【9】前日

 正解が分からないままに行動することが、怖い。
 言い換えればそれは、ゴールが見えない状態でマラソンを走り出すようなものだ。
 どれくらいのペースで走ればいいのか、コースの状態はどうなっているのか、自分の体力で走り切れるのか。そんなあれやこれやが分かった状態で走りたいと思うのは、至極普通のことだろう。
 だけど時に現実というのは残酷なもので、何の情報も与えられないままに、走るか、走らないかの選択を迫られる。
 準備する時間を与えてはもらえない。
 考える猶予も与えてはもらえない。
 ただ選択の時だけがじりじりと音もなく迫ってきて、焦燥感だけが胸の内を焦がす。
「だからさあ」
 自分一人では、その嫌な感覚に耐え切れなくて、僕は御影に電話をかけていた。
「俺はお悩み相談窓口じゃないんだって、何回言ったら分かるんだよ」
「他に相談できる相手がいないんだよ」
 電話の向こうで、御影は大きくため息を吐いた。
「ったく、しょうがないやつだな。言っとくけど、大した助言はできないからな。最終的に決めるのはお前なんだから」
「分かってるよ」
 こうして聞いてもらえるだけでも、気持ちが少し楽だった。
 昨晩、銀山さんから話を聞いた後、僕は御影と織江さんに連絡をいれて、一人でホテルを後にした。駅までの道すがらも、電車の中でも、家に帰宅するまでの帰路でさえ、頭の中は四季宮さんのことでいっぱいだった。
 今日を逃せば、四季宮さんは銀山さんと結婚してしまう。
 止めたい。彼女を連れ去りたい。
 だけど、それは非現実的なことでもあった。
 僕は平凡な一介の高校生で、自分でお金を稼いだことも、働いたこともなかった。
 自分一人ならまだしも、もう一人、誰かと寄り添って、隠れて生きていくなんてことができるはずもない。
 なら、他に方法はあるだろうか?
 逃避行ではなく、四季宮さんをあの状況から救い出すための、画期的な方法はあるだろうか?
 否、と心の中で即座に否定する。
 僕自身の力はちっぽけだ。そして、彼女の家庭環境を変えるためには、とても大きな力が必要だ。だけど、例え学校の先生に相談したところでなんの意味もないだろう。例え通報したところで、警察だって動いてくれないだろう。
 僕個人も、学校も、警察も、ありとあらゆる個人と組織が、彼女を助けるための力と動機をもっていない。
 八方ふさがりだった。
 僕は彼女を救えない。
 何度考えてみても、同じ結論にたどり着き、堂々巡りを繰り返す。
「まあ、難しいだろうな」
 僕の心のうちを話し終えると、御影も言った。
「そこまで話が進んでると、俺たちにできることは何もないだろうし」
 改めて他人の口から聞くと、心にくるものがあった。
 それと同時に、納得もした。
 僕に彼女は、救えない。
「ありがとう、御影。やっぱり僕は――」
「でもさあ……。大事なのってそこじゃないよな」
「……え?」
「確かにお前は、四季宮さんを助けるための、具体的なアイディアもプランもないかもしれない。そもそも高校生の俺たちにできることなんて本当に限られてて、狭い選択肢の中から必死こいて選んだものでも、大人たちに軽くつぶされちまうかもしれない。だけど」
 一拍置いて、続ける。
「お前は助けたいんだろ?」
「……」
 仮に。
 四季宮さんが、この結婚を喜んでいるのならば、当然僕が口出しすることなんてなかったと思う。
 だけどあの日、銀山さんと初めて僕が出会った日。
 あるいは、修学旅行で銀山さんについて語った日。
 そして何より、昨日のクリスマスパーティーの会場で。
 四季宮さんは一度たりとも、心から幸せそうな顔をしていなかった。
 初めて、彼女の弱音を聞いた。
 だから僕は、彼女を助けたいと思った。
 あの絶望的な環境から、救い出したいと願った。
「だったら、やればいいじゃん」
「……答えが見つかってなくても?」
「んなもん、後から考えろ」
「資格がなくても?」
「なんだよ資格って。どんな試験に合格すりゃ配布してもらえんだよ」
「ゴールが全く見えなくても?」
「走り出したら見えてくるかもしんねぇだろ。なんでもかんでも、最初からゴールが見えてるとは限んねえよ。走りたいと思うかどうか。そこが一番、大事なんじゃないのか」
 洋服掛けにかかった青藍色のマフラーを見る。
 次いで、その下に置かれた小洒落た紙袋に目が移る。
 昨晩は気付かなかったけれど、実はあの中にはマフラー以外にも一枚の手紙が入っていた。
 短い文面で、端的に。
 四季宮さんの少し丸っこい、整った文字が並んでいた。

 今までありがとう!
 真崎君には、ほんとにほんとに、たくさんの思い出をもらいました。
 もらってばっかりで、申し訳ないくらい。
 だからせめて、私からはマフラーを送ります。
 実は手編みなんだよ? びっくりした?
 首元あったかくして、体を大事にしてね。
 四季宮茜
 
 追伸
 しゃべるときは句読点をしっかり打つように!
 真崎君、ほんとはお話面白いんだから。聞き取れないの、もったいないよ。

 何言ってるんだ、四季宮さんは。
 もらってばっかりで申し訳ない?
 思い出をたくさんありがとう?
 そんなの全部、全部全部――
「まあ、偉そうに何言ってんだって思うかもしんないけどさ。要するに俺は、少しは自分の気持ちに正直になった方が――」
「御影」
 僕のセリフじゃないか。
「ありがとう」
「……腹くくったんだな」
「うん」
 何の根拠も確証もない。
 一歩先に広がっているのは、苦難だらけの不安定な道のりだ。
 それでも彼女の力になりたいと、混じりけのない気持ちで思うから。
「今日、四季宮さんと逃げようと思う」
 
 ※

 集合時間の三十分前に、駅に着いた。
 これからのことを考えながらぼんやりと虚空を眺めていると、向こうの方から駆けてくる人影が見えた。
 こんなにもたくさんの人間が行き来している雑踏の中で、彼女の姿だけはすぐに見つけることができるのだから、不思議なものだ。
 息を弾ませて、四季宮さんは僕の前で止まった。
「ごめんね、待たせちゃって!」
「い、いえ。まだ集合時間の三十分前ですし。それより……大丈夫ですか?」
「ぜーんぜん大丈夫じゃない!」
 言葉とは裏腹に、四季宮さんの顔は晴れやかだった。
 冬の間静かに息をひそめていた植物たちが、春、待ちきれなかったみたいに一斉に芽吹いたような。薄桃色の笑顔。
「でも、いいの。真崎君からメッセ来た時からドキドキが止まらなくて、もういてもたってもいられなかったんだ。早く君に会いたくて……仕方がなかった」
 四季宮さんは、全身で喜びを表現していた。
 一挙手一投足に、幸せがあふれているみたいだった。
 まぶしすぎる笑顔を直視できなくて、僕は視線を外しながら言う。
「そ、それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
 僕は頭の中のプランを見直しつつ、駅の改札口へと歩を進めた。
 背後から四季宮さんの楽しそうな声がする。
「もしかして、エスコートしてくれるの? 嬉しいなー、嬉しいなー」
「あ、改めて言わないでください……恥ずかしいです……」
「えー、いいじゃんいいじゃん! 真崎君と遊ぶときは、いつも私が引っ張りまわしてばっかりだったから、こういうの新鮮で嬉しいだもん」
 言われてみれば、その通りだった。
 彼女と一緒に遊ぶ際に、僕が先導するのは初めてのことだ。
 どこへ行くときも、どんなところへ向かうときも、二人で移動するとき、僕はいつも彼女の背中を追っていた。
 だけど今日は……今日だけは、僕が彼女をリードしなくちゃいけないんだ。
「四季宮さん」
「ん? なあに?」
 はたと思い出し、立ち止まる。
 後に続く言葉を口にするかどうかは、悩むところだった。
 彼女にとっては、ある種呪いの言葉のようでもあって、素直に喜んでもらえないかもしれない。皮肉のように聞こえてしまうかもしれない。
 だけど……そんなことを気にする方が、きっと野暮だ。
「改めて、お誕生日おめでとうございます」
 だって本来、誕生日は祝われるべきものなんだから。
 僕が言うと、四季宮さんは一瞬目を大きく見開いた。
 そしてゆっくりと目じりを下げて、口角を上げて、
「うん、ありがと、真崎君」
 そう、静かに答えた。
 四季宮さんの左腕で、銀色のブレスレットがきらりと光った。

 ※

 僕たちは、地元でもなく、帝桜ホテルの近くでもなく、まったく縁もゆかりもない、それでも人はたくさんいる都心部まで、一時間ほどかけて電車で移動した。
 道中、四季宮さんはよく喋った。
 僕たちが交わした会話は、とりとめのない話ばかりだった。
 もうすぐ公開される映画の話。
 最近行った、ケーキの美味しいカフェの話。
 クリスマスムードとお正月の準備が入り混じっているこの時期は、スーパーがごちゃごちゃしていて面白いという話。
 今年はこんなに寒いのに全然雪が降らないから、なんだか損した気分になる、という話。
 他愛なくて、中身がなくて、だけどとても、居心地がよかった。
 結婚の話は出なかった。どうやら彼女はスマホの電源を切っているようで、電話がかかってきて水を差されるということもなかった。
 電車を降りて、おなかが空いたという四季宮さんを連れて、事前に調べておいた小洒落たイタリアンで夕飯を取った。
 正直なところ、僕はその後のことを考えてひどく緊張していて、味なんてろくに分からなかったのだけど、四季宮さんは美味しい美味しいと終始口にしていたから、それだけで良かったと思える。
 夕飯を終えて、クリスマス仕様のイルミネーションが施された駅前をのんびりと歩く。
 時刻は午後十時過ぎ。
 四季宮さんがホテルに戻るなら、そろそろ電車に乗らなくてはならない時間帯だ。
 ちかちかとカラフルに明滅するクリスマスツリーを眺めながら、僕は口の中が乾くのを感じた。唾液はたくさん出るけれど、口の中は一向に潤わない。そのくせ、唾液を飲み込む音だけは嫌に大きく耳に響く。
 隣で一緒にツリーを眺めていた四季宮さんが、ちょいちょいと僕のコートの袖を引っ張った。
 視線を下ろすと同時に、彼女は言う。
「それで、この後はどこに連れてってくれるの?」
「……っ」
「私まだ……遊び足りないよ?」
 四季宮さんは、僕の返事を待っていた。
 それは、この後帰らないという、彼女の意思表示でもあった。
 下調べは済んでいる。
 覚悟だって決めたはずだ。
 僕はこぶしを握り込み、意を決して、声を絞り出した。
「き……今日はどこかに、泊まっていきませんか?」

 高校生でも泊まれそうな宿を知らないか、と御影に聞いた時「ちょっと待ってろ」と即答した数分後、宿の情報を教えてくれた。
 いわゆる大人のホテルだが、店員を介さず、チェックも甘い穴場なのだとか。よほどのヘマをしなければ、連れ戻されたり、補導される心配はないだろうということだった。
 なんでそんなにすぐ見つけられたのかは謎だったが、曰く「こういうのは探せばいくらでも見つかる」とのこと。
 とにかく、御影に教えてもらったホテルに入り、適当に部屋のボタンを押して、僕と四季宮さんは無事に本日の寝床に到着した。
「わー! ひろーい! ベッド大きいー!」
 ぴょんとジャンプして、四季宮さんはベッドにうつぶせに倒れ込んだ。
 ロングスカートが腿の辺りまでめくれて、僕はあわてて目をそらした。
「真崎君もおいでよ! 思ってたよりふかふかだよ!」
「ぼ、僕はここでいいです……」
 彼女と同じ部屋で二人きりになったことは、もう何度かあるはずなのだけど、場所が場所だから変に緊張してしまう。
「いいじゃん、どうせ一緒に寝るんだからさー」
「い、一緒に⁉」
「え、もしかして真崎君、椅子で寝るつもり?」
「そういうわけじゃないですけど……」
 改めて言われると、気恥しい。
 四季宮さんは、ベッドの上でパタパタと足を動かしながら、上機嫌に言った。
「でもまさか、夜の宿のことまで考えてくれてるなんて。嬉しいなー」
 そして続けて、実はね、と言いながら、カバンから鍵を取り出した。
 高級そうなキーホルダーの付いた、ホテルのキーのような物だった。
「真崎君が考えてなかったら、別荘に一緒に付いて来てもらおうと思ってたんだ」
「べ、別荘?」
「うん。ここから電車で一時間くらいのところにある、マンションの一室なんだけどね。真崎君から連絡がきた後、こっそり家から鍵を取ってきてたんだ」
 室内の仄暗い照明を受けて、銀色の鍵がきらりと輝いた。
 なるほど、別荘なんてあったのか……。庶民代表のような僕には考え付きもしなかったような妙案に、思わず面食らう。
 そしてすぐ、それならそっちの方が四季宮さんにとっても居心地が良いのではないかということに気付いた僕は、慌てて口を開き、
「そ、そうだったんですね。だったら、ここよりも別荘の方が――」
「ううん、ここがいい」
 四季宮さんはそう即答して、バッグの中に鍵を戻した。
「真崎君が、私のためを思って頑張って調べてくれた、ここがいいよ」
「し、調べたのは御影で、僕じゃないんですけど……」
「もー、そういうことじゃないの。言ってること、分かるでしょ?」
 立ち上がり、椅子に座った僕の手を取った。
 ほっそりとした指は、十二月の冷気に中てられて、まだ冷たい。
「私を連れ出してくれて、本当にありがとう。私のために、一生懸命考えてくれて、行動してくれて……。言葉にできないくらい、嬉しいよ」
 なんと答えればいいか分からず、僕は沈黙した。
 四季宮さんも、何も言わなかった。
 しばし、視線が絡む。
 ライトブラウンの美しい瞳に、僕の姿を確認した瞬間。
 四季宮さんが僕をそっと抱きしめた。
 甘い香りと、柔らかな体に包まれて、僕の身体は金縛りにあったみたいに動かなくなってしまう。
 どうしたらいいのかさっぱり分からなくて、恐る恐る四季宮さんの背中に腕を回そうとして――やっぱり、諦めた。きっと傍から見れば、僕の動きはブリキ人形みたいにぎこちなかっただろう。
 やがて、四季宮さんは僕の耳元にそっと口を寄せて、囁いた。
「ねえ、真崎君」
 彼女の吐息が艶めかしく耳輪を撫でる。
「このままずっと、ずぅっと……一緒に、逃げちゃおっか」
 刹那。
 僕の脳裏で様々な思考が明滅した。
 それはとても、とても魅力的な提案だった。
 だけど同時に、魅力的だからこそ、現実的ではないと思ってしまった。
 現実はいつだって苦痛を伴う。
 優しいだけの現実なんてありはしない。
 楽しいだけの現実なんておとぎ話だ。
 ここにきても僕はまだ、この逃避行のゴールを、結末を、決めることができずにいた。
 だから僕は、四季宮さんの言葉への反応が、一瞬遅れて。
「僕は――」
「なーんて」
 そして僕よりも一瞬先に、四季宮さんの体が離れる。
 彼女の体温は、圧倒言う間に部屋の空気に溶け込んでいく。
「もちろん、冗談だよ」
 からっと。
 四季宮さんは笑った。

 右腕を動かすと、じゃらりと鎖の音がした。
 手首を締め付ける金属の輪は、最初こそひんやりとしていたが、今ではもう僕の体温と同じくらいになって、さながら最初からそこにあったみたいに錯覚する。
 一方の左手はと言えば、柔らかくしっとりとした手を握っていた。握られていた。
 てのひらが汗ばんできた気がして、手をはなして寝間着でふこうとすると、
「だめ、はなさないで」
 数十センチ先で僕を見つめる四季宮さんが、静かに言った。
 暗闇の向こう、明かり一つ付いていない部屋の中で、だけど四季宮さんの顔だけは、とてもくっきりと視認できた。四季宮さんが動くと、僕が被っている布団も動いた。シーツを通して伝わってくる彼女の挙動一つ一つが、僕を捉えて離さない。
 互いの片手を手錠で縛って、もう片方の手を握り合って、僕らは二人、布団の中で向き合っていた。
 事のきっかけは、そう。
 お互いにシャワーを浴びて、一息ついて、さあそろそろ寝ようか、という時に起こった。
『手錠、忘れちゃった』
 ホテルにしつらえられた、僕と同じ柄の寝間着に身を包み、四季宮さんは眉をハの字に下げてそう言った。
『一つもないんですか?』
『スペアで持ち歩いているのが一つだけあるんだけど……』
 机の上に置かれた、どこか他人行儀な手錠を眺めながら、思案する。
 四季宮さんが、寝るときに手錠が三つ必要なことは、修学旅行の一件で僕も既に知っていた。
 手錠一つだけでは、両手か、両足か、そのどちらかを縛ることしかできない。
『どうするんですか?』
『んー、どうしよっかなー』
 事の重大さとは裏腹に、四季宮さんは軽い口調で手錠を取り上げた。
 そのまま人差し指を輪っかに通して、手錠をくるくると回しながら、部屋の中を眺める。
 設えられたベッドには柱がなく、他にも括りつけられそうな場所はない。
 縛るとしたら、やはり優先順位が高いのは両手だろうか? しかし、自由に歩ける状態は、それはそれで危険な気もするし……。寝ないというのも一つの選択肢だけれど、もし寝てしまったら、というリスクが付きまとう。
『真崎君、左手出して』
『……? はい』
『えい』
 かちゃん。
 僕の左腕に手錠がはまった。
 流れるような動作で、そのまま四季宮さんはもう片側の手錠を自分の右腕にはめた。
『これでよし』
『……何してるんですか?』
『これなら私が自遊病を発症しても、真崎君が気づいて止めてくれるでしょ?』
 私の命は、君に預けた! と、彼女はまるで自分の荷物でも預けるみたいに気軽な口調で僕に自分の命を託し――今に至ると言うわけだ。
 確かにこれなら、彼女が動いたときに僕が起きることができるかもしれない。
 だけど、確実じゃない。もし僕が気づかずに寝続けたらどうするつもりなんだ……?
「大丈夫大丈夫、念のために、ほら。左手もちゃんと握ってるし。私、普段は寝相いい方だし? きっともぞもぞ動いたら気づくって」
「正直、めちゃくちゃ不安です……」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよー。不安なら、ついでにハグもしとく?」
「し、しません!」
 そんなことをしたら、一晩中寝るに寝られないじゃないか。
 いや、むしろその方が、四季宮さんの安全は確保されていいのか……?
「なんだ、残念」
 僕と違って、四季宮さんは大層リラックスしているように見えた。死が怖くない、というわけでは、もちろんないだろう。もしそうなら、手錠で自分を縛り付けなんてしないはずだ。
 だからきっとこれは、慣れ。
 毎日襲い掛かり、彼女に死を突き付ける、理不尽な病への慣れが、彼女をこうさせているのだろう。
「ぷにっとな」
「うっ」
 鼻を押されて、我に返る。
 四季宮さんの右手は、まるでそこが定位置であるかのように、するすると僕の左手の中に納まった。
「あはは、元に戻った」
「何がですか」
「こわーい顔してたから、鼻押してみたの。もう一回押したら、また表情が変わるのかな?」
「そんなわけないでしょう、ロボットじゃないんですから……」
「分かんないよー? そりゃそりゃ!」
「や、ちょ! やめ……」
 つんつんと鼻を押され続け、僕はたまらず顔をそらす。
 意外と変わるー、ここがスイッチなんだねー! と楽しそうに笑う四季宮さんを視界にとらえた瞬間。

 目の奥で線香花火が散った。

「……え」
 目の前に広がったセピア色の光景に、僕は思わず言葉を失い――
「……真崎君、どうしたの?」
 体を反転させて、彼女の背を向けた。
 つながった右腕はそのままに、左手をはなしてそっぽを向いた僕に、四季宮さんは問いかける。
「もしかして、なにか視たの?」
「……知りません」
「何、視たの?」
「知りません」
「ねえ、真崎君」
 するりと彼女の身体が忍び寄る。
 背中に顔が押し付けられる。
「ちゅー、しよっか」
「――っ」
 六十秒先の未来で、僕たちはキスをしていた。
 顔を離した後、彼女ははらはらと涙をこぼした。春先に散る、桜の花びらみたいな涙だった。
 口は小さく動いていて、何かを喋っているようだった。
 幻視の力では、会話の内容までは分からない。
 だけどキスをすることで彼女が泣いてしまうのであれば、僕は。
「しません」
「けち、減るもんじゃないのに」
 あの日、階段下で不覚にもキスをしてしまった時と同じ言葉を口にした。
 思えばあの時から、ずいぶんと状況が変わったものだと、しみじみ思う。
「減らなかったらなんだってオッケーってわけじゃないですよ」
「むう、正論だなあ」
 手錠の音がして、僕の右手を、四季宮さんの両手が包み込んだ。温かい。
「一つ、聞いてもいい?」
「……なんですか?」
「真崎君はさ、どういう理屈で幻視が起こってると思ってる?」
「相変わらず、唐突ですね」
「いいからいいから」
 僕は少ししてから、答える。
「考えたこともありませんでした。理屈なんて、あるんですかね?」
「ふふ、どうだろうね。でも、私には仮説があるよ」
「仮説ですか?」
「うん」
 四季宮さんは言う。
「私はね、真崎君の幻視は、優しさから生まれてきてると思ってるんだ」
 ずいぶんと、ふんわりとした表現だった。
「君の幻視は、不規則に起る。だけどもしかしたら、相手によって偏りがあるんじゃないかな?」
 彼女は続ける。
「一緒にいた時間が長い人ほど、その人のことを良く知っているほど、幻視が起こりやすいんじゃないかって、私は思うんだ」
 言われてみれば、たしかに僕の幻視は、人の行動を予測することばかりだ。
 突然雨が降りだす様子を視たことはない。
 鳥が羽ばたく未来を視たこともない。
「だからね。真崎君の幻視は、君がその人の先の行動を想像して、危険な目に合いそうだと思った時にだけ、現れるんじゃないかな」
 例えば。
 クラスメイト同士がじゃれ合っている時に、近くに花瓶が置いてあって。いつもその辺りに肘を置いているから、花瓶が窓から落ちる幻視を視た。
 落ち着きのないクラスメイトが、信号が赤になってもわたるクセを知っていたから、交通量が多い道路で轢かれる幻視を視た。
 階段のワックスが塗りたてなのを知っていて、四季宮さんが駆けてくる音が聞こえたから、彼女が滑り落ちる幻視を視た。
 確かにそれらの幻視は、誰かが危ない目に合いそうな未来を映したものばかりだった。
「観察眼と、想像力。そして何より……危険を察知したり、守りたいと願う、君の優しさ。それが、幻視の根源なんじゃないかな」
「……そんな大層なものじゃないですよ」
「どうだろう。でも、不思議な現象にも、きっと必ず理由がある。原因がある。私はそう思うんだ」
 彼女の説は、もっともらしく聞こえた。
 だけど僕の幻視は、とてもくだらない、本当にささやかな未来の光景だって視せることがある。四季宮さんの仮説は、完全には当てはまらない。
 結局これは、答えのない禅問答のようなもので、意味のないやり取りだったのだろう。
 そして、もし――
「だからさ、真崎君は優しいね」
 もし、この言葉を口にするための過程だったのだとすれば。
 ずいぶんと回りくどいやり方だったように思う。
「そんなことありませんよ」
「優しいよ」
 それから、どれくらい経ってからだろうか。
 背中越しに四季宮さんの静かな寝息が聞こえてきたので、僕はそっと寝返りを打って、彼女の左手を握った。銀色のブレスレットが、常夜灯の光を反射して鈍く光る。
 ふと、彼女の頬に濡れた痕があったので、そっとなぞってみる。
 正解は未だに見つからない。
 今の僕にできるのは、ただこうして結論を先延ばしにして、彼女と逃げるだけ。
「僕は、どうすればいいと思いますか……?」
 口の中で呟く。
 もちろん答えはなかった。僕の中にも、彼女の中にも。
 ぽすんと枕に頭を落とし、四季宮さんの寝顔を見る。
 こんなに間近で見つめるのは初めてだった。
 滑らかな肌、頬にかかる液体のような黒髪、長いまつげ、美しい鼻筋、薄桃色の艶やかな唇。
 そのどれもが、嘘みたいに綺麗で、整っていて、こうして同じ布団で寝ていることが、信じられなくなる。
 気付けばずいぶんと長い時間、僕は彼女の頬に触れていたようで、僕は今更になってあわてて手を引っ込めた。
 その時。
「――っ!」
 四季宮さんの左腕が跳ねるように動いた。
 右腕が意志を持っているかのうように動き、四季宮さんの首を締めあげようとした。
 僕はあわてて彼女の右手首を掴み、ベッドに押し付ける。
 それが終わったかと思えば、両足をばたつかせ始めたので、それも押さえつけるために僕は彼女の上に馬乗りになった。
 じゃらりと手錠の鎖が鳴って、左腕も動く気配がしたので、腕を使って押し付ける。
 何分かの攻防を経て、ようやく四季宮さんの身体は動かなくなった。
 心臓の音がうるさい。全力疾走をした後みたいに、息があがって喉を焼く。
 これが――自遊病か。
 話には聞いていたけれど、実際に目にするのは初めてだった。
 確かにこれだけ激しく動けば、手錠の痕がくっきりつくのも納得だ。もし家でうっかり居眠りなんてしてしまえば、体中に傷を作ることになるだろう。
 だけど四季宮さんの表情はとても穏やかで、まるで何事もなかったかのように静かに寝息を立てている。
「……?」
 いや……それは当然のことだ。
 自遊病は寝ている時にのみ発症する。
 眠っている彼女がさっきの死闘を知るはずもないのだから、平和そうな寝顔を浮かべていたって不思議ではない。
 そう分かっていても、頭のどこかに奇妙な感覚が残り続けた。
 どこかすっきりとしない、何か大切なことを見落としているような、違和感。
 本人だけがこの病気に慣れてしまい、死に向かう病をちっとも恐れていないように見えること。自遊病という厄介極まりない病と、上手に共生していること。周囲だけが病について騒ぎ立て、四季宮さん自身は一向に気にしていないように見えること。
 今更ながらに、そこにちぐはぐさを感じた。
「……考えすぎか」
 しかしいくら考えても、違和感の正体は思い至らなかった。
 どうやら初めて自遊病を目の当たりにしたことで、神経が変に高ぶっているようだ。
 僕は頭を振って、違和感を頭から追い出した。
 それからしばらくの間、四季宮さんの様子を眺めていたが、体が動き出すことはなかった。
 いったんは落ち着いたらしい。
 ほっとした僕は小さく息を吐き、彼女から体を離そうとして――気が付いた。
 さっきまでは彼女の身体を抑えるのに必死で、全く意識していなかったのだが。
 僕の右手が、四季宮さんの胸に当たっていた。
 それもなんていうか……かなり思いっきり掴んでいた。
「あっ……」
 もちろん、不可抗力だ。
 四季宮さんの左腕を抑えるためには、右手をどこかに添える必要があった。
 たまたまそこに四季宮さんの胸部があっただけで、決してやましい気持ちがあって触ったわけではない。
「……いや、誰に言い訳してるんだ、僕は」
 そっと手を外し、ベッドの上に仰向けになる。
 右手首の手錠の感触と、手のひらに残った柔らかな感触だけが、暗闇の中で妙に生々しく僕の意識を焼いた。
 
 翌朝、アラームの音がして目が覚めた。
 なんだか寝たような、寝ていないような……。微妙に肩に疲れが残る体をほぐしていると、四季宮さんも体を起こした。
 寝巻が乱れていて、胸元が大きく開いている。
 僕は昨日の夜のことを思い出して、あわてて目をそらし、「おはようございます」と声をかけながら手錠を外した。
 四季宮さんは寝ぼけ眼で、そんな僕の様子を眺めながら、一言ぼそりと呟いた。
「真崎君のえっち」