「そういえば、藻引岬って変な名前だよね。何か由来があるのかな」
「諸説あるらしいよ。この辺の海底には、藻がたくさん生えていて、それに引き寄せられるように崖から落ちていくから、とか。元々は藻引じゃなくて、喪引って漢字があてがわれてたけど、物騒すぎるから変えられたとか。後は、藻引(もびき)じゃなくて、間引(まびき)、だったんだけど、これまた物騒すぎるので改名された、とかもあったかな」
「よく知ってるね」
「誰かさんが寝てる間に、色々調べたからね」
「悪かったよ」
「別に怒ってないし」

 取り止めもない会話を交わしながら、岬のふもとに向かって歩く。バス停からは、徒歩十分くらいだとガイドブックに書いてあった。ぎらぎらと太陽が照らす中、アスファルトで舗装された道を進んだ。車は僕たちが乗ってきたバス以外、一台も通らなかった。

「諸説あるにしても、物騒な由来ばっかりだよね。やっぱり、自殺の名所だからかな」
「かもね。遡ると、平安時代あたりから身投げの名所だったらしいし。由緒ある自殺スポットって感じ」
「昔から、死にたがる人はいたんだ」
「そりゃそうでしょ。ほら、昔は身分差の恋とかもあったからさ。心中自殺とかも多かったっていうし」
「心中自殺、ねえ」
「……言っとくけど、そういうつもりで来たわけじゃないから」
「分かってるよ。僕たちにはディープブルーがあるんだし」
「そういう意味で言ったんじゃないけど……」
「どういうこと?」
「うっさい。こっち見んな、ばか」

 やがて僕たちは、ふもとの駐車場までたどり着いた。
 車は止まっていない。人の気配もなかった。
 岬への登り口の近くには、一本の看板が立っていた。自殺防止看板だった。
 比較的新しく設置されたらしく、真新しいプレートの上に、ゴシックフォントで文字が書かれている。「一人で思い悩まず、誰かに相談してみましょう。あらゆる悩み事は、抱え込んでも改善しません。当てがない方は、以下の番号に相談ください――」。

「こういうの、ほんとにあるんだ」

 古閑さんは看板を眺めながら言った。

「これ見て思いとどまる人なんて、いるのかな」
「さあ。自殺を決めた人間の、覚悟の強さによるんじゃない?」
「他人事みたいなセリフだね」
「他人事だしね」

 木陰で軽く昼食を取った後、僕たちは岬の先端へ向けて歩き始めた。
 湾曲し、複雑に隆起しているらしく、一周すると一時間ほどかかると地図に書いてあった。
 アブラゼミの鳴き声と、波が崖の壁面を削る音が、強烈な太陽光と共に周囲に散らばる。

「夏だ」
「そうだね」

 意気揚々とやって来た夏は、僕たちの誕生日が近づいていることを知らせていた。
 じきにやってくる。
 僕たちが、ディープブルーを本来のあるべき場所に返す時が。
 その時僕は――一体どうなるのだろうか。
 自分を殺す薬が自分の手元に返ってきた時。
 須々木さんとの口約束も果たされ、それを飲むことが許された時。
 僕はあの青い薬を、胃の中に落とすのだろうか。

「足場悪いねー」

 彼女の言う通り、お世辞にも歩きやすいとは言えない道だった。白く浮き出たごつごつとした岩が、てんで好き勝手に転がり、突き出し、僕たちの足を止める。
 器用にぴょんぴょんと岩の上を飛んで渡っていく、古閑さんの後ろ姿を眺めながら思う。
 古閑さんはどうするのだろう。
 誕生日が近づき、僕たちと須々木さんとの契約の期限が切れようとしている、今。
 彼女は何を考えているのだろう。

「あ、見えてきた!」

 古閑さんは嬉しそうに声をあげると、歩く速度を速めた。僕も慌てて彼女の後を追う。
 ほどなくして視界が開けた。
 同時にさっきまで周囲の低木に遮られていた潮風が、体を浮かばせるほどに強く吹き付けた。
 海、崖、灯台。
 その三単語で全てが説明できてしまうくらいに、シンプルで、豪快な景色。

「これくらい、世界が単純に出来てたらいいのにね」

 僕の心の声に反応するみたいに、ぴたりと、彼女がつぶやいた。
 強烈な風にあおられて、艶やかな黒髪が宙に踊る。

「それじゃすぐに、立ち行かなくなるよ」
「そんなことないって。アメーバとか、ほら、一個の細胞と、エサと、足場があったら永遠に増え続けるんだから」
「単細胞生物と比べられてもなあ……」
「それくらいでいいよ」
「退廃的な意見だね」

 これだけ雄大な景色を前に喋るには、あまりにも色気のない会話だった。
 だけど、僕たちらしいといえば、僕たちらしい。

「ねえ、もうちょっと先の方行ってみようよ」

 彼女に手を引かれ、展望台の先端まで足を運ぶ。
 さすがに手すりが付いていたが、せいぜい腰の高さまでしかなく、乗り越えようと思えば、簡単に向こう側へ行けそうだった。
 本当に死のうと思っている人間の障害には、なりそうにない。

「みんな、ここから落ちてるのかな」

 柵から身を乗り出して、古閑さんは下を覗きながら言った。
 僕はあたりを見渡して考える。確かにここも、悪くはないだろう。
 だけど――

「ちょっと人工的過ぎるんじゃない?」
「どういうこと?」
「わざわざこんなところまで足を運んだ人が、足元が舗装されて、柵まで立てられているような場所を選ぶかな?」
「あー、なんとなく分かるかも。ここってまだ、人間社会って感じだもんね」
「そうそう。もっとこう……世俗を忘れられるような開放感のある場所の方が――」

 周囲に目を走らせると、一か所、ささくれのようにせり出した場所が目に留まった。
 少し遠いが、柵も人の手も、入っていないように見える。

「あそことか、どう?」

 古閑さんは手を傘にして、目を細めて僕の指さす方角を見た。そして満足げに言う。

「良さそう」
「行ってみる?」
「うん」

 彼女は僕の提案に、一も二もなく頷いた。


 ※


 僕が見つけた場所は、かなりアクセスがしにくくて、これまでよりも更に足場の悪いところを進んでいく羽目になった。右手には太平洋が大きく手を広げて波打っている。風が捲き上げた細かい海水が顔にかかって、塩辛い。
 古閑さんはやっぱり、ごろついた足場もなんのそので進んでいく。
 一方の僕は、何度も小石に足を取られてつまずきがちだった。

「どんくさいなあ、もう」

 じゃりじゃりっと小石が靴底を走る音を聞いて、古閑さんが振り返った。
 僕はため息交じりに応える。

「人には向き不向きってやつが、あるみたいだね」
「しょうがないから、手、握っててあげる。ほら、つかまって」

 笑いながら、古閑さんのすらりとした右腕が差し出される。
 僕はありがたくそれを握ろうとした。
 その時だった。
 ずるり、と。
 足が滑った。
 これまでよろけたのとは、明らかに違う角度で、視界が傾く。
 内臓をその場に置いて、皮だけが重力に引きつけられるような浮遊感。 


 ――あ、死んだな。


 瞬間、周囲の景色がスローモーションのように、ゆっくりと動き始める。
 実際には思考の速度が異常に早くなっているのだろう。
 そんなことを冷静に考えられるくらいに、自分の状態を俯瞰していた。

 ――ああ、こんなものか。

 と、僕が言う。
 死ぬときは一瞬。
 随分とあっけないものだ。

 ――結局最後まで、僕は僕のままだったな。

 と、僕が言い。
 そりゃそうだと自嘲する。
 僕は欠陥品なのだ。
 生まれることすら望まれず、生まれてからも望まれず。
 何にも臨まず、何も望まなかった僕が、たった数か月で変われるはずもないだろう。
 ここ、藻引岬で僕は消える。
 霧のように、霞のように、すっと、そっと、音もなく。

 ――それでいい。

 夢に見た、湖面に溶けるように消えていった言葉の羅列のように。
 僕はこの世界に波紋も立てずに、いずれ存在していたことすら忘れられ、そうして最初からいなかったみたいに消えていくんだろう。
 さようなら、人生。
 さようなら、灰色の世界。
 とてもとっても、味気なかったよ。
 傾いた視界に一人の女性の姿が映った。
 古閑さんだった。
 驚いた顔。
 伸ばされた手。
 彩度の薄い世界に映える、黒髪。
 刹那。

『ぶっ壊してあげる』

 彼女の声が脳内に響く。
 水っぽい水彩画の中で、唯一、墨汁で浸した筆で一撫でされたような翠髪が、僕を包み込む。
 そんな光景を幻視した。

『こんな、風に――』

 水面が揺れる。
 世界がひっくり返る。


「あぶない!」
「……っ!」


 僕の手を古閑さんが掴む感触が、合図だったみたいに。
 僕の思考と時間の流れが、同化した。

「っぶなぁ……。あんた、もうちょっと気を付けて足場選びなさいよ」

 ……なんだ、今のは?
 胸の中に生まれた、ちりちりと爆ぜるような感覚。
 脳内で響いた声と、死の間際に垣間見た光景。
 その正体を掴もうとするのだけれど、水中で泡(あぶく)を掴むように、するりするりと手の中から抜け出してしまう。

「ねえ、聞いてんの?」

 つられるように、顔を上げる。

「あんたねえ、下手したら誕生日前に死ぬところだった――」

 そこで古閑さんは言葉を切った。
 彼女の眼が僕を捉え。
 僕も彼女を見ていた。
 その瞳の色には見覚えがあった。
 試すように、推し量るように、目の奥にある脳の中まで見透かして、まるで僕の考えを読み取ろうとしているような瞳。
 ナイフで刺されそうになった日。
 首を絞められた日。
 安どの色を浮かべた瞳が、今。
 僕の目の前で細やかに揺れている。

「……うそ」

 古閑さんが一歩、後ずさった。
 僕の手を握っていた右手を胸に抱え、ぎゅっと握りしめている。

「なんでよ……」
「え?」

 彼女が何を聞いているのか、僕には分からなかった。

「……なんで、なのよ」

 どうしてそんな悲しそうな顔をするのか分からなかった。

「……ざ、けるな」

 なにがそこまで彼女を追い詰めたのかが、理解できなかった。
 だから僕は。

「……ふざけるな」

 彼女に言葉を返せない。



「ふざけんなっ!」



 悲痛な叫びが、僕の体を貫いた。
 まるで目に見えない傷がうずいて、うずいて、仕方がないのだと、我慢できなくて泣き声をあげているようだった。
 彼女の言葉は連なるように、僕を射抜く。


「ふざけんな!」
「ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな!」
「なんでよ!」「どうしてよっ!」
「あんただけは同じだって……私と一緒なんだって……っ!」「そう、思ってたのに!」
「信じてたのに!」「嬉しかったのに……っ!」
「……なんで勝手に」 
「なんで勝手にあんただけ先に行くのよ!」
「なんで私を置いて、先に行っちゃうのよ!」
「なんで勝手に変わっちゃうのよっ!」
「なんで」「どうして……っ!」


 透明な涙が、頬を伝っていた。
 強い潮風が、それを攫う。

「ずるいよ……」

 気付けば彼女は、走り去っていた。
 僕が見つけた、ささくれみたいな崖の端へ、一目散に駆けて行く。
 僕は動けなかった。柄にもなく混乱していた。
 今の古閑さんの慟哭は、彼女の中の深いところにある、何か核心的なものが関係しているような気がした。かさぶたができていない、ケロイドですら覆われていないような生傷の部分に、僕が触れてしまったような気がした。
 僕が彼女を――追い詰めた気がした。

「古閑さん……」

 だから、考えなくてはならないと思った。
 彼女がなぜ叫んだのか。
 彼女がなぜ怒ったのか。
 彼女がなぜ泣いたのか。
 知らなくてはならない、考えなくてはならない。
 必死に思考を整理する。
 古閑さんのセリフを思い返す。

『あんたは同じだと思っていた』
『私と一緒だと信じていた』
『それなのに、どうしてあんただけが先に行くんだ』
『勝手に変わってしまうんだ』

 僕が変わったこと。
 それが、古閑さんの走り去った原因なのだろう。
 僕はさっき、崖から落ちそうになった時、何を思った?
 何を考えた? 何を思案して、何を諦念して、何に悲観して、何に意味を見出して……そして、いったい何を見た?

『ぶっ壊してあげる』

 また、古閑さんの声が脳内で響く。
 黒より黒い翠髪が、脳裏を泳ぐ。
 そして――気付く。

「ああ……そういうことか」

 気付き、理解し、そして笑う。
 なんだ。こんな簡単なことに、どうして僕は気が付かなかったんだろう?
 ひどく単純な話じゃないか。ちっとも難しくないじゃないか。
 僕が、見ようとしていなかっただけ。
 ただ、それだけだったんだ。
 顔をあげる。
 さっきまでとは違う風景を見ているようだった。
 古閑さんの走っている背中が、少しずつ小さくなっていく。
 まだ、間に合う。
 僕は。

 ――ねえ、古閑さん。

 駆けだした。
 小石が散る。
 むき出しになった煉瓦色の大地を踏みしめて。
 時にもつれそうになる足を叱咤しながら、古閑さんとの距離を詰めていく。
 途中、大きな岩に足を取られ、派手に転んだ。むき出しの腕と太ももを大きく擦りむいて、真っ赤な血がだらだらと流れ出した。知ったことじゃなかった。

 ――どうして変わったんだ、なんて、さっき君は僕に聞いたけど……。随分と他人事みたいに言うんだね。

 じんじんと疼く傷痕に気付かない振りをしながら、必死で足を回し続ける。
 体中の酸素が少なくなって、視界の明度が上がっていく。
 後方に流れていく新緑の低木が、嘘みたいに鮮やかだった。
 一歩、また一歩、足を踏み出すたびに、世界に波紋が生じていく。
 波紋が揺らした場所から、世界がじわりと色付いていく。
 顎をあげて、必死に呼吸をする。
 目の前に広がる空色を食うようにまばたきをして、古閑さんの背中を、しっかりと見据える。
 やがて崖際に立つ彼女に追いつくと、痛いほどに痙攣する肺を抑えて、必死に息を整えた。
 踵を返して、古閑さんがこちらに振り向いた。
 ぱっと。
 大きく扇状に広がった黒髪が、青空に映えて鮮やかだった。
 雲の合間から差し込む光の筋が、彼女の背後に斜めに走っている。まるでそこが彼女の行くべき道だとでも言うように。

 ――なんて顔、してるんだよ。

 僕をうらやむような瞳には、寂寥と悲愴と怒りの感情が混じり合っていた。
 そんな視線を投げかけながら、古閑さんは言う。

「やっぱり私、ダメだ……」

 耳朶を叩きつける海風よりも、彼女の声の方がよく聞こえた。

「ねえ、春海……。どうしてあんたは変わっちゃったの?」

 息を整える。
 奥歯を噛み締める。

 ――まったく。本当にひどい人だな、古閑さんは。

 そして浮かんだ苦笑いを飲み込んだ。
 言いたいこと、伝えたいことは山ほどあって。だけどどこから話していいのか、あますことなく彼女に伝えるにはどうしたらいいのか、考えるほどに分からなくなる。
 だけど、何か言わなくちゃいけない。彼女に伝えなくてはいけない。
 逡巡する一間。
 その時。
 風がやんだ。


「私も変わりたいよ、春海」


 独り言みたいにか細い声が聞こえた――次の瞬間。
 空気が唸るような音がして、恐ろしく強い風が僕たちの体を叩きつけた。
 柔らかい透明な布を押し付けられているように、体がよろめく。体勢が崩れる。
 古閑さんのかかとが、空を踏んだ。

「古閑さんっ……!」 

 僕は地面を蹴った。
 自分の動きも、古閑さんの動きも。
 まるでコマ送りをしているように、ゆっくりと感じられた。
 傾く古閑さんに向かって必死に手を伸ばす。
 どうして僕が変わったのか。
 それを今、十全に伝えることはひどく難しい。
 だけど、端的に、一言で、君に伝えるならば、きっとこの言葉が正解なんだと思うんだ。
 僕が変わったのは。
 僕が、変わってしまったのは。
 何もかも。
 全部。
 全部、全部。
 全部……全部、全部っ!


「全部、君のせいじゃないかっ!」


 だから、死なせない。死なせるもんか。
 必ず死ぬ前に伝えてみせる。
 どれだけ君が、ひどいやつなのかを。
 僕の手は、古閑さんを引き戻し。
 そして彼女と入れ替わるように、僕は崖から落ちた。