【7】三十二日前

 十一月下旬。
 すっかり冬めいて、風はからりと乾き、冷たさを帯び始めた頃、修学旅行は開催された。
 電車と新幹線を乗り継いで行くこと約三時間。
 僕たちは無事に京都の地に降り立っていた。
「うっはー! ザ・京都って感じがするねえ、こーちゃん!」
「そうか? 駅周りなんてどこもこんなもんだろ」
「ちっちっち。甘いなあこーちゃん。あそこに立ってるローソクみたいな塔が、もう異国感バリバリだろうに」
「京都タワーな。あと異国ではないだろ。日本だぞここ」
「あ、でも別名ローソクって書いてあるよ。夜には先端が赤くライトアップされたりして、ローソクに似てるんだって。織江ちゃんの言うことも、あながち間違いじゃないかも」
「ふっふーん、無知を晒したねえ、こーちゃん」
「うっぜえ……。今日から二日間こいつと一緒とか耐えられんわ」
 なんだとお⁉ と取っ組み合いを始めた御影と織江さん。
 元気だ……。
 僕はと言えば、慣れない長旅に既に疲れ気味だった。
 御影が言っていた通り、今日から二日間、ほとんどの時間が自由行動で、班ごとでの行動が許されている。いくつかの班はもう行動を始めており、三々五々に散って行っているようだった。
「真崎くん、疲れてる?」
 ひょこっと、四季宮さんが顔をのぞかせた。
 修学旅行の班が決まって以来、僕たちはまた少しずつ、会話ができるようになっていた。
「ちょっとだけ。というか、あの二人が元気すぎるんですよ」
「あはは、言えてる。新幹線の中でも、ずーっと喋ってたもんね」
 旅行のテンションにあてられているのだろうか。
 四季宮さんは饒舌に話し続けた。
 屈託なく話す四季宮さんを見られることは、とても嬉しかった。
「でも気持ち分かるなあ。私もわくわくして、昨日はあんまり寝られなかったもん」
 四季宮さんの言葉を聞いて。
 僕はふと、彼女は今日からの二泊三日の旅行中、寝るときはどうするのだろうかと思った。
 四季宮さんは織江さんと同じ部屋だけど、自遊病のことを彼女は知らないはずだ。
 とはいえ、同じ部屋で過ごしていて、手錠で縛って寝ているところを隠すのは、さすがに無理があるのではないだろうか。
「夜はね、別室を用意してもらってるんだ」
 四季宮さんは、僕が考えていることが分かっているかのように言った。
「体調が悪くなってー、って理由で抜け出して、その部屋で寝るの。だから、織江ちゃんとはあんまり一緒の部屋にいられないんだよね。一人にしちゃって、ちょっと申し訳ないけど……」
「しょうがないですよ」
 これに関しては、何よりも四季宮さんの身体の無事が優先だ。織江さんだって、目が覚めた時に横で傷だらけの友達が寝ていたら、一生物のトラウマになるだろう。
「まあねー。あーあ。折角の修学旅行なのに、夜は一人なんてつまんないなー」
「夜は寝るだけですし、一人でも大丈夫なんじゃないですか?」
「何言ってるのさ、真崎君。修学旅行といえば、夜が本番なんだよ? 枕投げたりお菓子パーティーしたり、恋バナしたりするのが、メジャーな楽しみ方ってやつだよ」
「それは知りませんでした」
「だからさ……その……」
 一拍置いて、四季宮さんは言う。
「あ、遊びに来てくれても……」
 しかし四季宮さんが発した言葉は。
 喧騒の波にもまれて、僕の耳に届くことはなかった。
「……? すみません、最後の方よく聞こえなくて……。もう一度言ってもらってもいいですか?」
「う、ううん! なんでもない! ごめんね、今のはなし! 忘れて!」
 わたわたと両手を振ったかと思うと、四季宮さんは織江さんたちの方に駆け寄っていった。
 なんだったんだろうと首を傾げつつ、僕もその後を追った。

 僕たちの班は、清水寺から八坂神社、祇園四条を経て、鴨川へ出るルートを選択した。京都の東側をぐるりと一周する形になる。他にも見たいものはたくさんあったけれど、寺も神社も歓楽街も、満遍なく観光できるし、最後に着く河原町付近が、夜の集合場所だったということもあり、満場一致で決定したのだった。
 誤算だったのは、地図で見ていたよりも遥かに長い距離歩く必要があったということだ。
 清水寺付近はかなり道に勾配があったし、八坂神社や祇園四条付近は観光客でにぎわっていて、前に進むのも一苦労だった。
 夕方、ようやく鴨川に着いた頃には、僕たち四人ともヘロヘロになっていて、橋の上からぐったりと鴨川を見下ろしていた。
「やはー……疲れたねえ、茜ちゃん」
「ねー。足の裏がじんじんするよ」
「絶対ペース配分間違ったよなあ。新幹線の中ではしゃぎすぎたわ……」
「こーちゃんは引きこもってるから体力落ちてんじゃないのー? やーい、もやしっこー」
「今はお前の軽口に付き合う元気も残ってねえよ……」
「あはは、みんなガス欠って感じだね。真崎君、大丈夫?」
 僕はもったりと手を挙げて答える。
「大丈夫じゃないです……」
「ただでさえ口数が少ない藤堂君が、最後の方はずーっと無言だったもんねー。人混みにもまれて消えちゃうんじゃないかと思ったわー」
 やははと笑う織江さんを諭しながら、四季宮さんがお茶を差し出してくれた。
「さっき買ったばっかりだから、まだあったかいよ」
「いや、でも……」
「大丈夫大丈夫、まだちょっとしか口付けてないから、たくさん入ってるし」
 ちょっとでも口をつけてることが問題なのでは?
 とはいえ折角の好意だし、あまり押し問答をする体力も残ってなかったので、僕はありがたくペットボトルのお茶を受け取った。
 十一月も下旬になると、川近くに吹く風はかなり冷たい。まだ十分に温かいお茶は、疲れた体にしみわたった。
「さって。じゃあちょっとばかし休憩もできたことだし、我がグループの本日最後となるイベントを開始しましょっかぁ! 集合時間まで、もうそんなに時間もないしー」
「本日最後? もう鴨川でゴールじゃないの?」
「ふっふっふー。甘い、甘いぞ茜ちゃん! 私が何のためにゴールをここに設定したと思ってるのだ!」
「んーと、クラスの集合場所が、ここから近いから?」
「ぶっぶー」
 織江さんはバッテンを作ると、
「正解はー……あれでーす!」
 じゃん! と両手をそのまま前に向けた。そこには当然のように鴨川が広がっていて、川岸の店にぽつぽつと明かりが灯り始めていた。
 あたまに疑問符を浮かべた僕と四季宮さんだったが、どうやら御影は何かを察したらしく「あー、なるほどね」と呟いた。
「どういうことですか?」
「おやおや? 藤堂君には見えてないのかな? あの、等間隔に座るカップルたちが!」
 どうやら織江さんが言っているのは、川のことではなく、川岸のことだったようだ。
 よく見てみると、川岸には人が座り、並んでいた。
「なんでも、京都の鴨川には、カップルが等間隔に座るっていう文化があるらしいよ!」
「言われてみれば、確かに等間隔だな。すげー」
「でしょでしょ! これはもう、見てるだけじゃもったいないよね? 私たちも体験してみるしかないよね⁉」
「いや、別にここから見て写真撮るだけでもいいんじゃ――」
「シャラップ藤堂君。それ以上の発言は私が認めない」
 暴君ですかね。
「と、いうわけで。私とこーちゃん。藤堂君と茜ちゃんのペアで座ってみよーぜ!」
 おー! と右手を振り上げる織江さんに、四季宮さんが慌てて口を挟む。
「ちょ、ちょっと待って、織江ちゃん! もうペア決まってるの?」
「ったりまえじゃーん。私と茜ちゃんペアでもいいけど、それだと藤堂君とこーちゃんがペアになっちゃうでしょ? 女の子二人はいけても、あのカップルの列に男二人は厳しいでしょー」
「だったら、僕と御影はここで待っててもいいんじゃ――」
「君に発言は許可していないぞ、少年」
 だから暴君かよって。横暴にもほどがある。
「だったらもう、藤堂君と茜ちゃんがペアになるしかないじゃない? 私はまー、しゃーなしで? しゃーなしで、こーくんと組もうかな!」
「そうだな。まあ俺も、真崎と織江なら、しゃーなしで織江を選ぶかな」
「は? 何言ってんの。そこの二択なら秒で私を選びなさいよ。いや、たとえ私とマリリンモンローの二択だったとしても、私を選びなさいよぉ!」
「……。なんでマリリンモンロー……?」
 漫才をしながら川岸に降りていく二人を、僕と四季宮さんはぽかんと眺めていた。
 途中、織江さんが振り返って、さっさと来いとばかりに右手をぶんぶんと振り回し、御影にたしなめられていた。
 僕は特に興味もないのに、近くでこうこうと光を放っているドラッグストアの看板をじっとながめながら、
「え、えーと……、じゃあ、行きますか……?」
「そ、そうだね。折角だし、私たちも体験してみよっか」
 ちらりと四季宮さんの顔を盗み見ると、どうやら彼女はでかでかと存在感を放っている中華料理屋の看板に、興味津々なようだった。
 人混みをかき分けながら、僕と四季宮さんはてんでバラバラな方向を見つつ、川岸に向かって歩き出した。
 
 パーソナルスペースという言葉がある。日本語に訳せば対人距離、つまり、他人に近づかれると不快に感じる空間のことだ。
 女子よりも男性の方がパーソナルスペースは広いだとか、何センチメートルまでは近しい人にしか入って欲しくないだとか、様々な定義づけがされているようだけど。
 こうして等間隔に座っているカップルたちを眺めていると、パーソナルスペースというのは実は人類一律共通で、明確なラインがあるのではないかと思えてしまう。
 そう考えてみると、これ以上は入ってきて欲しくないという一定の距離が視覚化されているこの鴨川の河川敷も、なんとも意味深く思えてしまう。
 距離にして約二メートル。人は通常、これくらいの距離を見ず知らずの他人と保ちたいと感じているのであれば。今日乗った満員のバスや、押しのけながら歩いた人混みにいるだけで、僕たちは日々、多大なるストレスを感じていることになる。生きているだけでストレスを感じる社会というのは、ひどく息苦しい。うん、やはり人間は増えすぎたのだ。大体半分くらいの数くらいで、丁度良いんじゃだろうか。
「真崎君、今、何考えてたの?」
 人類の数を減らす方法についてです、とは言えず、僕は「大したことじゃないです」と返した。
 今、僕の隣には四季宮さんがいる。
 パーソナルスペース的な区分で言えば、密接距離。大体三十センチメートルほどしか離れていない距離に、四季宮さんが座っている。
 別に大したことはない。
 それこそ、満員バスの中、人混みの中で、幾度となく彼女と体は密着したし、それに比べれば、これくらいの距離はどうということはないはずだ。
 だというのに、シチュエーションがそうさせるのか、はたまた、等間隔に並んだカップルたちがそれぞれ自分たちの世界に入り込んでいるからか、胸の動悸は一向に収まる気配がない。人類の数を減らす方法を考え始め、そんな余談に想いを馳せて、現実から目を背けて心を落ち着けようとするくらいには、緊張していた。
 ふと目線を横にやると、御影と織江さんが同じように二人で座っている様子が見えた。
 なんだか、いい雰囲気だ。
 なんだよあいつ、散々女性との出会いがないとか言っていたくせに、確定ルートがあるんじゃないか。あとで覚えてろよ、めちゃくちゃにからかってやるからな。
「あの二人、いい感じだね」
「ですね。ちょっとびっくりしました」
「私も。織江ちゃんってあんなにお喋りなのに、自分のことはなーんにも教えてくれないんだもん」
「御影もそんな感じですよ。くだらないことはペラペラ喋るのに」
「ふふ、似た者同士の二人なのかもね」
「そうかもしれませんね」
 二人の話をしていたら、自然と笑って話せるようになった。釈然としないけど、御影たちに感謝しなくちゃいけない気がした。
 笑顔のまま、四季宮さんは「ちょっと話は変わるんだけど」と話し続ける。
「私ね、真崎君って無口だけど、実は頭の中では、すっごく色々なことを考えてるんじゃないかなって思ってるんだ」
 そういえば、織江さんがそんなことを言っていたな。
「空を見つめるっていうのかな。視線がぽやーっと宙に浮いて、すっごく静かになるときがあるよね。今みたいに」
「僕は大体いつもそんな感じですよ」
「ううん、違うよ。真崎君はね、ちゃんと人の話を聞いてるの。そういう時の目はまっすぐで、静かで、ボーダーコリーみたいなくりっとした目だから、私ちゃんと分かるもん」
 ボーダーコリーってどんな目してたっけ……。
「だからね、ずっと気になってたんだ。真崎君がいつも、どんなことを考えてるのか」
 膝口に両腕を乗せて、さらにその上に、小さな顔をちょこんと乗せて。
 四季宮さんは僕を見る。虹彩に、川辺の灯りが映りこんでいた。
「……すっごく、くだらないですよ」
「そういう話、大好きだよ」
 変わってるな、四季宮さんは。
 僕はとつとつと語った。
 僕の余談を語った。
 例えば。
 四季宮さんを階段で受け止めようとした時、どうして唇の色は赤いのだろうと考えていたこと。
 御影と話している時に、友達を作らない人と、作れない人について考えて、少し気分が良くなったこと。
 四季宮さんの家に遊びに行った時、今の状況を飲み込めていないのは、決して僕の頭が悪いからではないと言い訳していたこと。
 今、こうして四季宮さんの隣に座っていると緊張するから、人類の数を減らす方法について考えていたこと。
 それから……班分けをするとき、群れになじめない少数派の僕は、淘汰され、駆逐されるだけの弱い生き物なのだと腐っていたこと。
「それは違うと思うな」
 静かに、にこにこと、たまに楽しそうに相槌を打ちながら聞いていた四季宮さんが、そこで言葉を差し込んだ。
「少数派だって、強いんだよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。ほら、例えば、お魚さん」
 転がっていた石を拾い、四季宮さんは地面に魚の絵を描いた。
「あるサメさんは、黄色いお魚さんを餌にしています。黄色い模様が入ったお魚さんを目印にして、ぱくぱくぱくっと食べてしまいます」
 そして、幼稚園の先生がお昼寝の時間に語り聞かせてくれるように、優しく語る。
「そんな黄色いお魚さんの中に、青い色のお魚さんが生まれました。青色のお魚さんは、黄色のお魚さんたちの中でうまく馴染めません。『変な色だ』」『おかしな色だ』と馬鹿にされ、青色のお魚さんは悲しくなります。だけど――」
 がりがり、と引かれた線に、小さな魚たちは消されていく。
「黄色いお魚さんたちは、みーんなサメさんに食べられてしまいました。でも、青いお魚さんは逃げ延びました。サメさんは黄色い模様ばかりを追いかけていて、青いお魚さんを見落としていたのです」
 こうして、青色のお魚さんは、サメさんにおびえることなく、幸せに暮らしたのでした。めでたしめでたし。
「……絵本にするには、ちょっと過激すぎますね」
「ふっふっふー、自然界はいつも残酷なのだよ」
 四季宮さんは続ける。
「それで……真崎君は今の話、どう思った?」
 僕は考える。
 もしも、彼女が話したように。
 そうやって、多数派だけが席巻することなく、少数派の――ともすれば虐げられてしまっているような者にも、生きる意味が与えられているのであれば。
「私はね、そんなに悲観的にならなくたって、いいんじゃないかなって思うよ」
 例えばそれが、クラスになじめない、口数の少ない男だったとしても。
 例えばそれが――
「少し変わった体質を持っている、特別な人だったとしても」
「……」
 僕たちの周りを、冷たい風が走り去って行った。
 日も、かなり落ちた。
 寒いねと四季宮さんが言って、寒いですねと僕も返した。
 そろそろ戻ろうかとは、どちらも言わなかった。
「僕は……自分をたくさんの壁で守らなくちゃ、生きていけないんです」
「うん」
「心が弱いから、心が脆いから……たくさんの予防線を引いて色んな言い訳をして守らなくちゃいけないんです、壊れてしまうんです」
「うん」
「だから」
 唾を飲み込む。
 喉がきゅっと音を立てた。
 だけど今、言わなくちゃいけないと思った。
「あの日、四季宮さんにひどい言葉を言ってしまったのは、僕の心が弱いからなんです」
 本当にごめんなさい。と、僕は謝罪した。心から。
 四季宮さんは、たっぷりと間を置いた。
 僕の言葉を、丁寧に丁寧に、耳の中で転がしてるみたいだった。
 やがて、四季宮さんは口を開いた。
「謝らなくちゃいけないのは、私の方だよ」
「……え?」
「銀山さんのことを話さなかったのは、私の心が弱かったからなんだ。もし本当のことを話したら……君が離れて行ってしまうんじゃないかって思って怖かった」
 何かを決心したような、だけど少し物悲しい。
 そんな表情をしていた。
「それにね……もし、なんとも思われなかったとしても、きっと私は苦しいだろうなって思った。だから、ずっと言えなくて……結果的に……私は君を傷つけた」
 どういう、ことだろうか。
 僕が離れるのが怖い? 僕になんとも思われないのが苦しい?
 いったい、何を言ってるんだろう。
 それじゃあ、まるで。
 四季宮さんが、僕のことを――
「だからね、真崎君。私は君を、これ以上傷つける前に――」
「ま、待ってください」
 僕は慌てて、口を挟んだ。
 それ以上を言わせてはいけない気がした。
 その先の言葉を聞いたら、すべてが終わってしまう気がした。
「ぼ、僕は大丈夫ですから。最初はびっくりしちゃいましたけど別に今は大丈夫っていうか。いや、この場合の大丈夫っていうのは気にしてないってことではなくてむしろ滅茶苦茶気になってはいるんですけど、そういうことが言いたいわけじゃなくて……」
 僕は、何もできない。
 四季宮さんの家の事情に、首を突っ込むことはできない。
 彼女を助け出すことも、できない。
 ちっぽけで臆病で、どうしようもなく非力で、心底嫌になる。
「僕が言いたいのは婚約のことなんて関係ないってことなんです。僕と四季宮さんが一緒に遊ぶことと婚約の話は別っていうか、四季宮さんさえ良ければ、僕はまったく構わないというか。つまり、何が言いたいかというと――」
 きっと。
 彼女と一緒に居られる時間は、そう多くない。
 冬が終わり、春が来たら。
 いや……もしかしたら春が来る前に、僕たちの不思議な関係は、終わりを迎えてしまうのかもしれない。
 けれど。
 それでも。
「僕はもう少し、四季宮さんの友達でいたいんです」
 川のせせらぎと。
 風の音と。
 橋の上を走る車の音と。
 後ろを通り過ぎる人々の、笑い声が。
 渾然一体となった雑音をかき消すほどの、沈黙。
 やがて、
「ダメだよ、真崎君」
 四季宮さんは僕の方を見て、桜色の唇を震わせて、
「私、弱いんだよ……。弱くてずるくて臆病で……とっても弱虫なんだよ。だから――」
 困ったように、泣き出しそうな表情で、だけど少し――嬉しそうに。
 地面についた僕の手の上に、冷たくなった小さな手を、そっと重ねて。
 つぶやくように、言った。
「だから――そんな嬉しいこと言われたら……私、断れないよ」

 ※

「爆ぜろ」
「なにゆえ」
 夜。京都の料理に舌鼓を打ち、夜風に吹かれながらビジネスホテルに到着した僕たちは、自由時間をのんびりと満喫していた。
 僕と御影は同じ部屋で、風呂上りのリラックスした体をベッドに横たえて、鴨川での話をしていた。
「完っ全に両想いじゃねえか、鴨川に沈め。雨の日に流れてくるオオサンショウウオと寒中水泳してる最中に鉄砲水に頭を打ち抜かれろ」
 お互い河川敷でどんな話をしたのかを教え合っていたのだが、最後の下りを話し終えると、御影はそば殻枕を容赦なく投げつけてきた。
「は、話聞いてた? 僕は友達でいようって言ったんだよ」
「は? うざ。喧嘩売ってんのかよ、いいぜいくらで売ってんだよ見積書出しやがれ! おらぁっ!」
「いったぁあ! お前さっきからバコバコ痛いんだよ! そば殻はやめろよ! せめて羽毛の方にしろって!」
「うるせえ、こっちの方がいい感じに重くて投げやすいんだよ!」
「だからそれが痛いんだって!」
 僕は奇跡的にキャッチできた枕を思いっきり投げ返す。
「大体お前だって、織江さんと楽しく喋ってただろう、が!」
「俺とあいつはそーゆーんじゃねえんだ、よ!」
「は? じゃあなんで今まで僕に隠してたんだ、よ! ……あ」
 投げつけた枕が御影の顔面に命中して、僕はあわててベッドの上から降りる。
「ご、ごめん……。ちょっと強く投げすぎた」
「……隠してたわけじゃねえんだよ。ただ、あいつとの接点をあんまり持ちたくなくてさ」
 ええ……急にテンション下げるじゃん……。
 風邪をひきそうなくらいのテンションの落差に、戸惑ってしまう。
 だけどこれは……僕が思っていたよりも、御影にとっての織江さんというのは、重要な存在、センシティブな話題だったということなのだろう。
「なんでだよ」
「俺は……ほら、こんなだからさ。クラスでも浮いてるし、変わってるし。そんな俺と関わり持ったら、あいつも白い目で見られるかもしれないだろ」
「織江さんなら、気にしないと思うけど」
「ばーか。だから嫌なんだよ。俺の素行で俺がどうなろうと自業自得だけど、俺のせいで他人が傷つくのは見たくねえんだよ」
 確かに自分のせいで傷ついている人が「気にしなくていいよ」と笑顔で言ってきたら……それはちょっと、辛いかもしれない。
「だったらちゃんと学校来ればいいじゃん」
「それとこれとは話が別だ」
「不器用なやつ……」
 大抵ことは器用にこなせるくせに。
「うるせえよ、自分に正直なだけだ」
 ああ、だけど。
 あの時も同じだったな。
 僕は嘘つきのレッテルを貼られ、クラスで迫害されていたころ、こいつだけは僕に話しかけてきたっけ。
『お前、未来が視えんの?』
『……』
『なあ』
『……』
『なあってば!』
『……言っても、信じないだろ』
『なんで』
『クラスのみんな、もう誰も信じてないから』
『関係ねえよ。お前の口から聞きたいんだ』
『……視えるよ。たまにだけど』
 早口にそう答えると、御影は感心したような声を出して、
『すげえじゃんお前』
『……え?』
『俺になんかあったら、助けてくれよな』
 にかっと笑って言った。
 だから僕は、こいつが家庭科の実習の時、あやうく火傷してしまいそうになるのを未然に防ぐことができた。もしあの時、御影が声をかけてくれていなかったら……僕は助けるのを躊躇っていたかもしれない。
 以来僕と御影は、よく話すようになり、逆にクラスメイトたちは、僕たちをどんどんと避けるようになった。
 御影は決して言わないけれど、中学に進級してから学校に来る頻度が減ったのは、きっとこれが原因の一つだと思っている。
 そして、こいつくらい賢ければ、そうなることは事前に予測できたはずで。
 もっとうまく立ち回ることだって、できたはずで。
 他人のために、自分を犠牲にしてしまう。御影浩二という男は、そういう不器用なやつだ。
 それを分かっているからといって、僕に何ができるわけでもないし、御影はそういうことを嫌うだろうと思いはするのだけれど――
「じゃあ今日くらい、一緒に過ごしてきたら?」
 少しくらいお節介を焼くのは、構わないだろう。
「誘われてただろ。夜、一緒に抜け出そうって」
「……なんで知ってんだよ」
「たまたまだよ」
「聞いたのか」
「たまたまだって。わざとじゃないんだ」
 ホテルの廊下。誰もいない空間で、僕は幻視を体験した。
 その時映ったのは、御影と織江さんが、何かを話している光景だった。
 だから僕は、邪魔してはまずいと慌ててエレベーターホールの陰に隠れて身を潜めていたのだが、人気のない廊下では思ったよりも声が反響し、聞こえてしまったというわけだった。
「十時半に一階のエレベーターホールだろ。もうすぐじゃん」
 時刻は十時二十分。丁度いい頃合いだった。
「だったらお前たちも来いよ」
「僕はパス。あんまり大人数で動いたら、先生に見つかるかもしれないだろ。それに――」
 少しだけ逡巡して、続ける。
「四季宮さん、体調悪くて今日は早めに寝るって言ってたから。僕だけくっついてくなんて、ごめんだよ」
 四季宮さんは自遊病の対策として、織江さんとは別の部屋で寝るはずだ。
 夜、就寝時間に織江さんに一言断ってから、別の部屋に移動すると言っていた。それを引き合いにだすのは少し彼女に申し訳ない気もしたけれど、織江さんのためなら、きっと四季宮さんも許してくれるだろう。
「んだよ、それ……。俺は別に……」
「行けって。これ逃したら、お前一生彼女なんてできないよ」
「……分かったよ」
 もう二、三回くらいごねるかと思ったけど、意外にも早く、御影は首を縦に振った。
 御影の中でも、織江さんと一緒に過ごしたいという気持ちが、強かったのかもしれない。
 ありがとな、とぶっきらぼうに呟いて出ていった御影を見送って、僕はベッドの上にあおむけに横たわった。
 きっと御影たちはうまくいくだろう。
 まだ長い付き合いではないけれど、織江さんはしなやかで強い人だと思う。ちょっとひねくれた御影を柔らかく受け止めてくれたり、時には叱咤してくれたり、そうやって甘いだけじゃない優しさで、あいつを包んでくれるだろう。
 御影さえ素直になれば、彼らはうまくいく。
「うらやましいな」
 真っ白な天井を見上げながら、そんな呟きが口からもれて、僕はぎょっとした。
 うらやましい? うらやましいってなんだよ。
 御影と織江さんの関係が? それとも、御影に彼女ができそうなことが?
 もんもんとしばらく考えたけれど、結局答えは出なくて、僕は思考を放棄した。
「あいつが変なこと言うせいだ……」
 両想い。御影が言ったその単語が、妙に脳裏にこびりついていた。
 僕と四季宮さんは、そういう関係じゃない。
 互いの秘密を知っている同士、戦友、友人。
 そう結論付けた。
 その時、とんとんと扉がノックされた。
 僕は部屋の電気を消して、念のため御影のベッドに枕を詰め込んでから、扉を開く。
 案の定、見回りの先生だった。
「はい」
「おお、すまん。もう寝てたのか」
「昼間、はしゃぎすぎたみたいで……」
「そうか、ならいいんだ。しっかり寝ろよ」
 先生の目線は一瞬、奥のベッドに向いていたけれど、それ以上入ってこようとはしなかった。普段大人しい僕が、嘘をついているとは思わなかったらしい。
 これ以降、先生は個々の部屋は見回りをせず、ホテルのロビー周辺だけを、交代制で見張っているという噂だった。御影と織江さんがどうやって抜け出すつもりなのかは知らないが……まあ、あの二人ならうまくやるだろう。
 電気をつけるのが面倒くさくて、このまま寝てしまおうかとベッドに向かう。
 四季宮さんはもう部屋をうつっただろうか。御影と同じように織江さんが抜け出しているわけだから、もしかしたら先生が見回りに来たタイミングで移動しているかもしれない。
「ちょうど今、織江ちゃんが寝たところなので、私も移動していいですか?」とか言って、先生の注意をそらしたりして。意外としたたかな四季宮さんなら、あり得そうだ。
 そんなことを考えながら、ベッドに潜って目をつぶった時、スマホの画面が光った。
 暗闇の中痛いほどに眩しい人工的な光に目を細めながら、通知を確認する。
 差出人は四季宮さん。
 内容はこうだ。
『もしよかったら、今から204号室に来てくれませんか? 自遊病のことで、知ってもらいたいことがあります』

 ※

「着いちゃったよ……」
 思わずつぶやく。
 あっけに取られてしまうくらいにすんなりと、四季宮さんの部屋にたどり着いてしまった。
 基本的に女子の部屋と男子の部屋は階が分かれていて、行き来しにくいようになっている。しかし、四季宮さんの部屋だけは特別に別の階にあてがわれていたからか、なんのハプニングも起こらなかったのだ。
 ゆっくりとボタンを押したのに、部屋の中から漏れ聞こえるベルの音は思っていたよりも大きくて、誰かに聞かれていやしないかと思わず左右を確認した。
「いらっしゃい。さ、入って入って」
「お邪魔します……」
 四季宮さんはパジャマ姿だった。
 淡いピンク色のグラデーションが綺麗な、薄手のモールウール。
 襟や袖の部分に控えめに入った白いストライプがいい仕事をしている。
 思えば四季宮さんの家でファッションショーをして、何着もの服装を見させてもらっていたけれど、パジャマ姿を見るのは初めてだった。
 当然のことながら、寝巻というのは部屋の中で着ることを想定して作られている。行動範囲はベッドの周辺、せいぜい近場のコンビニくらいまでだろう。
 だから、飾らない。
 シンプルで、ラフで、無防備な印象を受ける。
 それゆえにパジャマを着た四季宮さんからは、いつもとは違う魅力があふれている気がした。
 リラックスしているというか、気が置けない雰囲気というか、とてもプライベートな部分に踏み入っている気がして、どきどきする。
「おやおやー? 真崎君、ちょっと見すぎじゃない?」
「え⁉ あ、えと、そ、その! これは違うくて決してやましい気持ちとかはなくてですね! 単純にすごく似合っていて可愛らしいなあと思っただけで変な気を起こしたりしたわけではないんです!」
「もー、だから早口すぎ。句読点、ちゃんと意識しないと」
「ご、ごめんなさい……」
「だけど……似合ってて可愛いってところは聞き取れたから、よしとしようかな」
 わずかにのぞいた指先で裾とピッと引っ張って、一瞬ポーズを取った。モデルさんみたいだ。
 パジャマは上下ともに肌を完全に覆い隠していて、一見しただけでは、彼女の自遊病の痕は見えなかった。着替えるところさえうまく隠せば、織江さんにもバレなかっただろう。
 そこまで考えて、このままだと四季宮さんのパジャマ姿に見とれて話が進まないことに気付いた僕は、慌てて本題に入る。
「そ、それで自遊病がどうかしたんですか?」
「ん? なんの話し?」
 きょとんと首をかしげる四季宮さん。
「い、いや。だってメッセに……」
「あー、そっか。そういう名目で呼び出したんだっけ」
「め、名目!?」
「そーだそーだ、そうだった。真崎君と喋るの楽しくて、つい忘れちゃってたよ」
 そう言うと、四季宮さんは扉を大きく開き、
「ま、立ち話もなんだし、こっちおいでよ」
 四季宮さんの後について、部屋の奥に行く。
 生徒にあてがわれている部屋とは違って、ベッドは一つしかなかった。
 やけにいい匂いのするこの部屋の中で、自分をどこに置こうかと目を泳がせていると――ベッドの上にある、銀色の輪っかに目が止まった。
 ドラマとかアニメでは何回も見たことがあるけれど、実物を目にするのは初めてだった。
 手錠。
 重々しくて冷たい色で光ったそれは、ありふれたビジネスホテルの一室の中で異様な存在感を放っていた。
「これをはめてるところを、真崎君に見てて欲しいんだ」
 四季宮さんの表情は穏やかだった。
 例えば、お気に入りのクマのぬいぐるみを見せてくれる時だって、同じような表情をするのではないだろうか。そう思うくらいに、不自然すぎるくらいに、自然体だった。
 そういう、ことか。
「……分かりました」
 僕は頷いて、ベッドの横にある椅子に座った。
 四季宮さんは足首を出して、手慣れた様子で手錠を両足に付けた。
「お家のベッドなら支柱があるから、もうちょっと楽なんだけどね。手足をつなぐ場所がない時は、こうして両手両足を手錠で縛ることにしてるんだ」
 続いて左手にもう一つの手錠をはめて、両手を背後に回した。
 そのままぶら下がった片方の輪っかを器用に取り上げ、右手にも付ける。
 キチキチと、四季宮さんの自由を奪う歯車が回る音がした。
 両手両足を自身で縛った彼女は、ベッドの上でミノムシのように体をよじった。
「よっし、それじゃあ真崎君。君の出番だ!」
「え?」
「このままだとまだ拘束が甘いから、手足の手錠をつなげて欲しいの。ここ……ここに、もう一つ手錠あるからさ、お願いできる?」
 両足でちょいちょいとベッドの端を指して、四季宮さんは言った。
 このうえまだ手錠をかけるのか……。
 確かに今の状態だと、自由度は高くないとはいえ、ぴょんぴょんと両足で飛べば移動できなくもなさそうだ。
 ベッドの上に乗っかると、二人分の重みでベッドがぎしりと沈んだ。
 四季宮さんが足を折り曲げ、体を反らす。両手両足の手錠を縛りやすくする行為だと分かってはいても、柔らかな生地のパジャマ越しに強調された体のラインに否応なく目が吸い付きそうになる。
 手元の手錠にだけ意識を集中させながら、僕は問う。
「これ、僕がいなかったらどうするつもりだったんですか」
「先生にやってもらうつもりだったよ? あ、もちろん女の先生ね」
 当然そうであって欲しかった。
「家ではどうしてるんですか」
「そりゃあもちろん、お母さんにやってもらってるんだよ」
 手錠をはめるとき、四季宮さんの手首に指が触れた。
 滑らかな肌と、赤く、凹凸になってしまった傷痕。彼女の最も繊細で秘められた部分に触れると、「んっ……」という声をもらして、四季宮さんが身じろきした。
 慌てて指をはなし、手錠をかける。
 両手両足は手錠を介してつながり、四季宮さんの体からは完全に自由が奪われた。
「うん、完璧。ありがとね、真崎君」
 ころんとひっくり返って、笑顔で言った。
 あまりにも無防備だった。
 ろくすっぽ動けない状態で、薄いパジャマ姿で、しかもホテルの一室で二人きりだなんて。
 僕がもし変な気を起こしたら、どうするつもりなのだろうか。
「真崎君はそんなこと、できないでしょ?」
「僕、何も言ってないんですけど」
「顔見ればわかるよ」
 どんな表情をしていたんだ僕は。
 思わず顔を触ると、四季宮さんは楽しそうに笑った。
 どうやらカマをかけられただけのようだ。
「……じゃあ僕、帰りますね」
「えー、なんでー。もっとお喋りしようよー」
 勘弁してください。理性と本能を戦わせるのにも、カロリーがいるんですよ。
「さびしーなー。折角の修学旅行の夜なのに、一人寂しく寝るなんて嫌だなー」
「明日も観光しますし、早めに寝た方が賢い選択ですよ、きっと」
「でもほら、真崎君、私と約束したでしょ? たくさん遊んでくれるって。あの約束、まだ有効なんだよね?」
「うっ……」
 自遊病を知る僕にしか付き合えない遊び。
 確かに修学旅行の夜、友達と喋るのは、自遊病のことを知っている僕にしかできないことかもしれないと、少し納得してしまった。そしてまだ友達でいたいと進言したのは、他でもないこの僕だ。
「ね、もうちょっと。もうちょっとでいいから」
 お願いお願い、とベッドの上でごろごろと転がる四季宮さんは、駄々をこねる子供以外の何物でもなかった。
 転がる度にめくれ上がっていくパジャマの裾が、とうとう肌色の部分を見せようとしたとき、
「わかりました、わかりましたから……」
 僕は四季宮さんに布団をかぶせて、観念して言った。
 この状態なら、まだ幾分か目に毒ではない。
「やった。ありがと」
 布団から顔だけをのぞかせ、四季宮さんは嬉しそうに笑った。
 きっと誰も見たことがないような、全てを知られている人にだけ見せられる、無防備な笑顔。
 彼女にそんな表情を向けられると、何かを勘違いしそうになってしまう。
 雑木林が強い風にあてられたみたいに、心がざわついてしまう。
 そのたびに自分に言い聞かせる。
 クラスメイトの中で自遊病のことを知っている人はいない。
 手足を縛られた状態で寝ているところを見られたこともない。
 そんな不自由な生活を送っていた彼女が、はじめてありのままの自分の姿を見せて関わることが出来る相手。
 そのポジションに、たまたま僕が入り込むことができた。
 ただ、それだけなのだと。
「真崎君は、引かないんだね」
「なににですか?」
「私のこの姿。醜いでしょ?」
 衣擦れの音が聞こえる。布団の中で体をよじったのだろう。
 少し前に電気は消して、足下の常夜灯だけが部屋の中をじんわりと照らしていた。
 僕はベッドに背中を預けて、床に腰を下ろした状態で話している。
 これで落ち着いて話せると思っていたのだけど……四季宮さんの周りから発せられる微かな音の一つ一つが、やけに生々しく僕の耳に飛び込んでくるので、胸の動悸は電気を付けている時と大差なかった。
「醜い……ですか?」
 ちょいちょいと足で指示していた姿や、ころころとベッドの上で転がっていた姿、そして強調された体のラインなんかが脳裏をよぎって、僕はかぶりを振った。
 可愛らしい、艶めかしいとは思ったけど、醜いとは思わなかったな。
「少なくとも、私の婚約者の家族は、そう思ってるみたいだよ」
 心臓がびくんと跳ねた。
 あれ以来、婚約者の話を四季宮さんから振って来たのは、初めてのことだった。
「……心が狭いんじゃないでしょうか」
「あはは、そうなのかも。でもね、気持ちは分かるんだよ。結婚した相手とか、その家族が、
 寝る時に体を手錠で縛らなくちゃいけない奇病にかかってるなんて、普通は嫌だもん」
 具体的に誰が拒否しているのか、彼女は言及しなかった。一人なのかもしれないし、複数なのかもしれなかった。
「その……治る見込みってあるんですか?」
 暗闇が顔を隠してくれているから、僕は少し、踏み込んだことを聞くことにした。
 四季宮さんはさらりと答える。
「分かんない。お医者さんは、精神的な物が影響してるだろうって言ってたけど」
 もし治らなければ、四季宮さんの結婚は先延ばしになり続けるのだろうか。
 それこそ、何十と年を重ねても治らなければ、結婚自体が破談になるのだろうか。
 なんとなく僕は、そうではない気がした。
 いつの日かきっと、彼女は結婚させられる。
 大人の薄汚い欲望の犠牲となって、その身を捧げることになる。
 だとすれば、自遊病は彼女の自由を、今だけ保証しているのだ。
 いつか治って欲しいと思う。だけど、まだ治らないで欲しい。
 そんな自分勝手なことを思った。
 彼女の病は、死と直結しているというのに。
「やだなあ」
 四季宮さんの呟きは、暗闇の中にぽつんと取り残された。
 なにが嫌なのか、聞けなかった。拳を握り込んで、押し黙る。
 ことり。
 静寂の中で、何かが落ちる音がした。
 顔をあげると、机の上からカバンが落ちてしまっていた。
 そのままにしておくのもなんなので、僕は立ち上がり、拾い集める。
 スマホ、化粧品、本、ハンカチ、財布……。
 一つ一つを戻していくと、最後に残ったのは手帳だった。
 十二月のページがぱっかりと開いている。
 暗闇に慣れた僕の目は、右下に書いてある文字を、見逃さなかった。
「……四季宮さん。クリスマスが誕生日なんですね」
「え?」
 ベッドからもぞもぞと衣擦れの音が響く。こちらに顔を向けるために、反転したらしい。
「ごめんなさい。手帳拾った時に、見えちゃって……」
「ううん、気にしないで」
 僕は手帳をカバンの中に戻し、再び床に座った。
「もしかして……もう一個の方も見えちゃった?」
「……はい」
 二十四日、クリスマスイブ。
 その日は四季宮さんの家でパーティーがあるらしかった。
 その下には小さく「真崎君たちを誘う?」と書かれていて、その上に斜線が引いてあった。
 これはおそらく――
「本当はみんなを誘いたかったんだけど……銀山さんが、いるから……」
 曰く、銀山さんの父親が知り合いを集めて、毎年パーティーを開いているのだそうだ。数年前から四季宮さんの家族も参加しているらしい。なんでも、ホテルのイベントホールを貸切った、規模の大きいものなのだとか。
「隠すつもりはなかったんだけど……」
「四季宮さん」
 十二月二十五日。
 四季宮さんは誕生日を迎える。十八歳に、なる。
 何の根拠もない、ただの直観だった。
 だけど、妙に胸がざわついた。
 四季宮さんと会える最後の機会が、その日なのではないかと、思った。
「僕もパーティー、行ってもいいですか?」
「……いいの?」
「はい。ご迷惑でなければ、行かせてください」
「め、迷惑なんかじゃないよ! すっごく嬉しいよ!」
 珍しく慌てて、四季宮さんは食い気味に言った。
 それがなんだかおかしくて、僕は声を出さずに笑った。
「そっか……よかったあ……」
 ぽすんと空気の抜ける音。羽毛の枕に頭を落としたのだろうか。
「クリスマスの前に、会えるんだ……」
 どういう、意味だろうか。
 あまり深く考えても仕方がないことなので、僕はそっと、そのつぶやきを聞かなかったことにした。
「安心したら眠くなってきちゃった」
 しばらくして、四季宮さんが呟いた。
 時計を見ると、午前二時近かった。随分と長く話していたものだ。御影ももう、部屋に戻っている頃だろう。
「じゃあ、僕も帰りますね」
「うん、おやすみー……」
 すっかり暗闇に慣れた目で、四季宮さんの顔を見る。
 穏やかな顔で寝息を立てていた。
 これから死に向かう病気と闘うとは思えない程に、穏やかな。
 僕は足音を忍ばせて、扉へ向かい――
「あ、そうだぁ……」
 思い出したように発せられた声に、びくりと立ち止まる。
「な、なんですか?」
「明日の朝、手錠の鍵、外しに来てねぇ……。一人じゃ外せないからぁ……」
「え」
 考えてみれば、当然のことだった。
 一人でかけられなかった手錠を、一人で解錠できるわけがない。
 第三者の力添えなくして、彼女は手錠を開けられない。
 そしてもし先生に今の状態で見つかれば、誰に手伝ってもらったのだと問い詰められることになるかもしれない。
 しかし――
「どうやって部屋に入ればいいんですか……って、もう寝てるし……」
 返ってくるのは寝息ばかりだった。
 背後にあるオートロックの扉を眺めて、僕はため息をついた。
 なんでそういう大事なことを、最後に言うんだこの人は……。

 結局僕は、悪いと思いながらも四季宮さんの部屋のカードキーを拝借して、一度自分の部屋に戻った。
 僕のベッドの上には「幸せ者め。爆ぜ散れ」とでかでかと書かれた紙が置かれていた。どの口が言うんだと思ったので、気持ちよさそうに寝ている御影の顔に貼り付けてやった。
 翌朝、起床時間の二時間前に四季宮さんの部屋を訪ねると、彼女はすでに起きていて「おはよー。一回部屋に戻ったんだね。あのまま私の部屋で寝てくれても良かったのに」と言った。
 彼女の言う通り、この部屋で一晩過ごすという手も確かにあった。
 だけどきっと四季宮さんは、自遊病に苦しむ、その瞬間を見られたくないはずだと思ったから、僕は彼女の部屋では寝なかった。
 黙って手錠の鍵を開けて、僕は「また後で」とそそくさと部屋を後にした。

 後から思えば。
 あの時、部屋に残る選択を取っていれば、未来はまた違った形になっていたのかもしれない。