───5年後。

スプリングコートを羽織っていても、春先はやはり少し肌寒かった。何時間、何十時間と同じ態勢で居たせいか、首をぐるりと回しただけで景気よく骨が鳴る。コンビニで買った袋をガサゴソと探り、肉まんとあんまんの中で肉まんを取り出す。あんまんの方は、修羅場で限界化している同居人の分だ。
ほかほかの肉まんを頬張りながら、ふう、と息を付く。おそらくこのままベットに飛び込んだら、軽く10時間は爆睡出来そうな疲労感だ。
くああ、と欠伸を漏らしていると、ぷるる、とポケットが震えた。げんなりしながら、スマホを取り出して表示を見ると、『纏』の文字が表示されている。奴からの電話は大抵、面倒事でしかないから、いやいやスマホをタップする。
「……あーい」
『今どこ!』
徹夜明けの頭に響く音量に、思わずスマホを離す。
「帰宅中だけど?」
『ああ、ならちょうどいい! 連絡つかないから、叩き起こしてくれ!』
「こちとらアシのバイトで疲れてんのに、キンキン喋んのやめて。頭響くっちゅうに」
『そりゃお疲れ様』
「気持ちの籠ってない労りどうも!」
階段の踊り場に苛立ちの込められた声が反響する。ちょうど階段を下がってきていた住人がぎょっとした様子で身を竦ませたのをみて、慌てて階段を駆け上がる。
階段を上がって突き当り、奥の部屋が住処だ。
キーケースを取り出して鍵を開ける。ドアを開けると、部屋には明かりもなく、しーんと静まり返っている。
リビングに顔を出すと、案の定、殺人現場の死体が転がっている。
「ぶっ倒れてる、やっぱ」
『だと思った。さっさと起こしてくれる? 今日13時から仕事入ってんの!』
「へいへい」
一方的に通話が切られる。
佐都子は一つため息をついて、うつ伏せに転がる死体の背中を遠慮なく叩いた。起きない。しょうがないと、佐都子はその死体の耳元に唇を寄せた。
「おッきろーーーーーーーー!!」
「はひ!?」
びくっと、死体が飛び上がる。死体ではなく、過労でぶっ倒れていただけだ。
寝ぼけた様子の彼女が、上がらない瞼できょろきょろとあたりを確認する。佐都子と目が合う。
「佐都子ぉ、おかえりぃ」
完全に寝ぼけている。ふにゃふにゃで笑う親友の笑みを見て、佐都子はしょうがないなぁと思いながら笑う。
「ただいま、透花」
「しめきり、大丈夫だったぁ?」
「何とかね。そっちは?」
「なんとか終わらせたよー……ぐう」
「ちょちょちょーい、寝るなー。今日13時から仕事あるんでしょ?」
「はっ、忘れてた」
その反応は見るに、本当に忘れていたのだろう。
「相変わらずペース配分狂いすぎ。妥協を覚えなさい、妥協を」
「あい」
「ほら、顔洗ってきな? そのボサボサ頭どうにかしてあげるから。あ、ごはん食べてないでしょ? あんまん買ってきたよ」
「あんまん!」
きらりと目を輝かせて、透花はぱっと立ち上がる。背中からも伝わるほど、ご機嫌なのが分かった。

佐都子が呼んでくれたタクシーに乗り込んだ透花は、スマホの電源を入れる。
ちょっと引くくらいに通知が入ってきている。もちろん、電話の相手は『纏』だ。うへえ、これはお説教コースだ、とげんなりする。くわばらくわばら、と心の中で念じながらスマホの電源を消そうとした瞬間、メッセージが入る。
相手は、にちかだった。
『さっきイラスト見た。激エモ最高! 出来たらまた、見本品送るね!』
晴れ晴れとしたにちからしいメッセージだった。
ふっと、軽く笑って透花は窓の外を見る。ふと、車のラジオから聞き覚えのある曲が聞こえてきた。
『えー、ただいまお聴きいただきました曲は、今期一番の話題となっておりますアニメの主題歌でした。今回この曲を担当されたシンガーソングライターの『mel』さんは、この漫画の大ファンだそうですよ! つい先日情報が公開された劇場版でも、『mel』さんがEDを担当されるとのことです! いやぁ~楽しみですね~! かくいう僕のこの漫画の大ファンでして、連載が再開すると聞いたときは───』

「お客さん、着きましたよ」
運転手がにこやかにこちらを振り返る。はっと我に返った透花は、料金を支払ってタクシーを降りる。小走りで人混みを縫いながら駆けていく。指定されたビル前で、透花を待つ人影を発見する。
「ご、ごめん! お待たせ!」
「遅い」
腕組をした纏が冷徹な瞳で睨む。
「だから、言ったじゃん。今回は断った方がいいって」
「あーあー聞こえなーい」
「子供か」
「で、でも、間に合ったからセーフでしょう?」
「納期ギリギリは間に合ったって言わねえよ」
「……ごめんなさい」
はあ、とため息を一つ付いて纏は透花の背を押す。
「ほら、行くよ。仕事詰まってんだから」
「はあい」

にこやかに微笑むインタビュアーの妙齢の女性が、メモを片手に頷いた。透花は緊張で視線を右往左往させながら、質問に答えていく。
「それでは、今回発売される画集のタイトルについてお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「は、はい」
「ずばり、タイトルの由来はなんでしょう?」
「由来……」
透花は目の前に置かれたコーヒーに視線を落とす。少しだけ思い出し笑いをして、透花は答える。
「わたしにもう一度『創作』をするきっかけを与えてくれた曲が、タイトルの由来です」
「曲ですか?」
「はい。わたしが、まだ中学生の頃に聴いた曲です。その時は、再生回数も10回くらいしかない曲だったんですけど……、それを聴いてわたしは、もう一度『創作』をしてみよう、って思えたんです」
「どんなところに惹かれたんでしょう?」
「それは……、」
言葉を区切り、透花は顔を伏せる。そして、うん、と小さく頷いて答えた。
「誰かに見つけてほしい、って言ってるような気がしたんです」
わたしと同じように、と、透花は照れ臭く頬を赤くしながら付け加えた。



取材を一通り終えた透花は、天井を見上げながら脱力する。柔らかいソファに体が沈み込む。気を張っていたから忘れていたが、連日の作業の疲れがどっと流れて、瞼が重くなる。ついに、瞼が落ちようとしていた時、上から声が降ってきた。
「透花、」
「……んあ」
「ここで寝るな。ほら、コーヒー飲みな」
額に乗せられた缶コーヒーを透花は受け取る。
指先に全く力が入らなくてプルタブに苦戦する透花の前に、すっと何かが差し出される。目を瞬かせて、透花は隣に座った纏を見る。
「何これ?」
「匿名希望さんからのファンレター」

「と、とくめ? ……あ、ありがと?」
いつもなら纏めて渡してくれるのに、と疑問に思いながら透花はそれを受け取る。確かにファンレター先の住所が書かれているが、差出人の名前はない。閉じられた封を開けて、透花は中身を確認する。入っていたのは手紙ではなかった。
ちょこんと、掌に乗ったそれを見て───透花は息を呑む。
反射的に勢いよく立ち上がった。透花の突然の挙動に特に驚きもしない纏を振り返る。
「わたし帰るッ!」
「りょーかい」
慌ただしく去っていく透花の背中へ手を振りながら、纏は息を付く。
「……貸しイチだな」



立ち上げたPCにUSBを差し込んだ。
USBに保存されていたのはmp3ファイルと、テキストデータのふたつ。それは、まるで、5年前の再演みたいだった。
透花は、mp3のファイルをクリックする。
数秒のタイムラグの後、曲が流れ始めた。その曲を、透花は知っている。6年前の3月5日、電車の中で聴いた『未完成』だった曲を、アレンジさせたものだ。5年間の全てを注ぎ込んだ、渾身の一曲。それはまさしく、『完成』した曲だった。まるで、少年から青年へと成長するように、不完全な青さすら許容して曲の中に上手く溶け込んでいる。
すべてを聴き終えた透花は、静かに息を吐く。いつの間にか、マウスを握る手に力が入っていた。
「……約束、守ってくれたんだ」
今でも色褪せることのない、彼のとの別れ際の約束を透花は思い出す。
『今よりもっと、もっと! いい曲を作って透花に聴かせてやるよ! 約束だ!』───約束通り、『未完成』だった曲を『完成』させられるほど、彼は成長したのだ。
透花は続けて、テキストデータを開く。そしてそのメッセージを読んで、思わず笑ってしまう。
ただ一言、『返事を待ってる』と、書かれていた。
すぐさま透花はスマホを取り出して、返事を打ち込むことにした。


人混みで溢れたターミナル駅の改札をくぐって、目的地である公園へ歩き出す。少し、緊張していた。足元には連日の雨で落ちた桜の花の絨毯で一面埋め尽くされている。通行人は、みな一様に桜の木を見上げて、惚けたように歩いている。

視界の端に懐かしい面影を見つけた。
あの頃より、ずっと伸びた黒髪が風に靡いている。不安そうに背中を丸めて顔を伏せていた少女は、今はもうどこにもいない。ふわり、ふわりと桜が落ちていく様を眺める横顔は、どこか儚げでずっと、見ていたくなる。
律は、一つ深呼吸をして、その背に話しかける。
「透花」
細い肩がぴくりと触れて、緩慢な動作で律を振り返る。そこにあったのは、青だ。いろんなものが変化し、色褪せていく中で、その青さだけは変わらなかった。空の青さを幾重にも重ねたような深く、透き通った青い瞳がこちらを見ている。
「……律くん」
「久しぶり。元気だった?」
「うん。……でも、昨日は緊張して寝られなかったかな」
「それは俺も一緒だ」
くすくす、とふたり顔を見合わせて笑い合う。久しぶりの会話が、心地いい。
「どうだった?」
主語のない律の問いかけが、何を指しているのかなんて、透花にはすぐわかった。ならば、透花の回答は初めから決まっていた。
「あんなの聴かされて、描きたくならないやつなんか、いないよ」
目を瞬かせた律が、照れ臭そうに笑った。
「でた。殺し文句」
「然るべきときまで取っといて、って言ったの、律くんだよ?」
「あは、確かに言ったね」
「これは、わたしからの告白」
透花は手に持ったスケッチブックを律へ差し出す。そのスケッチブックを受け取る瞬間、タイミングを見計らったように、花嵐が吹き荒れる。風に攫われてスケッチブックから幾枚もの紙が舞い上がる。

はらり、と律の足元に落ちた一枚の紙を拾い上げた。
初めて透花の絵を見たときと同じ、期待感が心臓を大きく跳ねさせる。あの頃の何十倍も、彼女の絵に心惹かれていた。どこまでも透き通った、透花らしい優しい青が描かれている。
「……やっぱり、きみがいいよ」
本能が叫んでいた。彼女しかいない、と。
彼女と初めて出会ったあの日、あの時間を再び繰り返すように、律はその一枚を透花に差し出した。
「きみに、もう一度、俺の曲を描いてほしい」
透花は笑う。春の陽光によって煌めく青い瞳から、ひとつ、ふたつ、と涙を零しながら。
そして、受け取ったその紙をぎゅうっと抱きしめて言った。
「喜んで!」



もし音楽で世界が救えるのか、と問われたら、救えない、と答えるだろう。
この世界に無数に存在する『創作』のどれもが、世界を救うなんてたいそれたことができない。たかだか、一つ『創作』が消えたところで、世界は何も困らない。いつも通りの日常を送るのだろう。
それが、『創作』だ。『創作』ほど報われない恋は、この世界のどこにも存在しない。
それでも、僕らは『創作』をする。
『いつか』、きみの心を動かすきっかけになると、信じているから。




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