答案用紙を見てから勉強した。
ミテリー小説は、犯人が気になって、最後の数ページを確認してから戻って読んでいた。
いつだって、正解があることに安心していた。先に答えを知りたがった。
いざ選択を迫られたとき。いつだって逃げてきた。だって、答えの分からない問いに向き合う覚悟がなかったから。
(ねえ、神様。教えてよ)
『お前は俺に──死ねっていうのか?』
(わたしはあの時、なんて答えるのが、正解だったの?)
片耳だけ付けたイヤホンから漏れ聞こえる音に交じって、母の呼ぶ声がした。
透花は気だるい身体を起こして、素足のままドアの前までやってくる。そしてゆっくりとドアを開けて──
「よ。久しぶり、透花」
母に呼ばれたと思って開けたドアの向こう側に立っていたのは、律だった。
寝巻姿にぐちゃぐちゃの髪の自分が律の瞳に反射していた。呆気にとられたまま、透花は口を開く。
「……り、つくん」
「ごめん、透花のお母さんに協力してもらった」
「……」
「そうしないと、透花はドアを開けてくれないと思ったから」
落ち着きを払った声で、透花の方へ伸びてくる手を反射的に振り払った。ぱしん、と乾いた音が鳴る。
「───帰って」
「透花、」
「いいから、帰ってよ」
律の胸を両手で強く押し返す。見た目に反して、透花の非力な力では律の身体はびくともしなかった。顔すら見たくない。早く、この場から消えてくれと、透花はそれでも両手に力を込めた。
「少しでいいから、話そう」
「っ、話すことなんて何にもない!」
「俺にはあるよ」
「聞きたくない、これ以上何も」
「透花、」
「全部、全部、もう、どうでもいいよ!! 『ITSUKA』のことも! 盗作のことも! MVのことも、創作のことも、律くんも、纏くんも、佐都子も、にちかちゃんも、全部、どうでもいい! だから、帰って、帰ってよ! これ以上、踏み入ってこないで! わたしに何も望まないで! 自分の都合ばっか押し付けないでよ……! わたしはもう、」
「──逃げんな」
静かな怒りを纏った声に、透花は息を呑む。律の胸を押し返していた手が、握られた。不快になるような熱さが伝わってくる。見上げた先にあったのは、透花を見下ろす二つの眼だ。心臓が止まるほど、迷いのないまっすぐな瞳。
「逃げて、一体何になる?」
その言葉を耳にした瞬間、透花は律の胸を突き飛ばす勢いで手を振り払った。今にも逃げ出してしまいたかった。前に進むための退路が塞がれているのなら、透花は後ろへ引き下がるしかない。
「逃げるの、やめるって決めたんじゃないのかよ」
一歩、律との距離が縮まるたび、透花は後ろへ。
「過去の自分と決別するんじゃなかったのかよ」
「……い、」
ついに、部屋の窓まで透花は追い詰められた。中途半端に開かれていたドアが部屋から吹き込む風できい、きい、と錆ついた音を響かせる。
いつの間にか、部屋の中は夜の闇に呑まれていた。窓から差し込む頼りない月明りによって伸びた透花の影の先に、律は立っている。彼だけに照らされたスポットライトが、当てられたら、瞬きをするうちに蒸発でもしてしまうような気がした。
なあ、透花。掠れた声が、透花の名前を呼ぶ。
「俺の曲は、透花の心を動かすに足らない、雑音だった?」
「うるさい!」
鼓膜を震わせるほどの悲痛な叫びは、自分の声だとは思えないほど息苦しい声だった。
視界を曇らす雫は頬を伝って、顎の先まで流れ着いて、重力に耐え切れず落ちていく。透花の足元に散らばる、3分13秒の物語たちを濡らした。
「うるさい、みんな、みんな、みんなうるっさいんだよッ! 逃げんな、逃げんな、逃げんな、逃げんな、逃げんなってさ……何様? じゃあ、律くんは逃げたことがないの? 今まで生きてきて、逃げ出したこと、目を背けたこと、一回も無いの? 一度決めたって、途中で諦めたことないの!? そんなの嘘っ、誰だって逃げてんじゃん! 都合の悪いこと、知りたくないこと、見たくないこと、忘れたいこと、全部受け止めて向き合う人間なんかいない! みんな騙し騙し生きてる! ……だったら、いいじゃん、わたしだって逃げ出しても。ねえ、逃げるのが、そんなにいけないこと? 知らないひとからありもしない悪口書かれて、二度と見たくないですとか、一生描くなとか、勝手に評価されて比較されて、必死に描いたもの全否定されてさ! 匿名だったらなんでも言っていいって勘違いしてる人間に立ち向かったって、そんなの、もっと傷つくだけに決まってんじゃん。……お願いだから分かってよ、わたしの気持ち。もう傷つきなくないの。苦しいの、痛いの全部もう、嫌なの! どうせ、何を言ったところで誰も信じてくれない。だって、わたしは悪者だから! なら、律くんだけは嘘でもいいから、逃げていいって、言ってよ。言ってくれないなら、わたしの前から消えて! 自分だって過去から目逸らしてる癖に、偉そうにわたしに説教しないで!」
「全部、透花の言う通りだ。向き合うの怖くて堪らないの、俺にも分かる。現実はいつだって、見たくないもの、知りたくないこと、痛くなることばっかだし。俺も、散々逃げてきた。だから、透花に偉そうなこと言える立場じゃないって、分かってる」
「だったら、なんで!」
「──嫌なんだ」
絞り出した声が、彼の頬をすべる透明な雫が思考を鈍らせる。泣きたいのはこっちだって、罵声の一つでも浴びせたかったのに、透花は言葉を詰まらせた。
「俺が、嫌なんだ」
やめてくれ、と心が叫んでいる。そんな目で見ないでくれと、心臓の裏側まで響く声で。
「……なにそれ」
「透花の絵が好きだから、透花がいいんだ。他の誰がどう言おうが関係あるかクソッタレ! 代わりとか絶対に居ない断言できる何なら神に誓ってもいい! 俺は、お前がいいんだよ!!」
律の瞳が、流れ星が瞬く間に消えるくらいのスピードで、煌めく。
「だって、俺を一番最初に見つけてくれたのは、透花だったから!」
透花の脳裏に浮かぶのは、夕暮れの、誰もいない電車の中で揺れる自分と、その手に持ったスマホの画面。イヤホンから聴こえてくる音楽は、無機質な機械音だったのにどこか息苦しそうに藻掻いていた。
たった、3分19秒だ。それでも透花は、魅了された。心奪われずにはいられなかった。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』、だなんてコメントを残してしまうくらいに。
「……そ、んな、子どもみたいな言い訳でどうにかなるわけないじゃん」
「どうにかする」
「できないよ」
「できる!」
「ふふ、どうやって? ネット見てみなよ、罵詈雑言の嵐だよ? みんな、わたしの絵なんかもう見たくもないって! 消えろって! だったら、わたしさえいなくなれば万事解決じゃん。だって、誰も求めてないもん。望まれてない創作に存在価値なんてないよ」
「顔も知らねえ奴らの言葉なんか鵜呑みにすんな! 透花の創作を待ってる人間は、もっと大勢いる!」
「大勢って、どれくらい? 数人? 数十人? でもさ、その人たちもきっと、すぐ忘れちゃうよ」
「そんなの、分かんないだろ」
「分かるよ! お兄ちゃんがそうだったんだから!!」
時の流れは、誰にでも平等に残酷だ。
『創作』はこの世界に無数に存在している。そのひとつが無くなったところで、時間が経てば続きを待っていたことすら、彼らは忘れてしまうだろう。
それが、『創作』。きっと、『創作』ほど報われない恋は、この世界のどこにも存在しない。
「……もう、いいよ。もう、疲れた」
それが、合図だった。
「だから、もう、終わりにさせて」
こんな気持ちだったのだろうか、と透花はかつての兄の姿を夢想する。
透花の後ろから、冷たい風が吹き込む。素足で踏み付けたままだった『創作』の一部が、風で吹かれて翼の折られて地上に落下した鳥みたいにバタバタと喚く。それを拾い上げて、胸の前へ。力を入れずとも、ぴり、と音を立てて真ん中に切れ込みが入る。ぴり、ぴり、と紙の繊維が離れていく。一思いに、すべてを断ち切って、そうしたら。楽に──その刹那。
「勝手に終わらせてくれるなよ!! そんなんじゃ俺は納得できない!」
透花の瞳に映り込むのは、青だ。直視するには、あまり痛くて、脆い、青。
その言葉を、透花は知っている。何故なば、その台詞を透花は同じように兄へ向って吐き出したのだから。
もし、神様に仕組まれた運命だと言われたら、馬鹿な自分は信じてしまったかもしれない。
律に掴まれた腕がぎりりと軋む。あれほど泣き喚いた後だというのに、透花の瞳はまた揺れる。
透花の口から、勝手に言葉が滑り落ちた。
「じゃあ、律くんはわたしに──死ねって、いうの?」
「そうだよ」
透花の頬を温かな掌が包む。揺らぎのない青が、佇んでいた。その青は、雨上がりの空のようにどこまでも澄んでいる。だというのに、透花の頬に冷たい雫が降りかかって止まない。
「死んで。俺のために、死んで」
透花は、その雨に溺れて、呼吸すら儘ならない。
「全部俺のせいにして、いいよ。ひとりが怖いなら、俺も一緒に死んであげる。透花が描き終わる、その時に」
これは、呪いの言葉だ。一生沁みついてとれない呪いの言葉。
「だから、終わりになんてしないで」
傲慢で、身勝手で、自己犠牲に塗れた、最低で、最悪な、愛の告白だ。
「……、馬鹿みたい」
「馬鹿でいいよ」
透花は、手を伸ばす。それは、片翼の折れた天使が二度と戻れない夜空を求めるように、伸ばさずにはいられなかった。指の腹で彼から零れる雨の雫を掬うと、澄んだ青が柔く細められ、また雨を降らせるのだ。
「わたしにそこまでの価値は、ないよ」
「俺にとっては、そこまでの価値があるよ」
「そばにいてくれる?」
「いるよ」
「うん……なら、もう、それだけでいいや。わたしのために死なないで」
「うん」
「…………悔しいなぁ」
「何が」
「わたしも律くんみたいにちゃんと、伝えれば、よかったっ……」
きっと、透花が探し求めていた答えは、案外単純だった。
たった一つの言葉で救われる世界は、ちゃんとあったのだ。
*
ドアの向こう側に立っていたのは、一人の少女だった。
肩まで伸びた栗色の髪が微かに揺れて、彼女はドアの方へと振り返る。いつも通り、明るい彼女らしい溌溂とした笑みをたたえて。
「随分遅かったね、纏。今日の打ち合わせは、18時からじゃなかったっけ?」
「……佐都子」
ドアの前で立ち尽くしていた纏は、彼女の名前を呼ぶ。
その呼び声に瞬きをすれば見逃してしまうほどの一瞬、佐都子は瞠目した。しかし、彼女の表情が崩れたのはその一瞬だけで、次に瞬きをしたときはさらに笑みを深めた彼女がそこにいた。まるで、この状況になることをずっと前から待ち望んでいたかのように。
「佐都子」
「んー?」
「なんで、『盗作』した」
静寂の間の後、返ってきたのは、あまりに乾ききった嘲笑だった。
「あは、どうして? あははは……ふふ、どうしてってさぁ、そんなの決まってるじゃん」
「……」
「二度と、透花が創作をしないようにするためだよ」
纏は、期待していた。纏が考えうる最悪のシナリオにならないことを、彼女から答えを得るその瞬間まで期待していた。そしてそれは、あまりにあっさりと呆気なく砕け散ることになったのだった。
「あは、どうしてそんな傷ついたような顔をするの? 本当は、分かってた癖に」
何も言い返すことができない纏は、只黙って血が滲むほど拳を握りしめた。
緩やかにダンスでも踊るような軽い足取りで、纏に近づく足音がした。俯く纏の視界に、纏と同じほどサイズの足が向き合った。腰を屈めた彼女の髪が纏の頬に触れる。
「纏は本当に優しいよね。でもその優しさは、正しくなかった」
一ミリも慰めの感情など籠っていない動作で、佐都子は纏の左肩を叩く。
「だから、全部、手遅れになっちゃったね」
「……まだ、間に合うよ」
佐都子は薄く笑うだけだった。
とどのつまり、本当に簡単な話だった。
透花が『青以上、春未満』で本当の土壇場で修正したのは、ロゴだけではなく、瞳に映る律の母親の横顔のシルエットも付け加えていたのだ。公開したMVには、そのシルエットが付け加えられていた。そのことを知っているのは、透花だけ。
だから、分かってしまった。
闇の正義ちゃんだなんてふざけた名前でトレパクの検証画像を上げた人物は、シルエットのない画像を添付してしまった、透花と、纏と、佐都子だけしかもっていないデータを。
そこまでくれば、もう、後の祭りだ。
「ふふ、あは、あはははっ、せいかーい! 正解した纏には拍手を送りまーす!」
ぱちぱち、乾いた拍手の音が、『アリスの家』の一室に響き渡る。感情が表に出ないよう語り紡いだ唇を噛み締めて睨みつけると、佐都子は怖い怖い、と肩を竦めた。
「纏には理解できないだろうね。理解できなくて、当然」
だって、と佐都子は付け加えた。
「置いてかれる人間の気持ちなんて、分かんないでしょ?」
初めて、透花に出会ったのは、小学1年の夏のことだった。
近所にあった絵画教室『アリスの家』で夏休み限定の特別教室が開催され、たまたま参加した数人の生徒の中にいたのが、笹原透花だった。兄の背中に隠れて恥ずかしそうに顔を伏せる少女は、特段目立ったものもない物静かな子だと、佐都子は思った。
彼女と仲良くなるきっかけは、すごく単純だった。
「あっ、それって、もちぐま?」
「……え?」
小さな体には不釣り合いなスケッチブックと、ペンケースを抱えた透花に思わず声をかけてしまった。だって、ペンケースにつけていたストラップは、当時あんまり人気のなかった動物アニメに出てくるもちもちのくま、通称もちぐまのストラップだったからだ。
「私ももってる! ほら、これ!」
透花の青色のもちぐまと色違いの、赤色のもちぐまを付けたペンケースを佐都子は見せる。
「もちぐま好き?」
「……え、あ……うん」
小さく頷く透花の手を、自然と佐都子は握りしめていた。
「私、佐都子。緒方佐都子っていうの。あなたは?」
「……透花、笹原透花」
「透花! きれいな名前だね。仲よくしようよ、もちぐま仲間として!」
その日から佐都子は、透花と友達になったのだ。
透花は、周りの子みたいに元気に外でドッジボールとか、縄跳びとかするような子ではなく、教室の端で一人、読書したり絵を描いたりするような子だった。ひとたび集中すると、周りの雑音なんて一切耳に入らないのか、一心不乱に鉛筆を走らせるのだ。
佐都子は、その隣に座りながら、同じように鉛筆を走らせる静かな時間が、好きだった。
彼女の鉛筆と紙が擦れる僅かな音、少し思案するように眺める横顔。たまに消しゴムを落として拾ってあげると、透花はへらりと柔らかく笑うのだ。
ただ、それだけでよかった。
それだけで、よかった、はずだった。
「わあ、すごい! 透花ちゃんまたコンクール一位?」
「この前も一位とってたよね?」
「やっぱり才能だね」
「透花ちゃんのお兄ちゃんもすごい絵が上手なんだよね?」
「佐都子も二位じゃんすごーい」
透花は、天才だった。佐都子と同じ時期から習い始めたにも関わらず、絵の才能を開花させるまでにそれほど時間はかからなかった。透花が上達するスピードは恐ろしく早く、いわば乾いたスポンジが水を吸う、みたいな表現が当てはまるほどに、筆を走らせるほどに目に見えて成長していった。一瞬でも油断すれば、透花は自分を突き放し、手の届かない遠くへ行ってしまうような気がして、怖かった。
だから、描いた。ただひたすら、描いた。
描いて、描いて、描いて。
「透花ちゃんまた一位とったの? すごい」
「前よりずーっと上手になってない?」
「佐都子ちゃんも二位おめでとう!」
描いて、描いて、描いて。
「透花ちゃん県で一位とったの!?」
「審査員の人のコメントで絶賛してたよね」
「佐都子ちゃんも入賞したんだよね?」
……描いて、描いて、描いて。
「透花ちゃん、全国コンクールで最優秀賞だって」
「将来は画家になるのかなぁ? 天才だよね」
「佐都子も入賞だったんでしょう? おめでとう!」
本当は、気づいていた。
気づかないふりをしていただけだ。見ないようにしていても、限界はある。数年も、隣に天才と呼ばれる人間がいれば、嫌というほど思い知らされた。
透花のような才能は、自分にはないと言う現実が、そこにはあった。
どれほど絵に時間を費やしても、きっと彼女の傍にはたどり着けないだろう。
(ねえ、透花)
いつも通り、透花は『アリスの家』の一室で、キャンバスに向かい合う。
ぴんと姿勢を正して、片手に持ったパレットの上で複雑混ぜ合わさった青を、ひたすらに塗り重ねていく。その横顔は、昔から何一つ変わらない。純粋に次に描く未来を楽しむ希望に満ちている。時折、踵を鳴らしたり、唸ってみたり。はっと何かを思いついたら、口元を緩ませる。
「──透花」
「……っ、わあ、び、びっくりしたぁ。なんだ、佐都子か」
「えへ、びっくりした?」
「もー、当たり前でしょ」
胸を撫でおろした透花の、後ろで結んだ髪が少しほどけて人房頬にかかっている。横から手を伸ばして、その髪を指でよけると、透花は擽ったそうにへらりと笑った。
「縛ってあげる」
「ん、ありがと」
透花の後ろに立ち、緩みかけていた髪のゴムをするりと外した。透花の黒髪が流れるように落ちた。彼女の艶のある髪を手櫛で整えながら、一つにしていく。安心しきったように頭を預け、鼻歌を歌う彼女のつむじを見つめながら、佐都子は、声をかける。
「透花、おめでと」
(ねえ、透花)
(知らないでしょ、私が透花の絵が大っ嫌いなの)
「……わたし、誕生日だっけ?」
「あはは、違う違う。この前投稿してたやつ、入賞してたよ」
(本当は私が、透花のこと恨んじゃうくらい、憧れてたの)
「ん、んん? そういえば、応募してたっけ」
「透花はさ……将来やっぱ、画家とか、そういうのになりたいの?」
(私が透花に死ぬほど劣等感持ってることも)
「ええ、まさか」
「じゃあ、何のために描いてるの?」
(透花の絵を見るたびに、自分の絵を破り捨てたくなってることも)
(きっと、透花は知らない。想像もつかない)
「何のため……、しいて言うなら、今描きたいから、かな」
「…………、そっか」
(私はね、透花)
(……貴方に、為りたかったよ)
もし、この中途半端な才能さえなければ、早々に自分の才能に見切りをつけることができただろう。そうしたら、こんな汚い感情を彼女に抱く必要すらなかった。
ただの親友として、いられた。
いくつもの月日が流れた。
兄の一件で透花は描くことを辞めてしまった。それから、透花が座っていた席は、もうずっと空席のままだった。それでも時間は止まらない。佐都子は、薄く色づいた桜が散っても、青々とした新緑が赤く染まっても、指の悴むような寒さが訪れても、描き続けた。
誰もいない『アリスの家』で、ひとり、黙々とキャンバスに向かい合う。
「佐都子、一位じゃん! すごーい!」
「わー、さすが上手」
「ずっと描いてたもんね」
「よかったね、佐都子ちゃん」
あれほど焦がれ望んだ彼女と同じものは、いざ手にすると案外、呆気なかった。
ようやく満たされると思っていた心の空白は、しかし、底に穴の開いたバケツみたいにどれほど水を注いでも、傍から漏れ出して、ただ自分の足元を濡らすだけだった。それが、より自分を惨めにする。どれほど時間をかけて、より精巧で緻密で繊細な、誰もが息を吞むような絵を描いても、何一つ満たされなかった。
(……私は、)
嗅ぎ慣れたインクのにおい。ペインティングナイフとキャンバスの布が擦れる音。無造作に散らばった絵具と筆。数センチ開いた窓の隙間から、時折、暖かな風が運ばれてくる。
佐都子は、頭の中で描いた軌跡をたどるように筆を走らせる。だというのに、指先の微小な震えによって、それはたちまち雑多な線へとなり替わる。
描き直しても、描き直しても、描き直しても、頭の中で描く正解に辿り着けない。
(違う、)
心に開いた空白みたいな黒さが、キャンバスを汚していく。
(違う、違う、違う、)
永遠に満たされることのない焦燥感だけが、募っていく。
(もっと、鮮やかだった。もっと、心に訴えかけてきた。もっと、寂しげだった。もっと、忘れられない特別があった)
(何もかも、足りない)
は、と息を吐き出して、力を失った腕は地面に向かって落下する。
(やっぱり、私は、透花に為れない)
からん、と乾いた音が響く。手にしていたはずの筆が、床に転がっていた。ふと、横から聴こえてくるのは在りもしない戯言だ。けれど、佐都子が伸ばすよりも先にその筆に触れた白い手は、紛れもなく、彼女のものだった。
『もー佐都子、ほら。落としたよ?』
佐都子は、気が付けば横を振り返っていた。一瞬見えたはずの幻影は、ひとたび瞼を閉じれば夢のように霧散していた。
そこにあったのは、佐都子と同じように取り残されてしまった椅子とキャンバスだけだ。
「……あ、は……はは、っは、」
戯れに笑ってみるけれど、声は震えていた。一度視界が滲んでしまえば、後はもう、止めようがなかった。口を押えて幾らか声を押し殺してみるが、指の隙間から漏れ出るそれは憎たらしいほど、部屋に響いた。
永遠に時計の針が進むことのない部屋の隅で、佐都子はただ涙を流す。
そう、ここは、誰からも忘れられた場所。二度と、あの穏やかで、幸せな時間はやってこない。透花にとって、ここは『特別』では無くなってしまった。煩わしい忘れ去りたい過去の記憶となった。
透花はここへは帰ってこない。
幾ら待ち続けていようとも、あのドアが開かれることはないだろう。
佐都子の僅かな期待は、飴細工なんかよりも簡単に砕け散って溶けて消えていく。
もはや佐都子は、自分自身の心を理解できなかった。この繊細で、意味不明で、複雑怪奇な感情を表す言葉がどこにも見当たらなかった。息苦しくて、悔しくて、寂しくて、痛くて、心の底から憎らしいのに──この世界の誰よりも、その影に焦がれている。おそらく、世界中のどの言語でも表せない感情が佐都子の腹の中を渦巻いていた。
ただ、一つだけ確かな感情が、あった。確かに、存在していた。
(ねえ、透花)
呼ぶ。生まれてから、何度も心の中で呼んだ名前を、吐露する。
(私、本当は……、透花の絵が誰よりも、好きだった、の)
「透花から新曲のタイトル聞かされた時、私は思ったよ」
軽く笑って佐都子は振り返る。
「私はまた、置いて行かれる、ってね」
佐都子の前に立つ、心優しき少年は、何も言わず目を伏せた。
「過去と向き合って覚悟を決めた透花は、今よりもっともっと上手くなる。凡人の私なんか置いて、遠くへ行っちゃうんだ。……私には、それが、耐え切れなかった」
「今からでもいい、透花に謝って、それで……!」
「それは無理な話だよ。だって、悪いことしたら、ちゃんと報いを受けなきゃ。そうしないと、釣り合いが取れない」
佐都子は、自分のポケットに手を入れ、『それ』を取り出した。
最初から、結末は決めていた。『闇の正義ちゃん』だなんてふざけたアカウントで、透花を貶める計画を実行に移したその時から。己の身勝手さで彼女から『創作』を奪うのなら、それ相応の対価を支払うべきだろう、例えば彼女と同じものとか。それがせめてもの償いだった。
「……なんだよ、それ」
佐都子は、『それ』からキャップを外した。床に落下したキャップがからからと空虚な音を立てて足元に転がる。利き手をテーブルに押し付けた。薄暗い月明りが差し込む一室で、『それ』の刃先は背筋が凍るほど不気味に、そして鈍く光る。
その暗闇の中ですら、纏の顔が一瞬にして蒼褪めたのが、一目で分かった。纏は佐都子に向かって手を伸ばそうとするが、体中が強張って上手く動かせない。
「何してんだ」
「……こんな下らない茶番劇は、もうおしまい」
「っ、佐都子!」
「これで、痛み分けだね」
自らの利き手に向かって、佐都子は躊躇なくナイフを振り下ろす。弾かれた様に佐都子へ手を伸ばす纏の怒号も、全身の血が沸き立つほど五月蠅く動いていた心臓も、すべて佐都子の世界から消え失せた。一人ぼっちの世界で、佐都子はもう手遅れになった、今この現実を嘆く。
(あーあ。こうなるくらいなら、ちゃんと、言えばよかった)
今更、後悔するにはもう何もかも手遅れだけど、と佐都子は下らない前置きをして、想う。
(ねえ、透花。私は、)
その刃先がついに薄い皮膚を食い破ろうとした、その時だった。
「佐都子ッ!」
その声は、佐都子しかいないはずの世界の中で、確かに聴こえた。
夢幻かはたまた神の悪戯か。今、目の前にある現実を佐都子は到底受け止めきれなかった。
その手に到達する直前で止められたペナントナイフ。脂汗の滲んだ額から、一粒の雫が手の平に落ちた。引き寄せられるように、佐都子は声のする方へと振り返る。
「……な、んで?」
佐都子の視線の先に、透花は立っていた。
乱雑にまき散らされた黒髪と、白い肌に浮き上がるほど赤くなった頬と、どこまでも透き通った淀みのない深い青の瞳、手にしたスマホを耳に当てたまま、肩が大きく上下するほど荒い呼吸を繰り返しながら、それでも透花は佐都子を見ていた。
一瞬にして、その場は静寂に包まれた。
それを破ったのは、がしゃん、と透花の手からすり抜けたスマホが床に落ちる音だ。透花はそれをつま先で蹴っ飛ばしたことにすら構わず、佐都子の目の前まで一直線に迫り来る。
そして、透花の細い左手が、一切の迷いなく刃先を握りしめた。
「離して!!」
これほどまでに透花の激昂した姿を見るのは、初めだった。
咄嗟の抵抗のせいか、刃先を握りしめた透花の手から赤い鮮血がぽたり、と佐都子の手の平に落ちる。その血を目にした途端、佐都子の全身から力が抜けた。
つかさず、そのナイフを抜き取った透花が乱暴に投げ捨てる。からん、と空しく音が鳴っった。
「……とうか」
およそ声とも呼べない唸り声のようなものが、佐都子の口から滑り落ちる。
その呼び声に透花はぐしゃりと顔を歪めた。それが裏切り者への憤怒だったのか、それとも悲痛によるものだったのか、佐都子にはてんで分からなかった。
気付いた時には、息が詰まるほど襟首を掴まれていた。透花が、右腕を大きく振りかぶった一瞬、彼女の瞳から零れる星屑みたいな輝きだけは、脳裏に焼き付いて離れなかった。あとは、たぶん、ぐーだったな、ってことだけ。
骨と骨がぶつかる様な鈍い音とともに、その衝撃によって佐都子の身体は大きく傾く。
次に瞼を開けたとき、目の前にあるのは殺風景な天井だった。
殴られた右頬が熱湯でもかけられたみたいに、じん、と痛みが広がっていく。視線を下げると、自分の胸元に顔を埋め小さく肩を震わせる透花の姿があった。佐都子はそれをどこか他人事のように見る。彼女に握られた胸元に赤黒い染みが付いていることに気付く。間違いなく、ナイフを握りしめたときの傷だった。
(……分からない)
理解不能。脳内にはエラー表示が幾重にも表示されている。いくら思考に心血注いでも佐都子には、この状況を理解できなかった。
「っ、こんなのは、痛み分けなんかじゃない!!」
息を詰まらせながら、表を上げた彼女から佐都子は目を奪われる。
「ただの一方的で、身勝手で、傲慢な自己満足でしかない!」
ひとつ、ふたつ、と彼女の青から落っこちた透明な雫が、小雨みたいにぽたぽたと佐都子の頬に降りかかった。
「許される気もない癖に、償うとか、そんな綺麗事言わないでよ……!」
言葉の最後は、しゃくりあげたせいか、ほとんど原型は留めていなかった。
「言っとくけど、こんなやり方をわたしは絶対に許さないっ、許さないから! こんなことするくらいならちゃんと話そうよ、わたしの気持ち勝手に決めつけるくらいなら、そのほうが何十倍も、何百倍もいい! だって! だって、わたしたち、親友でしょう!?」
彼女から紡ぎ出されるものは、絵も、色も、言葉も、綺麗で、透明で、穢れなんてひとつもない。
いつだってそうだった。いつも。いつも、いつも!
彼女は創作に愛されていた。愛されていることに気付かないほどに。だから、彼女は簡単に捨ててしまえたのだ。その価値を知らないから。
佐都子は、歯を食いしばって震える唇を開く。襟首を掴む腕ごと強く握りしめて、佐都子は叫ぶ。
「私は今まで一度だって、透花を親友だと思ったことなんてない!」
刹那。言ってしまった、と佐都子は大きく目を見開いたまま絶句する透花の表情を見て思う。
一度吐いた言葉が二度と戻せないことを知っていながら、佐都子は止めることをしなかった。腹に巣食う黒い泥が思考よりも早くせりあがって、止められなくなっていた。
「透花なんか大っ嫌いだった!!」
(なんで、)
「最初っから目障りだった!! 透花の描く創作がこの世界で一番大っ嫌いだった! 知らないでしょ、私が透花に劣等感持ってることも、死ぬほど嫉妬してるとこも! 気付くわけがない。だって、透花は恵まれてるから! 恵まれた人間に、私の気持ちなんか分かりっこない! 努力しても、どんだけ時間を使っても、結局才能には勝てないって思い知らされる惨めさがアンタに分かるか!?」
(なんで、なんでよ!)
「……嫌い。嫌い、嫌い、嫌い、大ッッ嫌い!!」
(なんで私は───透花に為れないの)
佐都子の荒い息遣いが、静まり返った部屋の中で鮮明に聴こえる。
滲んだ輪郭の曖昧な視界で、佐都子はゆっくりと瞼を瞑る。目じりの淵から、涙が零れた。
これ以上は駄目だ、と引き留めようとする良心と、それに相反する感情がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、吐き気がする。
もうこんな壊れた世界なら、いっそすべて終わてしまえ、とさえ思った。
「……透花は、ずるいよ」
彼女からの返事はない。それでも構わず佐都子は続ける。
「私に無いもの全部持ってるのに。私がいくら努力しても手に入らない才能があるのに! ちょっと誹謗中傷されたくらいで、どうして、そんなにあっさり捨てられるの? だったら、頂戴よ。透花が要らないなら、少しでもいいから私に頂戴! ねえ、お願いだから、」
これ以上、私を惨めにさせないで、と紡ぐ言葉は空気の塊みたいに喉に痞えて、声に出すことは出来なかった。
さあ、気の赴くまま、罵声を浴びせてくれ。何なら殴ったって構わない。すべてを受け入れる覚悟は、最初から出来ていた。
掴んだ腕が僅かに動く。彼女の息遣いが聞こえて、佐都子はいよいよかと、耳を澄ませた。
「わたしだって、佐都子に嫉妬するよ」
「…………ぇ?」
言葉の意味が理解できないまま、佐都子は思わず、逸らしていた顔を正面に向ける。
「佐都子は、わたしのことまるで神様みたいに思ってるのかもしれないけど、そんなことない。わたしだって人並みに嫉妬するし、何なら佐都子が羨ましいって思うこと、今まで何度もあったよ」
「嘘だ!」
「嘘じゃないよ。……覚えてない? わたしが、佐都子を『ITSUKA』に誘った日のこと」
忘れるわけがないだろう、と佐都子は唇を噛み締める。自分の3年間をすべて否定された日だ。しかし、それ以外に佐都子の記憶には何一つ残っていない。佐都子には思い当たる節がないことが分かると、透花はふっと軽く笑って続ける。
「佐都子に協力してもらっても、やっぱり間に合わないってなった時、佐都子、言ったじゃん。じゃあ、サビ前までモノクロにして、サビでフルカラーにしたらエモくなるって。あの言葉聞いて、わたし、すごいって思ったよ。それと同じくらい、嫉妬した」
「そんなのは、」
「取るに足らないことだって? そんなことない。佐都子はさ、自分のこと見えてなさすぎだよ。佐都子には、わたしに無いものたくさんある。描き上げるスピードも、妥協できる切り替えの早さも冷静さも、それでいて間違いないものを描くところも。全部、わたしに無いものだよ」
心臓の裏側がざわついて、佐都子は呼吸すら儘らならない。
「よく言ってるじゃん、纏くんも。完成できなきゃ意味がない、って」
透花はへにゃりと、締まりのない笑みにぽろぽろと涙をこぼすちぐはぐな表情で、言った。
「わたしきっと、佐都子が『ITSUKA』にいてくれなかったら、締め切りも全部破ってただろうし、結局中途半端なものしかできなかったと思う。だからね、わたしは、これからも佐都子が必要。だって、わたしにはなくて、佐都子にはあるもの、いっぱいあるから。それに、佐都子がいないと、寂しいよ」
馬鹿だ、と佐都子は思う。こんな最低な人間を信じようとする、透花も。たった、それだけの言葉で全てが救われた、自分自身も。
佐都子の両手を包み込むように、透花は手を握りしめ、神に祈るように言った。
「だから、わたしともう一度『創作』しませんか?」
返事は、もう、決まっていた。
佐都子は嗚咽交じりのしゃがれたひどい声で、小さく、うん、と頷いた。
その瞬間、透花は両手でもって佐都子の身体を抱きしめた。嗅ぎ慣れた透花の優しい香りがして、佐都子の視界はさらに滲む。その腕に答えるように佐都子は背中に回した腕に力を込めた。
瞼の裏側に映る光景は、孤独な自分の姿だ。埃かぶった椅子と、キャンパスを眺めて、ドアを開けてくれる日を待ちわびる後姿だ。
「私、本当は、ずっとっ……ずっと、待ってた。あの日から、」
「うん」
「透花が『アリスの家』に来なくなってから、ずっと待ってた」
「遅れて、ごめんね」
透花は、佐都子の耳元で小さく、ただいま、と呟いた。
だから、佐都子も返す。ずっと、言いたくて言えなかった言葉を。
───おかえり、と。
無色@musyoku_125
皆様にご報告があります。
この度の『ITSUKA』の盗作騒動はすべて、私が自作自演で行ったものです。
私は、『ITSUKA』のMVを製作するメンバーの一人です。『闇の正義ちゃん』『ミヤ』などのアカウントはすべて、私の自作自演で使用したものです。この件に関して───
ITSUKA@ituka_official
この度は、視聴者の皆様に多大なるご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。
なお、この件に関しまして、皆様からのご批判があることは当然のものだと受け止めております。今後、皆様の───
【無色 さんのツイートを引用しました。】
最後に、一つご報告いたします。
12月31日 24時に新曲、『創作』をリリースします。
「ああああーーーーー!! やばいやばい終わんない!!」
「うるッせえ弱音を吐くな! その前に手を動かせ!!」
「このまま間に合わなかったらどうしようーーーーーー!!?? ううう……うえっ、」
「そこォ!! 泣いてる暇があるならさっさと描け! 死ぬ気で描け! あと何カット残ってると思ってんだ!! 馬鹿垂れが!」
「……あはは……せっかくの年末に何してんだろうね、私たち……」
「や、やめて~~佐都子ぉ! 正気に戻ったらお終いだよ……!」
「私……この戦いが終わったら結婚すんだ」
「変なフラグ立てんな。僕がいる前でやっぱ出来ませんでしたは絶対に許さないから!」
「纏くんの鬼ぃぃいい」
大晦日、誰もが次にやってくる新しい年に胸弾ませざるを得ない、めでたい日に、『アリスの家』には阿鼻叫喚の地獄が再来していた。
誰も聴いてくれないかもしれない。心無い言葉を浴びせる人も、いるだろう。
それでも、透花たちは今できる精一杯の『創作』を描き上げる。
時には、嫉妬し、苦しみ、辛くなるし、その癖、不完全で、曖昧で、脆くて、ややこしい。
それでも、『創作』を愛さずにはいられないから。
だから、描き続けるのだ。
透花の目が覚めたのは、まだ朝日の昇らない薄暗い時間だった。
「おーーい、お前ら。起きろー」
がさつな呼びかけが、睡眠を妨げたのである。
透花はあまりの寒さに体をぶるぶる震わせながら、家から持ってきた寝袋から顔をひょこりと出してその声の主を確認する。すると、厚手のコートとマフラーに身を包んだ律が、それに気づいて小さく笑った。
「おはよ、透花」
「……律くん、だ」
「わはは、声ガサガサだ。昨日、修羅場だったんだよね? お疲れ様」
乱れた髪をぽん、と律の温かな手が乗っかる。その途端、透花はこの女子力のかけらもない姿が恥ずかしくなって、また顔を寝袋に埋めた。
その間に、物音に気が付いたらしい佐都子と、纏がもぞもぞと動く音がする。纏の不機嫌そうな低い声がする。
「何?」
「ああ~? 忘れたのか? 無事に投稿出来たら、みんなで初日の出見に行こうって、纏が言い出したんだろうが。外でにちかも待ってるよ。ほら、行くぞ~! もうすぐ時間になるから」
わざわざ迎えに来てくれた律に押されるように、徹夜組3人は眠たい目を擦りながら、にちかが用意してくれた缶コーヒーを手に少し急な坂を上る。
辿りついたのは、透花たちが住む町を一望できる高台だ。どうやら透花たち以外には、人気がないようだった。高台の崖に掛けられた手すりの前に立った透花たちは、それぞれに地平線を眺めた。
やがて、太陽は上り始める。目に染みるような燃える赤い火の光が、町中に朝を知らせる。
寒さすら忘れて、透花はその光景に釘付けになった。昨日まではまだ湧いてこなかった達成感と、安堵がじんわりの心の中に広がっていく。
「ねえ、透花」
「ん?」
すぐ隣に立っていた纏が、ふと、透花を呼ぶ。
「僕、ずっと透花のこと守んなきゃって、思ってた。夕爾みたいに、壊れないように守んなきゃって。透花は弱いって、決めつけてた。それを今日、訂正するよ。ごめん」
「纏くん、」
「あっ。それともう一個、前もって謝んないといけないことあるんだった」
「へ?」
そうして、にっと、年相応の悪戯っぽい笑みを浮かべて纏は笑う。
「『創作』のURL、夕爾に送ったから」
「───な、」
絶句したまま固まる透花を他所に、纏は颯爽と走り出す。そして透花が追いつけないほどの距離ができてから、纏は振り返って、両手を口に当てて大きな声を上げる。
「折角、僕が背中押してやったんだ。後は自分で頑張れよ、透花!」
余計なお世話だ、と文句を垂れる暇すら与えないところが、纏らしい。
残された透花は、ポケットに入れていたスマホを取り出した。アプリを起動させ、表示させたアカウント名は『お兄ちゃん』だ。文字を入力しようと、入力画面を親指でタップしてみるものの、何も思い浮かばずに右往左往するだけだった。
こんな朝早くに連絡したところで、迷惑かもしれない。やっぱり、今日は止めようと、スマホを閉じようとしたその時だった。
───ぴこん、と音が鳴った。
表示されたメッセージを目にした瞬間、透花は思わずスマホを落としそうになって、間一髪でスマホを掴む。そして、もう一度透花はその画面を凝視した。
そこに書いてあったのは、本当に、笑えるくらい、短いメッセージだった。
『MV見たよ』
『昔よりずっと、上手くなったな』
気が付いたら、スマホに水滴が落ちていた。おかしいな、と透花はスマホの画面を服の袖で拭うが、すぐにまた水滴がぽたぽたと流れる。それでも、透花は唇を噛み締めながら何度も拭った。
頭上に広がる空は、雲一つなくどこまでも澄み渡っている。けれど、これはきっと雨のせいだ。
「透花―! 今からお雑煮食べに行くって!」
遠くの方で、透花を呼びかける声に振り返る。佐都子たちが集まって、こちら側に大きく手を振っている。
「今行く!」
走り出した透花の瞳から零れ落ちたそれは、流れ星のように煌めいて、跡形もなく消えていった。
昔住んでいた家には、大きなグランドピアノがあった。
まだピアノを習いたてだった律は、今は亡き母と少し足の高いトムソン椅子を半分分け合って、覚えたての『きらきら星』を共に奏でる。
律は、隣に座る母を見上げる。
うっすらと口元に笑みを浮かべる母の、眼差しを律はもう、思い出せない。
今住む家に、あのグランドピアノはもう、無くなってしまった。
母が亡くなった後、父は妄執にでも憑りつかれたように徹底的に、『音楽』を排除した。母が残した『音楽』は父の手によってすべて消されてしまったのだ。ただ、ひとつを残して。
それを律が見つけたのは、本当に偶然だった。高校一年の、冬のことである。
普段は入ることもない父の書斎に、参考資料を探しに入った律は、壁にずらりと並ぶ本の中で、奥へ奥へ隠すように押し込められたそれを、見つけた。
古びた、カセットテーププレーヤーだった。
開閉ボタンを押すと、ぱっと勢いよく蓋が開いた。中には、一枚のカセットテープがすでに入っていた。カセットテープの側面には茶色く黄ばんだシールが貼りつけられているが、劣化して文字を読むこともできない。ゆっくりと親指でそれをなぞると、律はなぜか鼻の奥がつんとして泣きたくなってしまう。
律は、イヤホンを耳に挿して、再生ボタンを押す。じじじ、とノイズが数秒。自然と律は瞼を閉じていた。
そうして、流れ始めたその曲は───
はっと、目が覚めた。薄く開いた瞳には、常夜灯の薄ぼやけた明かりすら眩しくて、律は目を細める。何度か浅い呼吸を繰り返して、ようやくここが自分の部屋で、自分のベットだと思い出す。律は時々、数年住むこの家を知らない家のように思えて、自分がどこにいるのか分からなくなってしまうのだ。ようやく鼓動が一定のリズムを取り戻したころ、律はふと、リビングの方から足音がすることに気が付いた。
スマホで時刻を確認すると、夜中の3時過ぎだった。この時間帯に物音を立てるのは、滅多に顔を合わせない同居人だけである。
律は重い体を起こして、部屋のドアを開けた。
「すまん、起こしたか」
「……おかえり、父さん」
「ああ、」
ただでさえ精気の薄い父は、以前顔を合わせたときより一層濃い隈をこさえて、栄養もクソもないようなカップ麺に薬缶で沸騰させたお湯を注いでいる。
二人暮らしになってから、これといった会話を父とした記憶が律にはない。仕事の都合で、ほとんど家には帰ってこない父との、話題の種も当然のことながら、ない。だから、父とテーブルを挟んで座ったのは、ただ何となく、である。黙々と、レンジで作ったホットミルクを飲みながら、ぼんやりと消えていく湯気を眺めていると、父はいつも通りのぶっきらぼうな口調で話しかけてきた。
「学校はどうだ?」
「あー……まあ、ぼちぼち」
「そうか」
父から続く言葉はなく、気まずい雰囲気が流れる。居心地の悪くなった律は、立ち上がり、早々にこの場を後にしようと、踵を返したその時だった。
「律、お前。──約束、破っただろ」
がしゃん、と手にしたコップが床に落下した音がした。
*
長いようで短かった冬休みが終わり、各々学校での課題テストを終えた金曜日。
透花たち『ITSUKA』のメンバーは、『アリスの家』に集合していた。2月に投稿する予定の、新曲の打ち合わせである。しかし、そこに一番重要な人物の姿が無かった。
透花は、何度目かスマホで時間を確認して、首を傾げた。予定時刻からすでに40分は経過している。
「律くん、遅いね」
「今朝いきなり、打ち合わせ場所変更してほしいとか自分から言っといて、遅刻するとか何様だよ。連絡も寄越さないし。よし、来たら、絞めるか」
「いいね! あたしも混ぜてよ」
本当にやり兼ねない殺意の籠った目つきで、準備運動を始める纏とにちかを横目に、透花は再びスマホの通話を繋げる。3、4コールほど続いて、やっぱり出ないか、と通話を切ろうとした、その時である。
「ごめん、遅れた!」
勢いよく開かれたドアから、待ち人は現れた。右頬を覆うように、大きなガーゼを貼り付けて。その場にいた全員が、律の顔を見て目を見張る。その刺すような視線で、律は思い出したようにはっと我に返り、頬を押さえた。
「あっ、いや……これは、」
絶妙に目を泳がせるその素振りが、ますます訳あり感を漂わせてくるから、無粋に疑問を投げかけられる度胸のない者は、口を噤む。その中で唯一、口を開いたのは、メンバー最年少の纏である。しれっと、いつも通りの口調で律以外の誰もが思ったワードを発した。
「痴情のもつれ?」
「ちげーよ!!!」
全力の全否定が『アリスの家』に響き渡った。
*
「はぁあああ!!?? 家出したぁあああ!!??」
纏とにちかが、互いに合わせたように声を荒らげた。いい加減、弁解することに嫌気がさした律は、テーブルに頬杖を突きながら、「だから、さっきからそう言ってんだろ」と、やさぐれた返事をする。
「お父さんと喧嘩したからって、なんでそんな急に?」
透花の問いかけに、律は歯切れ悪く口籠る。軽く息を吐いて、律は事の発端を説明することにした。
「音楽やってるのが、バレたから」
「は? それだけ?」
単純すぎる理由に纏は肩透かしを食らう。
「まあ、普通はそうだろうけど、うちは特殊っていうか……そもそも俺が、『Midnightblue』で作曲してたの、父親にバレるとやばいからなんだよね」
「やばいって?」
「これ見りゃ分かるでしょ」
端的に、そして最も分かりやすく、その異常性を示すように、律は自分の右頬を指さした。軽く顔を引き攣らせている纏たちの反応は、律の予想通りだった。
「あの人、音楽のこと嫌悪してるから、俺がやってることなんて気が付かれるわけないって高括ってたんだけど……ほら、この前の炎上騒動で、ネット上に結構野外フェスの動画回ってただろ? たまたま見かけて再生したら、あらびっくり画面端に俺の息子が映ってるー、しかもピアノ弾いてる! みたいな、ね」
「……私のせいで、すいません」
顔を青くした佐都子が頭を下げると、律はあっけらかんとした様子で笑った。
「緒方さんのせいじゃないよ。いつかはバレてたから。それで昨日の夜、口論になって、殴られて、家出するって決めたってわけ。これからも音楽続けるとか言った日には、今度こそ右頬だけじゃ収まんないだろうしね、あの人は。……だから、しばらくは漫喫とかで過ごそうと思って、学校から帰って家で一式着替えとか、家出するって置手紙とか色々準備してたら、遅れた。状況説明、以上! 何か質問は?」
律は、ぱん、と両手を叩いて空気を一新しようとするが、重苦しい空気が払えるはずもなく。静まり返った中で、その沈黙を破ったのは透花だった。
「叔父さんを頼る、とかはできないの?」
「それだけは絶対無理」
律の返事は、数ミリの余地すらないほどの全否定だった。
「俺が家出して、あの人がまず思いつくのが『Midnightblue』だ。てか、それだけしかない。ここで叔父さんを頼ったら、俺は今以上に叔父さんに迷惑かけるから無理」
「でも」
「心配してくれて、ありがとな。でも、俺は大丈夫だから。ほら、打ち合わせ始めようか!」
空気を切り替えようと、いつになく声を張り上げた律を横から遮るように、纏は言った。
「ひとりいるだろ」
なぜか、纏がこちらを見ている、と気づいた透花は首を傾ける。
「家出先にはうってつけの場所」
纏の言葉を頼りに思考を巡らせ、透花が纏が何を言わんとしているのか、徐々に理解する。それに比例するように冷汗がだらだらと額から流れ始めた。
「ま、まさか……」
恐る恐る問いかけた透花に、纏は無慈悲な満面の笑みで答えた。
「夕爾んとこなら、家出先としては、最適でしょ」
*
雨宮律の家出計画は、即日決行された。
もっとも優先すべき最重要ミッションを達成すべく、律と纏は『Midnight blue』の向かいにあるチェーン店の牛丼屋の立て看板で身を隠し、様子を伺っていた。
店内に続く階段から、見覚えのあるバーテン服を着た疲れ切った顔の男が上がってくる。男はしきりに欠伸を繰り返しながら、そのまま律たちから背を向けた方向へ歩いていく。
「たぶん、コンビニに煙草買いにいくとこだ」
「今しかないな、行くぞ律」
律と纏は頷き合って、そそくさとコソ泥のように店内に忍び込んだ。
彼らの目的地は、律が作業部屋として使っている元リハーサル室である。最重要ミッションとは、作曲するための機材を叔父である和久がいないうちに回収することだった。
薄暗い部屋の隅で、律と纏は機材を持ち出すための荷造りに奮闘していた。キーボード、オーディオインターフェース、ヘッドフォン、各種配線コードをひとしきり鞄にぶち込んだ纏が、PCの前でもたつく律の尻を軽めに蹴とばす。
「おい、10分経つって! 何もたついてんだよ! もう戻ってくるぞ!」
「クソ、データが重すぎて全然転送できん!」
「ちゃんとクラウド管理しとけやボケカス!」
纏から正論すぎる激が飛ぶ。杜撰なデータ管理のつけが今になって回ってくるとは、と律は自分を呪いたくなった。ようやく転送完了の文字を確認した律と纏は、両手いっぱいに機材を抱えて部屋と飛び出した。
「何やってんだ! 行くぞ!」
「ちょい待って、一応メモを……」
バーカウンターに置かれているペーパーナプキンを一枚取り、ボールペンで文字を書きなぐる。急かす纏の後ろに続き、律は『Midnight blue』のドアをくぐった。2段飛ばしで階段を駆け上がり、その場を後にしようとした、その時だった。
「……ん? 律と、纏じゃねえか」
背後から、聞き慣れた声がして、律と纏はぎこちなく後ろを振り返る。店隣に設置された簡易の喫煙所で煙草を吹かす叔父、和久の姿がそこにはあった。
「なんだぁ~? 二人してそんなでっけえ荷物抱えて。わはは、夜逃げでもすんのかよ」
概ね、正解である。
「そ、そんにゃわけないだろ!?」
律の返答に、纏は思わず頭を抱えたくなった。叔父の怪訝な顔つきを見て、律はますます頭の中が混線状態になっていく。咥えた煙草を指に挟んで、叔父は自分の右頬を指で刺した。
「律、お前そのガーゼどうした? 怪我したのか?」
「そ、それは」
「それに、その荷物、」
やべ、と顔面に書き殴ったような挙動不審を見せる律に、纏はすかさず助け舟を出した。
「すいません、これから『アリスの家』で打ち合わせがあるんです。この荷物、この前あげた新曲の慰労会用に買った飲み物とか、お菓子とかですよ。よかったら見ます?」
いつもと変わらぬポーカーフェイスで、すらすらと言葉が出るところは、まるで詐欺師のようだ。叔父に疑問を問いかける余地を与えず、纏は続ける。
「透花たち待たせてるんで、僕らはこれで。ほら、行くよ」
「わ、分かった」
既に背を向けて歩き始めた纏に続くように、律は方向を変えた。一歩、踏み出そうと踵をあげたその時である。
「おい。ちょっと待て」
「……な、なんだよ」
「忘れんうちに、渡しとく」
今更呼び止められるとは思わず、律の肩が勝手に跳ねる。
首だけ後ろを振り返ると、叔父は何かを探すように手当たり次第に胸や腰にあるポケットを探り、ああ、と何かを見つけたのか声を上げた。律の前に、差し出されたのは掌に収まるサイズの上等そうな紙切れが一枚。
律がその紙を受け取る寸前。叔父は律にだけ聞こえるよう、顔を寄せた。
「───」
それを少し遠くから見ていた纏は、一瞬、律の瞳が揺れ動いたのを見逃さなかった。一言、二言何かを伝え終わると、叔父はすっと身を引いた。律は何も言わず、そのままぐしゃりとその紙を握り潰して、乱暴にポケットの中に突っ込んだ。
「じゃ、打ち合わせ頑張れよ」
手を振る叔父に背を向けて律は、纏さえ追い抜いて歩き出す。ワンテンポ遅れて、纏は律の後に続く。数センチほど高い律の顔を見上げて、纏は問う。
「さっきの、何だったの?」
「…………ただの、買い物リスト」
「ふぅん」
つくづく律は嘘が下手クソだ、と纏は思った。
*
『しばらく家出します。父さんが来ても、知らないって言ってください。迷惑かけて、すいません』
カウンターに置かれた、ペーパーナプキンに書き殴ったその汚い文字を読んで、和久は薄々気が付いていた状況をすべて察した。機材が置かれた律の作業部屋は既にもぬけの殻となっていた。考えるまでもなく、二人が抱えていたあの大荷物がそれだったのだろう。
こういう思い切りの良さは確かに姉譲りだ、と苦虫を嚙み潰したように笑った。
「ったく、姉貴も反省しろよ」
額縁に飾られた今は亡き姉の写真を眺めながら、和久はもう一度煙草に火をつけた。
*
『Midnight blue』で必要な機材を回収した纏と律は、透花たちの待つ駅へと直行した。
透花を含め、佐都子とにちかも改札口前で談笑しながら、待っているのが見える。近づく律たちの影に気が付いたにちかが、おーいと声を上げて両手を大きく振る。駆け足でその輪に近づくと、透花が首を傾けた。
「無事に回収できた?」
「まあ、何とかね」
「じゃあ、いったんここで解散か。透花ぁ、さぼんなよ!」
佐都子がにししと悪戯っぽく笑う。負けじと透花も「佐都子もね」と返事を返す。その横で何か言いたげにプルプル震えていたにちかが、辛抱たまらん感じで勢いよく透花の両手を掴み、苦渋に満ちた表情で透花を真っ直ぐ見つめる。その勢いに透花は思わず片足だけ一歩後ろに下がる。
「すーーー……っごく! あたしも行きたい、行きたいけど……! でも、メメ先生に迷惑かけるの、嫌だから、我慢する。弁える読者で居たいし、負担もかけたくないから」
「う、うん」
「だから、代わりにもし……、伝えられたら、でいいから。言ってほしい。先生の漫画で、あたしは救われましたって」
透花は目を見開いて、それから口元を綻ばせながら強く頷く。
「うん。伝える、絶対。約束する」
その言葉を残し、透花たちは電車に乗り込んだ。
*
夕刻を知らせる防災無線のチャイムが遠くから聴こえてくる。
目的地であるツルミ写真館は、透花たちの家の最寄り駅よりもさらに2駅先にある、廃れた商店街の一角にある。透花の母方の実家であり、曾祖父の代から続く歴史ある写真館だ。透花が中学生の頃、祖父が亡くなって今は透花の母の兄、つまり伯父が営んでいる。
お泊りセットとMV制作に必要な機材を両手に抱えた透花は、浮かない顔で何度目かわからない問いかけを、涼しい顔で横に立つ纏にした。
「……やっぱり、わたし、いなくても」
「何言ってんの。ここまで来て」
「う。だって、でもさ、」
「もう聞き飽きた」
「せめて纏くんも泊まろうよ……、ねっ?」
「僕一応中学生だし。親の許可が下りるわけないでしょ」
「この裏切り者ぉ!」
都合の悪い時だけ中学生設定を持ち出して、纏は縋る透花の手を振り払った。今更ごねたところで、どうにもならないと分かっていても、透花は抵抗したくなってしまう。
「ほら、もう見えてきたよ」
「ああ、あれか」
透花はいよいよ覚悟を決めなければならないときが来た、と暴れる心臓を押さえるよう胸の前に手を置いて、大きく深呼吸をした。
「……なにこれ」
纏の困惑する声に、透花と律は互いに顔を見合わせた。
『諸事情により、休業中です。』
そう掲げられた張り紙を前に、透花たちは立ち往生していた。窓ガラスから店内を覗き込むと、夕方だというのに明かり一つ付いていない。そのせいで壁一面に飾られた写真が少し不気味だった。窓から顔を離した律は、首を横に振った。
「駄目だ。誰もいなさそうだ」
「あークソ、事前に連絡入れてあったのにアイツ! 待って今、鬼電するから」
乱暴にスマホをタップして、纏はそれを耳に当てた。透花と律が纏を挟むようにして、スマホに各々耳を近づける。数コール音の後、荒いノイズ音が電話口から聴こえてくる。
「オイ、夕爾お前どこにいる───」
「───ここだァアアア!!」
「うわぁあ!?」
「きゃ!」
突如背後から、耳を塞ぎたくなるほどの声量が透花たちに襲い掛かる。思わず耳を押さえて縮こまった3人は、数秒後、笑いを堪えるような息遣いが聞こえてくることに気付いて、振り返る。
夕暮れの赤に照らされる透き通るような白髪に、透花に似た少し藍色がかった瞳。ついに堪えきれなくなったのか、からから豪快に笑う姿はまるで少年のようだ。目じりに溜まった涙を指で掬い取って、彼は顔を上げた。
「はー、笑った笑った」
「……お前な」
「おいおい、会って早々説教は無しだぜ?」
纏の苦言すら何のその。軽くあしらって、彼、笹原夕爾はにっと人懐っこく笑う。
「待ってたぜ、非行少年! それに、」
夕爾の視線がすっと、律から自分に移動したことに気付いて、透花は思わず逸らしてしまう。しかし、夕爾は薄く笑って、言葉を続けた。
「久しぶり、透花」
「…………、うん」
それが透花にとって、数年ぶりとなる、兄夕爾との邂逅だった。
*
「一昨日くらい? 伯父さんが知り合いの農家から送られてきた米運ぼうとして、ぴたーって固まって。俺が慌てて救急車呼んだらどうも、ぎっくり腰だと。それで急遽、写真館は休業中になったってわけ」
休業の張り紙に至った経緯を語りながら、夕爾は先を歩く。律たちが泊まる場所は、ツルミ写真館───ではなく、ツルミ写真館と隣接する床屋との間にある、大人一人が通れるほどの細道を通って、その先にあった。
「お前らラッキーだぜ? 今、ちょうど大学4年の奴らが地元戻って、ツルミ荘には俺以外下宿してないから、実質貸し切り」
細道を抜けると、そこにあったのは、ひと時代前へとタイムスリップでもしたのかと思わせるほど古い民家だった。その庭に咲く雪椿には、霜が降ってより一層幻想的な雰囲気を作っていた。苔の生えた石畳の上を慎重に歩く。夕爾は手慣れた様子で、ポケットから取り出した鍵を引き戸に差し込み、ごりっと音を立てて開けた。
数十年ぶりにツルミ荘に足を踏み入れた透花は、妙にそわそわしながらあたりを見回す。それは律も同じのようだった。
手荷物をすべて廊下に置き、ひと呼吸置いた纏がすくっと顔を上げた。
「よし。僕はこれで一旦帰るよ」
「え、もう帰っちゃうの?」
「帰ってまだやらないといけない仕事も残ってるし」
「そっか……」
「また明日、様子見に来るよ。伝えなきゃいけないこともあるしね」
纏がわざわざ聞かなくても分かるほどには、透花の顔に不安の二文字が書かれていた。後ろ髪を引かれるような思いで、纏は透花に背を向ける。
「おい」
「なんだよ、って、っわ」
纏は、ちょうど視線の先に立っていた律の肩を強引に組んで引き寄せた。バランスを崩した律の耳がちょうど、纏の口の高さに合わさる。律にだけ聴こえる声量で纏は囁いた。
「言っとくけど、抜け駆けしたら殺す」
「しねぇよッ!?」
纏に何か囁かれた律が、弾かれた様に顔を赤らめて纏を突き飛ばすから、蚊帳の外になっていた透花は瞬きを何度か繰り返す。しかし、その二人の様子を同じく見ていた夕爾は、ああ、と何か察しがついたらしくぽんと手を叩いて、名案だとばかりに提案した。
「よければふたり、相部屋にする?」
「「結構です!」」
今度は透花も沸騰するほど顔を赤く染めて、律と声を揃えて全否定したのだった。
*
目を開けたら、そこには知らない天井があった。いつも目を覚ました時の感覚とは違う、本当に知らない家の天井だった。
吊り下げの照明から、切り替えする紐の先がぐるぐると回っている。畳独特の、井草の匂いがした。再び微睡の中へ落ちようとしていた律を覚ますように、頭上でメッセージの通知音がぴこん、と鳴った。手に取って確認すると、通知の相手は纏だった。
『大事な話があるから、今日の昼そっちに行く』
律は、か細く息を吐き出しながら、スマホを放り投げる。雑音が多すぎて、頭の中で羅列していた音符はまだあちらこちらに飛び散っている。
この曲につけるタイトルを、まだ、律は決められずにいた。
「メジャーデビューの打診が来てる」
纏の口から発せられたその台詞は、淡々としていた。
午後3時より少し前。
ツルミ荘の共有スペースであるリビングには、腹の奥底を圧迫するような重い空気が流れる。言葉を失ったまま呆然とする透花と律を置き去りにして、纏は、向かいに座るふたりにスマホの画面を向けた。そこには、纏とその担当者とのメールでのやり取りが表示されていた。付け加えるように、纏は続けた。
「ちゃんとした大手レコード会社だよ。詐欺とかではないのは確認してある」
一呼吸置いて、纏は猫のような真意を伺う瞳をふたりへ向けた。
「大事な話って言うのは、『ITSUKA』のこれからのことだ」
「これからの、って」
透花は膝にのせた手を握りしめて、纏に問うた。
「3月5日で『ITSUKA』は解散するのか、それとも続けていくのか」
メンバーの誰もが頭の片隅にはあっても決して口には出せずにいた、重大な選択肢を纏は容赦なくふたりに突き付けた。
「にちかと、佐都子には昨日の夜にもう話してある。その上で、僕らは選択権をふたりに委ねると決めた。だから……、透花、律」
ゆっくりと二人の顔を往復して、纏は静かに口を開く。
「ふたりが、決めて。だって、『ITSUKA』は、ふたりが始めたことだから」
刻々と迫るタイムリミットを告げるように、振り子時計の鐘の音が響き渡った。
律は『劣等犯』の作曲時以降、一度も聞かなかった、母の曲を聴く。
律にとってそれは、儀式だったはずだ。自分は間違っていないはずだ、と再確認するための。けれど、今はそんなことはどうでも良くなってしまった。燃え盛っていた怒りも、痛みも、一時の感情に過ぎなかったからだ。
(だったら……、なんで、俺は、)
縁側の床が氷のように冷たくて、心の奥まで凍っていくようだった。耳につけたイヤホンを巻き込んで、律は膝を抱えて丸くなる。右手にあるぐしゃぐしゃの紙屑を、じっと見つめ、何度目か分からないため息をついた。煩雑な感情が律の頭の中を乱していく。
(どうして俺は、まだ、)
ぴとり、と人肌よりも温かい何かが、律の指に触れる。僅かに顔を上げると、白く湯気の立つマグカップを両手に持った透花が、律の顔を覗き込むように首を傾げた。
「ココア、飲む?」
「……あ、ああ。ありがと」
律は慌てて右手をポケットに突っ込んで、差し出されたマグカップを受け取る。耳につけたイヤホンを外しているうち、透花が律の隣に腰を下ろして、真剣な顔で息を吹きかける。揺れる湯気とともに、優しい甘い香りが漂ってくる。
夜のツルミ荘は、まるで外の喧騒が嘘のように粛然としている。まるで、この世界にいるのはふたりだけなんじゃないかと、錯覚するくらい。
「……何、聴いてたの?」
先に沈黙を破ったのは、透花だった。
「母さんの曲」
「『Midnight blue』?」
「うん。透花も、聴く?」
「いいの?」
律は返事の代わりに、イヤホンの左側を透花に差し出した。戸惑いがちに透花の白くて細い指がそれを取る。一瞬、透花の熱が律の指先に触れてどきりと心臓が跳ねた。ふたりでイヤホンを分け合って、『Midnight blue』をスマホで再生する。タイトルの通り、真夜中の夜を思わせる、儚く、途切れそうな旋律に律は耳を澄ませる。
「ねえ、律くん」
「……ん?」
「律くんは、どうしたい?」
透花の問いに主語は無かった。けれど、律は透花の言わんとすることすぐさま理解する。口を開くが、声は出なかった。ひゅう、と乾いた喉の音がする。そうして、ようやく出た返答は情けないほど曖昧なものだった。
「……分からない」
律の無責任な言葉に、透花は特に怒るわけでもなく、そっか、と短い返事をした。
「透花は?」
「わたしは……、わたしは、まだ、描き足りない。だから、描き続けたいって、今はそう思うよ」
「……すごいな、透花は」
「どうして?」
「俺は未だに、分からないままだ」
曖昧にしていた選択を前に、長い間立ち尽くしている。自分で自分の感情が理解できない。どうしたいのか、何をしたいのか、思考が行ったり来たりを繰り返している。それではいけないと分かりながら、選ぶことを躊躇い続けていた。
「……はー、生きるのってムズくない? ゲームみたいに、セーブしてやり直しできたらいいのに。決まったストーリーに沿って進めていくだけだったら、こんなに悩むこともない」
「確かに」
くすくす、と小鳥が鳴くように透花が笑って、それから、律の方へと首を傾けた。
「でも、何もかもやり直しができたら、きっと世界はちょっとだけつまらなくなる。だって、『創作』は何もかも満たされた人間からは、生み出せないから」
深い青の瞳が、すうっと細くなる。いつも律が透花にやるように、小さな掌を律の頭にのせて優しく撫でる。
「律くんにもきっと、見つかるよ。探してた答えが」
分かったら一番最初に教えてね、と透花は最後にひと撫でして離れていった。
その手を追いかけて掬い取る資格は、まだ、律にはない。
*
音楽が嫌いだった。
感傷に浸らせるような音楽も、前向きにさせる音楽も、傷ついた心に寄り添う音楽も、明日の未来を綴る音楽も、夢を描く音楽も。ラブソングなんて聴いただけで吐き気がした。
この世界が、音楽のない世界だったら良かった、と思っていた。
かつて、雨宮律は音楽を憎んでいた。
今はもう、自分がどう思っているのかすら分からない。
何故なら、律が追い求めていた答えはもう随分前に分かってしまったから。
割れんばかりの喝采と、肌に纏わりつく熱気。人々の歓喜に満ちた視線の中、律は得体の知れない充足感に愕然とした。熱さに反比例して、全身が粟立った。そして同時に、律は理解してしまったのだ。言い逃れのしようがないほど、思い知らされたといってもいい。その事実を直視すぎるには痛すぎて、受け止め切るにはあまりに脆すぎた。
(ああ、そっか)
律は、固く目を閉じて、その現実から遮断した。
(だから、母さんは───)
「……みや、おい、雨宮!」
はっと、律は我に返った。
顔を上げると、頭に白髪の見えるジャージ姿の教員が教壇の前で腕組していた。その後ろの黒板には進路ガイダンスの文字がでかでかと書かれている。いつの間にか、律の目の前には『進路希望調査』と太字で書かれたA4用紙があった。
ここは学校で、今は冬休み明けの進路ガイダンス中だということを、律はようやく思い出す。
「すいません」
律が軽く頭を下げると、教員はあからさまに大きくため息をついて、再び説明をし始めた。
これからの人生を決める重要な選択だからとか、よりよい大学に入れば大企業に就職できるとか、自分のやりたいことをちゃんと決めなければ将来露頭に迷うとか、耳にタコができるほど聞かされた、説教じみたもっともらしい言葉は、特急列車みたいに律の耳を通り過ぎていく。
「3年後、5年後、10年後の自分を想像して、悔いのない選択をするように」
その言葉だけが、唯一、律の耳に残った。
ガイダンスを終えた生徒はみな、家路を急ぐようにマフラーやコートを羽織って教室から去っていく。その人混みに紛れるように、同じように律も教室を出る直前、呼び止められた。首だけ振り返ると、薄縁の眼鏡をした男が立っている。担任だ。
「なんですか?」
妙に歯切れ悪く、目線を泳がせながら担任は顎を摩る。
「ああ、いや。今朝、雨宮のお父さんから連絡があってな」
ぴくり、と僅かに律の肩が跳ねる。
「息子はちゃんと学校に通ってるか、って言われてな」
「……そうですか」
自宅に残した置手紙には、学校には通うから余計な事をしないでくれ、と書き連ねたことを律は思い出す。その確認のためにわざわざ学校に連絡したのだろう。ご苦労なことだった。
「もし、何か悩んでることがあるなら、いつでも言ってくれ。相談に乗るから」
「ありがとうございます」
「ただし、俺に出来ることはそこまでだ。あとは、お前が親御さんと話し合わなきゃどうにもならん。まあ、お前の成績だったらどこの大学でも狙えるだろうから、話し合えば解決できるさ」
「いい大学に入ることが、正解ですか? それが、悔いのない選択なんですか?」
担任の面食らった表情を見て、律はしまったと思った。呼び止められないよう、そのまま頭を下げて、そそくさと教室を後にした。
その日は、まったくと言っていいほど睡魔がやってこなかった。
家出騒動を抜きにしても、律の作曲のペースは明らかに落ちていた。『創作』において、切っても切れない関係、所謂スランプという奴だ。曲を作り始めて初めてスランプのドツボに嵌っていた。続きの歌詞が書かれることのないネタ帳も、まったく変わらないPCのピアノロール画面も、いい加減に見飽きて、律は頭を掻きまわしながら床に転がった。
ふと横を見れば、鞄の中から件の用紙がはみ出ているのが見えた。その端を引っ張りだそうと手を伸ばして、途中で止まる。
「何してんだ、俺は……」
何もかも中途半端。『ITSUKA』のことも、父のことも、進路のことも、だ。何もかもに嫌気が差して、いっそこのままどこか遠くにでも逃げ出してしまいたくなる。
「なんて、できるわけないけど」
嘲笑うように薄く瞼を閉じた律の視界に、ふっと、影が落とされた。続いて降ってきた声は、随分と明るかった。
「おーおー。青春してんな、非行少年?」
瞼を開けると、律の視界に蛍光灯の明かりで照らされた白髪が映り込む。律の顔を上から覗き込むように腰を屈める男の姿が、そこにはあった。
「笹原、さん?」
「笹原さんは、ちょい仰々しいな。夕爾でいいぜ。俺も律でいいか?」
「……どうぞ」
律が起き上がると、夕爾はすっと曲げていた腰を戻した。
ツルミ荘にやってきた初日以来、あまり見かけなかった夕爾の登場に律は少なからず緊張する。何せ、透花から今日は自宅に戻ると連絡があった。つまり、ここにいるのは律と夕爾の二人だけだ。
「珍しいですね、この時間に帰ってくるの」
「まあ、今日はたまたまな」
「夜遅くまで何を?」
「ナイショ」
「……そうですか」
これ以上深堀できる仲ではないから、律はそこで会話を終わらせるしかなかった。
「じゃ、ほどほどに頑張れよ~少年」
律の肩を軽く手で叩いて、夕爾は踵を返した。すると、夕爾が片手に抱えていた紙の一枚がすり抜けて、落ちる。
「夕爾さん、何か落としました、……よ?」
夕爾を呼びかけながら、その落ちた用紙を律は拾い上げて───目を瞬かせる。振り返った夕爾が無言で、すぐさまその紙を律から奪い取った。紙の隔たりを失った律の前に、じとりと睨みを聞かせる眼がふたつ。
「見たな?」
それは、端的に、しかしどこか圧力のある問いだった。
「ええと、」
「見ただろ」
「見てな、」
「見ただろ」
「……はい」
律はすぐさま白旗を挙げた。誤魔化す暇すら与えてくれなかった。
「すいません、見るつもりは」
「いや、俺の不注意だから別に謝る必要ない」
律の記憶が正しければそのA4用紙に描かれていたのは───コンテ、ではなくネームというのだろう。漫画的に言えば。そしてそれはおそらく、透花が待ち続けている物語の続きだということは、夕爾の過剰な態度から察するに余りあった。
勝手に見てしまったという居た堪れなさに顔を伏せる律を他所に、ぐるる、と腹の虫が一つ鳴った。思わず律は自分の腹を押さえた。なぜこんな絶妙に悪いタイミングで鳴るのか。
しかし、その音を皮切りに夕爾の締まりのない笑い声がした。
「なあ」
「……はい」
「今から付き合え」
「へっ? どこに?」
戸惑う律に、夕爾はにんまりと悪い笑顔を浮かべた。語尾にハートマークをたっぷり付けて。
「ちょっとイケないとこ」
*
表面に浮かぶ健康に悪そうな油を、遠慮なくレンゲですくう。食欲を誘われる、醤油の香りに律は思わず胸が躍った。
「おうおう、俺に感謝して遠慮なく食え? 替え玉は2回までな!」
律の向かいに座った、景気よく割りばしを割った夕爾が、少年みたいに笑う。しかし、目の前のラーメンを啜る前に律は確認しなければいけないことが一つある。
「……もしかして、ちょっとイケないとこって、ここですか?」
「当たり前だろ? ド深夜ラーメンは重罪だぞ! 下手すりゃ捕まるぜ~?」
捕まるわけねえだろ、なんて突っ込みを律はぐっと飲み込む。夕爾はにやにやしながら目を細めた。
「はっはーん? 一体どんな想像をしたんだ、お兄さんに言ってみ? ほれほれ」
「箸で指さないでください」
「この思春期むっつり少年め」
「誰がむっつりか!」
「は~やっぱうめー。ほら、さっさと食わねえと冷めちまうぞ?」
完全に夕爾のペースだ。
まったく悪びれる様子もなく、麺を啜る夕爾の旋毛を見ながら、律はため息をつく。これからはこの人の言うことは容易に信じまい、と心に誓うように律は両手を合わせてから、ラーメンを食べ始めた。
「食った食った~」
色褪せた赤の暖簾をくぐって、律たちはラーメン屋を出た。温まって熱いくらいの身体にちょうどいい冷たい風がひゅうひゅうと吹いている。
息を吐くと、真っ白な靄が澄んだ夜空に溶けていった。数歩前を行く夕爾の足元に視線を落とし、律も同じくらいのスピードで歩く。
夜風に乗って、夕爾の声が流れてくる。
「旨かったか?」
「まあ」
「はは、可愛くねえの」
ぴたり、と夕爾の足が止まった。律の足も続いて止まる。振り返った夕爾の表情は、暗がりの呑まれてよく見えなかった。
「付き合ってくれた礼に、人生相談にでものってやろう。なんていうか、人生の先輩として?」
「……そんな年離れてないですよ」
「はは、減らず口を。家主に盾突いてもいいのか~?」
それを言われると、律はもうぐうの音も出ない。
「ん、そうだなー。何でも、3つ、質問に答えてやるよ」
律の前に立てられた3本の指。どうやら、向こうは折れる気はなさそうだった。律はひとつため息をついて、再び歩き出す。
「じゃあ、質問です」
「どうぞ?」
「夕爾さんはどうして、漫画を描こうと思ったんですか?」
少しだけ考えるような素振りをして、さらり、と夕爾は言った。
「モテたくて」
「…………………………は?」
たっぷり時間をかけて、彼の言葉を飲み込もうとしたが、嚙み砕くにはあまりに固すぎて喉には通らなかった。思わず隣を振り返った律の視線と、夕爾の視線が合う。なんでそんな純粋な瞳をしてんだ、と律は突っ込みたくなった。
「ええ!? 逆にモテたい以外なくね?」
「ないです」
「はいダウト! つーか漫画描く奴より音楽やってる奴の方が、女にモテたいって下心しかねーだろ!! それ以外の動機で音楽はじめる奴なんかいねえわ!」
「偏見酷すぎません?」
「じゃあ、自分は一切の下心なく100%純粋に音楽やってるって言えんのか? お? 神に誓って言えんのか? ほれ、俺の目を見て言ってみ?」
夕爾は真実を白日の下に示さんとする探偵が如く、律の眼前にやってくる。
「ぐっ……下心はな…………な、くはないです」
「ほれみろ~!」
律はがくっと肩を落とした。なぜだか物凄く負けた気分だった。意気揚々と再び律の前を歩き始める夕爾の背中を、律は恨みたらしく睨んだ。
「で、結果はモテたんですか?」
「よし。次の質問をしろ」
その返答だけで、結果は分かった。律はふっと、軽く笑って次の質問を考える。ふと、頭に件のネームのことが思い浮かんだ。
「じゃあ、質問ふたつ目。続きを描くつもりは、ありますか」
「今は、ないよ」
即答だった。希望を持たせる暇すら与えてはくれなかった。
「あれは、単なる気まぐれさ。たまたま流れてきた動画のMVにちょっと触発されちまっただけだ。柄にもなく」
「きっと、喜びますよ」
誰よりも続きを待ち望んでる人たちを、律は知っている。あえて名前を出すまでもなく、夕爾も同じく彼らを思い浮かべたのだろう。少しだけ苦しそうに笑った。
「いつ描かれるかも分からない続きのために、大事なファンをぬか喜びさせるなんて、漫画家としてそんな半端なことはできねえよ」
「そう、ですか」
「だから、あいつらには内緒な。ラーメンは口止め料ってこと」
「……分かりました」
律が頷くと、夕爾は少しだけ安心したようにくしゃりと笑った。そうして、律の胸に拳をとん、と一つ置いた。
「ありがとな」
「何がですか?」
「『創作』を聞いて、俺はまたペンを持つ気になれた。だから、ありがと」
その言葉が、何よりも律の心に響いた。
顔を逸らし、小さく息を漏す。少しでも油断したら、視界が揺らいでしまいそうだったから。誤魔化すみたいに、律は皮肉を吐く。
「……それは、透花に直接言った方がいいんじゃないですか?」
「ぶぁか。兄の沽券に関わんの!」
いつの間にか軽口のやり取りすらできるようになったところで、ツルミ写真館の看板が数メートル先に見えてきた。
この問答も、そろそろ終わりが近づいてきた、ということだ。
「最後の質問です」
「ああ」
律は立ち止まって、閉じた瞳をゆっくりと開く。少し先で立ち止まった夕爾が、こちらを振り返る。
「夕爾さんは、『創作』のためなら、死ねますか」
その瞬間、時が止まったみたいに、しん、と静まり返った。
絡まった目線だけは逸らさなかった。真意の読み取れない透花に似た藍色の瞳が、すっと細まる。皮膚を突き刺すような鋭さがそこにはあった。
「それは、『創作』を投げ出した俺に対する当てつけのつもりか?」
その返答に律は、すぐさま自分の質問が最低な当てつけだというのことに気が付いた。
「あ、いや、そういうつもりじゃ、」
「今の俺には、耳に痛いな。その質問は。……ああ。いいよ、別に怒ってねえから」
ひらりと手を返して、夕爾は唇で薄く笑った。夕爾の一言で肩を撫でおろした律を横目で見てから、そのまま空を仰ぐ。その横顔は、あまりに儚くて一度瞬きをすれば、跡形もなく消えてしまいそうだった。
「『創作』のために死ねるなら、本望だとさえ思ってた。……けど、俺には結局、出来なかった。命までは賭けられなかった。あっち側に行ける人間じゃなかったんだ」
自嘲的な笑いを残して、夕爾の視線がすっと律の方へ向けられる。
「律、お前はどっちだ?」
*
ツルミ荘にやってきて、2週間がたつ。
右頬を覆っていた白いガーゼを外して、律は鏡に映る自分を見た。指先で触れても、痛みはなく、殴られた形跡なんて元々無かったのではないかと思うほど、元通りだった。
ゆっくりと深呼吸をする。気合を入れるように、両手で思いっきり頬を叩いた。
「……よし」
鏡越しに映る自分の顔は、幾らか大人になったように見えた。
「透花、ちょっといい?」
いつの間にか、律と透花の定位置になっていた縁側に顔を出すと、案の定、透花が鉛筆を走らせているところだった。呼びかけられた透花が、こちらを見上げた。顔にかかった黒髪を耳にかけながら透花は、律のスペースを開けるように少し横にずれる。遠慮なくそこに腰を下ろす。
「透花に一番に、伝えようと思って」
「うん」
「俺の答えを」
勝手に手が震える。寒さではなく、緊張で。生まれてきて初めて、こんなにも心臓を握りられるような緊張感を味わう。心いっぱいに溜まった不安を振り払うように、律は顔を上げ、透花を見る。僅か数十センチ先で、透花の深く青の瞳が煌めく。
「俺は───」
プルルルル、プルルルル。
今まさに律の口から答えが出かかったその瞬間、鳴り響いたのは、電話の着信音だった。絶望的なタイミングだった。口から出かかった言葉を仕舞うべきなのか分からず硬直していた律に、透花は苦笑しながら、律のポケットをちょこんと指さす。
出ていいよ、の合図だとすぐに理解する。
「……ごめん、すぐ終わらせるから」
舌打ちしたい気持ちをぐっと堪え、乱暴にポケットからスマホを取り出して、表示を見る。通話の相手は、『和久叔父さん』だった。律が家出してから一度も掛けてこなかった叔父からの電話に、律は一抹の違和感を覚える。親指で通話アイコンをタップして、スマホを耳に当てた。
「もしも、」
『律か!?』
律の言葉を遮って、珍しく焦りを語尾に滲ませた叔父の声がする。後ろから、カチカチ、とウィンカーが一定のリズムを刻んでいる。どうやら、車でどこかに向かっている最中のようだ。
『いいか、落ち着いて聞いてくれ』
「……なに?」
『晴彦義兄さんが倒れた』
呼吸が、止まった。頭のてっぺんから足のつま先まで体中の血が抜けたみたいに、力が抜ける。スマホの重さすら耐えれずに、次第に腕が落ちる。
『職場近くの大学病院に運ばれたらしい。それ以外の詳しいことは分からん! お前もすぐに来れるか!? ……律? オイ、律!?』
電話口から叔父の怒号にすら近い剣幕が聞こえてくるが、律は呆然としたまま思うように体が動かせない。だというのに、頭の中では曖昧な記憶の中に残る母の顔がコマ送りで流れていく。律は知っている。人間というのは、あまりに呆気なく死ぬのだと。
視界が掠れて何も見えなくなる寸前、誰かが律の右手を握りしめた、強く。瞬きを繰り返しながら、その手の先を辿るように律は顔を上げる。
「───すいません、電話代わりました! 透花です!」
透花だった。いつの間にか抜き取られた律のスマホで、電話口の叔父と話し合っている。
「はい、はい、分かりました! すぐ、向かいます!」
すぐさま電話を切った透花が、律の腕を引っ張り上げる勢いで立ち上がった。地獄の底で、目の前に足らされた蜘蛛の糸に縋る人間は、果たしてこんな気持ちだったのだろうか、と律は繋がれた手に力を込める。
「なんだ!? どうした!?」
ただならない騒ぎを聞きつけた夕爾が、足音を立てながらリビングにやってくる。透花が矢継ぎ早に事情を話す。すると、夕爾は表情を硬くして頷いた。
「分かった、店前に社用車回す! すぐ乗り込め!」
「律くん、行こう!」
繋がれた手に引かれるように、ツルミ荘を出て、透花とともに律は車の後部座席に乗り込んだ。病院に向かう道中、隣に座る透花の手から伝わる体温だけが、唯一、律を現実に繋ぎとめる糸だった。
*
「……はい?」
「ですから、雨宮晴彦さんなら、先ほど検査が終わって会計済まされたようですよ?」
「倒れたって聞いたんですが」
「過労と軽い栄養失調だそうです。雨宮さんから連絡はなかったですか?」
言葉を失ったまま立ち尽くす律たちを横目に、受付の女性は次の方、と後ろの客を呼び寄せる。律と透花は、押し出されるような形で受付の列から離れた。
エントランスホールから病院の外に出ると、容赦なく冷たい風が吹きつける。未だ顔を伏せたまま、無言の律から感情はなに一つ読み取れない。何か声をかけなければ、と切迫感に追い詰められて、上擦った声で透花は話しかける。
「ええと……大事にならなくて、よ、かったね?」
「……ああ」
「あああれかな? 律くんのお父さん、連絡するの忘れちゃったんだよ。きっと!」
「……ああ」
「おおお叔父さんもそろそろ来る頃かなぁ?」
「透花」
「ひゃい!」
透花は裏返った声と共に肩を跳ねさせた。恐る恐る隣を見やると、律が人差し指で透花の額を弾く。そして、空気よりも軽くふっと笑った。
「いいよ、気遣わなくて」
「……ご、ごめん」
「なんで透花が謝んの。俺の方こそ、付き合わせてごめんな」
「そんなの、全然」
「ここに居たら風邪ひくし、もう、帰ろうか」
「……うん」
「夕爾さんにもさ、お礼言っとかないとな。ジュースくらい買ってくか。あのひと、苦いの大丈夫? コーヒーとかでもいいかな? あ、ちょうどいいとこに自販機あるな」
透花と繋いだ手を引いて、自販機の方へ踏み出した足は、一歩目で止まってしまった。何故なら、その自販機の前に立つ人影に、律の方が先に気付いたからだ。咄嗟に背を向けようとしたが、もう遅かった。
「律、か?」
無事を知るまでは、会わなければと切に願っていたのに、いざその姿を目の前にして、律は心の底から後悔する。2週間ぶりに再会した父の姿は、玉手箱でも開けたのかと思うほど、やつれ切った姿で立っていた。
「お前、どうしてここに……、いや、今はそんなことどうでもいい」
額に手を当て、疲労を込めたため息を父は一つ付いた。ゆるりと顔を上げ、律を見やる。あの夜と同じ、律を強く詰責する目だった。
「今までどこにいた」
「……言わない」
「なんだと? ふざけてるのか?」
「ふざけてんのはどっちだよ」
「どういう意味だ」
は、と律は乾いた笑いを零した。
「今まで散々放置してたくせに、今更父親面すんなって言ってんの」
吐き捨てるように呟いた言葉で、父は分かりやすく狼狽した。これ以上同じ空気を吸っているのも苦痛だった。今、口を開けば一体どんな残酷な言葉が飛び出してくるか分からない。辛うじて堰き止めていた感情にブレーキの掛けられなくなるのが、怖かった。
律は、握った手に少し力を込める。
「もう、行こう。透花」
「う、うん」
律と父の顔を伺い、透花は躊躇いがちに頷く。少し痛くなるくらいの力で透花の手を引き、律は再び歩み始めた、その時。
「──待て、律ッ!」
咄嗟に律の腕を、父が掴んできた。瞬間。背中を嫌悪感が走り抜け反射的に腕を振り払うが、不快な熱は律の腕に纏わりついたまま離れない。
「いい加減、目を覚ませ! 音楽なんてやって何になる!」
「……」
「約束しただろう!? 忘れたのか!?」
忘れるわけがない、忘れられるものか、と律は吐き出したい言葉を堪え、歯嚙みする。
「音楽のせいで、奏は死んだ。たかだか、音楽なんぞのために! 奏は俺たちを捨てて、音楽を選んだんだぞ!?」
その叫びは、ほとんど泣いているようにすら、聴こえた。
「いいから……もう戻ってこい、律。今なら、許してやるから」
律は、かさついた父の手をもう一度、振り払う。今度は、簡単に解けた。肺には痛いほどの冷たい空気を吸い込んで、律は静かに答える。
「戻らないよ」
父の表情が、次第に怒りを滲ませていく。
「まだ、曲を完成させてないから」
ぱあん、と乾いた音が響いた。どうやらまた右頬を叩かれたらしい、ということだけは理解した。あの夜と同じ痛みが、口の中まで広がっていく。
あの時と違うのは、状況を把握できるくらいには律が冷静だったことだ。顔を上げると、興奮で肩を上下させた父と目が合う。殴られたのは律の方なのに、一瞬父は苦しそうに顔を歪ませた。けれど、すぐ怒りに満ちた表情へと変わる。
「これ以上俺を失望させるな! つまらん感情で自分の将来を棒に振る気か! いいか、お前はまだ子供だ! 子どもは、親の言うことには黙って従ってればいいん──がッ!」
その刹那、だった。
瞬きをすれば見逃すほどの短い一瞬、父は文字通り吹き飛んだ。横から飛んできた拳で。
短いうめき声とともに、よろめいた父の身体は自販機に激突してそのまま沈み込む。状況を飲み込めない。それは父も同じようで、何度も目を瞬かせながら、律ではなく、その横へ視線を向けた。
「と、透花?」
「……ごちゃ、」
「え? ちょ、と、透花!?」
繋いだ手とは逆の手を握りしめたまま、荒く呼吸を繰り返す少女がそこにはいた。律の静止を振り切り、透花は父の襟首に掴みかかった。そして、大きく胸を上下させ叫んだ。
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ、うるッせーーーんだよ!!」
「ぁ、」
「いいから黙って曲を聴け!! たかだか音楽だなんて決めつけんのは、その後にしろぉ!!」
静寂が3秒ほど続いた。
頭に血が上っていた透花は、ようやく我に返った。そして自分がとんでもないことをしでかしたことを理解する。慌てて掴みかかった手を放して、後ろに数歩下がる。なぎ倒した父がよろめきながら、自販機を支えに立ち上がろうとしている。顔は見えないが、空気で分かる。怒髪冠を衝く程の怒りをひしひしと感じる。
そして、修羅の顔が表を上げる瞬間、咄嗟に律が声を上げた。
「逃げるぞ!」
「へっ?」
戸惑う透花の腕を強く引っ張り、律は一目散に走り出す。
駆け出した律たちを追いかける足音は、しなかった。
*
どれほど、走ったのだろうか。
当てもなくただがむしゃらに律たちは走り続けた。追いかける足音もないのに。すでに病院の建物すら見えなくなるほど遠くまでやってきた。透花はいよいよ、息が続かなくなって、背中越しに呼びかける。
「はあ、はあ、り、律く……も、もう限界! す、ストップぅ!」
透花のギブアップ宣言で、ようやくスピードが緩み、律の足が止まった。ずっと繋ぎっぱなしだった手と手が離れる。透花は手を膝について、ぜーぜーと呼吸を繰り返した。酸欠だった脳に酸素を送り込んで、冷静さを取り戻した。ついでに先ほどの犯した失態の記憶も蘇ってくる。
「……あのう、律くん」
恐る恐る、透花は律の袖を引っ張った。律は腕を組んで、俯いたまま何やら深刻そうな雰囲気を纏わせている。透花は、上がった体温が急激に下がるのを感じた。勢いよく頭を下げる。
「ご、ごめんなさい!!」
「ふ、」
「わたしが出しゃばったばっかりに! どどどどうしよう!?」
「っく、」
いよいよ肩を震わせ始めた律を見て、透花はさらに顔を青くする。
「今からでも、戻って、」
「ふっく、く、ははっはっはははははははははっははは!!」
「え?」
それは大爆笑だった。腹を抱えて、何なら目に涙まで浮かべて。
「ははっは、なあ見た? あの、間抜けな面! はーやば、涙出てきた」
「……怒ってないの?」
「へ? なんで?」
きょとんとした顔の律が、首を傾げる。
「だって、わたし、律くんのお父さんにいきなり殴りかかったんだよ!?」
「ふはっ、やめて。また思い出して笑っちゃうから!」
目尻に溜まった涙を拭いながら、律は溌剌とした様子で胸を張る。
「あの瞬間、すっげえスカッとした!」
それは、遥か頭上にある青天井を背景にしても遜色ないほどの、晴れやかな笑みだった。
「いいから黙って聴け、かぁ。ふふ、うん。うん、そうだった。俺、ずっとそう言ってやりたかったんだ。いざ父さんを前にすると、声が出なかったけど」
「律くん、」
「ありがとう、俺の代わりに言ってくれて」
「……お礼言われるようなことじゃないよ。殴っちゃったし」
「いいよ、俺だって殴られたし。しかも二回も! なら、一発ぐらい殴っても神様だって見逃してくれるでしょ」
透花は、自然な動作で指先で律の頬に触れる。触れた瞬間、いて、と律は呻き声を挙げながら眉を顰めた。
「また、赤くなってる。帰って冷やさないと。待ってね、今お兄ちゃんに連絡、」
「透花」
スマホを取り出すために離れそうになった透花の手を、律は縋るように手を重ね合わせ、そのまま頬に寄せた。触れたところがやけに熱くて、その熱が伝染していくように透花の顔が徐々に赤く染まる。声も紡げないのか、口をパクパクさせている。
律は、逃がすつもりはない、と意志を伝えるように強く、手を握りしめて言った。
「今から、駆け落ちしよう」
え、と小さく漏らした透花の言葉は、乾いた風によって攫われてしまった。
「よく漫画とかアニメとかでさ、話の途中で敵方に寝返る裏切りキャラって、いるじゃん?ああいうのって、何かしらのそうせざる負えない理由があって、それを心の中に秘めたまま主人公と敵対するのがセオリーで、大体死んじゃった後とか死ぬ間際にそのキャラの心情が分かる、とか。あとは、映画とかで、余命幾ばくかの彼女が最後に振り絞った力で残した手紙を読んで、彼女の思いを胸にそれでも明日も生きていく、みたいなラストとか。……そういう展開を、期待してた」
ガタン、ゴトン、とレールのつなぎ目を通過する音がする。
「音楽は世界を救える───、それが、母さんの口癖だった。だから、俺は、証明したかったんだ。音楽なんかで世界が救えるわけがない、って。それを証明した後で、俺は母さんの墓の前でさ、言ってやりたかった。『ほら見ろ、音楽なんかで救えるわけがないじゃないか。所詮そんなものために、命を懸けた母さんは大馬鹿者だ! 俺たちを捨ててまで選んだ事を地獄で一生後悔すればいい』、って。……本当はさ、音楽とか、世界とか、どうでも良かった。単なる理由付けに過ぎなかった。俺はただ、母さんが間違ってたんだって、自分に言い聞かせるための理由が欲しかったんだ」
教科書を音読するように、淡々とした声音で語り続ける。
「あの頃の記憶は、あんまり無いんだけど……母さんは、たぶん、病気のせいで上手く歌えなくなってた。一刻も早く治療しなきゃいけないって状況で、母さんは頑なにそうしなかった。治療したら、もう声が出なくなっちゃうとか、今まで通り歌えなくなっちゃうとか、けど治療したところで手遅れだとか、まあきっと、そういう理由だろうね。……父さんと母さんが、そのことで何度も喧嘩してたの、何となく覚えてるから」
膝の上に置いた白い梅の花束に触れると、包装紙がくしゃりと音を鳴らす。
「3月5日が母さんにとって、最後のステージになった」
次第に電車が減速していく。終着駅はもう、すぐそこだった。
電車を降りたのは、透花と律のふたりだけだった。
寂れた無人駅から、夕暮れの火に染まった海がよく見えた。次第に、水平線に呑まれていく太陽に向かって水面上に一本の光の道が続いていた。
ふたりは、堤防沿いを、止まりそうなほど遅い足取りで歩く。
「父さんは、許せなかったんだ。俺たち家族と音楽を天秤にかけて、音楽を選んだ母さんのことも。母さんをそうさせた音楽のことも」
初めて律が父の涙を見たのは、母の葬儀の時である。幼い律の両肩に手を置いて、父は言った。
「『いいな、律。もう二度と、音楽はやるな。絶対に』───なんてさ、言いたくなっちゃうよね、そりゃ。だから、俺が父さんに隠れて音楽してること、心んどこかでずーっと罪悪感あった。そのせいで、父さんに殴られても何一つ反抗できなかった。父さんの気持ち、痛いくらい分かるから」
触れた右頬が、ちりっと痛む。
「音楽を始めたての頃は、母さんの気持ちが知りたくて仕方がなかった。もし死者の言葉が聴ける機械でもあったなら、俺は迷わずこう言う。なんで、俺たちを選んでくれなかったの、って」
いつの間にか潰れてしまったのかシャッターの降りたタバコ屋の角を曲がれば、もうすぐ、目的地に到着する。じゃりじゃり、と玉石を踏み鳴らしながら歩く。
「でもさ、もう……答えは、分かった。あの日、あの時、ステージに立った瞬間に」
それは、あまりに単純な答えだった。
「歌いたかったからだ。命懸けてでも」
律は、向き直る。墓石を前にして、あの住み慣れない家のリビングで、いつも通り母の遺影に話しかけるみたいに、律は言う。
「……久しぶり。母さん」
16歳の誕生日に亡き母から手紙が届くとか、偶然出会った母の知人から母の本当の気持ちを知るとか、そういう都合の良い優しい展開を、期待していた。最後の人生で息子に自分の音楽を残してやりたくてとか、心の奥底では音楽を選んだことに罪悪感をもっていたとか、そういう綺麗な理由が欲しかった。家族を捨てるだけの立派な理由があったと、想いたかった。
『───夕爾さんは、『創作』のためなら、死ねますか』
夕爾に問いかけた最後の質問を、律は思い出す。
つまりは、そういうことだ。母は、『創作』のためなら、死ねる人間だった。夕爾の言うところの、あちら側の人間だった。
綺麗な理由なんて、立派な理由なんて、あるわけがない。
単純なことだ、母は家族よりも音楽を優先した、身勝手な人間だった。ただそれだけ。それを知った時、律は失意の底へ落ちた。そして、同時に身勝手な母を惨たらしく責め立てることは、出来ないと悟った。何故なら、それは。
「きっと、俺も同じことをする」
肌を刺すような風が吹いて、供えられた梅の花びらが揺れた。
「俺が母さんの立場だったら、家族とか、未来とか、全部かなぐり捨てて、ステージに立つ。……俺も、『創作』のためなら死ねる人間だった。母さんを責めることなんてできない、大馬鹿者だよ。親子そろってこんな馬鹿ばかりなんだから、父さんに合わせる顔がないよね」
両手を合わせ、顔を上げた律は、振り返った。
「ちょっと寄りたいところがあるんだけど、いい?」
透花は少しだけ悲しそうに、うん、と頷いた。
「ここは?」
「俺の前の家」
昔住んでいた家は、控えめに言って酷い有様だった。
季節の花が彩っていた庭は、煤ぼけた草木が律たちの腰の高さまで生え、外壁には毛細血管のようにツタが張り巡らされている。キーケースにつけられた、メッキの禿げた古めかしい鍵をドアに挿すと、ごり、っと音を立てて開く。
電気も通っていないから、薄暗いうえ、廊下を歩くたび埃が舞って息苦しくなる。
「あ、あったあった」
一番奥の部屋にそれは、まだ残っていた。もぬけの殻となった部屋の中で、異様な存在感を放っていた。埃がかった白いシーツを取り払うと、律と透花は二人そろってせき込む。
シーツの下に隠れていたのは、グランドピアノだった。試しに人差し指で適当な鍵盤を弾いてみると、籠った音が鳴る。
「あはは、ひっでえ音」
「そうなの?」
「うん、調律とか一切してないからね。透花、こっち座って」
トムソン椅子の片側半分に腰を下ろした律は、余ったもう片方を手で叩いた。透花がおっかなびっくりといった感じで座る。
「透花、『きらきら星』弾ける?」
「弾いたことない」
「いいよ、教えてあげる。はいまずここに指置いて。ド、ド、ソ、ソ、」
「ド……ド、ソ、ソ」
「いいじゃん、上手い上手い」
「へへ。続きは?」
ものの数分ほどで、透花は『きらきら星』を弾けるようになった。楽しそうに歌いながら、拙い指先で鍵盤に触れるさまは、どこか幼いころの律の姿を思わせた。最後の一音が部屋に鳴り響いて、すぐに静寂に包まれた。
透花が顔を上げる。律は、透花から目を逸らさずに口を開いた。
「『ITSUKA』は、3月5日で解散するよ」
深い青い瞳が大きく見開かれる。石を投じた水面のように透明な膜がゆらゆらと、揺れる。
「そ、だね……うん、……そう、だよね」
「自分勝手で、ごめん」
「ううん、何となく、分かってたから」
「これ」
律はポケットから取り出したくしゃくしゃの紙を透花に差し出す。透花は、覚束ない指先でそれを受け取る。もとは上等そうな一枚の名刺だったのだろう、透花の知らない名前が明朝体で書かれている。
「母さんが昔音大でお世話になってた恩師だって、叔父さんがくれたんだそれ。今は、海外の大学で先生やってるんだって」
律は、静かに続ける。
「たまたま叔父さんの店に来たんだってさ。俺が作曲してるってことを叔父さんから聞いて、動画見てくれた。それで……その人が、こっちに来て音楽を一から学んでみないかって、誘われてる」
伏せられていた透花の顔が、すっと上がる。泣きたいのを我慢する子供みたいに、唇をぎゅうっと結んで、堪えているのが分かった。
「俺は、行くよ」
透花は何も言わず、ただ律の胸にとん、と額を寄せた。必死に声が震えないようにと喉の奥を締め付けるような声がする。
「答え、見つけたんだ」
「うん」
「そっかぁ。よかった、よかったけど……やっぱり、さみしいな」
「うん、俺も。別れのキスでも、しとく?」
「……ふふ、ばか」
「ええ、だめ?」
「また、わたしと『創作』するって、約束してくれるなら。いいよ」
「……する。神に誓って」
「破ったら、纏くんにチクってやる」
「それは怖いな。死んでも守らないと」
互いに見合わせて、少し笑った。どちらともなく近づいた唇が、静かに重なり合わさる。
初めてしたキスは、少しだけ苦くて、しょっぱかった。
多分、青春が食べられるならこんな味がするんだろうと、律は思った。
背伸びして頼んだブラックコーヒーは、飲めたものではなくて、一口飲んだだけで放置したままだった。2階の窓側の席からは、スクランブル交差点を行きかう人たちがよく見える。しばらく、ぼうっとその様子を眺めていると、ふと、テーブルの上に置いてたスマホが震える。確認すると『クソ律』の文字が表示されていた。纏は画面をタップして、耳に当てる。一言目に言う台詞はもう、決めていた。
「締め切り遅れの謝罪なら受け付けねーぞ」
『ちッげーよ!』
相も変わらず憎たらしい恋敵の声音は、最後にあった日よりも幾らかマシになっていた。
「で、何?」
『あの日の回答、しようと思って』
「ああ」
電話口から、覚悟を決めたような息遣いが聞こえる。
『3月5日で解散したい』
「分かった」
纏は二つ返事で了承した。
『…………エッ? それだけ?』
肩透かしでも食らったのか、律は声を裏返してそう言った。
「それ以外になんか言うことある?」
『いや、そうだけど、そうなんだけど! もっとぉ、こう! あるだろ!?』
「もし解散しないってなったら、それはそれで困るんだよね」
『は? なんでだよ?』
「今さっきメジャーデビューの話、蹴ってきたところだから」
『は……、はぁああああああああああ!?』
「うるさっ」
音が割れるほどの大声に纏は思わず顔を顰めて、耳からスマホを離す。
『おま、俺らに決めろとか言ってたやん!』
「だって別に、メジャーデビューしたところであんまメリットないし。無意味に行動制限されるし、つまんないしがらみばっかり課されたら、『ITSUKA』の良さが無くなるでしょ」
『まあ、確かに』
「それに、お前らにはさ、最後までらしくあってほしいと思ってんの。だから、責任もって僕が最後まで、創りたいもの創らしてやるよ」
『……じゃあ、纏を敏腕プロデューサーとして見込んで頼むんだけどさ。父親に俺の曲を聴かせて、説得したいんだ。何かいい案ある?』
「音楽を嫌悪してる人間に?」
『そう』
はあ、とひとつ大袈裟にため息をついて、纏は考える。そんな簡単に思いつくわけもない。
「案ねー……」
ただ、何気なく視線を巡らせる。そうして、纏の視線はとある一点に集中する。午後三時をお知らせします、と仰々しく頭を下げるアナウンサーの声がした。
*
約1か月ほどお世話になった部屋を、透花はぐるりと見渡す。なんやかんや長い間滞在したから、初めてツルミ荘を訪れたときよりも鞄が二つ増えた。
「荷物まとめたか~?」
ひょいと、開いたドアの隙間から顔を覗かせた白髪が揺れる。
「今終わったところ」
初めはぎこちなかった兄、夕爾との会話にも慣れた。
「じゃあ、ちょっと時間、いいか?」
「え? うん、いいけど。どうしたの?」
「これ、渡そうと思って」
振り返った透花の前に差し出されたのは、数冊の古びたスケッチブックだった。随分と使い古されていて、オレンジと黒の表紙には細かい擦り傷がたくさんついている。透花はそれを両手で受け取って、1ページ捲る。細かいパーツごとのデッサンやメモ、構図に合わせたポーズを何枚にも渡って描き綴られていた。
「お前、昔から手描くの、苦手だろ。MVもちょっと誤魔化してた」
「うっ、分かる?」
「バレバレ」
夕爾の言う通り、透花は背景の次くらいに手を描くのが苦手だ。
「これ、俺が今まで描き溜めてたデッサンとか構図の資料。役に立つと思う、多分」
「……くれるの?」
「バーカ」
「あうっ」
両手が塞がっているのをいいことに、夕爾が軽く透花の頭にチョップを食らわせる。
「貸すだけだ」
「ええ」
けち、と口を尖らせようとした透花を遮るように、夕爾はにっと少年のように笑った。
「俺が必要になったら、ちゃーんと返してもらうぜ。それまでは貸してやる。分かったか?」
透花は、胸の前に持ったそれをぎゅうっと大事に抱きしめる。声が震えてしまいそうになるのをぐっと堪え、透花は何度も頷く。
「……うんっ、うん! ちゃんと、返す」
「よろしくな。……じゃあ、そんだけだから」
「あ、お兄ちゃん!」
透花の肩を優しく叩いて、部屋を出ようとした夕爾を慌てて引き留める。
「わたしの友達から、伝言頼まれてたの」
「……俺宛に?」
思い当たる節もないのか、夕爾は首を傾げる。透花は、底抜けに明るくて笑顔のよく似合う彼女の口調を真似しながら言う。
「メメ先生の漫画を読んで、救われたから、ありがとう! って」
夕爾の瞳の奥が、流れ星が夜空に消える瞬間みたいに、眩い煌めきが弾けた。我に返った夕爾が、すぐさま踵を返す。そして、部屋を後にする直前、呟いた。
「続き楽しみにしといて、って伝えといて」
少しだけ、言葉の端が震えていた。
*
『明日の夜21時、駅前のスクランブル交差点のところで待ってる』
家出してから一切連絡の取れなかった息子から送られてきたメッセージが、それだった。
仕事を早めに切り上げて晴彦は、指定された場所へ向かう。金曜日の夜は、随分と活気に溢れていた。仕事上がりのサラリーマンやOLが、スクランブル交差点を渡って繁華街に流れていく。
「あ、すいません」
肩がぶつかって、咄嗟に謝ってきたのはまだ年端も行かない高校生だった。そこで、ようやく晴彦は気づく。この遅い時間帯にしては随分と若い子が、交差点に集まっている。そしてみな、一応にスマホを掲げて、何かを待ちわびるように上を見上げている。
21時、約束の時間の10秒前。
集まった人間たちが一斉にカウントダウンを始める。
さん! にー! いち! ぜろ!
───その瞬間、晴彦は弾かれた様に顔を上げた。ビルに設置された巨大モニターから流れてきた、カセットテープを再生する音。擦り切れて、絞り出したようなか細い声は、よく耳を澄まさなければ、何度も耳にした晴彦でさえ初めは気が付かなかった。
(奏の、声だ)
割れんばかりの喝采が、鳴り響く。足早に道行く人々すら、足を止めてその音楽に聴き入る。
その曲は、返歌だった。奏へ向けた愛の歌だ。怒りと、憎しみと、失望と、それすら飲み込むほどの愛と罪悪感と覚悟が込められている。いいから黙って曲を聴け、と見知らぬ少女に殴られた右頬が疼く。年甲斐もなく、胸がかっと熱くなって、大きく開いた穴が満たされていく錯覚にすら陥る。
心地の良い余韻を残して、ついに曲が終わる。
その瞬間、真っ暗な画面に映し出された曲名は───『ミッドナイトブルー』。奏が一番好きだった曲と同じタイトルだった。
「父さん」
父さん、だなんて呼ぶ人間はこの世にひとりしかいない。晴彦は、その呼び声のする方へゆっくりと振り返る。
人混みの中で、唯一目があったその人は、律だった。
情けない顔をしているだろう自分とは対照的に、律の瞳に一切の揺るぎはない。奇しくもその瞳と同じ色した人間を晴彦は知っている。いつの間に、こんな目が出来るようになったのだろう、と晴彦はようやく気付く。子供が成長するのは、瞬きするよりも早いのだと。
「どうよ? 感想は」
「……ああ、そうだな」
一つ呼吸を置いて、晴彦はぎこちなく笑った。
「最高だったよ」
それが、降参の合図だった。
ITSUKA@ituka_official
いつもITSUKAを応援していただきありがとうございます。
ITSUKAは3月5日をもって、解散します。
これまでお付き合いいただき、大変ありがとうございまいた。
3月5日に、配信サイトにて解散ライブを実施します。
季節は巡る。再び春はやってくる。
一年前、失意の底にいた一人の少女を掬い上げた曲があった。
それは、お世辞にも出来のいいと言えるようなものではなかった。しかし、少女はその音楽に心惹かれた。『未完成』と銘打たれた、たった3分19秒の音楽をきっかけにして動き出した、長い長い青春は終わりを告げる。
その曲のタイトルは───
「おいにちか! 何もたついてんだ! さっさと準備しろや!」
「だってだって全然前髪決まらないのぉ~~~!」
「前髪なんか散らしときゃいいだろうが!」
「はいアウトー! 地雷発言! 女の前髪イコール命なの! 男には分かんないでしょうけど! 良かったら私のケープ貸すよ! リップもいる? 画面映えするやつ」
「いるーーーー!!」
「ね、もうすぐお兄ちゃん着くって! 律くんの方はどう?」
「さあ、連絡全然返ってこねえから分かんない」
「ああ、それなら大丈夫大丈夫。最近まで死ぬほど反対してたから今更どの面下げて来たらいいのか分かんなくて店の近くで不審者みたいに立ち往生してるのさっき見かけたから」
「じゃあ何かしらこじつけて引き入れてきてくださいよ!」
「ええ~、叔父さんそういうの向いてないのにぃ」
「よ! 来たぜ~!」
「こんにちは~」
「お兄ちゃんと優一先生! 来てくれてありがとうございます」
「おい、律とにちか! リハーサルやるから来い!」
「へいへい」
「はあーい」
本日、3月5日。
『Midnight blue』のウッドドアには『close』のプレートが掛けられている。しかし、店内は大賑わいだった。グランドピアノが3分の1ほどを占める小ステージには、『ITSUKA』の解散ライブ用に透花が描き下ろした何十枚ものイラストが背景として彩られている。
ライブ用のマイクスタンドや、音響機材が所狭しと置かれ、透花の胸は期待感でいっぱいいっぱいになる。
配信サイトの待機所ではすでに数十万人の視聴者が、思い思いにコメントを打ち込んでいる。
「配信時間3分前! みんな準備は大丈夫?」
PCの前に立った纏が、声をかける。各々が頷いているのを確認して、纏はピアノの前に座る律へ視線をやった。
「ほら、律から一言」
「えっ? 俺? あー……えと、」
緊張しているのか少しだけぎこちなく頬を掻いて、律はちらりと透花の方を見た。透花は何も言わず小さくガッツポーズをする。
律はふっと空気のように軽く笑って、こほん、と一つ咳ばらいをした。
「最高のライブにします! 期待しといてください!」
『ITSUKA』の最初で最後のライブが、今、幕開けた。
「───お聞きいただきましたのは、『ミッドナイトブルー』でした!」
ピアノの心地よい余韻を一つ残して、曲が終わる。透花たちが観客席から小さく拍手を送ると、頬を紅潮させたにちかがありがとう、とはにかみながら小さくお辞儀をする。
コメント欄の盛り上がりも最高潮を迎えている。視聴者数はライブ開始時よりも3倍ほど増えていた。
にちかが、すうっと一つ大きく深呼吸をして、隣を見る。キーボードの前に立った律が、アイコンタクトで小さく頷いた。
この夢のような時間も、もう終わりがすぐそこまでやってきていた。
「ほんっとに名残惜しい! ずっと、ずーっと歌っていたいんだけど! けど、次が最後の曲です!」
カチカチっと、纏がタイミングを見計らって右クリックする。画面上に流れるのは、この日のために透花と佐都子が死ぬ気で描き上げた描き下ろしのイラストたちだ。
「今回のために描き下ろした曲です。それでは、聴いてください」
ほんの少しだけ寂しそうに目を細めた、にちかが『ITSUKA』で最後となる曲のタイトルを告げる。
「『いつか』」
透花は、一音一音をこの先ずっと、ずっと、忘れないように、胸に刻み付けるように、静かに瞼を閉じる。瞼の裏側で、パノラマみたいにこの一年の記憶が流れていく。どこを切り取っても色褪せない青が、その一瞬一瞬が、どうしようもなく輝いている。
それは、夢のような日々だった。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』
『あの絵は、俺の曲ですか?』
『返事を待ってる』
「透花のそういうとこ、本当に大っ嫌いだ」
「きみに、俺の曲を描いてほしい」
それは、ひとり映画館でエンドロールを眺めるような、日々だった。
「締め切りに間に合いませんーーーーーー!!!」
「───ド素人が自己満でやる分にはちょうど良くて」
「このまま埋もれさせておくには、惜しい才能だと思ったから。なんか文句ある?」
「ありがとう、わたしを見つけてくれて」
「そうしたら、俺はもう、二度と音楽はしない」
『今、現在進行形でっ! SNSでITSUKAの曲がめちゃくちゃバズってんの!!』
「───誰かを救う歌をあたしは歌いたい! 音楽で世界が救えるって証明したいの!」
「歌うのが好きだから! 好きなこととやりたいこと掛け合わせたらさ、それだけでもう、最強じゃん!」
「任せてよ。最高の歌、聴かせてあげる」
「もう、逃げるの、やめようと思う」
線香花火が次第に火花が消え、火球が落ちる瞬間のような、日々だった。
「わたしの……わたしの、せいだ」
「俺は信じるよ、透花のこと」
「僕は……こんな、最低な方法しか思いつかない」
「お前は俺に───死ねっていうのか?」
「俺の曲は、透花の心を動かすに足らない、雑音だった?」
「俺が、嫌なんだ」
「───だって、俺を一番最初に見つけてくれたのは、透花だったから!」
「透花の創作は、透花だけのものだろうが!!」
「本当は、ずっと、誰かにそう言って欲しかったの」
「私は今まで一度だって、透花を親友だと思ったことなんてない!」
「わたしだって、佐都子に嫉妬するよ」
「だから、わたしともう一度───『創作』しませんか?」
「透花が『アリスの家』に来なくなってから、ずっと待ってた」
地面に落ちた一面桜の花びらが花嵐に攫われて春が消えていくような、日々だった。
「「───はぁあああ!!?? 家出したぁあああ!!??」」
「夕爾んとこなら、家出先としては、最適でしょ」
「だから、代わりにもし……、伝えられたら、でいいから。言ってほしい。先生の漫画で、あたしは救われましたって」
「久しぶり、透花」
「───3月5日で『ITSUKA』は解散するのか、それとも続けていくのか」
「律くんにもきっと、見つかるよ。探してる答え」
「音楽のせいで、奏は死んだ。たかだか、音楽なんぞのために! 奏は俺たちを捨てて、音楽を選んだんだ。それをお前は、許せるのか!?」
「続き楽しみにしといて、って伝えといて」
「今から、駆け落ちしよう」
「俺、行くよ」
(ああ、)
透花の頬を、温かな雫が伝う。
(もう、終わっちゃう)
決して楽しいだけではなかった。辛くなることばかりだった。何度も逃げ出してしまいたくなった。でも、その痛みすらこの瞬間のために在ったのだと、そう思えた。
涙を拭って、透花は前を向く。フィナーレはもう、すぐそこだった。
(───さようなら、わたしの青春)
*
「……終わっちゃったね」
「ああ」
春めかしい風が、頬を撫でる。透花と律は、当てもなく歩く。
微かに淡い春の香りがする。人気のない桜並木は、初めて透花と律が出会った場所だ。もうすぐ来る春を待ち望むように薄く色づいた蕾が、春風で揺れる。
「ライブ、すごく良かったよ」
「ありがとう」
「泣かないって決めてたのに、やっぱり泣いちゃったなぁ」
「それは作家冥利に尽きるな」
くすくす、と律が笑う。透花もひとつ笑みを残して、立ち止まる。遅れて、律も立ち止まる。
「律くんは……いつ行っちゃうの?」
僅か数ミリほど目を見開いて、律は確かな声音で言う。
「休学届が受理されたから、明後日には行くよ」
「……そっか」
「なあに、寂しいの?」
そう冗談めかして言う律に、透花はすぐさま答えた。
「寂しい」
「即答だな」
「さみしい、よ。当たり前じゃん」
ぎゅうっと拳を握りしめて、透花は勢いよく顔を上げる。
「だって、まだ律くんと創りたいもの、いっぱいあるんだもん!」
透花は、ずっと我慢していた感情が溢れ出して止めようがなくなっていた。ストッパーが壊れたみたいに、涙が後から後から止まらない。いくら拭っても服の袖を濡らすだけだ。
「もっと、もっと、一緒にいたいよ」
声が震える。でも、今を逃したら伝えるチャンスを失う。
「ほんとは、まだ、終わりたくない」
だから、透花は必死に言葉を紡ぐ。
「だって、わたし、わたし……!」
律くんが、と言いかけて、透花は止まる。何故なら、透花の続きの言葉を遮るように、強い力が透花の腕を引き寄せたから。透花の背中に回った腕が、痛いくらいの力で搔き抱く。律の腕の中に納まった透花が状況を理解できないまま、目を白黒させた。
すると、息苦しそうな声音が降ってくる。
「……そういうの、ずるい」
切なくて、痛くて、胸が苦しくなる声だ。
「俺が透花の涙に弱いの、知ってるでしょ」
「……いっぱい泣いたら、行かない?」
「こらこら。味占めんな。ほんとに行きたくなくなったら、責任取ってくれんの?」
「取る」
「……ばぁか。そういうのは、然るべきときまで取っといてよ」
「ちぇ、駄目か」
「透花、」
透花の背中に回された腕の拘束が解かれる。徐々に、右腕から指先までを伝うように名残惜しく触れていた体温が、離れていった。
律は、笑う。一本芯の通った真っ直ぐな瞳で、笑う。
「今よりもっと、もっと! いい曲を作って透花に聴かせてやるよ! 約束だ!」
「……うん」
「だから、それまで待ってて。絶対、迎えに行くから!」
「うん。わたしも、頑張る。律くんに負けないように!」
律が片手を上げる。透花も同じように、手を上げた。ふたりは同時に口を開く。ハーモニーのように声が交じり合う。
「「『いつか』、また会おう!」」
───5年後。
スプリングコートを羽織っていても、春先はやはり少し肌寒かった。何時間、何十時間と同じ態勢で居たせいか、首をぐるりと回しただけで景気よく骨が鳴る。コンビニで買った袋をガサゴソと探り、肉まんとあんまんの中で肉まんを取り出す。あんまんの方は、修羅場で限界化している同居人の分だ。
ほかほかの肉まんを頬張りながら、ふう、と息を付く。おそらくこのままベットに飛び込んだら、軽く10時間は爆睡出来そうな疲労感だ。
くああ、と欠伸を漏らしていると、ぷるる、とポケットが震えた。げんなりしながら、スマホを取り出して表示を見ると、『纏』の文字が表示されている。奴からの電話は大抵、面倒事でしかないから、いやいやスマホをタップする。
「……あーい」
『今どこ!』
徹夜明けの頭に響く音量に、思わずスマホを離す。
「帰宅中だけど?」
『ああ、ならちょうどいい! 連絡つかないから、叩き起こしてくれ!』
「こちとらアシのバイトで疲れてんのに、キンキン喋んのやめて。頭響くっちゅうに」
『そりゃお疲れ様』
「気持ちの籠ってない労りどうも!」
階段の踊り場に苛立ちの込められた声が反響する。ちょうど階段を下がってきていた住人がぎょっとした様子で身を竦ませたのをみて、慌てて階段を駆け上がる。
階段を上がって突き当り、奥の部屋が住処だ。
キーケースを取り出して鍵を開ける。ドアを開けると、部屋には明かりもなく、しーんと静まり返っている。
リビングに顔を出すと、案の定、殺人現場の死体が転がっている。
「ぶっ倒れてる、やっぱ」
『だと思った。さっさと起こしてくれる? 今日13時から仕事入ってんの!』
「へいへい」
一方的に通話が切られる。
佐都子は一つため息をついて、うつ伏せに転がる死体の背中を遠慮なく叩いた。起きない。しょうがないと、佐都子はその死体の耳元に唇を寄せた。
「おッきろーーーーーーーー!!」
「はひ!?」
びくっと、死体が飛び上がる。死体ではなく、過労でぶっ倒れていただけだ。
寝ぼけた様子の彼女が、上がらない瞼できょろきょろとあたりを確認する。佐都子と目が合う。
「佐都子ぉ、おかえりぃ」
完全に寝ぼけている。ふにゃふにゃで笑う親友の笑みを見て、佐都子はしょうがないなぁと思いながら笑う。
「ただいま、透花」
「しめきり、大丈夫だったぁ?」
「何とかね。そっちは?」
「なんとか終わらせたよー……ぐう」
「ちょちょちょーい、寝るなー。今日13時から仕事あるんでしょ?」
「はっ、忘れてた」
その反応は見るに、本当に忘れていたのだろう。
「相変わらずペース配分狂いすぎ。妥協を覚えなさい、妥協を」
「あい」
「ほら、顔洗ってきな? そのボサボサ頭どうにかしてあげるから。あ、ごはん食べてないでしょ? あんまん買ってきたよ」
「あんまん!」
きらりと目を輝かせて、透花はぱっと立ち上がる。背中からも伝わるほど、ご機嫌なのが分かった。
佐都子が呼んでくれたタクシーに乗り込んだ透花は、スマホの電源を入れる。
ちょっと引くくらいに通知が入ってきている。もちろん、電話の相手は『纏』だ。うへえ、これはお説教コースだ、とげんなりする。くわばらくわばら、と心の中で念じながらスマホの電源を消そうとした瞬間、メッセージが入る。
相手は、にちかだった。
『さっきイラスト見た。激エモ最高! 出来たらまた、見本品送るね!』
晴れ晴れとしたにちからしいメッセージだった。
ふっと、軽く笑って透花は窓の外を見る。ふと、車のラジオから聞き覚えのある曲が聞こえてきた。
『えー、ただいまお聴きいただきました曲は、今期一番の話題となっておりますアニメの主題歌でした。今回この曲を担当されたシンガーソングライターの『mel』さんは、この漫画の大ファンだそうですよ! つい先日情報が公開された劇場版でも、『mel』さんがEDを担当されるとのことです! いやぁ~楽しみですね~! かくいう僕のこの漫画の大ファンでして、連載が再開すると聞いたときは───』
「お客さん、着きましたよ」
運転手がにこやかにこちらを振り返る。はっと我に返った透花は、料金を支払ってタクシーを降りる。小走りで人混みを縫いながら駆けていく。指定されたビル前で、透花を待つ人影を発見する。
「ご、ごめん! お待たせ!」
「遅い」
腕組をした纏が冷徹な瞳で睨む。
「だから、言ったじゃん。今回は断った方がいいって」
「あーあー聞こえなーい」
「子供か」
「で、でも、間に合ったからセーフでしょう?」
「納期ギリギリは間に合ったって言わねえよ」
「……ごめんなさい」
はあ、とため息を一つ付いて纏は透花の背を押す。
「ほら、行くよ。仕事詰まってんだから」
「はあい」
にこやかに微笑むインタビュアーの妙齢の女性が、メモを片手に頷いた。透花は緊張で視線を右往左往させながら、質問に答えていく。
「それでは、今回発売される画集のタイトルについてお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「は、はい」
「ずばり、タイトルの由来はなんでしょう?」
「由来……」
透花は目の前に置かれたコーヒーに視線を落とす。少しだけ思い出し笑いをして、透花は答える。
「わたしにもう一度『創作』をするきっかけを与えてくれた曲が、タイトルの由来です」
「曲ですか?」
「はい。わたしが、まだ中学生の頃に聴いた曲です。その時は、再生回数も10回くらいしかない曲だったんですけど……、それを聴いてわたしは、もう一度『創作』をしてみよう、って思えたんです」
「どんなところに惹かれたんでしょう?」
「それは……、」
言葉を区切り、透花は顔を伏せる。そして、うん、と小さく頷いて答えた。
「誰かに見つけてほしい、って言ってるような気がしたんです」
わたしと同じように、と、透花は照れ臭く頬を赤くしながら付け加えた。
*
取材を一通り終えた透花は、天井を見上げながら脱力する。柔らかいソファに体が沈み込む。気を張っていたから忘れていたが、連日の作業の疲れがどっと流れて、瞼が重くなる。ついに、瞼が落ちようとしていた時、上から声が降ってきた。
「透花、」
「……んあ」
「ここで寝るな。ほら、コーヒー飲みな」
額に乗せられた缶コーヒーを透花は受け取る。
指先に全く力が入らなくてプルタブに苦戦する透花の前に、すっと何かが差し出される。目を瞬かせて、透花は隣に座った纏を見る。
「何これ?」
「匿名希望さんからのファンレター」
「と、とくめ? ……あ、ありがと?」
いつもなら纏めて渡してくれるのに、と疑問に思いながら透花はそれを受け取る。確かにファンレター先の住所が書かれているが、差出人の名前はない。閉じられた封を開けて、透花は中身を確認する。入っていたのは手紙ではなかった。
ちょこんと、掌に乗ったそれを見て───透花は息を呑む。
反射的に勢いよく立ち上がった。透花の突然の挙動に特に驚きもしない纏を振り返る。
「わたし帰るッ!」
「りょーかい」
慌ただしく去っていく透花の背中へ手を振りながら、纏は息を付く。
「……貸しイチだな」
*
立ち上げたPCにUSBを差し込んだ。
USBに保存されていたのはmp3ファイルと、テキストデータのふたつ。それは、まるで、5年前の再演みたいだった。
透花は、mp3のファイルをクリックする。
数秒のタイムラグの後、曲が流れ始めた。その曲を、透花は知っている。6年前の3月5日、電車の中で聴いた『未完成』だった曲を、アレンジさせたものだ。5年間の全てを注ぎ込んだ、渾身の一曲。それはまさしく、『完成』した曲だった。まるで、少年から青年へと成長するように、不完全な青さすら許容して曲の中に上手く溶け込んでいる。
すべてを聴き終えた透花は、静かに息を吐く。いつの間にか、マウスを握る手に力が入っていた。
「……約束、守ってくれたんだ」
今でも色褪せることのない、彼のとの別れ際の約束を透花は思い出す。
『今よりもっと、もっと! いい曲を作って透花に聴かせてやるよ! 約束だ!』───約束通り、『未完成』だった曲を『完成』させられるほど、彼は成長したのだ。
透花は続けて、テキストデータを開く。そしてそのメッセージを読んで、思わず笑ってしまう。
ただ一言、『返事を待ってる』と、書かれていた。
すぐさま透花はスマホを取り出して、返事を打ち込むことにした。
*
人混みで溢れたターミナル駅の改札をくぐって、目的地である公園へ歩き出す。少し、緊張していた。足元には連日の雨で落ちた桜の花の絨毯で一面埋め尽くされている。通行人は、みな一様に桜の木を見上げて、惚けたように歩いている。
視界の端に懐かしい面影を見つけた。
あの頃より、ずっと伸びた黒髪が風に靡いている。不安そうに背中を丸めて顔を伏せていた少女は、今はもうどこにもいない。ふわり、ふわりと桜が落ちていく様を眺める横顔は、どこか儚げでずっと、見ていたくなる。
律は、一つ深呼吸をして、その背に話しかける。
「透花」
細い肩がぴくりと触れて、緩慢な動作で律を振り返る。そこにあったのは、青だ。いろんなものが変化し、色褪せていく中で、その青さだけは変わらなかった。空の青さを幾重にも重ねたような深く、透き通った青い瞳がこちらを見ている。
「……律くん」
「久しぶり。元気だった?」
「うん。……でも、昨日は緊張して寝られなかったかな」
「それは俺も一緒だ」
くすくす、とふたり顔を見合わせて笑い合う。久しぶりの会話が、心地いい。
「どうだった?」
主語のない律の問いかけが、何を指しているのかなんて、透花にはすぐわかった。ならば、透花の回答は初めから決まっていた。
「あんなの聴かされて、描きたくならないやつなんか、いないよ」
目を瞬かせた律が、照れ臭そうに笑った。
「でた。殺し文句」
「然るべきときまで取っといて、って言ったの、律くんだよ?」
「あは、確かに言ったね」
「これは、わたしからの告白」
透花は手に持ったスケッチブックを律へ差し出す。そのスケッチブックを受け取る瞬間、タイミングを見計らったように、花嵐が吹き荒れる。風に攫われてスケッチブックから幾枚もの紙が舞い上がる。
はらり、と律の足元に落ちた一枚の紙を拾い上げた。
初めて透花の絵を見たときと同じ、期待感が心臓を大きく跳ねさせる。あの頃の何十倍も、彼女の絵に心惹かれていた。どこまでも透き通った、透花らしい優しい青が描かれている。
「……やっぱり、きみがいいよ」
本能が叫んでいた。彼女しかいない、と。
彼女と初めて出会ったあの日、あの時間を再び繰り返すように、律はその一枚を透花に差し出した。
「きみに、もう一度、俺の曲を描いてほしい」
透花は笑う。春の陽光によって煌めく青い瞳から、ひとつ、ふたつ、と涙を零しながら。
そして、受け取ったその紙をぎゅうっと抱きしめて言った。
「喜んで!」
*
もし音楽で世界が救えるのか、と問われたら、救えない、と答えるだろう。
この世界に無数に存在する『創作』のどれもが、世界を救うなんてたいそれたことができない。たかだか、一つ『創作』が消えたところで、世界は何も困らない。いつも通りの日常を送るのだろう。
それが、『創作』だ。『創作』ほど報われない恋は、この世界のどこにも存在しない。
それでも、僕らは『創作』をする。
『いつか』、きみの心を動かすきっかけになると、信じているから。
通知音が鳴る。
───itsuka_officialが動画を一件投稿しました。