音楽が嫌いだ。 
感傷に浸らせるような音楽が嫌いだ。前向きにさせる音楽が嫌いだ。傷ついた心に寄り添う音楽も、明日の未来を綴る音楽も、夢を描く音楽も大っ嫌いだ。ラブソングなんて聴いただけで吐き気がする。
ああ。この世界が──音楽のない世界だったら、良かったのに。
鼓膜の奥すら震わせるほどの喝采が鳴り響く。燃えるような夕焼けがスポットライトの光のように照らしている。集まる視線、視線、視線、見渡す限り歓喜に満ちて煌々と輝いている。額から流れ落ちる汗と、張り付いたTシャツと、砂埃の匂い。それらすべてが、瞬きすら忘れさせる。大きく穴が開いたはずだった、喪失感をすべて塗り替えるような快感が一本の芯のように全身を駆け抜ける。
ああ。
心の底から、気持ち悪い。


さて。
あの怒涛のような1か月が終わり、MV賞の結果はというと残念ながら30万の獲得には至らなかった。それについては纏がとてつもなく不満な顔をしていたけれど、応募したことによる反響は大きかった。
動画サイトが開催していたコンテストなだけあって、その日から『青以上、春未満』の動画再生数は飛躍的に伸びた。1週間で18万回再生止まりだったが、1時間で1万回以上再生され、SNSのフォロワーも徐々に増えていく。そう。纏の思惑通り宣伝として、これ以上にないほど結果が出たのだ。

そして、MV賞の結果発表から2日後、夜半に事件は起きた。
長めのお風呂に浸かって、血色いい顔つきでぬれた髪の毛をタオルで丁寧に拭き、ドライヤーで乾かし終わった透花は、食卓に置いていたスマホを確認してぎょっと目を張った。
通知が1000件以上、スマホのロック画面に表示されていた。
何事かとスマホを手に取ってロックを解除しようとした矢先、電話が掛かってきた。相手は佐都子である。
「もしも、」
『透花!! 今すぐITSUKAの動画見て!!』
電話口からの爆発音に透花は、条件反射でスマホを耳から離した。
「……な、なに? 動画?」
『動画!! いますぐ!!』
容量の得ない佐都子の言葉に、いくつもの疑問は一先ず飲み込み、言われた通り動画サイトにアクセスし、『ITSUKA』のチャンネルを表示させた。
「……え?」
スマホをスクロールしていた指先を止め、透花は目を擦った。そしてよく目を凝らしてもう一度スマホ画面を凝視する。
昨晩まで、『青以上、春未満』のMV再生回数は確か37万回再生ほどだった。
ひょっとすると、単位を間違えたのかもしれない。透花は指先を順に辿りながら、一つずつ数える。
「……いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、…………」
100万回。
確かに、そこに表示された数字はそう、表示されていた。
呆然とスマホを見つめていると、電話口が佐都子が声を荒らげた。
『今、SNSでITSUKAの曲がめちゃくちゃバズってんの!!』
「……え?」


『mel』は、日本の動画生配信やカバーした歌動画投稿などを主軸に活動する歌い手。
本名、年齢、性別はすべて非公開。顔出しは一切行わず、現在『mel』に素顔に関する情報はインターネット上には回っていない。10代の中高生からの支持が高く、今後の活動が期待されている歌い手の一人である。
それが、纏の口から伝えられた『mel』に関する情報の全容である。
「きっかけは、数日前に『mel』の歌の生配信で『青以上、春未満』をカバーしたこと。基本的に配信した動画はログとして残されてて、視聴者がSNSとかに切り抜いて上げてもいいことになってんの。で、『mel』の視聴者がその部分をSNSに上げた。それが徐々に反響を呼んで──」
「連鎖的に『青以上、春未満』がバズった……ってことか」
「そういうこと」
テーブルに置かれた纏のスマホから、女性か男性かも判断がつかない中性的でいて、力強く、芯のある歌声が聞こえてくる。歌い手に関して全く知識の乏しい透花ですら、一度聴いただけで惹かれるものがある、忘れられない歌声だった。

あの夜から一夜明け、『アリスの家』で緊急会議が開かれた。議題はもちろん、SNSで『ITSUKA』の曲が大々的に盛り上がりを見せていることである。一夜明け、SNSのトレンドに『青以上、春未満』が入り、さらにその熱は加速していた。現在動画の再生回数は、150万回再生。この勢いがあれば200万回再生も一日あれば達成してしまいそうだ。驚異的な数字を前に透花たちは喜びを通り越して、恐怖すら感じていた。もちろん、ただ一人を除いて。
「今日お前らを呼んだのは、実はその報告だけじゃない」
その言葉に一様にスマホから顔を上げ、纏を見た。すでに一晩に起こった事柄でお腹がいっぱいになっていた佐都子が透花たちの気持ちを代表し発言する。
「これ以上に重大なニュースある?」
「あるよ。お前らが吃驚するような超ド級のニュースがね」
にやりと狡猾な笑みを浮かべて、纏は爆弾を投下した。
「『mel』と『ITSUKA』でコラボする」
沈黙、3秒後。
纏を除く3人が思わず立ち上がり大絶叫した声は、隣近所まで響いたとかなんとか。

「昨日の夜に『mel』の方から、今度参加するライブイベントで『ITSUKA』の曲を歌わせてほしいって、SNSのDMで連絡きたんだ」
纏がスマホを置く。透花たちが一斉にスマホを覗き込むと、そこに表示された画面には、確かに『mel』からメッセージが送られていた。なんとも手回しのいい奴だ、と驚きを通りこして感心しつつ、律は問うた。
「ライブイベントって?」
「毎年10月末に開催されてる大型野外フェス。来場者数5千人! ここ最近はネットで知名度上げてきた歌い手も出場してる。『mel』はそこで初顔だし、初生歌披露するって前々からファンの間で噂になってた」
「まさか、そこで『青以上、春未満』を歌うってこと?」
透花の言葉を笑い飛ばすように纏は目を細めた。
「透花は僕がそれだけで満足すると思う? 言ったでしょ、コラボするって」
「どういうこと?」
「条件出したの。ライブでの楽曲を使用許可する代わりに、『ITSUKA』の新曲にボーカルとして参加してほしいってね! そんで、ライブ後すぐに新曲を動画サイトで投稿すれば話題になること間違いなし! あっはっはっは、これで知名度が更に上がれば広告収入で金も入って一石二鳥でしょ!」
完全に置いてけぼりを食らう透花の肩を纏はぽん、と叩いた。そして、舌をぺろりと出しながら親指を突き立てた。
「ちなみに全部決定事項だから、そこんとこよろしく」
──地獄再来、である。

某ファミレス。時刻、14時58分。
透花たちはただ目を見開いて、呆然とその人物を見上げていた。
「はっじめまして! あたしが『mel』こと芦屋にちかでーす!」
ピンクである。正確に言えば、ピンクベージュアッシュに染め上げられている。耳には少なくとも4つ以上の穴が開いていた。セーラー服のスカート丈は膝より30センチは上。カラコン入りの大きな瞳をぐるりと縁取った睫毛が瞬きするごとに震える。
『mel』こと芦屋にちかは、まごうことなきギャルだった。

「いやー超絶びっくりだわ。たまたまキャスで歌ってた曲がバズってしかも、その曲作った人たちが実はあたしとおんなじ高校生でしかもあたしの高校に通ってる後輩もいるなんて!」
そう。にちかが来ているセーラー服と同じものを、今まさに透花が着ているのだ。偶然にも程がある。にちかの陽すぎるオーラに当てられて、呆気にとられる透花たちを見かねてか、こほん、と纏の咳払いをする。
「とりあえず、自己紹介してもいいですか?」
「あは、ごめんごめん! よろしく」
「僕は有栖川纏。『ITSUKA』の動画編集兼プロデューサーみたいなことしてる。こっちが音楽製作担当の雨宮律ことクソ律。で、目の前に座ってるのがMV製作担当の笹原透花と、背景担当の緒方、」
「あなたがあの、神絵師!?」
「ひえっ」
にちかが突然立ち上がり、透花の両手を包み込んだ。近距離に迫るにちかの迫力ある顔立ちに、透花の口から情けない悲鳴が漏れる。
「まじ!? あの超超超絶神懸ってたイラスト!! あなたが描いたの!? 構図構成やばすぎて初見でめちゃくちゃ引き寄せられたよあたし!!!」
「あの、え、えと……」
「もうっもうっ、すっごい良かったの!! 特にあのサビ!! あそこだけで100回はリピしたもん!! 曲の盛り上がりと死ぬほどマッチしててガチ涙でたから冗談抜きで!! あーやば、語彙力足んない。今から動画再生するから、あたしのおきにポイント一から説明してもいい!?」
キャパシティーオーバーだった。顔から蒸気でも出ているかもしれない。
そんな透花のことなど目に入っていないのか、なお喋り続けるにちかに待ったをかけたのは律である。
「透花が死んじゃうから、それくらいにしてやって」
「えっ!? あ、ご、ごめんね!? つい興奮して」
にちかが慌てて握りしめた手を離す。ようやく解放された透花は、沸騰寸前になった顔を両手で覆い隠した。恥ずかしぬと思った。にちかが反省した様子で眉を下げた。
「ごめんね……あたし、夢中になると周りに目が行かなくちゃうんだ。……あっ、それにね、なんか絵柄は全然似てないんだけど、あたしが昔大好きだった漫画家さんに雰囲気? がどっか似ててさー。何だろう、絵のタッチ? 構図?」
ぴくり、と透花の手が震える。震えがストローに伝わって、氷の擦れる音が鳴る。
「漫画家?」
 律が怪訝に眉を寄せながら聞き返す。
「そう! ちょうどあたしが中学生くらいの時に、史上最年少で漫画大賞受賞した『二目メメ』っていう漫画家なんだけど! その人が描いた漫画激ヤバなんだって!」
「ふーん?」
「まあ、似てても可笑しくないんじゃない」
さも同然だとでも言いたげな纏が、つまらなさそうに付け加えた。
「だって、透花の兄貴だし」
素っ気なくつぶやいた纏に、律とにちかは振り返る。漫画に疎い律でも聞いたことのある名前だった。そんな有名な漫画家がまさか透花の兄だったなんて、全く知らかった。
「ちょっと、纏」
顔を顰めた佐都子が制すが、纏は構わずに続けた。
「別に隠すことでもないじゃん。……でしょ、透花」
「……ぇ? あ、……うん」
集まる視線を逃げるようにして、透花は曖昧に頷いた。誰にも動揺を悟られないようにと、震える吐息を噛み殺しながら。
『二目メメ』。
当時高校1年、若干16歳にして漫画大賞を受賞し、その才能を世間に知らしめた天才。笹原夕爾。透花の3つ上の兄。優しい終末を描くひと。もう、語られることのない物語の結末を知るただひとりのひと。
そして、わたしが、と透花の脳内にあの日の光景がよぎったその時だった。
「運命だよ!!」
それは、冬の凍てつく夜空にひと際光る青星のようだった。吸い寄せられるような純粋な輝きが透花の目の前にある。もう一度包み込まれた手のひらは、燃えるように熱く、透花の心を揺さぶるには十分な熱を帯びていた。
「そんなんもう運命じゃん!」
呼吸すら忘れて凝視する。
「あたし、『メメ』先生の漫画読んで救われたんだ! こんなあたしだけど、それでも生きてていいんだって、あたしはあたしでいいんだって思えたから。だからねっ、今度はあたしはあたしにしかできない方法で誰かを救いたいって、そう思ったの。だから歌う、あたしは歌でしか伝え方を知らないもの!」
心の奥底からこみ上げる、この感情の名前を透花はまだ知らない。どうしようもなく熱くて、痛くて、脆くて、その重さに押し潰されそうだった。
「初めて『ITSUKA』のMVを見たとき、これだ、って思ったの。あの絵を、あの曲を聴いて、もう一歩踏み出そうって思えた。その勇気をあたしにくれた。だからあたしは歌いたい。そう思わせてくれた『ITSUKA』の曲を!」
にちかは大きく息を吸い込んで、込められた想いをぶちまける。
「誰かを救う歌をあたしは歌いたい! 音楽で世界が救えるって証明したいの!」


その日。律は、約1年ぶりに母の曲を聴いた。
それは、儀式だった。数年もの間、心の中で燻り続けた苛立ちと失望の火種を再確認するための、儀式。自分のやっていることの正しさを証明するための、言い聞かせるための、自己暗示。
イヤホンからの音が止むと、律は重く息を吐き、手元に置かれた紙コップのコーヒーに手を伸ばす。冷え冷えとしたその感触で、律はようやく店内はすでに数人ほどしか客がいないことに気付く。
2階の窓側カウンター席からは、スクランブル交差点を行きかう人々の群れが蠢いているのがよく見えた。
──芦屋にちかの言葉が、耳の奥で何度も反芻していた。
心の穴を悪戯に抉り出して、虚無感に身体を支配されていくようだった。
もし神様ってやつがいるのなら、随分とたちが悪い。けれど、俺を弄ぶことが目的なら芦屋にちかという存在ほど適任者はいないだろう、と律は奥歯を噛み締めた。
覚悟を問われている。果たしてお前の考えは正しいのか、証明して見せろ、と。
正しいに決まっている。そうでなければ、律は振りかざした拳のもって行き場を失うことになる。一生、このどうしようもない怒りを抱え続けなければならなくなる。
だから、律は証明しなければならない。『音楽で世界を救えない』ことを。
律は立ち上がった。
それと同時に、スマホから着信音が鳴った。ディスプレイの表示は『父さん』。次から次へとタイミングの良いことだ。
「……もしもし」
『律か?』
疲れ切った声だった。久しく父と会話していないから、律はそういえばこんな声だっただろうかと、耳を傾ける。
「うん。珍しいね、父さんから電話なんて。何か用?」
『……いや、しばらく家に帰れてないからただの確認だ。変わりはないか。ちゃんと学校には行ってるか? 飯、食ってるか?』
「まあ、うん。変わりはないよ。そういう父さんこそ、ちゃんと寝てんの?」
『…………もちろんだ』
嘘だ。相変わらず、父は嘘を付くのがへたくそだ。
どうやら自分の分が悪いと察したらしい父は、すぐさま話を切り替えた。
『ハウスキーパーさんから、ずっと律の帰りが遅いって聞いたんだが。お前、夜遅くまでどこほっつき歩いてるんだ』
今度は律の痛い所をついてくる。『ITSUKA』のことは言語道断、『Midnight blue』でのアルバイトしていることも父は知らない。もちろん、叔父である和久には口止めしている。
「勉強だよ、勉強」
『なら、いいが。前も言ったが、3年になったら受験も控えてるんだ、しっかりやれよ』
「……うん」
言われなくても分かってるよ、と律は心の中だけで毒づく。
『律』
「なに?」
父は少しだけ間を置いて、念を押すように言った。
『──間違っても、母さんみたいになってくれるなよ』
それはまさしく、呪いだった。電話や話の終わりに、父が決まって言う台詞。その言葉に対する返答を律はいつも通り口にした。
「安心してよ。音楽なんて、やらないから」
息をするように、嘘を吐いた。

その後、律は自宅までの道中に本屋に寄った。
閉店30分前の店内には、律以外の客はいない。目指すのは、少年漫画のコーナーである。平台に積まれた漫画の中に『二目メメ』という名前は見つけられなかった。ここ最近だと、出版されていないのか、それとも連載されていないのか。少なくとも漫画大賞を受賞するような作品であれば、本屋ですぐ見つかると思っていた律の目測は外れた。
律と同い年のにちかが中学生のころ、と言っていた。ならば、少なくとも3、4年ほどの作品ということになる。一通り探してみたがいよいよ見つからず、律はすぐ近くで作業していた店員に聞くことにした。
「あの、すいません。『二目メメ』って作者の漫画を探しているんですが」
眼鏡をした大学生のアルバイトらしい店員は、聞きなれない作者名に一瞬首を傾げたが、思い出したように「ああ、」と声を漏らした。
「『二目メメ』さんの作品ですね~。たぶん、3年くらい前に出版されたやつなんで店頭にはもう置いてないかも。取り寄せできるか確認しましょうか?」
「お願いします」
「分かりました。注文用紙の記入がありますんで、あちらで確認とりますね~」
店員に促されるまま、会計カウンター横に移動する。記入用紙を準備しながら、店員が気軽に話しかけてきた。
「僕も昔『二目メメ』さんの作品読んでて~、久々に名前聞きました。あっ、そういえば一個確認なんスけど」
「何ですか?」
「これ未完の作品なんですけど、全巻お取り寄せで大丈夫ですか?」
「……え」
何故だか心がざわついていた。こういう時の予感は、大体当たる。
「連載中ってことですか?」
その問いに、店員は気まずそうに頬を掻き苦笑した。
「あー……、打ち切りで。いい作品だったんですけど、残念ですよね」

ありがとうございました、という間延びした声を背に律は本屋を後にした。
外は肌寒いというのに、律の背中には嫌な汗が伝っている。手渡された注文用紙の控えを、無意識のうちに握りしめていた。くしゃくしゃになった紙を広げ、取り出したスマホで検索する。
打ち込んだ文字はもちろん、『二目メメ』。
そして、律はそこに映し出された文字を見て、後悔することになる。
検索候補の一番目にはこう、表示されていた。
『二目メメ 盗作』、と。


『mel』こと芦屋にちかとの打ち合わせから、2週間。
学校生活と創作活動を並行しながら、各々が『ITSUKA』の新曲作りに励んでいた。
今回の製作期間はは約2か月ほど。
『青以上、春未満』の時よりはるかに時間はあるが、前回はショートMVの完成で1か月だった。今回はフル尺でのMV製作となるため、実際のところそれほど悠長に構えているわけにはいかないのだが。
纏は、今目の前にある現実を前にしていっそ、卒倒したくなっていた。
「だから言ってんじゃん! ここは絶対こっちのがいいって!! こっちのが感情が乗り易いでしょ!」
「は? 何言ってんの? 文句あんの? それを言うならお前が変えたこの歌詞を変えた方がよっぽどいいと思うけど?」
「だ! か! ら! それじゃあ、子音になっちゃうじゃん! 何回説明したらわかるわけ?」
「それで歌詞の言い回しに違和感でてんの、本末転倒すぎて笑えるわ」
「喧嘩売ってんの!?」
「あ? だったらどうすんの?」
止まらない罵詈雑言の嵐が纏の目の前で勃発していた。
お互いに野生動物のように唸りあった後、大きく机を叩き、纏を張り倒さん勢いで律とにちかが眼前に迫る。
「俺の方がいいよな!!??」
「あたしの方がいいよね!!??」
気迫に圧倒された纏は、逆にこいつら仲いいだろ、と呆れながらツッコんだ。もちろん心の中だけで。

纏が『アリスの家』に帰ってきたのは、透花が事前に聞いていた時刻よりも2時間ほど後のことである。無遠慮にドアを開いた纏は、一日前よりも色濃く疲労を漂わせていた。日を増すごとに顔色がどんどん悪くなっていく。何も言わずに机に顔を伏せてしまった。透花と佐都子は只ならない纏の様子に、顔を見合わせる。どちらから纏に話しかけるべきか、互いにアイコンタクトを送りあっていると、纏の握りしめた拳がプルプル震えだし、初期微動からついに主要動まで達した瞬間。纏は振りかざした両腕を机に思い切り叩き付け、叫んだ。
「ドアホしかいねえのか、創作する人間はよ!!!」
大爆発である。纏は頭をぐしゃぐしゃに掻きむしり、瞳孔をかっぴらいた鬼気迫る表情で透花を振り返った。
「毎日、毎日、毎日、毎日、毎日!! クソしょうもねえ小競り合いに巻き込まれて、来る日も来る日もやれあれが気に入らない、あそこを変えないと進まないだの口を開けば好き放題我儘言いやがってそんなんクソどーでもいいわ!! 完成させなきゃ意味ねぇって何度言えばあいつらは理解すんだ!? アァ!? 納期は待ってくれねーんだよ!! そんな理屈幼稚園児だって理解できるわあいつらは幼稚園児か!? 僕は先生か!? あんなアホどもを引率しなくちゃならないのかクソが!!」
纏をここまで追い込むとは、律とにちかの仲はどうやら一筋縄ではいかないようである。そんな予感は透花にもあったが。
アトリエを包む静寂を断ち切ったのは、佐都子の吹き出した笑い声である。
「ぷっ、わははは」
「何笑ってんだお前」
地獄の底を這うような低い声で纏は佐都子を睨みつける。青ざめる透花とは対照的に佐都子は腹を抱えながら、纏の背中を遠慮なくバシバシと叩きながら言った。
「纏さ、私らの生態を理解しているようでしてないね~」
「あ?」
「理屈で動くような人間が、創作なんかするわけないじゃーん」
佐都子の一言に、そうだった、と纏は思い出す。理屈も論理も無意味なのだ、創作バカの前では。理解していたはずなのに、纏はすっかりその事実を忘れていた。
「……まさか、ここまで苦戦するとは思ってなかったんだ。今までそれなりに上手くいってたし、『mel』が加入しても大丈夫だって楽観してた。だって、佐都子が加わった時だって特別大きな衝突だってなかったんだもん……」
普段の強かな纏からは想像できない、中学生らしい弱音だった。透花は体育座りで小さくなる纏の背中を優しく撫でた。
「佐都子が加わったときとはちょっと状況が違ったかもね」
「なんで?」
「わたしと佐都子は十数年の付き合いだから、お互いの得意なことも苦手なこともこだわりとかよく分かってるし、ある程度相手の意図を理解して折り合いつけれるけど、芦屋さんと律くんは初対面だし、相手のこともよく知らない。だから、衝突するのは必然だと、わたしは思う」
纏からの返事は無い。が、透花は続けることにした。
「もちろん、纏くんが『ITSUKA』のことをよーく考えて、コラボを提案してくれたこともちゃんとわかってるよ。けどね、纏くんに足りなかったものがひとつある」
「なんだよ」
纏の拗ねた声が年相応で、可愛いと思ってしまうのは、幼馴染としての贔屓目もあるのかもしれない。
「わたしたちに事前に相談せずに、コラボを決めちゃったこと。ちゃんと報連相しろっていつも口を酸っぱく言ってたのは、纏くんでしょう?」
「……うん」
「反省したなら、律くんにちゃーんとごめんなさいしよ? それからちゃんと話し合えばきっと打開できるよ」
「うぐっ……」
「ま、と、い、く、ん?」
「………………わかった」
「うん、よろしい」
「相変わらず透花の言うことだけには素直だね~」
「うるっさい」
いつも通り纏から棘のついた言葉が飛んでくると、透花と佐都子はお互い顔を見合わせぷっと吹き出した。秋晴れの空に笑い声が軽快に響き渡っていた。


翌日の夕方、駅の近くで透花は目の覚めるようなピンクを見た。
透花に気付く様子もなく改札口方面へ向かっていく。おそらくこれから、打ち合わせに行くのだろう。
「あっ、芦屋さん!」
透花は大きく手を振りながら、にちかを呼び止める。声に気付いたにちかは足を止め、透花の方を振り返った。
「あれ? 透花ちゃんじゃん」
「はあっ、はあ、これから打ち合わせですか?」
小走りでにちかの元まで辿り付き、透花はほんの少し乱れた息を整えながら質問する。すると、にちかは釈然としない曖昧な笑みを浮かべた。
「あー……、うんまあ、そう、だね」
にちかに初めて会った時の、堂々とした物言いはすっかり失われている。
問うまでもなく、楽曲製作が順調ではないのだろう。
敢えて進捗具合を聞くことはしなかった。かと言って、このままにちかと別れたらそれはそれでいけないような気がして、透花はにちかの手を引く。
「あの!」
「な、なに?」
食い気味に身を乗り出した透花は、しまった、と思考が止まる。
次に続く言葉を用意していなかった。そして咄嗟に、にちかの向こう側にあるビルの広告が目に留まり、勢い任せに声を上げる。
「や、野球しませんか!」

カーーーン!!
金属音とボールがかち合う瞬間の、弾ける音が場内に響き渡る。綺麗な放物線を描いて、ボールは紅葉色をした秋の空へと飛んでいく。
「ナイスバッティーング!」
透花が掛け声とともに大きく拍手すると、額に手を翳してボールの行方を追っていたにちかが満面の笑みで振り返る。
「見たいま! めっちゃ飛んだわ。んー、爽快! よっしゃ、もう一発!」
数十分前では比べ物にならないほど、軸のしっかりしたフォームでバットを構えたにちかが、ピッチングマシンから発射されたボールの中心を捉えて打ち返す。
緩やかな曲線を描きながら、ボールは飛んでいった。迷いなく、空高く。

「はい、これ。あたしからのお礼」
「えっ、あ、ありがとうございます」
休憩室に設置されたベンチに腰を下し、資料用で撮影したにちかのバッティング風景をスマホで見ていた透花に、缶ジュースが差し出される。
目線を上げると、首にタオルを掛けたにちかが晴れやかに笑った。透花の隣に腰を下ろすと、手にした缶ジュースのプルタブを開けた。プシュッと、爽やかな炭酸の音が弾ける。 それを一気に飲み干していく。透花が目を張るほどのいい飲みっぷりである。
「ぷはー! ひっさびさにこんな動いたわ! 明日、筋肉痛確定だ」
「わたしもです」
「……あのさ、透花ちゃん」
「はい?」
血色のいい頬をさらに上気させたにちかが照れくさそうに頬を掻いた。
「ありがとね、誘ってくれて」
「わたしの方こそ、付き合ってくれてありがとうございます。おかげでいい資料が手に入りました!」
「えっ、本当に必要だったん? てっきり、あたしを励ますための口実だと思ってた」
「ぶっ」
ちびちび飲んでいたオレンジジュースを透花は盛大に吹き出した。
透花のさりげない気遣いはどうやら、にちかに筒抜けだったらしい。MVで使う資料用にバッティングフォームを動画で撮りたい、だなんて中々に無理のあるこじつけだとは透花も薄々気が付いてはいたが。
「今はあれですが……いやたぶん、そのうち、必要になる日がく、来る予定なので……」
「何この可愛い生き物。抱き締めて持って帰ってもいい?」
「な」
「あは、冗談だよ。もーそういうとこ、ほんと可愛くてすき」
「……そういう芦屋さんは、ド直球が過ぎませんか?」
「まあね。あたし、『mel』でいるときは自分に嘘はつかないって、決めてるから」
そう語るにちかの瞳の奥には、あの時と同じ青星がひと際光っている。
「ね、透花ちゃん」
「なんですか?」
「『mel』って名前さ、聞き覚えない?」
その問いに、透花は僅かに息を震わせる。もしかしたら、とは思っていた。証拠のない推測は、にちかの問いによって確信へと変わる。
「『メメ』先生の漫画のキャラから付けたの。天真爛漫で、まっすぐで、ちょっと頑固なとこはあるけど……でも、自分の信念を持った、あたしの一番大好きなキャラ! メルみたいに成りたくて、あたしは『mel』って名前を付けたんだ」
「……もしかして、その髪色も?」
「そうなの!! 透花ちゃんが初めて気づいてくれたよ~!」
『二目メメ』の漫画に登場するキャラのひとり。主人公とともに旅をする、メルの特徴はにちかと同じピンク色の髪だった。一点の曇りもない朗らかな笑みを浮かべ、にちかは自分の髪を人房手に取る。
「髪色ぐらいでって、思われるかもだけど……あたしはこのピンクでいるときは、なんか勇気が出るの。よし、頑張ろうって思える。無敵感がでるっていうか。ま、最近はちょっと落ち込んでばっかだったけどねー。なんっか知らないけど、雨宮は妙にあたしに当たり強いしさぁ」
透花には、思い当たる節がひとつだけあった。あの夏夜の光景が頭の隅に浮かぶ。律とにちかの思いの丈が、大きくすれ違い衝突を生んでいるのだとすぐに察した。咄嗟に律を庇うような言葉が口から出かけたが、結局、透花は口を噤んだ。
なぜなら、
「けどさ、そんなん知ったこっちゃないって、今気づいたわ!」
にちかはまだ諦めていないみたいだったからだ。
「あたしとしたことが、自分を見失ってたよ。なーんかさ、上手くやろうとか、仲良くやろうとか、妙に気張ってたけど。そんな器用な真似、あたしには出来っこないんだった。だって不器用だもん!」
にちかは立ち上がった。つられて透花の視線が上がる。振り返ったにちかのピンク色の髪が、ふわりと舞い上がって靡く。
「ありがとね、透花ちゃん。透花ちゃんのおかげで思い出したよ」
「わたしは、何も」
「ううん。透花ちゃんが声かけてくれなかったら、ずっとうじうじ悩んでたもん」
「芦屋さんの力になれたなら、その、良かったです」
「にちか」
「え?」
「にちかって呼んでよ。あたしだけが名前呼びじゃ、不公平じゃん」
「……うん。にちかちゃん」
透花が初めて名前を呼ぶと、にちかは照れくさそうに顔を赤らめながら頷く。芦屋にちかという少女は、少し強引だけど、どうしようもなくまっすぐで、眩しいくらいに素直で、とても素敵な女の子だった。

──その、はず、だった。
明くる日、透花の元に一本の電話が入るまでは。
朝の予報が大きく外れ、今にも雨が降り出しそうな不安定な空の下、透花は足早に『アリスの家』に向かっている時だった。
スマホの画面に表示された名前は、『纏』。きっと、いつもの進捗確認だろうと、通話を繋ぎ、透花は耳にスマホを押し当てる。
「もしも、」
『透花っ、緊急事態発生した!!』
電話越しからでも分かるほど、纏の声音は焦りと不安を滲ませていた。
「……どうしたの?」
透花は立ち止まり、慎重に問いただす。
『今さっき、にちかから連絡があった』 
透花は手に持ったスマホを気づかぬうち、強く握りしめていた。
『……やっぱり、コラボはなかったことにしてくれって』
言葉を失う透花を嘲笑うように降り出した雨の冷たさは、体温以外の何かも一緒に奪っていくようだった。


「……おっそい」
律は、遅れて打ち合わせにやってきたにちかに一言苦言を呈す。いつものにちかなら、食って掛かるところだが、今日は違った。
「うん、ごめん。ちょっと野暮用で」
涼しい顔で軽く頭を下げたにちかに、律は少なからず動揺した。
じゃあ打ち合わせ始めよ、とすぐさま準備を始めるにちかの背中をじっと眺める。憑き物でも落ちたみたいな態度が、何故だか妙に癪に障った。律がその背中に声を掛けようとしたその時、ドアノックの音が響いた。
「おー、お前らやってっか?」
気力のかけらも感じられない気だるげな物言いで、タバコを口に咥えた和久が顔を覗かせる。おそらく場の雰囲気を一瞬で察したのだろう、やれやれといった感じに片目を瞑った。
「あー……さっき演者から連絡入って、少し遅れるらしくてな。中空き出来ちまうんだわ」
「それが何?」
話の全容が見えてこず、つい律は苛立ちを滲ませた口調で聞き返す。
しかし、そんな律のことなど全く意に介さず叔父はにちかに視線を向けた。
「にちかちゃん、よければステージで歌ってみるか? 今日客少ねえし、ライブの練習がてらどうよ」
「えっ」
話の矛先が自分に向くと思っていなかったにちかは、虚をつかれたように肩が跳ねる。アイメイクで縁取られた大きな瞳が、居所なく彷徨う。その態度に少なからず違和感を感じた。こういう時のにちかは、すぐさま立ち上がり元気に返事をするとばかり思っていたから。
「別に困らせたいわけじゃねえんだ。嫌だったら断ってくれていい」
時間にして、約10秒ほどだ。にちかは深い呼吸で胸を上下させ、ようやく表を上げる。
「……やる。やらせてください」

ステージに鎮座しているグランドピアノは、数十年使い込まれた古いものだ。
定期的に調律師を呼んでメンテナンスはしているから音程にさほど狂いはないが、やはり年数の分だけ癖はある。慣れた手つきで鍵盤に手を置くと、自然に指が動き出す。鍵盤の固さがちょうどよく馴染んだ。
律もまた、ステージに上がって客前で弾くのは初めてだった。
薄暗い店内の中で、ステージ上だけがスポットライトに照らされている。店内をぐるりと見渡す。開店してすぐだ、客は1、2人ほどしかいなかった。今度はすぐ目の前の小さな背中を見る。マイクスタンドの前に立つにちかの足元には、スポットライトの光によって伸びた影が不安定に揺れていた。
「今日は、特別にお時間を頂き歌わせていただきます。それでは、聴いてください」
にちかの口から曲名の紹介が成される。『ITSUKA』の新曲だ。まばらな拍手の後の、静寂。呼吸を吸う前の、数秒間の緊張。
そして、息を吸う音とともに音楽が奏でられ始める。──はずだった。

ピアノの旋律だけが空しく響いた。
律はすぐさま指を止めてしまった。それが、余計に鼓膜を突き刺すほどの痛い沈黙となって押し寄せた。最初は何が起こったのか分からなかった。けれど、徐々に理解する。にちかはマイクの前で何度も声を絞り出そうとして、挙句何も歌えなかったということに。
マイクを握りしめていたにちかの手が、すとん、と力なく落ちる。その指先が微かに震えていることを、律だけが気づいていた。
次に瞬きした時には、にちかはステージから飛び出していた。ドアベルのからんからん、という空しい音が店内に響き渡る。

「……お前、何やってんの?」
夜のネオン街へ消えていく人々の雑踏の中、にちかはシャッターの下りた店の前でしゃがみ込んでいた。上がった息を呑み込み、律はもう一度口を開く。
「ふざけてんならマジで面白くねえぞ」
にちかからの返答はない。その態度は、律の怒りに油を注ぐようなものだった。
感情を制御するためのちっぽけな理性など、無いに等しかった。
「っ、なんとか言えよ、なあ!!」
容量を超え、噴き出した感情の狭間でぐちゃぐちゃにされた律は、過去と現実の境目が段々と曖昧になっていく。
だめだ。これ以上は、何も考えるな、と僅かに残された理性が警鐘を鳴らしている。だというのに、止まれない。律の耳鳴りは次第にクリアになっていく。雑音が少しずつ取り払われ、その正体を表す。
『──いいな、律。もう二度と、音楽はやるな。絶対に』
幼い律の両肩に置いた手に力がこもる。
まろい律の頬に降りかかるそれは、雨の雫よりもずっとぬるく、洗い流すことすらできない呪い証だった。

「そんなもんだったのかよ」
律の口から、憎悪の言葉が漏れ出た。
「ははは、笑えるわ。なにが、音楽で世界が救えるだよ! 何が、歌で誰かを救いたいだよ!! 本当に、心の底から反吐が出る。ステージに立って、緊張したかなんだか知らねえけど、他人の目ぇ気にして、ビクビク怯えて、自分の歌も満足に歌えない奴が出来もしねえ夢語ってんじゃねえよ!」
「……」
「所詮音楽なんて、その程度なんだよ。誰も救えない、救えるわけがない。救われたって思ってるのはさ、ただ一時的に、救われたように錯覚するだけだ。だって、音楽が世界を変えてくれるわけじゃない、クソみたいな現実を都合よく改変してくれるわけでもない、思い出したくない過去を無かったにしてくれるわけでもない!」
「……」
「……音楽なんかで、世界は救えねえよ。これで、分かっただろ」
ピンク色の髪が靡く。
不意に合わさった瞳から涙が零れ落ちている。まるで、瞳の奥で輝いていた光が打ち砕かれ、流れ落ちているかのようだった。
ようやく、律は我に返る。喉から零れ落ちた憎悪を、誰に向けていたのかを。
「っ、それでも、あたしは……!」
あたしは、の後に続く言葉がなんだったのかは、ついに律には分からなかった。踵を返して走り去るにちかの背中を追いかける資格は、律にはなかったからだ。


『にちかちゃん、明日、お話しできませんか?』
透花がその日の夕方、にちか宛に送ったメッセージに既読が付くことは、なかった。
透花だけでなく、纏もまた、コラボは無かったことにしてください、というメッセージを最後に連絡が取れなくなっているらしい。
バッティングセンターで別れたときのにちかは、そんな素振りを全く見せていなかったむしろ立ち直ったように見えたのは、透花の勘違いだったのか。
そのことを透花は、電話で纏に告げることにした。
『分かった。透花は明日、学校でにちかに直接会って説得してくれる?』
「もちろん、するよ説得。……けど、律くんは?」
『クソ律は僕に任せて』
「喧嘩しない?」
『…………それはアイツの出方次第だね』
苦虫を嚙み潰したような渋い声で纏は言った。これは8割の確率で拳が飛ぶだろうな、と透花は苦笑する。しかし、敢えて止めることはせずに折衷案を提示する。
「分かった。ぐーは駄目だけど、ぱーなら許す」
『ぷっ。透花のそういうとこ、嫌いじゃないよ。分かった、ぱーね』
「うん。律くんのこと、任せたよ」
『そっちもにちかのこと、任せた』
ぷつり、と電話が切れた。

透花はにちかのクラスへ向かい、入り口付近で談笑していた女生徒に声を掛けた。
「えっ、芦屋さん?」
透花の質問に少し驚いたように目を開いた。
その反応に微かな疑問を感じながら頷くと、女生徒は隣にいた友人と顔を見合わせ、教室の方を振り返る。透花もつられてその隙間から見るが、あの特徴的なピンク色は見当たらなかった。
「あー、帰っちゃったかな? たぶん」
「……そう、ですか」
透花は、落胆して項垂れる。しかし、どうやら学校には来ていたようだ。
それならまだ希望がある。明日また来れば、もしかしたらにちかに会えるかもしれない。
「あの、すいません」
「ん、何?」
「今日の芦屋先輩の様子どうでしたか? いつもより元気がないとか、すごく落ち込んでたとか……」
特別、おかしな質問をしたわけではないはずだ。それにも関わらず、ふたりは怪訝そうに眉を上げ、釈然としない様子で答えた。
「別に、いつも通りだったけど。だよね」
「うん。……てか、芦屋さんいっつも暗いから、落ち込んでてもたぶん気づかないわ」
「あーそれな」
嘲るような笑いが起こる。このクラスに来てから感じていた違和感の正体に、ついに透花は目を逸らすことが出来なかった。
「すいません、確認なんですけど……芦屋先輩って、フルネームは芦屋にちかで合ってます、よね?」
「うん」
「あのピンク色の髪が特徴的な」
「ピンクぅ?」
にちかのクラスメイトは吹き出して、片手を思いっきり振った。
「いやいや。ナイナイ」
「きみ、誰かと勘違いしてない? 芦屋さん見た目、ちょー地味だよ。黒髪眼鏡のもっさい感じの」
「そうそう。だって、陰キャだもん」
え、と漏れた透花の言葉なんて全く聞こえていないようで、話が進んでいく。
「ほんそれ。あっ、てか芦屋さんあれじゃない? この前、ピアノの練習するっていって先生に第二音楽室の鍵借りてたくない?」
「そうなん? 芦屋さんってピアノ弾けんの?」
「知らん知らん。話したことないし」
さして興味なさそうにそう言い残して、彼女たちは去っていった。透花はひとり、立ち尽くしたまま動けないでいた。
 

「──団体行動初心者かてめえは。生きるの下手くそ過ぎんだろ」
二の腕を組みさながら仁王像のようないで立ちで、こちらを一瞥し、冷たく言い放った第一声がそれだった。遅れてドアベルがからん、からん、と空しく鳴り響く。
モップを手にしたまま、その姿を呆然と見上げていた律は、コンマ一秒ほどかけて我に返った。
「……纏」
掠れた声でそう呼べば、纏は鼻で笑い飛ばしながら言った。
「昨日、にちかからコラボ止めるって連絡入った。お前、心当たりは?」
「え」
昨日の夜からずっと、頭の中に再生されるのはあの涙だった。律が完膚なきまでに粉々にしたあの星屑の流れ落ちる様が、まさしく心当たりに他ならない。
「は~、だんまりか」
足音が段々と近づいてくる。いよいよ、律の視界に纏のスニーカーが映る。
「被害者ヅラだけは一人前じゃん」
それ以外は全部三流だけどな、と纏の吐き捨てた。
「さっき、店前でお前の叔父さんに会って全部聞いたよ、昨日の夜のこと。……お前さ、何やってんの? これで満足かよ? はは。よかったじゃん、これでにちかは辞めるよ! お前がにちかの何が気に入らなかったのか知らねえし、毛ほども興味ねえし、聞くつもりねえし、同情とか死んでもする気ないけどさ」
律が反応するより早く、伸ばされた手によって胸倉を強引に掴まれた。気道が閉まって、一瞬息が吸えなくなる。
「──いい加減にしろ。てめえにどんな辛い過去があろうがなァ! 他人で憂さ晴らししていい理由なんて、ひとっっつもねえんだよ!!」
律は、息を呑む。逸らしたくなるほど曇りのない真っ直ぐな瞳から、しかし律は目が離せなかった。
全て、正論だった。反論の余地なんて一つもなかった。勝手に重ね合わせて、勝手に失望して。行き場のない怒りをにちかにぶつけた。乾いた笑いが律の口から零れ落ちる。
「……俺、どうしようもないクソ野郎だな」
数秒ほど沈黙が続いた後、胸の息苦しさがすっと消えた。つられて顔を上げると、律に向かって纏はにっこり微笑んだ。
嫌な予感が駆け巡った、その瞬間。律の頬を熱い痛みが、ばっちーーーん! という衝撃音とともに破裂した。
「痛ってえなオイ!!」
律は自分の頬を抑えながら、衝撃によろめいて数歩後ろに下がる。そんな律を見下ろしながら自業自得だと言わんばかりに纏は、いつも通りの悪態をついた。
「気づくのが遅えわ、クソ律」


それは、魔法だった。初めてカラコンを入れて、ピンクのウィッグを被り、立ち鏡の前に立った時の高揚をにちかは今でもはっきり覚えている。そこには映る人間は、野暮ったく、誰からも見向きもされない、地味なモブキャラのような自分ではなかった。
にちかがずっと憧れを抱いていた、彼女がそこには立っていた。
天真爛漫で、真っすぐで、ちょっと頑固なとこはあるけど、でも、自分の信念を持った「目ル』という架空の人物。自分とは全く真逆のひと。彼女でいるときは、にちかは誰の目を気にすることなく、ただ自分の歌を歌えるような気がしていた。
そのピンク色の髪が、にちかを無敵にしてくれた。
けれど当たり前すぎて、にちかはすっかり頭の中から忘却していた。どんな御伽噺だってお話の結末はたいがい決まっている。シンデレラだって、人魚姫だって、そうだった。
魔法が解けるのは、いつだって唐突なのだ。

歌が聞こえた。
それは、息苦しさすら覚えるようなか細く、透明とも半透明ともつかない、それでいて芯の通った歌だ。
ようやくたどり着いた音楽室のドアの前で、透花は立ち止まる。
ひとつ深呼吸をして、透花は音楽室の扉に手を掛けた。
夕焼けの赤に染まる音楽室に佇むのは、一人の少女だった。
重い前髪とふちなし眼鏡に覆い隠された真っ黒な瞳と、目が合う。心臓を締め付けられるような歌声は、第二音楽室の扉が開かれたと同時に跡形もなく霧散していた。
あまりに長い沈黙が、ふたりの間に流れる。
先に動いたのは、透花の方だった。中途半端に開いていた扉を押し、第二音楽室の床に一歩足を踏み出した、そのときである。
「ひっ、ひひ人違いですぅうう!」
「まだ何も言ってないよ!?」
言葉のやり取りを何往復かすっ飛ばして、そんなことを叫んだら、自分の正体を声高に明かしているようなものである。その事実を言った後に気付いたらしい少女は、「はぁう!?」と素っ頓狂な悲鳴を上げた。顔を真っ青にしてポケットに突っ込んでいた手で顔を覆い隠そうとするが、その拍子にポケットからスマホが落ちた。彼女の耳に繋がっていたイヤホンがぴんっと引っ張られ、スマホと接続していたプラグが外れる。スピーカーに切り替わった。
スマホから流れる曲は───
「はあわわははわああああああああああああああああああああ!!」
青を通り越して顔を真っ白にした少女が、床に落ちたスマホを拾い上げようとして今度は、がらがらと音が立つ。少女がしゃがみ込んだ際に、すぐ近くにあった机へぶつかり、その上に置いていた鞄がひっくり返って中身が派手にぶちまけられた。
流れるように透花が視線を落とせば、床に無残に転がるのは、化粧道具の数々と、見覚えのあるピンク色の髪。
「ほぎゃーーーーーーーーーーーーーー!!??」
少女はその光景を目の前にして、反射的にそのピンクを隠そうと手を伸ばし、
「あ、危ない!!」
「へっ?」
垂れ下がったイヤホンのコードで思いっきり足を引っかけ、そのまま床にダイブした。ばちーーーん、という衝撃音に思わず透花は目を固く瞑る。
しばらくして、透花がゆっくりと瞼を開くと、そこに広がる光景はまさしく殺害現場のようだった。床に突っ伏したままうつ伏せで倒れる少女、未だ流れ続ける『ITSUKA』の新曲デモ音源、床に霧散した化粧道具とピンク色のウィッグ。
これ以上の状況証拠があってたまるものか、と言いたげな現状だった。
「……に、にちかちゃん? 大丈夫?」
透花は膝をついて、微動だにしない背中に手を伸ばし触れる寸前だった。
「………………いっそ殺してぇ……」
耳を澄ませなければ聴こえないほど、小さな声でにちかは言った。
透花は少しだけ笑って、手を差し伸べる。
「いい感じにギャグ漫画みたいだったよ、にちかちゃん」
悪意のない一言がにちかに止めを刺したのだった。

自分でも、馬鹿だと思う。
ピンク髪も、濃いメイクも、短いスカート丈も、全部『mel』になるためのおまじないみたいなものだった。芦屋にちかという地味で、空気読んでばっかで、影薄くて、いてもいなくても分かんない陰キャじゃなくなるための、おまじないだった。
中学校の頃の芦屋にちかは、一言でいえば金魚のフンだった。クラスでカースト1軍のキラキラ女子グループの、一番地味なやつ。へらへら笑って、周りに頑張って合わて、見下されてんの分かってたけど気づかないふりして。
けれど、全部に嫌になってしまった。
全部、投げ捨てて誰も自分のことを知らないところへ行きたかった。でも、逃げ出す勇気も立ち向かう勇気も微塵もなくて、惨めで、そんな自分のこと大っ嫌いだった。
そんなとき、だった。あの漫画を見つけたのは。 
初めて『二目メメ』の漫画を手に取って読んだとき、にちかは自分の視界が広がるような気がした。中学生のころのにちかを構築する世界のすべては、学校と友人と家族、それだけだった。その狭すぎる視界に、新しい色を一滴垂らしてくれた。それはやがて、にちかを支配していた色さえ塗り潰すほどに鮮烈な輝きを持っていた。熱中した。熱中して、何度も、何度も、何度も読み返した。漫画が擦り切れボロボロになってもなお、読み続けた。
『変えられないばかりだけど、でも、ひとつだけ確実に変えられるものがある。それが、あたしだ!』
その『メル』の言葉が、どうしようもなく刺さった。どんな苦境に立たされても『メル』は何度でも立ち上がった。そのたび、傷が増えようともそれでも彼女は立ち上がった。その背中に、にちかはどうしようもなく焦がれた。手を伸ばさずにはいられなかったのだ。
変わりたかった。これ以上自分を嫌いになりたくなかった。
それを変えるチャンスは案外すぐに訪れた。中学2年、合唱コンでソロパートのオーディションが開かれた。自分が主役になれるチャンスだと、思った。すぐさま立候補した。けれど、そのパートには同じグループのリーダーの子も立候補していた。その子に気を遣って周りの子から、譲ってあげなよ、と口々に言われた。
たぶん、今までの自分だったらへらへら笑いながら譲っていただろう。けど、それは嫌だった。『メル』なら譲らないと思ったから。だから、それは無理だと断ったのだ。
結果、オーディションになってにちかがソロを歌うことになった。その子は、泣いてた。そして、にちかはその日を境にグループからもクラスからも孤立してしまった。
本番の日。
にちかにとって忘れられない、最悪の思い出。
大勢の観客がいる前で、にちかは大きなミスを犯した。意図的にタイミングを後らされて、体育館ににちかの声だけが響き渡った。張り詰めるような沈黙の後の、失笑、失笑、失笑。一斉に集まった突き刺すような視線、視線、視線。
すぐさま逃げ出したいという恥辱と、身を焦がすような激しい怒り。そして、『メル』のようには決してなれないという現実ににちかは打ちひしがれた。
にちかは、人前で歌えなくなってしまった。
だから、動画サイトで投稿を始めた。誰もいない部屋でひとり、気ままに歌うだけなら、にちかは誰の目を気にすることなく歌えたからだ。誰に馬鹿にされることもない、蔑まれることのない、ただひとりの楽園。ひとりで完結する世界で、にちかは満足していた。たぶん、このままでいい。それでいいんだと、誤魔化すように言い聞かせて。
しかし、それは唐突に覆された。
それは、まさしく見計らったようなタイミングだった。
にちかの元にライブ出演のオファーが舞い込み、悩みに悩んだ結果、断りのメッセージを考えていたときだ。『ITSUKA』の『青以上、春未満』を聴いたのは。
歌いたい、と初めて強く、強く、思った。

「『芦屋にちか』のままじゃ、きっとあたしは誰の前でも歌えない。……最初は、偽物でも構わなかった。『mel』はあたしにとって、あたしでなくなるための、おまじないみたいなものだった。何も考えなくて済んだの。『メル』ならきっとこうする、こう言う、って考えながら行動しているうちは、あたしは無敵でいられた。……けど、そういうとこ、あいつは全部お見通しだったんだろうね」
にちかは自重するように笑った。静かな音楽室の中で、彼女の乾いた笑いが空しく響いた。
小さな綻びから、にちかの本性が暴かれるまではあまりに一瞬のことだった。
怖気づいたのだ。あの小ステージの上で、分厚く纏ったはずの『mel』はあまりに易々と砕け散った。
にちかは徐に自分の分厚い前髪をかきあげ、自身を嘲る。
「自分が救われたように、誰かを音楽で救いたい、とか。音楽で世界を救える、とかさぁ。全部、全部、嘘っぱちじゃん。あたしなんかの歌で、誰が救えるんだよ。他人の目ばっか気にして、『mel』でいないと自分の歌も満足くせにさ!」
だから、もう。あたしのこと諦めて、そう紡ごうとしたにちかの言葉よりも先に、透花が口を開いた。
「それ、めちゃくちゃ分かる」
「……」
「……」
「……え?」
「え?」
互いに顔を見合わせた。
先ほどまでのシリアスな空気が一変、きょとんと目を丸くする透花の毒気のなさににちかは肩の力が抜ける。
「え? わたし変なこと言った?」
「いっ……てないけど、そこ同意するとこ……?」
「だってめちゃくちゃ分かるから……」
「そ、そっか」
自分の弱さをあっさりと肯定されてしまった。
そうしたら、なんだか、全部バカバカしくなってきて、にちかはふっと軽く笑った。一度笑い出したら止まらなくなって、お腹を抱えながら笑う。にちかの笑いを引き出した本人が分からないって顔をしているところが、なお笑いを助長させる。
「あっはっは……はあ、笑ったぁ」
「ええ……?」
「だって、透花ちゃんが分かる、とか言うからさ」
「ええ~……?」
納得のいっていない様子で、透花はだって、と続けた。
「だって、怖いに決まってる。わたしも新曲アップするとき、嫌な妄想ばっかして死にそうだもん。前日とか全然寝れないし」
「嫌になったりしないの?」
「ある。めちゃくちゃある! 挙句投げ出しちゃえーって自暴自棄になる」
「じゃあ、どうして」
目を細めたくなるほどの夕焼けの光を浴びながら、透花は緩やかに笑った。
「だって」
 迷いのないまっすぐな眼差しで。
「わたしの創作は、わたしにしか描けないから」
「──」
「描くたび自分の実力にへこむし、満足に描けなくて腹たつし、こんちくしょーって思うし、コメントで叩かれるとすっごく落ち込むけど……でも、描きたいって衝動に突き動かされる。描き切らなきゃ死んでも死にきれないって、そう思う」
透花が立ち上がる。つられて視線を上げれば、ゆっくりと手が差し伸べられた。
「律くんは多分、絶対口にしないけどさ。『劣等犯』は──、」
自然と、手が伸びる。繋がれた手によって引き上げられた。
彼がどうしてこの曲に『劣等犯』とつけたのか。今更になって理解することになろうとは、とにちかは歯噛みした。
「にちかちゃんのための曲だよ」
歌う意味とか、意義とか、小難しい事ばかり考えて散々こねくり回した。けれど、終着点は余りに単純だった。
「……あたし、馬鹿だからさ。小難しいこととか何にも考えらんないや」
「うん」
ぐしゃぐしゃな酷い泣きっ面に今自分が出来る最高の笑みで、答える。
「ここまで来たんなら、逃げてらんないよね」
「うん」
「だって、『劣等犯』はあたしの歌だから」
雑音が多すぎて、一番大切なことをにちかは忘れていた。容量悪い癖に許容量を超えて思い悩むのは、自分の性に合わないのだ。
その日の夕方、『Midnightblue』で顔を合わせたにちかと律がほぼ同時に勢いよく下げた頭同士が派手にぶつかって、後頭部に大きなたんこぶが出来たのは、また、別の話である。


本日、快晴。
夏の蒸し暑さは遠い昔のことのように、頬を撫でる秋風はからりと乾いている。見上げれば突き抜けるほどの青天井が広がっていた。
同じデザインのTシャツを着た、家族連れから若いカップルまで様々な人々が駅の改札口から、ロックフェスの会場へと流れていく。透花はその人ごみに半ば押されるように、ふらふらと覚束ない足取りで進む。10月末とはいえ、昼間の日差しは連日の寝不足の身体には少々毒だ。
「うへー太陽が目に染みるぅ」
「分かる……死ぬ……」
透花の隣で背を項垂れさせるのは佐都子だ。これまた化粧したのかと言いたくなるような真っ黒な隈をこさえている。
「だからあれほど僕が、」
「あーやめてやめてぇ! 今纏の小言聞いてたら頭パンクすっから」
さすがの纏も連日徹夜で作業していた佐都子に対して、強く言えなかったのか、はいはい、と軽くあしらうだけに終わった。

にちかたちが待機する関係者通路を通ると、これから始まるフェスの準備に向けて慌ただしく動くスタッフでごった返していた。
「あ、来た来た! 透花ちゃーん! こっちこっち!」
よく通る声の主はもちろん、にちかだった。数メートル先で大きく手を振っている。その隣には律の姿もあった。にちかの元へ駆け寄ると、いつもの彼女と様子が違うことに気付いた透花が、目を見開く。
「にちかちゃん……その、」
「あ、髪? 思い切って切ってみたんだ。どう? ニューにちかちゃんは」
溌溂とした笑みを浮かべ、自慢げに胸を張るにちかが黒髪の毛先を人房を手にした。
胸の下まで伸びていた黒髪は、ショートボブくらいまでバッサリと切られ、重かった前髪もセンターで分け、白い額が太陽に晒されている。
「うん、めちゃくちゃ似合ってる。かわいいしかっこいい!」
「でしょ~?」
「──こら。俺たちそっちのけで何話してんの?」
口を尖らせた律が、ひょいっと透花たちの会話を遮る様に顔を覗かせた。すると、にちかはにんまりと悪戯っぽく口元を上げ、透花の腕に自分の腕を絡ませる。律に向かってべーっと舌を出し、おどけた顔で言った。
「今日の透花ちゃんはあたしが釘付けにするってだけ! 羨ましいかこの野郎! 結局、このあたしが透花ちゃんの一番ってことよ。ね、透花ちゃん」  
「はあ~? 言っとくけど、俺の方が透花のこといっぱい知ってるし。なんなら、透花が俺のファン1号だし! どう考えても俺が一番じゃん!」
「やだやだしょうもない嫉妬ですか~? 自信ない奴に限ってよく吠えるんだよねぇ」
「は~~? 売られた喧嘩は買うけど? 何ならここで決着つけるか? ま~~、透花はお前の歌より俺の曲がいいって言うけどな絶対!」
「あっはっは、何言ってんだか! 透花ちゃんは今日! あたしの歌を! 聞きに来てんのォ! そこんとこ忘れてもらっちゃ困るんですけど?」
透花を挟んで、激しい火花を散らすふたりが一斉に透花の方を見やる。今にも刺殺されそうな鋭い視線に透花の肩が大きく跳ねる。
「透花は」
「透花ちゃんは」
「「どっちが一番!!??」」
その勢いに気圧された透花は、大量の冷や汗をかきながら助けを求めるために纏と佐都子の方を振り向く。が、速攻逸らされた。現金な奴らである。
タイミングよく、スタッフの人から準備お願いしまーす! という呼び掛けに透花はほっと肩を撫で下ろす。そんな透花を、誰か指さした。指先から視線を上げれば、にちかがにっと歯を見せて笑った。
「最高の歌、聞かせてあげるからさ。覚悟しとけ!」
颯爽と立ち去る彼女の背中を、透花はいつまでも見ていた。


会場の観客席は、同じ色のTシャツに身を包んだ群衆で、ぎゅうぎゅうに押詰められている。
観客の波が一体となって、盛り上がりは最高潮に達している。秋風がどこからともなく、汗ばむほどの熱気を攫うように吹くが、それでも熱が冷めることはない。
割れんばかりの歓声と、雄叫びにも似た『mel』を呼ぶ声が会場のあちこちから飛んでいる。次々とアーティストがステージに上がるたび、『mel』の順番は差し迫ってくる。透花の心臓は脈打つことさえ忘れそうなほど、不安と緊張で押しつぶされそうだった。
ステージに上がらない人間がこんな状態になっているというなら、にちかは一体どれほどのプレッシャーが圧し掛かっているのか。そんな精神状態でにちかがステージに立つことが出来るのか。最悪な結末が思い浮かんでは消える。
透花は頭を乱暴に振り、姿勢を正した。見据えるのは、夕日に照らされたステージ。ステージのライトが一斉に点灯する。一瞬にして会場の歓声が止む。MCの男性がステージの袖で声を張り上げる。
「会場の皆様、大変長らくお待たせいたしました!! 現在、動画サイトを中心に活動を続ける期待の歌い手『mel』の登場です!!」
鼓膜が弾けるほどの拍手とともに、視線が一点に集まる。
ステージ中央、スタンドマイクの前に立つのは、ひとりの少女だ。
少女は、静かに閉じていた瞼を開く。今、彼女の視界に映る世界のすべてが、彼女の歌を待ち望んでいた。
マイクを握りめた両手に力がこもる。マイク越しに彼女のかすかな呼吸音が流れ込む。
静寂の3秒間。
スポットライトが青一色に切り替わった。
「聴いてください。───劣等犯」
大きく息を吸い込んだ彼女の歌声が、会場全体に響き渡る。
観客先に向けられたスマホのカメラ。しかし、彼女の歌声を耳にした観客たちは次第にスマホ越しの彼女ではなく、今、ステージに立つ彼女の姿に視線が引き寄せられていく。
それは、喉の奥を締め付けるような圧迫感だった。後頭部を殴りつけられるような衝撃だった。心の隙間を容赦なく抉られるような痛みが伝染しているようだった。この世の理不尽も、不条理さも、エゴも、孤独感も、すべてを飲み込んで、それでも彼女は歌うことを止めない。足掻くように歌い続ける。

「透花?」
指先に、誰かの指が絡む。ただ、何も言わず透花は指先に力を込めた。言葉にならない感情は、嗚咽となって固く閉じた唇をすり抜けるように漏れ出る。
ずるいよ、にちかちゃん。透花は、震える唇を引き上げ、笑う。
こんな歌を聴かされたら、動かされないわけないじゃん。
ふと、マイクから離れたにちかがこちらを振り返った。目線が合った瞬間、汗に髪を張り付けた彼女は、吹っ切れたように大きく口を開けて笑った。
その顔を見たとき、透花は逃げ続けた過去に向き合う覚悟が、ようやく決まった。


夕焼けの境界線が深い青に包まれたころ、透花はステージ裏で次の準備や打ち合わせするスタッフの波をかき分けるように、彼の姿を探していた。視界の隅に、ちらりと彼の姿が映ったような気がして振り返る。透花は、その影を追うように会場の外へ出る。
一歩、会場から出ると辺りはステージの盛り上がりが嘘のように人影もなく、閑散としていた。未だ続くライブ演奏の音と、飛び交う喝采はどこか遠い出来事のよう。
「律くん」
律は、ひとり階段の一段目で蹲るように顔を伏せて座っていた。
その前に立って、透花が声をかけると、律はのろりと表を上げた。焦点の定まらない虚ろな瞳が透花の姿を捉えると、少しだけその色に失いかけた気力が戻る。血の気を失った青白い顔が、くしゃりと歪んだ。
「透花」
それは、縋るような声だった。
「律くん……だ、大丈夫? 顔色すごい悪いし、冷たいよ」
律の頬を触ると、たちまち透花の体温が奪われていくほど冷たい。
「すぐ大人の人を、」
「いかないで」
律の頬から離れていく透花の手の軌跡をたどるように掴んだ。
ぴんとはった糸のように掴まれた腕を掴む力は、簡単に振り払えるほど弱弱しい。
「ここにいて。お願い」
「……分かった」
透花はそれだけ返事を返し、律の横に並ぶように座る。透花と律の間にあるのは、重ね合わせた手ひとつぶんの間隔だけ。
見上げた夜の空は、手を伸ばしても届かないほどに遠い。乾いた空気を吸い込むと、少し肺が痛くなるほど透明で澄み切っている。
ただ手と手を重ねた指先が、互いの存在を確かめるようにどちらともなく絡みついて、解けない糸のように固く繋がれる。
「ねえ、透花」
「うん」
「……今だけでいいから」
「うん」
「胸、貸して」
透花は返事を返さず、ただ律の頭に手を伸ばし、優しく包み込むように引き寄せた。少しだけバランスを崩した律が、透花の身体へ雪崩るように腕の中に収まった。
押し殺すような吐息は堰を切ったように嗚咽へと変わり、止まらない透明な雫とともに夜風に攫われてく。誰にも聞こえないようにと、透花は背中に回した腕に力を込める。決して描かれることのない漫画の余白を埋めるように、強く、強く。

それからどれほどの時間が経ったのか。透花の体温が律の体温と混じり合って、同じくらいの熱を帯びたころ。
「律くん、わたしね」
泣き腫れて目尻に赤色を滲ませた瞳が、頼りなく視線を上げる。
「もう、逃げるの、やめようと思う」
目を逸らしていたことから、ようやく向き合う覚悟が出来た。大丈夫、やり方はにちかが教えてくれた。あとは自分を信じて突き進めるかどうかだ。
透花は、ゆっくりと息を吸い込んで、律の顔を真正面に捉えて言った。
「律くんに書いてほしい曲があるんだ」
ああ、それがきっと。
間違いだった。




闇の正義ちゃん@seigi_125
え、待って待って。
これってさ、トレパク?
完全一致なんだけど。