目を開けると、暗闇があった。
視界は全くと言っていいほど機能していなくて、代わりに触覚と嗅覚が敏感に周囲の世界を認識する。
嗅ぎ慣れない、だけどいつか嗅いだことのある甘い香り。
脇と首元に冷たい物が当たっている。手を動かして掴んでみると、氷の入ったビニール袋が、しっとりと手のひらを濡らした。
次第に意識が明瞭になり始めて、僕はポケットからスマホを取り出し、画面を確認した。痛いほどに明るい照明が、目を焼いた。
二十三時三十分。
がばり、と起き上がる。
はずみで、額に置いてあったらしい氷嚢が濁点を伴って落ちていった。
「ん……起きたの?」
足元から声がする。
次第に暗闇に慣れてきた目が、ぼんやりと人の姿を捉えた。
「古閑、さん……?」
「寝ぼけてんの? それとも記憶飛んでんの?」
「ごめん、ちょっと混乱してる」
今日は……そうだ、白雪さんと古賀さんの仲裁をするために彼氏役をやって、そのあと何故かカラオケに行って……そしたら帰り道、突然具合が悪くなって、そして――
「……あ」
「倒れたあんたを介抱するために、私の家に連れて来たってわけ」
感謝してよね、という言葉と共に、何かが足の上に放り投げられる。
イオン飲料水だった。
「寝る前にも飲ませたけど、もうちょっと飲んどいた方がいいよ? 結構吐いてたし。熱とかはないけど、なんか顔熱かったし。熱中症? 知恵熱? 分かんないけど、もうちょっとゆっくりしときなよ」
「ありがとう……」
素直にお礼を言って、ペットボトルを傾けた。生ぬるくて、薄いスポーツドリンクみたいな液体が、だけど体中にしみわたるようだった。自覚がないだけで、体は水分を欲していたらしい。古賀さんの介抱のお陰か、気分はそんなに悪くなかった。
「まったく、調子悪いなら言いなさいよ。カラオケなんて、行かなくても良かったのに」
「ごめん。でも――」
「でも、なによ」
「……ちょっと色々、考え事してて」
「……ばーか」
ベッドのスプリングが、ぎしりと音を立てた。
「何考えてたかしらないけど、それで倒れてたら、世話ないでしょ」
「ごめん」
「うん。そのごめんは、受け取っておく」
毛布越しに、古閑さんの体温を感じた。真っ暗な部屋の中で、その感触だけはとても現実味があって、落ち着いた。
スマホが一つ震えて、メッセージの着信を知らせた。
白雪さんからだった。
続いて、北風君からもメッセージが入る。
内容はどちらも似たような感じで、僕の体をいたわってくれていた。
「誰から?」
「白雪さんと北風君から。僕が倒れたこと、二人に連絡したの?」
「うん。二人とも心配してたから、大丈夫だよって送っといた」
「そっか」
少し申し訳ない気持ちになりながら親指でスクロールをして。
北風君のメッセージを最後まで読んだ僕は、スマホを布団の上にぶん投げた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
なにが「家に上がったからって、変なことしちゃダメだぞ!」だ。
彼は何かと一言多いと思う。
内容を知らない古閑さんは、眉をひそめて僕が投げたスマホを手に取った。
「ちゃんとお礼言わなきゃダメだよ」
「……うん、分かってる」
スマホを受け取りながら、頷いた。
「意外といい人だね、白雪さん」
「でしょ。意外と、は余計」
「だって、古賀さんと喧嘩してる時はあんまり印象良くなかったから」
「誰にだって、欠点の一つや二つあるでしょ」
「大事な友達なんだね」
「うん。だから、仲直りできてよかった」
「それでも、死ぬんだね」
「……っ」
「一緒の大学行きたいって、言ってたよ」
カラオケでの、ちょっとした会話だ。
白雪さんは大学に進学し、海外留学にチャレンジしたいのだと言っていた。
一方の古閑さんは進学を選ばない。家庭の事情もあるし、高校を出たら働くつもりなのだと、そう言っていた。
僕と同じだった。
「バカ言わないで」
古閑さんはもぞもぞと後退して、僕の太ももに密着した。
どうやら足を上げて、三角座りをしているらしい。
「先のことなんて、考えられると思う?」
「……そうだね」
進学するか、就職するか。
普通の高校生が、高校三年生で悩む選択肢を、僕たちは持っていない。
生きるか、死ぬか。
ただそれだけを考えて、それ以上のことを考える余裕はなくて。
対外的に勉強や受験をしない言い訳を、就職という進路に預けている。
八月に誕生日を迎える僕らは、それと同時にきっと死を迎える。
だから、八月より先の未来は見えない。
灰色の靄がかかっていて、見通しも立たず、ただ漫然と流れる時の流れの上を、一歩一歩進むしかない。何の答えも、得られぬままに。
「不安は自分の力量を図る試金石だ。弱き者は押しつぶされ、強き者は不安すらも自信への糧にする、か」
「……誰の言葉?」
「マーク・エマルソン。アメリカの思想家だよ」
少し、間があった。
今日は僕のためにエアコンをつけてくれたようで、冷たい空気を吐き出す低い唸り声が、部屋の中に静かに響いていた。
「あんたのそれさ……やめた方がいいよ。クセになるから」
僕は無意識に、唇を撫でていた。
存在しない哲学者の、ありもしない架空の名言を、虚構を。
息をするみたいに吐き出すことを、咎めるみたいに。
しばらくして、彼女は言った。
「ごめん……立ち入り過ぎた」
「いや、いいよ」
僕はかぶりを振る。古閑さんの言っていることは正しい。
飾らない言葉で、率直に、物怖じすることなく言い切ってくれるのは、好ましかった。
……。
……好ましかった?
「……ああ、そうか」
僕はそこで気付く。
なんだ、そういうことか。僕は、そんな簡単なことに悩んでいたのか。
そのことに気付かず、あげく体調まで崩して迷惑をかけるなんて……ほんと、馬鹿みたいだ。
「どうしたの?」
「いや、さ……」
どう話出したものかと少し言いよどんでから、僕は言う。
「今日、ファミレスにいたときからずっとモヤモヤしてたんだけど、その理由がようやくわかった」
「なにがモヤモヤしてたの」
「君の好きなところを、言えなかったこと」
「は?」
彼氏役を演じていた時、白雪さんに問われた。古賀さんのどこを好きなのか、と。
僕はそれに答えられなかった。なにも、言えなかった。
「でも君は言ってくれた。僕の好きなところをすぐに」
「あ、あんなの、デタラメだよ。私は――」
「デタラメでもいいんだ。だけど」
だけど――なんなのだろう。
僕はどうして、こんなにも意固地になっているのだろう。
少し考えて、気付く。
「……僕だけ何も言えてないのは、フェアじゃないだろ」
「フェア?」
「そう、フェアじゃないんだよ」
ようやく答えが見つかったので、僕は続ける。
珍しく、舌がよく回った。
「僕だけが何かを一方的にもらうなんて、あっちゃダメだと思うんだ。不公平だと思うんだ。だけど……今ようやく分かったんだ。君の好きなところ」
「ふうん……。で、なんだったの?」
「僕は」
一拍置いて、言う。
「古閑さんの口が悪いところが、いいと思う」
「……」
「……」
「……なによそれ」
ぷふっ、と吹き出す音が聞こえて、そのまま流れるように、彼女はけらけらと笑った。
「なによ、それ。ぜんっっっぜん、褒められてる気がしないんですけど」
「そう? 結構頑張って考えたんだけど」
「はあ? 絞り出して出したのがそれとか、バカにしてんの? もっとなんかあるでしょ、考え直しなさいよ」
「ええ……もうないよ」
「ふ、ざ、け、ん、な!」
彼女の細くて白い腕ががばっと伸びて、僕を掴み、そのままベッドに押し倒した。僕は彼女の攻撃から逃れようともがいたけれど、腹の上に乗られ、肩を押さえつけられて、全くと言っていいほど身動きが取れなくなってしまった。
「ほら、観念しなさい。なんかもっといいこと言うまで、離さないから」
「褒めたつもりなんだけどなあ……」
「あんた、ほんといい性格してるよね……」
その時、古閑さんの髪が、一束、耳から垂れた。シルクが落ちるように、滑らかに。
僕はその様を目で追いながら、言う。
「ああ、そういえば……」
「なによ。なに言うつもり。変なことだったら、今度こそただじゃ――」
「髪が綺麗だと思う」
古閑さんの動きが、ぴたりと止まった。
「……え?」
「髪が綺麗だ、すごく」
暗闇に目が慣れてきたとはいえ、部屋の中は電気一つ付いていない。外はもうとっぷりと日が暮れて、青白い街灯の光が、ベランダのすりガラスに刻まれて、バラバラと部屋の中に散らばっている程度だ。だから、古閑さんの表情も、よく見えない。
何かまた、まずいことを言ってしまったのだろうかと訝しんでいると。
「ねえ、春海」
「なに?」
「……ごめん。もう一回だけ……確認させて」
「どういう――」
そして次の瞬間。
古閑さんの手が、僕の首にかかった。
ほっそりとした両指が、僕の首をじわじわと締め上げる。
頚部が圧迫される。
段々と呼吸が苦しくなり、気道が押さえつけられているのだと気付いた。
古閑さんの顔が近づいてきて、ようやく彼女の表情を視認できた。
無表情だった。
強いて言うならば、目だけは感情がこもっているように感じた。何かを推し量るような、まるで僕を試すような、そんな瞳の色をしていた。
あの日、古閑さんが僕に向かってナイフを振るった時のことを思い出した。
きっとこれも同じなのだろう。
肺に入る空気が、いよいよ少なくなってきた。
酸素を求めて、肺が膨らもうと奮闘するのだけれど、胸部に置かれた彼女の肘が、それを許さない。
苦しいな……確かに、苦しい。
だけど――
「……こが、さん」
とんとんと、彼女の腕を叩く。
とたんに指の力がゆるまって、気道が解放される。
押しとどめられていた酸素が一気に肺に入り込み、僕は軽くせき込んだ。そのせいで流れた涙をぬぐいながら、呼吸を整えて言う。
「これじゃ死ねないよ」
「……うん」
彼女も分かっていたのだろう。
人の首を絞めて殺すには、相当の握力が必要だ。
柔道の締め技のように、首の血流を止める場合はその限りではないけれど、だとすればさっきの彼女の手の位置は間違っている。
結論から言えば、あれではいくらやっても、僕は死ねない。
「やるならもっと、ちゃんとやってくれないと」
「……あんた、やっぱ変だよね」
「ええ……古閑さんに言われるのか……」
古閑さんの指が、僕の首元を撫でた。それはまるで、いたわるような手つきだった。
「痛かった?」
「痛みは、あんまり」
「苦しかった?」
「そこそこ」
「ふうん」
興味があるのかないのか、分かりにくい声音だった。
「髪、褒められるの嫌だった?」
「そんなことない」
「だって急に首絞めるから。怒ったのかと思った」
「嬉しかったよ」
囁くように、彼女は言った。
エアコンの風の音にすら負けてしまいそうなほど。
「ならどうして――」
「聞かないで」
「……分かった」
互いに深入りはしないという約束だ。僕は胸の内にわいた疑問を飲み込むことにした。
しばらくすると、段々と僕の首を撫でていた指の動きがせわしなくなり、くすぐるように肌の上を這い始めた。頭を振って逃れようとしたけれど、彼女の両手が後頭部に回り込み、僕の頭部を固定した。
「ねえ」
古閑さんの顔が近づいてくる。
僕の髪の毛の合間を縫うように、長くて細い指先が、頭皮を柔らかく包みこむ。
「もうこんな時間だけど」
ぱさりと、古閑さんの髪が流れ落ちて、簾のように左側を覆った。弱々しくも唯一の光源だった街灯の光すら遮られ、視界の明度が格段に落ちる。
その中で。
彼女の髪は、美しく闇から浮き上がっていた。
暗闇の中ですら視認できるほどの、艶やかな黒。
翠髪。
彼女に初めて出会った時と同じ様に――それ以上に。
僕の目を捉えて離さない。
「今日はこの後――どうするの?」
そっと、左手を伸ばした。
しっとりと、絡みつくように、指の間を艶めかしく撫でる。
かと思えば、次の瞬間には逃げるように離れていく。
つかず離れず、僕の指が髪を弄んでいるのではなく、髪が僕の指で遊んでいるみたいだった。
「ねえ、聞いてる?」
古閑さんの吐息が僕の頬をくすぐった。
エアコンが空気の流れを変えたのだろうか。左手に絡む黒髪が、わずかに風になびいた。
甘い香りと、ほんの少しの塩素の香りが漂って、鼻腔をくすぐる。
上げていた左手がしびれて、傾いた。
古閑さんの頬に触れる。
彼女はそのまま、頬ずりをするように小さく顔を動かした。
もしも。
もしもこのまま僕がここに残ったら、どうなるのだろうか。
何かが変わるのだろうか。
それとも、何も変わらず、そのままの日常が流れるのだろうか。
あの日、僕と古閑さんがディープブルーを交換した後も、当たり前のように毎日が過ぎ去っているように。
僕のささやかな願いが、叶えられないままでいるように。
だとしたら、僕は――
「古閑さん」
左手を、ベッドの上に下ろす。
重力に負けて巡り切らなかった血液が、思い出したように循環を始める。
「今日は、帰るよ」
じんじんと熱を帯びている左手を握りしめてそう言うと、彼女は、
「ふうん」
小さくつぶやいて、そして僕の体に身を寄せた。
額が触れるくらい近づいて、そしてそのまま通り過ぎる。
彼女の吐息が耳朶をくすぐる。
相変わらず頭は固定されていて、動かせない。
唇が開く、リップ音すら聞こえるほどの近い距離。
その位置で、彼女はそっと、暗闇に溶けるほどの小さな声で、いたずらっぽく囁いた。
「つまんないやつ」
視界は全くと言っていいほど機能していなくて、代わりに触覚と嗅覚が敏感に周囲の世界を認識する。
嗅ぎ慣れない、だけどいつか嗅いだことのある甘い香り。
脇と首元に冷たい物が当たっている。手を動かして掴んでみると、氷の入ったビニール袋が、しっとりと手のひらを濡らした。
次第に意識が明瞭になり始めて、僕はポケットからスマホを取り出し、画面を確認した。痛いほどに明るい照明が、目を焼いた。
二十三時三十分。
がばり、と起き上がる。
はずみで、額に置いてあったらしい氷嚢が濁点を伴って落ちていった。
「ん……起きたの?」
足元から声がする。
次第に暗闇に慣れてきた目が、ぼんやりと人の姿を捉えた。
「古閑、さん……?」
「寝ぼけてんの? それとも記憶飛んでんの?」
「ごめん、ちょっと混乱してる」
今日は……そうだ、白雪さんと古賀さんの仲裁をするために彼氏役をやって、そのあと何故かカラオケに行って……そしたら帰り道、突然具合が悪くなって、そして――
「……あ」
「倒れたあんたを介抱するために、私の家に連れて来たってわけ」
感謝してよね、という言葉と共に、何かが足の上に放り投げられる。
イオン飲料水だった。
「寝る前にも飲ませたけど、もうちょっと飲んどいた方がいいよ? 結構吐いてたし。熱とかはないけど、なんか顔熱かったし。熱中症? 知恵熱? 分かんないけど、もうちょっとゆっくりしときなよ」
「ありがとう……」
素直にお礼を言って、ペットボトルを傾けた。生ぬるくて、薄いスポーツドリンクみたいな液体が、だけど体中にしみわたるようだった。自覚がないだけで、体は水分を欲していたらしい。古賀さんの介抱のお陰か、気分はそんなに悪くなかった。
「まったく、調子悪いなら言いなさいよ。カラオケなんて、行かなくても良かったのに」
「ごめん。でも――」
「でも、なによ」
「……ちょっと色々、考え事してて」
「……ばーか」
ベッドのスプリングが、ぎしりと音を立てた。
「何考えてたかしらないけど、それで倒れてたら、世話ないでしょ」
「ごめん」
「うん。そのごめんは、受け取っておく」
毛布越しに、古閑さんの体温を感じた。真っ暗な部屋の中で、その感触だけはとても現実味があって、落ち着いた。
スマホが一つ震えて、メッセージの着信を知らせた。
白雪さんからだった。
続いて、北風君からもメッセージが入る。
内容はどちらも似たような感じで、僕の体をいたわってくれていた。
「誰から?」
「白雪さんと北風君から。僕が倒れたこと、二人に連絡したの?」
「うん。二人とも心配してたから、大丈夫だよって送っといた」
「そっか」
少し申し訳ない気持ちになりながら親指でスクロールをして。
北風君のメッセージを最後まで読んだ僕は、スマホを布団の上にぶん投げた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
なにが「家に上がったからって、変なことしちゃダメだぞ!」だ。
彼は何かと一言多いと思う。
内容を知らない古閑さんは、眉をひそめて僕が投げたスマホを手に取った。
「ちゃんとお礼言わなきゃダメだよ」
「……うん、分かってる」
スマホを受け取りながら、頷いた。
「意外といい人だね、白雪さん」
「でしょ。意外と、は余計」
「だって、古賀さんと喧嘩してる時はあんまり印象良くなかったから」
「誰にだって、欠点の一つや二つあるでしょ」
「大事な友達なんだね」
「うん。だから、仲直りできてよかった」
「それでも、死ぬんだね」
「……っ」
「一緒の大学行きたいって、言ってたよ」
カラオケでの、ちょっとした会話だ。
白雪さんは大学に進学し、海外留学にチャレンジしたいのだと言っていた。
一方の古閑さんは進学を選ばない。家庭の事情もあるし、高校を出たら働くつもりなのだと、そう言っていた。
僕と同じだった。
「バカ言わないで」
古閑さんはもぞもぞと後退して、僕の太ももに密着した。
どうやら足を上げて、三角座りをしているらしい。
「先のことなんて、考えられると思う?」
「……そうだね」
進学するか、就職するか。
普通の高校生が、高校三年生で悩む選択肢を、僕たちは持っていない。
生きるか、死ぬか。
ただそれだけを考えて、それ以上のことを考える余裕はなくて。
対外的に勉強や受験をしない言い訳を、就職という進路に預けている。
八月に誕生日を迎える僕らは、それと同時にきっと死を迎える。
だから、八月より先の未来は見えない。
灰色の靄がかかっていて、見通しも立たず、ただ漫然と流れる時の流れの上を、一歩一歩進むしかない。何の答えも、得られぬままに。
「不安は自分の力量を図る試金石だ。弱き者は押しつぶされ、強き者は不安すらも自信への糧にする、か」
「……誰の言葉?」
「マーク・エマルソン。アメリカの思想家だよ」
少し、間があった。
今日は僕のためにエアコンをつけてくれたようで、冷たい空気を吐き出す低い唸り声が、部屋の中に静かに響いていた。
「あんたのそれさ……やめた方がいいよ。クセになるから」
僕は無意識に、唇を撫でていた。
存在しない哲学者の、ありもしない架空の名言を、虚構を。
息をするみたいに吐き出すことを、咎めるみたいに。
しばらくして、彼女は言った。
「ごめん……立ち入り過ぎた」
「いや、いいよ」
僕はかぶりを振る。古閑さんの言っていることは正しい。
飾らない言葉で、率直に、物怖じすることなく言い切ってくれるのは、好ましかった。
……。
……好ましかった?
「……ああ、そうか」
僕はそこで気付く。
なんだ、そういうことか。僕は、そんな簡単なことに悩んでいたのか。
そのことに気付かず、あげく体調まで崩して迷惑をかけるなんて……ほんと、馬鹿みたいだ。
「どうしたの?」
「いや、さ……」
どう話出したものかと少し言いよどんでから、僕は言う。
「今日、ファミレスにいたときからずっとモヤモヤしてたんだけど、その理由がようやくわかった」
「なにがモヤモヤしてたの」
「君の好きなところを、言えなかったこと」
「は?」
彼氏役を演じていた時、白雪さんに問われた。古賀さんのどこを好きなのか、と。
僕はそれに答えられなかった。なにも、言えなかった。
「でも君は言ってくれた。僕の好きなところをすぐに」
「あ、あんなの、デタラメだよ。私は――」
「デタラメでもいいんだ。だけど」
だけど――なんなのだろう。
僕はどうして、こんなにも意固地になっているのだろう。
少し考えて、気付く。
「……僕だけ何も言えてないのは、フェアじゃないだろ」
「フェア?」
「そう、フェアじゃないんだよ」
ようやく答えが見つかったので、僕は続ける。
珍しく、舌がよく回った。
「僕だけが何かを一方的にもらうなんて、あっちゃダメだと思うんだ。不公平だと思うんだ。だけど……今ようやく分かったんだ。君の好きなところ」
「ふうん……。で、なんだったの?」
「僕は」
一拍置いて、言う。
「古閑さんの口が悪いところが、いいと思う」
「……」
「……」
「……なによそれ」
ぷふっ、と吹き出す音が聞こえて、そのまま流れるように、彼女はけらけらと笑った。
「なによ、それ。ぜんっっっぜん、褒められてる気がしないんですけど」
「そう? 結構頑張って考えたんだけど」
「はあ? 絞り出して出したのがそれとか、バカにしてんの? もっとなんかあるでしょ、考え直しなさいよ」
「ええ……もうないよ」
「ふ、ざ、け、ん、な!」
彼女の細くて白い腕ががばっと伸びて、僕を掴み、そのままベッドに押し倒した。僕は彼女の攻撃から逃れようともがいたけれど、腹の上に乗られ、肩を押さえつけられて、全くと言っていいほど身動きが取れなくなってしまった。
「ほら、観念しなさい。なんかもっといいこと言うまで、離さないから」
「褒めたつもりなんだけどなあ……」
「あんた、ほんといい性格してるよね……」
その時、古閑さんの髪が、一束、耳から垂れた。シルクが落ちるように、滑らかに。
僕はその様を目で追いながら、言う。
「ああ、そういえば……」
「なによ。なに言うつもり。変なことだったら、今度こそただじゃ――」
「髪が綺麗だと思う」
古閑さんの動きが、ぴたりと止まった。
「……え?」
「髪が綺麗だ、すごく」
暗闇に目が慣れてきたとはいえ、部屋の中は電気一つ付いていない。外はもうとっぷりと日が暮れて、青白い街灯の光が、ベランダのすりガラスに刻まれて、バラバラと部屋の中に散らばっている程度だ。だから、古閑さんの表情も、よく見えない。
何かまた、まずいことを言ってしまったのだろうかと訝しんでいると。
「ねえ、春海」
「なに?」
「……ごめん。もう一回だけ……確認させて」
「どういう――」
そして次の瞬間。
古閑さんの手が、僕の首にかかった。
ほっそりとした両指が、僕の首をじわじわと締め上げる。
頚部が圧迫される。
段々と呼吸が苦しくなり、気道が押さえつけられているのだと気付いた。
古閑さんの顔が近づいてきて、ようやく彼女の表情を視認できた。
無表情だった。
強いて言うならば、目だけは感情がこもっているように感じた。何かを推し量るような、まるで僕を試すような、そんな瞳の色をしていた。
あの日、古閑さんが僕に向かってナイフを振るった時のことを思い出した。
きっとこれも同じなのだろう。
肺に入る空気が、いよいよ少なくなってきた。
酸素を求めて、肺が膨らもうと奮闘するのだけれど、胸部に置かれた彼女の肘が、それを許さない。
苦しいな……確かに、苦しい。
だけど――
「……こが、さん」
とんとんと、彼女の腕を叩く。
とたんに指の力がゆるまって、気道が解放される。
押しとどめられていた酸素が一気に肺に入り込み、僕は軽くせき込んだ。そのせいで流れた涙をぬぐいながら、呼吸を整えて言う。
「これじゃ死ねないよ」
「……うん」
彼女も分かっていたのだろう。
人の首を絞めて殺すには、相当の握力が必要だ。
柔道の締め技のように、首の血流を止める場合はその限りではないけれど、だとすればさっきの彼女の手の位置は間違っている。
結論から言えば、あれではいくらやっても、僕は死ねない。
「やるならもっと、ちゃんとやってくれないと」
「……あんた、やっぱ変だよね」
「ええ……古閑さんに言われるのか……」
古閑さんの指が、僕の首元を撫でた。それはまるで、いたわるような手つきだった。
「痛かった?」
「痛みは、あんまり」
「苦しかった?」
「そこそこ」
「ふうん」
興味があるのかないのか、分かりにくい声音だった。
「髪、褒められるの嫌だった?」
「そんなことない」
「だって急に首絞めるから。怒ったのかと思った」
「嬉しかったよ」
囁くように、彼女は言った。
エアコンの風の音にすら負けてしまいそうなほど。
「ならどうして――」
「聞かないで」
「……分かった」
互いに深入りはしないという約束だ。僕は胸の内にわいた疑問を飲み込むことにした。
しばらくすると、段々と僕の首を撫でていた指の動きがせわしなくなり、くすぐるように肌の上を這い始めた。頭を振って逃れようとしたけれど、彼女の両手が後頭部に回り込み、僕の頭部を固定した。
「ねえ」
古閑さんの顔が近づいてくる。
僕の髪の毛の合間を縫うように、長くて細い指先が、頭皮を柔らかく包みこむ。
「もうこんな時間だけど」
ぱさりと、古閑さんの髪が流れ落ちて、簾のように左側を覆った。弱々しくも唯一の光源だった街灯の光すら遮られ、視界の明度が格段に落ちる。
その中で。
彼女の髪は、美しく闇から浮き上がっていた。
暗闇の中ですら視認できるほどの、艶やかな黒。
翠髪。
彼女に初めて出会った時と同じ様に――それ以上に。
僕の目を捉えて離さない。
「今日はこの後――どうするの?」
そっと、左手を伸ばした。
しっとりと、絡みつくように、指の間を艶めかしく撫でる。
かと思えば、次の瞬間には逃げるように離れていく。
つかず離れず、僕の指が髪を弄んでいるのではなく、髪が僕の指で遊んでいるみたいだった。
「ねえ、聞いてる?」
古閑さんの吐息が僕の頬をくすぐった。
エアコンが空気の流れを変えたのだろうか。左手に絡む黒髪が、わずかに風になびいた。
甘い香りと、ほんの少しの塩素の香りが漂って、鼻腔をくすぐる。
上げていた左手がしびれて、傾いた。
古閑さんの頬に触れる。
彼女はそのまま、頬ずりをするように小さく顔を動かした。
もしも。
もしもこのまま僕がここに残ったら、どうなるのだろうか。
何かが変わるのだろうか。
それとも、何も変わらず、そのままの日常が流れるのだろうか。
あの日、僕と古閑さんがディープブルーを交換した後も、当たり前のように毎日が過ぎ去っているように。
僕のささやかな願いが、叶えられないままでいるように。
だとしたら、僕は――
「古閑さん」
左手を、ベッドの上に下ろす。
重力に負けて巡り切らなかった血液が、思い出したように循環を始める。
「今日は、帰るよ」
じんじんと熱を帯びている左手を握りしめてそう言うと、彼女は、
「ふうん」
小さくつぶやいて、そして僕の体に身を寄せた。
額が触れるくらい近づいて、そしてそのまま通り過ぎる。
彼女の吐息が耳朶をくすぐる。
相変わらず頭は固定されていて、動かせない。
唇が開く、リップ音すら聞こえるほどの近い距離。
その位置で、彼女はそっと、暗闇に溶けるほどの小さな声で、いたずらっぽく囁いた。
「つまんないやつ」