頬を突き刺すような寒気に身をすくめる。
息を吐くたび、薄い藍色を零したような夕方の空に白い靄が溶け込んでいく。コンビニで買った安物のビニール傘に雪の混じった雨がしきりに降り注いでいた。
ぱきり、ぱきり、と薄氷を割りながら律は行き慣れた道を慎重に歩く。蛇行した自転車のタイヤ痕が律の行く道に続いていた。
連日の止まない氷雨がより一層寒さを引き連れているのだろう。傘の露先から垂れた冷たい雫が律の頬に滑り落ちる。まるで、誰かがずっと静かに泣いているようだった。
目的地は数分程度で辿り付いた。
律は、門扉の前に立ち、いつも通り2階のとある一室を見上げた。カーテンで閉め切られたその部屋から明かりが漏れることは無く、律は小さく息を吐いた後、インターフォンを鳴らす。数十秒後、彼女によく似た顔立ちの妙齢の女性がドアを開けた。律は傘を差したまま、小さく会釈する。
「こんばんは」
「あら、律くん。今日も来てくれたの?」
「はい。……あの、」
後に続く言葉を律は紡ぐことが出なかった。ドアを開けた瞬間の、表情を見ればすぐに察することが出来たからだ。
「ありがとう、律くん」
「……俺は、何も」
「そんなことないわ。あの子、律くんが来たよって言うと少し反応があるのよ。……すっかり、身体冷えてない? よかったら上がっていって。ココアでも淹れるわ」
招き入れるようにドアを開く彼女に、律は頭を横に振った。
「いえ。今日はこれを渡しに来ただけなので」
「あの子に?」
「はい」
右手に握りしめたそれを、差し出す。彼女はそれを門扉越しに受け取った。
「これを渡せばいいのかしら?」
「はい」
緩く頷くと、続けざまに律は言う。
「……あとは、透花の好きにしていいよって、伝えてください」
他の誰がなんと言おうと、透花が選んだ選択を尊重する。だから、透花に選んで欲しい、その問いかけが手渡したUSBの中にすべて込められていた。
例え、彼女がこの曲を聴くこともなくゴミ箱に投げ入れたとしても。
二度と、『創作』をすることがなくなったとしても。


闇の正義ちゃん@seigi_125
え、待って待って。
これってさ、トレパク?
完全一致なんだけど。

きっかけは、単なる個人の『つぶやき』だった。
フォロワーも30人もいない、知名度も無いに等しいただの雑多アカウントでそれはツイートされた。その内容は、とあるアカウントで描かれたイラストと、『ITSUKA』の『劣等犯』MVで出てくるワンシーンのイラストを重ね合わせてトレースした画像だった。
それは、瞬きをするよりも速く、そして爆発的にインターネットの海に波を起こした。
たかが一つ石を投じただけの、小さな揺らぎは、匿名という大義名分を持った様々な人間の目に晒され、拡散され、瞬く間に苛烈な火となって燃え盛った。
そうそれはまさしく、『炎上』と呼ぶに相応しい有様だった。

鏡乃@ zjtmvxu
盗作とか最低。

シルタネン@0KsZK___
やば。丸パクリじゃん。
こんだけ一致しててよく気づかれないと思ったな

しらそ戯曲@Lz1X1NFp
無許可で人のもん取ったらそれは窃盗罪なんですけど?笑

@こいん@y72sHX
『劣等犯』じゃなくて『窃盗犯』じゃんw

茶織@M5J0yL
【悲報】ITSUKAさん丸パクリで炎上。言い逃れできないレベルで草

カレンちゃん@Q2CFW000D
掘れば掘るほど出てくる出てくる笑 
もしかして他のMVでもやってたりして。特定班よろ!

shinori@j5a4ZO79M
まじでmelの評判まで悪くするから本当にやめてほしい。
melもこんなパクリ集団と絶対コラボしないで…

不安定ロメオ@Ob0kE8w3n
トレパクして平然とネットに投稿できる神経がやばい

夢落ち@k3i5eqHhi
友達の絵師もトレパクされて、結局界隈から出てっちゃったから本当に許せない
一生懸命描いたもの他人に盗られる人間の気持ち考えて
#トレパク #拡散希望

愛一薯@nAoQWM1
死んだ方がいいよ。聴かなきゃよかった

シトシト狂@w5yhwH5
これもう垢消して失踪しかないね。
正直あんまりMVも好きじゃなかったし、消えてさっぱり笑

花桜里@55947j9
公式のITSUKAからもツイートがないのに決めつけるやつ何なの?
向こうがパクったかもしんないのに

熔@c09x4989l0_
擁護してるキモい信者大杉

ガルビアーティ@sd832si334
別にITSUKAのファンじゃないけど、
当事者たち以外がとやかく言うのはお門違いでしょ。
匿名だから何言ってもいいわけじゃない。
行き過ぎた誹謗中傷で攻撃すんのはただの正義マン

悪寒が走る地獄図@OZ9j1vmM76
信者乙wwww冤罪なわけないからwwww

ロセル@1125_momoiro
MVのせいで曲が台無し。絵師だけすり替えよ? 
これぐらいのレベルならいくらでもいるんだからさ

見るに堪えない身勝手な言葉が、無責任な言葉が、卑劣な言葉が、親指でスクロールするだけで次々と流れていく。
透花はその画面をまるで他人事のように眺める。肌を刺すような重い空気が、『アリスの家』の一室に流れていた。
纏に呼び出された『ITSUKA』のメンバーたちは、ただただ永遠にも感じる沈黙の中で険しい顔つきで立ち尽くしている。
纏は膝をついて、黒髪で隠れる透花の死人のように冷白い頬に触れた。
「……透花、」
透花がスマホから視線を上げる。
その視線が合わさった途端、纏はぐしゃりと顔を歪めて、その瞳から逃げるように顔を下に逸らした。用意していた言葉が何一つ喉から出てこなかった。代わりに出てきた言葉は余りにか細かった。
「答えて、透花。……透花は、……そんなこと、してないって、言って」
頼むから。お願いだから、否定して。
それはまるで、天から降ろされたたった一本の細い蜘蛛の糸に縋るような、祈りにすら聞こえるような声だった。

SNS上では、透花の描いた絵がトレパクだ、と検証した画像が次々に投稿されていた。
トレパクとは、「トレース」と呼ばれる模写で自分のものと偽って公開することであり、つまりは『トレース』と『パクリ』を組み合わせたネットの造語だ。
発端となったそのツイートを上げた張本人は、透花が盗作をした確たる証拠を追加で何度もツイートしていた。
何より、投稿日が決定打になった。
件のイラストがSNSに投稿されたのは、MVが初公開された『mel』のライブよりも、1か月ほど前。要するに、どちらが先に公開したかだけに焦点を絞れば、透花がそのイラストを盗作するには十分な猶予があったいうことだ。
そして、その答え合わせができるのは、他でもない透花だけだった。
「……わ、たしは」
透花は、手にしたスマホを握りしめた。
「……誰かの作品を、盗んだことは……ない」
彼女の言葉に皆一様に胸を撫でおろした。しかし、透花は唇を強く噛み締め、その空気を断ち切るように続けた。
「でも、わたしは……それを証明するだけの証拠を……なにも、持ってない。だから、わたし、は……みんなに、信じてほしいって、それだけしか言えない。こんな都合のいいことしか、言えない」
言葉なんていくらでも偽ることが出来る。求められているのは、明確な証拠だ。
確かに透花が自分自身で生み出した『創作』であるという証拠を、透花は何一つ持ち合わせていなかった。
「ごめん、なさい」
譫言のように、呟いた。
「ごめ、ごめん、なさい。ごめんなさ、わたし、は……」
直視するにはあまりに痛い現実から目を背けたくて、透花は両手で自分の顔を覆う。
これ以上、何も見たくなかった。何も聞きたくなかった。だというのに醜く歪んだ視界の中、それでもなお、覆い隠せなかった指の隙間から透花に突き付けてくるのだ。お前の逃げ場所なんてどこにもない、目を逸らすな、と頭を押さえつけ、せせら笑いながら、呪いの言葉を吐きかけるのだ。
「わたしの……わたしの、せいだ」
最悪な結末を引き寄せたのは、まぎれもなく。
「……ごめんなさい、わたしの、全部、わたしのせいだ」
初めて思い知る。生み出した創作が、今この瞬間にも残虐に無慈悲に壊されるのが、それをただ見ていることしかできない悔しさが、怒りが、辛さが、これほどまでに途方もないことを。
「わたしが、みんなの創ったものめちゃくちゃにして、あんなに頑張ったのに、みんなでっ、たいせつに、つくったのに……! わたしが、あんな絵を描かなかったらっ、ごめん、ごめんなさい、わたしのせいで、ごめんなさい」
壊れたラジオのように透花は何度も繰り返す。
もはや誰に許してもらうための言葉なのかすら、分からなかった。もしくは誰でもよかったのかもしれない。誰かに許してほしかったのだ、この罪悪感から、苦痛から、現実から、救い出してくれるなら、誰でもよかった。
(もし誰にも許されなかったら、そうしたら、わたしは、)
あまりに脆く柔い内側が、ゆっくりと崩れ落ちて奈落の底に沈むような感覚に、透花の目の前が真っ暗になった。
(わたしは、もう、二度と、)

「透花」
透花の頭は、大きな手のひらによって引き寄せられた。とん、と温かな体温が頬に触れる。左の耳から、心臓の鼓動が直接伝わってくる。
一瞬何が起こったかが理解できずに固まる。しかし、透花の頭から降り注ぐ声色が現実に引き戻す。
「大丈夫、大丈夫だから。落ち着け、透花」
それは、律の声だった。
「俺は信じるよ、透花のこと」
だた、それだけの言葉が、透花の目頭を熱くさせた。
「っ、わたし……本当は、嘘ついてるかも、しれないんだよ?」
「うん」
「平気で、誰かの創作を盗むような、人間かもしれないんだよ……?」
「うん」
「それでも……、わたしを、信じてくれる……?」
「信じる」
「な、んで」
「透花が他の誰よりも、真剣に創作に向き合おうとしてること、俺は知ってるから。そんな奴が出来るわけないだろうが」
どうして、と透花は震える唇を噛み締めた。油断すればすぐに声が漏れてしまうと思ったからだ。
「ネットの人間が何言おうが知ったこっちゃねえよ。俺は、俺の目で見たものだけを信じる。だから、俺は透花の言葉を信じる」
その言葉に、透花がどれほど救われたのか、きっと律には理解できないだろう。気が付いたら透花は、律の胸に縋って赤ん坊のように泣き出した。より一層、透花の背中に回った腕に力が入る。
項垂れた透花の手の甲に、誰かの手がそっと重なった。
「あたしも、透花ちゃんの言葉を信じる」
にちかがお日様みたいに微笑む。その目じりにたくさんの涙をためて、それでもなお笑って見せた。
「コイツと同じ意見なのはなんか腹立つけどさ……、でも、その通りだよ。あたしも知ってる。透花ちゃんがどんだけ真剣に向き合って、あのMVを描いてくれたのか。じゃなきゃ、あんな心を打たれる絵なんて描けないもん。それを知らない外野が、憶測だけで好き勝手言うのが、あたしは許せない」
にちかは、少しだけ考えるようなそぶりをしてぱっと思いついた案を口に出した。
「あたしにどれだけ影響力があるかわかんないけど、SNSで呼びかけてみる。透花ちゃんは盗作なんかしてない、何かの間違いですって。そうしたら、もしかして、」
「──そんな無駄なことしたって、意味なんかねえよ」
言葉を遮られたにちかは、静かに後ろを振り返った。両手を強く握りしめた纏が、険相な顔つきのまま、もう一度繰り返す。
「無駄なことだって言われなきゃ分かんねえのかよ」
「……は? ……それ、どういう意味よ」
「意味も何もそのまんまだよ。そんな無意味なことして何になる?」
「ちょっと、纏」
頭に血を上らせたにちかが立ち上がって、纏に詰め寄る。横に立っていた佐都子が、慌てて纏の腕を掴んで引き留めるが、纏はそれを強引に振り払った。ふたりは互いしか視界に入っていないのか、まるで意味を成さない。
「纏、あんた自分が何言ったか分かってる?」
「してる。その上で言った、無駄なことだって」
「っ、纏!」
「ちょっと、ふたりとも!」
烈火の如く燃え上がったその衝動で、にちかの手は思わず纏の襟首を掴み掛かった。
しかし、纏は顔色一つ変えずただにちかを見下す。こちらが責めているはずなのに、ぴくりとも動揺しない纏のその気迫に、にちかは一瞬怯む。
「はは。本当さ……何にも分かってないね、にちかは」
「……何が!」
「歪んだ正義感を持った人間が、悪意のある人間より、何倍も残虐なんだよ」
感情を押し殺した纏の言葉を耳にした瞬間、透花は胸を抉られるような痛みに顔を歪めた。
「お前だってネットの書き込み見たろ? あいつらにとって、盗作疑惑かけられてる『ITSUKA』は成敗すべき悪で、その悪を倒す為にっていう大義名分のもと歪んだ正義感振りかざして悦に浸ってんの。そんな奴らがさ……にちかの言葉に耳を貸すと、本当に思うの? はは。……結果なんか目に見えてるよ。『mel』が『ITSUKA』を庇ったってさらに炎上するってオチがさ!」
「そんな、こと、」
「んなことあんだよ! お前だって知ってるだろ、夕爾の漫画が好きだったならさ!! あいつがどんな、末路を辿ったのか。それでも同じこと言えんのかよ!? なあ!?」
にちかは血が滲むほど唇を噛み締めた。
纏の言葉を何一つ反論することが出来なかった。大好きだった漫画が、SNSで誹謗中傷される辛さをにちかは知っている。擁護に回れば、名も知らない幾つものアカウントから吊し上げられ、笑いものにされ、信者だと馬鹿にされた。純粋な読者ほどその餌食にされた。
ただ、好きなものを傷つけられたくなかった、それだけだったのに。
「そんなのっ、馬鹿なあたしだって、分かってるよ! でも、じゃあっ、他にどうしろって言うのよ!! 何も反論せずただ見てるだけ!? ……だって、透花ちゃんはやってないってそう言ってるんだよ? 纏は、それを信じてあげないの?」
「僕だって、信じてるよ。透花がそんなことする奴じゃない。そんなこと、ここに居る誰より分かってる!」
「じゃあっ、」
「だから、現実はそんなに甘くないんだよ! やったことの証明なんかより、やってないことを証明する方が何十倍も難しいんだよ」
纏に掴み掛かった手はだらりと落ちた。
誰も纏を反論する人間はいなかった。纏は、深く息を吐いて重々しく口を開いた。
「ひとつだけ、方法は……ある」
纏の視線が合う。その表情を見たとき、透花は纏がこれから何を言おうとしているのか察した。
「──盗作を認めて、謝罪する。それが今できる、最善の方法」
皆一様に目を見開いて絶句する。ただ一人、透花を除いて。
「っ、纏、それは」
声を荒らげた律を遮るように、纏は慟哭した。
「言われなくても分かってる! けど、これしかないんだよ! このまま放置し続けたら、僕たちじゃ透花を守れなくなる! 今はまだ作品に批判の目が向いてるけど、このまま炎上し続ければ、透花個人を攻撃するようになるかもしれない。そうなったら、学校も、顔写真も、住所も、何もかも晒される。夕爾の時みたいに。そうなったら、僕たちには守れない。…………僕たちみたいガキには、何もできないんだよ! ……ごめん、透花」
今透花がどんな顔をしているのか、直視することが纏には出来なかった。
「僕は……こんな、最低な方法しか思いつかない」

もし実行すれば、たちまち炎上は鎮火するのだろう。
けれど裏を返せばそれは、透花が『盗作』をしたというレッテルを一生貼られるということでもある。『ITSUKA』と活動していくことは、おそらく不可能だろう。世間の目は、あまりに厳しい。どれほど良い作品を創ったとしても、色眼鏡で見られ続けることになる。純粋に作品を見てもらうことはできないだろう。
『盗作』を認めることは、すなわち『ITSUKA』を解散することに他ならなかった。

「透花が、決めて。僕は、それに従う」
罪を認めるか、否か。ここで、『ITSUKA』を終わらせるか、否か。残酷な二択が、突き付けられた。
「わたし、は……」
呼吸が出来ない。身体の感覚が奪われていくようだった。世界にたった一人取り残されたかのような孤独感に、眩暈がする。
ふっと身体が羽が付いたような浮遊感の中、透花は思い出す。
この世界すべてを憎んでも足りないほどの鮮烈な怒りに満ち満ちた瞳がこちらを見ている。
『お前も俺に──死ねっていうのか?』
そこから、透花の意識は途切れた。


病院の待合室は深い青に呑まれていた。
大きな窓ガラスから差し込む月夜の明かりが、ビニール床に反射して点々と続いている。
静寂に包まれた待合室の一角で、纏はただぼうっと誘導灯の明かりを眺める。ぱちり、ぱちり、と今にも電球の切れそうな音が響き渡る。
「纏」
ふと、纏の横から影が差した。声の主は、振り返るまでもなく律だ。
「ん」
一音だけ言い放って、律は自販機で買ってきたホットコーヒーを空白の席に置く。纏が受け取るのも確認せず、律は手に持ったコーヒーのプルタブを開けて、一口煽った。開けた缶の口から湯気が立つ。
「透花、さっき目が覚めた。軽い貧血みたいなものだって」
強張っていた身体が弛緩した。その言葉を最後に、ふたりの間に沈黙が流れた。
纏は、置かれたコーヒーに手を付けることなく、立ち上がる。
そのまま横を通り過ぎようとする纏の腕を、思わず律は掴んだ。
「どこ行くつもりだよ」
纏はしばしの無言の後、諦めたように息をつく。
「……、透花のところ」
「行ってどうするつもりだよ」
「は、言う必要ある? いいから離せ」
掴まれた腕を振り払おうと乱暴に寄せようとするが、律はそれを許さなかった。腕に跡が残るほど強く掴む。
「落ち着けよ、纏。お前らしくない」
は、と纏の口から零れたのは、自嘲するような乾いた笑い声だった。
「……僕らしいって、何?」
「いつものお前はもっと冷静に状況を見てる。今のお前は焦り過ぎて周りが見えてない」
「この状況で、冷静でいろって?」
「そうだよ」
「今こうしてる間に、何んにも知らない他人が透花のことを誹謗中傷してるのにか!? それでも冷静でいろってお前は言うのかよ!!」
「少なくとも、今、纏がやろうとしてることが間違いだってことは、俺にも分かる」
「っだから、方法はもう一つしかないんだってば。それなら、炎上が広まる前に対処すべきだろ!? だから僕は、」
「二度と透花が創作しなくなってでも、か?」
纏は一瞬、目を見開いて、くしゃりと顔を歪めた。
言い訳がましい言葉がそこから喉を通ることは無かった。力なく首を垂れる纏は、それまで抵抗していた腕をすとんと重力のままに落とした。
「……どうして、」
纏は、揺らぐ視界の中、ただ嘆いた。
「どうして、僕は……こんな、無力なの……」
重力に逆らうことなく、涙が零れ落ちる。
「ねえ、律でも、いいから」
「……」
「誰でも、いいから。どうにか、してよ」
喉に絡みつく息苦しさに藻掻くように、纏は救いを求め律の胸に縋る。
「僕は、透花が創作を嫌いになるの……もう、見たくないよっ……」

笹原夕爾という一人の天才が、いた。
彼の才能が世間に認められたのは、彼が高校一年生になった頃である。
若干16歳という若さで、才能を認められた天才。
彼の最も特筆すべき才能は、その成長速度にあった。とある大手の漫画雑誌に投稿した作品が、編集者の目に留まり、ついに連載が開始したのは中学3年のころである。
それから、彼は驚くべきスピードで作画や構図、ストーリーの展開において、成長を見せた。次第にその漫画に魅せられていく読者が増えていった。
誰もが、彼を天才だと称える。人気絶頂の最中、彼の漫画が名誉ある漫画の賞を受賞した。さらに彼の漫画は世間に名を轟かせた。何より、16歳という若き天才という肩書が、メディアから大いに持て囃されたのだ。
そんな最中に、事件は起こった。

『二目メメ』の漫画は、俺の作品の盗作だ。
とあるネットの掲示板に書かれた、一文で、界隈は大いに揺れた。
匿名という隠れ蓑を利用して、『二目メメ』の漫画に描かれたストーリーが盗作である所以を、次々に投稿していった。そのどれもがどちらとも判断が付かないような曖昧な情報ばかりだった。確かに、それが確たる証拠ではないと主張する人間もいた。ただ、この世界はおかしなことに、声の大きい人間の方が正義だと思われる。それが例え、事実であろうが、無かろうが。
情報は次第に単純化され、ただ『二目メメ』が盗作をした、という情報だけがネットの海に流れ、多くの人間の目に触れていく。
彼の作品は、休載に追い込まれざる負えなかった。それが彼らの正義感をなお煽った。ほら見ろやっぱり、『二目メメ』は盗作だった、と。そこからは、およそ目にも当てられない最悪の方向へと向かっていった。
情報がどこから洩れたかは分からない。
恐らく、彼の学校関係者の誰かか、少なくとも彼の情報を知る人物から、『笹原夕爾』に関する情報がネット掲示板に晒された。その情報は直ちに削除されたものの、残念ながら手遅れだった。『笹原夕爾』という個人情報は瞬く間に全世界へと公開された。

【速報】漫画家『二目メメ』氏の通う高校に不審者が侵入
『本日未明、漫画家二目メメさんが通う高等学校に凶器を持った不審者が侵入した。高校職員の通報によって警察が駆け付け、その場で現行犯逮捕された。男は「盗作をする人間は生きていてはいけない。だから殺すべきだ」などと供述している。生徒数名が軽いけがを負った。また、登下校時を狙った計画的犯行とみられ、警察は引き続き慎重に捜査を───』

その日から今日に至るまで、夕爾が物語の続きを描くことは、なかった。
皮肉なことにその事件をきっかけに、全く動かなかった大人たちが未成年を危険に晒してしまったと、当時のニュースやネット、SNSは徹底的に規制され、事態は沈静化されたのである。
それからだ。
透花が『創作』を恐れ、描かなくなかったのは。

「……本当はね、透花が描かなくなって安心した」
毎日のように通っていた『アリスの家』にも来なくなって。描きかけのキャンバスの色が日に日に色褪せていって。彼女にとって、『創作』が無価値なものへと変換されていって。
それでいいと、纏は思った。
「だってさ、あいつら、すごい似てんの。一度のめり込んだらスポンジみたいに吸収しちゃう天才肌のとことか、こだわり強くて決めたら曲げないとことか、……指でつついたら壊れちゃいそうなほど、心が繊細なとことか」
「後悔してるか?」
「してる」
律の問いかけに、纏は即答した。
「きっと、僕は、透花を止めるべきだった。今じゃなくても、透花を傷つけるようなことを言う人間なんて幾らでもいる。いつかこんな日が来てもおかしくなかった。分かってた、分かってたよ。……なのに、止められなかった」
消化できない痛みから逃れるように、纏は息を吐き出した。
「……これは俺の持論だけど、創作って、誰かの創作を噛み砕きながら自分のものに落とし込むことだと、俺は思ってる」
ゆっくり、口に含んで。咀嚼を繰り返す。自分に馴染むまで。
「今、この世界にどれだけの創作があると思う? 何十、何千、何万、途方もない数の創作がひしめき合った中で、誰の影響も受けずに創作するなんて不可能だ。俺だって、影響を受けた曲なんて腐るほどある。……創作したことない奴はさ、きっと知らないんだ。自分が見て、聴いて、触れて、感じたものでしか何かを生み出せないってことを」
律はゆっくりと瞼を閉じる。浮かぶのは、件のツイートだ。絵に関しては全くの素人である律にも、あれが意図をもって描かれたものだと分かった。
「あれは、自分のものに出来ていなかった。だから、盗作になった」
「律、お前……透花が盗作したって言いたいのか?」
「してないって信じてる。だから、なおさら混乱してるよ」
「……どういうこと?」
「もし透花が盗作してないとするなら、向こうが盗作したってことだろ?」
「そ、れは」
纏の瞳が分かりやすく揺れた。
そうして、何かを言いかけるように口を開いたが、纏にしては珍しく歯切れが悪そうに、眉に皴を寄せ黙りこくる。
「証拠があれば、今の状況を変えられるか?」
律の言わんとしていることは、すぐに纏は理解した。
「……もし、証拠が見つかったとしても、透花が描きたくないって言ったら?」
「そん時はそん時だよ」
「行き当たりばっかりが過ぎるでしょ」
「それでも俺は、まだ諦めたくねえわ。透花の創作が好きだから。纏は違うのか?」
立ち上がった律が、纏の目の前で手を差し伸べる。見上げれば、影の差した暗がりの中で、唯一、浮かぶ二つの眼が纏を射抜いた。
クソったれ、と、纏は心の中で悪態をつく。
どうしてこんな時に、似ても似つかない律の瞳が、透花の青に重なって見えるのか。
気が付けば、纏の左手は律の手を握り返していた。そのまま、律の腕を伝って海の底から引き上げられるように纏の身体は立ち上がる。
「1週間」
「何が?」
「猶予。SNSで事実確認中とか掲載して適当に引き延ばしても、それが限界。1週間で証拠を見つける。死ぬ気で」
律はくいっと顎を上げ、不敵に笑った。
「上等」

ITSUKA@ituka_official
【ご報告】
平素より、『ITSUKA』を応援いただきありがとうございます。
この度、『ITSUKA』の楽曲MVにつきまして、盗作ではないかといったご意見が挙がっております。現在、MV製作者や当事者の方へ事実確認を行っております。
状況が分かり次第、ご報告させていただきます。またこの件につきまして、憶測や事実と異なる───

その日、『ITSUKA』がSNSに上げたツイートは、一時間で3万以上のリツイートされた。トレンドに並ぶ『盗作』『ITSUKA』『MV』『トレパク』『mel』の羅列。
纏は、透花の個人情報が洩れないようSNSも動画サイトのコメント欄もすべて閉鎖した。


古臭いウッドドアには『close』のプレートがぶら下がっていた。
いつも通り、ノブを捻ってドアを開けるとからん、からん、とベルが鳴る。底冷えするような寒さが、店内の暖房でほんの少し和らぐ。適当に巻き付けたマフラーを外しながら、視線を上げると、バーカウンターを挟んで見知った二人が談笑しているのが見えた。
ベルの音に気付いたらしいバーテン服の男が、お、と声を上げた。
「お帰り律。寒かったろ? コーヒーいるか?」
「いる」
「はいよ」
カウンターの奥に消えていく叔父の姿を見送りながら、律は無言で彼女の隣に腰を下した。
「……どうだった?」
にちかは、恐る恐る律に尋ねた。軽く息を吐いて首を横に振る。
「そっか」
あっさりとした返事を返すと、にちかは冷めきったコーヒーに口を付けた。
「……お前の方こそ大丈夫なのかよ? 盗作騒動で、『mel』も結構叩かれてんだろ。しかもライブの動画も出回ってるし。身バレとか」
「大丈夫大丈夫。さすがにクラスメイトもこんなもっさい見た目の女が『mel』だなんて思わないでしょ」
「あーそれもそうか」
「あ? 喧嘩なら買うけど?」
「当店には喧嘩は販売しておりませーん」
「屁理屈うっざ」
いつもの軽口のやり取りをしているだけで、律の心持は少しだけ軽くなった。

透花が倒れ、病院に運ばれた日から4日ほどが経った。
幸い異常なしと診断結果が出たため、透花は母親に連れられ、すぐに帰宅することが出来た。
その日からである。透花からの連絡は途絶えたのは。
律だけではない。纏や、佐都子、にちかもまた、返信が返ってくることは無かった。
各々が透花に会うため、彼女の家に通っているが、今だ誰も会えず仕舞いである。
纏と約束した期限まで、あと3日。
悪魔の証明、などと、よく言ったものだ。
やっていないことを証明するための、確たる証拠が何一つ見つからない。
そして、律の焦りをさらに助長させるように、炎上の火花は様々な界隈へと飛び火していた。『ITSUKA』という名を知らないような人間にも知れ渡るほどには。纏の言うように、事実確認中などと言い訳が通じるのは、1週間が限界だろう。
それに加えて、透花の音信不通状態。証拠が見つかったところで、透花にこれ以上描く気力がなくなれば、今やっていることは全て無駄な徒労になるだろう。
この最悪な状況を打破するために、律は、透花の母親にUSBを託した。初めて、透花が律に書いてほしいと願った曲だ。透花が、透花自身と向き合うために、あるいは過去と決別するために描くと決めた曲。
後は、もう、ひたすら透花を信じるしかない。

「しゃんとしろ!」
唐突に、背中に衝撃が走る。ばしん、と小気味のいい音とともに叩かれた背中の真ん中あたりが猛烈に熱くなった。
「ってーな!」
「あの夜、ステージから逃げたあたしに説教垂れた人間とは思えないわ。なにを弱気になってんのよ」
「……俺の黒歴史いじんな」
「あっはっは奇遇だこと、あたしも黒歴史だわ! 何なら今度はあたしが説教垂れてやりたいくらいにはね」
痛いところをついてきやがる、と律は心の中だけで文句を垂れる。
「つーか、アンタも纏も舐めすぎ」
「何が」
「透花ちゃんは、お前らが思ってるほど弱くないっての」
重い前髪から見え隠れする強い意志のこもった真っ黒な瞳に、情けない顔をした自分が反射する。
「女だからって、勝手にヤワだって決めつけんな。言っとくけど、ネットに自分の創作物曝け出せるような女の子のメンタル弱いわけないから」
あたしも含めね、とにちかは口角を上げて笑う。
「けどさ、もし、もしも、だよ? 透花ちゃんが竦んで一歩も動けなくなってるんだったら、後ろから思いっきり蹴っ飛ばして、一発喝入れてやれ。そんで、あとは全部まるごと受け止めてやるって、でっかい懐見せつけてやればいいの。それが惚れた男の義務ってやつじゃん」
「……にちか」
律の呼びかけに、にちかは不愛想に答える。
「何よ」
「お前って意外と、いい奴だったんだな」
一瞬呆けたように目を丸くしたにちかは、軽めのパンチを律の脇腹にお見舞いした。
「意外と、は余計だっつの」
いてて、と小突かれた箇所を押さえて大袈裟に痛がりながら、律は神妙な顔で言う。
「……てか、俺ってそんな分かりやすい?」
纏だけでなく、にちかにまで看破されるほど、分かりやすく態度で示したことなど一度もなかったはずなのに。おそらく、当の本人には全くと言っていいほど伝わっていないだろうけれど。
対しておかしな質問をしたわけでもないのに、にちかは言葉の意味を理解してから数秒後、ぷっと吹き出したかと思えば、店内に響きわたるほどの大声で笑う。
そうして、口を開いた、その時である。
「きっ、緊急事態!」
けたたましくドアベルを鳴らし、外から飛び込んできた纏の鬼気迫る声が、それを切り裂いた。恐らくここまで全速力で走ってきたのだろう、風と雪で髪もマフラーも乱れた纏が肩を上下させながら、真っ赤に染まった右手で握りしめたスマホを律たちに向ける。
「っ、証拠、見つかったかも、しれない」


あの日からずっと、夜に囚われている。
いつもは固く閉じられていたドアが、ほんの少しだけ開いていた。
しゃきん、しゃきん。
フローリングの床はまるで氷のように冷たく、素足で立っているだけでたちまち体温を奪われる。
しゃきん、しゃきん。
真っ暗な夜の暗がりの中で、ドアの隙間から漏れ出したぼやけた月明りが伸びている。
しゃきん、しゃきん。
何かを裂くような音が、一定のリズムを刻んでいた。そこに感情など、一切なくて、ただ淡々と機械のように。獰猛な狼の唸り声のような風が、地面を這うように時折聴こえてくる。ますますドアの向こう側に怪物でもいるのではないかと思わせた。
しゃきん。
ついに音は止んだ。手で覆ってもいないのに、心臓の音が耳の奥でやけに鳴り響いていた。気が付けば、血の気を失った真っ白な手がドアノブに伸びていた。
本能が警告していた。絶対に開けてはいけない、と。
けれど、一度だけ。
透花は、ただ一度だけ、ドアに手を伸ばしてしまった。
ドアの向こうに待ち受けている現実が、悲哀に満ちた物語よりも残酷だとも知らず。

「なに、してるの」
黒。
黒、黒、黒。
黒、黒、黒、黒。
夜の不気味な闇すら、すべて飲み干してしまうほどの、黒。開いた窓から吹く風が、嗅ぎ慣れたインクの匂いを運んでくる。首の折れた人形のように項垂れ、足元に広がった無残な紙きれを見下ろす兄の手には、鋏が握られていた。刃先からぽたり、ぽたり、と雫が落ち、原稿用紙に真っ黒な染みを付けていく。
出来上がった物語の死体の上で、兄は、嗤った。
「……ふふ、あは、あははは! なにしてるって? 処分してるんだよ、要らないものだから」
目の前にいる人間は、兄ではなかった。
足元に落ちた物語たちを蟻の巣を踏み潰すみたいに、踏み付ける。
「誰にも読まれない漫画に、存在価値なんてない。ただの、塵だよ。塵は処分するものだろ? だから捨てる、当たり前のことじゃん」
透花にとって、兄は憧れだった。兄のようになりたいと、思っていた。
そのすべてを全否定された透花にはその言葉がどうしようもなく耐えがたかった。
「……塵なんかじゃ、ないよ」
口から出た言葉は、吹き込む風に攫われそうなほど、あまりに弱弱しかった。
「やめようよ、お兄ちゃん。……いま捨てたらきっと、もう、二度と……描けなくなるよ……」
透花は、上澄みのような綺麗事しか喉を通らない。こんな言葉を積み重ねたところで、過去が変えられるわけでも、事態が好転するわけでもないというのに。
透花の薄っぺらい言葉一つで救われる世界だったのなら、どれほどよかったことか。
ああ、どうして。あまりに不公平じゃないか、不平等じゃないか。
だって、この世界はたった一つの言葉だけで、兄から創作を奪いさったというのに。
「──黙れ!!」
びり、と窓ガラスが軋むほどの慟哭だった。
「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れぇえええ! どいつも、こいつも、五月蠅いんだよ! 描き続けても、死ね、死ね、死ね、描かなくても死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返しやがって語彙力皆無の低能が、てめえらみたいなゴミカスにサンドバックにされる覚えなんかひっつもねえんだよ!! こっちが必死に命削って描いたもん、盗作だって全否定されて、ただ最年少って話題作りのために選ばれただけとかこき下ろされてさァ、俺以上の才能もない能無しの分際で勝手に評価すんな虫唾が走んだよッ!! ペンも握ったことねえ奴らに漫画の何が、創作したことねえ奴に物語の何が分かるってんだ!? てめえらの暇つぶしに俺が、どんだけ人生賭けてるのかも知らねえ癖に知ったように俺のこと語るんじゃねえよ、俺の漫画に金払って読んでもねえ奴らが都合のいい上辺の情報だけ聞き齧って説教垂れて気持ちくなってんじゃねえよ、俺の漫画はお前らにレイプされるために描いてねえわ、気持ち悪いんだよ吐き気がするっ……! いいから黙って読めや! どうして誰もちゃんと読んでくれないだよっ、どうしてっ、どうして、それすらできない奴らに俺の漫画をこき下ろされなくちゃいけねえんだよ!! 頼むからさァ、他人の道を妨害するだけの無能な人間は、その辺で誰の邪魔にならないように縮こまって一生自分のしょうもねえ人生嘆いてろや!!  ああ、クソ、クソクソ、クソッ!! なんで、なんで、なんで、なんでだよ、なんで俺がそんな奴らのせいで奪われなくちゃいけないんだよっ、どうして俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだよッ! なあ、頼むよ、他の何を奪ったっていい、全部くれてやるからっ……! だから、俺から『これ』だけは奪わないでよ。俺には『これ』しか、無い。これだけが、俺の存在価値だ、無くなったら俺は……なのに、なんで、なんでっ……」 
壊れていく。
「………ああ……、描かなければ、よかった」
砂の城が瓦解する、ゆっくりと。
「こんなクソみたいな未来が待ってるって知ってたら、俺は……どっかで、立ち止まれたのかな」
彼の口からその問いかけに対する答えが、続くことは無かった。
「……もう、いいよ。もう、疲れた」
それが、合図だった。
「俺が創った、俺の物語だ。これ以上、他の誰かに壊されるくらいなら、もういっそ───全部、終わりにする」
彼の手に掬い上げられた物語の死骸たちが、今、この瞬間に、吹き荒れるような風と共に窓の向こう側の闇に攫われようとしていた。
その光景は、まるで地獄だ。
透花の身体は、彼女が脳裏に信号を出すよりも先に動いていた。窓の向こうへと伸びようとしていた手を、無意識に掴んでいた。無我夢中で口走ったその言葉が彼の耳に届いた刹那、透花の身体は振り払われた反動ででいとも簡単にドアまで突き飛ばされていた。背中を打ち付けた衝撃で、息が止まる。朦朧とした意識の中で、それだけははっきりと聞こえた。耳を塞ぎたくなるような、咆哮にも似た嗤い声だ。
「……ははは、ははははっはははっ!」
床に広がる真っ黒な水溜まりが裸足に滲んで、その闇に侵食されていくようだった。
どうか、これが夢であってくれと願いながら、しかし背中に走る鋭い痛みが逃げようのない現実を突きつけてくる。
「なあ」
息が苦しい。酸素が奪われていく。
暗闇より深い奥底を映したような二つの眼がこちらをじっと見つめている。それは、呪いの言葉だ。一生染みついてとれない呪いの言葉。
「お前は俺に──死ねっていうのか?」

不意に、目が覚めた。
玉のような汗が額から、だらだらと流れ落ちて枕を濡らす。頭を締め付けるような痛みがずきん、ずきん、と悪戯に遠のいては近づいてくる。両手の甲を目に押さえつけ、透花は大きく息を吐き出した。
真っ暗な天井を見つめ続けていると、微かに自分の呼吸音以外の音があることに気付く。
視線を僅かにずらして、音のする方へと引き寄せられる。床に散らばったラフ画、途中描けのまま絵コンテ、転がる鉛筆、ひどい有様の部屋の中でそれは、唯一、目を細めたくなるような光を放っていた。
机の上に置かれたPCは起動したままだった。刺さったままのUSBから赤いランプが何度も点滅している。
透花は静かにその音に耳を澄ませる。
こんなにも胸を容赦なく突き刺す音なのに。耳を塞いで聴こえないようにしてしまいたい衝動が後から後から湧き出て止まないというのに。
(ああ。わたしは……、)
気が付けば、透花の視界は深く、透明な青に呑まれていた。
ひとつ、ふたつ、と枕を濡らす水滴が次から次へと流れ落ちていく。
(あの日からずっと、朝が来るのを待っている)


透@to_ru 20××/9/23
製作途中。

そのツイートとともに添付された画像は、ほんの一部しか見えない状態になっていたが、確かに『劣等犯』のラストシーンに出てくる構図と一致していた。
言わずもがな、『透』と名乗るアカウントは、透花が使っているSNSのアカウントだった。30人ほどしかフォロワーのいないアカウントの呟きが、今多くの人間にリツイートされ、ネットは大きな波紋を呼んでいた。
「盲点だった。透花がたまに上げてたんだ、『ITSUKA』のイラスト」
纏を挟むように、律とにちかはそのスマホを凝視した。
「佐都子と打ち合わせして、こっちに向かってる最中に佐都子から連絡入って、教えてくれた」
「ちょ、ちょ、待ってめちゃくちゃ混乱してる。つまりどういうこと?」
「これ見て」
纏はスマホをスクロールして切り替え、次に表示されたのは、盗作をされたとされる例のアカウントである。

無色@musyoku_125 20××/9/30
どうせ、あなたには為れない。

短いツイートともに添付された画像は、炎上の火種にもなった『劣等犯』のラストシーンだ。このイラストと、透花が描いた『劣等犯』のイラストが線から配色まで一致していると、トレパク疑惑が持ち上がったのである。
「ここ」
纏が指さしたのは、ツイートの文言でもなく、件のイラストでもなく──投稿日だった。
「この『無色』ってひとの投稿日は9月30日で、透花が投稿した日は9月23日。確かに、『劣等犯』のMVが初公開されたのは10月のことだけど、透花が『透』のアカウントで『劣等犯』のMVで使うイラストを上げた方が、先。つまり、」
「盗作してない証拠になる!!??」
纏の言葉を遮り、律とにちかは声を揃えて立ち上がった。
その勢いに目を丸くした纏が、分かりやすく眉を下げて首を横に振った。悔しいけど、と吐き捨てるように続ける。
「……このイラストに限って言えば、って枕詞が付く」
透花が気まぐれにSNSに上げた『劣等犯』のイラストは、この一枚のみ。それがたまたま、盗作疑惑を晴らすだけに足るイチ証拠にはなるが、現実はそう甘くはなかった。
「今、ネットで『劣等犯』だけじゃなくて、『青以上、春未満』のMVでも疑惑が挙がってる。素人目から見ても、言い逃れは出来ないレベルだと思う」
「……じゃあ」
「今の時点では、全部の盗作疑惑を晴らすだけの材料は、無い」
「そんな」
「……アンチもだんだん作品じゃなくて、作者に攻撃が向き始めてる。コメント欄なんか、目も当てられない誹謗中傷で埋め尽くされてる。正直、引き延ばしするのも、そろそろ限界に近い、と思う」
1週間。自らが設けた期限まで、あと3日。
結局、たったこれだけの証拠しか見つけられなかった自分の無力さに嫌気が差す。今、無意味に浪費している時間すら、彼女を追い詰める刃は刻一刻と彼女の心臓を貫こうとしているというのに。
重く、沈んだような空気が流れる中、纏はついに耐え切れなくなって顔を上げた。
やっぱり、もう、と紡ごうとした声を、大きな手が阻んだ。
「っ、ちょ、なに!?」
突然、纏の髪をぐちゃぐちゃに掻きまわしてくる、大きな手を掴んで制止する。纏の乱れた髪の隙間から、覗き込むように腰を曲げて目線を合わせてくるのは、律だった。
「見切り早えぞ、纏」
ぴん、と軽く纏の鼻を律の人差し指が弾く。
「お前がそんな焦る理由は、分かるよ。ただでさえ、お前頭良くて聡いから。俺らなんかより、何倍も状況も見えてるんだろうよ。でも、今はまだ見切る時じゃない。折角ひとつ証拠が見つかったんだ、それに必死に縋るくらいのみっともない姿晒したって、罰は当たんねえよ」
「……それに納得するだけの、根拠あんのかよ」
「ない! 俺がまだ諦めたくないだけだ」
「……ほんとお前馬鹿。馬鹿」
「はあ? なんだやんのか?」
互いに顔を見合わせて睨み合っていたふたりを遮るように声が上がった。
唐突に上がった驚きの声に、纏の思考は現実へと引き戻される。
テーブルに身を乗り出してスマホを凝視していたにちかが、「ねえ、」と纏たちへスマホを向けた。
「どうした?」
「これさ、何だろ? 何かのシルエット?」
纏と律は頭を寄せ合って、スマホを覗き込んだ。
そこに表示されていたのは、透花が描いた『青以上、春未満』のイラストを、限りなく拡大したものだ。振り返った少女の瞳の中をスマホの画面いっぱいに拡大することで、ようやく視認できるほど細かく描かれた、その瞳に反射する黒い影。
そのシルエットは、おそらく、女性の横顔だ。大きく息を吸い込むように口を開く姿は、まるで。
「……あっ、」
思わず声を上げた律に視線が集まった。
「……これ、たぶん……」
煮え切らない口調で、視線を右往左往させる律へ、いよいよ苛立ちを覚え始めた纏とにちかの間を縫うように、律の人差し指がある一点を指さした。
ちょうど、纏とにちかの真後ろにそれはあった。
額縁に収められた、一枚の写真。マイクを手に歌う一人の女性の写真である。その女性の横顔と、瞳の中に映るシルエット。
スマホを手にした纏が、それと照らし合わせ、視線を交互させる。
「確かに、あの写真と同じだ。律、あのひとは誰?」
「……俺の母親」
「律の?」
「確かに面影あるかも」
「……なんで、律の母親を透花は描いたんだ?」
纏から問いかけられた当然の疑問に、律はためらいがちに口を開いた。
「透花だけに、伝えてたことがあるんだ」
「何を?」
「──来年の3月5日に『ITSUKA』は解散する。そうしたら、俺はもう、二度と音楽はしない」
あの日、夏の月明りの下。ふたりぼっちの公園で、透花に告げたように、律は繰り返す。
あの夜と同じように、時が止まったような静寂が訪れる。
「は」
あんぐりと口を開けたまま、硬直していたにちかがはっと我に返った。
「はああああああ!!!??」
立ち上がった衝撃で、椅子が後ろへと倒れ込む。派手な金属音が店内に響き渡った。
「……悪い」
「ちょ、ちょ、え!? ガチ!? 悪い冗談? 何それどういうことよ!?」
「にちか、ストップ」
今にも律の胸倉を掴み掛からんとする勢いで問い詰めるにちかを、横から伸びてきた腕が制した。纏に止められたにちかは、何度も口を開いては言葉を飲み込んで、怒り上がった肩をようやく撫でおろす。
それを横目で確認した纏は、今だ口を噤んだまま下を向く律に問いかけた。
「一から説明しろ」
「……俺が、『ITSUKA』をやろうと思ったのは、ただ、知りたかったからだ」
「何を」
「母さんが死ぬ間際に何を考えていたのか」
纏もにちかも、言葉を失い、なにひとつ反応を返すことは出来なかった。
「3月5日は、母さんの命日だよ。だから、『ITSUKA』。……はは、案外さ、単純でしょ? 俺は、その日に音楽と決別するために、『ITSUKA』をはじめた。そのこと、透花にだけは先に伝えてた。……えっと、確か、『青以上、春未満』のMV締め切りのすぐ前だった、気が、」
「そういう、ことか」
全て律が言い切る前に、纏が遮った。独り言を呟くみたいに、纏は言った。
「だから、ロゴ変えるなんて急に言い出したのか、透花は」
「ロゴ?」
「……ああ、にちかはまだ、居なかったっけ。そういえば」
居直った纏が、あの怒涛の夏の出来事を一つ一つ整理をする。
「『青以上、春未満』のMVが完成する直前、透花はもう製作してたロゴを変更したいって、いきなり言い出したんだ。ラストに数秒映るくらいのロゴを、だよ? クソ律がなんか吹き込んだんだろう、って検討はついてたけど」
「ついてたのか」
相変わらずの慧眼に律は、思わず項垂れてしまう。
「……まあ、でも纏が正解だよ。俺は、締め切り前日、透花に問いかけた。3月5日に『ITSUKA』は解散する。それでも、俺と一緒に『創作』してほしい、って」
「その答えが、あれだった、ってことか」
「……ど、どういうこと? さっきからあたし、めちゃ置いてけぼり食らってるんだけど」
纏は、ふっと軽く笑い、にちかの問いに答える。
「『ITSUKA』のロゴって、青いバラの花がモチーフでしょ?」
「え? あ、ああ。そうね」
「あの花、なんていう名前か知ってる?」
「花の名前? ごめん、全然知らないや」
首を振るにちかへ、律は間髪入れずに答えを告げる。
「──ミッドナイトブルー」
真夜中の青。そして、あるいは。
「俺の母さんの作った曲だ」
あのロゴは、YESの代わりに送られた律のくだらない我儘に対する、透花からの返事だった。

その瞬間である。
纏は理解する。
 
『青以上、春未満』『劣等犯』『ミッドナイトブルー』『無色』『MV』
『透』『ラストシーン』『ロゴ』『歌詞』『盗作』『創作』『トレース』『ITSUKA』
そして、『どうせ、あなたには為れない。』という言葉。
それらすべてのピースは、纏の感じていた違和感の正体へと行きつくにはあまりに十分すぎた。いや、あるいは、最初から、心のどこか奥底では、その正解を纏は知っていた。
しかし、纏は目を瞑った。都合の悪い、直視したくない現実から逃げるように。
「……おい、纏? 大丈夫か?」
遠のいていた意識が、自分を呼びかける声によって引き戻される。ゆっくりと息を吐き出して、纏はその答えを口に出す。およそ、探偵の名推理というにはあまりにもお粗末な答えを。
「……分かったよ」
「何を、」
「──この炎上を起こした、張本人」


数学の難解な問題は少しだけ考えて、結局、答案用紙を見てから勉強した。
ミテリー小説は、犯人が気になって、最後の数ページを確認してから戻って読んでいた。
いつだって、正解があることに安心していた。先に答えを知りたがった。
いざ選択を迫られたとき。いつだって逃げてきた。だって、答えの分からない問いに向き合う覚悟がなかったから。
(ねえ、神様。教えてよ)
『お前は俺に──死ねっていうのか?』
(わたしはあの時、なんて答えるのが、正解だったの?)

片耳だけ付けたイヤホンから漏れ聞こえる音に交じって、母の呼ぶ声がした。
透花は気だるい身体を起こして、素足のままドアの前までやってくる。そしてゆっくりとドアを開けて──
「よ。久しぶり、透花」
母に呼ばれたと思って開けたドアの向こう側に立っていたのは、律だった。
寝巻姿にぐちゃぐちゃの髪の自分が律の瞳に反射していた。呆気にとられたまま、透花は口を開く。
「……り、つくん」
「ごめん、透花のお母さんに協力してもらった」
「……」
「そうしないと、透花はドアを開けてくれないと思ったから」
落ち着きを払った声で、透花の方へ伸びてくる手を反射的に振り払った。ぱしん、と乾いた音が鳴る。
「───帰って」
「透花、」
「いいから、帰ってよ」
律の胸を両手で強く押し返す。見た目に反して、透花の非力な力では律の身体はびくともしなかった。顔すら見たくない。早く、この場から消えてくれと、透花はそれでも両手に力を込めた。
「少しでいいから、話そう」
「っ、話すことなんて何にもない!」
「俺にはあるよ」
「聞きたくない、これ以上何も」
「透花、」
「全部、全部、もう、どうでもいいよ!! 『ITSUKA』のことも! 盗作のことも! MVのことも、創作のことも、律くんも、纏くんも、佐都子も、にちかちゃんも、全部、どうでもいい! だから、帰って、帰ってよ! これ以上、踏み入ってこないで! わたしに何も望まないで! 自分の都合ばっか押し付けないでよ……! わたしはもう、」
「──逃げんな」
静かな怒りを纏った声に、透花は息を呑む。律の胸を押し返していた手が、握られた。不快になるような熱さが伝わってくる。見上げた先にあったのは、透花を見下ろす二つの眼だ。心臓が止まるほど、迷いのないまっすぐな瞳。
「逃げて、一体何になる?」
その言葉を耳にした瞬間、透花は律の胸を突き飛ばす勢いで手を振り払った。今にも逃げ出してしまいたかった。前に進むための退路が塞がれているのなら、透花は後ろへ引き下がるしかない。
「逃げるの、やめるって決めたんじゃないのかよ」
一歩、律との距離が縮まるたび、透花は後ろへ。
「過去の自分と決別するんじゃなかったのかよ」
「……い、」
ついに、部屋の窓まで透花は追い詰められた。中途半端に開かれていたドアが部屋から吹き込む風できい、きい、と錆ついた音を響かせる。
いつの間にか、部屋の中は夜の闇に呑まれていた。窓から差し込む頼りない月明りによって伸びた透花の影の先に、律は立っている。彼だけに照らされたスポットライトが、当てられたら、瞬きをするうちに蒸発でもしてしまうような気がした。
なあ、透花。掠れた声が、透花の名前を呼ぶ。
「俺の曲は、透花の心を動かすに足らない、雑音だった?」
「うるさい!」
鼓膜を震わせるほどの悲痛な叫びは、自分の声だとは思えないほど息苦しい声だった。
視界を曇らす雫は頬を伝って、顎の先まで流れ着いて、重力に耐え切れず落ちていく。透花の足元に散らばる、3分13秒の物語たちを濡らした。
「うるさい、みんな、みんな、みんなうるっさいんだよッ! 逃げんな、逃げんな、逃げんな、逃げんな、逃げんなってさ……何様? じゃあ、律くんは逃げたことがないの? 今まで生きてきて、逃げ出したこと、目を背けたこと、一回も無いの? 一度決めたって、途中で諦めたことないの!? そんなの嘘っ、誰だって逃げてんじゃん! 都合の悪いこと、知りたくないこと、見たくないこと、忘れたいこと、全部受け止めて向き合う人間なんかいない! みんな騙し騙し生きてる! ……だったら、いいじゃん、わたしだって逃げ出しても。ねえ、逃げるのが、そんなにいけないこと? 知らないひとからありもしない悪口書かれて、二度と見たくないですとか、一生描くなとか、勝手に評価されて比較されて、必死に描いたもの全否定されてさ! 匿名だったらなんでも言っていいって勘違いしてる人間に立ち向かったって、そんなの、もっと傷つくだけに決まってんじゃん。……お願いだから分かってよ、わたしの気持ち。もう傷つきなくないの。苦しいの、痛いの全部もう、嫌なの! どうせ、何を言ったところで誰も信じてくれない。だって、わたしは悪者だから! なら、律くんだけは嘘でもいいから、逃げていいって、言ってよ。言ってくれないなら、わたしの前から消えて! 自分だって過去から目逸らしてる癖に、偉そうにわたしに説教しないで!」
「全部、透花の言う通りだ。向き合うの怖くて堪らないの、俺にも分かる。現実はいつだって、見たくないもの、知りたくないこと、痛くなることばっかだし。俺も、散々逃げてきた。だから、透花に偉そうなこと言える立場じゃないって、分かってる」
「だったら、なんで!」
「──嫌なんだ」
絞り出した声が、彼の頬をすべる透明な雫が思考を鈍らせる。泣きたいのはこっちだって、罵声の一つでも浴びせたかったのに、透花は言葉を詰まらせた。
「俺が、嫌なんだ」
やめてくれ、と心が叫んでいる。そんな目で見ないでくれと、心臓の裏側まで響く声で。
「……なにそれ」
「透花の絵が好きだから、透花がいいんだ。他の誰がどう言おうが関係あるかクソッタレ! 代わりとか絶対に居ない断言できる何なら神に誓ってもいい! 俺は、お前がいいんだよ!!」
律の瞳が、流れ星が瞬く間に消えるくらいのスピードで、煌めく。
「だって、俺を一番最初に見つけてくれたのは、透花だったから!」
透花の脳裏に浮かぶのは、夕暮れの、誰もいない電車の中で揺れる自分と、その手に持ったスマホの画面。イヤホンから聴こえてくる音楽は、無機質な機械音だったのにどこか息苦しそうに藻掻いていた。
たった、3分19秒だ。それでも透花は、魅了された。心奪われずにはいられなかった。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』、だなんてコメントを残してしまうくらいに。
「……そ、んな、子どもみたいな言い訳でどうにかなるわけないじゃん」
「どうにかする」
「できないよ」
「できる!」
「ふふ、どうやって? ネット見てみなよ、罵詈雑言の嵐だよ? みんな、わたしの絵なんかもう見たくもないって! 消えろって! だったら、わたしさえいなくなれば万事解決じゃん。だって、誰も求めてないもん。望まれてない創作に存在価値なんてないよ」
「顔も知らねえ奴らの言葉なんか鵜呑みにすんな! 透花の創作を待ってる人間は、もっと大勢いる!」
「大勢って、どれくらい? 数人? 数十人? でもさ、その人たちもきっと、すぐ忘れちゃうよ」
「そんなの、分かんないだろ」
「分かるよ! お兄ちゃんがそうだったんだから!!」
時の流れは、誰にでも平等に残酷だ。
『創作』はこの世界に無数に存在している。そのひとつが無くなったところで、時間が経てば続きを待っていたことすら、彼らは忘れてしまうだろう。
それが、『創作』。きっと、『創作』ほど報われない恋は、この世界のどこにも存在しない。
「……もう、いいよ。もう、疲れた」
それが、合図だった。
「だから、もう、終わりにさせて」
こんな気持ちだったのだろうか、と透花はかつての兄の姿を夢想する。
透花の後ろから、冷たい風が吹き込む。素足で踏み付けたままだった『創作』の一部が、風で吹かれて翼の折られて地上に落下した鳥みたいにバタバタと喚く。それを拾い上げて、胸の前へ。力を入れずとも、ぴり、と音を立てて真ん中に切れ込みが入る。ぴり、ぴり、と紙の繊維が離れていく。一思いに、すべてを断ち切って、そうしたら。楽に──その刹那。

「勝手に終わらせてくれるなよ!! そんなんじゃ俺は納得できない!」
透花の瞳に映り込むのは、青だ。直視するには、あまり痛くて、脆い、青。
その言葉を、透花は知っている。何故なば、その台詞を透花は同じように兄へ向って吐き出したのだから。
もし、神様に仕組まれた運命だと言われたら、馬鹿な自分は信じてしまったかもしれない。
律に掴まれた腕がぎりりと軋む。あれほど泣き喚いた後だというのに、透花の瞳はまた揺れる。
透花の口から、勝手に言葉が滑り落ちた。

「じゃあ、律くんはわたしに──死ねって、いうの?」

「そうだよ」
透花の頬を温かな掌が包む。揺らぎのない青が、佇んでいた。その青は、雨上がりの空のようにどこまでも澄んでいる。だというのに、透花の頬に冷たい雫が降りかかって止まない。
「死んで。俺のために、死んで」
透花は、その雨に溺れて、呼吸すら儘ならない。
「全部俺のせいにして、いいよ。ひとりが怖いなら、俺も一緒に死んであげる。透花が描き終わる、その時に」
これは、呪いの言葉だ。一生沁みついてとれない呪いの言葉。
「だから、終わりになんてしないで」
傲慢で、身勝手で、自己犠牲に塗れた、最低で、最悪な、愛の告白だ。
「……、馬鹿みたい」
「馬鹿でいいよ」
透花は、手を伸ばす。それは、片翼の折れた天使が二度と戻れない夜空を求めるように、伸ばさずにはいられなかった。指の腹で彼から零れる雨の雫を掬うと、澄んだ青が柔く細められ、また雨を降らせるのだ。
「わたしにそこまでの価値は、ないよ」
「俺にとっては、そこまでの価値があるよ」
「そばにいてくれる?」
「いるよ」
「うん……なら、もう、それだけでいいや。わたしのために死なないで」
「うん」
「…………悔しいなぁ」
「何が」
「わたしも律くんみたいにちゃんと、伝えれば、よかったっ……」
きっと、透花が探し求めていた答えは、案外単純だった。
たった一つの言葉で救われる世界は、ちゃんとあったのだ。


ドアの向こう側に立っていたのは、一人の少女だった。
肩まで伸びた栗色の髪が微かに揺れて、彼女はドアの方へと振り返る。いつも通り、明るい彼女らしい溌溂とした笑みをたたえて。
「随分遅かったね、纏。今日の打ち合わせは、18時からじゃなかったっけ?」
「……佐都子」
ドアの前で立ち尽くしていた纏は、彼女の名前を呼ぶ。
その呼び声に瞬きをすれば見逃してしまうほどの一瞬、佐都子は瞠目した。しかし、彼女の表情が崩れたのはその一瞬だけで、次に瞬きをしたときはさらに笑みを深めた彼女がそこにいた。まるで、この状況になることをずっと前から待ち望んでいたかのように。
「佐都子」
「んー?」
「なんで、『盗作』した」
静寂の間の後、返ってきたのは、あまりに乾ききった嘲笑だった。
「あは、どうして? あははは……ふふ、どうしてってさぁ、そんなの決まってるじゃん」
「……」
「二度と、透花が創作をしないようにするためだよ」
纏は、期待していた。纏が考えうる最悪のシナリオにならないことを、彼女から答えを得るその瞬間まで期待していた。そしてそれは、あまりにあっさりと呆気なく砕け散ることになったのだった。
「あは、どうしてそんな傷ついたような顔をするの? 本当は、分かってた癖に」
何も言い返すことができない纏は、只黙って血が滲むほど拳を握りしめた。
緩やかにダンスでも踊るような軽い足取りで、纏に近づく足音がした。俯く纏の視界に、纏と同じほどサイズの足が向き合った。腰を屈めた彼女の髪が纏の頬に触れる。
「纏は本当に優しいよね。でもその優しさは、正しくなかった」
一ミリも慰めの感情など籠っていない動作で、佐都子は纏の左肩を叩く。
「だから、全部、手遅れになっちゃったね」
「……まだ、間に合うよ」
佐都子は薄く笑うだけだった。
とどのつまり、本当に簡単な話だった。
透花が『青以上、春未満』で本当の土壇場で修正したのは、ロゴだけではなく、瞳に映る律の母親の横顔のシルエットも付け加えていたのだ。公開したMVには、そのシルエットが付け加えられていた。そのことを知っているのは、透花だけ。
だから、分かってしまった。
闇の正義ちゃんだなんてふざけた名前でトレパクの検証画像を上げた人物は、シルエットのない画像を添付してしまった、透花と、纏と、佐都子だけしかもっていないデータを。
そこまでくれば、もう、後の祭りだ。
「ふふ、あは、あはははっ、せいかーい! 正解した纏には拍手を送りまーす!」
ぱちぱち、乾いた拍手の音が、『アリスの家』の一室に響き渡る。感情が表に出ないよう語り紡いだ唇を噛み締めて睨みつけると、佐都子は怖い怖い、と肩を竦めた。
「纏には理解できないだろうね。理解できなくて、当然」
だって、と佐都子は付け加えた。
「置いてかれる人間の気持ちなんて、分かんないでしょ?」

初めて、透花に出会ったのは、小学1年の夏のことだった。
近所にあった絵画教室『アリスの家』で夏休み限定の特別教室が開催され、たまたま参加した数人の生徒の中にいたのが、笹原透花だった。兄の背中に隠れて恥ずかしそうに顔を伏せる少女は、特段目立ったものもない物静かな子だと、佐都子は思った。
彼女と仲良くなるきっかけは、すごく単純だった。
「あっ、それって、もちぐま?」
「……え?」
小さな体には不釣り合いなスケッチブックと、ペンケースを抱えた透花に思わず声をかけてしまった。だって、ペンケースにつけていたストラップは、当時あんまり人気のなかった動物アニメに出てくるもちもちのくま、通称もちぐまのストラップだったからだ。
「私ももってる! ほら、これ!」
透花の青色のもちぐまと色違いの、赤色のもちぐまを付けたペンケースを佐都子は見せる。
「もちぐま好き?」
「……え、あ……うん」
小さく頷く透花の手を、自然と佐都子は握りしめていた。
「私、佐都子。緒方佐都子っていうの。あなたは?」
「……透花、笹原透花」
「透花! きれいな名前だね。仲よくしようよ、もちぐま仲間として!」
その日から佐都子は、透花と友達になったのだ。
透花は、周りの子みたいに元気に外でドッジボールとか、縄跳びとかするような子ではなく、教室の端で一人、読書したり絵を描いたりするような子だった。ひとたび集中すると、周りの雑音なんて一切耳に入らないのか、一心不乱に鉛筆を走らせるのだ。
佐都子は、その隣に座りながら、同じように鉛筆を走らせる静かな時間が、好きだった。
彼女の鉛筆と紙が擦れる僅かな音、少し思案するように眺める横顔。たまに消しゴムを落として拾ってあげると、透花はへらりと柔らかく笑うのだ。
ただ、それだけでよかった。
それだけで、よかった、はずだった。

「わあ、すごい! 透花ちゃんまたコンクール一位?」
「この前も一位とってたよね?」
「やっぱり才能だね」
「透花ちゃんのお兄ちゃんもすごい絵が上手なんだよね?」
「佐都子も二位じゃんすごーい」
透花は、天才だった。佐都子と同じ時期から習い始めたにも関わらず、絵の才能を開花させるまでにそれほど時間はかからなかった。透花が上達するスピードは恐ろしく早く、いわば乾いたスポンジが水を吸う、みたいな表現が当てはまるほどに、筆を走らせるほどに目に見えて成長していった。一瞬でも油断すれば、透花は自分を突き放し、手の届かない遠くへ行ってしまうような気がして、怖かった。
だから、描いた。ただひたすら、描いた。

描いて、描いて、描いて。
「透花ちゃんまた一位とったの? すごい」
「前よりずーっと上手になってない?」
「佐都子ちゃんも二位おめでとう!」
描いて、描いて、描いて。
「透花ちゃん県で一位とったの!?」
「審査員の人のコメントで絶賛してたよね」
「佐都子ちゃんも入賞したんだよね?」
……描いて、描いて、描いて。
「透花ちゃん、全国コンクールで最優秀賞だって」
「将来は画家になるのかなぁ? 天才だよね」
「佐都子も入賞だったんでしょう? おめでとう!」
本当は、気づいていた。
気づかないふりをしていただけだ。見ないようにしていても、限界はある。数年も、隣に天才と呼ばれる人間がいれば、嫌というほど思い知らされた。
透花のような才能は、自分にはないと言う現実が、そこにはあった。
どれほど絵に時間を費やしても、きっと彼女の傍にはたどり着けないだろう。

(ねえ、透花)
いつも通り、透花は『アリスの家』の一室で、キャンバスに向かい合う。
ぴんと姿勢を正して、片手に持ったパレットの上で複雑混ぜ合わさった青を、ひたすらに塗り重ねていく。その横顔は、昔から何一つ変わらない。純粋に次に描く未来を楽しむ希望に満ちている。時折、踵を鳴らしたり、唸ってみたり。はっと何かを思いついたら、口元を緩ませる。
「──透花」
「……っ、わあ、び、びっくりしたぁ。なんだ、佐都子か」
「えへ、びっくりした?」
「もー、当たり前でしょ」
胸を撫でおろした透花の、後ろで結んだ髪が少しほどけて人房頬にかかっている。横から手を伸ばして、その髪を指でよけると、透花は擽ったそうにへらりと笑った。
「縛ってあげる」
「ん、ありがと」
透花の後ろに立ち、緩みかけていた髪のゴムをするりと外した。透花の黒髪が流れるように落ちた。彼女の艶のある髪を手櫛で整えながら、一つにしていく。安心しきったように頭を預け、鼻歌を歌う彼女のつむじを見つめながら、佐都子は、声をかける。
「透花、おめでと」
(ねえ、透花)
(知らないでしょ、私が透花の絵が大っ嫌いなの)
「……わたし、誕生日だっけ?」
「あはは、違う違う。この前投稿してたやつ、入賞してたよ」
(本当は私が、透花のこと恨んじゃうくらい、憧れてたの)
「ん、んん? そういえば、応募してたっけ」
「透花はさ……将来やっぱ、画家とか、そういうのになりたいの?」
(私が透花に死ぬほど劣等感持ってることも)
「ええ、まさか」
「じゃあ、何のために描いてるの?」
(透花の絵を見るたびに、自分の絵を破り捨てたくなってることも)
(きっと、透花は知らない。想像もつかない)
「何のため……、しいて言うなら、今描きたいから、かな」
「…………、そっか」
(私はね、透花)
(……貴方に、為りたかったよ)
もし、この中途半端な才能さえなければ、早々に自分の才能に見切りをつけることができただろう。そうしたら、こんな汚い感情を彼女に抱く必要すらなかった。
ただの親友として、いられた。

いくつもの月日が流れた。
兄の一件で透花は描くことを辞めてしまった。それから、透花が座っていた席は、もうずっと空席のままだった。それでも時間は止まらない。佐都子は、薄く色づいた桜が散っても、青々とした新緑が赤く染まっても、指の悴むような寒さが訪れても、描き続けた。
誰もいない『アリスの家』で、ひとり、黙々とキャンバスに向かい合う。
「佐都子、一位じゃん! すごーい!」
「わー、さすが上手」
「ずっと描いてたもんね」
「よかったね、佐都子ちゃん」
あれほど焦がれ望んだ彼女と同じものは、いざ手にすると案外、呆気なかった。
ようやく満たされると思っていた心の空白は、しかし、底に穴の開いたバケツみたいにどれほど水を注いでも、傍から漏れ出して、ただ自分の足元を濡らすだけだった。それが、より自分を惨めにする。どれほど時間をかけて、より精巧で緻密で繊細な、誰もが息を吞むような絵を描いても、何一つ満たされなかった。
(……私は、)
嗅ぎ慣れたインクのにおい。ペインティングナイフとキャンバスの布が擦れる音。無造作に散らばった絵具と筆。数センチ開いた窓の隙間から、時折、暖かな風が運ばれてくる。
佐都子は、頭の中で描いた軌跡をたどるように筆を走らせる。だというのに、指先の微小な震えによって、それはたちまち雑多な線へとなり替わる。
描き直しても、描き直しても、描き直しても、頭の中で描く正解に辿り着けない。
(違う、)
心に開いた空白みたいな黒さが、キャンバスを汚していく。
(違う、違う、違う、)
永遠に満たされることのない焦燥感だけが、募っていく。
(もっと、鮮やかだった。もっと、心に訴えかけてきた。もっと、寂しげだった。もっと、忘れられない特別があった)
(何もかも、足りない)
は、と息を吐き出して、力を失った腕は地面に向かって落下する。
(やっぱり、私は、透花に為れない)

からん、と乾いた音が響く。手にしていたはずの筆が、床に転がっていた。ふと、横から聴こえてくるのは在りもしない戯言だ。けれど、佐都子が伸ばすよりも先にその筆に触れた白い手は、紛れもなく、彼女のものだった。
『もー佐都子、ほら。落としたよ?』
佐都子は、気が付けば横を振り返っていた。一瞬見えたはずの幻影は、ひとたび瞼を閉じれば夢のように霧散していた。
そこにあったのは、佐都子と同じように取り残されてしまった椅子とキャンバスだけだ。
「……あ、は……はは、っは、」
戯れに笑ってみるけれど、声は震えていた。一度視界が滲んでしまえば、後はもう、止めようがなかった。口を押えて幾らか声を押し殺してみるが、指の隙間から漏れ出るそれは憎たらしいほど、部屋に響いた。
永遠に時計の針が進むことのない部屋の隅で、佐都子はただ涙を流す。
そう、ここは、誰からも忘れられた場所。二度と、あの穏やかで、幸せな時間はやってこない。透花にとって、ここは『特別』では無くなってしまった。煩わしい忘れ去りたい過去の記憶となった。
透花はここへは帰ってこない。
幾ら待ち続けていようとも、あのドアが開かれることはないだろう。
佐都子の僅かな期待は、飴細工なんかよりも簡単に砕け散って溶けて消えていく。
もはや佐都子は、自分自身の心を理解できなかった。この繊細で、意味不明で、複雑怪奇な感情を表す言葉がどこにも見当たらなかった。息苦しくて、悔しくて、寂しくて、痛くて、心の底から憎らしいのに──この世界の誰よりも、その影に焦がれている。おそらく、世界中のどの言語でも表せない感情が佐都子の腹の中を渦巻いていた。
ただ、一つだけ確かな感情が、あった。確かに、存在していた。
(ねえ、透花)
呼ぶ。生まれてから、何度も心の中で呼んだ名前を、吐露する。
(私、本当は……、透花の絵が誰よりも、好きだった、の)

「透花から新曲のタイトル聞かされた時、私は思ったよ」
軽く笑って佐都子は振り返る。
「私はまた、置いて行かれる、ってね」
佐都子の前に立つ、心優しき少年は、何も言わず目を伏せた。
「過去と向き合って覚悟を決めた透花は、今よりもっともっと上手くなる。凡人の私なんか置いて、遠くへ行っちゃうんだ。……私には、それが、耐え切れなかった」
「今からでもいい、透花に謝って、それで……!」
「それは無理な話だよ。だって、悪いことしたら、ちゃんと報いを受けなきゃ。そうしないと、釣り合いが取れない」
佐都子は、自分のポケットに手を入れ、『それ』を取り出した。
最初から、結末は決めていた。『闇の正義ちゃん』だなんてふざけたアカウントで、透花を貶める計画を実行に移したその時から。己の身勝手さで彼女から『創作』を奪うのなら、それ相応の対価を支払うべきだろう、例えば彼女と同じものとか。それがせめてもの償いだった。
「……なんだよ、それ」
佐都子は、『それ』からキャップを外した。床に落下したキャップがからからと空虚な音を立てて足元に転がる。利き手をテーブルに押し付けた。薄暗い月明りが差し込む一室で、『それ』の刃先は背筋が凍るほど不気味に、そして鈍く光る。
その暗闇の中ですら、纏の顔が一瞬にして蒼褪めたのが、一目で分かった。纏は佐都子に向かって手を伸ばそうとするが、体中が強張って上手く動かせない。
「何してんだ」
「……こんな下らない茶番劇は、もうおしまい」
「っ、佐都子!」
「これで、痛み分けだね」
自らの利き手に向かって、佐都子は躊躇なくナイフを振り下ろす。弾かれた様に佐都子へ手を伸ばす纏の怒号も、全身の血が沸き立つほど五月蠅く動いていた心臓も、すべて佐都子の世界から消え失せた。一人ぼっちの世界で、佐都子はもう手遅れになった、今この現実を嘆く。
(あーあ。こうなるくらいなら、ちゃんと、言えばよかった)
今更、後悔するにはもう何もかも手遅れだけど、と佐都子は下らない前置きをして、想う。
(ねえ、透花。私は、)
その刃先がついに薄い皮膚を食い破ろうとした、その時だった。

「佐都子ッ!」
その声は、佐都子しかいないはずの世界の中で、確かに聴こえた。
夢幻かはたまた神の悪戯か。今、目の前にある現実を佐都子は到底受け止めきれなかった。
その手に到達する直前で止められたペナントナイフ。脂汗の滲んだ額から、一粒の雫が手の平に落ちた。引き寄せられるように、佐都子は声のする方へと振り返る。
「……な、んで?」
佐都子の視線の先に、透花は立っていた。
乱雑にまき散らされた黒髪と、白い肌に浮き上がるほど赤くなった頬と、どこまでも透き通った淀みのない深い青の瞳、手にしたスマホを耳に当てたまま、肩が大きく上下するほど荒い呼吸を繰り返しながら、それでも透花は佐都子を見ていた。
一瞬にして、その場は静寂に包まれた。
それを破ったのは、がしゃん、と透花の手からすり抜けたスマホが床に落ちる音だ。透花はそれをつま先で蹴っ飛ばしたことにすら構わず、佐都子の目の前まで一直線に迫り来る。
そして、透花の細い左手が、一切の迷いなく刃先を握りしめた。
「離して!!」
これほどまでに透花の激昂した姿を見るのは、初めだった。
咄嗟の抵抗のせいか、刃先を握りしめた透花の手から赤い鮮血がぽたり、と佐都子の手の平に落ちる。その血を目にした途端、佐都子の全身から力が抜けた。
つかさず、そのナイフを抜き取った透花が乱暴に投げ捨てる。からん、と空しく音が鳴っった。
「……とうか」
およそ声とも呼べない唸り声のようなものが、佐都子の口から滑り落ちる。
その呼び声に透花はぐしゃりと顔を歪めた。それが裏切り者への憤怒だったのか、それとも悲痛によるものだったのか、佐都子にはてんで分からなかった。
気付いた時には、息が詰まるほど襟首を掴まれていた。透花が、右腕を大きく振りかぶった一瞬、彼女の瞳から零れる星屑みたいな輝きだけは、脳裏に焼き付いて離れなかった。あとは、たぶん、ぐーだったな、ってことだけ。
骨と骨がぶつかる様な鈍い音とともに、その衝撃によって佐都子の身体は大きく傾く。

次に瞼を開けたとき、目の前にあるのは殺風景な天井だった。
殴られた右頬が熱湯でもかけられたみたいに、じん、と痛みが広がっていく。視線を下げると、自分の胸元に顔を埋め小さく肩を震わせる透花の姿があった。佐都子はそれをどこか他人事のように見る。彼女に握られた胸元に赤黒い染みが付いていることに気付く。間違いなく、ナイフを握りしめたときの傷だった。
(……分からない)
理解不能。脳内にはエラー表示が幾重にも表示されている。いくら思考に心血注いでも佐都子には、この状況を理解できなかった。
「っ、こんなのは、痛み分けなんかじゃない!!」
息を詰まらせながら、表を上げた彼女から佐都子は目を奪われる。
「ただの一方的で、身勝手で、傲慢な自己満足でしかない!」
ひとつ、ふたつ、と彼女の青から落っこちた透明な雫が、小雨みたいにぽたぽたと佐都子の頬に降りかかった。
「許される気もない癖に、償うとか、そんな綺麗事言わないでよ……!」
言葉の最後は、しゃくりあげたせいか、ほとんど原型は留めていなかった。
「言っとくけど、こんなやり方をわたしは絶対に許さないっ、許さないから! こんなことするくらいならちゃんと話そうよ、わたしの気持ち勝手に決めつけるくらいなら、そのほうが何十倍も、何百倍もいい! だって! だって、わたしたち、親友でしょう!?」
彼女から紡ぎ出されるものは、絵も、色も、言葉も、綺麗で、透明で、穢れなんてひとつもない。
いつだってそうだった。いつも。いつも、いつも! 
彼女は創作に愛されていた。愛されていることに気付かないほどに。だから、彼女は簡単に捨ててしまえたのだ。その価値を知らないから。
佐都子は、歯を食いしばって震える唇を開く。襟首を掴む腕ごと強く握りしめて、佐都子は叫ぶ。
「私は今まで一度だって、透花を親友だと思ったことなんてない!」
刹那。言ってしまった、と佐都子は大きく目を見開いたまま絶句する透花の表情を見て思う。
一度吐いた言葉が二度と戻せないことを知っていながら、佐都子は止めることをしなかった。腹に巣食う黒い泥が思考よりも早くせりあがって、止められなくなっていた。
「透花なんか大っ嫌いだった!!」
(なんで、)
「最初っから目障りだった!! 透花の描く創作がこの世界で一番大っ嫌いだった! 知らないでしょ、私が透花に劣等感持ってることも、死ぬほど嫉妬してるとこも! 気付くわけがない。だって、透花は恵まれてるから! 恵まれた人間に、私の気持ちなんか分かりっこない! 努力しても、どんだけ時間を使っても、結局才能には勝てないって思い知らされる惨めさがアンタに分かるか!?」
(なんで、なんでよ!)
「……嫌い。嫌い、嫌い、嫌い、大ッッ嫌い!!」
(なんで私は───透花に為れないの)

佐都子の荒い息遣いが、静まり返った部屋の中で鮮明に聴こえる。
滲んだ輪郭の曖昧な視界で、佐都子はゆっくりと瞼を瞑る。目じりの淵から、涙が零れた。
これ以上は駄目だ、と引き留めようとする良心と、それに相反する感情がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、吐き気がする。
もうこんな壊れた世界なら、いっそすべて終わてしまえ、とさえ思った。
「……透花は、ずるいよ」
彼女からの返事はない。それでも構わず佐都子は続ける。
「私に無いもの全部持ってるのに。私がいくら努力しても手に入らない才能があるのに! ちょっと誹謗中傷されたくらいで、どうして、そんなにあっさり捨てられるの? だったら、頂戴よ。透花が要らないなら、少しでもいいから私に頂戴! ねえ、お願いだから、」
これ以上、私を惨めにさせないで、と紡ぐ言葉は空気の塊みたいに喉に痞えて、声に出すことは出来なかった。
さあ、気の赴くまま、罵声を浴びせてくれ。何なら殴ったって構わない。すべてを受け入れる覚悟は、最初から出来ていた。
掴んだ腕が僅かに動く。彼女の息遣いが聞こえて、佐都子はいよいよかと、耳を澄ませた。
「わたしだって、佐都子に嫉妬するよ」
「…………ぇ?」
言葉の意味が理解できないまま、佐都子は思わず、逸らしていた顔を正面に向ける。
「佐都子は、わたしのことまるで神様みたいに思ってるのかもしれないけど、そんなことない。わたしだって人並みに嫉妬するし、何なら佐都子が羨ましいって思うこと、今まで何度もあったよ」
「嘘だ!」
「嘘じゃないよ。……覚えてない? わたしが、佐都子を『ITSUKA』に誘った日のこと」
忘れるわけがないだろう、と佐都子は唇を噛み締める。自分の3年間をすべて否定された日だ。しかし、それ以外に佐都子の記憶には何一つ残っていない。佐都子には思い当たる節がないことが分かると、透花はふっと軽く笑って続ける。
「佐都子に協力してもらっても、やっぱり間に合わないってなった時、佐都子、言ったじゃん。じゃあ、サビ前までモノクロにして、サビでフルカラーにしたらエモくなるって。あの言葉聞いて、わたし、すごいって思ったよ。それと同じくらい、嫉妬した」
「そんなのは、」
「取るに足らないことだって? そんなことない。佐都子はさ、自分のこと見えてなさすぎだよ。佐都子には、わたしに無いものたくさんある。描き上げるスピードも、妥協できる切り替えの早さも冷静さも、それでいて間違いないものを描くところも。全部、わたしに無いものだよ」
心臓の裏側がざわついて、佐都子は呼吸すら儘らならない。
「よく言ってるじゃん、纏くんも。完成できなきゃ意味がない、って」
透花はへにゃりと、締まりのない笑みにぽろぽろと涙をこぼすちぐはぐな表情で、言った。
「わたしきっと、佐都子が『ITSUKA』にいてくれなかったら、締め切りも全部破ってただろうし、結局中途半端なものしかできなかったと思う。だからね、わたしは、これからも佐都子が必要。だって、わたしにはなくて、佐都子にはあるもの、いっぱいあるから。それに、佐都子がいないと、寂しいよ」
馬鹿だ、と佐都子は思う。こんな最低な人間を信じようとする、透花も。たった、それだけの言葉で全てが救われた、自分自身も。
佐都子の両手を包み込むように、透花は手を握りしめ、神に祈るように言った。
「だから、わたしともう一度『創作』しませんか?」
返事は、もう、決まっていた。
佐都子は嗚咽交じりのしゃがれたひどい声で、小さく、うん、と頷いた。
その瞬間、透花は両手でもって佐都子の身体を抱きしめた。嗅ぎ慣れた透花の優しい香りがして、佐都子の視界はさらに滲む。その腕に答えるように佐都子は背中に回した腕に力を込めた。
瞼の裏側に映る光景は、孤独な自分の姿だ。埃かぶった椅子と、キャンパスを眺めて、ドアを開けてくれる日を待ちわびる後姿だ。
「私、本当は、ずっとっ……ずっと、待ってた。あの日から、」
「うん」
「透花が『アリスの家』に来なくなってから、ずっと待ってた」
「遅れて、ごめんね」
透花は、佐都子の耳元で小さく、ただいま、と呟いた。
だから、佐都子も返す。ずっと、言いたくて言えなかった言葉を。
───おかえり、と。


無色@musyoku_125 
皆様にご報告があります。
この度の『ITSUKA』の盗作騒動はすべて、私が自作自演で行ったものです。
私は、『ITSUKA』のMVを製作するメンバーの一人です。『闇の正義ちゃん』『ミヤ』などのアカウントはすべて、私の自作自演で使用したものです。この件に関して───

ITSUKA@ituka_official
この度は、視聴者の皆様に多大なるご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。
なお、この件に関しまして、皆様からのご批判があることは当然のものだと受け止めております。今後、皆様の───
【無色 さんのツイートを引用しました。】


最後に、一つご報告いたします。
12月31日 24時に新曲、『創作』をリリースします。


「ああああーーーーー!! やばいやばい終わんない!!」
「うるッせえ弱音を吐くな! その前に手を動かせ!!」
「このまま間に合わなかったらどうしようーーーーーー!!?? ううう……うえっ、」
「そこォ!! 泣いてる暇があるならさっさと描け! 死ぬ気で描け! あと何カット残ってると思ってんだ!! 馬鹿垂れが!」
「……あはは……せっかくの年末に何してんだろうね、私たち……」
「や、やめて~~佐都子ぉ! 正気に戻ったらお終いだよ……!」
「私……この戦いが終わったら結婚すんだ」
「変なフラグ立てんな。僕がいる前でやっぱ出来ませんでしたは絶対に許さないから!」
「纏くんの鬼ぃぃいい」

大晦日、誰もが次にやってくる新しい年に胸弾ませざるを得ない、めでたい日に、『アリスの家』には阿鼻叫喚の地獄が再来していた。
誰も聴いてくれないかもしれない。心無い言葉を浴びせる人も、いるだろう。
それでも、透花たちは今できる精一杯の『創作』を描き上げる。
時には、嫉妬し、苦しみ、辛くなるし、その癖、不完全で、曖昧で、脆くて、ややこしい。
それでも、『創作』を愛さずにはいられないから。
だから、描き続けるのだ。

透花の目が覚めたのは、まだ朝日の昇らない薄暗い時間だった。
「おーーい、お前ら。起きろー」
がさつな呼びかけが、睡眠を妨げたのである。
透花はあまりの寒さに体をぶるぶる震わせながら、家から持ってきた寝袋から顔をひょこりと出してその声の主を確認する。すると、厚手のコートとマフラーに身を包んだ律が、それに気づいて小さく笑った。
「おはよ、透花」
「……律くん、だ」
「わはは、声ガサガサだ。昨日、修羅場だったんだよね? お疲れ様」
乱れた髪をぽん、と律の温かな手が乗っかる。その途端、透花はこの女子力のかけらもない姿が恥ずかしくなって、また顔を寝袋に埋めた。
その間に、物音に気が付いたらしい佐都子と、纏がもぞもぞと動く音がする。纏の不機嫌そうな低い声がする。
「何?」
「ああ~? 忘れたのか? 無事に投稿出来たら、みんなで初日の出見に行こうって、纏が言い出したんだろうが。外でにちかも待ってるよ。ほら、行くぞ~! もうすぐ時間になるから」
わざわざ迎えに来てくれた律に押されるように、徹夜組3人は眠たい目を擦りながら、にちかが用意してくれた缶コーヒーを手に少し急な坂を上る。
辿りついたのは、透花たちが住む町を一望できる高台だ。どうやら透花たち以外には、人気がないようだった。高台の崖に掛けられた手すりの前に立った透花たちは、それぞれに地平線を眺めた。
やがて、太陽は上り始める。目に染みるような燃える赤い火の光が、町中に朝を知らせる。
寒さすら忘れて、透花はその光景に釘付けになった。昨日まではまだ湧いてこなかった達成感と、安堵がじんわりの心の中に広がっていく。
「ねえ、透花」
「ん?」
すぐ隣に立っていた纏が、ふと、透花を呼ぶ。
「僕、ずっと透花のこと守んなきゃって、思ってた。夕爾みたいに、壊れないように守んなきゃって。透花は弱いって、決めつけてた。それを今日、訂正するよ。ごめん」
「纏くん、」
「あっ。それともう一個、前もって謝んないといけないことあるんだった」
「へ?」
そうして、にっと、年相応の悪戯っぽい笑みを浮かべて纏は笑う。
「『創作』のURL、夕爾に送ったから」
「───な、」
絶句したまま固まる透花を他所に、纏は颯爽と走り出す。そして透花が追いつけないほどの距離ができてから、纏は振り返って、両手を口に当てて大きな声を上げる。
「折角、僕が背中押してやったんだ。後は自分で頑張れよ、透花!」
余計なお世話だ、と文句を垂れる暇すら与えないところが、纏らしい。
残された透花は、ポケットに入れていたスマホを取り出した。アプリを起動させ、表示させたアカウント名は『お兄ちゃん』だ。文字を入力しようと、入力画面を親指でタップしてみるものの、何も思い浮かばずに右往左往するだけだった。
こんな朝早くに連絡したところで、迷惑かもしれない。やっぱり、今日は止めようと、スマホを閉じようとしたその時だった。

───ぴこん、と音が鳴った。
表示されたメッセージを目にした瞬間、透花は思わずスマホを落としそうになって、間一髪でスマホを掴む。そして、もう一度透花はその画面を凝視した。
そこに書いてあったのは、本当に、笑えるくらい、短いメッセージだった。

『MV見たよ』
『昔よりずっと、上手くなったな』

気が付いたら、スマホに水滴が落ちていた。おかしいな、と透花はスマホの画面を服の袖で拭うが、すぐにまた水滴がぽたぽたと流れる。それでも、透花は唇を噛み締めながら何度も拭った。
頭上に広がる空は、雲一つなくどこまでも澄み渡っている。けれど、これはきっと雨のせいだ。
「透花―! 今からお雑煮食べに行くって!」
遠くの方で、透花を呼びかける声に振り返る。佐都子たちが集まって、こちら側に大きく手を振っている。
「今行く!」
走り出した透花の瞳から零れ落ちたそれは、流れ星のように煌めいて、跡形もなく消えていった。