昨日、映画を観た。
主人公とヒロインの選択が世界の在り方を変えてしまうような、そんな壮大な物語だ。
よく考えられた物語に、迫力のある演出。エンドロール手前、主人公がヒロインか世界かの二択を迫られる展開を、きっと多くの観客が固唾を飲んで見守っていたことだろう。
やがて物語が終わり、鮮やかな画面がのっぺりとした黒に姿を変えた時、僕はふと考えた。
僕たちにとっての世界とは何だろうか?
半径6371キロメートルを誇り、豊かな自然と多様な生物を内包した、青い惑星のことだろうか。暮らし、栄え、不思議なほどに循環を続けている社会のことだろうか。それとも、自分自身が身を置いている、この国全体のことを指すのだろうか。
違う。
きっと、そんな大そうなものではない。
僕たちは、自分の両手の届く範囲を世界と呼んで、見たもの、聞いたもの、触れたものだけを世界と呼んで、きっとそれが精一杯で、きっとそれで十分なんだ。
両手を広げて170センチ。その範囲に入った物だけが、僕の世界。それより外側にあるものなんて、誰かから聞きかじっただけのおとぎ話、空想上のフィクションでしかないのだから。
「さあ、これが君の求めていたものだ。このまま持って帰るかい? 郵送することもできるが」
「持って帰ります」
今日、僕の世界に一粒の薬が加わった。
人差し指の第一関節分くらいの大きさの、病的なくらいに真っ青なカプセル。
「ディープブルー」という名前がついているのも納得な見た目をしているけれど、もう少し気の利いた呼称はなかったのだろうかと、少し疑問に思ったりもする。
だけど、分かりやすい方がいいのかもしれない。
この薬の効能のように、一度耳にするだけで確実に理解できて、一度耳にすれば絶対に忘れられない、そんな呼び名こそが相応しい。
「それを飲めば、君は死ぬ。痛みも苦しみも伴わず、どんな処置も間に合わない。嚥下し、胃に落ちた瞬間に、君の鼓動はぴたりと止まる。そして何より、君以外の誰が飲んでも効果はない。正真正銘、君だけのために作られた、君専用の自死薬だよ、春海流(はるみ・りゅう)君」
別段、何かを求めて歩いていたわけではなかった。
学校の帰り道、ふと家に帰りたくなくなって、電車を何本か乗り継いで、埃っぽいグレースケールの街へと繰り出した。そういう気分になる日が、たまにある。
せわしなく、あるいは暇そうに行きかう人の流れを、他人事のようにぼんやりと眺めていた時に目に入った小さな薬局。その壁に貼られた、黄土色の紙。
――自死薬、あり〼
続く「十八歳未満お断り」の文字には目もくれず、僕はここ「かもめ薬局店」の戸をくぐったのだった。
「もう一度約束してくれ。君にそれを渡したのは特例中の特例だ。十八歳の誕生日を迎えるまでは、決して口にしてはいけないよ」
念を押すように、カウンターの向こうに座った彼女は言った。長い髪を一つに結わえた、さばさばとした女性だった。
「どうして十八歳未満はダメなんですか」
「そこが人生の折り目だからさ。美しい折り鶴を作るためには、正しい折り目を、正しい手順で折る必要がある。それと同じなんだよ」
「……よく分かりません」
「要するに、未成年には処方していないということさ」
最初からそう言ってくれればいいのに――とは声には出さず、僕は「なるほど」と適当に相槌を打った。
「なのによく許可してくれましたね。正直、断られると思ってました」
「なあに。そこはそれ、私の度量の深さがなせるわざだよ。悩み悩める青少年たっての願いだ。叶えてあげないわけにはいくまいよ。私は空気が読める女だからね」
電子タバコの煙にのせて、彼女は言った。
水っぽいミントの香りが宙に漂う。
「ありがとうございました。えっと……」
「須々木香織(すすき・かおり)だ。これから数か月の付き合いになるんだ。憶えて帰っても損はないぞ」
そう言って須々木と名乗った彼女は、ぴんと胸元についた名札を弾いた。
未成年の僕にディープブルーを渡す条件として、僕は須々木さんに毎月末、経過報告をすることになっている。先走って薬を飲んでしまっていないかを確認するためなのだろう。
「ありがとうございました、須々木……先生」
「須々木さんで構わないよ。堅苦しすぎるのは嫌いだ」
「じゃあ、須々木さん」
「よろしい。気を付けて帰りたまえ」
満足そうにうなずいた須々木さんに軽く会釈をして、僕はかもめ薬局店を後にした。
外に出て、ふと振り返る。
――自死薬、あり〼
劣化したクリアファイルに入れられたA4サイズのコピー用紙は、隙間から入り込んだ雨風に晒されてパリパリに波打っている。
だから誰も気づかないのだろうか。それとも、誰も信じていないのだろうか。
どうしてこの薬の存在が公になっていないのか……僕にはあずかり知らぬことだった。
遮光性の黒いプラスチックケースから、ディープブルーを取り出してみる。
うるさいくらいに辺りを照らす夕日を受けてなお、驚くほどに青色だった。
「……世界を変えたいと願う時、既に世界は変わっているのだ。ヨハン・アーベイン『人間と世界』より抜粋」
十八の歳を迎える日まで、三か月と二日。
僕はこの日、自分を殺す薬を手に入れた。
両手を広げて170センチ。
小さな小さな世界の中に、染まらない青が落ちてきた。
それでも世界は――同じ色をしていたけれど。
主人公とヒロインの選択が世界の在り方を変えてしまうような、そんな壮大な物語だ。
よく考えられた物語に、迫力のある演出。エンドロール手前、主人公がヒロインか世界かの二択を迫られる展開を、きっと多くの観客が固唾を飲んで見守っていたことだろう。
やがて物語が終わり、鮮やかな画面がのっぺりとした黒に姿を変えた時、僕はふと考えた。
僕たちにとっての世界とは何だろうか?
半径6371キロメートルを誇り、豊かな自然と多様な生物を内包した、青い惑星のことだろうか。暮らし、栄え、不思議なほどに循環を続けている社会のことだろうか。それとも、自分自身が身を置いている、この国全体のことを指すのだろうか。
違う。
きっと、そんな大そうなものではない。
僕たちは、自分の両手の届く範囲を世界と呼んで、見たもの、聞いたもの、触れたものだけを世界と呼んで、きっとそれが精一杯で、きっとそれで十分なんだ。
両手を広げて170センチ。その範囲に入った物だけが、僕の世界。それより外側にあるものなんて、誰かから聞きかじっただけのおとぎ話、空想上のフィクションでしかないのだから。
「さあ、これが君の求めていたものだ。このまま持って帰るかい? 郵送することもできるが」
「持って帰ります」
今日、僕の世界に一粒の薬が加わった。
人差し指の第一関節分くらいの大きさの、病的なくらいに真っ青なカプセル。
「ディープブルー」という名前がついているのも納得な見た目をしているけれど、もう少し気の利いた呼称はなかったのだろうかと、少し疑問に思ったりもする。
だけど、分かりやすい方がいいのかもしれない。
この薬の効能のように、一度耳にするだけで確実に理解できて、一度耳にすれば絶対に忘れられない、そんな呼び名こそが相応しい。
「それを飲めば、君は死ぬ。痛みも苦しみも伴わず、どんな処置も間に合わない。嚥下し、胃に落ちた瞬間に、君の鼓動はぴたりと止まる。そして何より、君以外の誰が飲んでも効果はない。正真正銘、君だけのために作られた、君専用の自死薬だよ、春海流(はるみ・りゅう)君」
別段、何かを求めて歩いていたわけではなかった。
学校の帰り道、ふと家に帰りたくなくなって、電車を何本か乗り継いで、埃っぽいグレースケールの街へと繰り出した。そういう気分になる日が、たまにある。
せわしなく、あるいは暇そうに行きかう人の流れを、他人事のようにぼんやりと眺めていた時に目に入った小さな薬局。その壁に貼られた、黄土色の紙。
――自死薬、あり〼
続く「十八歳未満お断り」の文字には目もくれず、僕はここ「かもめ薬局店」の戸をくぐったのだった。
「もう一度約束してくれ。君にそれを渡したのは特例中の特例だ。十八歳の誕生日を迎えるまでは、決して口にしてはいけないよ」
念を押すように、カウンターの向こうに座った彼女は言った。長い髪を一つに結わえた、さばさばとした女性だった。
「どうして十八歳未満はダメなんですか」
「そこが人生の折り目だからさ。美しい折り鶴を作るためには、正しい折り目を、正しい手順で折る必要がある。それと同じなんだよ」
「……よく分かりません」
「要するに、未成年には処方していないということさ」
最初からそう言ってくれればいいのに――とは声には出さず、僕は「なるほど」と適当に相槌を打った。
「なのによく許可してくれましたね。正直、断られると思ってました」
「なあに。そこはそれ、私の度量の深さがなせるわざだよ。悩み悩める青少年たっての願いだ。叶えてあげないわけにはいくまいよ。私は空気が読める女だからね」
電子タバコの煙にのせて、彼女は言った。
水っぽいミントの香りが宙に漂う。
「ありがとうございました。えっと……」
「須々木香織(すすき・かおり)だ。これから数か月の付き合いになるんだ。憶えて帰っても損はないぞ」
そう言って須々木と名乗った彼女は、ぴんと胸元についた名札を弾いた。
未成年の僕にディープブルーを渡す条件として、僕は須々木さんに毎月末、経過報告をすることになっている。先走って薬を飲んでしまっていないかを確認するためなのだろう。
「ありがとうございました、須々木……先生」
「須々木さんで構わないよ。堅苦しすぎるのは嫌いだ」
「じゃあ、須々木さん」
「よろしい。気を付けて帰りたまえ」
満足そうにうなずいた須々木さんに軽く会釈をして、僕はかもめ薬局店を後にした。
外に出て、ふと振り返る。
――自死薬、あり〼
劣化したクリアファイルに入れられたA4サイズのコピー用紙は、隙間から入り込んだ雨風に晒されてパリパリに波打っている。
だから誰も気づかないのだろうか。それとも、誰も信じていないのだろうか。
どうしてこの薬の存在が公になっていないのか……僕にはあずかり知らぬことだった。
遮光性の黒いプラスチックケースから、ディープブルーを取り出してみる。
うるさいくらいに辺りを照らす夕日を受けてなお、驚くほどに青色だった。
「……世界を変えたいと願う時、既に世界は変わっているのだ。ヨハン・アーベイン『人間と世界』より抜粋」
十八の歳を迎える日まで、三か月と二日。
僕はこの日、自分を殺す薬を手に入れた。
両手を広げて170センチ。
小さな小さな世界の中に、染まらない青が落ちてきた。
それでも世界は――同じ色をしていたけれど。