【1】八十七日前
四季宮さんが階段から落ちて来た。
踊り場から、僕の元まで。
段数にして約20段。おそらく高さは4メートルほど。
体に痛みは感じない。
互いに怪我はなさそうだ。
そんなことより問題なのは、四季宮さんの形の良い唇が、今まさに僕の口に当たっていることだ。
やけに柔らかくて、張りがある。
彼女が付けている化粧水の匂いなのか、はたまた時間差ではらりと落ちて来た、髪から漂うシャンプーの匂いなのか。どちらかなのか、どちらもなのか、とにかく殺人的にいい匂いに包まれて、僕の意識は飛びそうになる。
一秒。
いや、もっとかもしれない。
四季宮さんも僕も、動かないままの時間が過ぎた後、彼女はゆっくりと体を起こした。
薄桃色の、桜みたいな唇に、僕の視線は釘付けになる。
今起きたことを意識すると、頭がかっと熱くなって、その熱が頬や首まで降りてきて、夏でもないのに汗がじわりとにじみ始める。
まずい……これは非常にまずい……。
高ぶる鼓動を落ち着けようと、僕の頭は急回転。
素数を数えたり、円周率を諳んじたりするように、心を落ち着かせるために、何か違うことを考えようと思った。
唇……くちびる……赤い、くちびる……。
そ、そうだ、そういえばこんな話を聞いたことがある。
実は唇が赤いのは人間だけで、サルやチンパンジーといった他の種族には見られない珍しい特徴なのだ。一説によると、これは発情期を分かるようにするためなのだとか。唇が赤く、ふくよかに膨らんできた時が、最も生殖行為に適した状態らしい。
真偽のほどは分からないけれど、仮にその説が本当なのだとしたら、それって、なんとなく、とってもエッチだなぁという感想を――
ってだめだ! これじゃ、かえって落ち着けない!
「びっくりしたぁ……」
そんな僕の心境を知ってか知らずか。
四季宮さんは場違いなほどに、のんびりとしたセリフを口にする。
「こういうことって、ほんとにあるんだねえ……」
漫画の中だけだと思ってたよ、と他人事みたいに目をぱちくりさせた。
僕も一瞬気が緩みそうになったけど、現状を思い出して、慌てて彼女の体を引きはがした。
焦りと戸惑いで、体中から嫌な汗が吹き出していた。
「ご、ごめんなさいっ……」
「どうしてあやまるの?」
「だってその、口が……当たって……」
四季宮さんは、思い出したように口に手を当てる。
長めの袖のカーディガンが、するっと肘の辺りまで落ちた。
「すみませんわざとじゃなくて落ちて来たから助けようと思っただけでそれで……」
「ちょっとちょっと、早い早い」
膝をポンポンと叩かれる。
「そんなに早口じゃ、何言われてるか分かんないよー。なんとなく、謝ってるのは伝わってくるけど」
「ごめんなさい……」
「もー、だから謝らないでってば。むしろ、お礼を言いたいくらいだよ。君のお陰で怪我せずに済んだわけだし、ね?」
四季宮さんはちらりと背後の階段に目をやった。ワックス塗りたての階段は酷く足場が悪くなっていて、急いで駆け下りて来た四季宮さんは案の定足を滑らし、落ちて来たのだった。
――僕の上に。
「けが、してない?」
「た、たぶん……大丈夫です」
「そっか、ならよかった」
ほっと安堵したように笑う四季宮さん。
そして僕の表情を見て、次は眉を八の字にして笑った。
笑顔のレパートリーが多い人だ。
「もー、まだ気にしてるの? キスなんて減るもんじゃないし、そんなに深刻そうな顔しなくて大丈夫だよ」
そ、そういうものなのか?
僕は初めてだったから未だに動悸が収まらないのだけど……慣れてる人にとっては、そうでもないのだろうか?
「ん? いや、でもファーストキスはなくなっちゃったから、実質減ってる?」
とんでもない事実をさらっと言いなすった。
「……どうしよう?」
「どうしよう、と言われましても……」
気を抜くと、さっき触れ合った唇に目が吸い寄せられてしまって落ち着かない。
僕は視線のやり場を探して、うろうろとさまよわせた結果……、
「……え?」
彼女の手首で、目が止まった。
先に説明しておくと、四季宮さんは他人に素肌を見せることがほとんどない。
なんでも彼女は冷え性らしく、春夏秋冬いつでも変わらず、薄手のカーディガンを羽織り、スカートの下にはストッキングを履いている。
カーディガンはちょっと大きめ。袖が手のひらの半分ほどを隠し、手首をきゅっとシュシュで止めていて、手の周りにアサガオが咲いたみたいにふわりと袖が広がっている。
加えて体が弱いらしく、体育の授業は絶対に見学をしている。例えば、彼女の水着姿を拝めない哀れな男子生徒たちがプールサイドでうなだれている姿は、もはや夏の風物詩として有名だ。
そんなことも相まって、四季宮さんの素肌というのは、僕たちの目にさらされたことがない。
精々見えて首筋まで、手首や二の腕、太腿なんてもっての他だ。
なのに今、四季宮さんの手首が見えている。
走ったり、落ちたり、もつれたりしたからだろう。シュシュがずれ、カーディガンの袖がはだけていた。
そして、僕の目に入った彼女の手首には――生々しい真っ赤な痕がいくつもついていた。
何度も、何度も、強く縛り付けられたような赤。
滑らかで白い素肌とコントラストを成して、より鮮烈に僕の目に飛び込んでくる。
「……? どこ見て――」
僕の視線に気づくと、四季宮さんは慌ててカーディガンの袖を引っ張って、手首を隠した。
数瞬の沈黙。
「……見た?」
「見てないです」
「本当に見てない人は、何が? って聞くんだよ?」
「すみません見ました」
正確には、見えました、と言うべきなのだろうけど。
「だよねえ。うーん、どうしよっかなあ」
「あ、あの……誰にも言いませんので……」
「えー、ほんとにー?」
色々と分からないことだらけだけど、さっきの赤い痕を隠したいであろうことは、いくら僕でも察することが出来た。
体育に出ない理由も、年がら年中カーディガンを羽織っている理由も、ここにきてパズルのピースが合わさるように、ぴたりぴたりと繋がった。
「その、大丈夫です本当に。誰にだって隠したいこととかありますし秘密の一つや二つあって当然っていうか……そもそも僕には言いふらすような友達もいないですしそこは信用してもらってもいいかなとか……」
「もー、だから早いってば」
「すみません……」
「友達がいないってところしか、聞き取れなかったよー」
よりによってそこが聞き取れたのか……。
いやまあ、いいんだけど。事実だし。
四季宮さんが重ねて何かを言おうとした、その時。
「あーかーねーちゃーん! まだー?」
階段の上から突き抜けるように声が降って来た。
この声……たしか、四季宮さんの友達の八織江(はち・おりえ)さん、だったっけ。
「ごめーん! 今行くー!」
八さんにそう返事をすると、四季宮さんは僕の方にずいっと寄って、
「ね。今日の放課後、時間ある?」
「ありますけど……」
「じゃあ、ちょっと話したいことがあるから、待っててくれる? もちろん、これのことで」
すっとカーディガンを降ろして、赤い痕を見せた。
なんだかいけないものを見ている気分になって、僕は思わず視線をそらした。
四季宮さんはそんな僕をみて、含むように笑った。
「約束だからね? 勝手に帰ったらダメだよ?」
僕が答えるよりも前に、八さんの活発な声がまた聞こえ、四季宮さんは立ち上がった。
スカートの裾を丁寧にはらい、指だけがちらりとのぞいた右手を、腰の辺りでひらひらと振る。
「じゃあね、真崎君。また教室で」
「……どうも」
僕は床に座ったまま、そんな気の利かない返答をした。
ここ数分で詰め込まれた情報の数々が渋滞を起こして、頭の中でパニック状態になっていた。
順を追って考えようとするけれど、四季宮さんの唇の柔らかさや、彼女の右腕についた赤い痕が思考を妨げて、まったくまとまらない。
だから僕は、
「四季宮さん、僕の名前知ってたんだな……」
なんて。
キスとも彼女の腕の傷とも、今日の放課後の約束とも関係のないことをつぶやいた。
※
四季宮茜という人物について、少し考えてみようと思う。
日向高校三年二組、出席番号十四番。
明るくて活発、歯並びが良くて、笑顔が綺麗。
代々医者の家系で、かなりのお嬢様なはずなのだけど、それを鼻にかけることのないさっぱりとした性格。だけど性格の下地には、どこか上品な雰囲気が漂っている。
クラスにはいくつかの仲良しグループがあるけれど、どれにも属さず、渡り鳥のように色んなグループに顔を出し、そしてその全てで愛される。
彼女の発言には誰もが耳を傾けて、たまにちょっと変わった言動にツッコみが入りつつも、いつの間にかクラスの中心には四季宮さんがいる。
そういう人。
そういう女性。
いわばアイドル的な存在と言っても良いだろう。
「あーかーねーちゃんっ! 放課後だよ! 遊びに行こー! 自由が私たちを呼んでるぜー!」
ホームルームが終わるや否や、八(はち)さんが四季宮さんに飛びついた。
「わぁっ! もー、織江ちゃん。急に抱きつかないでってば」
「けちけちしなさんなって、減るもんじゃないんだから」
彼女たちの会話につられるように、クラスの人気者たちが続々と周囲に集まり始める。わいわいがやがやと、放課後の予定について花を咲かせたりして、四季宮さんを中心に、教室が華やかに色づいていく。
その様子を、ずいぶんと風通しがよくなった教室の隅から僕は眺めていた。
そうだ。ここはついでに、僕、藤堂真崎についても少し考えてみよう。
日向高校三年二組、出席番号二十一番。
目立った特技もなく、声は小さく早口で、何を喋ってるか分からない。てか何で敬語なの? タメだよね? とか言われがち。
友達もおらず、休み時間は本を読むか寝るかの二択。クラスの片隅でひっそりと息をしている、観葉植物とどっこいどっこいの存在感。それが僕、藤堂真崎(とうどう・まさき)だ。
同じ学年、同じクラスに属しているにも関わらず、全く異なる世界に住んでいるようなもので、簡潔に言ってしまえば、僕と彼女の間に接点は皆無だ。
今日、四季宮さんとは放課後に会う約束をしていたけれど……そんな僕が、急に彼女と一緒に教室で話したりすればどんなことになるか、想像に難くない。
おまけに、もし何かの拍子に僕と四季宮さんが――事故とはいえ、キスをしてしまったなんて知られれば、クラス中がバケツの水をひっくり返したみたいな悲鳴嬌声、罵詈雑言であふれ返るだろう。
「でねでねっ! 駅前にできた新しいクレープ屋さんがものすっごく美味しいらしくて、それはもう宇宙人の再来かっ⁉ ってくらいの超ど級なおいしさらしくって、これは行くしかないぜってことで、要するに何が言いたいかっていうと、茜ちゃんも一緒に行こうよー!」
どうやら八さんは、四季宮さんをクレープ屋に連れて行きたいようだ。八さんも四季宮さんも、そして周囲の友達も、とても楽しそうに話していた。邪魔するのは野暮というものだろう。
それに、あの輪の中に入る勇気は元より、あの輪の中から抜け出してきた四季宮さんに話しかけられる勇気もない。僕たちは本来、交わるはずのない人間なのだ。
……よし、帰ろう。
長い長い思考の末、僕はそう結論を出した。
いつも通りにさっさと荷物をまとめ、教室を後にする。
大丈夫です、四季宮さん。
あなたのことは何も喋りませんし、今日の出来事は全て僕の胸の内にしまっておきます。
キスの件は……なんていうかその……いい思い出として、墓場まで持っていこうと思います。
心の中で四季宮さんに色々と言い訳をしながら、階段を下りる。
授業が終わったばかりで、まだ人もまばらだ。
そのまま下駄箱へ向かおうとする僕の足を、
「まーさーきーくーんっ!」
耳から脳へ、突き抜けるようによく通る声が引き留めた。
因みに、彼女はとても良い声をしていて、僕は密かにファンだったりする。特に、彼女の笑い声はガラスの鈴を転がしたみたいに上品で、耳に心地よくて、僕は大好きだ。
「逃ーがすかー!」
嫌な予感がして振り向くと、四季宮さんが今まさに階段を踏み切ってジャンプしたところだった。
ち、ちょっと! 昼間に階段から落ちてケガしかけたの忘れたんですか!
声には出さずにツッコみつつ、階段から飛び出した四季宮さんの姿を目で追いかける。
長い黒髪がぱっと広がり、カーディガンが風をうけて大きくなびく。
着地のタイミングで足を伸ばした瞬間、勢いよくスカートがまくれ上がった。
「よーし、捕まえた! 待っててって言ったのに、素知らぬ顔でそそくさーって帰っちゃうなんて、ひどいよ真崎君!」
そして重力に引き付けられて、スカートはまた、彼女の下半身を覆う。
「私まだ帰る準備終わってないんだから、ここで待ってること! いい? 絶対だよ? 次いなくなったら、真崎君の家まで押しかけるからね? 住所知らないけど……って、どうしたの?」
顔真っ赤だよ? と覗き込まれ、僕はわたわたと視線を逸らす。
「そ……その……階段飛び下りるのはやめたほうがいいんじゃないかなって思います……」
「あ、心配してくれてるの? ありがと。でも、華麗に決まってたでしょ? そりゃ、お昼は滑って転んじゃったけどさ。基本的には私、運動神経に自信あり、なんだから」
「そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
「し……」
「し?」
「下着見えるので……」
なんとかそれだけ早口で絞り出すと、四季宮さんは目線を自分の下半身にやり、階段を見やり、そしてまた僕に視線を戻した。
「見たんだ」
「……見てないです」
「本当に見てない人は、何が? って聞くんだよ……って、この会話さっきもしたね」
「すみません、見えました……」
不可抗力だとは思うけれど、見えてしまったのは間違いない。ストッキング越しでも、色とか柄とか……なんとなく分かってしまうものなんだな……。
「ま、いいよいいよー。減るもんじゃないし」
「いいんですか?」
「……いや、減る減らないの問題じゃないかも? 華の女子高生的に軽々しく下着を見せてしまうのはNGかなあ……うーん、どう思う?」
僕に聞かれてもなあ……。
昼休みにあった時から薄々思ってたんだけど、四季宮さん、割と勢いで話すところがある気がする。口癖といい、勢いといい、もしかしたら八さんの影響を受けてるのかもしれない。
「まあじゃあ、階段ジャンプは今後控えるとして。……真崎君」
ずいっと顔が寄ってきたので、僕は同じ距離だけ、顔を後ろにそらした。
「もう逃げちゃダメだからね?」
「……クレープはいいんですか?」
「先に約束してたのは真崎君の方だもん。当然、クレープ屋さんは断りました」
そう言って、両手でばってんを作る四季宮さん。
「でも、八さんたちに悪いですし……」
教室の和気あいあいとした光景が脳裏をよぎる。僕が四季宮さんの予定を独占してしまうのは、とても忍びなかった。
僕と一緒に過ごすよりも、彼女たちと放課後に遊んだほうが、何百倍も楽しいはずだ。八さんたちだって、四季宮さんが来ないと分かれば、さぞかしがっかりするだろう。
歯切れ悪く言葉を連ねる僕に、四季宮さんは「何か勘違いしてるみたいだけどね、真崎君」と腰に手を当てて言った。
「私が。君と。話をしたいんだよ?」
「僕、と……」
「そ、君と」
一語一語、丁寧に言葉を区切って発した言葉は、妙にすんなりと僕の胸の奥に届いた。
言い訳する気も、反論する気も、驚くほどにあっけなく、僕の中から消えていく。
「だ、か、ら。私の予定を真崎君が気にする必要なんて、ないんだよ? おっけー?」
「……はい」
つられるように、気づけば僕は首を縦に振っていた。
圧があったわけではない。だけど彼女の言葉には、不思議な力があるようで、僕はいともあっさりと、彼女の申し出を受け入れていた。
「よし、言質げっとー。じゃぁ五分くらい待っててねー」
そうして教室に走り去って行った四季宮さんを、僕は脱力して見送った。ここで約束を破って帰ったとしても、明日また同じ約束を取り付けられそうだと、今のやり取りだけで十二分に理解できた。
壁に背を預け、おとなしく彼女を待つことにする。
僕にしては珍しく、ずいぶんと騒々しい一日だ。
※
「ファミレスのレジ横で売ってる玩具って、なんでちょっと欲しくなるんだと思う?」
四季宮さんが僕を連れて訪れたのは、学校から徒歩十分くらいのところにあるファミレスだった。学校帰りにファミレスに寄るなんてイベントは片手で数えるくらいしか経験したことのないので、なんだか落ち着かない。そわそわする気持ちを誤魔化すように飲み物に口を付けているせいか、さっきからウーロン茶の減りがやたらと早かった。
「……欲しくなりますか?」
「え、嘘、私だけ⁉」
「わ、分かんないですけど……」
「びっくりするくらいカラフルなガムとか、親の仇みたいにタンバリンを打ち鳴らすサルとか、欲しくなるんだけどなー。ならない?」
「……僕はなりませんね」
「そっかー、織江ちゃんも微妙な顔してたしなー。私の趣味がおかしいのかな?」
「どうでしょう……」
「むー。ま、いいか。それじゃあ、それはそれで置いておくとして――」
唇を尖らせたまま、右腕のカーディガンの袖をぺろんとめくる。
「これ、どう思った?」
「……話題の変換が急すぎませんか?」
「ごめんごめん。いきなり本題から入るより、楽しい話題から入った方が取っつきやすいかなーと思って」
楽しい話題……だったかな?
色々と疑問符は浮かぶけど、一応僕に気を使ってくれてのことだったらしい。
僕は改めて彼女の手首に視線をやる。さっきはやや遠目に、一目見ただけだったから分からなかった傷痕も、近くでじっくりと見ると、また印象が変わってくる。
幾筋もの赤い痕は、手首をぐるりと一周していた。そしてその内のいくつかは、かさぶたになったり、赤く腫れてしまったりしている。これは――
「これはね、手錠の痕なんだ」
そう言って四季宮さんは、左手のカーディガンもめくる。
右手と同じく、赤い痕がついていた。
「手首だけじゃないよ。同じような痕が、足首にもついてるの」
「どうして……?」
の後に、いくつもの言葉をくっつけて僕は呟く。
こんなの……普通じゃない。
「理由は簡単。私が『自傷癖付きの夢遊病』だからだよ」
そう言って四季宮さんは説明を始めた。
曰く。
彼女は寝ている間だけ、自分を傷つけてしまうらしい。
手首を切ろうとしたり、窓から飛び出そうとしたり、時にはロープを首に巻こうとしたり。
下手をすれば死んでしまうような行動を繰り返す、夢遊病。だから四季宮さんは、自分で自分を殺さないように、寝ている間は手足に手錠をかけているらしい。
「変わった病気でしょ? 高校に入学してから発症して、すぐにお医者さんに診てもらったんだけど『こんな奇病は初めて見た』って言われてね。お手上げなんだー」
たしかに自傷癖や夢遊病は聞いたことがあるが、複合的に発症しているという話は聞いたことがない。
「だから病名もついてなくてね、私はこれを便宜上『自遊病』って呼んでるの」
「じゆうびょう、ですか?」
随分と明るいイメージの名前だ。単純に、自傷癖の「自」と夢遊病の「遊」を一文字ずつとって、併せただけなのだろうけれど。
じゆう。
自由。
自由病、だなんて。
毎晩手錠で繋がれている彼女の話とは、対極にあるような名前じゃないか。
「いい名前でしょ? ほら、名は体を表すっていうじゃない? だったらせめて、名前だけでも明るくしようと思って」
そう、笑って言った。
そんな彼女の気持ちを、僕は理解できなかった。
四季宮さんの話が本当ならば、彼女は毎晩、死と隣り合わせで寝ていることになる。
寝ている間に死んでしまっているかもしれない。それももしかしたら、とんでもなく凄惨な死を迎えているかもしれない。
それを止めるために、彼女は自分を手錠で束縛し、だけどきっとその状態でも、自分を傷つけようと暴れ続けるから。
手首には手錠が擦れて、食い込み、時に傷つけて、白い柔肌に生々しい痕を残す。
辛くはないのだろうか。
息苦しくはないのだろうか。
嫌になったりは、しないのだろうか。
そして何より。
なぜそんな病を抱えていながら、いつも笑顔で、明るく生きていられるのだろうか。
「……引いた?」
様々な疑問を抱えて黙り込んでしまっていた僕は、四季宮さんの問いに慌てて首を横に振った。
実のところ――彼女の自遊病自体に、そこまで驚きはしなかった。
確かに前例のない奇病なのかもしれないけれど、想像を絶するというほどではない。
きっとそれは僕が、四季宮さん以上に特殊な体験をしてきているからだと思う。
「いえ。大変そうだなとは、思いましたけど」
「それだけ?」
「す、すみません気の利いた言葉思いつかなくて……」
僕が謝ると、四季宮さんは「ああ、違う違う」と笑顔で手を振った。
「やっぱり、君に話してよかったなって思っただけ」
僕に話してよかった、か……。
彼女の言葉に、ふと疑問がわく。
そういえば四季宮さんは、どうしてこの話を僕にしてくれたのだろうか?
口止めをするだけなら、詳しい事情の説明はいらないだろう。
四季宮さんは続ける。
「それでね、真崎君に一つお願いがあるの」
「分かってます。もちろん誰にも話したりしません」
「あ、そっか。それも含めると二つになっちゃうんだけど」
……ん?
僕にかん口令を敷くよりも、更に重要なことがあるみたいな口ぶりに、内心首を傾げた。
「そうだね、勝手なお願いだけど、他の人には話さないで欲しいかな。このことを知ってるのは、両親と、かかりつけのお医者さん一家、あとは一部の学校の先生くらいだから」
四季宮さんが一切体育に出られないのは、体操着や水着に着替えれば、この傷が見えてしまうからだろう。そしてそれは、事情を説明しなければ、到底承諾されるはずもない。
先生たちが知っているのは、必然と言えた。
「友達に隠してるのは……引かれるから、ですか?」
「うん。手首だけじゃなくて、私の身体には、あちこち傷痕がついてるから」
「手錠で縛ってるのに?」
「お家で居眠りしちゃった時とかに、ちょっとね。はっと目が覚めたら椅子の上に乗ってて、びっくりして転がり落ちちゃうこととかもあるんだ」
「なるほど……」
それは……大変だな。
「その傷痕っていうのが結構生々しくて、他人が見て気分のいいものじゃないかなって。それにほら、こんな病気にかかってること自体、ちょっと気持ち悪いでしょ?」
どうだろうか。こんなことで、八さんをはじめとした彼女の友人たちは、四季宮さんから距離を取るのだろうか? そもそもろくに友達がいない僕には、計りかねる問題だ。
ただ、知られてしまったが最後、普通の高校生活は望めないだろうということは分かる。
「事情は分かりました。この話は他言しないので、それだけは安心してください」
「ありがと。とっても助かるよ」
「それで、もう一つは?」
僕が聞くと、四季宮さんは両手を合わせて楽しそうに微笑んだ。
どうやら、こっちのお願いが本題のようだ。
「そうそう! それでね、私って色々行動が制限されてるでしょ? 傷痕を隠すために、カーディガンは絶対着ないといけないし、体育だってできないし、球技大会なんてずーっと応援席にいたし……」
だからね、と四季宮さん。
「私と一緒に、いっぱい遊んで欲しいの!」
……「だから」の接続詞と、そのセリフはどう繋がるんだ?
彼女の言っている意味がよく分からなくて、僕はオウムみたいに言葉だけを真似して返す。
「いっぱいあそんでほしいの」
「うん。ダメ、かな?」
「すみません、ダメとか以前に、意味が良く分からなくて……」
困惑する僕に、四季宮さんは人差し指をふりふり、説明を続ける。
「えっと、だからね。私が、この体の傷のせいで楽しめなかったいろんな遊びを、一緒にやって欲しいんだよ!」
そこまで聞いて、僕はようやく理解する。
恐らく四季宮さんは自遊病を発症してこの方、肌を晒す危険性があるような遊びを禁じてきたのだろう。だから、唯一事情を知ることになった僕に付き合って欲しい、と。
「あ。もちろん、真崎君の受験勉強に差しさわりのない範囲でいいよ。私のわがままに付き合わせて、真崎君の勉強がおろそかになっちゃったら申し訳ないから」
「別にそれは……気にしなくて大丈夫ですけど」
自分で言うのもなんだが、成績はいい方だ。志望大学のボーダーラインは、すでにクリアしている。よほどこれから勉強をさぼるか、本番に大ポカをしない限り、問題なく合格できるはずだ。
「ほんと? なら良かった! 私も真崎君と同じだから、たっくさん一緒に遊べるね!」
「はあ……」
気の抜けた返事をしてしまったのは、勉強のことはさておき、彼女のお願いの中身が気になっていたからだった。
「……あの、さっきから言ってる遊びって……例えば、どんなやつですか?」
「んー。とりあえず、プールには行きたいなー」
「ぷーる⁉」
素っ頓狂な声が飛び出てしまい、あわてて目を伏せる。
プールに入るためには水着を着なくてはならない。水着の布面積は小さい。だから体中に傷がある彼女は水着を着ることが出来ないので、プールにも行けない。
筋は通っている。しかしそれはつまり、僕が、彼女と、二人でプールに行くということであって……。
「あれれ? プール、嫌い?」
「嫌いとかじゃなくて、その、なんていうか……異性と行った経験がないっていうか……」
「なんだそんなことかー。私も男の子と二人でプールに行くのは初めてだし、お揃いだね」
そういう問題じゃないと思います。
相変わらず四季宮さんを直視できないまま、僕はぶつぶつと言い訳を探す。
「いやでも泳ぐのもそんなに得意じゃないっていうか、あんまり体も鍛えてないし貧相っていうか見せられたもんじゃないっていうか恥ずかしいっていうか、そもそももうすぐ十月ですしプールのシーズンじゃないような気もしますし――」
「ふーん」
からん、と。
四季宮さんが飲んでいたアイスコーヒーの中で氷が鳴った。
「真崎君は嫌なんだ。そっかそっか、そうなんだー」
「い、嫌って訳じゃないんですけど……」
しどろもどろに、出来かけの、不出来な言葉を吐き出す僕に、四季宮さんは机越しにズイと近づいて――囁いた。
「ちゅーした癖に」
「――っ!」
「言いふらしちゃうよ? 真崎君が、私の、ファーストキスの相手ですって」
「そ、それは困ります……! や、やめ……やめてください……!」
「みんなどんな反応するかな? 喜んでくれるかな? お祝いしてくれるかな?」
そんな訳ないでしょう! 分かってて言ってるだろこの人!
「あの、お願いですからそれだけは……」
「じゃぁ一緒に遊んでくれる?」
「分かりました、遊びます、遊びますから、言いふらすのだけは勘弁してください……」
そんなことが知れ渡ったら、僕は学校で好奇と殺気の入り混じった視線を全身に浴びることになる。それに比べたらまだ、彼女と一緒に遊ぶことくらいは、どうってことがないように思えた。
「えへへ、やった。約束だからね? 破ったら、言いふらしちゃうからね?」
いつの間にか、とんでもないことになってしまった。
彼女いない歴=年齢を地でいき、そして恐らくこれからもその等式が崩れることがないであろう僕には、正直言って対処に困る案件だ。
けれど。
「さーて、最初は何に付き合ってもらおっかなー。ふふ……楽しみだなー、わくわくするなー」
目の前でにこにこと笑う四季宮さんを見ていると、そんな不安はなりを潜めて、途端に何も言えなくなってしまうのだから、まったく困ったものだった。
話もまとまったということで、今日はお開きにすることになった。
やたらと上機嫌な四季宮さんは、鼻歌なんて歌いながら、スキップ交じりに横を歩いている。遊び相手が見つかったことが、そんなに嬉しいのだろうか。
「雨、降ってたんだね」
周囲を見渡すと、地面がしっとりと濡れていた。彼女の言うとおり、通り雨が降ったのだろう。閉じた傘を持っている人もちらほらと見かけた。
ファミレスでは外を見る余裕なんてなかったから、気づかなかったな。
「真崎君は、雨って嫌い?」
「どちらかと言えば、嫌い……ですね」
「そっかー。私はね、実はちょっと好きなんだー。みんなに『変だね』って言われるんだけど、でも毎日晴れだったら、ちょっとつまんなくない?」
「……そうですか?」
「なんていうのかなー、ハンバーグは好きだけど、でも毎日食べたいとは思わないでしょ? それと同じで、たまに違う天気が挟まった方が、いいと思うんだけどなー。それにさ――」
道中、四季宮さんとの会話は途切れることがなかった。
もちろんもっぱら喋っているのは四季宮さんで、僕は時々相槌を挟むだけなのだけれど。
それでも、四季宮さんが喋り、僕がごくたまに返答をし、それで会話が回っている状態というのは……端的に言って心地よかった。
四季宮さんのきれいな声音で紡がれる取り留めのない話を、そんな穏やかな気持ちで聞いていると、ふと四季宮さんが不安そうに僕の顔を覗き込んだ。
「……もしかして私、喋りすぎちゃった?」
「え?」
そして申し訳なさそうに言う。
「ごめんね。真崎どんな話でも聞いてくれるから、嬉しくってつい……。もし何か話したいことあったら、遠慮なく言ってね?」
予想外の角度から心配され、僕は慌てて言葉を連ねた。
「い、いえ。それはほんとに大丈夫です気にしないでください」
「そうなの?」
「は、はい。僕、話題振るの苦手ですし四季宮さんが話してくれた方が嬉しいっていうか……まあその、反応するのもへたくそなので折角話してもらってるのにろくな返しもできなくて本当に申し訳ないんですけど……」
ああ……。
相変わらず不出来な言葉ばかりで……嫌になる。
もっとうまく喋れればいいのに。
四季宮さんの言葉みたいに、取り止めもないのについ耳を傾けてしまう。すっと優しく耳に入って来るような、そんな話し方ができればいいのに。
信号が赤になったので、僕と四季宮さんは足を止めた。
すぐ近くの電柱を、スパナを持った作業員が登っていく。
四季宮さんの顔が直視できなくて、僕はまるでそっちに興味があるみたいに、視線をそらした。
「んー、真崎君はさ」
四季宮さんは言った。
「句読点を意識して喋ると、いいんじゃないかな?」
「句読点、ですか……?」
「そ、句読点」
思わず僕は、視線を戻した。
聞き間違いでなければ、文章の途中についている、点と丸のことを言っているのだろう。句読点を意識して喋る、というのは、いったいどういうことなんだろう……?
少し気になったので、四季宮さんに続けて問いかけようとした――。
その時だった。
目の奥で線香花火が散った。
刹那、現実の風景はかき消える。
視界から彩度は失われ、セピア色の、年月が経ったわら半紙の上に映されたような光景が動き始めた。
四季宮さんは僕の隣に立っていて、依然楽しそうに何かを話していた。
平和な光景。
穏やかな光景。
しかし次の瞬間、視界から四季宮さんの姿が消える。
僕の目線は少し下に向いて、地面に倒れた四季宮さんの姿を映す。時間差で流れ出した赤い血は、彼女の形のいい頭から出ているようだった。
すぐそばにはスパナが転がっていて、作業員の人たちがあわてて彼女の周りに集まり出した。
四季宮さんはピクリとも動かない。さっきまであんなに元気に話し続けていた彼女が、嘘みたいに。
「――真崎君?」
四季宮さんの声がして、僕は現実に引き戻された。
「どうしたの? なんだか、怖い顔してるよ?」
目の前にいる四季宮さんは、健康だった。
倒れていない。頭から血なんて流れていない。
「しき……みやさん」
「ん? なあに?」
今日、二度目。
できればもう、干渉したくない。
あの日以来、僕はずっとそうやって生きてきた。
触れず、触らず。
仮に干渉する時は、人に見えないように、分からないように。
だけど……目の前で四季宮さんが傷つくところは見たくない。
唾を飲み込んで、僕は早口に言う。
「ちょっと移動しませんか?」
「どうして? もうすぐ信号青になるよ?」
「そ、それはそうなんですけど……」
残された時間はあと何秒だろうか?
与えられた猶予はたったの六十秒しかない。
いったい今、その内の何秒を無駄にした?
「あ、危ないので……」
四季宮さんはきょとんと小首をかしげた。
「なにが?」
「それは――」
ぱーっ!
と、遠くでクラクションが鳴った。
僕たちとは何一つ関係のない音。
決して互いに、干渉し合うことのない現象。
だけど僕は、まるでそれが合図だったかのように、とっさに四季宮さんの肩を掴んで、引き寄せた。
ほっそりとした四季宮さんの身体は、いとも簡単に僕の胸の中に飛び込んできて、長い黒髪は、彼女の移動した軌跡を描くように、宙にふわりと残った。
その軌跡を縦に横切るように。
銀色の物体が落下していった。
鋭くて固い衝突音と、「危ない!」という警告の声が響いたのは、同時だった。
からからという音につられ、視線を落とす。
地面に転がった大きなスパナはやがて静かに動きを止めて、僕はほっと胸をなでおろした。
今になって、心臓が痛いくらいに脈打っていたことに気付く。
整備員の人があわてて下りてくるのが見える。「大丈夫ですか、けがはありませんか⁉」
そんな声をどこか遠くのことのように聞きながら、僕は四季宮さんの肩から手を外し、距離を取った。
取った、つもりだった。
「ねえ、真崎君。変なこと聞くんだけど」
僕が後ろに下がった分だけ、四季宮さんも前に進んでいた。
彼女の顔は僕の鼻先にあって、澄んだ瞳が僕を捉えて離さない。
全ての音が遠い。
車が風を切って走り抜ける音も。
低く唸りを上げるビル風の音も。
まるで窓ガラス越しに聞いてるみたいに、くぐもっているのに。
「もしかして、未来が視えてたりする?」
ただ僕の耳元で彼女がささやいた声だけが、やけに近く、現実的だった。
※
友達を作れない人。
友達を作らない人。
一文字しか違わないのに、その間には大きな隔たりがある、なんてことは今更改めて明言する必要もないだろう。
欲求はあるけど達成できない。欲求がないから達成しない。
意志が違えば、意思も違う。
そもそも生きる方向性が、真逆のベクトルを向いていると言ってもいい。
それなのに、表面上では「友達がいない」というただ一つの現象としてこの世界に投影されているというのは、なんというか、この世界にしぶとく生き残っている致命的なバグみたいだよなあと、前者に身を置く僕は思うのだ。
そしてきっと後者の「作らない人」は、その気になればいつでも友達ができるのではないかと、僕は勝手に思っている。
媚びずとも生きられ、群れることを拒む。それらを全てひっくるめた人としての在り方みたいなものが、そもそも強いのだと思う。
……とまあ、これは余談だけれど。
ともかく。
「なんだよ、真崎。急に話って。今日、納期で忙しいんだけど」
「いいだろ、たまには僕から電話したって。いつもは僕が御影(みかげ)の話聞いてるんだから」
「だっからタイミングを考えろっつーの。別にいいけどさあ」
友達を作れない僕。
友達を作らない御影。
そんな僕たちが、互いに唯一の友達になっているというのは、少し面白くて、おかしくて、世界に一矢報いてやった気分になる。
御影浩二(みかげ・こうじ)とは小学生の頃からの付き合いだ。
以来、中学も一緒、高校も一緒で、なんなら同じクラスだったりもする。
といっても高校入学以降、こいつの姿を見かけたことは、ほとんどないのだけれど。
「今回はなんの納期なの? イラスト?」
「や、ライターの仕事。ゲームのレビューしなくちゃいけなくてさ。オープンワールド系のゲームのレビューをプレイ込み五日でやれとかバカじゃねえのって感じ。クリアするのに三日三晩徹夜したわ」
御影は高校に入学してから、ほとんど自分の部屋にこもっている。
世間一般に言う、引きこもりというやつだ。
『学校で学ぶことは、もうねーや。俺の人生に必要ない』
そう言って御影は、ウェブ上で活動を始めた。
こいつは優秀で、特に芸術、情報方面に秀でている。その特技を活かして、ウェブデザインだったり、ライターだったり、イラストレイターだったり、ゲーム企画のプロデューサーだったり……とにかくありとあらゆる仕事に手を付けては、ばっさばっさと稼いでいた。
曰く、学校の勉強を使わず、学校で習わない技術で食っていくんだから、三年間仕事の経験を積んだ方が有意義だ、とかなんとか。
じゃあなんで高校に入学したんだよ? と僕が問うと、
『ま、学歴が必要になる場合もあるからな』
出席日数も、卒業に必要な条件ぎりぎりになるように調整しているらしい。器用なやつだ。
御影の人生スタンスはさておき、僕としては、こいつが同じクラスにいてくれるのはありがたい。たまに学校に来てくれた時は喋り相手が出来るし、来ない時だって、こうして家でチャットや通話で話すことが出来る。
御影は僕が唯一、まともに話せる友人だった。
「んで、わざわざ電話してきたんだ。さっさと本題に移れよ」
うっすらとキーボードをたたく音が聞こえる。喋りながら記事を書いているようだ。
「今日さ、『幻視』で人を助けたんだ」
キーボードの音がはたと止まった。
「バレないように?」
「いや、バレた」
「へえ、珍しいな。俺ん時以来か?」
「そうだね」
幻視――物心ついた時から僕に宿っている、不可解な能力。
六十秒先の未来が何の前触れもなく視えてしまう、不便な能力。
御影は僕の幻視のことを知っている……いや、信じてくれている、ただ一人の存在だ。
だからこうして、気軽に相談もできる。
「なんでバレた?」
「一回目はうやむやになったんだけど、二回目がそうもいかなくて――」
「待て待て」
僕が説明を始めると、御影はそれを遮った。
「お前、今日一日で二回もそいつのこと助けたのか?」
「そうだけど」
一回目は昼休み、四季宮さんが階段から落ちるのを見た時。
二回目は帰り道、スパナがぶつかるのを回避した時だ。
階段の時は、他に色んなことが重なったから誤魔化せたけれど、スパナの時はどうしても不自然さが隠しきれなかった。
だけど……まさか、未来が視えているところまでバレるとは思わなかったな。
「そいつ、女だろ」
「え」
「名前も当ててやろうか。四季宮茜だ」
「な、ななな……なんで――」
「分かったかって? 愚問だな」
御影は続ける。
「お前はさ、ずーっと隠してきたじゃねえか。幻視を持ってるのがバレないように、バレないようにって、馬鹿みたいに腰を低くして、目立たないように過ごしてきただろ」
馬鹿みたいには余計だと思う。
だけど……その他は事実だ。
僕は幻視のことを、ずっとずっと隠してきた。
「他人を助ける時も、できるだけ自分がやったってバレないように、陰からひっそりこっそりやってきただろうが。それがどうよ。今日だけで二回、しかも相手にバレるリスクをおかしてまで助けた。となれば、話は簡単」
一拍置いて、御影は言う。
「お前はそいつのことが気になってたんだ。そしてあわよくば、話をしてみたかった」
「そ、そんなこと……」
ない、とは言い切れなかった。
僕は口をつぐむ。
「だとしたら、後は芋づる式に分かるよな。お前が気になる開いてなんて、惚れてるやつだけだ。そしてお前が好きな相手は一人しかいない。つまり助けた相手は四季宮茜だ。これで証明終了っと」
たーん、と電話越しにエンターキーを押す音が響いた。
なんだかその音が気に食わなくて、ほんの少し反論する。
「……僕が四季宮さんのことを好きなんて、いつ言ったんだよ」
「言ってただろ。笑い声が好きだって」
「それは言ったかもしれないけど……」
はあ、とため息が一つ。
「お前さあ、あんまり俺を甘く見んなよ。お前が他人の笑い声を好きって言うのが、どれだけ珍しいことかくらい、ちゃーんと分かってんだよ」
「うっ……」
「はーあ。女絡みかー、テンションあがんねーなー」
「な、なんでだよ。いいだろ、別に……」
「俺ってさー、超ハイスペックじゃん?」
自分で言うか? いや、まあ……こいつなら言うか。
「学校に通ってなくても勉強はできるし、大卒して働いてるやつよりも、もうはるかに稼いでるし、ルックスも悪くないし、コミュ力にも問題はない」
最後に関しては、いささか自己評価が高すぎる気もするけど……。
「だけどそんな俺が唯一手に入らないものがある。女性との交流だ」
「引きこもってるからね」
「ちっげーよ! 家で働いてんだよ!」
いいように言い換えたなこいつ。
「だから、奥手だったお前が、幻視をうまいこと使って意中の相手に接触したことに、なかなか俺はショックを受けている」
「ちがっ……僕はそういうつもりで助けたわけじゃ――」
「というわけで、心に深い傷を負った俺は今日の営業を終了しまーす。おつかれさーん」
また明日な。と一方的に言葉が投げかけられて、通話は切れた。
相変わらずマイペースなやつ……。
スマホをクッションに放り出して、自分の体はベッドに投げ出す。
今日はとても濃い一日だった。いつもよりも疲労感がある。体の疲れが、ベッドにじんわりと広がっていくようだ。
『もしかして、未来が視えてたりする?』
四季宮さんの問いかけを、僕は「まさか、そんなことあるわけないよ」とか適当なことをうそぶきつつ誤魔化して、あわてて帰ってきた。
だけど彼女は半ば、確信したように言っていた。
スパナが降ってくることを見越して、彼女を引き寄せた。たったそれだけの行動で、未来視の能力にまでたどり着くのは、やや論理の飛躍があるようにも思えるが……とにかく、バレてしまったものは仕方がない。
不思議と焦りはなかった。それはもしかしたら、四季宮さんが自遊病という秘密を、僕に見せてくれていたからかもしれなかった。
あるいは――
「ばからしい……」
御影の言葉が脳裏を過って、僕は吐息と共に呟いた。
確かに彼女の笑い声は好きだ。とても好きだ。だからといって、それを恋愛感情と結びつけるのは早計だろう。LIKEとLOVEの違いなんて、今時小学生だって知っている。
それに何より。
「好きだったからって、何がどうなるわけでもないんだしさ……」
僕は布団に身を預けたまま目を閉じた。
ぴこんとスマホが一つ震えて、画面が光る。
僕はそれに気づくことなく、眠り続けた。
四季宮茜からの初めてのメッセージを読んだのは、翌朝になってからのことだった。
四季宮さんが階段から落ちて来た。
踊り場から、僕の元まで。
段数にして約20段。おそらく高さは4メートルほど。
体に痛みは感じない。
互いに怪我はなさそうだ。
そんなことより問題なのは、四季宮さんの形の良い唇が、今まさに僕の口に当たっていることだ。
やけに柔らかくて、張りがある。
彼女が付けている化粧水の匂いなのか、はたまた時間差ではらりと落ちて来た、髪から漂うシャンプーの匂いなのか。どちらかなのか、どちらもなのか、とにかく殺人的にいい匂いに包まれて、僕の意識は飛びそうになる。
一秒。
いや、もっとかもしれない。
四季宮さんも僕も、動かないままの時間が過ぎた後、彼女はゆっくりと体を起こした。
薄桃色の、桜みたいな唇に、僕の視線は釘付けになる。
今起きたことを意識すると、頭がかっと熱くなって、その熱が頬や首まで降りてきて、夏でもないのに汗がじわりとにじみ始める。
まずい……これは非常にまずい……。
高ぶる鼓動を落ち着けようと、僕の頭は急回転。
素数を数えたり、円周率を諳んじたりするように、心を落ち着かせるために、何か違うことを考えようと思った。
唇……くちびる……赤い、くちびる……。
そ、そうだ、そういえばこんな話を聞いたことがある。
実は唇が赤いのは人間だけで、サルやチンパンジーといった他の種族には見られない珍しい特徴なのだ。一説によると、これは発情期を分かるようにするためなのだとか。唇が赤く、ふくよかに膨らんできた時が、最も生殖行為に適した状態らしい。
真偽のほどは分からないけれど、仮にその説が本当なのだとしたら、それって、なんとなく、とってもエッチだなぁという感想を――
ってだめだ! これじゃ、かえって落ち着けない!
「びっくりしたぁ……」
そんな僕の心境を知ってか知らずか。
四季宮さんは場違いなほどに、のんびりとしたセリフを口にする。
「こういうことって、ほんとにあるんだねえ……」
漫画の中だけだと思ってたよ、と他人事みたいに目をぱちくりさせた。
僕も一瞬気が緩みそうになったけど、現状を思い出して、慌てて彼女の体を引きはがした。
焦りと戸惑いで、体中から嫌な汗が吹き出していた。
「ご、ごめんなさいっ……」
「どうしてあやまるの?」
「だってその、口が……当たって……」
四季宮さんは、思い出したように口に手を当てる。
長めの袖のカーディガンが、するっと肘の辺りまで落ちた。
「すみませんわざとじゃなくて落ちて来たから助けようと思っただけでそれで……」
「ちょっとちょっと、早い早い」
膝をポンポンと叩かれる。
「そんなに早口じゃ、何言われてるか分かんないよー。なんとなく、謝ってるのは伝わってくるけど」
「ごめんなさい……」
「もー、だから謝らないでってば。むしろ、お礼を言いたいくらいだよ。君のお陰で怪我せずに済んだわけだし、ね?」
四季宮さんはちらりと背後の階段に目をやった。ワックス塗りたての階段は酷く足場が悪くなっていて、急いで駆け下りて来た四季宮さんは案の定足を滑らし、落ちて来たのだった。
――僕の上に。
「けが、してない?」
「た、たぶん……大丈夫です」
「そっか、ならよかった」
ほっと安堵したように笑う四季宮さん。
そして僕の表情を見て、次は眉を八の字にして笑った。
笑顔のレパートリーが多い人だ。
「もー、まだ気にしてるの? キスなんて減るもんじゃないし、そんなに深刻そうな顔しなくて大丈夫だよ」
そ、そういうものなのか?
僕は初めてだったから未だに動悸が収まらないのだけど……慣れてる人にとっては、そうでもないのだろうか?
「ん? いや、でもファーストキスはなくなっちゃったから、実質減ってる?」
とんでもない事実をさらっと言いなすった。
「……どうしよう?」
「どうしよう、と言われましても……」
気を抜くと、さっき触れ合った唇に目が吸い寄せられてしまって落ち着かない。
僕は視線のやり場を探して、うろうろとさまよわせた結果……、
「……え?」
彼女の手首で、目が止まった。
先に説明しておくと、四季宮さんは他人に素肌を見せることがほとんどない。
なんでも彼女は冷え性らしく、春夏秋冬いつでも変わらず、薄手のカーディガンを羽織り、スカートの下にはストッキングを履いている。
カーディガンはちょっと大きめ。袖が手のひらの半分ほどを隠し、手首をきゅっとシュシュで止めていて、手の周りにアサガオが咲いたみたいにふわりと袖が広がっている。
加えて体が弱いらしく、体育の授業は絶対に見学をしている。例えば、彼女の水着姿を拝めない哀れな男子生徒たちがプールサイドでうなだれている姿は、もはや夏の風物詩として有名だ。
そんなことも相まって、四季宮さんの素肌というのは、僕たちの目にさらされたことがない。
精々見えて首筋まで、手首や二の腕、太腿なんてもっての他だ。
なのに今、四季宮さんの手首が見えている。
走ったり、落ちたり、もつれたりしたからだろう。シュシュがずれ、カーディガンの袖がはだけていた。
そして、僕の目に入った彼女の手首には――生々しい真っ赤な痕がいくつもついていた。
何度も、何度も、強く縛り付けられたような赤。
滑らかで白い素肌とコントラストを成して、より鮮烈に僕の目に飛び込んでくる。
「……? どこ見て――」
僕の視線に気づくと、四季宮さんは慌ててカーディガンの袖を引っ張って、手首を隠した。
数瞬の沈黙。
「……見た?」
「見てないです」
「本当に見てない人は、何が? って聞くんだよ?」
「すみません見ました」
正確には、見えました、と言うべきなのだろうけど。
「だよねえ。うーん、どうしよっかなあ」
「あ、あの……誰にも言いませんので……」
「えー、ほんとにー?」
色々と分からないことだらけだけど、さっきの赤い痕を隠したいであろうことは、いくら僕でも察することが出来た。
体育に出ない理由も、年がら年中カーディガンを羽織っている理由も、ここにきてパズルのピースが合わさるように、ぴたりぴたりと繋がった。
「その、大丈夫です本当に。誰にだって隠したいこととかありますし秘密の一つや二つあって当然っていうか……そもそも僕には言いふらすような友達もいないですしそこは信用してもらってもいいかなとか……」
「もー、だから早いってば」
「すみません……」
「友達がいないってところしか、聞き取れなかったよー」
よりによってそこが聞き取れたのか……。
いやまあ、いいんだけど。事実だし。
四季宮さんが重ねて何かを言おうとした、その時。
「あーかーねーちゃーん! まだー?」
階段の上から突き抜けるように声が降って来た。
この声……たしか、四季宮さんの友達の八織江(はち・おりえ)さん、だったっけ。
「ごめーん! 今行くー!」
八さんにそう返事をすると、四季宮さんは僕の方にずいっと寄って、
「ね。今日の放課後、時間ある?」
「ありますけど……」
「じゃあ、ちょっと話したいことがあるから、待っててくれる? もちろん、これのことで」
すっとカーディガンを降ろして、赤い痕を見せた。
なんだかいけないものを見ている気分になって、僕は思わず視線をそらした。
四季宮さんはそんな僕をみて、含むように笑った。
「約束だからね? 勝手に帰ったらダメだよ?」
僕が答えるよりも前に、八さんの活発な声がまた聞こえ、四季宮さんは立ち上がった。
スカートの裾を丁寧にはらい、指だけがちらりとのぞいた右手を、腰の辺りでひらひらと振る。
「じゃあね、真崎君。また教室で」
「……どうも」
僕は床に座ったまま、そんな気の利かない返答をした。
ここ数分で詰め込まれた情報の数々が渋滞を起こして、頭の中でパニック状態になっていた。
順を追って考えようとするけれど、四季宮さんの唇の柔らかさや、彼女の右腕についた赤い痕が思考を妨げて、まったくまとまらない。
だから僕は、
「四季宮さん、僕の名前知ってたんだな……」
なんて。
キスとも彼女の腕の傷とも、今日の放課後の約束とも関係のないことをつぶやいた。
※
四季宮茜という人物について、少し考えてみようと思う。
日向高校三年二組、出席番号十四番。
明るくて活発、歯並びが良くて、笑顔が綺麗。
代々医者の家系で、かなりのお嬢様なはずなのだけど、それを鼻にかけることのないさっぱりとした性格。だけど性格の下地には、どこか上品な雰囲気が漂っている。
クラスにはいくつかの仲良しグループがあるけれど、どれにも属さず、渡り鳥のように色んなグループに顔を出し、そしてその全てで愛される。
彼女の発言には誰もが耳を傾けて、たまにちょっと変わった言動にツッコみが入りつつも、いつの間にかクラスの中心には四季宮さんがいる。
そういう人。
そういう女性。
いわばアイドル的な存在と言っても良いだろう。
「あーかーねーちゃんっ! 放課後だよ! 遊びに行こー! 自由が私たちを呼んでるぜー!」
ホームルームが終わるや否や、八(はち)さんが四季宮さんに飛びついた。
「わぁっ! もー、織江ちゃん。急に抱きつかないでってば」
「けちけちしなさんなって、減るもんじゃないんだから」
彼女たちの会話につられるように、クラスの人気者たちが続々と周囲に集まり始める。わいわいがやがやと、放課後の予定について花を咲かせたりして、四季宮さんを中心に、教室が華やかに色づいていく。
その様子を、ずいぶんと風通しがよくなった教室の隅から僕は眺めていた。
そうだ。ここはついでに、僕、藤堂真崎についても少し考えてみよう。
日向高校三年二組、出席番号二十一番。
目立った特技もなく、声は小さく早口で、何を喋ってるか分からない。てか何で敬語なの? タメだよね? とか言われがち。
友達もおらず、休み時間は本を読むか寝るかの二択。クラスの片隅でひっそりと息をしている、観葉植物とどっこいどっこいの存在感。それが僕、藤堂真崎(とうどう・まさき)だ。
同じ学年、同じクラスに属しているにも関わらず、全く異なる世界に住んでいるようなもので、簡潔に言ってしまえば、僕と彼女の間に接点は皆無だ。
今日、四季宮さんとは放課後に会う約束をしていたけれど……そんな僕が、急に彼女と一緒に教室で話したりすればどんなことになるか、想像に難くない。
おまけに、もし何かの拍子に僕と四季宮さんが――事故とはいえ、キスをしてしまったなんて知られれば、クラス中がバケツの水をひっくり返したみたいな悲鳴嬌声、罵詈雑言であふれ返るだろう。
「でねでねっ! 駅前にできた新しいクレープ屋さんがものすっごく美味しいらしくて、それはもう宇宙人の再来かっ⁉ ってくらいの超ど級なおいしさらしくって、これは行くしかないぜってことで、要するに何が言いたいかっていうと、茜ちゃんも一緒に行こうよー!」
どうやら八さんは、四季宮さんをクレープ屋に連れて行きたいようだ。八さんも四季宮さんも、そして周囲の友達も、とても楽しそうに話していた。邪魔するのは野暮というものだろう。
それに、あの輪の中に入る勇気は元より、あの輪の中から抜け出してきた四季宮さんに話しかけられる勇気もない。僕たちは本来、交わるはずのない人間なのだ。
……よし、帰ろう。
長い長い思考の末、僕はそう結論を出した。
いつも通りにさっさと荷物をまとめ、教室を後にする。
大丈夫です、四季宮さん。
あなたのことは何も喋りませんし、今日の出来事は全て僕の胸の内にしまっておきます。
キスの件は……なんていうかその……いい思い出として、墓場まで持っていこうと思います。
心の中で四季宮さんに色々と言い訳をしながら、階段を下りる。
授業が終わったばかりで、まだ人もまばらだ。
そのまま下駄箱へ向かおうとする僕の足を、
「まーさーきーくーんっ!」
耳から脳へ、突き抜けるようによく通る声が引き留めた。
因みに、彼女はとても良い声をしていて、僕は密かにファンだったりする。特に、彼女の笑い声はガラスの鈴を転がしたみたいに上品で、耳に心地よくて、僕は大好きだ。
「逃ーがすかー!」
嫌な予感がして振り向くと、四季宮さんが今まさに階段を踏み切ってジャンプしたところだった。
ち、ちょっと! 昼間に階段から落ちてケガしかけたの忘れたんですか!
声には出さずにツッコみつつ、階段から飛び出した四季宮さんの姿を目で追いかける。
長い黒髪がぱっと広がり、カーディガンが風をうけて大きくなびく。
着地のタイミングで足を伸ばした瞬間、勢いよくスカートがまくれ上がった。
「よーし、捕まえた! 待っててって言ったのに、素知らぬ顔でそそくさーって帰っちゃうなんて、ひどいよ真崎君!」
そして重力に引き付けられて、スカートはまた、彼女の下半身を覆う。
「私まだ帰る準備終わってないんだから、ここで待ってること! いい? 絶対だよ? 次いなくなったら、真崎君の家まで押しかけるからね? 住所知らないけど……って、どうしたの?」
顔真っ赤だよ? と覗き込まれ、僕はわたわたと視線を逸らす。
「そ……その……階段飛び下りるのはやめたほうがいいんじゃないかなって思います……」
「あ、心配してくれてるの? ありがと。でも、華麗に決まってたでしょ? そりゃ、お昼は滑って転んじゃったけどさ。基本的には私、運動神経に自信あり、なんだから」
「そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
「し……」
「し?」
「下着見えるので……」
なんとかそれだけ早口で絞り出すと、四季宮さんは目線を自分の下半身にやり、階段を見やり、そしてまた僕に視線を戻した。
「見たんだ」
「……見てないです」
「本当に見てない人は、何が? って聞くんだよ……って、この会話さっきもしたね」
「すみません、見えました……」
不可抗力だとは思うけれど、見えてしまったのは間違いない。ストッキング越しでも、色とか柄とか……なんとなく分かってしまうものなんだな……。
「ま、いいよいいよー。減るもんじゃないし」
「いいんですか?」
「……いや、減る減らないの問題じゃないかも? 華の女子高生的に軽々しく下着を見せてしまうのはNGかなあ……うーん、どう思う?」
僕に聞かれてもなあ……。
昼休みにあった時から薄々思ってたんだけど、四季宮さん、割と勢いで話すところがある気がする。口癖といい、勢いといい、もしかしたら八さんの影響を受けてるのかもしれない。
「まあじゃあ、階段ジャンプは今後控えるとして。……真崎君」
ずいっと顔が寄ってきたので、僕は同じ距離だけ、顔を後ろにそらした。
「もう逃げちゃダメだからね?」
「……クレープはいいんですか?」
「先に約束してたのは真崎君の方だもん。当然、クレープ屋さんは断りました」
そう言って、両手でばってんを作る四季宮さん。
「でも、八さんたちに悪いですし……」
教室の和気あいあいとした光景が脳裏をよぎる。僕が四季宮さんの予定を独占してしまうのは、とても忍びなかった。
僕と一緒に過ごすよりも、彼女たちと放課後に遊んだほうが、何百倍も楽しいはずだ。八さんたちだって、四季宮さんが来ないと分かれば、さぞかしがっかりするだろう。
歯切れ悪く言葉を連ねる僕に、四季宮さんは「何か勘違いしてるみたいだけどね、真崎君」と腰に手を当てて言った。
「私が。君と。話をしたいんだよ?」
「僕、と……」
「そ、君と」
一語一語、丁寧に言葉を区切って発した言葉は、妙にすんなりと僕の胸の奥に届いた。
言い訳する気も、反論する気も、驚くほどにあっけなく、僕の中から消えていく。
「だ、か、ら。私の予定を真崎君が気にする必要なんて、ないんだよ? おっけー?」
「……はい」
つられるように、気づけば僕は首を縦に振っていた。
圧があったわけではない。だけど彼女の言葉には、不思議な力があるようで、僕はいともあっさりと、彼女の申し出を受け入れていた。
「よし、言質げっとー。じゃぁ五分くらい待っててねー」
そうして教室に走り去って行った四季宮さんを、僕は脱力して見送った。ここで約束を破って帰ったとしても、明日また同じ約束を取り付けられそうだと、今のやり取りだけで十二分に理解できた。
壁に背を預け、おとなしく彼女を待つことにする。
僕にしては珍しく、ずいぶんと騒々しい一日だ。
※
「ファミレスのレジ横で売ってる玩具って、なんでちょっと欲しくなるんだと思う?」
四季宮さんが僕を連れて訪れたのは、学校から徒歩十分くらいのところにあるファミレスだった。学校帰りにファミレスに寄るなんてイベントは片手で数えるくらいしか経験したことのないので、なんだか落ち着かない。そわそわする気持ちを誤魔化すように飲み物に口を付けているせいか、さっきからウーロン茶の減りがやたらと早かった。
「……欲しくなりますか?」
「え、嘘、私だけ⁉」
「わ、分かんないですけど……」
「びっくりするくらいカラフルなガムとか、親の仇みたいにタンバリンを打ち鳴らすサルとか、欲しくなるんだけどなー。ならない?」
「……僕はなりませんね」
「そっかー、織江ちゃんも微妙な顔してたしなー。私の趣味がおかしいのかな?」
「どうでしょう……」
「むー。ま、いいか。それじゃあ、それはそれで置いておくとして――」
唇を尖らせたまま、右腕のカーディガンの袖をぺろんとめくる。
「これ、どう思った?」
「……話題の変換が急すぎませんか?」
「ごめんごめん。いきなり本題から入るより、楽しい話題から入った方が取っつきやすいかなーと思って」
楽しい話題……だったかな?
色々と疑問符は浮かぶけど、一応僕に気を使ってくれてのことだったらしい。
僕は改めて彼女の手首に視線をやる。さっきはやや遠目に、一目見ただけだったから分からなかった傷痕も、近くでじっくりと見ると、また印象が変わってくる。
幾筋もの赤い痕は、手首をぐるりと一周していた。そしてその内のいくつかは、かさぶたになったり、赤く腫れてしまったりしている。これは――
「これはね、手錠の痕なんだ」
そう言って四季宮さんは、左手のカーディガンもめくる。
右手と同じく、赤い痕がついていた。
「手首だけじゃないよ。同じような痕が、足首にもついてるの」
「どうして……?」
の後に、いくつもの言葉をくっつけて僕は呟く。
こんなの……普通じゃない。
「理由は簡単。私が『自傷癖付きの夢遊病』だからだよ」
そう言って四季宮さんは説明を始めた。
曰く。
彼女は寝ている間だけ、自分を傷つけてしまうらしい。
手首を切ろうとしたり、窓から飛び出そうとしたり、時にはロープを首に巻こうとしたり。
下手をすれば死んでしまうような行動を繰り返す、夢遊病。だから四季宮さんは、自分で自分を殺さないように、寝ている間は手足に手錠をかけているらしい。
「変わった病気でしょ? 高校に入学してから発症して、すぐにお医者さんに診てもらったんだけど『こんな奇病は初めて見た』って言われてね。お手上げなんだー」
たしかに自傷癖や夢遊病は聞いたことがあるが、複合的に発症しているという話は聞いたことがない。
「だから病名もついてなくてね、私はこれを便宜上『自遊病』って呼んでるの」
「じゆうびょう、ですか?」
随分と明るいイメージの名前だ。単純に、自傷癖の「自」と夢遊病の「遊」を一文字ずつとって、併せただけなのだろうけれど。
じゆう。
自由。
自由病、だなんて。
毎晩手錠で繋がれている彼女の話とは、対極にあるような名前じゃないか。
「いい名前でしょ? ほら、名は体を表すっていうじゃない? だったらせめて、名前だけでも明るくしようと思って」
そう、笑って言った。
そんな彼女の気持ちを、僕は理解できなかった。
四季宮さんの話が本当ならば、彼女は毎晩、死と隣り合わせで寝ていることになる。
寝ている間に死んでしまっているかもしれない。それももしかしたら、とんでもなく凄惨な死を迎えているかもしれない。
それを止めるために、彼女は自分を手錠で束縛し、だけどきっとその状態でも、自分を傷つけようと暴れ続けるから。
手首には手錠が擦れて、食い込み、時に傷つけて、白い柔肌に生々しい痕を残す。
辛くはないのだろうか。
息苦しくはないのだろうか。
嫌になったりは、しないのだろうか。
そして何より。
なぜそんな病を抱えていながら、いつも笑顔で、明るく生きていられるのだろうか。
「……引いた?」
様々な疑問を抱えて黙り込んでしまっていた僕は、四季宮さんの問いに慌てて首を横に振った。
実のところ――彼女の自遊病自体に、そこまで驚きはしなかった。
確かに前例のない奇病なのかもしれないけれど、想像を絶するというほどではない。
きっとそれは僕が、四季宮さん以上に特殊な体験をしてきているからだと思う。
「いえ。大変そうだなとは、思いましたけど」
「それだけ?」
「す、すみません気の利いた言葉思いつかなくて……」
僕が謝ると、四季宮さんは「ああ、違う違う」と笑顔で手を振った。
「やっぱり、君に話してよかったなって思っただけ」
僕に話してよかった、か……。
彼女の言葉に、ふと疑問がわく。
そういえば四季宮さんは、どうしてこの話を僕にしてくれたのだろうか?
口止めをするだけなら、詳しい事情の説明はいらないだろう。
四季宮さんは続ける。
「それでね、真崎君に一つお願いがあるの」
「分かってます。もちろん誰にも話したりしません」
「あ、そっか。それも含めると二つになっちゃうんだけど」
……ん?
僕にかん口令を敷くよりも、更に重要なことがあるみたいな口ぶりに、内心首を傾げた。
「そうだね、勝手なお願いだけど、他の人には話さないで欲しいかな。このことを知ってるのは、両親と、かかりつけのお医者さん一家、あとは一部の学校の先生くらいだから」
四季宮さんが一切体育に出られないのは、体操着や水着に着替えれば、この傷が見えてしまうからだろう。そしてそれは、事情を説明しなければ、到底承諾されるはずもない。
先生たちが知っているのは、必然と言えた。
「友達に隠してるのは……引かれるから、ですか?」
「うん。手首だけじゃなくて、私の身体には、あちこち傷痕がついてるから」
「手錠で縛ってるのに?」
「お家で居眠りしちゃった時とかに、ちょっとね。はっと目が覚めたら椅子の上に乗ってて、びっくりして転がり落ちちゃうこととかもあるんだ」
「なるほど……」
それは……大変だな。
「その傷痕っていうのが結構生々しくて、他人が見て気分のいいものじゃないかなって。それにほら、こんな病気にかかってること自体、ちょっと気持ち悪いでしょ?」
どうだろうか。こんなことで、八さんをはじめとした彼女の友人たちは、四季宮さんから距離を取るのだろうか? そもそもろくに友達がいない僕には、計りかねる問題だ。
ただ、知られてしまったが最後、普通の高校生活は望めないだろうということは分かる。
「事情は分かりました。この話は他言しないので、それだけは安心してください」
「ありがと。とっても助かるよ」
「それで、もう一つは?」
僕が聞くと、四季宮さんは両手を合わせて楽しそうに微笑んだ。
どうやら、こっちのお願いが本題のようだ。
「そうそう! それでね、私って色々行動が制限されてるでしょ? 傷痕を隠すために、カーディガンは絶対着ないといけないし、体育だってできないし、球技大会なんてずーっと応援席にいたし……」
だからね、と四季宮さん。
「私と一緒に、いっぱい遊んで欲しいの!」
……「だから」の接続詞と、そのセリフはどう繋がるんだ?
彼女の言っている意味がよく分からなくて、僕はオウムみたいに言葉だけを真似して返す。
「いっぱいあそんでほしいの」
「うん。ダメ、かな?」
「すみません、ダメとか以前に、意味が良く分からなくて……」
困惑する僕に、四季宮さんは人差し指をふりふり、説明を続ける。
「えっと、だからね。私が、この体の傷のせいで楽しめなかったいろんな遊びを、一緒にやって欲しいんだよ!」
そこまで聞いて、僕はようやく理解する。
恐らく四季宮さんは自遊病を発症してこの方、肌を晒す危険性があるような遊びを禁じてきたのだろう。だから、唯一事情を知ることになった僕に付き合って欲しい、と。
「あ。もちろん、真崎君の受験勉強に差しさわりのない範囲でいいよ。私のわがままに付き合わせて、真崎君の勉強がおろそかになっちゃったら申し訳ないから」
「別にそれは……気にしなくて大丈夫ですけど」
自分で言うのもなんだが、成績はいい方だ。志望大学のボーダーラインは、すでにクリアしている。よほどこれから勉強をさぼるか、本番に大ポカをしない限り、問題なく合格できるはずだ。
「ほんと? なら良かった! 私も真崎君と同じだから、たっくさん一緒に遊べるね!」
「はあ……」
気の抜けた返事をしてしまったのは、勉強のことはさておき、彼女のお願いの中身が気になっていたからだった。
「……あの、さっきから言ってる遊びって……例えば、どんなやつですか?」
「んー。とりあえず、プールには行きたいなー」
「ぷーる⁉」
素っ頓狂な声が飛び出てしまい、あわてて目を伏せる。
プールに入るためには水着を着なくてはならない。水着の布面積は小さい。だから体中に傷がある彼女は水着を着ることが出来ないので、プールにも行けない。
筋は通っている。しかしそれはつまり、僕が、彼女と、二人でプールに行くということであって……。
「あれれ? プール、嫌い?」
「嫌いとかじゃなくて、その、なんていうか……異性と行った経験がないっていうか……」
「なんだそんなことかー。私も男の子と二人でプールに行くのは初めてだし、お揃いだね」
そういう問題じゃないと思います。
相変わらず四季宮さんを直視できないまま、僕はぶつぶつと言い訳を探す。
「いやでも泳ぐのもそんなに得意じゃないっていうか、あんまり体も鍛えてないし貧相っていうか見せられたもんじゃないっていうか恥ずかしいっていうか、そもそももうすぐ十月ですしプールのシーズンじゃないような気もしますし――」
「ふーん」
からん、と。
四季宮さんが飲んでいたアイスコーヒーの中で氷が鳴った。
「真崎君は嫌なんだ。そっかそっか、そうなんだー」
「い、嫌って訳じゃないんですけど……」
しどろもどろに、出来かけの、不出来な言葉を吐き出す僕に、四季宮さんは机越しにズイと近づいて――囁いた。
「ちゅーした癖に」
「――っ!」
「言いふらしちゃうよ? 真崎君が、私の、ファーストキスの相手ですって」
「そ、それは困ります……! や、やめ……やめてください……!」
「みんなどんな反応するかな? 喜んでくれるかな? お祝いしてくれるかな?」
そんな訳ないでしょう! 分かってて言ってるだろこの人!
「あの、お願いですからそれだけは……」
「じゃぁ一緒に遊んでくれる?」
「分かりました、遊びます、遊びますから、言いふらすのだけは勘弁してください……」
そんなことが知れ渡ったら、僕は学校で好奇と殺気の入り混じった視線を全身に浴びることになる。それに比べたらまだ、彼女と一緒に遊ぶことくらいは、どうってことがないように思えた。
「えへへ、やった。約束だからね? 破ったら、言いふらしちゃうからね?」
いつの間にか、とんでもないことになってしまった。
彼女いない歴=年齢を地でいき、そして恐らくこれからもその等式が崩れることがないであろう僕には、正直言って対処に困る案件だ。
けれど。
「さーて、最初は何に付き合ってもらおっかなー。ふふ……楽しみだなー、わくわくするなー」
目の前でにこにこと笑う四季宮さんを見ていると、そんな不安はなりを潜めて、途端に何も言えなくなってしまうのだから、まったく困ったものだった。
話もまとまったということで、今日はお開きにすることになった。
やたらと上機嫌な四季宮さんは、鼻歌なんて歌いながら、スキップ交じりに横を歩いている。遊び相手が見つかったことが、そんなに嬉しいのだろうか。
「雨、降ってたんだね」
周囲を見渡すと、地面がしっとりと濡れていた。彼女の言うとおり、通り雨が降ったのだろう。閉じた傘を持っている人もちらほらと見かけた。
ファミレスでは外を見る余裕なんてなかったから、気づかなかったな。
「真崎君は、雨って嫌い?」
「どちらかと言えば、嫌い……ですね」
「そっかー。私はね、実はちょっと好きなんだー。みんなに『変だね』って言われるんだけど、でも毎日晴れだったら、ちょっとつまんなくない?」
「……そうですか?」
「なんていうのかなー、ハンバーグは好きだけど、でも毎日食べたいとは思わないでしょ? それと同じで、たまに違う天気が挟まった方が、いいと思うんだけどなー。それにさ――」
道中、四季宮さんとの会話は途切れることがなかった。
もちろんもっぱら喋っているのは四季宮さんで、僕は時々相槌を挟むだけなのだけれど。
それでも、四季宮さんが喋り、僕がごくたまに返答をし、それで会話が回っている状態というのは……端的に言って心地よかった。
四季宮さんのきれいな声音で紡がれる取り留めのない話を、そんな穏やかな気持ちで聞いていると、ふと四季宮さんが不安そうに僕の顔を覗き込んだ。
「……もしかして私、喋りすぎちゃった?」
「え?」
そして申し訳なさそうに言う。
「ごめんね。真崎どんな話でも聞いてくれるから、嬉しくってつい……。もし何か話したいことあったら、遠慮なく言ってね?」
予想外の角度から心配され、僕は慌てて言葉を連ねた。
「い、いえ。それはほんとに大丈夫です気にしないでください」
「そうなの?」
「は、はい。僕、話題振るの苦手ですし四季宮さんが話してくれた方が嬉しいっていうか……まあその、反応するのもへたくそなので折角話してもらってるのにろくな返しもできなくて本当に申し訳ないんですけど……」
ああ……。
相変わらず不出来な言葉ばかりで……嫌になる。
もっとうまく喋れればいいのに。
四季宮さんの言葉みたいに、取り止めもないのについ耳を傾けてしまう。すっと優しく耳に入って来るような、そんな話し方ができればいいのに。
信号が赤になったので、僕と四季宮さんは足を止めた。
すぐ近くの電柱を、スパナを持った作業員が登っていく。
四季宮さんの顔が直視できなくて、僕はまるでそっちに興味があるみたいに、視線をそらした。
「んー、真崎君はさ」
四季宮さんは言った。
「句読点を意識して喋ると、いいんじゃないかな?」
「句読点、ですか……?」
「そ、句読点」
思わず僕は、視線を戻した。
聞き間違いでなければ、文章の途中についている、点と丸のことを言っているのだろう。句読点を意識して喋る、というのは、いったいどういうことなんだろう……?
少し気になったので、四季宮さんに続けて問いかけようとした――。
その時だった。
目の奥で線香花火が散った。
刹那、現実の風景はかき消える。
視界から彩度は失われ、セピア色の、年月が経ったわら半紙の上に映されたような光景が動き始めた。
四季宮さんは僕の隣に立っていて、依然楽しそうに何かを話していた。
平和な光景。
穏やかな光景。
しかし次の瞬間、視界から四季宮さんの姿が消える。
僕の目線は少し下に向いて、地面に倒れた四季宮さんの姿を映す。時間差で流れ出した赤い血は、彼女の形のいい頭から出ているようだった。
すぐそばにはスパナが転がっていて、作業員の人たちがあわてて彼女の周りに集まり出した。
四季宮さんはピクリとも動かない。さっきまであんなに元気に話し続けていた彼女が、嘘みたいに。
「――真崎君?」
四季宮さんの声がして、僕は現実に引き戻された。
「どうしたの? なんだか、怖い顔してるよ?」
目の前にいる四季宮さんは、健康だった。
倒れていない。頭から血なんて流れていない。
「しき……みやさん」
「ん? なあに?」
今日、二度目。
できればもう、干渉したくない。
あの日以来、僕はずっとそうやって生きてきた。
触れず、触らず。
仮に干渉する時は、人に見えないように、分からないように。
だけど……目の前で四季宮さんが傷つくところは見たくない。
唾を飲み込んで、僕は早口に言う。
「ちょっと移動しませんか?」
「どうして? もうすぐ信号青になるよ?」
「そ、それはそうなんですけど……」
残された時間はあと何秒だろうか?
与えられた猶予はたったの六十秒しかない。
いったい今、その内の何秒を無駄にした?
「あ、危ないので……」
四季宮さんはきょとんと小首をかしげた。
「なにが?」
「それは――」
ぱーっ!
と、遠くでクラクションが鳴った。
僕たちとは何一つ関係のない音。
決して互いに、干渉し合うことのない現象。
だけど僕は、まるでそれが合図だったかのように、とっさに四季宮さんの肩を掴んで、引き寄せた。
ほっそりとした四季宮さんの身体は、いとも簡単に僕の胸の中に飛び込んできて、長い黒髪は、彼女の移動した軌跡を描くように、宙にふわりと残った。
その軌跡を縦に横切るように。
銀色の物体が落下していった。
鋭くて固い衝突音と、「危ない!」という警告の声が響いたのは、同時だった。
からからという音につられ、視線を落とす。
地面に転がった大きなスパナはやがて静かに動きを止めて、僕はほっと胸をなでおろした。
今になって、心臓が痛いくらいに脈打っていたことに気付く。
整備員の人があわてて下りてくるのが見える。「大丈夫ですか、けがはありませんか⁉」
そんな声をどこか遠くのことのように聞きながら、僕は四季宮さんの肩から手を外し、距離を取った。
取った、つもりだった。
「ねえ、真崎君。変なこと聞くんだけど」
僕が後ろに下がった分だけ、四季宮さんも前に進んでいた。
彼女の顔は僕の鼻先にあって、澄んだ瞳が僕を捉えて離さない。
全ての音が遠い。
車が風を切って走り抜ける音も。
低く唸りを上げるビル風の音も。
まるで窓ガラス越しに聞いてるみたいに、くぐもっているのに。
「もしかして、未来が視えてたりする?」
ただ僕の耳元で彼女がささやいた声だけが、やけに近く、現実的だった。
※
友達を作れない人。
友達を作らない人。
一文字しか違わないのに、その間には大きな隔たりがある、なんてことは今更改めて明言する必要もないだろう。
欲求はあるけど達成できない。欲求がないから達成しない。
意志が違えば、意思も違う。
そもそも生きる方向性が、真逆のベクトルを向いていると言ってもいい。
それなのに、表面上では「友達がいない」というただ一つの現象としてこの世界に投影されているというのは、なんというか、この世界にしぶとく生き残っている致命的なバグみたいだよなあと、前者に身を置く僕は思うのだ。
そしてきっと後者の「作らない人」は、その気になればいつでも友達ができるのではないかと、僕は勝手に思っている。
媚びずとも生きられ、群れることを拒む。それらを全てひっくるめた人としての在り方みたいなものが、そもそも強いのだと思う。
……とまあ、これは余談だけれど。
ともかく。
「なんだよ、真崎。急に話って。今日、納期で忙しいんだけど」
「いいだろ、たまには僕から電話したって。いつもは僕が御影(みかげ)の話聞いてるんだから」
「だっからタイミングを考えろっつーの。別にいいけどさあ」
友達を作れない僕。
友達を作らない御影。
そんな僕たちが、互いに唯一の友達になっているというのは、少し面白くて、おかしくて、世界に一矢報いてやった気分になる。
御影浩二(みかげ・こうじ)とは小学生の頃からの付き合いだ。
以来、中学も一緒、高校も一緒で、なんなら同じクラスだったりもする。
といっても高校入学以降、こいつの姿を見かけたことは、ほとんどないのだけれど。
「今回はなんの納期なの? イラスト?」
「や、ライターの仕事。ゲームのレビューしなくちゃいけなくてさ。オープンワールド系のゲームのレビューをプレイ込み五日でやれとかバカじゃねえのって感じ。クリアするのに三日三晩徹夜したわ」
御影は高校に入学してから、ほとんど自分の部屋にこもっている。
世間一般に言う、引きこもりというやつだ。
『学校で学ぶことは、もうねーや。俺の人生に必要ない』
そう言って御影は、ウェブ上で活動を始めた。
こいつは優秀で、特に芸術、情報方面に秀でている。その特技を活かして、ウェブデザインだったり、ライターだったり、イラストレイターだったり、ゲーム企画のプロデューサーだったり……とにかくありとあらゆる仕事に手を付けては、ばっさばっさと稼いでいた。
曰く、学校の勉強を使わず、学校で習わない技術で食っていくんだから、三年間仕事の経験を積んだ方が有意義だ、とかなんとか。
じゃあなんで高校に入学したんだよ? と僕が問うと、
『ま、学歴が必要になる場合もあるからな』
出席日数も、卒業に必要な条件ぎりぎりになるように調整しているらしい。器用なやつだ。
御影の人生スタンスはさておき、僕としては、こいつが同じクラスにいてくれるのはありがたい。たまに学校に来てくれた時は喋り相手が出来るし、来ない時だって、こうして家でチャットや通話で話すことが出来る。
御影は僕が唯一、まともに話せる友人だった。
「んで、わざわざ電話してきたんだ。さっさと本題に移れよ」
うっすらとキーボードをたたく音が聞こえる。喋りながら記事を書いているようだ。
「今日さ、『幻視』で人を助けたんだ」
キーボードの音がはたと止まった。
「バレないように?」
「いや、バレた」
「へえ、珍しいな。俺ん時以来か?」
「そうだね」
幻視――物心ついた時から僕に宿っている、不可解な能力。
六十秒先の未来が何の前触れもなく視えてしまう、不便な能力。
御影は僕の幻視のことを知っている……いや、信じてくれている、ただ一人の存在だ。
だからこうして、気軽に相談もできる。
「なんでバレた?」
「一回目はうやむやになったんだけど、二回目がそうもいかなくて――」
「待て待て」
僕が説明を始めると、御影はそれを遮った。
「お前、今日一日で二回もそいつのこと助けたのか?」
「そうだけど」
一回目は昼休み、四季宮さんが階段から落ちるのを見た時。
二回目は帰り道、スパナがぶつかるのを回避した時だ。
階段の時は、他に色んなことが重なったから誤魔化せたけれど、スパナの時はどうしても不自然さが隠しきれなかった。
だけど……まさか、未来が視えているところまでバレるとは思わなかったな。
「そいつ、女だろ」
「え」
「名前も当ててやろうか。四季宮茜だ」
「な、ななな……なんで――」
「分かったかって? 愚問だな」
御影は続ける。
「お前はさ、ずーっと隠してきたじゃねえか。幻視を持ってるのがバレないように、バレないようにって、馬鹿みたいに腰を低くして、目立たないように過ごしてきただろ」
馬鹿みたいには余計だと思う。
だけど……その他は事実だ。
僕は幻視のことを、ずっとずっと隠してきた。
「他人を助ける時も、できるだけ自分がやったってバレないように、陰からひっそりこっそりやってきただろうが。それがどうよ。今日だけで二回、しかも相手にバレるリスクをおかしてまで助けた。となれば、話は簡単」
一拍置いて、御影は言う。
「お前はそいつのことが気になってたんだ。そしてあわよくば、話をしてみたかった」
「そ、そんなこと……」
ない、とは言い切れなかった。
僕は口をつぐむ。
「だとしたら、後は芋づる式に分かるよな。お前が気になる開いてなんて、惚れてるやつだけだ。そしてお前が好きな相手は一人しかいない。つまり助けた相手は四季宮茜だ。これで証明終了っと」
たーん、と電話越しにエンターキーを押す音が響いた。
なんだかその音が気に食わなくて、ほんの少し反論する。
「……僕が四季宮さんのことを好きなんて、いつ言ったんだよ」
「言ってただろ。笑い声が好きだって」
「それは言ったかもしれないけど……」
はあ、とため息が一つ。
「お前さあ、あんまり俺を甘く見んなよ。お前が他人の笑い声を好きって言うのが、どれだけ珍しいことかくらい、ちゃーんと分かってんだよ」
「うっ……」
「はーあ。女絡みかー、テンションあがんねーなー」
「な、なんでだよ。いいだろ、別に……」
「俺ってさー、超ハイスペックじゃん?」
自分で言うか? いや、まあ……こいつなら言うか。
「学校に通ってなくても勉強はできるし、大卒して働いてるやつよりも、もうはるかに稼いでるし、ルックスも悪くないし、コミュ力にも問題はない」
最後に関しては、いささか自己評価が高すぎる気もするけど……。
「だけどそんな俺が唯一手に入らないものがある。女性との交流だ」
「引きこもってるからね」
「ちっげーよ! 家で働いてんだよ!」
いいように言い換えたなこいつ。
「だから、奥手だったお前が、幻視をうまいこと使って意中の相手に接触したことに、なかなか俺はショックを受けている」
「ちがっ……僕はそういうつもりで助けたわけじゃ――」
「というわけで、心に深い傷を負った俺は今日の営業を終了しまーす。おつかれさーん」
また明日な。と一方的に言葉が投げかけられて、通話は切れた。
相変わらずマイペースなやつ……。
スマホをクッションに放り出して、自分の体はベッドに投げ出す。
今日はとても濃い一日だった。いつもよりも疲労感がある。体の疲れが、ベッドにじんわりと広がっていくようだ。
『もしかして、未来が視えてたりする?』
四季宮さんの問いかけを、僕は「まさか、そんなことあるわけないよ」とか適当なことをうそぶきつつ誤魔化して、あわてて帰ってきた。
だけど彼女は半ば、確信したように言っていた。
スパナが降ってくることを見越して、彼女を引き寄せた。たったそれだけの行動で、未来視の能力にまでたどり着くのは、やや論理の飛躍があるようにも思えるが……とにかく、バレてしまったものは仕方がない。
不思議と焦りはなかった。それはもしかしたら、四季宮さんが自遊病という秘密を、僕に見せてくれていたからかもしれなかった。
あるいは――
「ばからしい……」
御影の言葉が脳裏を過って、僕は吐息と共に呟いた。
確かに彼女の笑い声は好きだ。とても好きだ。だからといって、それを恋愛感情と結びつけるのは早計だろう。LIKEとLOVEの違いなんて、今時小学生だって知っている。
それに何より。
「好きだったからって、何がどうなるわけでもないんだしさ……」
僕は布団に身を預けたまま目を閉じた。
ぴこんとスマホが一つ震えて、画面が光る。
僕はそれに気づくことなく、眠り続けた。
四季宮茜からの初めてのメッセージを読んだのは、翌朝になってからのことだった。