フィクションがリアルに変わる瞬間を体感したようだった。
いつだったか、翠髪(すいはつ)という言葉を知った時、僕はひどく妙な気分になった。
どうやら翠髪というのは、艶やかで美しい、黒髪のことを意味するのだそうだけど、それにしたって黒髪なのに翠というのはこれいかにと、訝しんだものだった。
結局その時は、言葉にできないほど美しい黒髪を夢想した誰かが、黒という言葉で表すのがあまりにも陳腐だと思い、翠という色に置き換えたのだろうと勝手に納得した。「緑」じゃなくて「翠」なんて漢字をあてているのが、その証拠だろう。
けれど――その黒髪が眼前でぱっと散った時。
僕は翠髪という言葉がこの世に実在していたのだと知った。
どんよりとした曇り空。
薄汚れた校舎の壁。
ひび割れたアスファルト。
駐輪所に投げやりに置かれた、すっかりくたびれてしまった自転車たち。
灰色の濃淡だけで説明しきれてしまいそうな、そんなグレースケールの光景の中で、彼女の黒髪だけが、はっきりとした実感を伴ってそこにあった。
どんな黒よりも濃密で、日の光も指していないのに艶やかで、半径五キロメートル以内の黒という黒を集めて凝縮したような、他とは一線を画する黒。
それはまさしく、翠髪と言って差し支えなかった。
「なんでこんなとこにいんの」
ぱちん。風船ガムが割れるように、けれどその黒髪は一瞬で魅力を失った。
グレースケールで塗られた有象無象の風景に飲まれて消える。
「探すの苦労したんだけど」
不機嫌そうに、その人は言った。
僕は視線をはがして声の主を見つめた。見たことがあるような……ないような。
「春海……君。いつもこんなとこでご飯食べてるの?」
僕の名前を知っている。少なくとも向こうは、僕を認識しているようだ。クラスメイトなのだろう。弱ったなと思いながら、とりあえず会話をつなげてみる。
「いい場所だろ」
駐輪所脇に、なぜか置かれた一台のベンチ。登校時間と下校時間以外ほとんど人の通らないこのスペースは、学校中探してようやく見つけた、一人になれるベストスポットだった。
しかし彼女はちらりと辺りを見渡して、
「私は好きじゃない」
ばっさりと切り捨てた。会話をする気がないのだろうか。
しかしまあ、気を遣っておべんちゃらを言われるよりは何倍もいい。
彼女はそのまま僕の隣に腰かけた。
組んだ腕に乗せた指が、とんとんと不規則なリズムを刻んでいる。
「何か用?」
「用がなかったらわざわざ探しに来ないでしょ」
ごもっとも。しかし折角投げた会話のボールを、バレーボールのブロックよろしく叩き落とすのはいかがなものかと思う。お陰で僕は、違う言葉を探さなくてはならなくなった。
「探させてごめん」
「別にあんたが謝るようなことじゃない」
それはそうなんだけど。
「えーっと……それで、何か用?」
「あんた、それしか言えないの? 同じこと聞かれるの嫌いなんだけど」
他にかける言葉が見当たらないんだよ。
どうにも噛み合わない。ラリーが一向に続かない卓球をやっているような気分だ。
僕の投げたボールは受け取ってもらえず、かといって彼女が隣からいなくなる気配もない。
もしかしたら、自分で話し出すタイミングを探しているのだろうか。
ならば少し待てばいいかと、僕はベンチの背もたれに体を預けて、空を眺めることにした。
灰色の雲は今にも僕たちを押しつぶしそうなくらい、低く漂っている。スマホで雨雲レーザーをチェックしようかと思ったけれど、それではまるで彼女の存在を丸ごと無視しているようなものなので、ぐっと思いとどまった。
やがて彼女は一言、ぽつりとつぶやいた。
雨粒かと思うくらいに、微かな声だった。
「須々木香織さん」
「ああ……」
僕は納得の声をあげた。
そういうことか。
須々木さんの名前を聞いただけで、全てを理解できた気がした。
彼女の名前を知っているということは、あの店に足を運んだということだ。
あの薬を――手にしているということだ。
「今、持ってる?」
「持ってるよ」
僕はポケットから遮光性のプラスチックケースを取り出した。
ケースの中で、からからと軽い音が鳴った。
「私も」
彼女が取り出したケースからは、同じ音がした。
「未成年は持ってちゃいけないらしいよ」
「あんたも未成年でしょ」
「まあね」
要するにこの人も、須々木さんに頼んでディープブルーを手に入れたらしかった。
僕と同じように。
十八歳未満はお断りとか言ってたのに……存外あの人もゆるいんだな。
「どうして僕が持ってるって知ってるの?」
「須々木さんが教えくれた」
「まじかよ……」
僕に不満を言う権利はないけれど、それにしたって口が軽すぎるだろう。
むやみやたらと口外するような内容ではないと思うのだけれど。
「それ、どう?」
主語はなかったが、もちろんディープブルーのことを言っているのだと察しはつく。
僕は端的に答えた。
「ポケットの中に入ってるものが一つ増えた」
「なにそれ」
稲穂がこすれ合うように、くすりと笑った。
ここにきて僕は初めて彼女の顔を認識した。
なかなか整った造形をしている。
大きく潤んだ目。バランスよく配置された気取らない鼻筋。
小顔で、顎はシャープに尖っている。
「ひとつ提案があるんだけど」
形の良い唇が、すっと開いた。
「交換しない?」
「なにを?」
「バカ、これに決まってるでしょ」
言いながら、からからと鳴るプラスチックケースを鳴らした。
「……正気?」
「冗談でこんな話、持ち掛けないでしょ」
どうやら真面目な提案らしい。となると、聞くべきはその理由か。
「なんで?」
「どうせあんたも、須々木さんに言われてるんでしょ? 『十八歳の誕生日を迎えるまでは飲まないように』って」
僕は頷いた。一言一句、その通りだ。
「でもさ、私、このままだと何かの拍子に飲んじゃいそうなんだよね」
「随分と軽く言うね」
「なによ。どうせあんただって同じでしょ?」
「まあ……」
彼女の言う通り、僕も何度かカプセル状の青い薬を取り出していた。
唇に当てたり、においをかいだり。何かの拍子に口に含んで、そのまま飲み込んでしまわないとも限らない。
「だからさ、交換したらそんな心配もしなくていいでしょ? あんたの薬を飲んでも、私は死なないし」
「それで、誕生日になったら返せばいいってこと?」
「うん。あんたと私、誕生日同じらしいし。ちょうどいいでしょ?」
何の因果か、僕も彼女も、同じ日に生まれたらしい。だとすれば、返すタイミングも一緒なので、極めてフェアな契約ではあるが……。
改めてクラスメイトの横顔を盗み見る。
今の話から推測するに、誰かに頼まなければうっかり何かの拍子に自死してしまいそうなほど、彼女は追い詰められているらしい。表情からは読み取れない。あまり顔には出ないタイプなのだろう。
そんな僕の考えを読み取ったかのように、彼女は唇を尖らせた。
「……互いの事情に踏み入らないこと、も条件にプラスする」
「それがいいね」
少なくとも僕たちは、心のうちに抱えた悩みがあって。
だからこそ、かもめ薬局店の扉を叩いたのだ。
十八歳未満お断りの文言を華麗に無視し、須々木さんに長年溜まった心の滓を詳らかに語ってみせた。そうして須々木さんは興味深そうに聞きながら、電子タバコをふかした後、「よかろう。ならば条件付きで、君に薬を回してあげよう」と話を持ち掛けてきたわけだ。
二人とも、この背景は同じだろう。
だとすれば、むやみやたらと踏み込むべきではない。踏み込まれたくない。
僕も、彼女も。
「人と関わることで人は初めて人となる」
「なに、それ?」
「エドマンド・ライラックの言葉だよ。イギリスの社会哲学者」
ふうん、と彼女は相槌を打った。特に興味はないようだ。分かりやすくていい。
「いいよ」
しばし考えたのち、僕は彼女にプラスチックケースを差し出した。気分的には、十二個入りのガムを一つ分けてあげたくらいの気軽さだった。
彼女は僕の手には触れず、そっとケースだけを持ち上げて、入れ替えるように、開いた手のひらに自分のケースを乗せた。少しだけ、温かかった。
「じゃあ、これは預かっておくから」
薬を交換したからと言って、長話をするような仲になったわけでもない。
早々に僕が立ち去ろうとすると、
「待って」
彼女は僕を引き留めた。
「このこと、誰にも言わないでね」
思わず苦笑した。
そもそも、ディープブルーなんて薬の存在自体が眉唾物なのだ。
自分だけにしか効かない自死薬。
世界一安全な自死薬。
そんなの誰かに話したところで、鼻で笑われるだけだろう。
「当たり前だろ」
僕が言うと、彼女はほっとしたように頷いた。
校庭に予鈴の音が散らばる。ちょうど良いタイミングで、昼休みが終わったようだ。
「じゃあ」と一つ声をかけて、僕はベンチを後にした。
三歩ほど進んだところで、また声をかけられる。
「ねえ」
背中越しに振り返ると、片手を腰に当て、やはりどこか不機嫌そうに彼女は言った。
「春海……君」
「呼び捨てでいいよ」
さっきから言いづらそうにしていたし。
「じゃあ……春海」
「なに?」
「私の名前、知ってる?」
「……えーっと」
ついに恐れていた質問が飛んできてしまったかと、内心ため息をついた。
うまいこと誤魔化しきれたと思ったんだけど……。
とはいえ、知らないものはしょうがない。正直に答える。
「名前を覚えるのは苦手なんだ」
「やっぱり」
彼女は僕にも分かるため息をついた。きっと不機嫌であることを伝えたいのだろう。
彼女は、不承不承、事務的に、致し方なく教えるのだという表情で、自分の名前を口にした。
「古閑翠(こが・みどり)。なんか癪だし、一応覚えておいてよね」
「古閑……」
「翠。なによ、そんなに覚えにくい名前じゃないでしょ」
「……うん。分かった、覚えておくよ」
そして僕は、今度こそその場を後にした。
言えなかった。
それは。
それはとても良い名前だと、僕にしては珍しく、そんなことを思ったなんて。
いつだったか、翠髪(すいはつ)という言葉を知った時、僕はひどく妙な気分になった。
どうやら翠髪というのは、艶やかで美しい、黒髪のことを意味するのだそうだけど、それにしたって黒髪なのに翠というのはこれいかにと、訝しんだものだった。
結局その時は、言葉にできないほど美しい黒髪を夢想した誰かが、黒という言葉で表すのがあまりにも陳腐だと思い、翠という色に置き換えたのだろうと勝手に納得した。「緑」じゃなくて「翠」なんて漢字をあてているのが、その証拠だろう。
けれど――その黒髪が眼前でぱっと散った時。
僕は翠髪という言葉がこの世に実在していたのだと知った。
どんよりとした曇り空。
薄汚れた校舎の壁。
ひび割れたアスファルト。
駐輪所に投げやりに置かれた、すっかりくたびれてしまった自転車たち。
灰色の濃淡だけで説明しきれてしまいそうな、そんなグレースケールの光景の中で、彼女の黒髪だけが、はっきりとした実感を伴ってそこにあった。
どんな黒よりも濃密で、日の光も指していないのに艶やかで、半径五キロメートル以内の黒という黒を集めて凝縮したような、他とは一線を画する黒。
それはまさしく、翠髪と言って差し支えなかった。
「なんでこんなとこにいんの」
ぱちん。風船ガムが割れるように、けれどその黒髪は一瞬で魅力を失った。
グレースケールで塗られた有象無象の風景に飲まれて消える。
「探すの苦労したんだけど」
不機嫌そうに、その人は言った。
僕は視線をはがして声の主を見つめた。見たことがあるような……ないような。
「春海……君。いつもこんなとこでご飯食べてるの?」
僕の名前を知っている。少なくとも向こうは、僕を認識しているようだ。クラスメイトなのだろう。弱ったなと思いながら、とりあえず会話をつなげてみる。
「いい場所だろ」
駐輪所脇に、なぜか置かれた一台のベンチ。登校時間と下校時間以外ほとんど人の通らないこのスペースは、学校中探してようやく見つけた、一人になれるベストスポットだった。
しかし彼女はちらりと辺りを見渡して、
「私は好きじゃない」
ばっさりと切り捨てた。会話をする気がないのだろうか。
しかしまあ、気を遣っておべんちゃらを言われるよりは何倍もいい。
彼女はそのまま僕の隣に腰かけた。
組んだ腕に乗せた指が、とんとんと不規則なリズムを刻んでいる。
「何か用?」
「用がなかったらわざわざ探しに来ないでしょ」
ごもっとも。しかし折角投げた会話のボールを、バレーボールのブロックよろしく叩き落とすのはいかがなものかと思う。お陰で僕は、違う言葉を探さなくてはならなくなった。
「探させてごめん」
「別にあんたが謝るようなことじゃない」
それはそうなんだけど。
「えーっと……それで、何か用?」
「あんた、それしか言えないの? 同じこと聞かれるの嫌いなんだけど」
他にかける言葉が見当たらないんだよ。
どうにも噛み合わない。ラリーが一向に続かない卓球をやっているような気分だ。
僕の投げたボールは受け取ってもらえず、かといって彼女が隣からいなくなる気配もない。
もしかしたら、自分で話し出すタイミングを探しているのだろうか。
ならば少し待てばいいかと、僕はベンチの背もたれに体を預けて、空を眺めることにした。
灰色の雲は今にも僕たちを押しつぶしそうなくらい、低く漂っている。スマホで雨雲レーザーをチェックしようかと思ったけれど、それではまるで彼女の存在を丸ごと無視しているようなものなので、ぐっと思いとどまった。
やがて彼女は一言、ぽつりとつぶやいた。
雨粒かと思うくらいに、微かな声だった。
「須々木香織さん」
「ああ……」
僕は納得の声をあげた。
そういうことか。
須々木さんの名前を聞いただけで、全てを理解できた気がした。
彼女の名前を知っているということは、あの店に足を運んだということだ。
あの薬を――手にしているということだ。
「今、持ってる?」
「持ってるよ」
僕はポケットから遮光性のプラスチックケースを取り出した。
ケースの中で、からからと軽い音が鳴った。
「私も」
彼女が取り出したケースからは、同じ音がした。
「未成年は持ってちゃいけないらしいよ」
「あんたも未成年でしょ」
「まあね」
要するにこの人も、須々木さんに頼んでディープブルーを手に入れたらしかった。
僕と同じように。
十八歳未満はお断りとか言ってたのに……存外あの人もゆるいんだな。
「どうして僕が持ってるって知ってるの?」
「須々木さんが教えくれた」
「まじかよ……」
僕に不満を言う権利はないけれど、それにしたって口が軽すぎるだろう。
むやみやたらと口外するような内容ではないと思うのだけれど。
「それ、どう?」
主語はなかったが、もちろんディープブルーのことを言っているのだと察しはつく。
僕は端的に答えた。
「ポケットの中に入ってるものが一つ増えた」
「なにそれ」
稲穂がこすれ合うように、くすりと笑った。
ここにきて僕は初めて彼女の顔を認識した。
なかなか整った造形をしている。
大きく潤んだ目。バランスよく配置された気取らない鼻筋。
小顔で、顎はシャープに尖っている。
「ひとつ提案があるんだけど」
形の良い唇が、すっと開いた。
「交換しない?」
「なにを?」
「バカ、これに決まってるでしょ」
言いながら、からからと鳴るプラスチックケースを鳴らした。
「……正気?」
「冗談でこんな話、持ち掛けないでしょ」
どうやら真面目な提案らしい。となると、聞くべきはその理由か。
「なんで?」
「どうせあんたも、須々木さんに言われてるんでしょ? 『十八歳の誕生日を迎えるまでは飲まないように』って」
僕は頷いた。一言一句、その通りだ。
「でもさ、私、このままだと何かの拍子に飲んじゃいそうなんだよね」
「随分と軽く言うね」
「なによ。どうせあんただって同じでしょ?」
「まあ……」
彼女の言う通り、僕も何度かカプセル状の青い薬を取り出していた。
唇に当てたり、においをかいだり。何かの拍子に口に含んで、そのまま飲み込んでしまわないとも限らない。
「だからさ、交換したらそんな心配もしなくていいでしょ? あんたの薬を飲んでも、私は死なないし」
「それで、誕生日になったら返せばいいってこと?」
「うん。あんたと私、誕生日同じらしいし。ちょうどいいでしょ?」
何の因果か、僕も彼女も、同じ日に生まれたらしい。だとすれば、返すタイミングも一緒なので、極めてフェアな契約ではあるが……。
改めてクラスメイトの横顔を盗み見る。
今の話から推測するに、誰かに頼まなければうっかり何かの拍子に自死してしまいそうなほど、彼女は追い詰められているらしい。表情からは読み取れない。あまり顔には出ないタイプなのだろう。
そんな僕の考えを読み取ったかのように、彼女は唇を尖らせた。
「……互いの事情に踏み入らないこと、も条件にプラスする」
「それがいいね」
少なくとも僕たちは、心のうちに抱えた悩みがあって。
だからこそ、かもめ薬局店の扉を叩いたのだ。
十八歳未満お断りの文言を華麗に無視し、須々木さんに長年溜まった心の滓を詳らかに語ってみせた。そうして須々木さんは興味深そうに聞きながら、電子タバコをふかした後、「よかろう。ならば条件付きで、君に薬を回してあげよう」と話を持ち掛けてきたわけだ。
二人とも、この背景は同じだろう。
だとすれば、むやみやたらと踏み込むべきではない。踏み込まれたくない。
僕も、彼女も。
「人と関わることで人は初めて人となる」
「なに、それ?」
「エドマンド・ライラックの言葉だよ。イギリスの社会哲学者」
ふうん、と彼女は相槌を打った。特に興味はないようだ。分かりやすくていい。
「いいよ」
しばし考えたのち、僕は彼女にプラスチックケースを差し出した。気分的には、十二個入りのガムを一つ分けてあげたくらいの気軽さだった。
彼女は僕の手には触れず、そっとケースだけを持ち上げて、入れ替えるように、開いた手のひらに自分のケースを乗せた。少しだけ、温かかった。
「じゃあ、これは預かっておくから」
薬を交換したからと言って、長話をするような仲になったわけでもない。
早々に僕が立ち去ろうとすると、
「待って」
彼女は僕を引き留めた。
「このこと、誰にも言わないでね」
思わず苦笑した。
そもそも、ディープブルーなんて薬の存在自体が眉唾物なのだ。
自分だけにしか効かない自死薬。
世界一安全な自死薬。
そんなの誰かに話したところで、鼻で笑われるだけだろう。
「当たり前だろ」
僕が言うと、彼女はほっとしたように頷いた。
校庭に予鈴の音が散らばる。ちょうど良いタイミングで、昼休みが終わったようだ。
「じゃあ」と一つ声をかけて、僕はベンチを後にした。
三歩ほど進んだところで、また声をかけられる。
「ねえ」
背中越しに振り返ると、片手を腰に当て、やはりどこか不機嫌そうに彼女は言った。
「春海……君」
「呼び捨てでいいよ」
さっきから言いづらそうにしていたし。
「じゃあ……春海」
「なに?」
「私の名前、知ってる?」
「……えーっと」
ついに恐れていた質問が飛んできてしまったかと、内心ため息をついた。
うまいこと誤魔化しきれたと思ったんだけど……。
とはいえ、知らないものはしょうがない。正直に答える。
「名前を覚えるのは苦手なんだ」
「やっぱり」
彼女は僕にも分かるため息をついた。きっと不機嫌であることを伝えたいのだろう。
彼女は、不承不承、事務的に、致し方なく教えるのだという表情で、自分の名前を口にした。
「古閑翠(こが・みどり)。なんか癪だし、一応覚えておいてよね」
「古閑……」
「翠。なによ、そんなに覚えにくい名前じゃないでしょ」
「……うん。分かった、覚えておくよ」
そして僕は、今度こそその場を後にした。
言えなかった。
それは。
それはとても良い名前だと、僕にしては珍しく、そんなことを思ったなんて。