【4】五十三日前
それからというもの、僕はたびたび四季宮さんに呼び出されては、遊びに連行された。
やれボーリングだ、やれショッピングだ、やれラーメン屋だと、彼女に言われるがままに連れまわされたわけなのだけど。
もう最近に至っては、自遊病のことは関係のない場所まで連れ出される始末だった。
だけどそれを主張したところで、口の達者な彼女に口下手な僕が叶う訳もなく、彼女に引っ張られるままに遊びに出かけていた。
もちろん、楽しい。
行動力に乏しい僕を振り回してくれるくらいにパワフルで、声が小さく早口な僕に呆れずに付き合ってくれて、何より檸檬の香りみたいに爽やかな声で笑う彼女と一緒にいられることは、とてもとても、幸運なことだと思う。
だけどそれゆえに怖くもある。
なにか、とんでもないしっぺ返しがあるんじゃないかと身構えてしまう。
これだけの幸運を、なんの見返りもなしに受け取れるほど、僕は素直な性格をしていなかった。
放課後。学校の階段を上り、自分の教室を目指す。
四季宮さんは、友達の八さんと一緒に遊びに行くとかで、今日の僕はフリーだった。
日直の用事を済ませ、人も減って来た校内を歩き、自分の教室前までやってきた。ふと、先日四季宮さんと教室の中で話したことを思い出した。
『要するにね、真崎君。君はもっと、自分の言葉に句読点を打って、しっかり、はっきり、相手に自分の考えを伝えるべきだよ』
単語と単語の間を、あるいは文節を、区切って分けて、相手に明確に伝わるようにする。確かにそれは大切なことなのだろう。四季宮さんの言う事は概ね正しい。
だけど、自分の言葉に自信がある人にしかできないことだとも思ってしまった。
きっと彼女が思っている以上に、僕は情けなくて、自信のない人間なのだ。
四季宮さんは「じゃあ、まずは私と話すところから練習しよう」なんて言ってくれたけど、果たしてそれで改善するかどうか……。
「最近茜ちゃん、あの子と仲いいねー。誰だっけー? あの、ほら、えーと」
「藤堂真崎君?」
「そーそー、藤堂君。前からあんなに仲良かったっけ?」
教室の中から僕の名前が聞こえて、思わず扉にかけた手を引っ込めた。
条件反射とでも言えばいいのか。気にせず入れば良かったのに、これではまるで盗み聞きしているみたいで、ちょっと決まりが悪い。
四季宮さんと話しているのは、八さんだった。
八織江さん。四季宮さんの親友で、四季宮さんとは別方向に突き抜けて明るい子だ。嫌いではないけど、苦手なタイプだった。
「んー、仲良くなったのはここ最近かな?」
「ほへー。なんかあったの?」
「それは秘密ー」
「えー! なんでよー! 私と茜ちゃんの仲じゃんかー!」
どうやら教室の中には二人しかいないらしい。
同じく、廊下側にも僕以外に人影はない。
だからだろうか、二人の声は、扉を挟んでいてもよく聞こえた。
「だーめ。織江ちゃんには、もう私の秘密知られちゃってるから。これ以上バレちゃったらフェアじゃないもん」
「いいじゃんアンフェアでもー。秘密握りたーい。茜ちゃんを牛耳りたーい」
「ふふ、なにそれ。変なの」
秘密……秘密ってなんだ? と首をかしげる。
自遊病のことかと一瞬思ったが、それは八さんですら知らない内容だったはずだ。
だとすれば一体……。
「藤堂君とお出かけとかしたんっしょー?」
「したよ。この前は一緒に激辛ラーメン屋さん行ったんだー」
「ずるーい! 私も行きたーい!」
「織江ちゃんは辛い物苦手でしょ?」
「うぬぬ、そうだけど……そうだけどぉ」
ちなみに四季宮さんは僕がひいひい言いながら食べ切ったラーメンを、ぺろりと平らげていた。カーディガンを脱ぐ要素なんてどこにもなかった。これなら他の誰かと来ても問題なかったのではないかと思ったが、単純に、八さんと一緒には来られない場所に付き合わされただけだったのかもしれない。
「でもさあ、大丈夫なの?」
「大丈夫って……何が?」
「いやー、ほら」
「茜ちゃんの婚約者の話、藤堂君は知ってるの?」
がつっ!
と大きな音がした。
それが、僕が扉にぶつかってしまったからだと気づくのに数拍の間を要した。
加えて、真っ白になった頭が稼働するまでにもう数拍。
不審に思ったのだろう。
がらりと扉がスライドしたかと思うと、八さんがきょとんとした顔で立っていた。
「あ、ありゃ? 藤堂君、なんでこんなところに――」
何か言われる前に、僕は走り出した。
荷物は全部教室に置きっぱなしだったけど、知ったことではなかった。
何かに追われるように、バクバクと荒く脈打つ心臓の音を聞きながら廊下を走り抜けた。
「真崎君、待って!」
呼ばれた気がしたけれど、気のせいだったかもしれない。
僕の都合のいい聞き間違いだったかもしれない。
彼女に引き留めて欲しいと願う、僕の頭が勝手に作り上げた幻聴だったとしても驚きはしない。
※
その日の夜、あらかたの事情を話し終えると、御影は開口一番に言った。
「あのなあ、俺はお悩み相談窓口じゃなんだが」
「知ってるよ、そんなこと」
「毎度毎度、納期ギリギリに電話かけてきやがって……」
知るもんか。
お前だって僕の予定なんてガン無視で、イラストのチェッカーさせるじゃないか。
「ったく織江のやつ……もうちょっと声落として話せっつーの……」
「なんか言った?」
「いや、なんでもない」
何事もなかったように、御影が言う。
「んで、お前はその婚約者の話を聞いて、ショックを受けていると」
「……ちょっと違う」
「何が違うんだよ」
「ショックを受けてることに、ショックを受けてるっていうか……」
期待なんてしていないつもりだった。
四季宮さんと僕では、住んでいる世界が違う。クラスで人気者の彼女が、僕と仲良くしてくれているのは、たまたま僕が、自遊病のことを知ったからだ。あの日、階段で僕が彼女を受け止めなければ、きっと卒業まで会話を交わすことすらなかっただろう。
家によばれたり、プールに一緒に遊びに出かけたりしたのは、彼女の欲求に合致する人物が、たまたま僕だったというだけの話だ。
だから、勘違いしてはいけない。期待するなんてもってのほかだ。
そう自分に言い聞かせていたはずなのに、婚約者の話を聞いた瞬間、頭が真っ白になってしまった。そんな自分に、ショックを受けた。彼女と特別な仲になれるのではないかと無意識下で期待していた自分に、幻滅した。
「ふーん。面倒くさいやつ」
「うるさいな……。お前にだけは言われたくない」
「それで、お前はこれからどうするわけ。四季宮さんとのつながりを全部、切っちまうのかよ」
「それは……」
例えばまた、彼女から遊びに誘われたら……僕はどう思うのだろうか。
……うん、嬉しいだろうな。四季宮さんと遊ぶのも、話すのも、とても楽しいから。
だけど同時に、辛くもあるだろう。これまでと同じように、四季宮さんに接することができるかどうか、自信はなかった。
「……分からない」
「ま、そうだろうな」
炭酸の抜ける音がして、御影は少しの間黙り、そして続けた。
「何はともあれ、お前はまず、四季宮さんから直接話を聞くべきだと思うぜ。お前が走って逃げた時、呼び止めてくれてたんだろ?」
「……多分」
幻聴だったかもしれないけど。
「だったら一度、ちゃんと二人で話し合ってみるんだな。愚痴ったり嘆いたりすんのは、その後でも遅くないだろ」
「それはそうだけど……」
その時、スマホが一つぶるりと震えた。
四季宮さんからだった。
着信音が聞こえたのか、御影が問う。
「メッセ?」
「うん、四季宮さんから。今日のことについて、明日詳しく話したいって」
「ふーん、良かったじゃん」
「良かった……のかな?」
僕は、今日突然逃げてしまったことを謝りつつ「了解」と打ち込む。
いつも通りの味もそっけもない返事が、なのになぜか、よそよそしく見える。
「お前、鈍感だな」
「何がだよ」
さっきから、御影の発言がイマイチ要領を得ない。
良かったとか鈍感だとか……いったい何の話をしてるんだ?
御影はあきれたようにため息をついて、続けた。
「あのなあ。婚約者がいることなんて、別にわざわざお前に言う必要ないだろ? ただの友達に家の事情を全部話す義務なんてないしな」
「うん」
「なのに四季宮さんは、お前に話したいって言ってるわけだ。わざわざ、メッセまでおくってきて」
「だから、それがどうしたんだよ」
「脈ありってやつじゃねぇの?」
僕は数舜、御影の言葉の意味を考えて。
そして力なく笑った。
「それはないよ」
確かに僕たちがただの友達なら、そういう解釈もあったかもしれない。
だけど、僕たちは普通じゃない。
幻視と自遊病。
互いの秘密を知っている関係。
四季宮さんにとっては、自分の全てをさらけ出せる、唯一のクラスメイト。
だからきっと四季宮さんは、僕に隠し事をしていたことを少し気に病んでいて、すべてを話したいと思ったのだろう。まじめな人だ。
僕の覇気のない声を聴いて、今日は何を言っても無駄だと思ったのだろう。
御影は話をまとめた。
「とにかく、さっさと明日話を聞いてスッキリさせて来い」
「うん、分かった。ありがとな、御影」
「礼なんていらねーよ。つーか、二度とこんな電話はごめんだからな」
通話がぶつんと切れる。
僕はスマホをベッドに投げ出して、そのまま自分の体も横たえた。
明日の夜には、この心のもやもやも、晴れているだろうか。それとも、もっと陰鬱な気持ちになっているのだろうか。
たった六十秒先の未来しか見ることのできない僕には、あずかり知らぬことだった。
そして翌日。
僕は思わぬ形で、四季宮さんの婚約者について知ることになる。
もっと正確を期して言うならば――僕は彼女の婚約者と、会うことになる。
【5】五十二日前
銀山成明(ぎんやま・なりあき)という人物に出会った時、僕は世界の不条理さというものを、改めて感じることになった。格の違いというものを、具現化して、人の形にして、それをまざまざと見せつけられている気分になった。
銀山成明は医者だった。高身長だった。スリムだった。猫の目のように悪戯っぽく、犬のように人懐っこい瞳の中には、理知的な光が宿っていた。顔立ちは整っていた。仕立ての良い服を着こなしていた。身に着けている全ての物が高級そうで、全身から品の良さを感じた。
いや……違う、こうじゃない。
いくら言葉を並べ立てても、どの言葉も正鵠を射ているような気がしない。
ただ単純に、一言。
たった一言で言い表した方が、しっくりくる。
銀山成明は勝者だった。
おそらく何事においても、あらゆる勝負事や障害といった、人生の中で横たわっている困難を目の前にして、彼はことごとく勝ってきたのだろう。
勝負に負け、あるいはそもそもリングの上にすら立たなかった僕とは、対照的に。
比較対象にするのもはばかられるほどに。
そう、思わされた。
「茜ちゃん。迎えに来たよ」
放課後、僕と四季宮さん、そして八さんの三人は、駅近くのファミレスに向かうべく、学校を後にしていた。今日はそこで、四季宮さんの婚約者について、話を聞く予定だった。八さんもあの場にいたので、一緒に説明をしてくれることになっていたのだ。
けれど。
「近くに車を止めてある。家まで乗せて行ってあげるよ」
「銀山、さん……。どうしてここに……?」
四季宮さんが彼の名前を読んだ瞬間、僕はこの人が婚約者なのだということを、半ば本能的に察した。
「父さんたちからの呼び出しだよ。聞いてない?」
「私のところには、何も……」
「そうか。まあ、二人とも忙しいからね。伝え忘れたのかもしれない」
「あの、今日はこれから用事があって――」
四季宮さんの言葉を遮るように、男は首を横に振る。
「残念だけど重要な話があるらしくてね。今日は来てもらわないと困るんだ」
そうして、理知的な光をたたえた目を僕らに向けて、続ける。
「お友達かな? 初めまして、銀山成明といいます。申し訳ないんだけど、今日のところは予定をキャンセルしてもらえないかな?」
僕と八さんが何か言う前に、声をあげたのは四季宮さんだった。
「そ、そんな勝手な……!」
「勝手なのは父さんたちの方さ。そして君も、こういう事態には慣れた方がいい。僕も今日は、もともとあった予定を断って来てるんだよ」
「それは私とは、関係ないじゃないですか」
「茜ちゃん……それを今、僕に言われても困るよ。文句があるなら、直接、父さんたちに言った方が効果的だし、生産性もあるだろう? 僕の方が言いやすいし、責めやすい気持ちは分かるけどさ」
「せ、責めるなんて、そんなつもりじゃ……」
「ごめんごめん。少し、意地の悪い言い方だったね。とにかく、ここで僕たちだけで話をしていても、解決しない問題だと思わない?」
「それは……」
四季宮さんは終始、歯切れ悪く答えていた。
僕がこれまで四季宮さんに抱いていた印象は、自由、だった。
何事にも縛られず、死に至ろうとする病を相手取っても、明るく生きる。ポジティブという名の翼を背中にはやして、大空を自由に飛び回る、そんなイメージ。
だけど今、四季宮さんは、まるで鎖に縛られているかのように、歯切れ悪く、不自由そうに言葉をつないでいた。
やがて四季宮さんは、視線を地面に落としながらつぶやいた。
「分かりました……。先に駐車場に向かっていてください。私は少しだけ、二人に話があるので」
「了解、準備しておくよ」
それじゃあ。とさわやかな笑みを残して、銀山さんは去っていった。
すらりとした後ろ姿が曲がり角の向こうに消えると、四季宮さんは口を開いた。
「あ、はは……。ごめんね、急に。びっくりさせちゃったよね」
「やはー。話には聞いてたけど、実物は初めて見たなー。やっぱり、あの人が……?」
八さんの問いに、四季宮さんは頷いた。
「うん、私の婚約者。銀山成明さん。私のかかりつけの病院で働いてる、お医者さん」
「ハイスペックだねえ……。前世でどんな善行積んだら、あんなふうに生まれ変われるんだろ」
八さんの軽口には付き合わず、四季宮さんは僕の方を向いた。
「今日、説明するって言ったのに、ごめんね。明日は大丈夫だと思うから、また放課後に――」
「いいですよ、気にしなくて」
僕は答える。
自然と、笑っていた。
脳裏にこびりついた、銀山さんの笑顔が離れなかった。
「そもそもわざわざ機会を作って説明をしてもらう方がおかしい話なんですよ。婚約者がいます、はいそうですかって、ただそれだけのやり取りで済む話じゃないですか。むしろ四季宮さんに無駄な時間を使わせずに済んでよかったって気持ちでいっぱいですよ」
「真崎君……」
「すごくいい人そうですね、なんだか安心しました。いや安心しましたなんて言う立場じゃないですよね、あはは、すみません。お医者さんでお金持ちでスマートで背が高くてセンスが良くて笑顔が素敵で。うん、四季宮さんにぴったりじゃないですか」
「真崎君……お願い、少しだけ話を――」
「それに」
止まらない。
言葉が、止まらない。
自分を守るためのくだらない言葉が。
現実逃避をするための無意味な言葉が。
膿を絞り出すみたいにあふれて仕方がなかった。
「ぼ、僕たちは最近ちょっと一緒に遊んだだけの仲じゃないですか。そりゃあ僕は友達がいませんし、四季宮さんくらいしか遊ぶ相手はいませんでしたけど、四季宮さんはそうじゃないでしょう? たくさんいる友達のうちの一人。それが僕です。だから……だから僕にそんなプライベートなことをいちいち説明する必要ないですよ」
どれだけ科学が発展しても。
いまだに開発されていない技術がある。
一度口にしてしまった言葉を、取り消す方法。
相手に届く前に、相手が理解する前に、なかったことにする方法。
いかなる事情があったとしても、口から出た言葉は空気をふるわせ、相手の耳に届き、鼓膜をゆさぶり、電気信号となって脳内を走り回った末に、僕の意図を相手に届ける。
今日日(きょうび)、メッセージアプリですら削除機能があるというのに、まったくもって、口頭でのやりとりというのは原始的でしょうがない。
どれだけ取り消したいと願っても、心の底から後悔しても、一度口にしてしまった言葉には責任が伴うなんて、やり直しがきかないなんて、ちゃんちゃらおかしいじゃないか。
そんな余談に。
現実逃避に。
僕がふけっている間に、四季宮さんは姿を消していた。
最後の僕の言葉に、彼女はなんて返したのか、まったく記憶になかった。
もしかしたら、何も言わなかったのかもしれないけれど。
だけどせめて、彼女の顔くらいは、見ておくべきだった。
相手の目すら直視せずに、一方的に言葉を投げかけるなんて……どこまでも僕は、卑怯者だ。
「えー、っと。藤堂君?」
ぽんと肩を叩かれる。八さんだった。
てっきり、もうとっくの昔に帰ってしまったと思っていた。
「な、なんでしょうか……」
「ぐーって、奥歯噛んで?」
「おくば……?」
「そ、ぐーって。うん、そっそ、そんな感じ。しばらくそのままでいてねー。いくよー! せーのぉっ!」
肺から空気が抜ける音がした。
衝撃と、次いで思い出したように鳩尾に走る痛み。
なるほど、奥歯を噛ませたのは、反動で舌を噛んでしまわないようにするためか。優しいんだかそうじゃないんだか、いまいち判断に困る行為だ。
痛みと吐き気に悶えながらも、頭のどこかの一部は冴えているようで、そんな毒にも薬にもならないことを考える。
「がはっ……はっ……ぁっ……げぁ……」
「藤堂君。私はねえ、今、大変に怒っています」
……でしょうね。
怒ってないのに人を殴るような人じゃなくて、逆に安心しました。
依然、えづいてまともに会話できない僕を見下ろしながら、八さんは、
「つーわけで、反省会するよ! ファミレスまでちょっと面貸せやー、だよ!」
四季宮さんもなかなか強引だったけど、この人も強烈だな……。
まだ完全に回復していない僕を、半ば引きづるように、有無を言わさず歩かせる八さんの姿を見て、そう思った。
※
「なーんか藤堂君って、サバの味噌煮って感じの顔してるよねー」
絶妙に反応に困るセリフをありがとうございます。
ドリンクバーから戻ってきて早々、なかなかいいパンチを放ってくれる。
「はあ……」
「えー、反応薄くなーい? こんなに褒めてるのに」
褒めてたのか。分かるか、そんなもん。
「そ、そんなことより、八さん――」
「次、私のことを苗字で呼んだら、藤堂君の体中にハチミツ塗りまくって山の中に放り出して、裸一貫男のカブトムシ祭りを開催する準備がこっちにはあるけど、どう?」
「すみません、こっちには準備がないです」
「ふっ、なら次から私のことは、織江ちゃん、と呼ぶことだな。もしくは織江さん、でもギリギリ可。じゃないと……この先の宇宙戦争で生きていけないぜ、藤堂将軍?」
世界観が全然分からない。せめて統一して欲しい。
女子を下の名前で呼ぶのには抵抗があるけど……仕方がないか。
八さんが自分の苗字を好きでないことは有名だった。なんでも、犬っぽいから嫌なのだそうだ。猫派なのだろうか。
「ちなみに私は、藤堂君のこと、苗字で読んだらいい? 名前で呼んだらいい?」
「どっちでも大丈夫です」
「んじゃ、藤堂君で。いいよね、かっこいい苗字。私の結婚したい苗字ランキング第二十三位くらいにランクインしそー」
また微妙な順位だな……。
「ちなみに、私が結婚したくない苗字、堂々の第一位はポチ。次いでぺス」
そんな苗字の日本人がいてたまるか。
どうにも、ツッコみどころの多い人だ。話す言葉の一つ一つが独特な感性で形作られていて、絶妙なバランスで仕上がっている、現代アートみたいな印象を受ける。
猫毛なボブヘアーをくりくりといじりながら、八さん……もとい、織江さんは言う。
「なかなかツッコんでくれないね」
「すみません」
「だけど心の中ではツッコんでくれてると見た」
「……」
「しかも割とキレキレの言葉で」
キレがあるかどうかは置いとくとして、その他はまあ、当たりだ。
そんなに顔に出ていただろうかと、頬をかく。
「ま、ぜーんぶ茜ちゃんの受け売りなんだけどー」
「四季宮さんの……?」
「そっ。『真崎君って普段はあんまり喋らないんだけど、でも実は結構お喋りだと思うんだよね。最近は段々と素の部分が出てきてる気がして嬉しいんだー』ってさ」
心臓を。
わしづかみにされたような気がした。
四季宮さんが、そんなことを……。
荒れた呼吸を整えつつ、織江さんの話に耳を傾ける。
「最近の茜ちゃんったら、藤堂君のことを話す話す。まったく、私ってば柄にもなく嫉妬しちゃいそうになるくらいだったぜー」
あ、嘘だよ? 勢いで言っただけだから気にしないで? とすかさず織江さん。反応に困ったので、僕はメロンソーダに口をつけた。
そうか、四季宮さんが僕の話を……。
「家で服装をほめてもらった話とか、プールで一緒に遊んだ話とか、その他もろもろまとめて全部、すっごい楽しそうに話してくれたんだよ。へい、思い出の活け造り盛り合わせ一丁あがりぃ! って感じ」
織江さんは、一セリフに一回ボケないといけない縛りでも自分に課しているんだろうか。
いちいち反応しているとキリがないので、適度にスルーすることにした。
「だからさ」
一転。
「あんな風に言われたら、茜ちゃん、きっとショックだったと思うんだ」
「……はい」
それまでのセリフとは打って変わって、飾らない、ストレートな言葉は、僕の胸をざくりと貫いた。じんじんと熱を持っているみたいにうずく気がして、思わず手を当てる。
「だからまあ、なんていうか、ほら、あれよ。そういう、茜ちゃんのピュアピュアで可愛いところを見てたから、ちょっと藤堂君に腹が立ったというか、焼きを入れたくなっちゃったというか……。つまり何が言いたいかというと――」
乾いた音を立てて、織江さんは両手を合わせて頭を下げた。
「殴ってゴメン!」
なんで謝られているのか一瞬理解できず、そういえばさっき鳩尾を殴られたなと思い出した。
反応がなくて不安に思ったのか、合わせた手の脇からちらちらとこちらの様子をうかがってくる織江さんの仕草が面白くて、思わず笑ってしまいそうになる。
この人も、いい人なんだな。
色々と強烈だし、エネルギッシュだし、僕とは全く相容れない性質の人だとは思う。
それでも、裏表のない真っすぐな人だということは、この短時間でも嫌と言うほど伝わってきた。
「いえ……謝らないでください。正直、あの時殴られて、少しほっとした自分がいたのも事実なので」
「え、真崎君って殴られるのが好きなの?」
「はっ倒しますよ」
「きゃはは! ツッコまれたー!」
やっぱり苦手だ、この人……。
でも……さっきの言葉に嘘はなかった。自分の言葉で四季宮さんを傷つけてしまった僕を、織江さんは咎めてくれた。それだけで少し、救われた気がしたんだ。
「うーん。私が言うのもあれだけど……ダメだよ? ちゃんと本人にも謝らないと」
「分かってます……。ちゃんと、いつか……折を見て……絶対……」
「うわー、だめそー」
「言わないでください……。自分でも分かってます……」
「だいたいさー――っと、失礼」
テーブルの上に置いていた織江さんのスマホが震えた。
ぽちぽちとスマホを弄ったのち、織江さんは何とも言えない表情で、唇をぐにっと曲げた。
「芳しくないなあ」
「何がですか?」
「これ、茜ちゃんからメッセなんだけどさー」
くるっとひっくり返して見せてくれた画面には「婚約者のこと、真崎君に説明しといてくれないかな」とあった。
「お前が自分で言うんだよっ! って、本当なら返したいところだけど……まあこればっかりは仕方がないかあ」
当然だけれど、僕の方にはメッセは来ていなかった。あんな別れ方をしたのだから、当たり前だ。分かってはいても、心は沈む。どこまでも自分勝手だな、僕は……。
すっくと織江さんは立ち上がり、空になったコップを掴んだ。
「藤堂君、ちょっと長い話になるから、ドリンクバーお代わりしようぜ。二杯目以降の代金は、私が奢るからさ」
ドリンクバーはいくら飲んでも一杯目の代金だろうと思ったけれど、僕は何も言わずに黙って彼女に従った。
結論から言えば、四季宮茜と、彼女の婚約者、銀山成明の関係は、筆舌に尽くしがたいほどにふざけていた。時代錯誤も甚だしく、現代日本でそんなことがまかり通っていい物なのかと、誰かを責め立てたい気分になった。
「気持ちは分かるよ、藤堂君。でも、本当のことなのさ」
「あり得ないでしょう……そんな、四季宮さんを、道具、みたいに……」
要約すれば、以下の四点にまとめられる、非常に単純で不愉快な図式だった。 一、四季宮家は代々個人病院を経営していた。
二、今の経営者である四季宮和夫(しきみや・かずお)、つまり四季宮茜の父親は四季宮家に婿入りし、若くして病院長となったが、本当は大学病院で研究がしたかった。しかし今からではポストにつくことも難しく、また病院を手放すこともできなかった。
三、そんな時、南浜大学病院の病院長である銀山匠永(ぎんやま・しょうえい)は、四季宮父に目を留め、ポストを用意すること、四季宮病院との移転統合を持ち掛けた。
四、その契約の代価として、銀山総合病院院長の息子、銀山成明と四季宮茜は結婚することになった。
「結婚って……僕たちはまだ、未成年で……」
「そ、だから婚約状態。法的な拘束力は無いけど、ゆるーく縛り付けられてるって感じかな」
「いったいその契約で、向こうにどんなメリットがあるって言うんですか……」
「どうにも、今の院長が茜ちゃんのことをいたく気に入ってるらしくってさー。孫息子の嫁にすることで、手元に置きたがってるんじゃないかって話らしいよ」
織江さんは淡々と語った。
努めて、淡々と語った。
「んで、あの銀山成明って人は……まあ悪人じゃないらしいんだけど、事なかれ主義っていうのかな。あんまり院長に反発したりはしないみたいなんだよね」
「だからって……」
「それにあの人、今他にお付き合いしてる人もいるらしくてさ。プレイボーイって感じ」
聞けば聞くほどに頭痛がしてきた。現実でそんなことが起こっているという事実が信じられない。強要している銀山家も、許容している四季宮さんの家族のことも、まったくもって理解できなかった。
「四季宮さんは、どうして反発しないんですか?」
「私も一回聞いてはみたんだけどね」
「なんて言ってたんですか」
「『お父さんの言うことには逆らえないから』『お母さんたちも歩んできた道だから』って。それだけ」
どうやら四季宮家は代々、病院を維持・拡大するために、他の病院の後継ぎと自分の息子や娘を政略結婚させてきたらしかった。
家系的に、それが当たり前だから。幼いころからずっと、そう躾けられてきたから。だから、抗うだけ無駄だと、四季宮さんは感じているのだろうか。
「そんな……」
「それ以上は私も深く突っ込めなかったけどさ、茜ちゃんも……あんまり踏み込んで欲しくなさそうだったし。もしかしたら、昔は反発、してたのかもしれないね」
それは、想像するだけでも恐ろしい仮定だった。
もし四季宮さんがあがいて、抵抗して、それでも抑圧された末に今の彼女があるのだとしたら。それでもあんな風に、屈託なく、明るく笑っているのだとしたら……。
「ただ幸い、今はその話も、雲行きが怪しいみたいなんだ」
「え……?」
「なんかね、婚約の話が決まってしばらくして、茜ちゃんが何かの病気にかかっちゃったらしくて。元々は高校を転校して銀山家の近くに引っ越す予定もあったみたいだけど、それもキャンセル。今は病気の治療に専念しようって話になってるらしいよ」
あ、これ絶対に秘密だよ? と神妙に言う織江さんに無言でうなずきつつ。
僕はその病名に心当たりがあった。
自遊病。
寝る度に彼女を死に向かわせる、奇病。
確かにそんな病気にかかっている女性には、何よりも先に治療を施すべきだ。
恐らく、病気の原因は心因性、過度なストレスから来るものだろう。そして、ストレスの原因は明らかだ。
強要された婚約。許容してしまった婚約。
仮に本当にそれが、自遊病の根となっているのだとしたら。
四季宮さんの自遊病は、永遠に治らない。
そして、婚約計画が進められることもない。
自遊病。
自由病。
なんて……なんて皮肉な構図。
「ん、どうしたの、真崎君?」
「いえ……教えてくれて、ありがとうございます」
医者の家系は、何かとしがらみも多いと聞く。四季宮さんの自遊病は、あまりにも特殊で、それゆえに注目を浴びてしまうだろう。ふとした瞬間にバレてしまう可能性や、変な噂が立つことを恐れて、自遊病が完治するまでは結婚の話は進められないのかもしれない。それでも結婚の話が破談にならないところに、この話の後ろ暗いところが透けて見えるが。
四季宮さんがすぐに結婚するわけではないと知り、正直少し安心した自分がいる。
その一方で、改めて事の大きさを知り、茫然としてしまっているのも事実だった。
彼女を今の状況から救い出したいと言う気持ちは、少なからずある。
けれど、具体的にどうすればいいのかについては、まったく見当がつかなかった。
ただの一介の高校生。その中でも別段なんの取り柄もなく、非力で口下手で、臆病な僕に、一体何ができるというのだろうか。
唯一の特技と言えば――
刹那、視界がセピア色に染まり、織江さんがグラスを倒して、ジュースを思いっきりこぼしてしまう光景が目に映った。
……ちっぽけだよな、ほんとに。
自嘲しつつ、グラスの位置をさりげなくずらして、小さな危機を回避することにした。
一分後、さっきまでグラスがあったところに織江さんの腕がぶんと振り下ろされて、僕はほっと胸をなでおろす。
僕にできることなんて、この程度のものだ。
ジュースがこぼれるのを回避させるくらいの、本当につまらない能力。
どうせ不可思議な能力が宿るなら、もっと強力で凶悪な、それこそ、四季宮さんを一瞬で危機から救い出せるくらいの力が良かったのに。
この件に関して、僕は無力だ。それだけは分かる。
「というわけで、藤堂君!」
ネガティブな思考を叩ききるように振り下ろされた手は、人差し指がぴんと立っていて、僕の眉間をまっすぐ指していた。
「君は早急に、茜ちゃんと仲直りする必要があるのだよ!」
どういうわけでその結論に至ったのかは謎だけど……。
早めに謝って、少しでもいい関係に戻りたいとは思っている。
つい先日までと同じようにとまではいかなくとも、それに近いくらいには。
「しかし君は臆病だ」
「面と向かって言われたのは初めてです」
「そして残念なことに、この件に限っては茜ちゃんも及び腰なのだ……」
それは僕のあずかり知らぬところだ。だけど、確かに婚約者の話を、織江さんという代理を立てて僕に説明したのは、彼女らしくないといえば、らしくない。
「つまり、二人が仲直りするためには、何かしらのイベントが必要なわけですよ」
一理ある……のか?
確かに何かしらのイベントがあれば、話しやすくはあるかもしれない。
「んでもって、もうすぐ修学旅行の班決めイベントがあるわけです」
「ちょっと待ってください。まさか――」
ここに来てようやく織江さんの言いたいことが分かった僕は、思わず立ち上がる。織江さんはそんな僕の心中なんて察しないみたいに……察しているくせに、言い放つ。
「つまり、一緒の班になっちゃえば、万事解決って感じじゃない? にゃっはー! 私ってあったまいい!」
【6】四十九日前
多種多様な生物が地球上に存在することを、生物多様性、なんて呼ぶらしいけれど。
僕は疑問を感じずにはいられない。
多様な生物が共存することを良しとされているのであれば、なぜ強者生存、弱肉強食なんていう言葉があるのだろうか。
その多様性の中に、弱い者は入れてもらえていないのだろうか。
弱い者を切り落とし、より強い者だけが生き残り、さらにふるいにかけられて落とされて、そうやって残った勝ち組の中の多様性を、僕らは見ているだけなのだろうか。
だとすれば。
三十三人というクラスの中で、ろくに友達もおらず、意思表示もまともにできない、圧倒的マイノリティの僕は、認められない存在なのだろう。
「はい、それじゃあ修学旅行の班決めしまーす。男女混合で四人、もしくは五人グループを作ってくださーい」
そんな風に、僕はいつもこの「グループ分け」というイベントが発生するたびに思い、くさっている。
適当に番号順、もしくは偶数奇数で割り振ってくれればいいのに、高校生活最大の思い出、とかなんだと銘打たれて、班分けは生徒主導で行われることになっていた。
いつも通りであれば、僕はどこかの班の片隅に押し込まれるように入れられて、イベント当日には忍者もかくやという気配の消しっぷりを見せて、フェードアウトするのが定石だ。
「よっし、じゃあ藤堂君は私達と一緒の班になろっか!」
しかし織江さんが元気たっぷりに言ったことで、事態はとてもややこしいことになった。
織江さんは当然、四季宮さんとペアを組んでいたし、彼女たちと一緒のグループになりたい男子は多かった。女子だって、旅行先で彼女たちのグループと合流して、一緒に回りたいと思っていたかもしれない。
そんな中に突然現れた、異物。
目立たず、薄い、白湯みたいなやつ。
毒にも薬にもならないけれど、修学旅行先で進んで共に行動しようとは思えない。
そういう存在、藤堂真崎の突然の登場に、クラス内は不思議な雰囲気に包まれた。
「なんでそいつ?」という言葉が飛び出さなかったのは、このクラスの皆が優しいからなのだろう。ただ、視線と雰囲気はちくちくと僕を刺していた。普段ひっそりと、観葉植物のように過ごしている僕には耐えがたい空気だった。
「なによー、みんなしてこっち見てー。見せもんじゃないぞー。ね、藤堂君」
「なんで僕に振るんですか」
「む? 特に理由はないぞよ」
ちくしょう、やっぱり苦手だこの人……。
「茜ちゃんも、藤堂君と一緒がいーよね?」
「わ、私は……真崎君が、嫌じゃなければ……」
視線は僕から外したまま、四季宮さんは小さく言った。
結局あれ以来、僕たちはろくに会話を交わしていなかった。正確には、一度互いに謝罪をかわしはしたのだけれど、それからも特に状況が改善することはなかった。
織江さんも「こればっかりは二人の問題だから、あんまり私が出しゃばってもにゃー」と、見守る姿勢のようだ。
そんな彼女が考えてくれたのが、こうして修学旅行で一緒の班になって、強制的に話せる場を作ろう! という作戦だったわけだ。
「嫌じゃ、ないですよ……」
「そ、そっか……なら、よかった……」
たどたどしく会話する僕たちを見て、織江さんが何とも言えない表情を浮かべていた。「えーい、じれったいじれったいもどかしい! さっさと仲直りしろよバッカやろー!」という心の叫びが聞こえてきそうだ。
待ってください織江さん、必ず、修学旅行中には必ず、四季宮さんと仲直りしますから……。
それよりも、と、僕は周囲を見渡す。
目下の問題は、こちらではないだろうか。
グループは、四~五人の男女混合で、という話だった。僕たちのグループは、四季宮さん、織江さん、僕の計三人。男女混合の条件は満たしているが、いかんせん人数が足りない。
しかも、僕という異物が入り込んだことで、男子が僕たちのグループに入り込み辛くなっているようだった。
「あの、織江さん。やっぱり僕は抜けた方がいいんじゃ……」
「ふむ、藤堂君はバカなのかな?」
そこまでストレートに言われると、逆に清々しい。
「それじゃなーんの意味もないでしょーよ。だいじょーぶ、手は打ってあるから!」
「手……?」
「神の一手ってやつさ」
きらーん、と効果音が尽きそうなキメ顔で言う。依然として苦手だけど、見てて飽きない人だ。噛めば噛むほど味が出るところが、どことなくスルメに似ている。
「っにしても遅いなー。そろそろ来てくれないと、困るんだけど――」
とその時。
教室の扉ががらがらと開いて、気だるそうな生徒が入って来た。
徹夜明けなのだろう、今にも閉じそうな半目をこすりながら、かかとを踏んだ上履きを引きずって、だけど気負うことなく、堂々と。
因みに余談だけれど、今は六限目が終わった後のホームルームの時間で、あと三十分もすれば下校時間になる。
そんな時間に登校してくる生徒を、僕は一人しか知らなかった。
「御影……?」
「よぉ、おはよ」
「おっそいよ、こーちゃん!」
こーちゃん? ああ、そういえば御影の下の名前って、浩二(こうじ)だったけ。でも、どうして織江さんが御影のことを愛称で呼んでいるんだ?
「るさいなあ、織江。徹夜で仕事してたんだから仕方ねーだろ。来ただけ感謝して欲しーんだが」
お、織江……? こっちはこっちで呼び捨てなのか?
「あー、また生活リズムぐちゃぐちゃになっとるんでしょー。許さんからね。私、今度抜き打ちで家に押し掛けるからね」
「くんな、まじでくんな」
「え、えーっと……?」
色々と理解が追い付いていない僕と……恐らく僕と同じ状況であろう、目をぱちくりさせている四季宮さんに、織江さんはばっちりとVサインをかました。
「よっし、これで四人一班できたね! 修学旅行は、この四人で回るってことで、けってーい!」
話を聞くところによると、御影と織江さんは幼馴染らしかった。なんでも、親同士が大学の友人らしい。小・中と別の学区に通っていたが、高校になって家が引っ越したことで、高校も同じところに通うことになったのだとか。
「そうなんだ、私、全然知らなかったよ」
「学校じゃ話しかけんなって言われてたからねー。遅めの反抗期が来たみたい。かわいいやつー」
やはは、と笑う織江さん。普通そんなこと言われたら、仲が悪くなって、疎遠になって、そのうち会話すらしなくなるだろうに、変わった人だ。
それにしても御影のやつ……。女子との接点が皆無とか言って、がっつりあるじゃないか。
「織江さんが、御影を呼んでくれたんですか?」
「そだよん。修学旅行が最低四人一班っていうのは、事前に先生から情報仕入れてたからね。私ってばかっしこーい!」
「僕と御影が友達ってことも、知ってたんですか?」
「もちもち。こーちゃんの唯一の友達だもん。まあ、こーちゃんには学校ではあんまり干渉しないようにしてたから、藤堂君にも話しかけ辛かったんだけどねー」
そうだったのか。にしても、御影はよくその要求を飲んでくれたものだ。
窓から見える職員室に目を向ける。
僕たちは今、先生に呼び出された御影のことを待っているところだった。
大遅刻した上に、急きょ修学旅行に参加することになった御影は、当然のように担任の先生に連れて行かれ……。かれこれ三十分くらい、帰ってきていない。
あいつなら、こうなることは分かっていただろうに……どうして来てくれたんだろうか。
結局あれから、御影が来たことによって班分けはスムーズに進行し、ホームルームは無事に終了。放課後の教室には、僕たち三人以外、誰も残っていなかった。
「ねねね、茜ちゃん、京都どこ周りたい? やっぱり金閣寺は鉄板? でも清水寺も観てみたいよねー。嵐山ってとこにも行ってみたいなー」
「もー、織江ちゃん欲張りすぎだよー。ほらみて? どれも結構、離れてるんだよ?」
「ぐえー、ほんとだー。これじゃ全部回れないじゃーん。どうせなら全部隣に建ててくれればいいのにねー」
「それは風情がなくない?」
「えー、だって一気に見られてお得じゃん? 藤堂君もそう思うっしょー?」
頭の中でイメージしてみる。
金閣寺を始めとする京都の有名な建物が、ずらりと横に並んでいる。
一歩進んで銀閣寺、三歩進んで祇園四条。
……うん、ないな、これはない。
「得ならいいって考えは、捨てた方がいいと思いますよ」
ぶふっ、と吹き出す音がした。
見れば四季宮さんが口元を両手で抑えて、肩を震わせている。
「え、今のそんなに面白かった?」
と織江さん。そんな怪訝そうな顔で僕を見られても……。
「ウケを狙ったつもりはないですね」
「だよねー。茜ちゃん、たまにツボが分かんないんだよなあ」
「ちっ、ちがうの……。なんか、真崎君がツッコんでると面白くて……」
息も絶え絶えにそれだけ言うと、四季宮さんは涙をぬぐった。
四季宮さんの笑顔を見たのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。なんの影もなく、屈託なく笑う四季宮さんを見ていると、なんだか僕も嬉しくなった。
「あー、かったる! びっくりするくらい絞られたわ」
しばらくすると、投げやりなセリフと共に、御影が職員室から戻ってきた。
どさりと僕の隣の席に腰かけ、机の上にばてた野良犬みたいに突っ伏した。
「おっつかれ、こーちゃん。修学旅行、来られそう?」
「ったりめーよ。すげー量の課題と引き換えに参加権もぎ取ってきてやったわ」
「あはは、課題は自業自得だよねえ」
うっせえ。と軽口をたたき合っていた御影は、僕の視線に気づいてこちらを向いた。
「ん、なんだよ真崎、しけたツラして」
「いや……その……ありがとな」
「あん?」
「修学旅行、来てくれて……」
御影はきっと、織江さんから聞いたのだろう。僕と四季宮さんを仲直りさせるために、修学旅行で同じ班にしたいと。そのためには、御影の力が必要なのだと。
可能な限り自分の仕事に時間を充てて、学校には最小限しかこない御影にとって、課題が足されたり、登校を促されたりするのは、嬉しくなかったはずだ。
それでも、こうして修学旅行に参加してくれたのは……ひとえに僕のためなのだろうと思う。
「この礼は、いつか必ず――」
「お前、何言ってんの?」
けろっとした顔で、御影が言った。
「俺はただ、京都に行きたかっただけなんだけど」
「……は?」
「いいよなあ、京都! 古式ゆかしき都って感じがしてさあ! 飯もうまいらしいじゃん? 京都弁の女子ってのも見てみたいし、一回行ってみたかったんだよなあ」
「インドアの煮凝りみたいなこーちゃんは、相手にされないと思うけどなー」
「ああ⁉ んなの行ってみないと分かんねえだろ!」
つーわけで、と御影。
「俺が修学旅行に行くのは百パーセント俺のためだから、その辺、勘違いするなよな。でもまあ、どーしてもお礼をしたいっていうなら? そーだなあ、ここの蕎麦屋で飯でも奢ってもらおっかなあ」
そう言って御影が指さしたのは、清水寺の近くにある、やたらと雰囲気のよさそうな蕎麦屋さんだった。そばを一枚食べただけで、僕の財布が吹っ飛びそうな店構えをしている。
「ちょっと待て、それはさすがに――」
「あ、ずるーい! 私も私もー! 私は抹茶パフェ奢ってもらおっかなー。ほら、茜ちゃんも選んで選んで!」
気付けば四人、京都の旅行ガイドを囲んで、この店に行きたい、あれを食べたいと意見を交わしていた。
普段、教室の隅でひっそりと暮らしていた僕が、教室の中で度々目にしていた光景。その中に、今、自分がいることが不思議でしょうがなかった。
「真崎君」
四季宮さんが人差し指で僕の肩を叩く。
振り向くと、思っていたよりも近いところに四季宮さんの顔があって、思わずのけぞった。
「ど、どうしたんですか……?」
「ううん、大したことじゃないんだけどね」
小首をかしげ、四季宮さんは控えめに笑って言った。
「修学旅行、楽しみだね」
遠ざかっていた彼女との距離が、少しだけ、縮まった気がした。
【7】三十二日前
十一月下旬。
すっかり冬めいて、風はからりと乾き、冷たさを帯び始めた頃、修学旅行は開催された。
電車と新幹線を乗り継いで行くこと約三時間。
僕たちは無事に京都の地に降り立っていた。
「うっはー! ザ・京都って感じがするねえ、こーちゃん!」
「そうか? 駅周りなんてどこもこんなもんだろ」
「ちっちっち。甘いなあこーちゃん。あそこに立ってるローソクみたいな塔が、もう異国感バリバリだろうに」
「京都タワーな。あと異国ではないだろ。日本だぞここ」
「あ、でも別名ローソクって書いてあるよ。夜には先端が赤くライトアップされたりして、ローソクに似てるんだって。織江ちゃんの言うことも、あながち間違いじゃないかも」
「ふっふーん、無知を晒したねえ、こーちゃん」
「うっぜえ……。今日から二日間こいつと一緒とか耐えられんわ」
なんだとお⁉ と取っ組み合いを始めた御影と織江さん。
元気だ……。
僕はと言えば、慣れない長旅に既に疲れ気味だった。
御影が言っていた通り、今日から二日間、ほとんどの時間が自由行動で、班ごとでの行動が許されている。いくつかの班はもう行動を始めており、三々五々に散って行っているようだった。
「真崎くん、疲れてる?」
ひょこっと、四季宮さんが顔をのぞかせた。
修学旅行の班が決まって以来、僕たちはまた少しずつ、会話ができるようになっていた。
「ちょっとだけ。というか、あの二人が元気すぎるんですよ」
「あはは、言えてる。新幹線の中でも、ずーっと喋ってたもんね」
旅行のテンションにあてられているのだろうか。
四季宮さんは饒舌に話し続けた。
屈託なく話す四季宮さんを見られることは、とても嬉しかった。
「でも気持ち分かるなあ。私もわくわくして、昨日はあんまり寝られなかったもん」
四季宮さんの言葉を聞いて。
僕はふと、彼女は今日からの二泊三日の旅行中、寝るときはどうするのだろうかと思った。
四季宮さんは織江さんと同じ部屋だけど、自遊病のことを彼女は知らないはずだ。
とはいえ、同じ部屋で過ごしていて、手錠で縛って寝ているところを隠すのは、さすがに無理があるのではないだろうか。
「夜はね、別室を用意してもらってるんだ」
四季宮さんは、僕が考えていることが分かっているかのように言った。
「体調が悪くなってー、って理由で抜け出して、その部屋で寝るの。だから、織江ちゃんとはあんまり一緒の部屋にいられないんだよね。一人にしちゃって、ちょっと申し訳ないけど……」
「しょうがないですよ」
これに関しては、何よりも四季宮さんの身体の無事が優先だ。織江さんだって、目が覚めた時に横で傷だらけの友達が寝ていたら、一生物のトラウマになるだろう。
「まあねー。あーあ。折角の修学旅行なのに、夜は一人なんてつまんないなー」
「夜は寝るだけですし、一人でも大丈夫なんじゃないですか?」
「何言ってるのさ、真崎君。修学旅行といえば、夜が本番なんだよ? 枕投げたりお菓子パーティーしたり、恋バナしたりするのが、メジャーな楽しみ方ってやつだよ」
「それは知りませんでした」
「だからさ……その……」
一拍置いて、四季宮さんは言う。
「あ、遊びに来てくれても……」
しかし四季宮さんが発した言葉は。
喧騒の波にもまれて、僕の耳に届くことはなかった。
「……? すみません、最後の方よく聞こえなくて……。もう一度言ってもらってもいいですか?」
「う、ううん! なんでもない! ごめんね、今のはなし! 忘れて!」
わたわたと両手を振ったかと思うと、四季宮さんは織江さんたちの方に駆け寄っていった。
なんだったんだろうと首を傾げつつ、僕もその後を追った。
僕たちの班は、清水寺から八坂神社、祇園四条を経て、鴨川へ出るルートを選択した。京都の東側をぐるりと一周する形になる。他にも見たいものはたくさんあったけれど、寺も神社も歓楽街も、満遍なく観光できるし、最後に着く河原町付近が、夜の集合場所だったということもあり、満場一致で決定したのだった。
誤算だったのは、地図で見ていたよりも遥かに長い距離歩く必要があったということだ。
清水寺付近はかなり道に勾配があったし、八坂神社や祇園四条付近は観光客でにぎわっていて、前に進むのも一苦労だった。
夕方、ようやく鴨川に着いた頃には、僕たち四人ともヘロヘロになっていて、橋の上からぐったりと鴨川を見下ろしていた。
「やはー……疲れたねえ、茜ちゃん」
「ねー。足の裏がじんじんするよ」
「絶対ペース配分間違ったよなあ。新幹線の中ではしゃぎすぎたわ……」
「こーちゃんは引きこもってるから体力落ちてんじゃないのー? やーい、もやしっこー」
「今はお前の軽口に付き合う元気も残ってねえよ……」
「あはは、みんなガス欠って感じだね。真崎君、大丈夫?」
僕はもったりと手を挙げて答える。
「大丈夫じゃないです……」
「ただでさえ口数が少ない藤堂君が、最後の方はずーっと無言だったもんねー。人混みにもまれて消えちゃうんじゃないかと思ったわー」
やははと笑う織江さんを諭しながら、四季宮さんがお茶を差し出してくれた。
「さっき買ったばっかりだから、まだあったかいよ」
「いや、でも……」
「大丈夫大丈夫、まだちょっとしか口付けてないから、たくさん入ってるし」
ちょっとでも口をつけてることが問題なのでは?
とはいえ折角の好意だし、あまり押し問答をする体力も残ってなかったので、僕はありがたくペットボトルのお茶を受け取った。
十一月も下旬になると、川近くに吹く風はかなり冷たい。まだ十分に温かいお茶は、疲れた体にしみわたった。
「さって。じゃあちょっとばかし休憩もできたことだし、我がグループの本日最後となるイベントを開始しましょっかぁ! 集合時間まで、もうそんなに時間もないしー」
「本日最後? もう鴨川でゴールじゃないの?」
「ふっふっふー。甘い、甘いぞ茜ちゃん! 私が何のためにゴールをここに設定したと思ってるのだ!」
「んーと、クラスの集合場所が、ここから近いから?」
「ぶっぶー」
織江さんはバッテンを作ると、
「正解はー……あれでーす!」
じゃん! と両手をそのまま前に向けた。そこには当然のように鴨川が広がっていて、川岸の店にぽつぽつと明かりが灯り始めていた。
あたまに疑問符を浮かべた僕と四季宮さんだったが、どうやら御影は何かを察したらしく「あー、なるほどね」と呟いた。
「どういうことですか?」
「おやおや? 藤堂君には見えてないのかな? あの、等間隔に座るカップルたちが!」
どうやら織江さんが言っているのは、川のことではなく、川岸のことだったようだ。
よく見てみると、川岸には人が座り、並んでいた。
「なんでも、京都の鴨川には、カップルが等間隔に座るっていう文化があるらしいよ!」
「言われてみれば、確かに等間隔だな。すげー」
「でしょでしょ! これはもう、見てるだけじゃもったいないよね? 私たちも体験してみるしかないよね⁉」
「いや、別にここから見て写真撮るだけでもいいんじゃ――」
「シャラップ藤堂君。それ以上の発言は私が認めない」
暴君ですかね。
「と、いうわけで。私とこーちゃん。藤堂君と茜ちゃんのペアで座ってみよーぜ!」
おー! と右手を振り上げる織江さんに、四季宮さんが慌てて口を挟む。
「ちょ、ちょっと待って、織江ちゃん! もうペア決まってるの?」
「ったりまえじゃーん。私と茜ちゃんペアでもいいけど、それだと藤堂君とこーちゃんがペアになっちゃうでしょ? 女の子二人はいけても、あのカップルの列に男二人は厳しいでしょー」
「だったら、僕と御影はここで待っててもいいんじゃ――」
「君に発言は許可していないぞ、少年」
だから暴君かよって。横暴にもほどがある。
「だったらもう、藤堂君と茜ちゃんがペアになるしかないじゃない? 私はまー、しゃーなしで? しゃーなしで、こーくんと組もうかな!」
「そうだな。まあ俺も、真崎と織江なら、しゃーなしで織江を選ぶかな」
「は? 何言ってんの。そこの二択なら秒で私を選びなさいよ。いや、たとえ私とマリリンモンローの二択だったとしても、私を選びなさいよぉ!」
「……。なんでマリリンモンロー……?」
漫才をしながら川岸に降りていく二人を、僕と四季宮さんはぽかんと眺めていた。
途中、織江さんが振り返って、さっさと来いとばかりに右手をぶんぶんと振り回し、御影にたしなめられていた。
僕は特に興味もないのに、近くでこうこうと光を放っているドラッグストアの看板をじっとながめながら、
「え、えーと……、じゃあ、行きますか……?」
「そ、そうだね。折角だし、私たちも体験してみよっか」
ちらりと四季宮さんの顔を盗み見ると、どうやら彼女はでかでかと存在感を放っている中華料理屋の看板に、興味津々なようだった。
人混みをかき分けながら、僕と四季宮さんはてんでバラバラな方向を見つつ、川岸に向かって歩き出した。
パーソナルスペースという言葉がある。日本語に訳せば対人距離、つまり、他人に近づかれると不快に感じる空間のことだ。
女子よりも男性の方がパーソナルスペースは広いだとか、何センチメートルまでは近しい人にしか入って欲しくないだとか、様々な定義づけがされているようだけど。
こうして等間隔に座っているカップルたちを眺めていると、パーソナルスペースというのは実は人類一律共通で、明確なラインがあるのではないかと思えてしまう。
そう考えてみると、これ以上は入ってきて欲しくないという一定の距離が視覚化されているこの鴨川の河川敷も、なんとも意味深く思えてしまう。
距離にして約二メートル。人は通常、これくらいの距離を見ず知らずの他人と保ちたいと感じているのであれば。今日乗った満員のバスや、押しのけながら歩いた人混みにいるだけで、僕たちは日々、多大なるストレスを感じていることになる。生きているだけでストレスを感じる社会というのは、ひどく息苦しい。うん、やはり人間は増えすぎたのだ。大体半分くらいの数くらいで、丁度良いんじゃだろうか。
「真崎君、今、何考えてたの?」
人類の数を減らす方法についてです、とは言えず、僕は「大したことじゃないです」と返した。
今、僕の隣には四季宮さんがいる。
パーソナルスペース的な区分で言えば、密接距離。大体三十センチメートルほどしか離れていない距離に、四季宮さんが座っている。
別に大したことはない。
それこそ、満員バスの中、人混みの中で、幾度となく彼女と体は密着したし、それに比べれば、これくらいの距離はどうということはないはずだ。
だというのに、シチュエーションがそうさせるのか、はたまた、等間隔に並んだカップルたちがそれぞれ自分たちの世界に入り込んでいるからか、胸の動悸は一向に収まる気配がない。人類の数を減らす方法を考え始め、そんな余談に想いを馳せて、現実から目を背けて心を落ち着けようとするくらいには、緊張していた。
ふと目線を横にやると、御影と織江さんが同じように二人で座っている様子が見えた。
なんだか、いい雰囲気だ。
なんだよあいつ、散々女性との出会いがないとか言っていたくせに、確定ルートがあるんじゃないか。あとで覚えてろよ、めちゃくちゃにからかってやるからな。
「あの二人、いい感じだね」
「ですね。ちょっとびっくりしました」
「私も。織江ちゃんってあんなにお喋りなのに、自分のことはなーんにも教えてくれないんだもん」
「御影もそんな感じですよ。くだらないことはペラペラ喋るのに」
「ふふ、似た者同士の二人なのかもね」
「そうかもしれませんね」
二人の話をしていたら、自然と笑って話せるようになった。釈然としないけど、御影たちに感謝しなくちゃいけない気がした。
笑顔のまま、四季宮さんは「ちょっと話は変わるんだけど」と話し続ける。
「私ね、真崎君って無口だけど、実は頭の中では、すっごく色々なことを考えてるんじゃないかなって思ってるんだ」
そういえば、織江さんがそんなことを言っていたな。
「空を見つめるっていうのかな。視線がぽやーっと宙に浮いて、すっごく静かになるときがあるよね。今みたいに」
「僕は大体いつもそんな感じですよ」
「ううん、違うよ。真崎君はね、ちゃんと人の話を聞いてるの。そういう時の目はまっすぐで、静かで、ボーダーコリーみたいなくりっとした目だから、私ちゃんと分かるもん」
ボーダーコリーってどんな目してたっけ……。
「だからね、ずっと気になってたんだ。真崎君がいつも、どんなことを考えてるのか」
膝口に両腕を乗せて、さらにその上に、小さな顔をちょこんと乗せて。
四季宮さんは僕を見る。虹彩に、川辺の灯りが映りこんでいた。
「……すっごく、くだらないですよ」
「そういう話、大好きだよ」
変わってるな、四季宮さんは。
僕はとつとつと語った。
僕の余談を語った。
例えば。
四季宮さんを階段で受け止めようとした時、どうして唇の色は赤いのだろうと考えていたこと。
御影と話している時に、友達を作らない人と、作れない人について考えて、少し気分が良くなったこと。
四季宮さんの家に遊びに行った時、今の状況を飲み込めていないのは、決して僕の頭が悪いからではないと言い訳していたこと。
今、こうして四季宮さんの隣に座っていると緊張するから、人類の数を減らす方法について考えていたこと。
それから……班分けをするとき、群れになじめない少数派の僕は、淘汰され、駆逐されるだけの弱い生き物なのだと腐っていたこと。
「それは違うと思うな」
静かに、にこにこと、たまに楽しそうに相槌を打ちながら聞いていた四季宮さんが、そこで言葉を差し込んだ。
「少数派だって、強いんだよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。ほら、例えば、お魚さん」
転がっていた石を拾い、四季宮さんは地面に魚の絵を描いた。
「あるサメさんは、黄色いお魚さんを餌にしています。黄色い模様が入ったお魚さんを目印にして、ぱくぱくぱくっと食べてしまいます」
そして、幼稚園の先生がお昼寝の時間に語り聞かせてくれるように、優しく語る。
「そんな黄色いお魚さんの中に、青い色のお魚さんが生まれました。青色のお魚さんは、黄色のお魚さんたちの中でうまく馴染めません。『変な色だ』」『おかしな色だ』と馬鹿にされ、青色のお魚さんは悲しくなります。だけど――」
がりがり、と引かれた線に、小さな魚たちは消されていく。
「黄色いお魚さんたちは、みーんなサメさんに食べられてしまいました。でも、青いお魚さんは逃げ延びました。サメさんは黄色い模様ばかりを追いかけていて、青いお魚さんを見落としていたのです」
こうして、青色のお魚さんは、サメさんにおびえることなく、幸せに暮らしたのでした。めでたしめでたし。
「……絵本にするには、ちょっと過激すぎますね」
「ふっふっふー、自然界はいつも残酷なのだよ」
四季宮さんは続ける。
「それで……真崎君は今の話、どう思った?」
僕は考える。
もしも、彼女が話したように。
そうやって、多数派だけが席巻することなく、少数派の――ともすれば虐げられてしまっているような者にも、生きる意味が与えられているのであれば。
「私はね、そんなに悲観的にならなくたって、いいんじゃないかなって思うよ」
例えばそれが、クラスになじめない、口数の少ない男だったとしても。
例えばそれが――
「少し変わった体質を持っている、特別な人だったとしても」
「……」
僕たちの周りを、冷たい風が走り去って行った。
日も、かなり落ちた。
寒いねと四季宮さんが言って、寒いですねと僕も返した。
そろそろ戻ろうかとは、どちらも言わなかった。
「僕は……自分をたくさんの壁で守らなくちゃ、生きていけないんです」
「うん」
「心が弱いから、心が脆いから……たくさんの予防線を引いて色んな言い訳をして守らなくちゃいけないんです、壊れてしまうんです」
「うん」
「だから」
唾を飲み込む。
喉がきゅっと音を立てた。
だけど今、言わなくちゃいけないと思った。
「あの日、四季宮さんにひどい言葉を言ってしまったのは、僕の心が弱いからなんです」
本当にごめんなさい。と、僕は謝罪した。心から。
四季宮さんは、たっぷりと間を置いた。
僕の言葉を、丁寧に丁寧に、耳の中で転がしてるみたいだった。
やがて、四季宮さんは口を開いた。
「謝らなくちゃいけないのは、私の方だよ」
「……え?」
「銀山さんのことを話さなかったのは、私の心が弱かったからなんだ。もし本当のことを話したら……君が離れて行ってしまうんじゃないかって思って怖かった」
何かを決心したような、だけど少し物悲しい。
そんな表情をしていた。
「それにね……もし、なんとも思われなかったとしても、きっと私は苦しいだろうなって思った。だから、ずっと言えなくて……結果的に……私は君を傷つけた」
どういう、ことだろうか。
僕が離れるのが怖い? 僕になんとも思われないのが苦しい?
いったい、何を言ってるんだろう。
それじゃあ、まるで。
四季宮さんが、僕のことを――
「だからね、真崎君。私は君を、これ以上傷つける前に――」
「ま、待ってください」
僕は慌てて、口を挟んだ。
それ以上を言わせてはいけない気がした。
その先の言葉を聞いたら、すべてが終わってしまう気がした。
「ぼ、僕は大丈夫ですから。最初はびっくりしちゃいましたけど別に今は大丈夫っていうか。いや、この場合の大丈夫っていうのは気にしてないってことではなくてむしろ滅茶苦茶気になってはいるんですけど、そういうことが言いたいわけじゃなくて……」
僕は、何もできない。
四季宮さんの家の事情に、首を突っ込むことはできない。
彼女を助け出すことも、できない。
ちっぽけで臆病で、どうしようもなく非力で、心底嫌になる。
「僕が言いたいのは婚約のことなんて関係ないってことなんです。僕と四季宮さんが一緒に遊ぶことと婚約の話は別っていうか、四季宮さんさえ良ければ、僕はまったく構わないというか。つまり、何が言いたいかというと――」
きっと。
彼女と一緒に居られる時間は、そう多くない。
冬が終わり、春が来たら。
いや……もしかしたら春が来る前に、僕たちの不思議な関係は、終わりを迎えてしまうのかもしれない。
けれど。
それでも。
「僕はもう少し、四季宮さんの友達でいたいんです」
川のせせらぎと。
風の音と。
橋の上を走る車の音と。
後ろを通り過ぎる人々の、笑い声が。
渾然一体となった雑音をかき消すほどの、沈黙。
やがて、
「ダメだよ、真崎君」
四季宮さんは僕の方を見て、桜色の唇を震わせて、
「私、弱いんだよ……。弱くてずるくて臆病で……とっても弱虫なんだよ。だから――」
困ったように、泣き出しそうな表情で、だけど少し――嬉しそうに。
地面についた僕の手の上に、冷たくなった小さな手を、そっと重ねて。
つぶやくように、言った。
「だから――そんな嬉しいこと言われたら……私、断れないよ」
※
「爆ぜろ」
「なにゆえ」
夜。京都の料理に舌鼓を打ち、夜風に吹かれながらビジネスホテルに到着した僕たちは、自由時間をのんびりと満喫していた。
僕と御影は同じ部屋で、風呂上りのリラックスした体をベッドに横たえて、鴨川での話をしていた。
「完っ全に両想いじゃねえか、鴨川に沈め。雨の日に流れてくるオオサンショウウオと寒中水泳してる最中に鉄砲水に頭を打ち抜かれろ」
お互い河川敷でどんな話をしたのかを教え合っていたのだが、最後の下りを話し終えると、御影はそば殻枕を容赦なく投げつけてきた。
「は、話聞いてた? 僕は友達でいようって言ったんだよ」
「は? うざ。喧嘩売ってんのかよ、いいぜいくらで売ってんだよ見積書出しやがれ! おらぁっ!」
「いったぁあ! お前さっきからバコバコ痛いんだよ! そば殻はやめろよ! せめて羽毛の方にしろって!」
「うるせえ、こっちの方がいい感じに重くて投げやすいんだよ!」
「だからそれが痛いんだって!」
僕は奇跡的にキャッチできた枕を思いっきり投げ返す。
「大体お前だって、織江さんと楽しく喋ってただろう、が!」
「俺とあいつはそーゆーんじゃねえんだ、よ!」
「は? じゃあなんで今まで僕に隠してたんだ、よ! ……あ」
投げつけた枕が御影の顔面に命中して、僕はあわててベッドの上から降りる。
「ご、ごめん……。ちょっと強く投げすぎた」
「……隠してたわけじゃねえんだよ。ただ、あいつとの接点をあんまり持ちたくなくてさ」
ええ……急にテンション下げるじゃん……。
風邪をひきそうなくらいのテンションの落差に、戸惑ってしまう。
だけどこれは……僕が思っていたよりも、御影にとっての織江さんというのは、重要な存在、センシティブな話題だったということなのだろう。
「なんでだよ」
「俺は……ほら、こんなだからさ。クラスでも浮いてるし、変わってるし。そんな俺と関わり持ったら、あいつも白い目で見られるかもしれないだろ」
「織江さんなら、気にしないと思うけど」
「ばーか。だから嫌なんだよ。俺の素行で俺がどうなろうと自業自得だけど、俺のせいで他人が傷つくのは見たくねえんだよ」
確かに自分のせいで傷ついている人が「気にしなくていいよ」と笑顔で言ってきたら……それはちょっと、辛いかもしれない。
「だったらちゃんと学校来ればいいじゃん」
「それとこれとは話が別だ」
「不器用なやつ……」
大抵ことは器用にこなせるくせに。
「うるせえよ、自分に正直なだけだ」
ああ、だけど。
あの時も同じだったな。
僕は嘘つきのレッテルを貼られ、クラスで迫害されていたころ、こいつだけは僕に話しかけてきたっけ。
『お前、未来が視えんの?』
『……』
『なあ』
『……』
『なあってば!』
『……言っても、信じないだろ』
『なんで』
『クラスのみんな、もう誰も信じてないから』
『関係ねえよ。お前の口から聞きたいんだ』
『……視えるよ。たまにだけど』
早口にそう答えると、御影は感心したような声を出して、
『すげえじゃんお前』
『……え?』
『俺になんかあったら、助けてくれよな』
にかっと笑って言った。
だから僕は、こいつが家庭科の実習の時、あやうく火傷してしまいそうになるのを未然に防ぐことができた。もしあの時、御影が声をかけてくれていなかったら……僕は助けるのを躊躇っていたかもしれない。
以来僕と御影は、よく話すようになり、逆にクラスメイトたちは、僕たちをどんどんと避けるようになった。
御影は決して言わないけれど、中学に進級してから学校に来る頻度が減ったのは、きっとこれが原因の一つだと思っている。
そして、こいつくらい賢ければ、そうなることは事前に予測できたはずで。
もっとうまく立ち回ることだって、できたはずで。
他人のために、自分を犠牲にしてしまう。御影浩二という男は、そういう不器用なやつだ。
それを分かっているからといって、僕に何ができるわけでもないし、御影はそういうことを嫌うだろうと思いはするのだけれど――
「じゃあ今日くらい、一緒に過ごしてきたら?」
少しくらいお節介を焼くのは、構わないだろう。
「誘われてただろ。夜、一緒に抜け出そうって」
「……なんで知ってんだよ」
「たまたまだよ」
「聞いたのか」
「たまたまだって。わざとじゃないんだ」
ホテルの廊下。誰もいない空間で、僕は幻視を体験した。
その時映ったのは、御影と織江さんが、何かを話している光景だった。
だから僕は、邪魔してはまずいと慌ててエレベーターホールの陰に隠れて身を潜めていたのだが、人気のない廊下では思ったよりも声が反響し、聞こえてしまったというわけだった。
「十時半に一階のエレベーターホールだろ。もうすぐじゃん」
時刻は十時二十分。丁度いい頃合いだった。
「だったらお前たちも来いよ」
「僕はパス。あんまり大人数で動いたら、先生に見つかるかもしれないだろ。それに――」
少しだけ逡巡して、続ける。
「四季宮さん、体調悪くて今日は早めに寝るって言ってたから。僕だけくっついてくなんて、ごめんだよ」
四季宮さんは自遊病の対策として、織江さんとは別の部屋で寝るはずだ。
夜、就寝時間に織江さんに一言断ってから、別の部屋に移動すると言っていた。それを引き合いにだすのは少し彼女に申し訳ない気もしたけれど、織江さんのためなら、きっと四季宮さんも許してくれるだろう。
「んだよ、それ……。俺は別に……」
「行けって。これ逃したら、お前一生彼女なんてできないよ」
「……分かったよ」
もう二、三回くらいごねるかと思ったけど、意外にも早く、御影は首を縦に振った。
御影の中でも、織江さんと一緒に過ごしたいという気持ちが、強かったのかもしれない。
ありがとな、とぶっきらぼうに呟いて出ていった御影を見送って、僕はベッドの上にあおむけに横たわった。
きっと御影たちはうまくいくだろう。
まだ長い付き合いではないけれど、織江さんはしなやかで強い人だと思う。ちょっとひねくれた御影を柔らかく受け止めてくれたり、時には叱咤してくれたり、そうやって甘いだけじゃない優しさで、あいつを包んでくれるだろう。
御影さえ素直になれば、彼らはうまくいく。
「うらやましいな」
真っ白な天井を見上げながら、そんな呟きが口からもれて、僕はぎょっとした。
うらやましい? うらやましいってなんだよ。
御影と織江さんの関係が? それとも、御影に彼女ができそうなことが?
もんもんとしばらく考えたけれど、結局答えは出なくて、僕は思考を放棄した。
「あいつが変なこと言うせいだ……」
両想い。御影が言ったその単語が、妙に脳裏にこびりついていた。
僕と四季宮さんは、そういう関係じゃない。
互いの秘密を知っている同士、戦友、友人。
そう結論付けた。
その時、とんとんと扉がノックされた。
僕は部屋の電気を消して、念のため御影のベッドに枕を詰め込んでから、扉を開く。
案の定、見回りの先生だった。
「はい」
「おお、すまん。もう寝てたのか」
「昼間、はしゃぎすぎたみたいで……」
「そうか、ならいいんだ。しっかり寝ろよ」
先生の目線は一瞬、奥のベッドに向いていたけれど、それ以上入ってこようとはしなかった。普段大人しい僕が、嘘をついているとは思わなかったらしい。
これ以降、先生は個々の部屋は見回りをせず、ホテルのロビー周辺だけを、交代制で見張っているという噂だった。御影と織江さんがどうやって抜け出すつもりなのかは知らないが……まあ、あの二人ならうまくやるだろう。
電気をつけるのが面倒くさくて、このまま寝てしまおうかとベッドに向かう。
四季宮さんはもう部屋をうつっただろうか。御影と同じように織江さんが抜け出しているわけだから、もしかしたら先生が見回りに来たタイミングで移動しているかもしれない。
「ちょうど今、織江ちゃんが寝たところなので、私も移動していいですか?」とか言って、先生の注意をそらしたりして。意外としたたかな四季宮さんなら、あり得そうだ。
そんなことを考えながら、ベッドに潜って目をつぶった時、スマホの画面が光った。
暗闇の中痛いほどに眩しい人工的な光に目を細めながら、通知を確認する。
差出人は四季宮さん。
内容はこうだ。
『もしよかったら、今から204号室に来てくれませんか? 自遊病のことで、知ってもらいたいことがあります』
※
「着いちゃったよ……」
思わずつぶやく。
あっけに取られてしまうくらいにすんなりと、四季宮さんの部屋にたどり着いてしまった。
基本的に女子の部屋と男子の部屋は階が分かれていて、行き来しにくいようになっている。しかし、四季宮さんの部屋だけは特別に別の階にあてがわれていたからか、なんのハプニングも起こらなかったのだ。
ゆっくりとボタンを押したのに、部屋の中から漏れ聞こえるベルの音は思っていたよりも大きくて、誰かに聞かれていやしないかと思わず左右を確認した。
「いらっしゃい。さ、入って入って」
「お邪魔します……」
四季宮さんはパジャマ姿だった。
淡いピンク色のグラデーションが綺麗な、薄手のモールウール。
襟や袖の部分に控えめに入った白いストライプがいい仕事をしている。
思えば四季宮さんの家でファッションショーをして、何着もの服装を見させてもらっていたけれど、パジャマ姿を見るのは初めてだった。
当然のことながら、寝巻というのは部屋の中で着ることを想定して作られている。行動範囲はベッドの周辺、せいぜい近場のコンビニくらいまでだろう。
だから、飾らない。
シンプルで、ラフで、無防備な印象を受ける。
それゆえにパジャマを着た四季宮さんからは、いつもとは違う魅力があふれている気がした。
リラックスしているというか、気が置けない雰囲気というか、とてもプライベートな部分に踏み入っている気がして、どきどきする。
「おやおやー? 真崎君、ちょっと見すぎじゃない?」
「え⁉ あ、えと、そ、その! これは違うくて決してやましい気持ちとかはなくてですね! 単純にすごく似合っていて可愛らしいなあと思っただけで変な気を起こしたりしたわけではないんです!」
「もー、だから早口すぎ。句読点、ちゃんと意識しないと」
「ご、ごめんなさい……」
「だけど……似合ってて可愛いってところは聞き取れたから、よしとしようかな」
わずかにのぞいた指先で裾とピッと引っ張って、一瞬ポーズを取った。モデルさんみたいだ。
パジャマは上下ともに肌を完全に覆い隠していて、一見しただけでは、彼女の自遊病の痕は見えなかった。着替えるところさえうまく隠せば、織江さんにもバレなかっただろう。
そこまで考えて、このままだと四季宮さんのパジャマ姿に見とれて話が進まないことに気付いた僕は、慌てて本題に入る。
「そ、それで自遊病がどうかしたんですか?」
「ん? なんの話し?」
きょとんと首をかしげる四季宮さん。
「い、いや。だってメッセに……」
「あー、そっか。そういう名目で呼び出したんだっけ」
「め、名目!?」
「そーだそーだ、そうだった。真崎君と喋るの楽しくて、つい忘れちゃってたよ」
そう言うと、四季宮さんは扉を大きく開き、
「ま、立ち話もなんだし、こっちおいでよ」
四季宮さんの後について、部屋の奥に行く。
生徒にあてがわれている部屋とは違って、ベッドは一つしかなかった。
やけにいい匂いのするこの部屋の中で、自分をどこに置こうかと目を泳がせていると――ベッドの上にある、銀色の輪っかに目が止まった。
ドラマとかアニメでは何回も見たことがあるけれど、実物を目にするのは初めてだった。
手錠。
重々しくて冷たい色で光ったそれは、ありふれたビジネスホテルの一室の中で異様な存在感を放っていた。
「これをはめてるところを、真崎君に見てて欲しいんだ」
四季宮さんの表情は穏やかだった。
例えば、お気に入りのクマのぬいぐるみを見せてくれる時だって、同じような表情をするのではないだろうか。そう思うくらいに、不自然すぎるくらいに、自然体だった。
そういう、ことか。
「……分かりました」
僕は頷いて、ベッドの横にある椅子に座った。
四季宮さんは足首を出して、手慣れた様子で手錠を両足に付けた。
「お家のベッドなら支柱があるから、もうちょっと楽なんだけどね。手足をつなぐ場所がない時は、こうして両手両足を手錠で縛ることにしてるんだ」
続いて左手にもう一つの手錠をはめて、両手を背後に回した。
そのままぶら下がった片方の輪っかを器用に取り上げ、右手にも付ける。
キチキチと、四季宮さんの自由を奪う歯車が回る音がした。
両手両足を自身で縛った彼女は、ベッドの上でミノムシのように体をよじった。
「よっし、それじゃあ真崎君。君の出番だ!」
「え?」
「このままだとまだ拘束が甘いから、手足の手錠をつなげて欲しいの。ここ……ここに、もう一つ手錠あるからさ、お願いできる?」
両足でちょいちょいとベッドの端を指して、四季宮さんは言った。
このうえまだ手錠をかけるのか……。
確かに今の状態だと、自由度は高くないとはいえ、ぴょんぴょんと両足で飛べば移動できなくもなさそうだ。
ベッドの上に乗っかると、二人分の重みでベッドがぎしりと沈んだ。
四季宮さんが足を折り曲げ、体を反らす。両手両足の手錠を縛りやすくする行為だと分かってはいても、柔らかな生地のパジャマ越しに強調された体のラインに否応なく目が吸い付きそうになる。
手元の手錠にだけ意識を集中させながら、僕は問う。
「これ、僕がいなかったらどうするつもりだったんですか」
「先生にやってもらうつもりだったよ? あ、もちろん女の先生ね」
当然そうであって欲しかった。
「家ではどうしてるんですか」
「そりゃあもちろん、お母さんにやってもらってるんだよ」
手錠をはめるとき、四季宮さんの手首に指が触れた。
滑らかな肌と、赤く、凹凸になってしまった傷痕。彼女の最も繊細で秘められた部分に触れると、「んっ……」という声をもらして、四季宮さんが身じろきした。
慌てて指をはなし、手錠をかける。
両手両足は手錠を介してつながり、四季宮さんの体からは完全に自由が奪われた。
「うん、完璧。ありがとね、真崎君」
ころんとひっくり返って、笑顔で言った。
あまりにも無防備だった。
ろくすっぽ動けない状態で、薄いパジャマ姿で、しかもホテルの一室で二人きりだなんて。
僕がもし変な気を起こしたら、どうするつもりなのだろうか。
「真崎君はそんなこと、できないでしょ?」
「僕、何も言ってないんですけど」
「顔見ればわかるよ」
どんな表情をしていたんだ僕は。
思わず顔を触ると、四季宮さんは楽しそうに笑った。
どうやらカマをかけられただけのようだ。
「……じゃあ僕、帰りますね」
「えー、なんでー。もっとお喋りしようよー」
勘弁してください。理性と本能を戦わせるのにも、カロリーがいるんですよ。
「さびしーなー。折角の修学旅行の夜なのに、一人寂しく寝るなんて嫌だなー」
「明日も観光しますし、早めに寝た方が賢い選択ですよ、きっと」
「でもほら、真崎君、私と約束したでしょ? たくさん遊んでくれるって。あの約束、まだ有効なんだよね?」
「うっ……」
自遊病を知る僕にしか付き合えない遊び。
確かに修学旅行の夜、友達と喋るのは、自遊病のことを知っている僕にしかできないことかもしれないと、少し納得してしまった。そしてまだ友達でいたいと進言したのは、他でもないこの僕だ。
「ね、もうちょっと。もうちょっとでいいから」
お願いお願い、とベッドの上でごろごろと転がる四季宮さんは、駄々をこねる子供以外の何物でもなかった。
転がる度にめくれ上がっていくパジャマの裾が、とうとう肌色の部分を見せようとしたとき、
「わかりました、わかりましたから……」
僕は四季宮さんに布団をかぶせて、観念して言った。
この状態なら、まだ幾分か目に毒ではない。
「やった。ありがと」
布団から顔だけをのぞかせ、四季宮さんは嬉しそうに笑った。
きっと誰も見たことがないような、全てを知られている人にだけ見せられる、無防備な笑顔。
彼女にそんな表情を向けられると、何かを勘違いしそうになってしまう。
雑木林が強い風にあてられたみたいに、心がざわついてしまう。
そのたびに自分に言い聞かせる。
クラスメイトの中で自遊病のことを知っている人はいない。
手足を縛られた状態で寝ているところを見られたこともない。
そんな不自由な生活を送っていた彼女が、はじめてありのままの自分の姿を見せて関わることが出来る相手。
そのポジションに、たまたま僕が入り込むことができた。
ただ、それだけなのだと。
「真崎君は、引かないんだね」
「なににですか?」
「私のこの姿。醜いでしょ?」
衣擦れの音が聞こえる。布団の中で体をよじったのだろう。
少し前に電気は消して、足下の常夜灯だけが部屋の中をじんわりと照らしていた。
僕はベッドに背中を預けて、床に腰を下ろした状態で話している。
これで落ち着いて話せると思っていたのだけど……四季宮さんの周りから発せられる微かな音の一つ一つが、やけに生々しく僕の耳に飛び込んでくるので、胸の動悸は電気を付けている時と大差なかった。
「醜い……ですか?」
ちょいちょいと足で指示していた姿や、ころころとベッドの上で転がっていた姿、そして強調された体のラインなんかが脳裏をよぎって、僕はかぶりを振った。
可愛らしい、艶めかしいとは思ったけど、醜いとは思わなかったな。
「少なくとも、私の婚約者の家族は、そう思ってるみたいだよ」
心臓がびくんと跳ねた。
あれ以来、婚約者の話を四季宮さんから振って来たのは、初めてのことだった。
「……心が狭いんじゃないでしょうか」
「あはは、そうなのかも。でもね、気持ちは分かるんだよ。結婚した相手とか、その家族が、
寝る時に体を手錠で縛らなくちゃいけない奇病にかかってるなんて、普通は嫌だもん」
具体的に誰が拒否しているのか、彼女は言及しなかった。一人なのかもしれないし、複数なのかもしれなかった。
「その……治る見込みってあるんですか?」
暗闇が顔を隠してくれているから、僕は少し、踏み込んだことを聞くことにした。
四季宮さんはさらりと答える。
「分かんない。お医者さんは、精神的な物が影響してるだろうって言ってたけど」
もし治らなければ、四季宮さんの結婚は先延ばしになり続けるのだろうか。
それこそ、何十と年を重ねても治らなければ、結婚自体が破談になるのだろうか。
なんとなく僕は、そうではない気がした。
いつの日かきっと、彼女は結婚させられる。
大人の薄汚い欲望の犠牲となって、その身を捧げることになる。
だとすれば、自遊病は彼女の自由を、今だけ保証しているのだ。
いつか治って欲しいと思う。だけど、まだ治らないで欲しい。
そんな自分勝手なことを思った。
彼女の病は、死と直結しているというのに。
「やだなあ」
四季宮さんの呟きは、暗闇の中にぽつんと取り残された。
なにが嫌なのか、聞けなかった。拳を握り込んで、押し黙る。
ことり。
静寂の中で、何かが落ちる音がした。
顔をあげると、机の上からカバンが落ちてしまっていた。
そのままにしておくのもなんなので、僕は立ち上がり、拾い集める。
スマホ、化粧品、本、ハンカチ、財布……。
一つ一つを戻していくと、最後に残ったのは手帳だった。
十二月のページがぱっかりと開いている。
暗闇に慣れた僕の目は、右下に書いてある文字を、見逃さなかった。
「……四季宮さん。クリスマスが誕生日なんですね」
「え?」
ベッドからもぞもぞと衣擦れの音が響く。こちらに顔を向けるために、反転したらしい。
「ごめんなさい。手帳拾った時に、見えちゃって……」
「ううん、気にしないで」
僕は手帳をカバンの中に戻し、再び床に座った。
「もしかして……もう一個の方も見えちゃった?」
「……はい」
二十四日、クリスマスイブ。
その日は四季宮さんの家でパーティーがあるらしかった。
その下には小さく「真崎君たちを誘う?」と書かれていて、その上に斜線が引いてあった。
これはおそらく――
「本当はみんなを誘いたかったんだけど……銀山さんが、いるから……」
曰く、銀山さんの父親が知り合いを集めて、毎年パーティーを開いているのだそうだ。数年前から四季宮さんの家族も参加しているらしい。なんでも、ホテルのイベントホールを貸切った、規模の大きいものなのだとか。
「隠すつもりはなかったんだけど……」
「四季宮さん」
十二月二十五日。
四季宮さんは誕生日を迎える。十八歳に、なる。
何の根拠もない、ただの直観だった。
だけど、妙に胸がざわついた。
四季宮さんと会える最後の機会が、その日なのではないかと、思った。
「僕もパーティー、行ってもいいですか?」
「……いいの?」
「はい。ご迷惑でなければ、行かせてください」
「め、迷惑なんかじゃないよ! すっごく嬉しいよ!」
珍しく慌てて、四季宮さんは食い気味に言った。
それがなんだかおかしくて、僕は声を出さずに笑った。
「そっか……よかったあ……」
ぽすんと空気の抜ける音。羽毛の枕に頭を落としたのだろうか。
「クリスマスの前に、会えるんだ……」
どういう、意味だろうか。
あまり深く考えても仕方がないことなので、僕はそっと、そのつぶやきを聞かなかったことにした。
「安心したら眠くなってきちゃった」
しばらくして、四季宮さんが呟いた。
時計を見ると、午前二時近かった。随分と長く話していたものだ。御影ももう、部屋に戻っている頃だろう。
「じゃあ、僕も帰りますね」
「うん、おやすみー……」
すっかり暗闇に慣れた目で、四季宮さんの顔を見る。
穏やかな顔で寝息を立てていた。
これから死に向かう病気と闘うとは思えない程に、穏やかな。
僕は足音を忍ばせて、扉へ向かい――
「あ、そうだぁ……」
思い出したように発せられた声に、びくりと立ち止まる。
「な、なんですか?」
「明日の朝、手錠の鍵、外しに来てねぇ……。一人じゃ外せないからぁ……」
「え」
考えてみれば、当然のことだった。
一人でかけられなかった手錠を、一人で解錠できるわけがない。
第三者の力添えなくして、彼女は手錠を開けられない。
そしてもし先生に今の状態で見つかれば、誰に手伝ってもらったのだと問い詰められることになるかもしれない。
しかし――
「どうやって部屋に入ればいいんですか……って、もう寝てるし……」
返ってくるのは寝息ばかりだった。
背後にあるオートロックの扉を眺めて、僕はため息をついた。
なんでそういう大事なことを、最後に言うんだこの人は……。
結局僕は、悪いと思いながらも四季宮さんの部屋のカードキーを拝借して、一度自分の部屋に戻った。
僕のベッドの上には「幸せ者め。爆ぜ散れ」とでかでかと書かれた紙が置かれていた。どの口が言うんだと思ったので、気持ちよさそうに寝ている御影の顔に貼り付けてやった。
翌朝、起床時間の二時間前に四季宮さんの部屋を訪ねると、彼女はすでに起きていて「おはよー。一回部屋に戻ったんだね。あのまま私の部屋で寝てくれても良かったのに」と言った。
彼女の言う通り、この部屋で一晩過ごすという手も確かにあった。
だけどきっと四季宮さんは、自遊病に苦しむ、その瞬間を見られたくないはずだと思ったから、僕は彼女の部屋では寝なかった。
黙って手錠の鍵を開けて、僕は「また後で」とそそくさと部屋を後にした。
後から思えば。
あの時、部屋に残る選択を取っていれば、未来はまた違った形になっていたのかもしれない。
【8】二日前
「四季宮茜との結婚に最も必要なのは」
銀山さんは言う。
「親の同意だ。本人の意志じゃない」
それは紛れもない事実だった。
そして、事実というのは決して優しいものではない。
ただそこにあるだけで、想いも感情も伴わず、無機質で冷たい。
「法律は変わった。男女は共に十八歳から結婚できるようになり、親の同意は必要なくなった。だけどそれが何だって言うんだ? 根本的なことは何も変わらないさ。なぜなら、成人するまでの間、子供は大人の庇護下にあるからだ。そして時にそれは、支配下と言い換えることもできる。残念なことにね」
それも事実だった。
どうあがいたところで変えることはできず、僕たちは抗う術も持たないままに、蹂躙される。
「たった十数年生きただけの人間が、倍以上生きている生物に太刀打ちできるはずがない。ましてや、相手は自分の価値観を作り出した存在だ。勝負の土俵にすら立っていない」
事実、だった。
大きく開いた怪物の口のような醜い穴が、べったりと張り付いた闇と共に僕を飲み込もうとする。
「そう考えると、世の中というのはとても不条理にできていると思わないかい? この人と結婚しなさいと幼い頃に強要され、そうして成人する前に準備を進められてしまえば、本人は何もすることができない。何もだ」
思えば僕たちの世界というのは、随分と性善説に基づいて作られている。
そんなことをするはずがない。人としてあってはならない。
自分たちの理解をはるかに超えたところで生じる行為には、対抗策すら用意されていない。
致命的なバグだ。度し難い欠陥だ。
そう恨みつらみを重ねたところで、どうなるわけでもないけれど。
「可哀そうだとは思う。同情すらするよ。生まれながらにして傀儡で、そのまま変わる機会も得られずに人生を終えてしまうなんて、僕なら耐えられないね」
より恵まれた環境にいる者だけが、弱者を憐れむことができる。
時に弱者は、自分の不憫さを認知する事すらできない。
そんな関係のないことを、思った。
「だけど悪いけど、僕はこの件に関しては口を挟まないことにしてるんだ。しょうがないだろう? 僕は争いごとが嫌いなんだ。そんなことに無駄なエネルギーを割くくらいなら、もっと楽しい事に貴重な時間を費やしたい。今更この生き方を変えるつもりはないんだよ。たった一人の、僕とは何の関係もない女子高生のためなんかにね。だからね、藤堂君。あえてもう一度言わせてもらうよ。僕は彼女を哀れに思う。だけど決して助けようとは思わない。だから――」
銀山さんは言う。
「――僕は明日、四季宮茜と結婚する」
クリスマスパーティーの会場は、僕たちの住んでいる街から電車で約三十分、繁華街近くにある帝桜ホテルで行われた。
大理石で出来た床の上をこつこつと歩くと、質の良い絨毯がその音を吸収する。きらびやかなシャンデリアは吹き抜けのホールを品よく照らしていて、少し背伸びをしなければこの場にそぐわないのではないかと、変にそわそわした。
「俺たち絶対浮いてるよな」
「そー? 小さい子も結構いるし、考えすぎなんじゃん? 誰も私達のことなんて見てないってー」
「誰もかれも、お前みたいにずぶとい訳じゃないっての」
「ほっほーん? 失礼なことを言うのはこの口かなー?」
「いてぇいてぇ! ぐりぐりすんな!」
「お願いだから二人とも静かにして……胃が痛い……」
そんな豪華絢爛なホテルに三者三様な反応をしつつ、僕たちは会場に足を運んだ。
受付で名前を言うと、すんなりと通してもらえて、ようやく一心地ついた気分になった。
どうやらパーティーは立食形式らしく、既に何人もの人たちが飲み物片手に歓談していた。壁際には美味しそうな食べ物が所狭しと並んでいて、すきっ腹を刺激する魅力的なにおいを漂わせていた。
「あ、きたきた! 待ってたよ、みんな!」
四季宮さんの声に振り向いて――そして言葉を失った。
ドレスコードがあるという話を聞いて、僕をはじめ、御影も織江さんもフォーマルな服を身に着けて来た。
御影はベストと黒ネクタイが良く似合っているし、織江さんのドレス姿もとても綺麗だった。しかし、どこか着慣れていない雰囲気というのは隠しきれないもので、「背伸びした高校生」を逸脱することはできなかった。
それなのに――
「ん? どうしたのみんな?」
四季宮さんは着こなしていた。
浅葱色のワンピースタイプのドレス。飾りは少ないながら、花柄の網模様が胸元にあしらわれ、控えめについたリボンが腰の高い位置についていて、スタイルの良さを強調している。
腕の傷を隠すためなのだろう、肩から巻かれた紺色のショールも、それと分からないように完璧に彼女の体を覆っていた。
端的に言って……美しかった。
「やー、似合ってるなぁと思って。茜ちゃん、めちゃくちゃきれいだね!」
「そ、そうかな? ありがと。織江ちゃんも、とっても可愛いよ」
「ありがとー! 私もこのドレス気に入ってるんだー」
女の子同士でドレスの話を始めたので、僕と御影はノンアルコールの飲み物をもらって、壁際にこじんまりと収まった。
「いいのかよ、四季宮さんと話さなくて」
「後でいいよ。今はこの場の雰囲気に慣れるので精いっぱいだ」
「気持ちはわかるけど、お前、そんな調子でよく来ようと思ったな」
「……まあ、色々あってさ」
「ふーん。ま、俺はなんでもいいけど。折角だし、飯でも取りに行こうぜ」
「ああ」
段々と緊張も解け、空腹を感じ始めていた僕は、御影の後について行こうとした。
その時だった。
「和夫君。博士号取得おめでとう。これで全ての条件は整ったわけだね」
ふと、隣で話している男性二人の声に意識を取られた。
一人は六十半ばくらい、もう一人は四十くらいの、身なりのいい成人男性だった。
「はは、気が早いですよ先生。審査はもう少し先じゃないですか」
「なに。あれなら問題ないさ。私の口添えもあることだしねぇ」
「何もかも、先生のお力添えあってこそです」
「堅苦しい事は言いっこなしだ。今日はぱーっと飲もうじゃないか!」
「ありがとうございます。しかし……茜のこと、本当によろしいんですか?」
足が止まる。
「構わん構わん。君の異動のこともある。総合的に考えれば、今のタイミングがベストだろう」
「本当に申し訳ないです……妙な病気を発症してしまって」
「気に病むこたぁない。そもそも、うちのバカ息子がさっさと原因を突き止められないのが問題なんだ。私からも、きつく言っておくよ」
「お心遣い、痛み入ります。それで――」
「おい」
はっと顔をあげると、御影が怪訝な目で僕を見ていた。
「早く行こうぜ? 腹減ったよ」
「あぁ、ごめん……」
ちらりと視線を横に向けると、二人は僕たちなんて全く気にかけないまま話し続けていた。
僕はあの人たちのことを知っているけれど、あの人たちは僕のことなんて知りもしない。こうして数メートルしか離れていない場所にいても、目には見えない、透明の分厚い壁が邪魔をしている。
向こうの世界に僕は干渉できない。
何も、できない。
分かっている、それが現実だ。
例え言いたいことが山ほどあるとしても、苦々しい味がするそれを飲み込まなくてはならないことくらい、分かっている。
ぐっとこぶしを握りこんで。
僕はその場を後にした。
三十分もすると、パーティー会場にはかなりの人が集まってきて、部屋の温度が少し上がったようだった。
襟付きシャツの第一ボタンを外しながら会場を見渡すと、いくつものグループができていて、みな思い思いに歓談していた。自己紹介から入るグループもあれば、旧知の知り合い故に、親交を温め直しているところもある。
御影と織江さんはといえば、いくつか年下の女性に絡まれていた。なんだか大変だな、と遠目に見つつ、僕は会場から少し離れることにした。少し人酔いしたようだ。
廊下に出ると、空気が澄んでいる気がして、ほっとした。
見れば、廊下に置かれたソファーで談笑している人たちもいる。僕と同じように人ごみに疲れたのか、あるいは静かな場所で話がしたかったのか。どちらかは分からないけれど、僕もその人たちに溶け込むべく足を向け――少し歩いたところで、見知った人に出会った。
「あら、あなたは――」
四季宮さんのお母さんだった。
黒を基調とした上品なドレスに身を包み、手にはシルクの手袋をつけていた。
「今日は茜のわがままを聞いてくれて、ありがとうございます。あの子、すごく喜んでました」
「とんでもないです」
お母さんは顔色が優れないようだった。僕と同じく、人酔いをしたのだろうか。
パーティー会場でもたびたび見かけてはいたけれど、旦那さんと思しき人の横で控えめに笑うだけで、心底楽しんでいるようには見えなかった。体調が芳しくないのかもしれない。
「人が多くて大変かもしれませんが、良かったら茜とたくさん話してやってくださいね」
そう言ってお母さんは少し疲れた笑み浮かべた。
ふと、右手首の辺りに巻かれた包帯が手袋の隙間から垣間見えて、僕は口を開く。
「右手の怪我、大丈夫ですか?」
「え?」
「いえ、その……前に伺った時も包帯を巻かれてたので、つい」
しまった、余計なお世話だっただろうか……。
四季宮さんのお母さんは、そっと隠すように手袋を引っ張りあげながら、控えめに笑った。
「お気遣いありがとうございます。大した怪我じゃないんですけど、この年になると治りが遅くて……」
「す、すみません。踏み込んだことを聞いてしまって」
「いえ、いいんですよ。それに――」
すっと、整った顔に影が差す。光の加減だろうか、一気に歳を取ったように錯覚した。
「これは自業自得ですから」
深く追求する間もなく、四季宮さんのお母さんは去っていった。最後のつぶやきは、僕にぎりぎり聞こえるくらいの、本当に小さな声量だった。
自業自得……一体どういう意味だ?
しばらく考えてはみたものの、ついぞ答えは出なかったので、僕は考えるのをやめて歩き出した。
「真崎君」
少し歩くと、ぽんと後ろから肩を叩かれた。今度は四季宮さんだった。誰かからもらったのであろう小綺麗な紙袋を後ろ手に持ち、「やあ」と片手を挙げた。
相変わらずひときわ突き抜けて美しいドレス姿に、僕は一瞬目が泳いでしまう。
「今、お母さんと喋ってなかった?」
「ええ。ちょっと挨拶しただけですけど。なんだかお疲れみたいでした」
「あはは……。お母さん、こういうパーティーちょっと苦手だからね。いつも途中で一回抜けるんだー。真崎君は大丈夫? 疲れちゃった?」
「少しだけ。僕もこういう場には、あんまり慣れてないみたいで」
四季宮さんが綺麗な形の眉をハの字にしたので、慌てて付け加える。
「でも、楽しいです。誘ってくれて、ありがとうございます」
瞬間、ころっと表情が変わって、嬉しそうに頬を緩ませる。
「ならよかった。私も、真崎君が来てくれて嬉しいよ」
「そんなこと言ってくれるの、四季宮さんくらいですよ」
「だって、真崎君のそういう恰好見るの初めてだし……」
四季宮さんの声に釣られて目線を落とす。
無地のカッターシャツに深緑色のカーディガン。ちょっとフォーマルは意識しているとはいえ、会場にいる人たちに比べれば地味なもので、取り立てて注目するほどのものでもないと思うけど……。
「うん、とってもカッコイイよ」
「ありがとう、ございます……」
直球で褒められると照れてしまう。
僕は意味もなく前髪を触ったりしながら、何か違う話題を切り出そうと目線を宙にさまよわせ――
目の奥で線香花火が散った。
僕たちに――いや、四季宮さんに話しかけている銀山成明の姿が視えた。
銀山さんは、僕には一瞥もせず、ただ四季宮さんだけに目を向けていた。
四季宮さんも、少し困ったような顔をしながらも彼に応えていた。
僕はただ、その様子を眺めていた。
眺めていることしか、できなかった。
セピア色の世界の中で、僕という存在は爪弾きにされていた。
その光景に胸の奥が鈍く傷む。鼻の奥がツンと引きつった。
改めて知る。
僕は、彼女たちの世界に干渉できない。
僕の住む世界と、四季宮さんが住む世界の間には大きな隔たりがあるのだ。
僕たちは同じ高校のクラスメイトで、偶然にも秘密を共有していて、それが奇跡的に二人をつなげてくれてはいるのだけれど。
家柄が、身分が、年齢が、見えない壁となって二人の間にそびえたっている。
だから僕は何もできない。
クラスメイトの一員以上の何かを、求めることはできない。
分かっている、分かっているんだ。
「それでね、真崎君。私――っ⁉」
四季宮さんのほっそりとした手首をつかんで、僕は足早に歩き出した。
「ま、真崎君、どうしたの?」
「すみません、ちょっとだけ、付いて来てください」
行く当てがあったわけじゃなかった。
とにかくここでなければ、銀山成明が来ない場所であればどこでも良かった。
くだらない意地を張っていた。
ここで四季宮さんと銀山さんを会わせなかったからといって、何かが変わるわけじゃない。だけど――ほんの少し先。六十秒後の未来に、あらがいたくなったんだ。
少し進んだ先に、テラスに出る場所があったので、僕は空いた手で扉を開いて、外に出た。
扉が閉まって、パーティー会場から聞こえる喧騒は、くぐもった音になってほとんど聞こえなくなった。
「真崎君、あの、手……」
冷たい空気が急速に頭と体を冷やして、僕はあわてて手を離した。
「ご、ごめんなさい……」
「ううん、ちょっとびっくりしちゃっただけだから、気にしないで?」
四季宮さんは急な僕の行動に、疑問を挟まなかった。
夜空を見上げて「風、気持ちいいね」と静かに言った。
「あ、あの、すみません。突然こんなところに連れてきて……。さ、寒いですよね」
「大丈夫。ほっぺた火照ってるから、ちょうどいい感じだよ」
「なら、よかったです」
「それに、私も真崎君と二人きりになりたかったから」
え? と声と視線をあげると、四季宮さんが後ろ手に持っていた紙袋を持ち上げた。
誰かからもらったものとばかり思っていた、上品な紙袋。
それが今、僕に差し出されている。
「こ、これは?」
「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼント。よかったら、もらって欲しいな」
「く、クリスマス⁉」
「プレゼント」
頷きながら、四季宮さんは笑った。僕の反応が面白かったらしい。
僕は彼女の笑顔に目を奪われそうになりつつも、あわてて口を開いた。
「え、と。その、でも僕なんかが貰うのは悪いと言うかというかそもそも僕何も用意してないですしお返しできないのでもらうのも悪いというかその……」
「もー、真崎君!」
もごもごと喋っていた僕にもたれかかるように、四季宮さんはきれいにラッピングされた袋を押し付けた。
「わっ……」
「はやくもらってよ! せ、せっかく、選んだんだから……」
四季宮さんは目をそらしながら呟いた。頬がわずかに上気している。
これ以上断るのは失礼だと言うことに、さすがの僕も気付いた。
「ありがとう、ございます……」
僕はお礼を言いつつ、そっと袋を開けた。
中から出てきたのは、青藍色のマフラーだった。
「ど、どうかな……?」
「う、嬉しいです……すごく」
試しに巻いてみると、とても暖かく、肌触りも素晴らしかった。
僕の言葉を聞いて、四季宮さんの表情はぱっと華やいだ。
「よかったぁ! うん、すっごく似合ってるよ! その色、絶対真崎君に合うと思ってたんだ!」
「その……大切に、します」
「ふふ、とーぜん! 擦り切れるまで使ってね?」
「擦り切れるような使い方はしませんよ」
「えへへ、そっかそっか」
弾むような足取りで、四季宮さんはテラスの端に向かった。
手足の傷を隠すため、四季宮さんは肌の露出が少な目だ。腕にはショールが、足元はタイツが、それぞれ防寒の役割を果たしてはいるだろうけれど、それでもやはり、十二月の寒空の下にいるには心もとない。
ここで僕の上着をかけたり、それこそマフラーを巻いてあげたりするのが、紳士的な行為なのだろうと思いはする。だけど「これは真崎君に使って欲しいの!」と四季宮さんには怒られてしまいそうだから。
僕は黙って隣に並ぶにとどまった。
心臓がバクバクと鳴る。
渡すなら……今しかないだろう。
「あ、あの!」
情けないことに裏返ってしまった声を必死に咳払いで戻しながら、僕はポケットの中から箱を取り出す。
「一日早いですけど、お誕生日おめでとうございます」
「……え?」
四季宮さんはぽかんと口を開け、僕と、僕の手の上にある箱を交互に見た。
「これ、私に……?」
「はい」
「開けてもいい……?」
「はい」
かぽっと、スライド式の箱が開く。
シンプルな、シルバーのブレスレット。
御影と織江さんに何度も相談して、ようやく決めたものだった。
女性の意見も聞いているし、デザインは問題ないはずだけど……。
四季宮さんは、箱を開けたまま、動かない。
やばい、もしかして失敗した……?
「え、えっとその、形に残るものと残らないもの、どっちがいいかなあって悩みはしたんですけど、すぐなくなっちゃうのも味気ない気がして、ブレスレットって、多分四季宮さん持ってないんじゃないだろうかなあと思ったり……思わなかったり、つまり、そのぉ……」
間が持たなくなって。
僕は正直に、言う。
「……手首の傷が消えた後も、僕のことを思い出してもらえたらな、なんて……」
おそるおそる。
様子を伺う。
はっとした。
「四季宮、さん……?」
音もなく。
四季宮さんの両目から、涙があふれていた。
「だめ、だよ……こんなの……」
桜色の唇が、細やかに震える。
「今日は、ずっと笑ってようと思ってたのに……最後だから、明るく振舞ってようと思ったのに……」
「……あ」
最後、と言った。
その言葉を、僕は聞き逃さなかった。
「真崎君にマフラー渡して、今までのお礼を言って、今までのお詫びもして、それできっちり、ケジメをつけようと思ってたのに……っ」
やがて、その美しい声すらも震え始めて。
頬の上を流れる透明な涙は、止まる気配すらなくて。
「真崎君……嬉しいよっ……君のくれたプレゼント、すごく嬉しい。嬉しいっ……嬉しいよっ……! こんなに……こんなに嬉しいのにっ……」
やがて四季宮さんは、僕の胸に、額を付けた。
「苦しいよ……真崎君っ……!」
それはもしかしたら。
僕が彼女に出会ってから初めて聞いた。
四季宮さんの弱音だったかもしれない。
そして、僕は知る。
僕は聞く。
銀山成明の口から、その言葉を聞く。
「――僕は明日、四季宮茜と結婚する」
「……随分、急な話ですね」
あれから。
泣き晴らした四季宮さんが、手洗い場に向かい。
それと入れ替わるようにして入ってきた銀山さんが、僕に告げた。
「僕と彼女は、現在婚約状態。婚約というのは、法的な拘束がない。ただの口約束みたいなものだよ。破棄しようが踏みにじろうが、別になんの罰も受けやしない。だけど、今度のはわけが違う」
銀山さんは、スマートに着こなしたスーツに見合わない、スナック菓子を片手で開けながら、気だるげに柵に寄り掛かった。
「籍を入れる。高校生の君にだって、これが何を意味するか、分からないわけじゃないだろう」
僕は、言う。
「どうしてそんなに急ぐんですか」
銀山さんは答える。
他人事、みたいに。
「父さんが茜ちゃんにえらくご執心でね。僕たちの家の近くに引っ越させて、秘書業務をやらせようって魂胆みたいだよ」
「秘書、業務……」
なんだよ、それ……。
この人たちは、四季宮さんの人生を何だと思っているんだ……?
地元から離され、友人たちとの関係性を絶たれ、大学にも行かせてもらえず、好きな人も作れずに、ただ薄汚い大人の思うがままに弄ばれる。
そんな……そんなことが……!
「許されるわけ、ないじゃないですか……っ!」
「ま、そう思うのが普通の感性だよな」
シニカルに笑う。
何が面白くて笑っているのか理解できなかった。
「残念なことに、僕の家族も彼女の家族も普通じゃない。父親はそろってクズ。茜ちゃんの母親に至っては気弱すぎて話にならない。僕の方の母さんは既に他界しているし、当の茜ちゃんは、小さい頃からの教育で、父親に逆らうことすらできない状態だ」
盤面は詰んでるよね、と対岸の火事を眺めるように言って、スナック菓子を噛んだ。
静かな夜に響く、さくさくとスナック菓子を消費する音が、僕の神経を逆なでする。
「あなたは、どうなんですか……」
「なに?」
「あなたが拒否すれば、四季宮さんは助かるじゃないですか……? この状況が狂ってると、一番わかっているはずなのに……なのにどうして……どうしてそんなに、のんびりしてられるんですか!」
熱が入って、最後の方は声が荒くなった。
それでも銀山さんは、眉一つ動かさない。
手に着いたスナック菓子の粉を払いながら、僕とは正反対に、静かな声音で言う。
「残念ながら、僕は医者としての才能があまりなくてね。父さんの威光を笠に着ないと、生きていくために相当頑張らなくちゃいけないんだよ」
「……は?」
……何を言っている?
「僕は楽に、楽しく生きていたいんだ。頑張るのは好きじゃないし、争いごとなんてもっとごめんだね。このまま順当にいけば、金持ちの僕と遊びたいだけの、結婚願望のない、都合のいい女の子をはべらせながら、適当に仕事をこなして生きていくことができるんだよ」
この人は一体……何を言っているんだ?
「父さんに逆らうってことは、その人生を捨てるってことだ。たった一人の女子高生のために、どうして僕がそこまでしなくちゃいけないんだ? さっきも言ったろう? 同情はするさ。だけど手を出しはしない。それが僕の結論だよ」
ふざけるな……。
ふざけるな……ふざけるな、ふざけるな!
ふざっけるなよ!
あなたならこの状況を変えられるはずだ!
あなたなら四季宮さんを救えるはずだ!
あなたがその気になれば、この狂った盤面をひっくり返すことだってできるかもしれないのに!
なのにそんなくだらない理由で!
そんなちっぽけな理由でっ!
四季宮さんを見殺しにするのかよっ!
四季宮さんが、どんな気持ちでいるか……
『苦しいよ……真崎君っ……!』
あの言葉を言わないように、どれだけ我慢してきたか、あんたに分かるのかよ!
目の前が真っ白になり、後頭部がかっと熱くなって、僕は足を踏み出した。
次の瞬間、
「暴力はよくないね」
涼しい顔をして、銀山さんは僕を見下ろして言った。
掴みかかろうとした僕を、片足一つで転ばせて、両手にはスナック菓子の山を抱えたまま、微動だにしていない。
「……くしょう……っ」
自分の無力さに、反吐が出そうだった。
腹が立って仕方がなかった。
怒りとやるせなさで、体が小刻みに震えている。
それでもなんとか片足をついて立ち上がりながら、僕は声を絞り出した。
「……病気のことはどうなるんですか」
銀山さんは形の良い眉をぴくりと上げた。
「なんだ、やっぱり知っていたのか。ずいぶんと好かれているんだね、君」
違う……僕はたまたま知っただけだ。
信用されたから、話してもらったわけじゃない。
「どうやら簡単に治る病気じゃなさそうだからね。脳波の測定や、カウンセリングも含めて、最先端の治療を用意するつもりみたいだよ。自分の近くに置くのは、それも一つの理由なのかもしれないね」
「四季宮さんは、あの病気があれば、自分はしばらく結婚しなくて済むって――」
「ああ。父さんはあれで小心者だからね。世間体を気にしたほうがいいって理由で、しばらくは抑えられてたけど……それも限界みたいだ」
「……抑えられていた?」
妙な言い回しだ。
それじゃあまるで、本心では四季宮さんのことを心配しているみたいじゃないか。
一瞬思考を乱されて、次の言葉につなげるのが遅れた。
その隙に、銀山さんが口を開く。
「しかし君――藤堂君、だっけ。さっきからごちゃごちゃと、まるで言い訳がましい男だね」
「言い訳がましい……?」
僕の思考を遮るように、銀山さんは続ける。
「家族も婚約者も、自病すらも、彼女を救うことはできない。状況はどうしようもないくらいに詰んでいて、馬鹿みたいに時代錯誤な話が、馬鹿みたいに本気で進められている。一人の少女が犠牲になることで、歪な舞台の上で汚らしい大人が笑っている。ふざけてると思わないか? はらわたが煮えくり返るくらい、憎いと思わないか?」
思う。
思うさ。
だからこそ僕は、あなたに四季宮さんを助けてもらいたいと――
「だったらもう、答えは一つしかないじゃないか」
銀山さんは言う。
「君が助けなよ」
「……は?」
「は、じゃない。君しか残ってないだろう、彼女を助けられるのは。四季宮家と銀山家は明日の十八時に、このホテルで両家の顔合わせやらの手続きを進める。そのまえに、彼女を連れて逃げればいい」
「ち、ちょっと待ってくださいよ!」
思考の整理がつかなくて、僕は銀山さんを制止した。
「急にそんなこと言われても、頭回りませんし……。そ、そもそも銀山さん、言ってることが無茶苦茶ですよ……。四季宮さんを助ける気はないとか言いながら、自分が結婚を遅らせていたみたいな言い方したり、僕に明日の予定を教えてきたり……わけ、分かんないですよ」
「くだらないね」
実にくだらない、と銀山さんは繰り返した。
「僕が何を考えていようが、僕がいいやつだろうが、悪いやつだろうが、度し難いクズ野郎だろうが、君には関係のない話だろう? ……なあ、藤堂君。いい加減目を背けるのは止めにしないか」
「……僕が、何から目を背けてるって言うんですか」
「彼女を助けられるのは、君しかいないという事実からさ」
「助けるって、だからそんなの――」
「なに、簡単だよ。逃避行ってやつをすればいい。駆け落ちの一つや二つ、昔はよくあったことさ。現代でだって、まあできないわけじゃない」
「そんな、こと……」
そんなこと、できるわけないだろ……!
握りしめたこぶしで柵を殴りつけて、僕は苛立たしく口を開く。
「無理ですよ。だって僕たちはまだ高校生だし、そもそも逃げるって言ったってどこに行けばいいんですか。両家とも血眼になって探すだろうし、財力だって権力だってけた違いじゃないですか。そんな人たち相手に、僕たちがどうやって――」
「はあ。御託が長いね。どうやら君も、重症なようだ」
銀山さんは、やれやれ、と首を横に振った。
まるで、聞き分けのない子供に手を焼いているように。
僕は奥歯をかみしめる。
あんたは他人事だから、そんな無責任なことが言えるんだ。
逃避行? 駆け落ち? バカなことを言わないでくれよ!
相変わらずぼりぼりとのんきにスナック菓子を食べ続ける銀山さんに、無性に腹が立った。
いらいらと頭をかきむしる僕の視界に、銀山さんが両手に抱える、スナック菓子の容器が映った。赤いフェルトでできた容器は靴下の形を模していて、可愛らしいリボンがくっついている。まるで誰かにもらった、プレゼントみたいだった。
「……プレゼント?」
はたと気付く。
そういえば、僕は四季宮さんからマフラーのプレゼントをもらったけれど。
彼女は立場上、僕なんかよりも優先してプレゼントを贈るべき相手がいるのではないだろうか?
そしてその人物は、今両手に大量のスナック菓子を抱えていて――
僕の視線に気づいた銀山さんは、赤い靴下型の容器を軽く持ち上げた。
「ん? ああ、これ? お察しの通り、茜ちゃんからのクリスマスプレゼントだよ。なかなか強烈だと思わないか?」
山盛りのスナック菓子。
あれが銀山さんへの、クリスマスプレゼント……?
「くくっ……このプレゼントを見た時の茜ちゃんの父親の顔ったら、傑作だったな。『高校生のお小遣いだと、これくらいが限界で……』だってさ。あの一幕を見られただけで、十分すぎるくらいのプレゼントだ。いや、愉快愉快」
そう言って銀山さんは、からからと笑った。
僕は、首に巻いたマフラーにそっと手を当てた。
「……なんだい、その目は。あげないよ?」
「いりません」
「結構美味いのに。あげないけど」
だからいらないって。
四季宮さんからもらったスナック菓子を、大切そうに食べる銀山さんは……僕にとっては憎むべき相手のはずなのに――事実、はらわたが煮えかえるくらいにむかっ腹が立っているのに、どこか嫌いになりきれなくて、それがまた腹立たしかった。
「茜ちゃんは面白い子だよ。自分の運命に逆らえないことを知りながらも、それでも懸命にあがいてる。ただ僕がみるに、もう一つピースが足りない」
「だったら――」
「そこで君だよ」
銀山さんはまっすぐ僕を見つめた。
「さっき君が茜ちゃんの手をひいて、このテラスに移動した時、僕は思ったんだよ。この子なら、もしかしたら茜ちゃんを救えるんじゃないかってね」
「……話が飛躍しすぎてます」
たしかに僕はさっき、四季宮さんをテラスに連れてきた。
だけど、その理由は決して褒められたものではない。
ただ、銀山さんと彼女を鉢合わせたくなくなかっただけ。
爪弾きにされた世界にいる自分を見たくなかっただけ。
そんな稚拙で、利己的で、矮小な気持ちでしか動けない僕に、四季宮さんを助ける資格があるとは思えない。
「いや、飛躍してなんてないさ。茜ちゃん一人なら無理だった。だけど、誰か彼女に寄り添うことができる子がいるなら――可能性はゼロじゃない。だから僕は君に、明日の予定を話したんだよ」
「やめてください……僕は……僕なんかが……」
何かが落ちる音がして、次いで体に衝撃が走る。
僕の両肩を銀山さんが掴んでいた。
「聞くんだ」
銀山さんの目は本気だった。
本気で僕を説得しようとしていた。
その力強い声音をうらやましく思った。
あなたほど自分に自信が持てるスペックがあれば、どれだけよいかと思った。
そうすれば僕だって。
僕だって……っ!
「もう一度言うよ、藤堂君」
「君が、四季宮茜を助けるんだ」
【9】前日
正解が分からないままに行動することが、怖い。
言い換えればそれは、ゴールが見えない状態でマラソンを走り出すようなものだ。
どれくらいのペースで走ればいいのか、コースの状態はどうなっているのか、自分の体力で走り切れるのか。そんなあれやこれやが分かった状態で走りたいと思うのは、至極普通のことだろう。
だけど時に現実というのは残酷なもので、何の情報も与えられないままに、走るか、走らないかの選択を迫られる。
準備する時間を与えてはもらえない。
考える猶予も与えてはもらえない。
ただ選択の時だけがじりじりと音もなく迫ってきて、焦燥感だけが胸の内を焦がす。
「だからさあ」
自分一人では、その嫌な感覚に耐え切れなくて、僕は御影に電話をかけていた。
「俺はお悩み相談窓口じゃないんだって、何回言ったら分かるんだよ」
「他に相談できる相手がいないんだよ」
電話の向こうで、御影は大きくため息を吐いた。
「ったく、しょうがないやつだな。言っとくけど、大した助言はできないからな。最終的に決めるのはお前なんだから」
「分かってるよ」
こうして聞いてもらえるだけでも、気持ちが少し楽だった。
昨晩、銀山さんから話を聞いた後、僕は御影と織江さんに連絡をいれて、一人でホテルを後にした。駅までの道すがらも、電車の中でも、家に帰宅するまでの帰路でさえ、頭の中は四季宮さんのことでいっぱいだった。
今日を逃せば、四季宮さんは銀山さんと結婚してしまう。
止めたい。彼女を連れ去りたい。
だけど、それは非現実的なことでもあった。
僕は平凡な一介の高校生で、自分でお金を稼いだことも、働いたこともなかった。
自分一人ならまだしも、もう一人、誰かと寄り添って、隠れて生きていくなんてことができるはずもない。
なら、他に方法はあるだろうか?
逃避行ではなく、四季宮さんをあの状況から救い出すための、画期的な方法はあるだろうか?
否、と心の中で即座に否定する。
僕自身の力はちっぽけだ。そして、彼女の家庭環境を変えるためには、とても大きな力が必要だ。だけど、例え学校の先生に相談したところでなんの意味もないだろう。例え通報したところで、警察だって動いてくれないだろう。
僕個人も、学校も、警察も、ありとあらゆる個人と組織が、彼女を助けるための力と動機をもっていない。
八方ふさがりだった。
僕は彼女を救えない。
何度考えてみても、同じ結論にたどり着き、堂々巡りを繰り返す。
「まあ、難しいだろうな」
僕の心のうちを話し終えると、御影も言った。
「そこまで話が進んでると、俺たちにできることは何もないだろうし」
改めて他人の口から聞くと、心にくるものがあった。
それと同時に、納得もした。
僕に彼女は、救えない。
「ありがとう、御影。やっぱり僕は――」
「でもさあ……。大事なのってそこじゃないよな」
「……え?」
「確かにお前は、四季宮さんを助けるための、具体的なアイディアもプランもないかもしれない。そもそも高校生の俺たちにできることなんて本当に限られてて、狭い選択肢の中から必死こいて選んだものでも、大人たちに軽くつぶされちまうかもしれない。だけど」
一拍置いて、続ける。
「お前は助けたいんだろ?」
「……」
仮に。
四季宮さんが、この結婚を喜んでいるのならば、当然僕が口出しすることなんてなかったと思う。
だけどあの日、銀山さんと初めて僕が出会った日。
あるいは、修学旅行で銀山さんについて語った日。
そして何より、昨日のクリスマスパーティーの会場で。
四季宮さんは一度たりとも、心から幸せそうな顔をしていなかった。
初めて、彼女の弱音を聞いた。
だから僕は、彼女を助けたいと思った。
あの絶望的な環境から、救い出したいと願った。
「だったら、やればいいじゃん」
「……答えが見つかってなくても?」
「んなもん、後から考えろ」
「資格がなくても?」
「なんだよ資格って。どんな試験に合格すりゃ配布してもらえんだよ」
「ゴールが全く見えなくても?」
「走り出したら見えてくるかもしんねぇだろ。なんでもかんでも、最初からゴールが見えてるとは限んねえよ。走りたいと思うかどうか。そこが一番、大事なんじゃないのか」
洋服掛けにかかった青藍色のマフラーを見る。
次いで、その下に置かれた小洒落た紙袋に目が移る。
昨晩は気付かなかったけれど、実はあの中にはマフラー以外にも一枚の手紙が入っていた。
短い文面で、端的に。
四季宮さんの少し丸っこい、整った文字が並んでいた。
今までありがとう!
真崎君には、ほんとにほんとに、たくさんの思い出をもらいました。
もらってばっかりで、申し訳ないくらい。
だからせめて、私からはマフラーを送ります。
実は手編みなんだよ? びっくりした?
首元あったかくして、体を大事にしてね。
四季宮茜
追伸
しゃべるときは句読点をしっかり打つように!
真崎君、ほんとはお話面白いんだから。聞き取れないの、もったいないよ。
何言ってるんだ、四季宮さんは。
もらってばっかりで申し訳ない?
思い出をたくさんありがとう?
そんなの全部、全部全部――
「まあ、偉そうに何言ってんだって思うかもしんないけどさ。要するに俺は、少しは自分の気持ちに正直になった方が――」
「御影」
僕のセリフじゃないか。
「ありがとう」
「……腹くくったんだな」
「うん」
何の根拠も確証もない。
一歩先に広がっているのは、苦難だらけの不安定な道のりだ。
それでも彼女の力になりたいと、混じりけのない気持ちで思うから。
「今日、四季宮さんと逃げようと思う」
※
集合時間の三十分前に、駅に着いた。
これからのことを考えながらぼんやりと虚空を眺めていると、向こうの方から駆けてくる人影が見えた。
こんなにもたくさんの人間が行き来している雑踏の中で、彼女の姿だけはすぐに見つけることができるのだから、不思議なものだ。
息を弾ませて、四季宮さんは僕の前で止まった。
「ごめんね、待たせちゃって!」
「い、いえ。まだ集合時間の三十分前ですし。それより……大丈夫ですか?」
「ぜーんぜん大丈夫じゃない!」
言葉とは裏腹に、四季宮さんの顔は晴れやかだった。
冬の間静かに息をひそめていた植物たちが、春、待ちきれなかったみたいに一斉に芽吹いたような。薄桃色の笑顔。
「でも、いいの。真崎君からメッセ来た時からドキドキが止まらなくて、もういてもたってもいられなかったんだ。早く君に会いたくて……仕方がなかった」
四季宮さんは、全身で喜びを表現していた。
一挙手一投足に、幸せがあふれているみたいだった。
まぶしすぎる笑顔を直視できなくて、僕は視線を外しながら言う。
「そ、それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
僕は頭の中のプランを見直しつつ、駅の改札口へと歩を進めた。
背後から四季宮さんの楽しそうな声がする。
「もしかして、エスコートしてくれるの? 嬉しいなー、嬉しいなー」
「あ、改めて言わないでください……恥ずかしいです……」
「えー、いいじゃんいいじゃん! 真崎君と遊ぶときは、いつも私が引っ張りまわしてばっかりだったから、こういうの新鮮で嬉しいだもん」
言われてみれば、その通りだった。
彼女と一緒に遊ぶ際に、僕が先導するのは初めてのことだ。
どこへ行くときも、どんなところへ向かうときも、二人で移動するとき、僕はいつも彼女の背中を追っていた。
だけど今日は……今日だけは、僕が彼女をリードしなくちゃいけないんだ。
「四季宮さん」
「ん? なあに?」
はたと思い出し、立ち止まる。
後に続く言葉を口にするかどうかは、悩むところだった。
彼女にとっては、ある種呪いの言葉のようでもあって、素直に喜んでもらえないかもしれない。皮肉のように聞こえてしまうかもしれない。
だけど……そんなことを気にする方が、きっと野暮だ。
「改めて、お誕生日おめでとうございます」
だって本来、誕生日は祝われるべきものなんだから。
僕が言うと、四季宮さんは一瞬目を大きく見開いた。
そしてゆっくりと目じりを下げて、口角を上げて、
「うん、ありがと、真崎君」
そう、静かに答えた。
四季宮さんの左腕で、銀色のブレスレットがきらりと光った。
※
僕たちは、地元でもなく、帝桜ホテルの近くでもなく、まったく縁もゆかりもない、それでも人はたくさんいる都心部まで、一時間ほどかけて電車で移動した。
道中、四季宮さんはよく喋った。
僕たちが交わした会話は、とりとめのない話ばかりだった。
もうすぐ公開される映画の話。
最近行った、ケーキの美味しいカフェの話。
クリスマスムードとお正月の準備が入り混じっているこの時期は、スーパーがごちゃごちゃしていて面白いという話。
今年はこんなに寒いのに全然雪が降らないから、なんだか損した気分になる、という話。
他愛なくて、中身がなくて、だけどとても、居心地がよかった。
結婚の話は出なかった。どうやら彼女はスマホの電源を切っているようで、電話がかかってきて水を差されるということもなかった。
電車を降りて、おなかが空いたという四季宮さんを連れて、事前に調べておいた小洒落たイタリアンで夕飯を取った。
正直なところ、僕はその後のことを考えてひどく緊張していて、味なんてろくに分からなかったのだけど、四季宮さんは美味しい美味しいと終始口にしていたから、それだけで良かったと思える。
夕飯を終えて、クリスマス仕様のイルミネーションが施された駅前をのんびりと歩く。
時刻は午後十時過ぎ。
四季宮さんがホテルに戻るなら、そろそろ電車に乗らなくてはならない時間帯だ。
ちかちかとカラフルに明滅するクリスマスツリーを眺めながら、僕は口の中が乾くのを感じた。唾液はたくさん出るけれど、口の中は一向に潤わない。そのくせ、唾液を飲み込む音だけは嫌に大きく耳に響く。
隣で一緒にツリーを眺めていた四季宮さんが、ちょいちょいと僕のコートの袖を引っ張った。
視線を下ろすと同時に、彼女は言う。
「それで、この後はどこに連れてってくれるの?」
「……っ」
「私まだ……遊び足りないよ?」
四季宮さんは、僕の返事を待っていた。
それは、この後帰らないという、彼女の意思表示でもあった。
下調べは済んでいる。
覚悟だって決めたはずだ。
僕はこぶしを握り込み、意を決して、声を絞り出した。
「き……今日はどこかに、泊まっていきませんか?」
高校生でも泊まれそうな宿を知らないか、と御影に聞いた時「ちょっと待ってろ」と即答した数分後、宿の情報を教えてくれた。
いわゆる大人のホテルだが、店員を介さず、チェックも甘い穴場なのだとか。よほどのヘマをしなければ、連れ戻されたり、補導される心配はないだろうということだった。
なんでそんなにすぐ見つけられたのかは謎だったが、曰く「こういうのは探せばいくらでも見つかる」とのこと。
とにかく、御影に教えてもらったホテルに入り、適当に部屋のボタンを押して、僕と四季宮さんは無事に本日の寝床に到着した。
「わー! ひろーい! ベッド大きいー!」
ぴょんとジャンプして、四季宮さんはベッドにうつぶせに倒れ込んだ。
ロングスカートが腿の辺りまでめくれて、僕はあわてて目をそらした。
「真崎君もおいでよ! 思ってたよりふかふかだよ!」
「ぼ、僕はここでいいです……」
彼女と同じ部屋で二人きりになったことは、もう何度かあるはずなのだけど、場所が場所だから変に緊張してしまう。
「いいじゃん、どうせ一緒に寝るんだからさー」
「い、一緒に⁉」
「え、もしかして真崎君、椅子で寝るつもり?」
「そういうわけじゃないですけど……」
改めて言われると、気恥しい。
四季宮さんは、ベッドの上でパタパタと足を動かしながら、上機嫌に言った。
「でもまさか、夜の宿のことまで考えてくれてるなんて。嬉しいなー」
そして続けて、実はね、と言いながら、カバンから鍵を取り出した。
高級そうなキーホルダーの付いた、ホテルのキーのような物だった。
「真崎君が考えてなかったら、別荘に一緒に付いて来てもらおうと思ってたんだ」
「べ、別荘?」
「うん。ここから電車で一時間くらいのところにある、マンションの一室なんだけどね。真崎君から連絡がきた後、こっそり家から鍵を取ってきてたんだ」
室内の仄暗い照明を受けて、銀色の鍵がきらりと輝いた。
なるほど、別荘なんてあったのか……。庶民代表のような僕には考え付きもしなかったような妙案に、思わず面食らう。
そしてすぐ、それならそっちの方が四季宮さんにとっても居心地が良いのではないかということに気付いた僕は、慌てて口を開き、
「そ、そうだったんですね。だったら、ここよりも別荘の方が――」
「ううん、ここがいい」
四季宮さんはそう即答して、バッグの中に鍵を戻した。
「真崎君が、私のためを思って頑張って調べてくれた、ここがいいよ」
「し、調べたのは御影で、僕じゃないんですけど……」
「もー、そういうことじゃないの。言ってること、分かるでしょ?」
立ち上がり、椅子に座った僕の手を取った。
ほっそりとした指は、十二月の冷気に中てられて、まだ冷たい。
「私を連れ出してくれて、本当にありがとう。私のために、一生懸命考えてくれて、行動してくれて……。言葉にできないくらい、嬉しいよ」
なんと答えればいいか分からず、僕は沈黙した。
四季宮さんも、何も言わなかった。
しばし、視線が絡む。
ライトブラウンの美しい瞳に、僕の姿を確認した瞬間。
四季宮さんが僕をそっと抱きしめた。
甘い香りと、柔らかな体に包まれて、僕の身体は金縛りにあったみたいに動かなくなってしまう。
どうしたらいいのかさっぱり分からなくて、恐る恐る四季宮さんの背中に腕を回そうとして――やっぱり、諦めた。きっと傍から見れば、僕の動きはブリキ人形みたいにぎこちなかっただろう。
やがて、四季宮さんは僕の耳元にそっと口を寄せて、囁いた。
「ねえ、真崎君」
彼女の吐息が艶めかしく耳輪を撫でる。
「このままずっと、ずぅっと……一緒に、逃げちゃおっか」
刹那。
僕の脳裏で様々な思考が明滅した。
それはとても、とても魅力的な提案だった。
だけど同時に、魅力的だからこそ、現実的ではないと思ってしまった。
現実はいつだって苦痛を伴う。
優しいだけの現実なんてありはしない。
楽しいだけの現実なんておとぎ話だ。
ここにきても僕はまだ、この逃避行のゴールを、結末を、決めることができずにいた。
だから僕は、四季宮さんの言葉への反応が、一瞬遅れて。
「僕は――」
「なーんて」
そして僕よりも一瞬先に、四季宮さんの体が離れる。
彼女の体温は、圧倒言う間に部屋の空気に溶け込んでいく。
「もちろん、冗談だよ」
からっと。
四季宮さんは笑った。
右腕を動かすと、じゃらりと鎖の音がした。
手首を締め付ける金属の輪は、最初こそひんやりとしていたが、今ではもう僕の体温と同じくらいになって、さながら最初からそこにあったみたいに錯覚する。
一方の左手はと言えば、柔らかくしっとりとした手を握っていた。握られていた。
てのひらが汗ばんできた気がして、手をはなして寝間着でふこうとすると、
「だめ、はなさないで」
数十センチ先で僕を見つめる四季宮さんが、静かに言った。
暗闇の向こう、明かり一つ付いていない部屋の中で、だけど四季宮さんの顔だけは、とてもくっきりと視認できた。四季宮さんが動くと、僕が被っている布団も動いた。シーツを通して伝わってくる彼女の挙動一つ一つが、僕を捉えて離さない。
互いの片手を手錠で縛って、もう片方の手を握り合って、僕らは二人、布団の中で向き合っていた。
事のきっかけは、そう。
お互いにシャワーを浴びて、一息ついて、さあそろそろ寝ようか、という時に起こった。
『手錠、忘れちゃった』
ホテルにしつらえられた、僕と同じ柄の寝間着に身を包み、四季宮さんは眉をハの字に下げてそう言った。
『一つもないんですか?』
『スペアで持ち歩いているのが一つだけあるんだけど……』
机の上に置かれた、どこか他人行儀な手錠を眺めながら、思案する。
四季宮さんが、寝るときに手錠が三つ必要なことは、修学旅行の一件で僕も既に知っていた。
手錠一つだけでは、両手か、両足か、そのどちらかを縛ることしかできない。
『どうするんですか?』
『んー、どうしよっかなー』
事の重大さとは裏腹に、四季宮さんは軽い口調で手錠を取り上げた。
そのまま人差し指を輪っかに通して、手錠をくるくると回しながら、部屋の中を眺める。
設えられたベッドには柱がなく、他にも括りつけられそうな場所はない。
縛るとしたら、やはり優先順位が高いのは両手だろうか? しかし、自由に歩ける状態は、それはそれで危険な気もするし……。寝ないというのも一つの選択肢だけれど、もし寝てしまったら、というリスクが付きまとう。
『真崎君、左手出して』
『……? はい』
『えい』
かちゃん。
僕の左腕に手錠がはまった。
流れるような動作で、そのまま四季宮さんはもう片側の手錠を自分の右腕にはめた。
『これでよし』
『……何してるんですか?』
『これなら私が自遊病を発症しても、真崎君が気づいて止めてくれるでしょ?』
私の命は、君に預けた! と、彼女はまるで自分の荷物でも預けるみたいに気軽な口調で僕に自分の命を託し――今に至ると言うわけだ。
確かにこれなら、彼女が動いたときに僕が起きることができるかもしれない。
だけど、確実じゃない。もし僕が気づかずに寝続けたらどうするつもりなんだ……?
「大丈夫大丈夫、念のために、ほら。左手もちゃんと握ってるし。私、普段は寝相いい方だし? きっともぞもぞ動いたら気づくって」
「正直、めちゃくちゃ不安です……」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよー。不安なら、ついでにハグもしとく?」
「し、しません!」
そんなことをしたら、一晩中寝るに寝られないじゃないか。
いや、むしろその方が、四季宮さんの安全は確保されていいのか……?
「なんだ、残念」
僕と違って、四季宮さんは大層リラックスしているように見えた。死が怖くない、というわけでは、もちろんないだろう。もしそうなら、手錠で自分を縛り付けなんてしないはずだ。
だからきっとこれは、慣れ。
毎日襲い掛かり、彼女に死を突き付ける、理不尽な病への慣れが、彼女をこうさせているのだろう。
「ぷにっとな」
「うっ」
鼻を押されて、我に返る。
四季宮さんの右手は、まるでそこが定位置であるかのように、するすると僕の左手の中に納まった。
「あはは、元に戻った」
「何がですか」
「こわーい顔してたから、鼻押してみたの。もう一回押したら、また表情が変わるのかな?」
「そんなわけないでしょう、ロボットじゃないんですから……」
「分かんないよー? そりゃそりゃ!」
「や、ちょ! やめ……」
つんつんと鼻を押され続け、僕はたまらず顔をそらす。
意外と変わるー、ここがスイッチなんだねー! と楽しそうに笑う四季宮さんを視界にとらえた瞬間。
目の奥で線香花火が散った。
「……え」
目の前に広がったセピア色の光景に、僕は思わず言葉を失い――
「……真崎君、どうしたの?」
体を反転させて、彼女の背を向けた。
つながった右腕はそのままに、左手をはなしてそっぽを向いた僕に、四季宮さんは問いかける。
「もしかして、なにか視たの?」
「……知りません」
「何、視たの?」
「知りません」
「ねえ、真崎君」
するりと彼女の身体が忍び寄る。
背中に顔が押し付けられる。
「ちゅー、しよっか」
「――っ」
六十秒先の未来で、僕たちはキスをしていた。
顔を離した後、彼女ははらはらと涙をこぼした。春先に散る、桜の花びらみたいな涙だった。
口は小さく動いていて、何かを喋っているようだった。
幻視の力では、会話の内容までは分からない。
だけどキスをすることで彼女が泣いてしまうのであれば、僕は。
「しません」
「けち、減るもんじゃないのに」
あの日、階段下で不覚にもキスをしてしまった時と同じ言葉を口にした。
思えばあの時から、ずいぶんと状況が変わったものだと、しみじみ思う。
「減らなかったらなんだってオッケーってわけじゃないですよ」
「むう、正論だなあ」
手錠の音がして、僕の右手を、四季宮さんの両手が包み込んだ。温かい。
「一つ、聞いてもいい?」
「……なんですか?」
「真崎君はさ、どういう理屈で幻視が起こってると思ってる?」
「相変わらず、唐突ですね」
「いいからいいから」
僕は少ししてから、答える。
「考えたこともありませんでした。理屈なんて、あるんですかね?」
「ふふ、どうだろうね。でも、私には仮説があるよ」
「仮説ですか?」
「うん」
四季宮さんは言う。
「私はね、真崎君の幻視は、優しさから生まれてきてると思ってるんだ」
ずいぶんと、ふんわりとした表現だった。
「君の幻視は、不規則に起る。だけどもしかしたら、相手によって偏りがあるんじゃないかな?」
彼女は続ける。
「一緒にいた時間が長い人ほど、その人のことを良く知っているほど、幻視が起こりやすいんじゃないかって、私は思うんだ」
言われてみれば、たしかに僕の幻視は、人の行動を予測することばかりだ。
突然雨が降りだす様子を視たことはない。
鳥が羽ばたく未来を視たこともない。
「だからね。真崎君の幻視は、君がその人の先の行動を想像して、危険な目に合いそうだと思った時にだけ、現れるんじゃないかな」
例えば。
クラスメイト同士がじゃれ合っている時に、近くに花瓶が置いてあって。いつもその辺りに肘を置いているから、花瓶が窓から落ちる幻視を視た。
落ち着きのないクラスメイトが、信号が赤になってもわたるクセを知っていたから、交通量が多い道路で轢かれる幻視を視た。
階段のワックスが塗りたてなのを知っていて、四季宮さんが駆けてくる音が聞こえたから、彼女が滑り落ちる幻視を視た。
確かにそれらの幻視は、誰かが危ない目に合いそうな未来を映したものばかりだった。
「観察眼と、想像力。そして何より……危険を察知したり、守りたいと願う、君の優しさ。それが、幻視の根源なんじゃないかな」
「……そんな大層なものじゃないですよ」
「どうだろう。でも、不思議な現象にも、きっと必ず理由がある。原因がある。私はそう思うんだ」
彼女の説は、もっともらしく聞こえた。
だけど僕の幻視は、とてもくだらない、本当にささやかな未来の光景だって視せることがある。四季宮さんの仮説は、完全には当てはまらない。
結局これは、答えのない禅問答のようなもので、意味のないやり取りだったのだろう。
そして、もし――
「だからさ、真崎君は優しいね」
もし、この言葉を口にするための過程だったのだとすれば。
ずいぶんと回りくどいやり方だったように思う。
「そんなことありませんよ」
「優しいよ」
それから、どれくらい経ってからだろうか。
背中越しに四季宮さんの静かな寝息が聞こえてきたので、僕はそっと寝返りを打って、彼女の左手を握った。銀色のブレスレットが、常夜灯の光を反射して鈍く光る。
ふと、彼女の頬に濡れた痕があったので、そっとなぞってみる。
正解は未だに見つからない。
今の僕にできるのは、ただこうして結論を先延ばしにして、彼女と逃げるだけ。
「僕は、どうすればいいと思いますか……?」
口の中で呟く。
もちろん答えはなかった。僕の中にも、彼女の中にも。
ぽすんと枕に頭を落とし、四季宮さんの寝顔を見る。
こんなに間近で見つめるのは初めてだった。
滑らかな肌、頬にかかる液体のような黒髪、長いまつげ、美しい鼻筋、薄桃色の艶やかな唇。
そのどれもが、嘘みたいに綺麗で、整っていて、こうして同じ布団で寝ていることが、信じられなくなる。
気付けばずいぶんと長い時間、僕は彼女の頬に触れていたようで、僕は今更になってあわてて手を引っ込めた。
その時。
「――っ!」
四季宮さんの左腕が跳ねるように動いた。
右腕が意志を持っているかのうように動き、四季宮さんの首を締めあげようとした。
僕はあわてて彼女の右手首を掴み、ベッドに押し付ける。
それが終わったかと思えば、両足をばたつかせ始めたので、それも押さえつけるために僕は彼女の上に馬乗りになった。
じゃらりと手錠の鎖が鳴って、左腕も動く気配がしたので、腕を使って押し付ける。
何分かの攻防を経て、ようやく四季宮さんの身体は動かなくなった。
心臓の音がうるさい。全力疾走をした後みたいに、息があがって喉を焼く。
これが――自遊病か。
話には聞いていたけれど、実際に目にするのは初めてだった。
確かにこれだけ激しく動けば、手錠の痕がくっきりつくのも納得だ。もし家でうっかり居眠りなんてしてしまえば、体中に傷を作ることになるだろう。
だけど四季宮さんの表情はとても穏やかで、まるで何事もなかったかのように静かに寝息を立てている。
「……?」
いや……それは当然のことだ。
自遊病は寝ている時にのみ発症する。
眠っている彼女がさっきの死闘を知るはずもないのだから、平和そうな寝顔を浮かべていたって不思議ではない。
そう分かっていても、頭のどこかに奇妙な感覚が残り続けた。
どこかすっきりとしない、何か大切なことを見落としているような、違和感。
本人だけがこの病気に慣れてしまい、死に向かう病をちっとも恐れていないように見えること。自遊病という厄介極まりない病と、上手に共生していること。周囲だけが病について騒ぎ立て、四季宮さん自身は一向に気にしていないように見えること。
今更ながらに、そこにちぐはぐさを感じた。
「……考えすぎか」
しかしいくら考えても、違和感の正体は思い至らなかった。
どうやら初めて自遊病を目の当たりにしたことで、神経が変に高ぶっているようだ。
僕は頭を振って、違和感を頭から追い出した。
それからしばらくの間、四季宮さんの様子を眺めていたが、体が動き出すことはなかった。
いったんは落ち着いたらしい。
ほっとした僕は小さく息を吐き、彼女から体を離そうとして――気が付いた。
さっきまでは彼女の身体を抑えるのに必死で、全く意識していなかったのだが。
僕の右手が、四季宮さんの胸に当たっていた。
それもなんていうか……かなり思いっきり掴んでいた。
「あっ……」
もちろん、不可抗力だ。
四季宮さんの左腕を抑えるためには、右手をどこかに添える必要があった。
たまたまそこに四季宮さんの胸部があっただけで、決してやましい気持ちがあって触ったわけではない。
「……いや、誰に言い訳してるんだ、僕は」
そっと手を外し、ベッドの上に仰向けになる。
右手首の手錠の感触と、手のひらに残った柔らかな感触だけが、暗闇の中で妙に生々しく僕の意識を焼いた。
翌朝、アラームの音がして目が覚めた。
なんだか寝たような、寝ていないような……。微妙に肩に疲れが残る体をほぐしていると、四季宮さんも体を起こした。
寝巻が乱れていて、胸元が大きく開いている。
僕は昨日の夜のことを思い出して、あわてて目をそらし、「おはようございます」と声をかけながら手錠を外した。
四季宮さんは寝ぼけ眼で、そんな僕の様子を眺めながら、一言ぼそりと呟いた。
「真崎君のえっち」
【10】当日
「一つ、大事なことを君に伝えておきたいんだ」
クリスマスパーティーのあの夜、銀山さんは最後にそう切り出した。
「彼女の病について、担当医として僕の見解を述べさせてもらおう」
銀山さんが担当医であることは薄々察していた。婚約者であり、担当医。ずいぶんと四季宮さんと接する機会が多かったのに……病気の名前は、知らないんだな。
「彼女は自遊病って呼んでましたよ」
「自遊病……自遊……自由、か。なるほど、なかなか皮肉が聞いているね」
皮肉。確かに僕も最初はそう思った。
だけど今にして思えば……あれは彼女の希望だったのではないかと感じる。
「では便宜上、僕も自遊病と呼ばせてもらおう。共通認識性を高めるのは大切なことだからね」
「何か知ってるんですか?」
銀山さんはかぶりを振る。
「いや、何も知らない。あんな病気は見たことも聞いたこともないよ。だけど、公にしてはいけないとも思う。寝ているうちに勝手に死んでしまう病気だなんて……いかにもメディアが喜びそうな精神病じゃないか」
ただ、と続ける。
「一つ、気にかかっていることがある。もしかしたら君なら、この情報をうまく扱えるかもしれない」
「気にかかること……?」
「ああ、よく聞いてくれ。実は――」
※
はっと目が覚める。
あわてて横を見ると、四季宮さんがうとうとと舟をこいでいるところだった。
「し、四季宮さん。起きてください……」
「んんっ……ねてないよ?」
そんな子供みたいな言い訳……。
とはいえ、僕も意識が飛びかけていたので、人のことは言えない。
今日の僕たちはホテルを出て、どこに行くでもなくショッピングモールをぶらぶらと散策し、何を買うでもなくウィンドウショッピングに興じていた。
そして夕方ごろになり、急激に疲れが押し寄せてきたため、引き込まれるように、ソファーに二人、腰かけていたのだった。
足早に目の前を通り過ぎる人並みを眺めていると、なんだか眠くなってきて、僕たちはどちらともなく寝てしまっていたようだった。
「大丈夫ですか、四季宮さん。疲れてますか?」
「ううん、もう大丈夫。昨日は真崎君のお陰で、よく眠れたし。むしろ、真崎君の方が眠そうだよ?」
結局あの後、四季宮さんの胸の感触が忘れられず、もんもんと一晩を過ごしたのだから、寝不足で当然だった。とても四季宮さんには言えない理由だ。僕は誤魔化しつつ答えた。
「枕が合わなかったみたいで……。でも、今ちょっと寝られたのですっきりしました」
「ふふ。そっか、ならよかった。こんな風にうたた寝してるときって、変な夢を見たりするでしょ? かえって寝る前より疲れちゃったりすることもあるから、ちょっと心配で」
「あはは、確かにありますね。僕もついさっき――」
はたと、そこで言葉を止める。
「……どうかしたの、真崎君?」
「いえ……」
数十秒か、あるいは数分か。
さっき意識が飛んでいる間に脳裏によみがえったのは、銀山さんとの会話だった。
あの時は、銀山さんの意図を計りかねていたのだけれど。
ここにきて僕はようやく、あの人の言いたかったことが分かった気がした。
稲妻のような直観が、一瞬にして脳裏を駆け抜けた。というほど、鮮烈なひらめきではなかった。
ただ、これまで四季宮さんと共に過ごした時間の積み重ねが、少しずつ真実に近づいていって、昨日今日と彼女と接したことで、ようやくそれが閾値を超えた。
そんな緩やかな気付きだった。
昨晩おぼえた違和感の正体も、もしかしたら……。
もし僕の予想が正しければ、彼女を救う糸口がつかめるかもしれない。
期せずして手に入れた活路の一端を見失わないうちにと、僕は慌ててスマホの通話ボタンを押し、立ち上がろうとした。
「四季宮さん、少しここで待っていてもらっても――」
ふと、肩に重みを感じて、目線を横に向ける。
四季宮さんの頭が、僕の方に乗っていた。
浮かした腰を戻して、通話ボタンを切る。
「ど、どうしたんですか? 急に」
「んー?」
角度的に、彼女の顔は見えなかった。ゆったりとした髪の毛が目元を隠していて、ただ彼女のつむぐ言葉だけが、雑音をかき分けて僕の耳に届く。
「幸せだなあ、と思って」
四季宮さんの指が、僕の手に絡む。
「なんだかここに座ってると、私たちだけが世界の流れに取り残されたみたいに感じるね」
彼女はとつとつと言葉をこぼした。
周りの人たちはせかせかと足早に歩いて行って、私たちには目もくれない。
あくびで潤んだ目で見ると、人影が帯を引いて右へ左へ駆け抜けていって、そんな中で私と真崎君は、のんびり会話を交わしたり、たまに居眠りしそうになりながら、互いに起こし合ったりして。
なんだかこの一角だけが、別世界みたいに切り取られたような、二人だけの空間が形作られているような……そんな気がするんだ。
「ずーっと、このままだったらいいのにね」
隔絶された世界で二人、いつまでもこうしていられればいい。
僕だって同じことを思う。
なにも憂うることなく、周囲の変化から、時間の経過から取り残されたまま、ただ安寧とした時をゆったりと過ごすことができたら、どれだけいいかと思う。
だけど――
「うん。現実はそんなに甘くないよね」
「四季宮さん……」
肩から重みがはずれ、四季宮さんは顔を起こした。そして笑って言う。
「ごめんね、変なこと言って。ちょっと寝ぼけてたのかも」
何か気の利いた言葉をかけたいと思ったけれど、いくら脳を振り絞ってもろくな言葉が浮かんでこなくて、自分の不甲斐なさに下唇を噛んだ。
そうこうしているうちに、スマホが震えた。着信の合図だ。
「電話、鳴ってるよ?」
「……少し、ここで待っててもらってもいいですか?」
「うん、りょーかい。急がなくていいからね?」
右手をひらひらと振って、四季宮さんは少し眠そうに、だけど笑顔で僕を見送った。
僕は四季宮さんに会話が聞こえないくらいの位置で、柱に背中を預けて、スマホを耳元に寄せた。
通話口から聞こえてきたのは、突き抜けるくらい明るい声だった。
僕は答え合わせをするために、彼女に問いかける。
「織江さん。突然すみません。一つだけ、教えてもらいたいことがあるんです」
ボタンをタップして、通話を切る。
少し時間はかかってしまったが、なんとか織江さんから話を聞きだすことが出来た。
僕の予想は確信に変わった。
彼女が――四季宮さんがついていた大きな嘘に、ようやく気付くことができた。
ただ……ここからどうすればいいだろうか。
彼女を助けるために、彼女を幸せにするために、僕にできることはなんだろうか。
答えはまだ見つからない。だけど、何とかしなくてはいけないという焦燥感だけは、今まで以上に強く胸の内で燃え上がっていた。
とにかく、四季宮さんと一度話し合って――
「……え」
思考と歩みが止まる。
さっきまで僕と四季宮さんが座っていた場所。
二人で肩を寄せ合っていたソファー。
そこには、誰もいなかった。
ただ、一通の手紙が置かれていた。
震える指で、それを開く。
中には、端的に、短い文章だけが書かれていた。
『今までありがとう。さようなら』
現状を把握するまでに数秒。
その文章を理解するまでに、さらに数秒。
それだけの時間硬直していた僕は、やがて弾かれたように
「……四季宮さんっ!」
駆けだした。
四季宮さんの連絡先をタップして耳元に寄せる。
『おかけになった電話は、現在電波の届かない場所に――』
「くそっ!」
悪態をついてスマホをしまう。
四季宮さんは電源を落としたままのようだった。スマホは使えない。
足で稼いで、目で見つけるしかない。
ショッピングモールの中には、うだるくらいに人がいた。
人混みをかき分けながら、左右に目をせわしなく走らせて四季宮さんの姿を探す。
いない……。
いない。
いない、
いない、いない、いないいないいない!
「くそっ!」
悪態をつきながらエスカレーターを駆け降りる。
駆け降りるのが正解なのか分からなかった。
駆け上がった方がいいのかもしれなかった。
だけどなんとなく、もう四季宮さんはこのショッピングモールから離れようとしているのではないかと。外に向かって歩いているのではないかと、僕は直感的にそう思って、下へ下へと駆け降りた。
途中で二列になって並んでいるカップルが邪魔で、どいてくださいと言いながら、荒々しく間をすり抜けた。たくさんの人が、必死の形相で走っている僕を、怪訝な顔で見送っていた。
普段運動をしていないツケが回ってきたのか、肺は簡単に悲鳴を上げた。喉の奥が焼けるように痛くて、ろくに走ることすらできない自分にいら立った。
ショッピングモールの一階でも彼女を見つけることはできなくて、僕は転がるように外へとまろび出た。
モール内に響いていた音楽が消え、代わりに雑踏の音が大きくなった。
車が排気ガスを出す音が聞こえる。
タイヤと地面の摩擦音がする。
電光パネルの向こう側で、アナウンサーが喋っている声がする。
そのすべての音が広大な世界を想起させて、今からでは四季宮さんを探し出すことはできないのだと、非常な現実をまざまざと僕に突き付けてくるように感じた。
――もう間に合わない。
脳裏によぎった言葉を振り払うように、僕はかぶりを振る。
まだだ……まだ、諦めない。
彼女が向かうとしたら、駅の方だろう。
電車に乗る前に捕まえられれば、引き止めることが出来れば、まだ間に合うはずだ。
そう思って、自分を叱咤して、数歩走り出した時――
僕はその光景を視た。
何かに誘われるように、目線を上げた。
ビルの屋上、フェンスの外側。
圧倒的な死の匂いを振りまいて、むせかえるような橙色を背に受けて、彼女はそこに立っていた。
声をあげる間もなく、四季宮さんの体が一瞬宙に浮いて。
地面から伸びてきた、黒くて長い怪物の手に引きずり込まれるように、その速度を増していく。
彼女の身体は、地面にしたたかに叩きつけられて、真っ赤な血を周囲にまき散らした。
四季宮さんはその瞬間、四季宮さんだったものに変わってしまって。
すぐ近くにいるのに、だけど永遠に出会えない存在になってしまった。
「きゃははっ! もー、待ってよー!」
「……っ」
隣で子供の笑い声が聞こえて、僕は現実に引き戻された。
いずれ訪れる未来。六十秒後の光景。
これまで何度も僕を苛んできた、僕の幻視が告げている。
間違いない。
四季宮さんは、あのビルから飛び降りる。
六十秒後に、彼女は死ぬ。
「……はっ……はっ……」
呼吸が荒い。おびただしい量の汗が背中を伝う。
現状を整理しなければと焦りが体中を駆け巡るのに、意に反して体は全く動かずに、眼球だけがやけにせわしなく、右へ左へと揺れ動く。
今、四季宮さんが飛び降りる光景を幻視したということは、彼女はもう上り始めているだろう。あるいは既に、屋上に着いているかもしれない。
「はっ……はっ……!」
今からビルに飛び込んだところで、絶対に間に合わない。
スマホでの連絡も取れない。
状況は絶望的だった。
彼女に手を伸ばすには、どうしようもなく時間が足りない。
彼女を助け出す手段を、僕は何一つ持ち合わせてはいない。
僕は臆病だ。
ちっぽけ存在だ。
笑ってしまうくらいに非力で無力だ。
彼女が死ぬことを知っていても、彼女が飛び降りることが分かっていても、その未来を変えるだけの力がない。
……ごめんなさい、本当にごめんなさい、四季宮さん。
僕は……僕は、あなたを助けることが――
「違うだろっ……!」
街路樹に頭を打ち付けて、腐りきった思考を追い出した。
彼女を止める手段は、まだ残っている。
絶対ではない。だけど彼女の耳に、僕の声を届ける方法は一つだけある。
今それを躊躇ったのは、怖いからだ、恐ろしいからだ。
たくさんの人間が周囲にいる状態で目立つのが怖いからだ。
奇異な目線を浴びせられることに恐怖を抱くからだ。
自分の意志を強く伝えることに尻込みするからだ。
もし四季宮さんに僕の気持ちが届かずに、彼女が死んでしまったらと思うと、恐くて怖くて、体の震えが止まらなくなるからだ。
僕はビルの正面にあるひと際高い石塀の上に立って、空を見上げた。
二、三度空気を吸い込む。
心臓が拍動する音が痛い。嫌な汗がとめどなく流れ落ちる。
既に周囲の目線が痛い。喉が縮こまってしまいそうになる。歯をがちがちと打ち鳴らしそうになってしまう。
そんな自分を叱咤する。
どれだけ彼女に助けられたと思ってる?
どれだけ彼女に思い出をもらったと思ってる?
他人の嬌声がトラウマになっていた僕が、四季宮さんの綺麗な笑い声に救われたことを忘れたのか? 彼女の声が好きで、気づけば目で追っていたことを忘れたのか?
彼女と秘密を共有してからの日常が、どれだけ楽しかったのか忘れたのか?
四季宮さんと出会えたから、織江さんとも友達になれた。
織江さんと友達になれたから、御影も含めた四人で修学旅行を楽しめた。
なんの思い出もなかった高校生活に、彩りを与えてくれたのは、一体誰だ?
怖い? ああ、怖いさ。怖ろしいさ。
だけど。
そんな恐怖に向き合ってでも彼女のことを助けたいと、今、強く、強く、心の中で願うから。
一瞬のうちに脳裏を駆け巡った四季宮さんとの思い出が。
彼女が僕にかけてくれたたくさんの言葉が。
背中を押してくれている気がするから。
だから、今――
「四季宮茜ぇええええええええええええええええええええええええええええ!」
叫べ。
「死ぬなぁああああああああああああああああああああああああああああああ!」
叫べ……叫べ、叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べっ!
この透き通った空の隅々まで響き渡る位に。
喉がかすれて、真っ赤な血が噴き出すくらいに。
どこの誰かも分からない、有象無象の耳にも届くくらいに。
そして何よりも、君のもとに、君の耳にっ、君の心に届くくらいにっ!
「なに勝手に死のうとしてるんだよ! ふざけんな! 僕がどんだけ心配したと思ってんだ!」
痛いくらいに声を張り上げて、敬語なんてとりやめて、僕を外界から守っていた、ありとあらゆる壁をかき捨てて!
「自遊病だからしょうがないとでも言うつもりかよ! ついうたた寝しちゃったから死にそうになってるとでも言うつもりかよ! バカにすんなよ! もう全部知ってんだよ! 分かってんだよ!」
あらゆる言葉を区切ってしまう句読点も!
君がしきりに言っていた、その句読点すら置き去りにして!
短く!
早く!
鋭く!
今、叫び声を疾らせろっ!
「自遊病なんて病気、端から全部、嘘っぱちなくせに!」
『人の傷痕からは色々なことが読み取れる。いつ頃できた傷なのか、何でついた傷なのか、そして――誰につけられた傷なのか』
銀山さんはあの日、僕にそう語った。
『彼女の身体にはいくつも傷痕があった。手首と足首の傷は間違いなく手錠によってできたものだろう。だけど、その他の傷痕。あれは、第三者によってつけられた傷だ』
『どういうことですか……?』
『後は自分で考えるといい。全てを僕から話してしまったら、語る相手が変わるだけになってしまうからね。それでは意味がない』
「なあ四季宮さん! それは誰かから付けられた傷を隠すための、架空の病気なんだろう!」
四季宮さんの家に遊びに行った日、彼女のお母さんが手に巻いていた包帯。
クリスマスパーティーの夜も、まだ巻かれていた包帯。
あれは、四季宮さんに暴行を加えた時にできた傷だったのかもしれない。だとすれば、四季宮さんのお母さんが口走った「自業自得」と言う言葉にも、説明がつく気がする。
真相は分からない。だけど、四季宮さんの自遊病が架空の病気であるという証拠は、他にもある。
『だから教えられないってばー。茜ちゃんにかたーくかたーく口止めされてるんだから』
『そこをなんとかお願いします……っ』
『むむー、藤堂君ってば、結構頑固だね? こんなに粘られるとは思ってなかったぞよ?』
『普段ならこんなにしつこくお願いはしません。しつこくするのは……こわい、ですから』
『じゃあ、どうして?』
『……四季宮さんの力になりたいから』
『そのために、私の知ってる茜ちゃんの秘密が知りたいと』
『はい』
電話口の向こうで、織江さんが浅く息を吐いた。
『分かった。君のこと、信じるよ。と言っても……私もなんで口止めされてるのか、分からないような内容なんだけどねえ』
『どういうことですか?』
『んーとねえ』
一拍置いて、彼女は答えた。
『茜ちゃん、お家が結構厳しいらしくて、息が詰まるって言ってたんだよね。そのせいでちょっと睡眠不足なんだーって。だから――』
『うちでよく、仮眠を取ってたんだよ』
「いろんな人に嘘をついて! そこまでして隠したいものだったのかよ!」
周囲が騒がしくなってきた。
誰かがスマホを向けている気配もする。動画を撮影しているのかもしれない。
知ったことじゃなかった。
僕は叫び続ける。
「だったらなんで僕に色んなヒントを与えたんだよ! 修学旅行先で手錠の付け方を見せて、一緒に夜を過ごそうとしたんだよ!」
あの日、もし僕が四季宮さんの部屋で夜を明かしたら、彼女が自遊病を発症しないことを、知れていたかもしれない。
もっと早く、彼女のために何かしてあげられたかもしれない。
「昨日だってそうだ! どんな不思議な現象にもきっと必ず理由があるって君は言ったけど! それは君の自遊病にも当てはまるんじゃないのか!」
僕の幻視の仕組みについて、彼女は昨晩言及した。だけど彼女の発言は、そっくりそのまま自遊病にも当てはまるものだった。もし僕があの時、四季宮さんの言葉の真意を掴めていれば、今よりも早く、真実にたどり着けたかもしれない。
「なあ四季宮さん! 君は! 本当は! 僕に気づいて欲しかったんじゃないのか! 生きたいと思ってるんじゃないのかよ!」
四季宮さんに、僕の声は届いているだろうか。
彼女は聞いてくれているだろうか。
確認する術は僕にはない。
だから。
ただ、叫び続ける。
「なあ、頼むよ! 死なないでくれよ! 残された僕の気持ちを考えたことがあるのかよ! 四季宮さんがいないことで僕がどれだけ悲しむか考えたことがあるのかよ! 君がいない明日を想像しただけで! 僕がどれだけ胸が苦しくなるか分かってんのかよ!」
いや……これは詭弁だ。
彼女がもし生きていたとしても、銀山さんと結婚することを想像するだけで、僕は同じくらい胸がかきむしられるように辛い。
これは僕の本心ではない。
だからきっと、彼女の心には届かない。
「なあ頼む! 頼むよ……!」
この期に及んで、まだ自分の本音を語れない自分に辟易とした。
普段声を出し慣れていないからか、かすれて段々と声量が落ちてきた自分に嫌気がさした。
「分かった……言うよ。君に死なれたくないんだよ、君に行って欲しくないんだよ……っ! だって僕は、君の、ことが……」
最後の言葉は、かすれて声にすらならなかった。
肩で息をしながら、目をつぶる。
周囲のざわめきが、耳に飛び込んでくる。
「なにあれ?」「きもいねー」「警察に誰か連絡した?」「青春ってやつかなー」
違う、聞きたい声はこれじゃない。
「ねえ早く向こういこ」「動画取ったわあ。どっかにアップしよ」
違う、聞きたい声はこれじゃないんだ。
「てか、誰に語りかけてたんだろうねー」「さあ、妄想じゃね?」
違うんだ。聞きたい声はこれじゃ――
「惜しい、あとちょっとだったのに」
弾かれたように目をあげる。
誰もが遠巻きに見つめる中、ただ一人、僕の前に立ち、柔らかく微笑みながら、僕を見上げていた。
「しきみや、さ……」
のどに引っ掛かりを覚えて、せき込んだ。
どうやら叫んだ影響が、まだ喉に残っているらしかった。
「もー、馬鹿だなあ。こんなになるまで、無理しちゃって」
言葉に反して、四季宮さんの口調はとても優しかった。
彼女はそっと手を差し出した。その手を取ると、四季宮さんはぐいっと引っ張って走り出す。
「ちょ、どこに……」
「逃げるよ、真崎君! さっき警察の人がこっちに来るのが見えたから!」
人混みをかき分けながら、僕たちは手をつないで走り出した。
取り囲んでいたやじ馬たちは、腫れ物にでも触るみたいに僕たちを避けてくれたから、するすると間をすり抜けることができた。
僕の手を取って走る四季宮さんの表情は見えなかったけれど、だけど背中からは生き生きとした活力が伝わってきた気がして。
僕はそっと彼女の手を握りなおした。
【11】彼女の記憶
お父さんには逆らわず、お母さんの心のケアをする。
それが私の人生だった。
暴力というのは二つの種類がある。
一つは体を傷つける暴力で、もう一つは精神を傷つける暴力だ。
お父さんは、決して私やお母さんを外的には傷つけなかった。
だけど、私たちを見る目線が、いらだたし気に机の上を叩く人差し指が、荒々しく椅子を引く音が、さらりと紡がれる命令が、私たちに見えない傷を作っていた。
お父さんは早口で喋る人だった。早口で、分かりにくく、私たちに自分の意図を分からせようとする人だった。聞き返したりすれば「なんだ、こんなことも分からないのか」とばかりの冷たい視線を投げかけてきて、ため息交じりに繰り返す。
病院ではみんなに慕われ、尊敬される院長をやっているそうで、わざとそんな風に私たちに接していたと知ったのは、大きくなってからのことだった。
小さい頃からそうやってしつけられてきた私は「お父さんには逆らってはいけない」と、潜在的に刷り込まれていた。お父さんの機嫌を取るためには、逆らわず、言うことを良く聞いて、いい子にしているのが一番だった。それが、円満に家の中で過ごすことが出来る、唯一の方法だった。
お母さんも同様で、お父さんに言いたいことや、不平不満はあったのだろうけれど、私と同じように過ごしていた。
そうやって私の家庭は、正常に回っていた。表面上は、夫婦円満で聞き分けの良い娘のいる、理想的な家庭として、回っていた。
ほころびが見え始めたのは、お父さんが私の婚約者を紹介した時からだ。
『この人と結婚しなさい。家柄も学歴も確かな、しっかりした人だ』
相変わらず私に選択権はなかった。
四季宮家は代々病院関係の人と婚姻関係を結んできた。お母さんだって、当時付き合っていた人と半ば強引に別れさせられて、若くして優秀だったお父さんと結婚させられたと聞く。私だけが自由に相手を選べるはずもなかった。
私はただ静かに「分かりました」と答えた。
面白いことに、これがきっかけでお母さんがいら立ち始めた。
『どうしてなにも言わないの?』『なんで拒否しないの?』『あなたはまだ十五歳なのよ?』『おかしいと思わないの?』『どうして笑っていられるの?』『私が――』
『止められない私が情けないって、あんたが止めないからこうなってるんだろって、怒りなさいよ! 責めてみなさいよ!』
お母さんはきっと、罰を求めていた。
ずっとずっと、私に対して罪悪感を抱いていたのだろう。母親として子供を守れないことに。あるいは、母親らしいことをできていないと、自分自身を責め続けて。
それでも一応、家庭としての体裁は取り繕われていたから、お母さんはこれまで我慢することができた。自分を説得することができた。
だけど、私の結婚に関しては、お母さんは納得できていなかったのだろう。非常識だと思ったのだろう。あるいは、自分の過去を重ねたのかもしれない。それでもお父さんに歯向かうことも意見することもできなかったから、私にその矛先が向いてしまったのだと思う。
お母さんは優しい人だった。
それと同時に、とても弱い人だった。
思えばお父さんが結婚に応じたのは、お母さんが御しやすい相手だと思ったからなのかもしれない。
色々と、限界だったのだ。
ぎちぎちと嫌な音を立てて、今にも崩壊しそうな歯車の上に載っていた私たちは――お母さんが、お父さんの浮気現場を目撃したことで、あっけなくつぶれた。
初めてお母さんに暴力を振るわれたのは、そのすぐ後のことだった。
『やっぱりあんな人と結婚するんじゃなかった!』『さっさと離婚してやればよかった!』『だけど!』『あんたがいたから離れられなかったのよ!』『あんたなんて!』『あんたなんて――っ!』
そうしてヒステリックを起こしたお母さんは、私に矛先を向けて、突き飛ばした。
私は机の角にしたたかに腰をうちつけて、そこが酷いあざになった。
我に返って「ごめんね……ごめんね茜……」と私に泣きすがるお母さんをあやしながら。
私は、自分の人生について考えていた。
お父さんに逆らわず、お母さんのケアをする。
それが私の人生だった。
結婚した後はどうなるのだろう。
銀山さんとは、既に何回か会話を交わしたことがあった。悪い人ではないが、私に興味はなさそうだなと思った。今はお付き合いしている人がいると言っていたし、結婚してからもその関係を失くすつもりはなさそうだった。それに、私を見つめる銀山さんのお父様の目つきがいやらしくて、私はとても苦手だった。
この結婚の先に、幸せがないことは分かっていた。だけど反対する気は起きなかった。そのための牙を、私はとっくの昔に抜かれていて、噛みついたところで一蹴されるのも目に見えていた。
学校だけが私の唯一の癒しの場だった。
私とは違って、正常な毎日を全力で謳歌しているクラスメイトを眺めているのは、とても素敵な時間だった。色んな人のことを知りたくて、私はクラス中を駆け巡って、たくさんの人と友達になった。来世はこの子みたいな性格がいいな、この子みたいな目標が持てるといいな。そんな空想をする時間が、たまらなく好きだった。みんなの日常は私にとってはとても刺激的で、特別で、キラキラと輝いていた。
そんなある日、ふとある生徒のことが目に留まった。
クラスの中でも目立たない、物静かな子だった。誰に対しても敬語で、早口で、何かにいつもおびえているような子だった。
彼はすっと立ち上がり、教室の前ではしゃいでいる男子生徒の横を通り抜けて、窓際に置いてある花瓶を別の場所に移動させると、そのまま静かに自分の席に戻っていった。
はしゃいでいた男子生徒の肘が、もともと花瓶が置いてあった場所の上で空を切ったのは、そのすぐ後のことだった。
それから私は、彼の行動を度々見るようになった。
彼の名前も知った。藤堂真崎君。クラスの誰に聞いても、彼のことをよく知っている生徒はいなかった。唯一仲の良い友達は、ほとんど学校に登校してこないのだと知った。
誰も彼の行動の意味を理解してはいなかった。
そもそも彼のことを認識すらしていなかった。
だけど真崎君の行動は、いつも誰かを救うことに直結していた。
正確には、誰かが傷つく未来を避けるための行動のように思えた。
今日はどんなことをするのだろう。
今日は誰を助けるのだろう。
彼の人知れない、優しい行動が気になって。
気づけば私は、彼を目で追っていた。
同時期、結婚の話はどんどんと進み始めていた。
結婚できる歳になるまでにはまだ少し余裕があったけれど、銀山家はそれより前から私と交流を持ちたいらしく、向こうの家に近い高校に引っ越さないかと提案された。
いつもの私なら、なにも思わずにただ頷いていたかもしれない。異常な現実を、何も思わずに飲み込んでいたかもしれない。
だけど、転校すると聞いた時。
何故か誰にも知られずひっそりと誰かを助け続ける、彼の姿が脳裏をよぎったから。
私は生まれて初めて、人生にあらがうことにした。
お母さんにうまく口裏を合わせてもらい、私は晴れて「自遊病」という仮病を手にした。お母さんの暴力はあれからずっと収まることはなくて、そのたびにお母さんは心をひどく痛めていた。
『お母さんがつけた傷が、私を守ってくれるんだよ』
『だから――自分を責めなくていいからね』
私がそう言うと、お母さんは肯定も否定もせずに、ただひたすらに泣くばかりだった。あの時の表情は、今まで見たことがないくらい複雑で、私は少し、申し訳ない気分になった。
とはいえ私の目論見通り、転校の話は延期となった。精神科医だった銀山さんが担当医となって、定期的に診察を受けることになった。色々な検査を受けたけど、ついぞ原因と回復の手段が見つかることはなかった。架空の病気だから、当然のことだ。
ただ、銀山さんが出してくれるお薬や紹介状は、いつも外傷に関わるものばかりで、
『自分の身体は大切にするんだよ』
と言っていたから、もしかしたら薄々、感づかれていたのかもしれない。
とにかく私は、もう少しだけ自由でいられることになった。
一年中カーディガンを着る必要があったし、タイツやストッキングを履かなくてはいけなかったし、体育の授業は欠席したし、学校の先生にはとてもとても気を使われて、ちょっと申し訳ないと思うこともあったけれど。
だけど私は自由だった。
自遊病という異端な病気が、私に自由を与えてくれた。
体の病気のことだから、お父さんにも何も言われなかった。
お母さんも何も言わなかった。
嬉しかった。
楽しかった。
何よりも、自分で手にした自由な時間が、あまりにもかけがえがなくて、尊くて、愛おしくて、私は今までよりもずっとずっと明るくなった。
そしてあの日――私は真崎君とキスをした。
「……少し、ここで待っててもらってもいいですか?」
「うん、りょーかい。急がなくていいからね?」
夕方、真崎君と一緒に入ったショッピングモール。
真崎君の背中が見えなくなったタイミングで、私はソファーから立ち上がった。
私の自由には、制限時間があった。
それが自遊病のことがバレるからなのか、お父さんたちがしびれを切らすからなのか、それとも私が成人になるタイミングまでなのか、どれが引き金となるかは分からなかった。
なんにせよ、自分の手で勝ち取った自由な時間が、永遠ではないことは分かっていた。
だけど真崎君とキスしたあの日から、私はその事実から目を背けていた。
真崎君は優しい人だった。
優しくて、優しくて、それでとても繊細な人だった。
繊細で、脆くて、傷つきやすい人だった。
もっと自信を持って欲しいと思った。彼の魅力が、もっとたくさんの人に伝わればいいのにと思った。私が自由をつかみ取るきっかけになった人だから、今度は私が彼の力になってあげたいと思った。
彼のために、真崎君のために。
だけど――そんなのは言い訳だった。本当はただ、私が彼と一緒にいたかっただけ。離れがたかっただけ。真崎君と過ごす時間を、少しでも長く感じていたかっただけだ。
長く一緒にいればいるほどに、優しい彼を傷つけてしまうということが分かっていたのに。
エスカレーターを下りながら、考える。
昨晩、「このまま一緒に逃げたい」と私が行った時、彼は迷ってくれた。
優しい彼だから、思慮深い彼だから、きっとその先のことを考えてくれたのだと思う。本気で、私と一緒にいられる未来を探してくれたのだと思う。
だから、嬉しかった。
即答できない彼の優しさが愛おしかった。
私たちは、ゴールの見えない道の上を走れるほどの力を、まだ持ってはいない。
与えられた行先や、明確な結末があって、私たちは初めて走り出せる。
だから私は、私の結末に向かわなくてはいけない。
不確定な未来のために、彼を巻き添えにすることなどあってはならないのだ。
ショッピングモールの外に出て見上げると、たくさんのビルがそびえ立っていた。
ビルの外側に這うように設えられた非常階段は、地上から屋上へと、冷たく無機質に続いている。その他人行儀な有り様に、とてもとても、惹きつけられた。
私は今、幸せだ。
十八年間生きてきた中で一番幸せだ。
ここで人生を終わらせることができれば、どれだけ楽だろうと思った。
これから先の人生は、私にとっては消耗戦。負けの決まった消化試合だ。
試合を続ける意味なんてない。戦い続ける意義なんて見当たらない。
そうだ、あの階段を上ることが、私の結末でもいいじゃないか。
だったらいっそ、このまま――
「……ううん。それは、ダメ」
心の中に浮かんだ選択肢に、小さくバツ印をつける。
きっと私が死ねば、優しい彼の心には、一生傷が残ってしまうだろう。
止められなかった、気付けなかったと自分を責め続けるだろう。
それだけは――嫌だった。
駅に向かって、足を踏み出す。
いつだったか、真崎君と話をしたことを思い出す。
大人になるって、どういうことなんだろうか?
あの時私は、偉そうに、あたかも分かったような顔をして、何かを自分の意志で選択する。それが大人になるってことなんだよ、なんて語ったけれど。
だとしたら私は、ちっとも大人になんてなれていない。
本音を隠して、本音を飲み込んで――そうやって私は、きっとこれからも、ずっと、ずっと、生きていくんだ。
たくさんの人混みの中を一人歩く。
うるさいほどの喧騒の中で、だけど頭の内はとても静かだった。
静寂の中、決して届くことのない言葉をつづる。
ねえ、真崎君?
私ね、君と出会えてほんとに良かった。
本当は、もっともっとお話ししたかった。
傍にいたかった。
触れ合っていたかった。
でも、何を伝えても、どんな伝え方をしても、きっと君はたくさんたくさん喜んで、たくさんたくさん傷ついてしまうから。
私はあなたの前から、消えようと思います。
私は真崎君のことを、ずっと覚えているから。
だからあなたは最後まで身勝手なこんな私を、どうか許さないで……そして、できれば忘れて欲しいんだ。
もう二度と、私の名前を呼ばなくてもいいように。
私の存在を、名前ごと全部、忘れて欲しいんだ。
そしたらきっと、君は――
「四季宮茜ぇええええええええええええええええええええええええええええ!」
その時。
あらゆる私の思考を叩き割るような大声が聞こえた。
最初は、誰の声か分からなかった。
私の知っている彼は、こんなに大きな声を出せる人じゃない。
こんな人通りの多いところで、自分を主張できる人じゃない。
頭ではそう否定するけれど。
耳が。
肌が。
体が。
心が。
感じ取った。
間違いなく。疑いようがないくらいに。
真崎君が、私の名前を呼んでくれていた。
【12】それから.
すべての話を聞き終えて、だけど僕は何一つ言葉をかけられずにいた。
何を言えばいいのか、第一声をいつあげればいいのか、分からなかった。
「とりゃ」
「ちょっとちょっと……何するんですか急に」
「いやー、声出す機会を逸してるのかなーと思って」
それはそうなんだけど……。
つままれた鼻をさすりながら、一口、コーヒーをすすった。
あの後僕たちは、近くのコーヒーショップに立ち寄り、カウンター席に並んで座りながら話をした。正確には四季宮さんが身の上を話し、僕がその話を聞いていた。
四季宮さんの過去は、想像していたよりもずっとずっと壮絶で、今こうして彼女が笑えていることが奇跡だと思うくらいだった。
「真崎君は、大人になったんだね」
「何の話ですか?」
「ううん、なんでもない」
四季宮さんは静かに首を振って、
「うらやましいな」
ぽつりと、つぶやいた。
僕のどのあたりをうらやましいと思ったのかは分からない。グラスに入ったアイスコーヒーをくるくるとマドラーでかき混ぜる彼女の真意を、僕は読み取れない。
だけど、そのセリフには既視感があった。
少し記憶を巡らせて、修学旅行の夜、織江さんのもとに向かう御影を見て、僕が呟いたのと同じ言葉だと気づいた。
あの時はまだ、何をうらやましいと思ったのか、ちっともまったく分かっていなかったのだけど……今にして思えば、僕は御影たちのような、明確なゴールがある関係を羨んだのだろう。
御影が素直になれば、円満に幸せになれる。そんな単純明快な道筋の上を歩く二人を、うらやましく……もしかしたら少し、妬ましく思ったのかもしれない。
行先の見えない道を歩くことに、不安を感じる。
きっと同じなんだ、僕も、四季宮さんも。
だったらもしかしたら……僕の言葉も届くかもしれない。
「四季宮さん、僕は自分の幻視がずっと嫌いでした」
「……うん」
「だけど四季宮さんが幻視のことを素敵だって言ってくれたから、僕はちょっと見方が変わったんです」
いつだって彼女は、僕の幻視を否定しなかった。
いいなあとか、素敵だね、とか、そんな風に肯定的に捉えてくれた。
「そして実際この幻視は、四季宮さんを助けるために、二回も役に立ちました」
一度目は、クリスマスパーティーのあの夜。
僕が四季宮さんの手をひいて、テラスに向かって走った様をみて、銀山さんは僕に情報を与えてくれた。
二度目ついはさっき。屋上から飛び降りようとする四季宮さんを、すんでのところで助けることができた。
幻視なんて能力、あっても意味がないと思っていた。
たった六十秒先の未来が視えるだけのささやかな異端に、なんの期待も抱いてはいなかった。
だけど、その幻視の力で変えた未来が、銀山さんの気持ちを動かしたり、四季宮さんの死を救ったりして。
ほんの少し先の未来を変えることが、無意味ではないと僕は知った。
「きっと、些細なことで未来は変えることができるんです。先の見えない道でも、あらがえないような未来でも、少しだけ頑張ることで、結末を変えることができるかもしれない。――だから四季宮さん」
僕は言う。
「一緒に戦いませんか?」
「……え?」
「もし、四季宮さんが、現状にあらがいたいと思っているのなら。もし……その意志があるのなら、一緒に立ち向かってみませんか?」
四季宮さんは視線を落として答える。
「……ダメだよ。私は……あらがえない」
「でも、気持ちはあるんですよね?」
同じだった。
僕も彼女を救いたいと思いながら、だけど明確なビジョンがないから、足を踏み出すのをためらっていた。気持ちだけが先走っただけの、前のめりな状態で走り出すなんていけないことだと思っていた。
きっと、四季宮さんもそうだ。
現状を打破したい。立ち向かいたい。
そう思ってはいても、自分が戦う姿を想像できないから、こうして最初の一歩が踏み出せずにいるのだろう。
正解がない道の上を歩くのは怖い。
真っ暗な闇の中を、ただ一人、ランタンも持たずに前に進み続けるのは至難の業だ。
でも、二人なら。
二人でいることができるのならば。
その恐怖もやわらぐと思うんだ。
「僕はとても頼りないですし、臆病ですし、腑抜けてますし、何のとりえもない、本当に冴えないやつです。だけど――」
僕は下唇を噛んで、四季宮さんから視線を外す。
目を見て言えるだけの度胸は、まだなかった。
「し、四季宮さんの幸せを願う気持ちとあなたを助けたいって気持ちだけは誰にも負けないつもりです」
からりと、グラスの中で氷が鳴った。
四季宮さんはマドラーに手を添えたまま、固まったように僕を見ている。
数秒が経って、数分が経って、僕は段々と恥ずかしくなってきた。
なんで何も言わないんだろう。
もしかしたら、僕はとても見当違いなことを言ったんじゃないだろうか。
そんな不安が脳裏に浮かび始め、そわそわと指を動かし始めた時。
「もう一回言って?」
「え?」
「早口で聞こえなかったから、もう一回、言って?」
「それはちょっと……」
「お願い、真崎君」
四季宮さんは僕の手を握った。
「ゆっくり、もう一度、言葉にして欲しいんだ」
彼女は言う。
「咀嚼するみたいに、噛んで含んで、舌の上で転がして……それで、大切に、大切に、言葉を紡いで欲しいんだよ。だって、きっと私は――その言葉で、救われるから」
僕は。
四季宮さんの真摯な瞳にあてられて。
彼女の切実な声に背中を押されて。
彼女の言う通り、もう一度、同じ言葉を口にした。
句読点を、しっかりと打って。
「四季宮さんの幸せを願う気持ちと、あなたを助けたいって気持ちだけは……。誰にも、負けないつもりです」
今度はゆっくりと、しっかりと、言葉を区切って、四季宮さんに伝わるように、彼女の目を見て言った。
四季宮さんは、
「そっか……。うん……うん……。ありがとう、真崎君」
泣きながら、だけどこれまで見た中で一番、とびっきりの笑顔で、応えた。
「それじゃあ私も……頑張らなくちゃね」
※
そうして紆余曲折を経て、様々な寄り道をして、ちょっとした困難を乗り越えて、ようやくスタートラインに立った僕たちだったけれど。
思いのほかあっさりと、決着はついた。
翌日、僕たちはまず銀山さんのところに向かった。
もちろん、特に策があるわけではなかった。
今回の一件に関わっている人間の中で、一番まともに話が通じそうな相手が銀山さんしかいなかったというだけの話だった。
四季宮さんが連絡を取ると、今日は出勤しているという話だったので、いつも彼女が通っているという病院で待ち合わせをして、話をした。
銀山さんは開口一番、こう言った。
「いやはや、まさかこうなるとは思わなかったよ」
「えっと……どういうことですか?」
僕が問うと、大層愉快そうに、彼は続けた。
「なんだ、知らないのかい? これだよ、これ」
銀山さんは自分のスマートフォンを取り出すと、SNSアプリを立ち上げて、一本の動画をタップした。
瞬間、
『四季宮茜ぇええええええええええええええええええええええええええええ!』
僕の声が、部屋の中に響き渡った。
「え、これ、なんですか?」
「またずいぶん人が多いところで叫んだみたいじゃないか。面白がった人が撮影して、投稿。そのままあっという間に拡散されて、今じゃブログとかまとめサイトとかにも出回ってるみたいだよ」
「これが、ですか?」
「そ、これが」
「め、めちゃくちゃ私の名前とか入っちゃってるじゃないですか……!」
なんなら最後の方は、僕の手を取って走り出す、四季宮さんの姿までばっちり映っていた。
あの時動画を撮っていたのは何も一人だけではないらしく、あらゆる角度から撮られた動画が、いくつもアップロードされていた。
「それがいいんだよ。今じゃ病院の関係者ですら、この動画のことを知ってる人がいるくらいだ。茜ちゃんが珍しい苗字だったことも幸いしたね」
そこまで言われて、僕は気付いた。
「もしかして――」
「ああ、父さんの耳にもばっちり入った。世間体を気にする小心者だからね。『銀山先生の息子さんが結婚されるという四季宮さんって――』なんて言われたら、尻尾を巻いて逃げ出すだろうよ」
依然愉快そうに、銀山さんは言う。
「いや、けしかけたのは僕だけどさ。まさかここまで大胆なことをするとは思わなかったから、僕は昨日の夜からすごく気分がいいんだよ。うん。若者っていうのは、こうじゃないとな」
自分もそんなに歳をとっていないだろうに、ずいぶんと年寄りみたいなことを言う。
「一応、僕からも父さんに念押ししておくよ。まあ今回の件は、破談になったと思っておいて間違いない。頑張ったね、二人とも」
なんだか銀山さんがすごくいい人に見えてきて、僕は釈然としない気持ちのまま頭を下げた。そんな僕を見て、銀山さんは楽しそうに言った。
「しけた顔するなよ。僕の評価は変えなくていい。藤堂君が動かなければ、僕は何もするつもりがなかった。事なかれ主義のクソ野郎だと、思っていて間違いないよ。ただまあ――」
そして四季宮さんの顔をちらりと見て、優しく笑ってこう締めくくった。
「これ以上、茜ちゃんが悲しむ姿をみなくて済むのは、とても嬉しいんだ」
こうして、ある種あっけなく、銀山さんとの結婚の話は破談となった。
なんだか拍子抜けするくらいあっさりとした幕切れで、実感がわかなかったくらいだ。
その後僕たちは、四季宮さんの家に向かった。
結婚の問題は解決したが、家庭の問題は解決していない。
四季宮さんを精神的に縛り付けていたお父さんと、暴力を振るっていたお母さんとは、話をつけなくてはならないと思っていた。
だけどこちらも――とてもすんなり解決した。
理由は、四季宮さんのお母さんだ。
「ごめんね茜、今まで、本当にごめんね……っ!」
家に帰るや否や、お母さんは四季宮さんに抱き着いて、涙ながらに謝罪をした。
四季宮さんがなだめ、ようやく落ち着いて話せるようになると、お母さんはとつとつと語り始めた。
クリスマスイブの夜。四季宮さんがホテルから逃げ、連絡も完全につかなくなった時、お母さんは銀山さん一家やお父さんの前で、全てを洗いざらいに告白したという。
自遊病のこと、自分か恒常的に暴力を振るっていること、家庭内の歪さを。
それらを語ったのち、お母さんは四季宮さんとの結婚をどうか諦めて欲しいと懇願したそうだ。
「あなたが逃げ出してくれたことで、ようやく踏ん切りがつくなんて……ほんと、情けない親でごめんね……」
お母さんはさらに、自分が暴力を振るっていたことを保健所に自白するつもりだと言った。
「私は……いえ、私とあの人は、罰を受けなくちゃいけない。大人として、あなたに自由な道を与えることが出来なかった、その責任を果たさなくちゃいけないの」
そこから先の話は、家庭の込み入った話になると思ったから、僕はお暇することにした。
僕がついて行ったのは、四季宮さんの身に危険があるかもしれないと、もしかしたら彼女がちゃんと本音を言う前に、おびえてしまうかもしれないと思ったからだった。
だけど四季宮さんは、お母さんと静かに、穏やかに話すことができていたから。
僕は必要ないと、そう判断した。
こうして、全ての事態は収拾した。
とてもとてもスムーズに、なんの障害もなく終わったので、僕たちの葛藤は一体何だったのだろうと、思ってしまいそうになる。
だけどよくよく考えてみれば、もともと歪な歯車の上で成り立っていた舞台だったのだ。
大人たちの欲望でギトギトと脂ぎった歯車は、だけど四季宮さんという子供が負担をうけることで、耳障りな音を立てながらも、それでもどうにか回っていた。
だけど今、四季宮さんは立ち向かう勇気を得て、一つ、大人になったから。
歯車のサイズが大きくなって、大人たちの欲望を押しのけられたから。
上に乗った舞台は、あっけなく崩れ去ったのだろう。
もし、そのちゃぶ台返しに、僕の意志も少し噛むことができていたならば――それは少し、愉快なことだと思った。
怒涛のような一日から数週間が経った。
四季宮さんとは連絡を取っていなかった。
身内のごたごたで忙しいだろうし、「何かあればいつでも連絡してください」とメッセージは送っておいたから、便りの無いのは良い便りということで、僕は普段通りの生活を過ごすことにした。
とはいえ、気になる物は気になる。
受験本番を来月に控え、最後の調整に入っていた僕は、けれど一日に何度もスマホを確認して、意味もないのに起動したり、メッセージアプリをオンにしたりして、そわそわと彼女からの連絡がないかを確認していた。
「――っ!」
丁度スマホを手に取った瞬間、メッセージが届いた。
四季宮さんだ。
瞬時に心拍数をあげた心臓を必死になだめながら、僕は彼女からのメッセを読む。
内容はこうだ。
『連絡が遅くなっちゃってごめんね。色々とバタバタしてて。でも、大丈夫。万事順調……とまでは言えないけど、無事に話し合いは進んでるから。詳しい内容は、長くなっちゃうし、暗くなっちゃうかもだから、ここには書かないでおくね。私が今回メッセージを送ったのは、真崎君に伝えたいことがあったからなんだ。あのね、真崎君。私――』
『来週、引っ越すことになったの』