キミの心臓は恋ができないと知っていたのに



 ♢

 インクと紙の匂いが鼻を刺激する。シンと静まり返る図書室の空間に開けられた窓からそよりと風が舞い込む。窓の外から部活動に励む生徒の声が遠くから聞こえてくる。図書室を利用するのは俺たちの他にもぽつりぽつりと数人いた。

「なんか、緊張しちゃうね」

 誰も座っていない長机に教科書とノートを広げた。口元に両手を当てて向かい合って座った俺に小声でゆっくり話しかける。ヒソヒソ声も図書室内に響き渡りそうなほどの静寂が広がっていた。涙袋をぷくりと膨らませて微笑むと、視線を教科書に移した。カリカリとシャープペンを走らせて真剣に勉強に取り組んでいるようだった。

 勉強によほど集中しているのか、俺がいくら見つめ続けても気づく様子はない。美少女を堂々と見つめられる正面に座る俺は、きっと誰もが羨むだろう。

 俺はというと、勉強する気はさらさらない。ただ、凜と一緒過ごしたかった。過ごせるのなら普段は近寄らない図書室だって。静寂が広がり居心地の悪さを感じようとも、どこでも構わなかった。

 冷静になって考えると、学校一の美少女と図書室で勉強をするなんて考えられない。
 全部夢なのではないかと思ってしまう。図書室の長テーブルの上に教科書を並べてみるが、開きもしないで物思いにふけっていた。
 
 コンコン。
 机を軽くたたく音に反応して顔を上げると、にんまりと笑ってノートをスッと差し出してきた。

『勉強しないの?』

 ノートの端に書かれた小さくて女の子らしい可愛らしい字。図書室の静まり返る空間を気にして筆談にしたのだろう。凜が書いた字の下に雑な字で返事を書いた。

『おれ、勉強きらいだった(笑)』
『居残りした意味ないね(笑)』
『図書室にいるだけで頭良くなった気分になれるから、意味はある』
『意味わからない(笑)』

 時折「ふふっ」っと小さな含み笑いが零れだす。ハッとして両手で口元を抑えて周囲の様子を見渡すのが、小動物みたいで可愛かった。そしてまた真剣な顔で教科書に視線を戻した。俯き気味に見えるまつ毛が長くて、瞬きをするたびに揺れていた。窓からそよりと舞い込んだ風が凜の髪の毛をさらりとなびかせる。と同時に鼻を刺激する甘い香り。シャンプーの匂いだろうか。甘くフルーティーな香りに胸の奥が熱くなるのを感じた。

 ブーブー……
 凜のスマホのバイブレーションが鳴った。
 
「あ、時間だ」

 画面を確認して、小さい声を上げた。

「門限破ったら困るから、アラームしといたんだ」

 不思議そうにしている俺に説明してくれた。
 アラームは居残り終了の合図ということらしい。寂しさを覚えながらも、静かに図書室を後にした。
 昇降口まで肩を並べて歩いた。


「あのさ、なんで火曜日と木曜日だけ門限が遅いの? なんか理由あったりすんの?」
「火曜日と木曜日は……塾に行くことになってる」
「行くことになってるって……。それって……」
「うん! 塾は行ってるふりだよ!」
「親にバレるんじゃないのか?」

 俺の質問に一瞬足がピタリと止まった。俺に背中を向ける彼女の表情は見えない。小さく息を吐くと人懐っこい笑みを浮かべて振り返った。

「……そうだね。いつかバレる。そしたらこの関係もお終い。バレるのは一ヵ月後かも知れないし、一週間後かも知れない。早ければ、明日かも知れない」
「……」
「だから本当に期間限定の恋探しなの」

 表情を見せないように深く俯いた。凜が悲しいのか、なんとも思っていないのか。顔が見えないせいで、感情を組み取ることが出来ない。情けないことに言葉に詰まって言葉が出てこない。
 
「……」
「ってことで、今日はバイバイ! また……木曜日によろしくね!」

 凜は俺の返答を待つことなく俯いた顔を上げた。表情をぱっと明るくさせて手を振っている。その笑顔が無理して笑っているように見えて、上手い返しが出てこなかった。遠くなる背中を追いかけて追及する勇気もない。力なく手を振って去り行く背中を見送るしか出来なかった。
 

 
 それから、火曜日と木曜日は凛と居残りをする日々が続いた。
 図書室で勉強。中庭のベンチでお喋り。誰もいない教室でたわいもない話。男女で居残りをすると言っても、それは至って健全なものだった。その時間は風のようにいつも走り去ってしまう。
 
 凜の門限が普段より遅い日といっても、普通の高校生の門限よりは早い。
 名残惜しさが日に日に大きくなるのを感じていた。
 
 今現在の凜の印象は、当初と比べると、格段に変わった。
 表情の起伏が少なかったが、最近はとにかくよく笑う。子供のように笑う表情があどけなくて可愛らしくて。何度見ても、つい見惚れてしまう。

 今日は火曜日。
 片手では収まらなくなった何度目かの居残りの日だ。
 今は放課後ではなく昼休みだが、凜は俺の前にいる。
 
「凜ちゃんは咲弥のどこが良かったの?」
「んー。優しいところかな?」
「優しい人なんていっぱいいるよー。俺だって優しいのにー」

 大地はわざとらしく口を尖らせて不貞腐れている。いつの間にか大地と凜は普通に話す仲になっていた。
 火曜日と木曜日の放課後に居残りをする。という約束だったが、昼休みになると毎日のように一緒にお弁当を食べるのが日常に追加された。そのため、俺といつも一緒にいる大地と凜が親しくなるのは必然の出来事だった。
 
 大地は俺と凜が付き合っていると思っている。凜本人が否定もしないので、なんとなくその流れのまま、俺も否定しなかった。俺からすれば、美少女と付き合っていて、羨ましがられる。特に否定する理由もないのだ。

「咲弥に酷いこと言われたり、むかつくことあったら、すぐに俺に言ってよ? 俺が咲弥をしめとくから」
「ふふっ。今のところなさそうだよ」
「凜ちゃんって笑うんだな。こうやって話すようになるまでは、高嶺の花っていうのもあったけど。クールであまり笑わないイメージだったから」
「……」
「あ、ごめん。凜ちゃん、悪く言っているわけじゃなくて、咲弥といると楽しそうだよ。って言いたかったんだ」

 一瞬凜の顔色が曇ったのを見て、大地は相当焦ったようだ。両手を大きく横に振って、弁明に必死な様子が伺える。
 大地の言っていることは頷けた。俺らからしたら高嶺の花で話しかけるなんて、そう思える人物ではなかった。今こうして話すようになって、声を出して笑うので最初の頃はギャップに驚かされた。

「私……笑ってる?」

 きょとんと、首をかしげて不思議そうに問いかける。こんなに毎日笑っているのに、その実感がないとでも言いたげな表情だった。

「凜ちゃん、咲弥の前だとすっごく楽しそうだよ?」
「私、さっくんの前だと笑ってるんだ。へえー。そっか……」

 どこか他人事みたいにぽつりぽつりと呟く彼女に、どこか違和感を覚えた。
 
「咲弥も凜ちゃんと付き合ってから変わったしなー」
「え、そうか? どの辺が?」
「こいつ凜ちゃんにとびきり優しいっしょ? 俺や他の奴らに対しては、こんなに優しくないよ。面倒ごとには絶対首突っこみたくないって性分だったし。人に興味がない癖に、彼女欲しくて誰振りかまわずいけそうな女子に告白するし。友達ながらに最低な奴だと思ってたよ」

 そこまで低評価だったとは初耳だ。悔しいが否定できない。そう。俺は人としてろくでもない奴だと自覚しているからだ。

「確かに。人として最低だけど。今のさっくんは最低じゃないよ。いつも私のお願い聞いてくれるし」
「うん。うん。凜ちゃんありがとう。咲弥を真人間にしてくれて。凜ちゃんのおかげだよ」

 服の袖を目に当てて泣くふりを決め込んだ。大地の言っていることは俺を蹴落としているのに、どうしても憎めない奴だ。
 
「ううん。私の方こそいつもありがとう。さっくん」
「おーい。咲弥はいつもこんなに可愛い天使の微笑みを浴びているのか?」

 羨ましいと言わんばかりの表情を浮かべて俺の肩を小突いた。
 凜は俺たちの様子を見て、また優しく笑った。

 冗談ではなく、本当に天使のように見えた。
 純粋で無垢な彼女の笑顔は俺の心に光を与えてくれる。
 彼女の笑顔を見るだけで俺の心は浄化されるように、あたたかくなるのだ。
 
「毎日天使の笑顔を浴びてたら身体によさそうだ。咲弥、お前の寿命伸びたんじゃないか?」

 大地の一言に空気ががらりとかわった。空気が変わったというよりは、凜から放たれる空気が変わったと言うべきか。それを感じ取ったのは俺だけのようだ。大地は相変わらず「いいなー」と呑気に何度も繰り返し唱えている。凛から発せられている空気は完全に冷たいものに変わっていた。
 凜の影のある悲しげな表情を見て、心臓のあたりにちくっと痛みが走る。

 俺は彼女のことを知れていると思っていた。だけど全然知れていない。
 肝心の凜の心臓のことについては聞けないでいた。
 聞くのが怖かったんだ。心臓について追及したとして、俺なんかが受けきれる自信がなかった。
 

 自分の不甲斐なさを痛感していると、凜は曇っていた表情を一変させ、優しい笑みを浮かべた。
 無理して笑顔を浮かべている。馬鹿な俺にだってわかる。
 もしかしたら、俺が気づかないだけで、たくさん無理をさせてしまっていたのかもしれない。
 そう思うと心臓あたりが痛むんだ。
 いつもなら他人に干渉しない俺は、命に関わる心疾患を持っている奴と関わるなんて、めんどくさいと切り捨てていただろう。

 それなのに。貼り付けた笑顔ではなく、本当の笑顔で笑っていほしいと思っている。そう思っている時点で、大地の言う通り俺は変われたのかもしれない。

 凜は何事もなかったかのように、大地と談笑し始める。俺の過剰な心配だったかと思ってしまうくらい眩しい笑顔を浮かべて話していた。勘ぐりすぎならそれに越したことはない。
 キミにいつまでも笑顔で過ごしてほしいと、ひたすらに願った。

 
「今日は行ってみたい場所があります……」

 お弁当を食べ終えると、少し言いにくそうにもじもじと身体を捻じらせた。そんな姿も可愛らしくて、目的地を聞くまでもなく「よし。行こう」勢いよく返事をした。隣で「俺も行きたい!」と勢いよく手を上げる大地の腕をそっとおろした。そんな俺たちのやり取りを見て凜は嬉しそうに笑うのだった。
 

 こうして天使が加わったことにより、殺伐としていた昼休みのお弁当タイムが、癒しの時間となった。
 目の前で繰り広げられる会話に、凜と本当に付き合っている錯覚に陥る。気分は凄くいい。自然と満ち足りた気持ちになる。
 

 ♢
 
 凜が行きたいと言っていた場所は映えスポットと呼ばれるであろうお洒落なカフェだった。
 並ぶことなく席に案内された。ピンクが基調とされた店内はポップな印象だ。辺りを見渡すと、お客さんは学校帰りの女子高校性が多い。ほとんどが女子だ。かろうじてカップルできている男性もいて内心ホッとした。装飾もすべてが可愛すぎる内装に、男の俺は居心地が悪く感じてしまう。そんなこと言えるはずもないので、居心地の悪さを胸にしまい込んだ。

「わあー! お店の中かわいいー!」

 げんなりした気持ちは一瞬で消えた。目の前で口角を上げて微笑む凜の姿があったからだ。この笑顔のためなら地獄にでも行けるかもしれない。そう思わせるほど破壊力抜群の笑顔なのだ。

「放課後に寄り道するの夢だったんだー」
「ゆ、夢って……。友達と来たりしなかったのか?」
「最近なんだ。……火曜日と木曜日に自由な時間ができたのは。それまでは、毎日直帰しなきゃいけなかったから。友達なんていなかったよ」

 凜に友達がいないことは知っていた。自ら人を遠ざけていると思っていたが、伏し目がちに話す弱々しい声からは、友達がいなかったのは切望してのことではなかったらしい。そう思えた。
 
「それは心臓に負担をかけないため? 大丈夫なのか? その、こうして寄り道して、身体の方は」
「うん。身体は全く問題ないよ」

 へらっと笑った。その表情は無理して笑っているように見えた。
 凜と過ごす時間が増えるほど、彼女が感情を押し殺していることに気づく回数が増えた気がする。

「……あ、あのさ!」
「失礼します」

 曇った表情の理由を聞こうとした声は、グラスに入ったお水を運んできた店員さんの陽気な声にかき消された。
 
「どれもおいしそう! ずっと来たかったんだ」
「……凜の好きなもの頼んでいいよ」
「いいの? うーんとね、ショートケーキとモンブランで迷ってたんだ」

 弾む声でメニュー表を見ている姿を見て、さっきの話はぶり返さない方がいいかなと思った。
 メニュー表を覗くと、色鮮やかなケーキの写真が目に入る。想像以上にポップな見た目のケーキだったので、自分の目を疑って何度も瞬きをした。
 色がついたケーキなんて添加物まみれではないのか? その場の空気を悪くさせる言葉が喉まで出かかって、なんとか制止させた。店内には笑顔と笑い声が溢れている。お客さんの反応の良さがきっと答えだ。
 

 運ばれてきたケーキはメニュー表の写真通りの可愛さと派手さだった。ピンクのクリームのショートケーキには、ピンクのマカロンが載せられていた。モンブランはパステルカラーが四色積み重ねられている。もはや、俺の知っているモンブランではない。
 
「かわいいー! かわいすぎるよー!」
「か……」


 目の前の色鮮やかで可愛いケーキより、目を輝かせてはしゃぐ凜の方が可愛いと思った。思ったまま「かわいい」と言おうとして、その言葉を飲み込んだ。まるでデートみたいと思っていたが、これはデートではない。凜をキュンとさせてしまったら、終了してしまう関係なのだから。叶わない恋ならば、出来るだけこの関係を長続きさせたい。そう思ったから、褒め言葉を呑み込んだ。

 
「か?」
「か…、蚊がいた……」
「蚊も、このおいしそうな匂いに釣られてきたんだね。きっと」

 なんだ。天使か。
 天使のような優しい発言に驚いて面食らってしまった。今まで出会った女は、虫の存在を嫌がる人ばかりだった。一般的にはそれが普通だ。蚊を嫌がらずに受け入れる凜の言葉が印象的で、心が奪われてしまうのは仕方がないことだった。

「写真、撮ってやろうか?」

 あちこちからシャッター音が鳴っている。周りを見ると映えるケーキを撮ったり、店内の映えスポットであろう一段と派手に装飾された場所でポーズを決めて写真を撮っている。納得いく写真を撮るのは大変なのだろう。連写の音が激しく鳴り響いていた。

「んー。初めて来たし、記念に撮ってもらおうかな」

 写真映えするケーキと共に凜にスマホのカメラを向けた。にっこりとよそ行きスマイルを浮かべる凜は、まるでモデルのように美しかった。シャッター音の後に画面を見ると、雑誌に掲載されてもおかしくない写真が撮れていた。被写体が良いと1回で盛れる写真を撮れてしまうんだな。鳴り響く連写のシャッター音を聞きながら、皮肉にもそう思った。

「見せてー」
「上手く撮れたよ」
「本当だー。すっごくおいしそうに撮れたね。ケーキ」

 自分の写りなんて気にせず、ケーキが美味しそうに撮れたことに喜んでいる。
 
「待ち受けにしよっかな」
「えー。いいよ?」

 ボソッと呟いた声を拾われた。恥ずかしいと拒否されると思ったが、賛成してくれて驚いた。

「よっぽど気に入ったんだね。ここのケーキ」

 違う。凜が可愛いからだよ。
 なんて、甘い台詞が浮かんだが、似合わない言葉を口に出すことはなかった。
 
 
 写真映えさせるために見た目だけのケーキかと思っていたが、口に運ぶとスポンジはふわふわ。クリームは甘いけど、くどすぎない甘さで男の俺でもおいしいと素直に思った。

「んー。おいしいー!」

 目をぎゅっと瞑っておいしさを噛み締めるような表情が微笑ましい。おいしさを表情や言葉で表す凜がかわいくて仕方ない。

 

「前から思ってたけど、けっこう厳しい系? 凜の親って」

 眉が一瞬ぴくっと動いたのが見えた。表情がみるみる曇っていく。

「あ、ごめん。言いたくないならいいからさ」
「厳しいというか……。なんというか……」
「火曜日と木曜日があるなら充分だろ。凜が恋人と行きたいところいくか」
「本当?」
「ああ。時間は少ないけど、こうして来たかったカフェにも来られたし」
「やったー!」

 人懐っこい笑みを浮かべて喜ぶ彼女の表情に、胸の奥があたたかくなるのを感じた。

「ねえ、さっくんの将来の夢ってなーに?」

 唐突な質問だった。興味津々とでも言うように目には光が灯っている。
 
「将来の夢? そんな大それた夢はないけど。そうだなー。大金持ちにならなくていいから、そこそこの会社に入って、結婚して。子供は好きだから3人欲しいな。男の子だったらキャッチボール。女の子だったら、パパと結婚するって言われたい。ありきたりな夢だよな。普通だろ? 俺の夢は」
「……」

 俺は普通でいい。夢のない男とガッカリされるだろうか。その未来に凜がいてくれたらどんなに幸せだろうと、頭に妄想劇場が開幕した。幸せな映像が映し出されて、顔が緩んでいく。
 
「凜は? 凜の将来の夢は?」
「私? 私の将来……」
 
 言葉を止めた凜はいつになく強張った表情だった。目に灯っていた光も消えていた。勝手に妄想していたことがバレたのかと不安がよぎる。
 いや、さすがに頭の中を見られるわけがない。もしかして体調が悪いのだろうか。

「凜、どうした? 発作が起きそうとか?」
「え、」

 不安が押し寄せてきて、思わず中腰で前のめりになっていた。心配になるほど、凜の表情に違和感を覚えたんだ。

「大丈夫だよ。ごめん。ぼーっとしてた」

 ぎこちなく笑う彼女に違和感を覚えた。だけど、違和感の正体を探る前に終わりの時間が迫っていた。
 
 ブーブー……。
 終わりの時間を知らせるアラームのバイブレーションが鳴る。

 門限に遅れないようにセットしているアラームの音だ。
 その音をきっかけに、話が終わってしまった。凛は帰る支度をはじめている。

 

 
 火曜日と木曜日は門限が長いと言っても、門限は17時半。あっという間に時間がきてしまう。
 帰り際に、心でうずうず埋めく問いを投げかけた。

 
「ちなみにだけど……今日、きゅんとしたりした?」

 笑顔で振り返った凜の表情に、余計に心臓の鼓動はドクドクと速くなる。
 期待に胸を膨らませて言葉を待つ――。
 
「あ、大丈夫! きゅんは全くしそうにないよ?」

 満面の笑みを浮かべてはっきりと言い切った。悪気のない言葉は俺の心を突き刺した。

「お、おう……そっか」

 きゅんとさせないように気をつけていたとはいえ、男女でデートみたいに一緒に過ごして全くきゅんとしないのは、どうなんだろう。男のプライドが切り裂かれるようだった。
 凜と長く一緒に過ごすには、きゅんとさせてはいけない。そうだ。だから、これが正解なのだ。傷ついた心を修復するために自分に何度も言い聞かせた。

 凜が俺に恋をしてしまったら、心臓の負担になる可能性があるので、俺たちの関係は強制終了だ。
 だから、俺は凜を絶対にきゅんとさせない。一日でも長くこうして一緒に過ごしたい。その思いが日々強くなっていた。


 お店を出て帰り道をゆっくりと歩いた。


 


 両手を上に上げて、大きく手を振る凛を見送る。
 今の俺には、凛と過ごせるだけで幸せなんだ。
 
 夕日のオレンジの光に包まれて歩く小さな身体を、影が見えなくなるまでいつまでも見ていた。


 ♢

 暖かな春風が吹くよく晴れた日のことだった。

「ね、さっくん、今日は凄いことできるよ?」
「凄いことって?」

 休み時間に俺の元へ突然やってきたかと思えば、含み笑いをしながらコソコソと耳元で言葉を零す。言葉と共に吐き出される吐息が耳元に感じて、熱が耳に集中する。誰が見ても分かるくらい耳と顔が真っ赤に染まっていく。

「放課後までのお楽しみだよー」

 弾んだ声で言い残すと、スキップに近い軽い足取りでその場から去っていった。
 凜がいなくなった後、クラスメイトの喋ったことのない男子まで俺の元に群がってきた。

「なー。なにしたら女神と仲良くなれんの?」
「お前、本当は凄い奴なのか?」

 まじまじと俺の顔を覗き込んで、不思議そうに、納得がいかないとでもいいたげな表情を浮かべる。
 俺だっていまだに信じられない。学校の女神がなんで俺と放課後に居残りをしているのか。

「べ、別に。たまたま仲良くなっただけで」
「俺にも紹介してくれよー。頼むよ。売店のパン一週間でどうだ?」
「悪いけど……」

 いつかは言われると危惧していたことだ。みんな憧れだが、高嶺の花が故に近寄りがたかった白雪凜。最近は笑うことが増えて、俺以外の奴も警戒心が薄れたのだろう。仲を取り持ってほしいと祈願された。
 話を遮りその場から逃げた。こういう会話に上手い切り替えしが出来ない。

「売店のパン1ヵ月分でどうだ?」

 諦めの悪いようで俺の背中に投げかける。意思表示はしないとしつこく付きまとわれそうなので両手を掲げて、腕を混じらわせて×マークを示した。それ以上はなにも言ってこなかったので、振り返ることなく足早に足を進めた。
 
 凜と誰かの仲を取り持つはずないだろ。直接言える度胸はないので、心の中で悪態をついた。
 
 
 放課後になると、満面の笑みを浮かべた凜が迎えにきた。
 ワクワクを抑えきれない子供のように、口角は上がり喜びが表情に現れていた。

「凄いことってなに? かなり気になるんだけど」
「さっくんも、一日わくわくしてくれた?」
「そうだ、な。わくわくというか、そわそわというか」
「今日はね、このために晴れたと言っても過言ではありません!」
「……」

 今までに見たことのないくらい彼女のテンションは上がっていた。
 温度差が激しいがそんなことを気に素振りもなく、上機嫌で話続ける。
 
「なんと……ジャーン! これを譲り受けました!」

 高らかに弾む声で腕を天井に掲げた。その手の中には銀色に光るものが見えた。

「……鍵?」
「せいかーい! さて、どこの鍵でしょうか?」
「えっと、分からないです」

 テンションが高くて楽しそうな凜が可愛くて、この茶番ともいえるやり取りを永遠にしていたいと思った。

「ふふっ、なんとー! 屋上の鍵です」
「え、屋上? うちの屋上は立ち入り禁止のはず……」

 わが校の屋上は立ち入り禁止だ。漫画みたいに屋上でお弁当を食べるなんて、叶わない夢なのだ。

「驚いたでしょ? へへっ!」
「そりゃ、驚くよ。どうやって……まさか、盗んで……」
「もう! そんなわけないでしょ? 私の病気のことを知っている先生に、屋上に行くことが夢だったって、しんみり語ったら特別に貸してくれた。役得だね! 病気になってみるもんだ!」

 凜に同情した先生が鍵を貸してくれたらしい。凛の表情に気持ちがつい惑わされてしまうのは共感してしまった。俺には何度もその経験が、あるからだ。

 凜の潤んだ瞳に心を揺さぶられたのだろう。だからと言って、立ち入り禁止の屋上の鍵を渡すなんていいのだろうか。

 凜は足取り軽く屋上へと足を延ばす。俺ははしゃぐ子供を見守る保護者のような気持で後を着いていく。
 まあ、いいか。凜がこんなに喜んでいるのだから。
 
 屋上のさびれた鍵穴に鍵を差し込みまわす。
 屋上の重い扉をゆっくり開けると、光が視界一面に広がる。

 雲1つない澄んだ青空が俺たちを出迎えてくれた。
 他の生徒にバレないように、屋上の扉の鍵を内側から閉める。

 きちんと許可されたことだと分かっていても、なんだか悪いことをしている気持ちになって歯がゆい。そんな気持ちと共に禁止されている場所に堂々とこうして来られるのは、わくわくもしてしまう。

 いつも見ている青空が、余計に綺麗で澄んで見えた。屋上で感じる風は身体を強く通り抜けていく。
 風になびいた凜の髪から、シャンプーの甘い香りが風から香る。

 屋上という禁止されている場所に二人きり。鍵を閉めているので誰もこない。
 普段と違う雰囲気に、どうしたって緊張してしまう。緊張しているのがバレないように冷静を取り繕った。

「わー。屋上は風が気持ちいいねー」

 両手を広げて風を全身で浴びている。

「夢がまた1つ叶ったよ。ありがとう。さっくん」
「今回は、凜が自分で掴んだものだろ?」
「そうかなー。でも、その勇気をくれたのは、さっくんと居残りするようになったからなんだよ」

 確かに、最初に会った凜と比べるとだいぶ明るくなった。高嶺の花と呼ばれて友達もほとんどいなかった凜は、正直笑わない人だと思っていた。今はちょっとしたことでもよく笑う。

「私ねー、今すっごく楽しい。すっごく楽しいの」

 笑っているはずなのに、どこか寂し気に感じた。時折みせる寂し気な表情を見ると胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。いつもより空に近づいた屋上で、果てしなく続く青さを見つめた。

 今の気持ちを表すとなんだろう。
 清々しくて、心地よい。いつも感じる風が、心地よくて仕方がない。
 口には出さずに心の中で密かに思った。
 これが、幸せだろうか。
 


「手、繋いでみていい?」
「は?」

 唐突に投げられた言葉に、思わず情けない声が漏れた。予想していなかった言葉に内心は焦りまくっていた。だって、手を繋いで平気なのだろうか。冷静を装いつつも動揺を隠しきれない。
 
「だめ?」
「ダメじゃないけど……いや、ダメだろ! 凛の心臓に負担がかかったら……」
「試してみようよ? ドキドキして心臓の鼓動が速くなったら、すぐ離すから」
「でも……」
「意気地なしー」

 ふん、と鼻から息を吐きながら、ほっぺを膨らませて典型的な拗ねた表情を浮かべた。
 
 意気地なしにでもなるだろう。
 男女が初めて手を繋ぐドキドキよりも、更に命の危険という重い責任も背負うことになるのだから。

「……」
「じゃあ、いいよー。違う子に頼むから」
「そ、それは、ダメだ」

 右手を差し出して挑発するように目を細めて笑った。
 ごくんと唾を吞む音が自分の体に響く。凛と手を繋ぐ緊張感、凜の心臓に負担をかけてしまわないかという恐怖。様々な感情が交差して俺の心拍数は速くなる。手汗を服で拭って、差し出された透き通ったように白く細い手に近づけた。
 
「ドキドキしそうになったら、すぐ手離せよ?」
「……うん」

 差し出された手のひらに、手を合わせてゆっくり握る。それは大切なものに触れるように、優しくゆっくりと。

 手から感じるぬくもりに俺の心臓はドクドクと高鳴り続けた。凛に視線を向けると、いつもと変わらない表情だった。
 彼女に感情の起伏が現れて欲しくないような。少しはどきっとして欲しいような。
 自分でも分からない感情が混ざり合う。

「はい、おしまーい!」
「びっくりした、」

 高らかな声と共に、パッと繋がれていた手が離れた。
 凜の手のぬくもりの感触の余韻が残る右手が行き場をなくしてその場に置き去りになる。
 
「だ、大丈夫か? その……」
「うん、大丈夫だよ」
「そっか。良かった」

 凛の心臓に負担がかからなくて嬉しいはずなのに、心は喜べなかった。こんなにドキドキしてたのは俺だけなのか。虚しいという感情が襲ってくる。


「さっくん。怖かった?」
「……少し、な」
「嘘だー。手震えてたよ?」

 バレていたのか。正直怖かった。情けないくらい手が震えてしまっていた。
 凜に発作が起きてしまったら……。最悪の想定が頭の端っこに浮かんできて、怖くてたまらなった。
 

「……怖かったんだ」
「殺人犯になるのが? 大丈夫だよー。もし発作が起きても死んだりはしないよ。凄く苦しいけどね」
「違うよ。凜を失うのが怖いんだ」
「……」
「凜、俺さ……」
「やめてよ。もう少しでドキッとしちゃいそうだったじゃん。約束したでしょ? きゅんとしない恋って。だめだよ。ドキドキして発作に繋がったら……終わらないといけなくなる」

 凜は目尻を下げて微笑んでいるものの、表情に寂しさの影が見える。
 伝えたい言葉はたくさんあるのに、その言葉がこの関係を終わりに導いてしまうかもしれない。そう思うと言えなくなった。

「恋を探したいってことは、今まで誰とも付き合ったことないの?」
「あるよ」

 さらりと吹いた風に髪の毛がなびいた。ふわりと心地よい春風に乗せられた言葉がぽつりと届いた。
 凜ほどの美人なら、告白だって何回もされているだろうし、付き合ったこともあるだろう。
 あれ、でも、恋はしちゃだめと脳が認識してるって言っていたような。

「中学生の頃ね。お母さんの言いうことに反抗したくなっちゃって。ダメだと知りながらも、告白された人と付き合ったんだ。それが最初で最後の反抗期」
「それで恋は知れなかったのか?」
「付き合ってみたけど、お母さんに言われ続けていたから、やっぱり心臓のことが怖くなって。この人になら説明してもいいかなって思ったの。そしたら『殺人犯にされてしまうかも知れないデートなんてしたくないな。もし、本当にデート中に俺が心臓に負担がかかるようなことをして、君が死んでしまったら、両親から殺人犯として訴えられる可能性だってある。そんなリスク背負えない』そうきっぱり言われて、恋を知る前に振られちゃった」

 ははっ。と空笑いを浮かべているが、目には透明なものが光って見えた。
 その彼が言ったことは正論でもある。正直、心疾患を抱えていると言われて、重いな。と思った。ただ、口に出しては言わないだけだ。高校生の俺でも、身が縮こまりそうになる問題だ。中学生には重すぎる話だろう。

 当時、凜も中学生だ。勇気を振絞って病気のことを打ち明けたのに、拒絶されたのは、相当心に傷を負っただろう。当時のことを振り返りながら話す姿が、いつにもまして儚い表情に見えた。
 
 肩がすぼんでいる彼女に思わず手が伸びた。触れる寸前でぴたりと止める。
 何をやっているんだ。俺は。
 無意識のうちに伸びた手は、細く華奢な肩を抱こうとしていたのだろう。それは下心からではない。凜の華奢な身体があまりにも寂しそうに見えたからだ。
 
 触れずに止まったのは、情けないが怖気づいたんだ。

「殺人犯にされてしまうかも知れないデートなんてしたくない」

 凜が当時付き合った彼が言った言葉が頭の中でこだまする。
 俺は腹を括ったはずなのに。この場に及んで怖気づくなんて、やっぱり情けないな。

 隣に肩を並べて座る。近いはずの距離が遠く感じた。
 凜は無表情で空を見上げている。彼女はどういう気持ちで俺と過ごしているのだろう。凜の表情からが感情を汲み取ることができない。


「ねえ、さっくん? 教えて欲しいんだけど、きゅんとするって、具体的にどんな感じなの?」

 しばらくの沈黙の後に、唐突に質問が飛んできた。恋愛経験のない俺には難問だった。
 
「え、っと、きゅんというのは……俺にもよくわからないや」
「私のこの感情はなんだろう。さっくんと話しているとたまに胸の奥が……こうなんていうか、あたたかくなったり、きゅって痛くなったりするの。最初は発作の痛みかと思ったけど、違くて……」
「……」

 なんて返せばいいのか分からず、言葉と共に唾をごくんと呑み込んだ。

「これが恋なのかな……?」

 上目使いで俺を見上げる。その無垢な瞳に答えることは出来ない。
 もしかして、俺を好きになってくれた?
 そう思ったけど、口に出すことが出来なかった。


 それが恋だと伝えたら、幸せが待っているのだろうか。
 それが恋だと伝えたら、終わりが待っているのだろうか。

 
「いや……それは恋じゃないよ」
「そっかあ」

 平然と嘘を吐いた。凜は少し残念そうにため息が漏れた。

 答えが分からない2択。俺は後者を恐れて彼女の想いを否定した。なぜなら、彼女と離れたくなかったからだ。

 この恋が終わってしまうかもしれないのに、恋だと認めることはできなかった。自分よがりのわがままで否定したのに、俺の胸も押しつぶされたように痛い。

「恋を知れたかと思ったのに……」
「違うよ。恋なんかじゃないよ……」

 再度はっきりと繰り返す。本音は心の中の箱に隠した。
 本音も気持ちも、全部隠すから。
 もう、きゅんとなんてさせないから。もう少し一緒にいてもいいかな。

 ――凜が自ら恋だと気づくその時まで。


「さっくん、このまま二人でどこかにいきたいな」
「……どこかって?」
「縛られずに、自由に暮らせるところならどこでも……」

 ちらりと凜に視線を移すと、彼女は俺の方を見ようとはしない。果てしなく続く大空を、ひたすらに見つめていた。
 初めて言葉にしたであろう。彼女の弱さを俺は受け入れることが出来るのだろうか。

 ブーブー……
 凜のスマホのバイブレーションが鳴った。
 居残り終了の合図だ。その振動の音にいつにもまして寂しさを感じる。
  
 いつもは正面玄関で別れるが、手を繋いだ名残だろうか。まだ一緒にいたいと思ってしまった。

「……凜、」

 思わず呼び止めてしまった。呼び止めてしまったが、この想いを伝えることはできない。
 固まる俺に優しい声で凜が告げた。
 
「さっくん、まだ一緒にいたい」

 同じ気持ちでいてくれたことに嬉しくて口角が自然と持ち上がる。

「え、でも、凜は門限が……」
「うん。門限がある」
「だったら……」
 
 俺だって一緒にいたい。だけど、凜の門限はしっかり守りたいと思った。
 心臓のこともあるし、無理をさせたくなかった。

「帰ろうか」そう促す俺の服の袖を、細い指先でつまんだ。その力は一歩足を進めれば簡単に解けてしまうような、儚くか弱い力だった。俺はピタリと足を止めた。
 俺だってまだ一緒にいたい。だけど凜の心臓のことが心配だ。
 欲望と理性の狭間で頭を抱えていた。

 瞳を潤ませて、期待を込めた眼差しを向けられる。
 凜の瞳から逃げられるわけがない。気づけば大きく頷いていた。


「……凜、身体は大丈夫か? その、心臓に発作起きたり……」
「大丈夫。最近は滅多に発作なんて起きないから」
「えっと、両親に連絡しとくか。今日少し遅くなりますって」
「だめ!」

 初めてだった。凜がここまで大きな声を出したのは。
 家に帰りたくない何かがあるんだと思った。その理由を聞く勇気はなかった。
 理由を聞けば今にも逃げ出してしまいそうで、嫌な胸騒ぎがしたからだ。

「……どこ行こうか。外より室内の方がいいよな。……俺の家くるか?」
「え、」

 凜は、一瞬目を見開いて、顔をブンブンと大きく左右に振った。
 彼女の表情を見て、ハッっと我に返った。思わず言ってしまったが、すぐ後悔した。
 彼氏でもない男から家に誘われたら警戒するのは当然だ。凜を困らせてしまった。

「あー、違う! 凜の身体を気にしただけ! 全然、その、やましい気持ちとかはないから!」
「……」
「えっと、母ちゃんも家にいるし。外だと、夜はまだ冷えるだろ? 本当、俺、やましい気持ちとかないから。その……俺、初めてはちゃんと付き合った彼女とって決めているから!」

 必死だった。下心から誘ったわけではないことを弁明したくて、大袈裟な手振り身振りを交え声を大にして言い切った。おまけに童貞であることを自らカミングアウトしてしまった。完全にやらかした。

「ふふっ。そんな必死に否定しなくても」
「いや、だって、変に勘違いされたくなくて……」
「さっくんが、プレイボーイじゃないことは分かったよ?」
「いや、そこは……記憶して欲しくなかったんだが」
「あははっ、」

 いつも通りのかわいらしい笑い声が耳に届く。同時に胸の奥が温かくなるのが分かった。

「お言葉に甘えて、さっくんの家にお邪魔していい?」
「お、おう」

 こうして凜が俺の家に来ることとなった。見慣れた道を凜と肩を並べて歩くのが不思議だった。
 ふと思いつきで提案したが、人生で女の子を家に連れてきたことなど一度もない。出てきてほしくない欲望が、どうしたって顔を出してくる。
 

「さっくん? 眉間にしわ寄ってるよ?」

 凜に指摘されて初めて気づいた。頭の中で自分の欲望と格闘していたので、表情に現れてしまったらしい。邪心を消し去るように頭を大きく左右に振った。
 
 心の中の邪心と格闘しているうちに、あっという間に自宅の前までたどり着いた。門扉をゆっくりと開けながら、新たな問題と格闘する。

 動揺していて、母に連絡入れるのを忘れた。
 母が家にいることは嘘じゃない。ただ心配なのは、女っ気のない俺が女子を連れてきたことに、母が興奮してしまわないかということ。気分が向上して、要らぬことまで口に出しそうで心配だ。


「ただいまー」

 緊張しながら自宅の玄関ドアを開けるのは初めてのことだった。
 心臓が嫌な音を立てて鳴りだす。

「おかえりー」

 いつものようにリビングから、だらけきった声が飛んでくる。
 
「お、お邪魔します……」

 緊張しているのだろうか。いつも以上にか細い声で、不安そうな声で挨拶をした。
 ――ガタッ。凛の声に反応して、家具とフローリングがぶつかる音が鳴り響く。ガタガタと音を立てて、慌てた様子の母が玄関に顔を出した。驚きのあまり顔が強張っていて少し怖い。俺が女子を連れてくるのがそんなに驚くことなのか。

「お邪魔します。えっと……」
「せ、赤飯っ! 赤飯炊かなきゃ!」

 母の暴走が始まった。うちでは祖母がいたころから、お祝い事には必ず晩御飯に赤飯が出てくる風習がある。どうやら、俺が女子を連れてきたことが、母の中でお祝い事に認定されたらしい。

「母ちゃん、ちょっとまてよ」
「あー、ごめんなさいね。玄関で。どうぞ入って? リビングで話す? あー、咲弥の部屋に行くわよね。ごめんなさいね。咲弥が女の子連れてくるなんて初めてだから、私も分からなくて」

 ほらな。余計なことをすぐいう。口が軽いところは母の短所だ。

「あー、もう……うざいって。俺の部屋で話すよ。後で説明するから。あー、そういうんじゃないからな?」
「ほほっ、そうなのね。彼女さん、ゆっくりしていってね。夜ご飯は赤飯以外もあるからね」
「だーかーらー、赤飯食べるようなことじゃないって。もういいや」

 今の母に何を言っても、耳に入らないだろう。終始ニヤニヤしている。
 男親って、息子が彼女を連れてきたらこんなに歓迎するものなのか?
 まあ、彼女じゃないけど。
 
 母の大歓迎にため息を吐いた横で、凜の表情に困惑の色が見えた。母は変な圧があって、恐縮させてしまったのかもしれない。

 俺の部屋に入り、母がいなくなっても尚、凜の顔から緊張感は抜けなかった。

「大丈夫か? ごめんな。一癖あってびっくりしただろ?」
「え、いや……違うの……。さっくんのお母さんは『うざい』とか言われても怒らないの?」

 思っていた答えと違って、俺の方が困惑してしまう。

「あー。いや、男だったらこれくらい普通じゃないかな? 喧嘩した時とか、必要以上に言葉遣い悪くならないようには気をつけてるけど」
「喧嘩……?」
「え、あー。喧嘩ぐらいするよ? 俺って喧嘩しないように見える? 優しいってこと?」

 冗談交じりで言った言葉は届いていないようだった。呆然とした様子で珍しく怪訝そうな表情を浮かべている。初めて見る凜の表情に俺の方が困惑してしまう。困惑すると同時に心配でたまらなくなった。

「凜……? どうした?」
「私、お母さんと喧嘩したことないんだ……」
「え、一度も?!」

 思わず声のボリュームが上がった。凜が優しいことは知っていたが、親と喧嘩したことがないなんて。凛の親だからよっぽど優しいのだろうか。

「さっくん。私、さっくんのお母さんと話みたいな」
「母ちゃんと?!」
「うん。だめかなあ?」
「そんな、だめなはずないけど。そろそろご飯だから、リビングに降りようか」

 リビングに降りると食欲をそそる匂いが嗅覚を刺激する。
 テーブルには、俺の好物でよく食卓に並ぶ胸肉のから揚げ。いつもよりきれいに飾られたポテトサラダ。そして、綺麗なあずき色に染められた赤飯。香ばしい香りをかいだ途端に空腹を感じてお腹も鳴る。

「赤飯。本当に炊いたのかよ。ってか、赤飯って時間かかるんじゃねーの?」
「圧力鍋で作ると時短になるのよ? 主婦の力舐めないでちょうだい。どうぞどうぞ。好きなところに座って? 今日お父さんは帰りが遅いから、先に食べちゃいましょう。あら、やだ。私ったらお名前聞いてなかったわね」

 母の口は止まることなくマシンガントークを繰り広げる。凜は少したじたじになりながらも口を開いた。

「……白雪凜、です」
「あらー、とっても綺麗で素敵な名前ね」
「あ、ありがとうございます」
「さっきは慌てていたから気づかなかったけど、凜ちゃん美少女すぎない? こんな美少女が咲弥と付き合ってるの?」

 俺と凜の顔を交互に見ながら、不思議そうに首をかしげている。

「あの……さっくんとは、付き合ってはいなくて……」
「さっくん?!」

 凜が俺のことを「さっくん」と呼んだことに大袈裟に反応を見せる。わざとらしく大口を開けたまま、俺に視線を向けた。
 いや、言いたいことは分かる。息子が「さっくん」と呼ばれていることを、からかいたくて仕方がないのだろう。母の視線から、うずうずと我慢しているのが伝わってくる。

「あ、あの、ごめんなさい。大事な息子さんを『さっくん』だなんて呼んで」
「いいのよ! 凜ちゃんが謝ることなんて一切ないのよ? 少し面白くてね。ねえ? さっくん?」

 そう言って悪戯に笑いながら、再びじとっと俺に視線を向けてきた。
 完全に母のペースだった。俺はわざとらしく「はあ」と大きなため息を吐く。
 凜は言われるがまま静かに椅子に腰を下ろした。いつもの見慣れた我が家の空間に、緊張してがちがちの凜が座っている。そして一緒にご飯を食べている。嬉しいような、気恥ずかしいような変な気持ちだ。

「……美味しいです」
「よかったわー」

 母特製のから揚げを口にいれると、表情がぱあっと明るくなった。母の作るから揚げは、お弁当屋さんのから揚げ並みに美味しいのだ。凛の顔に笑顔が現れて、緊張がほぐれようでホッとした。

 母はずかずかと根掘り葉掘り、凜に質問攻めをする。凛の負担になっていないか心配で視線を送るも、返ってくるのは笑顔だった。よほど心配が表情に出ていたのだろう。「大丈夫だよ? 心配しないで?」小声で零した。
 
 お皿の中が綺麗になるにつれて、凜と母の仲も深まったようだ。
 最初は俺中心だった話が、今では俺は蚊帳の外。二人で楽しそうに話している。

「今日って咲弥から誘ったのよね? まだ正式にお付き合いしていない娘さんを自宅に連れてくるなんて。ごめんなさいね?」
「今日は……私からお願いしたんです」
「あら、そうなの?」
「はい。さっくんのお母さんとお話してみたかったんです」

 俺自身も、なぜ我が家に来ることを了承したのか、理由を聞いてなかった。
 母と話をしてみたかったとは。思いもしない答えで驚いた。

「そんなこと言ってもらえて嬉しいわ。私も凜ちゃんとお話出来て嬉しかったわ」
「ありがとうございます……」
 
 ブーブー……。
 凜のポケットからスマホの振動の音が聞こえてくる。
 目線をうようよと泳がせて動揺が見て取れる。凛の様子から、母親からの連絡だと悟る。

「凜……大丈夫? 電話きてるんじゃないのか?」
「だ、大丈夫」

「あら、凜ちゃんのお母さん心配しているのかしら。大人の私から説明しようか?」
「いえ! 本当大丈夫です。……そろそろ帰りますね。ご飯ご馳走様でした。から揚げ凄くおいしかったです」
 
 丁寧にお礼意を言うと荷物を持って玄関に向かった。送っていくべきか迷っていると「なにしてんの! 送っていきなさいよ!」と母からの圧が強くて凜の後を追いかけた。

 送っていくと言っても、何度も「大丈夫だから」と断られた。頑なに拒否する凜に禁じ手を使った。

「……母ちゃんが送っていけってうるさいんだよ」
「そう、なんだ……じゃあ、家の近くまでなら」

 納得いかないような顔をして、渋々了承してくれた。こう言えば折れてくれると分かっていた。心配だから送りたいは建前で、本当は暗い顔を見せる凜のことが心配だったんだ。

 空は真っ黒な闇に包まれていた。見上げても星なんて見えなくて。ただひたすらに黒い闇が広がっていた。
 凜と肩を並べて歩くことの幸せを噛み締めて、ゆっくり歩いていた。

「凜、俺の母ちゃんに会ってみたかったの? 初耳だったんだけど」
「うん。母親ってどんな感じか知りたくて」
「それって、どういう意味?」
「私、きっとお母さんに愛されてないんだ。さっくんのお母さんを見て思ったよ。うちのお母さんは怒るばかりであまり笑わないの。私が心臓に疾患を抱えて産まれちゃったから……なのかな?」
「それは関係ないだろ。凜は何も悪くないだろ」
「私、生きていていいのかな? これから先いいことあるかな?」

 頬触れた夜風がひんやりと冷たい。街灯に照らされた凜の顔は、儚く今にも消えてしまいそうだった。

「あるよ! ないなら作ればいいよ! 俺と!」

 胸を張って言い切った言葉に、へらりと笑った。しかし、それは無理して笑っているのが分かった。今にもどこか消えてしまいそうな儚く笑う表情に目が離せなかった。


「さっくん、ありがとね。行きたいところに連れてってくれたり。今日はわがまま言ってごめんね」
「ああ。……ちなみに他に行ってみたい場所はある?」
「うーんとね。いっぱいありすぎる! みんなが普通に行くところでも、私は行けない場所だからさ……」
「主治医の先生はなんて言ってんの?」
「え?」
「主治医の先生も出掛けること制限してんの? 恋もしちゃだめって言ってんのか?」

 それはずっと気になっていたことだった。
 本当に凛は恋ができないのか。希望を滲ませて言葉を待つ。

 
「主治医の先生は、発作が起きなければ日常生活には問題ないって。もちろん、走ったり激しい運動はだめだけど……」
「それだったらさ……」
「あ、もう家に着いちゃう。じゃあ! ここで。これ以上家に近づくとお母さんにバレちゃうから。あっ、さっくん何か言いかけてた?」

 住宅が立ち並ぶ曲がり角で足を止めると、早口で捲し上げた。
 
「ああ、さっきの話の続きだけど――」
「ん?」
「いや。……なんでもない」

 追求しようとしてやめた。「主治医の先生が、日常生活に問題ない」って言ってるのなら、恋できるんじゃないのか?そう聞こうと喉まで出かかった。
 その言葉には俺の希望も含まれているからだ。

 希望と期待が含まれた、浮かび上がった仮説を掻き消すように頭を左右に振った。
 本当は家まで送るつもりだったが、お母さんにバレてしまうのは、確かにまずい。別れようと手を振って笑い合っていた。次の瞬間。

 

「凜! 何してんの!」

 甲高い怒鳴り声が鼓膜を刺した。目の先の方には鬼の血相をして顔を真っ赤に染めた女性がいた。
 驚く間もなく、俺たちを睨みつけて凄い勢いで駆け寄ってきた。

「お、お母さん、ち、違うの。送ってもらっただけで」
「凜! 塾に行ってないってどういうこと? 最近の様子がおかしいから、塾に電話したらずっと来てませんって。嘘ついて、男となんて遊んでたの?!」
「痛っ」

 凜がお母さんと呼ぶ女は、俺のそばから引き剝がすように、凜の腕を力いっぱい引っ張った。あまりの突然の出来事に固まって動くことが出来なかった。ただ、分かったことは普通じゃない。娘のことを心配している母親の顔ではなかった。

「あ、あの!」

 心配で言葉を投げかけた瞬間、鋭い視線が俺に向けられる。怒りがこれでもかと表情に現れていた。血管が浮き出るほどだ。

「あなた! 自分が何してるか分かってるの? 凜は心臓に疾患を抱えてるのよ。それなのに、こんな時間まで連れまわして……。凜になにかあったら、あなた責任取れるの?」

 早口でまくし立てられた。圧倒されて息継ぎする間もない。

「ちょっと! 聞いてるの? あなた、責任取れるんの? 取れるわけないわよね。親のすねかじってる高校生の分際で。親の顔を見てみたいわ。年頃の病気を持っている娘を連れまわすなんて」

 延々と繰り返される罵倒。大人に大声で罵倒され続ける経験がない俺は思考がシャットダウンしてしまった。

 何も言い返せない。俺に責任なんて取れない。それは事実だったから。
 血管が浮き出るほど怒りを表している母親の後ろに凜の姿は隠れていた。俯いていて表情が見えない。この状況に、困っているのか悲しんでいるのか、凜の感情を汲み取ることが出来ない。俺はどうしていいか分からなかった。凛の母親の甲高く鋭い怒鳴り声が辺りに響きわたる。

「お母さん、違うの。さっ……彼は送ってくれただけだから。ただそれだけだから。遅くなった理由は家で話すから。ほら、ご近所の目もあるし」

 凜は冷静に、母親をなだめるかのように優しい声を掛けた。「ご近所の目」という言葉に反応したのか、怒鳴り狂っていた母親はやっと止まった。帰り際に、一段と鋭い目つきで俺を睨みつけた。それはもう、凜に近づくな。そう牽制しているようにしか感じ取れなかった。

 その後は、凜は俺を見ることなく母親と去っていった。
 人の親を悪く言いたくはないが、違和感しか抱けなかった。
 ただ、違和感を抱いたところで、凜を追いかける勇気も度胸も、持ち合わせていなかった。
 遠くなる背中を見つめることしか出来ない。

 
 大人から殺意を感じるほどの狂気が溢れた視線を向けられるのは初めてだった。
 凜のお母さんが俺を見る目は、殺意や狂気が滲み出るほど怖いと思った。

 温厚な凜からは想像できない母親の姿だった。
 凜は母親と喧嘩をしたことがないと言っていた。あの様子だと、凜の母は日常的に怒っているのではないだろうか。道端で怒鳴り散らすなんて、驚くはずなのに、凜は至って冷静だったのだ。

 人の親を悪く言いたくはないが、凜の母親についてはどうしても嫌な言葉しかでてこない。
 とぼとぼと考えながら歩いていると、いつの間にか家に辿り着いていた。
 

「……ただいま」
「おかえりー」

 いつも通りのやる気のない声に、どこか安心感を感じた。
 
「凜ちゃんのこと、ちゃんと送ってきたの?」
「あー、うん」

 母の顔をまじまじと見つめる。頭の中に残る凜の母親と、目の前の母を比べていた。母は怒ることはあるが、きちんと俺の意見も聞こうとしてくれるし。一方的に怒鳴ったりはしない。

 何度考えても、凜の話を聞こうともしないで怒鳴り散らす凜の母が許せなくて、ふつふつと怒りの感情が込み上げる。あの時、去り行く凜を追いかける勇気もなくて。凜の母親に怒鳴られても、気迫に負けず遅くなった理由を説明する度胸もない。一番はそんな自分に怒りが湧いていた。

 何もできずに小さくなる背中を見つめることしか出来なかった。
 きっと、出来ることはあったはずなのに。

 やるせなくて悔しい気持ちを拳に込めた。
 左の心臓辺りをごつんと叩く。
 ゴツっと、鈍い音と共に痛みが広がる。広がる痛みとは関係なく、俺の心臓は正常に鼓動し続ける。
 
 俺は健康で。平凡な家庭に産まれて。
 凜の痛みを1つも分かってやれない。

 分かち合いたいと願えば願うほど、交じり合うことのない他人なのだと実感させられる。

 ――幸せの終わりは突然訪れるのだから。


 
  ♢
 

 次の日、校内で凜の姿を探すが、どんなに探し回っても見つけられない。心にモヤが広がっていく。
 昨日見た凜のお母さんの姿は普通じゃない。娘に向ける言葉や眼差しではなかった。

 凛は自分の両親をごく普通と言っていた。心配性なお母さん、お父さんは地方に単身赴任中で年に数回しか会えない。話を聞いただけではごく普通の家族だと思っていた。しかし、実際に凛に怒鳴る母親の姿を見て「私はお母さんに愛されていない」その言葉と結びついてしまうような気がした。

 俺の家族は、何かと口うるさい母に、母さんの言いなりな父、親ガチャに成功したとは思っていない。正直、ドラマに出てくるような美人でおしとやかな母、仕事が出来てカッコいい父。そんな両親を羨ましいと思ったことがある。

 だけど、凜の両親はそういうんじゃない。……なんだろう。直感だけでしかないけれど、なにか嫌な予感がする。人の家庭環境に口を出す資格はない。分かっているけど、心配でたまらないんだ。

 探し回った末にやっと凜を見かけて思わず名前を叫んだ。

「凜!」

 一度振り返って目が合ったはずなのに、慌てて視線を逸らして足早に歩く。走ることが出来ない凜の必死な抵抗だとすぐに分かった。走ることが出来ない凜に、駆け足の俺はすぐに追いついてしまう。腕を掴んで制止させた。
 
 見つけた時は気づかなかったが、まじかで見た凜の姿を見て驚いた。腕を掴んだまま言葉をかけることが出来ない。
 驚いたのは包帯が身体に巻かれていたからだ。白い陶器なような肌に、真っ白な包帯がぐるぐると巻かれている。

「凜……。探したよ!」
「……さっくん」
 
 勢いよく腕を掴んだ拍子に、腕に巻かれていた包帯がはらりと落ちた。包帯が解けた隙間から青黒いあざが現れた。凛の白く透き通った腕に不釣り合いのあざを見て、やり場のない怒りに苛立ちを感じる。
 
「凜、なんだよ……それ、腕どうしたんだよ!」

 驚きと込み上げてくる怒りの感情で高圧的な口調になってしまった。いつもと違う声に驚いたのか凜の肩がビクッと震えた。瞬時に後悔する。凜を責めてどうすんだ。俺は。
 息をゆっくり吸い込み、怒りの感情を心の奥に押し込んだ。返事をしない彼女に再度問いかける。

「それ……母親にやられたのか?」

 一秒も考えることなく出てきた言葉だった。俺の視線が腕に向けられていると気づくと、慌てて露わになった腕のあざを隠した。凜は一向に俺に視線を合わせようとはしてくれない。

「こんなことおかしいだろ? なんでこんなあざができてるんだよ」
「……転んだ」
「そんな典型的な言い訳通用しねーよ」
「本当に違うの。お母さんに叩かれたわけじゃない。本当に転んだの!」

 凜の言葉を信じたいのに、昨日の母親の姿がそれを邪魔する。どうしてもやりかねないと思ってしまうんだ。
 しかし、この想いを伝えることは出来ない。彼女の瞳に潤んだ涙が見えたから。顔を上げた凜は、唇を震えさせて泣かないように我慢してるのが分かった。責め立てるような言葉を飲み込んだ。
 
「これは私が悪いから。本当に」
「なあ、他に行く当てないのか?」
「行く当てって何?」

 今まで聞いたことがないくらい冷たい口調だった。いつもの柔らかな話し方と正反対で簡単にたじろぐ。
 
「いや、そんな親元離れてさ……」
「親元離れて、一体どこに行けばいいの? たとえどこかに行っても環境に適応できるか分からない。私の心臓は普通じゃない」

 声を震わせながらも、冷静に事実を述べている。
 俺はなんて言えばいい。
 なんて言えば凜を救えるんだ?
 
「凜を救いたいんだ」
「……」
「わかんねーけど、わかんねーけど。放っておけない。何もできないけど、助けたいんだよ」
「……ありがとう。その言葉だけで十分だよ」

 彼女の瞳が揺れていた。全部包み込んでやりたい。何も言わずに抱きしめて「大丈夫。俺がいるから」とくさい台詞を伝えたい。しかし、それが出来なくて伸ばそうとした手が止まった。

「私の心臓は、ドキドキしたら発作に繋がる」

 凜の言葉を思い出したからだ。

 俺は震える肩を抱きしめてやることが出来ない。
 凛の心臓に負担の掛かることはできないからだ。母親のところから連れ出せる財力もない。何もできない自分が憎い。大人だったら連れ出せたのか。この時ほど、大人になりたいと願ったときはなかった。

 子供だと思われたくない。高校三年生は、もう大人なようなモノだと思っていた。今わかった。俺は大人じゃない。自分の力で好きな女も助けられない。

 俺は無力だ。


 手を伸ばせば届く距離にいる。
 このまま手を引いて、どこかに消えてしまいたい。

「あのさ……先生に言った方が……」
「やめて! 昨日びっくりしたよね。お母さんは悪くないの。私の身体が普通じゃないから。心配してくれているだけで……」
「でも……」
「お母さんがいなくなったら、発作が起きた時。誰が助けてくれるの?」
「お、俺が……」
「また入院になったら、着替え持ってきてくれる? 入院費払ってくれる?」
「……」
「他人のさっくんには、出来ないことの方が多いんだよ。私にはお母さんが必要なの。お母さんにも私が必要なの」
「だからって、暴力は……」
「だから違うって! 暴力なんてされてない! もう、お終い。塾行ってないこともバレちゃったし、もう恋とかどうでもいいや。さっくん、バイバイ!」

 初めてだった。凜が声を荒げて叫ぶのは。ここまで感情を表に出す彼女を見るのも初めてだった。
 困惑する俺に視線を向けて、今にも崩れ落ちそうな笑顔を貼り付けた。そして、もう一度言い放つ。

「さっくん、私のわがままに付き合ってくれてありがとう。……ばいばい」

 それは紛れもなく別れの合図だと分かった。
 繋ぎ留めたい、失いたくないのに。その場から離れていく細い腕を繋ぎとめることができない。
 震える肩を抱きしめることは出来なかった。
 自分の不甲斐なさを痛切に感じている。悔しさと助けられないもどかしさが交差して、胸の中がぐちゃぐちゃだった。

 なんでだよ。
 あんなに楽しそうに笑っていたじゃんか。

 なんで、無理やり笑顔の仮面を貼り付けてんだよ。
 
 凜が独りで抱え込んでいる闇があるなら、一緒に背負いたいと思うのに。背負わせてもくれなかった。
 唇を震わせて拒否する彼女を、無理やり抱きしめる勇気もない。
 
 行き場のないこの怒りは自分に向けられたものだ。
 俺は無力だ。俺は別れを告げられたんだ。

 ――始まってもいない恋なのに。


 怒りをぎゅっと拳に込めて、自分の太ももを叩いた。

 痛い。だけど、凜の痛みはこんなものじゃない。
 俺の何十倍も痛いんだ。

 ぶつけようのない怒りは、何度叩いても、消えてはくれなかった。