昨日、映画を観た。
 主人公とヒロインの選択が世界の在り方を変えてしまうような、そんな壮大な物語だ。
 よく考えられた物語に、迫力のある演出。エンドロール手前、主人公がヒロインか世界かの二択を迫られる展開を、きっと多くの観客が固唾を飲んで見守っていたことだろう。
 やがて物語が終わり、鮮やかな画面がのっぺりとした黒に姿を変えた時、僕はふと考えた。

 僕たちにとっての世界とは何だろうか?
 
 半径6371キロメートルを誇り、豊かな自然と多様な生物を内包した、青い惑星のことだろうか。暮らし、栄え、不思議なほどに循環を続けている社会のことだろうか。それとも、自分自身が身を置いている、この国全体のことを指すのだろうか。
 違う。
 きっと、そんな大そうなものではない。
 僕たちは、自分の両手の届く範囲を世界と呼んで、見たもの、聞いたもの、触れたものだけを世界と呼んで、きっとそれが精一杯で、きっとそれで十分なんだ。
 両手を広げて170センチ。その範囲に入った物だけが、僕の世界。それより外側にあるものなんて、誰かから聞きかじっただけのおとぎ話、空想上のフィクションでしかないのだから。

「さあ、これが君の求めていたものだ。このまま持って帰るかい? 郵送することもできるが」
「持って帰ります」

 今日、僕の世界に一粒の薬が加わった。
 人差し指の第一関節分くらいの大きさの、病的なくらいに真っ青なカプセル。
「ディープブルー」という名前がついているのも納得な見た目をしているけれど、もう少し気の利いた呼称はなかったのだろうかと、少し疑問に思ったりもする。
 だけど、分かりやすい方がいいのかもしれない。
 この薬の効能のように、一度耳にするだけで確実に理解できて、一度耳にすれば絶対に忘れられない、そんな呼び名こそが相応しい。

「それを飲めば、君は死ぬ。痛みも苦しみも伴わず、どんな処置も間に合わない。嚥下し、胃に落ちた瞬間に、君の鼓動はぴたりと止まる。そして何より、君以外の誰が飲んでも効果はない。正真正銘、君だけのために作られた、君専用の自死薬だよ、春海流(はるみ・りゅう)君」

 別段、何かを求めて歩いていたわけではなかった。
 学校の帰り道、ふと家に帰りたくなくなって、電車を何本か乗り継いで、埃っぽいグレースケールの街へと繰り出した。そういう気分になる日が、たまにある。
 せわしなく、あるいは暇そうに行きかう人の流れを、他人事のようにぼんやりと眺めていた時に目に入った小さな薬局。その壁に貼られた、黄土色の紙。

 ――自死薬、あり〼

 続く「十八歳未満お断り」の文字には目もくれず、僕はここ「かもめ薬局店」の戸をくぐったのだった。

「もう一度約束してくれ。君にそれを渡したのは特例中の特例だ。十八歳の誕生日を迎えるまでは、決して口にしてはいけないよ」

 念を押すように、カウンターの向こうに座った彼女は言った。長い髪を一つに結わえた、さばさばとした女性だった。

「どうして十八歳未満はダメなんですか」
「そこが人生の折り目だからさ。美しい折り鶴を作るためには、正しい折り目を、正しい手順で折る必要がある。それと同じなんだよ」
「……よく分かりません」
「要するに、未成年には処方していないということさ」

 最初からそう言ってくれればいいのに――とは声には出さず、僕は「なるほど」と適当に相槌を打った。

「なのによく許可してくれましたね。正直、断られると思ってました」
「なあに。そこはそれ、私の度量の深さがなせるわざだよ。悩み悩める青少年たっての願いだ。叶えてあげないわけにはいくまいよ。私は空気が読める女だからね」

 電子タバコの煙にのせて、彼女は言った。
 水っぽいミントの香りが宙に漂う。

「ありがとうございました。えっと……」
「須々木香織(すすき・かおり)だ。これから数か月の付き合いになるんだ。憶えて帰っても損はないぞ」

 そう言って須々木と名乗った彼女は、ぴんと胸元についた名札を弾いた。
 未成年の僕にディープブルーを渡す条件として、僕は須々木さんに毎月末、経過報告をすることになっている。先走って薬を飲んでしまっていないかを確認するためなのだろう。

「ありがとうございました、須々木……先生」
「須々木さんで構わないよ。堅苦しすぎるのは嫌いだ」
「じゃあ、須々木さん」
「よろしい。気を付けて帰りたまえ」

 満足そうにうなずいた須々木さんに軽く会釈をして、僕はかもめ薬局店を後にした。
 外に出て、ふと振り返る。
 ――自死薬、あり〼
 劣化したクリアファイルに入れられたA4サイズのコピー用紙は、隙間から入り込んだ雨風に晒されてパリパリに波打っている。
 だから誰も気づかないのだろうか。それとも、誰も信じていないのだろうか。
 どうしてこの薬の存在が公になっていないのか……僕にはあずかり知らぬことだった。
 遮光性の黒いプラスチックケースから、ディープブルーを取り出してみる。
 うるさいくらいに辺りを照らす夕日を受けてなお、驚くほどに青色だった。

「……世界を変えたいと願う時、既に世界は変わっているのだ。ヨハン・アーベイン『人間と世界』より抜粋」

 十八の歳を迎える日まで、三か月と二日。
 僕はこの日、自分を殺す薬を手に入れた。
 両手を広げて170センチ。
 小さな小さな世界の中に、染まらない青が落ちてきた。
 それでも世界は――同じ色をしていたけれど。
 フィクションがリアルに変わる瞬間を体感したようだった。
 いつだったか、翠髪(すいはつ)という言葉を知った時、僕はひどく妙な気分になった。
 どうやら翠髪というのは、艶やかで美しい、黒髪のことを意味するのだそうだけど、それにしたって黒髪なのに翠というのはこれいかにと、訝しんだものだった。
 結局その時は、言葉にできないほど美しい黒髪を夢想した誰かが、黒という言葉で表すのがあまりにも陳腐だと思い、翠という色に置き換えたのだろうと勝手に納得した。「緑」じゃなくて「翠」なんて漢字をあてているのが、その証拠だろう。
 けれど――その黒髪が眼前でぱっと散った時。
 僕は翠髪という言葉がこの世に実在していたのだと知った。
 どんよりとした曇り空。
 薄汚れた校舎の壁。
 ひび割れたアスファルト。
 駐輪所に投げやりに置かれた、すっかりくたびれてしまった自転車たち。
 灰色の濃淡だけで説明しきれてしまいそうな、そんなグレースケールの光景の中で、彼女の黒髪だけが、はっきりとした実感を伴ってそこにあった。
 どんな黒よりも濃密で、日の光も指していないのに艶やかで、半径五キロメートル以内の黒という黒を集めて凝縮したような、他とは一線を画する黒。
 それはまさしく、翠髪と言って差し支えなかった。

「なんでこんなとこにいんの」

 ぱちん。風船ガムが割れるように、けれどその黒髪は一瞬で魅力を失った。
 グレースケールで塗られた有象無象の風景に飲まれて消える。

「探すの苦労したんだけど」

 不機嫌そうに、その人は言った。
 僕は視線をはがして声の主を見つめた。見たことがあるような……ないような。

「春海……君。いつもこんなとこでご飯食べてるの?」

 僕の名前を知っている。少なくとも向こうは、僕を認識しているようだ。クラスメイトなのだろう。弱ったなと思いながら、とりあえず会話をつなげてみる。

「いい場所だろ」

 駐輪所脇に、なぜか置かれた一台のベンチ。登校時間と下校時間以外ほとんど人の通らないこのスペースは、学校中探してようやく見つけた、一人になれるベストスポットだった。
 しかし彼女はちらりと辺りを見渡して、

「私は好きじゃない」

 ばっさりと切り捨てた。会話をする気がないのだろうか。
 しかしまあ、気を遣っておべんちゃらを言われるよりは何倍もいい。
 彼女はそのまま僕の隣に腰かけた。
 組んだ腕に乗せた指が、とんとんと不規則なリズムを刻んでいる。

「何か用?」
「用がなかったらわざわざ探しに来ないでしょ」

 ごもっとも。しかし折角投げた会話のボールを、バレーボールのブロックよろしく叩き落とすのはいかがなものかと思う。お陰で僕は、違う言葉を探さなくてはならなくなった。

「探させてごめん」
「別にあんたが謝るようなことじゃない」

 それはそうなんだけど。

「えーっと……それで、何か用?」
「あんた、それしか言えないの? 同じこと聞かれるの嫌いなんだけど」

 他にかける言葉が見当たらないんだよ。
 どうにも噛み合わない。ラリーが一向に続かない卓球をやっているような気分だ。
 僕の投げたボールは受け取ってもらえず、かといって彼女が隣からいなくなる気配もない。
 もしかしたら、自分で話し出すタイミングを探しているのだろうか。
 ならば少し待てばいいかと、僕はベンチの背もたれに体を預けて、空を眺めることにした。
 灰色の雲は今にも僕たちを押しつぶしそうなくらい、低く漂っている。スマホで雨雲レーザーをチェックしようかと思ったけれど、それではまるで彼女の存在を丸ごと無視しているようなものなので、ぐっと思いとどまった。
 やがて彼女は一言、ぽつりとつぶやいた。
 雨粒かと思うくらいに、微かな声だった。

「須々木香織さん」
「ああ……」

 僕は納得の声をあげた。
 そういうことか。
 須々木さんの名前を聞いただけで、全てを理解できた気がした。
 彼女の名前を知っているということは、あの店に足を運んだということだ。
 あの薬を――手にしているということだ。

「今、持ってる?」
「持ってるよ」

 僕はポケットから遮光性のプラスチックケースを取り出した。
 ケースの中で、からからと軽い音が鳴った。

「私も」

 彼女が取り出したケースからは、同じ音がした。

「未成年は持ってちゃいけないらしいよ」
「あんたも未成年でしょ」
「まあね」

 要するにこの人も、須々木さんに頼んでディープブルーを手に入れたらしかった。
 僕と同じように。
 十八歳未満はお断りとか言ってたのに……存外あの人もゆるいんだな。

「どうして僕が持ってるって知ってるの?」
「須々木さんが教えくれた」
「まじかよ……」

 僕に不満を言う権利はないけれど、それにしたって口が軽すぎるだろう。
 むやみやたらと口外するような内容ではないと思うのだけれど。

「それ、どう?」

 主語はなかったが、もちろんディープブルーのことを言っているのだと察しはつく。
 僕は端的に答えた。

「ポケットの中に入ってるものが一つ増えた」
「なにそれ」

 稲穂がこすれ合うように、くすりと笑った。
 ここにきて僕は初めて彼女の顔を認識した。
 なかなか整った造形をしている。
 大きく潤んだ目。バランスよく配置された気取らない鼻筋。
 小顔で、顎はシャープに尖っている。

「ひとつ提案があるんだけど」

 形の良い唇が、すっと開いた。

「交換しない?」
「なにを?」
「バカ、これに決まってるでしょ」

 言いながら、からからと鳴るプラスチックケースを鳴らした。

「……正気?」
「冗談でこんな話、持ち掛けないでしょ」

 どうやら真面目な提案らしい。となると、聞くべきはその理由か。

「なんで?」
「どうせあんたも、須々木さんに言われてるんでしょ? 『十八歳の誕生日を迎えるまでは飲まないように』って」

 僕は頷いた。一言一句、その通りだ。

「でもさ、私、このままだと何かの拍子に飲んじゃいそうなんだよね」
「随分と軽く言うね」
「なによ。どうせあんただって同じでしょ?」
「まあ……」

 彼女の言う通り、僕も何度かカプセル状の青い薬を取り出していた。
 唇に当てたり、においをかいだり。何かの拍子に口に含んで、そのまま飲み込んでしまわないとも限らない。

「だからさ、交換したらそんな心配もしなくていいでしょ? あんたの薬を飲んでも、私は死なないし」
「それで、誕生日になったら返せばいいってこと?」
「うん。あんたと私、誕生日同じらしいし。ちょうどいいでしょ?」

 何の因果か、僕も彼女も、同じ日に生まれたらしい。だとすれば、返すタイミングも一緒なので、極めてフェアな契約ではあるが……。
 改めてクラスメイトの横顔を盗み見る。
 今の話から推測するに、誰かに頼まなければうっかり何かの拍子に自死してしまいそうなほど、彼女は追い詰められているらしい。表情からは読み取れない。あまり顔には出ないタイプなのだろう。
 そんな僕の考えを読み取ったかのように、彼女は唇を尖らせた。

「……互いの事情に踏み入らないこと、も条件にプラスする」
「それがいいね」

 少なくとも僕たちは、心のうちに抱えた悩みがあって。
 だからこそ、かもめ薬局店の扉を叩いたのだ。
 十八歳未満お断りの文言を華麗に無視し、須々木さんに長年溜まった心の滓を詳らかに語ってみせた。そうして須々木さんは興味深そうに聞きながら、電子タバコをふかした後、「よかろう。ならば条件付きで、君に薬を回してあげよう」と話を持ち掛けてきたわけだ。
 二人とも、この背景は同じだろう。
 だとすれば、むやみやたらと踏み込むべきではない。踏み込まれたくない。
 僕も、彼女も。

「人と関わることで人は初めて人となる」
「なに、それ?」
「エドマンド・ライラックの言葉だよ。イギリスの社会哲学者」

 ふうん、と彼女は相槌を打った。特に興味はないようだ。分かりやすくていい。

「いいよ」

 しばし考えたのち、僕は彼女にプラスチックケースを差し出した。気分的には、十二個入りのガムを一つ分けてあげたくらいの気軽さだった。
 彼女は僕の手には触れず、そっとケースだけを持ち上げて、入れ替えるように、開いた手のひらに自分のケースを乗せた。少しだけ、温かかった。

「じゃあ、これは預かっておくから」

 薬を交換したからと言って、長話をするような仲になったわけでもない。
 早々に僕が立ち去ろうとすると、

「待って」

 彼女は僕を引き留めた。

「このこと、誰にも言わないでね」

 思わず苦笑した。
 そもそも、ディープブルーなんて薬の存在自体が眉唾物なのだ。
 自分だけにしか効かない自死薬。
 世界一安全な自死薬。
 そんなの誰かに話したところで、鼻で笑われるだけだろう。

「当たり前だろ」

 僕が言うと、彼女はほっとしたように頷いた。
 校庭に予鈴の音が散らばる。ちょうど良いタイミングで、昼休みが終わったようだ。
「じゃあ」と一つ声をかけて、僕はベンチを後にした。
 三歩ほど進んだところで、また声をかけられる。

「ねえ」

 背中越しに振り返ると、片手を腰に当て、やはりどこか不機嫌そうに彼女は言った。

「春海……君」
「呼び捨てでいいよ」

 さっきから言いづらそうにしていたし。

「じゃあ……春海」
「なに?」
「私の名前、知ってる?」
「……えーっと」

 ついに恐れていた質問が飛んできてしまったかと、内心ため息をついた。
 うまいこと誤魔化しきれたと思ったんだけど……。
 とはいえ、知らないものはしょうがない。正直に答える。

「名前を覚えるのは苦手なんだ」
「やっぱり」

 彼女は僕にも分かるため息をついた。きっと不機嫌であることを伝えたいのだろう。
 彼女は、不承不承、事務的に、致し方なく教えるのだという表情で、自分の名前を口にした。

「古閑翠(こが・みどり)。なんか癪だし、一応覚えておいてよね」
「古閑……」
「翠。なによ、そんなに覚えにくい名前じゃないでしょ」
「……うん。分かった、覚えておくよ」

 そして僕は、今度こそその場を後にした。
 言えなかった。
 それは。
 それはとても良い名前だと、僕にしては珍しく、そんなことを思ったなんて。

 ※

 家に帰ると、テーブルの上に千円札が三枚置かれていた。
 端っこにくっついていた付箋をゴミ箱に捨て、ぺらぺらの財布に突っ込んだ。
 冷蔵庫の中から昨日作った野菜炒めを取り出そうとすると、隣に母親が自分用に作ったシチューが置かれていた。彼女が自分で料理をするのは珍しい。何かいいことでもあったのかもしれない。
 野菜炒めを電子レンジにかけている間に、着替えを済ませる。
 廊下の奥の部屋から明かりが漏れている。スーツ姿のまま寝ているのか、あるいは酒缶をあおっているのか。どちらでもいいかと、僕は少し温まり過ぎた野菜炒めを取り出した。
 春海家は、随分前から家族としての体を成していない。
 父親は長期の出張か何かで家にいないし、母親も不規則な生活でほとんど家を空けている。
 二人が何の仕事をしているかはよく知らない。別段興味もなかった。
 たまに思い出したように机の上に置かれている数枚の千円札だけが、母親が僕のことを忘れていないという唯一の証拠のように思えた。
 最後に会話を交わしたのは、いつのことだったか。
「高校卒業したらどうするの?」そんなことを聞かれた気がする。
「家を出て働くつもりだよ」と返すと、無感情に「そう」と一言残し、自分の部屋に戻っていったっけ。
 僕がこの家を離れた後、二人はどうするのだろうかと考えて、何も変わらないかと自嘲する。
 僕という存在は、春海家にとって重しになっているわけでも、ましてや鎹(かすがい)になっているわけでもない。
 いようがいまいが、変わらない。
 今二人が離婚していないのは、単純に手続きが面倒くさいだけだろう。もしかしたら別れることで、何か僕には知らないデメリットが生じるのかもしれない。僕はそう解釈している。
 味気ない野菜炒めをほおばりながら、ふと小学生の頃のことを思い出した。

「自分の名前の由来について調べてきてください」

 そんな宿題が出されたことがあった。
 その頃には既に、自分が望まれずこの世に生まれたということを知っていた僕は、わざわざ母親に聞くようなことはせず、何かしら自分でそれっぽい理由を考えようと思った。
 試しに「流」という漢字の意味について調べてみた。流れる以上の意味はなかった。
 次に熟語を調べてみた。本流、支流、激流、濁流、流水、流血、流動……どれもピンと来ず、いい話が作れないなと思っていると、一つの熟語に目が止まった。
 流産。
 妊娠したにもかかわらず、何らかの原因で妊娠が継続できなくなった状態のこと。
 これだな、と僕は直観した。両親は僕に生まれて欲しくなかったのだ。この世に形を成す前に、自然に消滅して欲しかったのだ。

「残念だったね」
「気にすることないよ」

 そんな白々しい言葉をかけ合いながら、二人で祝賀会でも開きたかったのかもしれない。
 だけど僕は誰にも望まれないままに生まれてきてしまったから、彼らはせめてもの想いを僕の名前に込めたのだろう。
 どこかに流れて行って欲しい、と。
 結局僕は「川のせせらぎのように、自由であって欲しいという願いを込めて付けられました」なんて適当な意味をでっち上げた。当時の担任の先生は「いい名前ですね」と笑って褒めてくれた。この世には良い意味が込められた名前しかないのだと、信じて疑わない笑顔だった。
 食べ終わった食器を洗い流し、ついでに母親が使った後の調理器具を洗いながら、僕は今日出会った彼女の名前について考えた。

 古閑翠。

 あの後、教室に戻って名簿を見て、みどりという名前が、緑でもなく、碧でもなく、翠であることを確認した。出会った一瞬、あの刹那、彼女の髪が魅せた艶やかな色合いとマッチした、良い漢字だと思った。
 どうやら翠という文字は、本来は鳥、中でもカワセミを指す漢字だったらしい。混じりけのないきれいな羽根を持つ鳥、が由来なのだとか。
 僕は目をつぶって、カワセミの姿を思い描く。
 霧深い湖のほとりで、長いくちばしを左右に振りながら枝にとまっている。
 どこからか吹いてきた風を合図に、翠色の羽根を広げて空に飛び立っていく。
 瞬間、差し込んだ一筋の光が湖に反射して、カワセミの羽根をきらめかせた。
 美しい。それに自由だ。僕が適当に考えた自分の名前の由来よりも、ずっと。
 洗い物を終えた僕は、手を拭いて自分の部屋に戻った。
 ワークチェアに背を預けながら、ポケットからプラスチックケースを取り出してみる。
 見た目は同じ。けれど中身は違う。
 僕を殺す薬は、今、古閑さんの手の中にある。
 改めて考えると不思議な関係だった。
 互いのディープブルーを交換する。
 それは、その気になれば彼女をいつでも殺せるということだった。
 そして彼女にいつでも殺されるということだった。
 メッセージアプリのIDを交換するみたいな気軽さで、僕たちは互いの命を握り合っている。
 古閑さんはどうしてこの薬を手にしたのだろうか。
 どんな悩みが、彼女をそこまで駆り立てたのだろうか。
 ケースの中の薬は、からからと軽い音を返すばかりで、答えを示してくれるはずもなかった。
 目をつぶって、考える。
 古閑さんも、今この薬を見つめている。そんな情景を思い描いた。
 僕のちっぽけな願いは、それでも叶わなかったけれど。
【五月の報告】
 もらってから一週間くらいしか経っていませんし、特に報告することはありません。
いたって普通です。
 ただ、僕がディープブルーをもらったことをクラスメイトにバラしたのは、正直どうかと思います。
 そのせいってわけじゃないですけど、古閑さんとは薬を交換することになりました。今僕の手元には、彼女のディープブルーがあります。変わったことといえば、それくらいですね。ご報告まで。

【須々木香織からの返信】
 そうか、薬を交換することになったのか。
 本来であれば咎めるべきところだが……今回に関していえば、むしろ安全になった、とも言えるのかな。いや、実を言うとね、私は内心ひやひやしていたんだよ。下手すれば君たちは、私との約束を破って、誕生日前に薬を飲んでしまいそうだったからね。そう考えると、君たちの関係性は実にいいね。私も肩の荷が下りて、助かるというものだ。
 誕生日までの三か月、君たちが互いに関わり合うことでどんな化学変化を起こすのか。
 期待しているよ。

 追伸
 そうだ。ひとつ君に宿題を出そう。
 期限は一か月、次の経過報告の時までに送ってくれればいい。
 なに、そう身構えることはない。私が聞きたいことは一つ、たった一つだけだ。
 なぁ春海君。世界っていったい、なんだと思う?

 人の名前を覚えなくても、意外と生きていけるのだということを知ったのはいつの頃だったか。

「春海ー、悪いんだけど、課題見せてくんない?」

 毎週毎週僕に課題を見せてくるようせびってくるのは、茶髪君。
 髪を染めることは校則で禁止されてはいないけれど、彼ほど明るく染めている子は珍しい。
 全校集会で整列しても、一人だけひと際頭が明るくて、よく目立っている。

「いいよ」
「サンキュー! いつもありがとなー。今度なんか奢るからさー」
「気にしないで。何か減るわけじゃないし」

 茶髪の彼は嬉しそうに自分の席に戻っていく。
 周囲には彼の友達が数人いて、「お前またかよー」「高三でそれはやべーって」と笑い声交じりに非難されている。その中の一人が、

「春海ー。嫌だったら嫌って言っていいんだからなー」

 と声をかけてくれたけれど、僕はわずかに口角を上げて右手を振った。
 教室の端で歓声が上がったので、僕は視線をそちらに向けた。
 女子生徒が五人ほど集まっていた。特に意味もなく大きな声を出すのが彼女たちの習性なので、なにか特別なことがあったのかと思ったわけではない。
 けれど、彼女たちの中には古閑さんがいた。
 思えば、僕がクラスメイトをちゃんと認識したのはずいぶん久しぶりのことかもしれない。彼女はグループの輪の中にいて、楽しそうにケラケラと笑っていた。
 声が塊となって、耳に届く。

「だからさー、翠もそろそろ彼氏作りなって」
「やー、私はいいよ。まだなんかよく分かんないっていうか」
「誰だって最初はそうだって!」「つーかさー、翠って誰に告られてもオッケーしないじゃん? 理想高すぎなんじゃないのー?」
「そういうんじゃないって」
「まあ、狙いが被らないのはありがたいけどさあ。もしかしてあれ? B専?」
「あはは、それはないよ」
「じゃあさじゃあさ! 今度また合コン組むから、その時は彼氏作ろ! イケメンから微妙なのまで、色々そろえておくからさあ」
「もう、微妙なのって……相手に失礼すぎでしょ」
「おっと、失言失言」

 あの会話は、楽しいのだろうか? 僕にはよく分からない。
 ふと、彼女の右手がカーディガンのポケットの中で何かを触っていることに気が付いた。
 人差し指と親指でつまみ、振り、時には手のひらで包んで回転させたりして、弄んでいる。
 他の誰もが気づかないだろうけれど、僕には分かった。
 彼女のポケットに入っているのは――僕の薬だ。
 思わず僕も、右手をポケットの中に入れる。
 瞬間、奇妙な連帯感を覚えた。
 僕は彼女をいつでも殺せて、彼女は僕をいつでも殺せる。
 互いの命を握り合いながら、僕たちはさも普通の高校生のような顔をして、クラスの中に紛れ込んでいるのだ。

「……っ」

 一瞬、古閑さんと目が合った。けれど彼女は、背景の一部でも見たような素振りで、そのまま会話に戻った。
 できるだけ関わりを持ちたくないのだろう。その気持ちは十分に理解できた。
 だから僕は、彼女たちから視線を外そうとして――

「お、珍しいな。春海が女子のこと見てるなんて」

 茶髪君に捕まった。
 がっしと首に腕を回され、否応なしに彼女たちの方に視線を固定される。

「いや、僕は別に……」
「誰だ誰だー? 誰が好みなんだー? やっぱりクラス一可愛いと名高い、白雪ヒナか? でもあいつはやめとけよー、性格きっついから」

 あの中の誰が白雪という人なのかも分からない僕は、「へえ」と返すしかなかった。そんな僕の反応を見て、茶髪君は「違うのか」と話を続ける。
 どうやら写し終わった課題を返しにきてくれたようだ。
 それならそれで早いところ自分の席に戻って欲しかった。

「となると残るは……大人な魅力を醸し出す、駒木りり子か? それとも逆に小さくって高校生には見えないと評判の高寺千里か? あとは――」

 出てくる名前の誰もピンと来なかったし、五分後には忘れている自信もあった。
 けれど。

「なるほど、さてはお前、古閑翠狙いだな?」

 彼女の名前が出た瞬間、ほんの少し体が動いてしまった。
 それを敏感に感じ取ったのか、茶髪君は嬉しそうに笑ってばっしばっしと僕の背中を叩いた。

「あっはは! いいじゃんいいじゃん! なんだよー、春海も意外とすけべなんじゃん!」
「なんですけべ?」
「だってあいつ、おっぱいでかいじゃん」
「……へえ」

 まったく気づかなかった。
 というか、古閑さんの魅力がそれに集約されてるというのは、いかがなものだろうか。
 彼女の魅力は、やはりあの黒髪だろう。
 遠目に見ても分かる。彼女の髪は、女子の中に紛れていても、ひと際きれいだ。
 そんな僕の考えなど露知らず、茶髪君は嬉しそうに体をゆする。

「そうかそうかー春海がねー。それならそうと早めに俺に相談してくれればいいのによー」
「あのさ、なんか勘違いしてるみたいだけど、僕は――」

 その時、よく通る声が僕と茶髪君の体を貫いた。

「ちょっとそこ! 全部聞こえてんだからね!」
「やっべ、ヒナに聞こえてた! 退散退散っと」

 雑然としていた教室の中でも、茶髪君の声はよく聞こえていたようで、古閑さんを含む女子グループが、僕たちを見てくすくすと笑っていた。
「やだあ」「男子ってそればっか」という声に混じって、古閑さんの冷ややかな視線が僕を刺す。
 今度は間違いなく彼女と目が合っていて、古閑さんの口がぱくぱくと動いた。
「さ」「い」「て」「ー」
 なんとも言えず、とばっちりを食らった気分だった。
 ※

 放課後。
 特に部活に入ることもなく、友達もいない僕は、いつもの通り帰り支度を済ませて教室を出た。玄関へ続く渡り廊下に差し掛かった時、こつんと足首に何かが当たった。

「どこ行くのよ」

 壁に背を預け、両手を組み、教室で女子と話していた時とは別人のような仏頂面で、古閑さんが言った。僕の足首を蹴ったのは彼女らしい。

「帰ろうかと思って」
「そ」

 それだけ言って、古閑さんは壁から身を起こし、さっさと渡り廊下を歩いて行った。
 五歩ほど歩いて、振り返る。

「早く」

 ついて来いということだろうか。昨日から思っていたのだけれど、彼女の言葉にはいささか程度、主語が足りないと思う。別にいいんだけど。
 中々動き出さない僕にしびれを切らしたのか、古閑さんは「もう」とため息をついて片手を腰に当てた。

「ちょっと付き合ってって言ってんの」

 間違いなく言われてはいない。だが、意図は理解できた。
 僕は「ああ」と声を出して、彼女に続く。
 何に付き合って欲しいのか、どこに連れて行かれるのかも分からなかったが、聞いても明確な答えが返ってくる気はしなかった。大人しく従っていた方が、話はスムーズに進みそうだ。
 渡り廊下を進み、階段を下りる。

「……あんまジロジロ見ないでよ」
「見てないよ」
「嘘つき。朝のこと、忘れてないから」
「朝のこと?」
「言ってたじゃん。む、胸がどうとか、こうとか……」
「ああ、それは――」

 完全に誤解だった。しかし、僕がどう弁解したところで無意味だろう。
 彼女が不快に思ったなら、謝罪するのが無難な一手だ。

「ごめん」

 だから僕は素直に謝ったのだけれど、

「……自分が悪くないことで謝るな。バカ」

 古閑さんは半目で僕を睨みつけると、ふんと鼻を鳴らして歩いて行った。
 しばし茫然と立ちすくし、天井を仰ぎ見る。

「相手の行動を理解しようとすれば、深みにはまる。分からないくらいでちょうど良い。エリック・ホフモンド。『永劫の空』より抜粋……」

 誰に言うでもなくぽつりと落とした言葉は、リノリウムの階段の上で小さく跳ねた。